マザー・テレサ語録 Part1



(since あなたは1997.09.21)


 私は皆さんが考えておられるようなノーベル平和賞の受賞者にはあたいしません。
 でも、だれからも見捨てられ、愛に飢え、死に瀕している世界のもっとも貧しい人びとにかわって賞を受けました。
 私には、受賞の晩餐会は不要です。
 どうか、その費用を貧しい人たちのためにおつかいください。
 私にあたえられるのは祈りの場だけしかないのですから。


 私の白いサリーは、貧しい人のなかで、私も貧しい人のひとりだというしるし。
 私の身なりも生活も、病に倒れた人や、骨ばかりの子どもとひとつになるための糧。
 そして、不親切で冷淡でありながら奇蹟をおこなうよりは、むしろ親切と慈しみのうちに間違うほうを選びたい。


 貧しい人にふれる時、わたしたちは、実際にキリストの身体にふれているのです。
 わたしたちが、食べ物をあげるのは、着物を着せるのは、住まいをあげるのは、飢えて、裸の、そして家なしのキリストに、なのです。


 貧しい人たちはね、オキ、お金を恵まれるよりも食べ物をあたえられるよりも、なによりもまず自分の気持ちを聞いてほしいと望んでいるのよ。
 実際には何もいわないし、声も出ないけれどもね。


 健康な人や経済力の豊かな人は、どんなウソでもいえる。
 でもね、飢えた人、貧しい人は、握り合った手、みつめあう視線に、ほんとうにいいたいことをこめるのよ。
 ほんとうにわかるのよ、オキ、死の直前にある人でも、かすかにふるえる手が「ありがとう」っていっているのが。
 ……貧しい人ってほんとにすばらしいわ。


 小さな子どもたちは神様の命、多すぎるということはありません。


 オキ、あなたの国では、人びとは何不自由なく生きているように思えるけれども、心の飢えをもっている人はたくさんいるでしょう。
 だれからも必要とされず、だれからも愛されていないという心の貧しさ、それは一切れのパンに飢えているよりももっとひどい貧しさなんじゃないかと、私は思うの。
 オキ、ほんとうにあなたのまわりにはいないといえますか?
 だれも自分を必要としていないのだと思っている人が、もっと親と話したいと思っている子どもが、すんでいる部屋のナンバーでしか存在していない人が……


 こんな老人は、ニューヨークでもロンドンでも東京でも、いっぱいいるんですよ。
 ひとり暮らしの老人が死後何日もたって発見されたり、隣に住んでいる人が病気なのに名前も知らなかったり、ね。
 私は、そういう貧しい人につかえるために、いつでもどこにでもとんでいきつづけるつもりなのですよ。


 今日の最大の病気は、らいでも結核でもなく、自分はいてもいなくてもいい、だれもかまってくれない、みんなから見捨てられていると感ずることである。

 最大の悪は、愛の足りないこと、神からくるような愛の足りないこと、すぐ近くに住んでいる近所の人が、搾取や、権力の腐敗や、貧しさや、病気におびやかされていても無関心でいること。
 ……病気の人、苦しんでいる人にとっては、この会の人がいたわりと慰めの天使でありますように。
 わたしどもの貧しさの生活は仕事にも劣らず必要である。
どれほど貧しい人に借りがあったか、天国へ行ってはじめてわかる。
 彼らのことでもっと神を愛することを教えられたということのために。


親切で慎み深くありなさい
あなたに出会った人がだれでも
前よりももっと気持ちよく
明るくなって帰れるようになさい
親切があなたの表情に
まなざしに、ほほえみに
温かく声をかけることばにあらわれるように
子どもにも貧しい人にも
苦しんでいる孤独な人すべてに
いつでもよろこびにあふれた笑顔をむけなさい
世話するだけでなく
あなたの心を与えなさい


 協労者は、行為に愛をあらわすべきです。
 私たちの愛の仕事は、平和の仕事にほかなりません。
 より大きな愛を持って、てきばきとこの仕事を果たしましょう。
 それぞれの仕事で、毎日の生活で、家庭で、周りの人といっしょに。


 ある人びとが豊かに生活できるのは、それなりの理由があるはずです。
 そのために働いてきたに違いありません。
 ただ、私は物が浪費されるのを見ると怒りを感じるのです。
 私なら使えるものを人びとが平気で捨てる時に。


 目の不自由な人がそばにいれば、自分が読んでいる新聞を声を出して読みあげるだけでいい。
 それも自分が読みたい時間にで充分。
 いや、何もしなくても、そこに何かで苦しんでいる人がいるということを知っているだけでいいのです。


 オキ、私はね、どんな人でも、もっとも貧しい人びとのために何かしたいという愛の心を持っている人なら歓迎しますよ。
 プロテスタントでも回教徒でも、ユダヤの人でもヒンズー教徒でも、オキの国の仏教徒でもね。
 隣人に奉仕するのは献身と祈りと愛によってですよ。


 私はね、人間的なあつかいをうけていない人たち、社会から拒絶され、きらわれ、軽蔑されている人たち、この世でもっともひどい病気に苦しんでいる人たちのもとにいかなければならないのよ。
 でもね、オキ。あなたたちは、もっと身近なことからはじめたらどうかしら。
 病院に入院している患者に花を持っていってあげるとか、年とった人のために窓を拭いたり洗濯をしてあげるとか、ね。
 浮浪者のために社会保障の用紙に記入する手助けするのだって、目の不自由な人のために手紙を書いてあげることだって、とてもりっぱな愛の表現なのよ。


