第1回 マザー・テレサについて
さて、第1回のテーマは、というより、このような頁をもうけたいと思ったキッカケは「マザー・テレサの死」でした。
ダイアナ元皇太子妃の衝撃的な死に、新聞・テレビ等のメディアは大騒ぎですが、その異常さぶりは、彼女を聖女に祭り上げかねない勢いに表れています。
このことをダイアナさんが知ったとしたら、きっと驚き、恥じいることでしょう。
ダイアナさんが、誰よりあこがれ、尊敬し、手本にした人物こそ、マザー・テレサであり、自分が「聖女」と呼ばれる資格を持っている人間かどうかを知っていたと思われるからです。
彼女が今年中に公務を引退した後、専念してやりたかった仕事がホスピスの建設と運営だったといわれていますが、そこにもマザー・テレサの影響が見て取れると思います。
フランスの新聞が、ダイアナも、マザー・テレサ同様、弱い人に目を向けた人であったが、その功績を同列に論じてはならないと、ダイアナを聖女扱いしたがる人々やメディアに釘をさしたそうですが、まことに同感ですし、日本のマスコミももっとマザー・テレサの言ったこと、行なったことについて報道してほしいと思います。
十数年前に来日されたとき、豊かに見えても日本は精神的には貧しく、他人に対する思いやりが欠けており、家庭が危機に瀕しているように見えるとマザーは警告を発せられました。その言葉に真剣に耳を貸さなかった結果が、今の日本の状況です。
他人の生命を虫でも殺すように奪い「一度人間を殺してみたかったから殺した」という中学生。
オヤジ狩りと称して浮浪者や酔っぱらった大人を襲い「ゲーム感覚でやった」とうそぶく高校生。
援助交際の美名の下に売春して「誰にも迷惑をかけていない」と罪悪感のまるでない女子中学生。
弱い子供や女性を襲って「むかついたから襲った」という20代の定職を持たない若者。
自分の職権を笠に着て業者に自動車や家をせびりながら「くれるというから貰った」というエリート公務員。
自分がパチンコをするために、赤ん坊を真昼の炎熱地獄と化した自動車に放置した母親。
夜中赤ん坊が泣き「うるさい」と言って窓から捨てた父親。等々
人間としての誇りや矜持、美学、モラル、他を思いやる心、想像する力といったものがまるでなくなっていることに気がついて愕然としている昨今です。
この世には、見えないものが見える人が確かに存在します。そのことを教えて下さったのが、シスターでした。
貧しい人や、病気の人、ホームレスの人、自分を受け入れてくれる場所を持たない人、孤独で愛を欲している人、こうした弱い人をイエス・キリストと思い、仕えた人でした。仕える事を仕事とされた方でした。
彼女が天国へ行けなかったとしたら、天国へ行ける人間など存在しないことでしょう。
自分の身に代えても生きていてほしいと思えたのは、身内以外では初めてでした。
こんな気持ちを、いつでも、誰にでも持つことが出来た、本当の「愛」の持ち主が、イエス・キリストであり、マザー・テレサだったと思います。
6日行われたダイアナ元皇太子妃の葬儀では、ブレア英国首相が聖書の「コリントTの13章」を読み、参列者がアッシジの聖サンフランシスコの「平和の祈り」を唱い、「主の祈り」を捧げていました。
英国教会の大主教の祈りを聞き、宗派、教派は違っていても、祈りに関しては、我々と全く変わらないという印象を受けるなど、遠い外国のキリスト教をとても身近に感じることが出来ました。
亡くなられた方々、入院されておられる方々、そのご家族の皆さんに、神様の祝福が与えられ、癒やしと、真の平安が訪れますように。
一人でも多くの方が、神様を知り、その御心の通りに生きることが出来ますように。
こうして祈ることも、神から与えられたものです。神様とイエス様から与えられたものすべてに対して、たとえ自分の望むものとは違っていたとしても、感謝できる人間となれますように。
貴いイエス様のお名前によって、感謝して、お祈り致します。アーメン
1997.09.10(会田夏彦)
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