 いまの世の中、人間が人間を見捨てているのよね。
 親が子を、子が親を、兄が弟を、友が友を、隣人が隣人を。


 子どもはあなたの愛を待っているのよ。一対一のね。
 あなたが働いてその子のパンを稼いできても、その子がほうっておかれるんじゃどうしようもないでしょう。
 いま、ほとんどの人が、生活をもっと豊かにしようと、忙しく働いていて、子どもたちは両親とすごす時間がとても少なくなっています。
 私たちが接している貧しい人たちは物質的には豊かじゃないけれども、ほんとうに子どもを愛していますよ。
 その意味では、世界一の幸せ者かもしれませんね。


 愛は家庭に住まうものなんですよ。
 子どもを愛し、家庭を愛していれば、何も持っていなくてもしあわせになれるのですよ。


 国と国の間に大きな違いはありません。
 どこへ行っても出会うのは人びとですから。
 異なった外見、異なった教育や異なった地位ではあっても、みなおなじです。
 どの人もみんな愛すべき人です。
 みんな愛に飢えています。


 あなたがたがもし、苦しんでいる兄弟姉妹のひとりひとりを思いおこすなら、仕事はもっとらくに感じ、貧しい人たちにたいしてももっと心の底から微笑むことができるでしょう。
 もし、貧しい人びとが飢え死にするとしたら、それは神がその人を愛していないからではなく、あなたが、そして私が、その人たちにパンを、服を、そして愛を、思いやりをあたえなかったからなのです。


 飢えている人がいます。
 でもそれは、パンがないためではありません。
 愛、思いやりへの飢え、だれかの「自分」でありたいという思いがみたされない飢えなのです。
 裸の人もいます。服がないということではありません。
 見ず知らずということだけで、やさしい心づかいをしめしてもらえないという意味で裸なのです。
 でも、それらの人びとに話すことはできるだけ少なくしましょう。
 説教してきかせても、それは人とふれあう場にはなりません。
 ほうきをもってだれかの家をきれいにしてあげてごらんなさい、そのほうがもっと雄弁なのですから。


 私は社会福祉家でもなければ、慈善事業家でもないのですよ。
 私はキリストのためにやっているだけですから。


 私かもし、社会福祉や慈善のために活動するのだったら、しあわせだった家も捨てなかったでしょうし、両親とも別れなかったでしょう。
 私は神に捧げた身ですから、いま私がしていることはヒューマニズムでもなんでもないんですよ。
 ごく当たり前のことなんですよ。


マザーは昭和56年4月22日に来日、28日までの1週間日本に滞在しました。
日本人にたいしてマザーが残した数々のメッセージの中からご紹介します。


 日本には、神に飢えた人がたくさんいます。
 生活に祈りを持つようにしてください。
 祈れば、心が澄み、心が澄めば、神が見えてきます。
 神が見えれば神の愛が働いて、ことばでなく行動で愛をあらわしたくなります。
 祈りは、愛を深くし、愛が奉仕を生みます。
 日本の人も祈って下さい。
 生活に祈りを持てば、貧しい人びとを知るようになります。
 貧しい人を知れば、彼らを愛するようになり、助け、愛と平和の喜びをあたえます。


 家庭に、神の愛をもたらせば、平和と喜びがみち、それは隣人にも及びます。
 家庭が、共に祈れば共にあり、共になれば愛し合います。
 愛があれば分かち合います。
 隣人を訪ね、その愛は自己犠牲にまで高まります。
 そして、愛はまた愛を生みます。


 狭い路地を何度も曲がって歩きました。
 私がショックだったのは、酔っ払った中年の男の人が路上に倒れているのに、誰も手をさしのべる人がいなかったことです。


「けさ、私は、この豊かな美しい国で孤独な人を見ました。
 この豊かな国の大きな心の貧困を見ました。」
「カルカッタやその他の土地に比べれば、貧しさの度合いは違います。
 また、日本には貧しい人は少ないでしょう。」
「でも、一人でもいたら、その人はなぜ倒れ、なぜ救われず、その人に日本人は手をさしのべないのでしょうか。
 その人が飲んだくれだから!
 でも、彼もわたしたちも兄弟です。
 本人はきっと孤独でしょう。
 みなから無視されての……。
 やけ酒かもしれません。」
「私は、短い間しか日本に滞在しないので手を貸してあげるのは、せんえつだと思い、何もしませんでしたが、もし、女の人が路上に倒れていたらその場で、語りかけたり、助けていたと思います。
 豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。
 だれからも必要とされず、だれからも愛されていないという心の貧しさ。
 物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻です。
 心の貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、もっともっと貧しいことだと思います。
 日本のみなさん、豊かさの中で貧しさを忘れないでください。」





(ここでご紹介したマザー・テレサのことばはすべて、マザー・テレサの貧民救済活動を撮り続けてこられ、マザーからオキと親しく呼ばれ、co-worker(協労者)として信頼されてきたカメラマン・沖守弘氏が出された講談社刊「マザー・テレサ あふれる愛」から引用させていただきました。この本を読んだ感動を皆様にも味わっていただきたくご紹介させて戴きました。現在文庫本としても出ておりますので是非読まれることをお奨めします)

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