1989年8月、建物としての教会を持たず、職業人としての牧師ではなく神様のメッセージを伝える真の牧会者を求め家庭集会を続けていた子羊たちの願いを聞き入れ、神様はお一人の牧師さんをN市に遣わして下さいました。
「崔(さい)」という名の牧師さんは、3日間で5回の集会を開き、これが最初で最後とばかりに力を入れて、私たちに神様のメッセージを伝えて下さいました。
まさしく「1日を千年のごとく、千年を1日のごとく生きよ」「一期一会」を実践した、今聞いても身震いするほどのすばらしいお話でした。
しかし、この時点で、この牧師先生が、教会を持たない、20人足らずの小さな群れのために、65歳という高齢をおして、東京から北陸の小さな町まで何回も足を運んで下さることになろうなどと考えた人はただの一人もいなかったことでしょう。
しかし、崔先生はそれからもN市をたびたび訪れ、主のみことばを伝えて下さいました。常にこれが最後であるかのごとく、力強く、熱いメッセージを語り続けて下さったのです。
東京を拠点に、韓国、ハワイ、アメリカ合衆国各地、シンガポール、東南アジアと忙しく飛び回るほどの牧師先生が、以後の8年間で、38回もN市を訪れて、延べにして114日間、通算143回の集会(礼拝)を司って下さったという事実。このこと自体が、われわれにとっては、奇蹟(みわざ)以外のなにものでもないような気がしています。
先日、崔牧師が1番最初の集会で話されたメッセージを録音したテープを聞きましたが、驚いたことに先生はそこで、私たちの出会いについてこういっておられたのです。
「われわれがこのN市で出会ったことは決して偶然のことではありません」と。
崔先生は、今まで私たちにいろいろなことを教えて下さいました。
「キリスト教の中に、カソリックがあり、プロテスタントがあり、プロテスタントの中にも様々な宗派がありますが、最後の審判の時に、イエス様が『おまえはカソリックか、プロテスタントか、どこの宗派に属しているのか』と聞かれるでしょうか。そうは思いません。」
「われわれが属しているのは、イエス・キリストの教会なのです。」
「イエス・キリストの教えを守ろうと考えるのではなく、イエス様と同じような行動が意識せず自然に出来るように、自分自身の心の中にイエス様のみ姿が形作られるように祈り続けなさい。」
「ただ漠然と試しに祈ってみようというのではなく、全身全霊で、絶えず、既に成就したものと信じて祈りなさい。」
「祈りには、まず悔い改める姿勢が必要です。」
「祈りには、感謝の言葉が必要です。」
「祈る内容は、具体的かつ詳細に願いなさい。
祈りが聞き届けられた時に、神様からの応答であることに疑いを持つことがないようにです」
「祈るとき、なぜそう願うのかも付け加えなさい。
不純な動機ではいけません。」
「祈る時に、一番大事なのは、最終的には神様に総てをお任せしますという従順な姿勢です。」
「一人、二人で祈るより、多くで祈った方が、より聞き届けられます」等々。
崔先生の言葉を一言一句間違いなく、正確に再現できない自分を情けなく思いますが、このような意味のことを、先生はいつも力強く語って下さいました。
そして先生が祈り、本人が祈り、周囲が祈った結果、医者が見放したような患者が救われた例は数知れません。
私の身の回りだけでも、何人もの方が救われ、不思議な体験をしています。
私自身、医者からは「用心すれば長生きできるけれど、医者から一生離れられない身体」と太鼓判(?)を押されていましたが、今では健康になり、病院とは全く縁が切れております。
これは全く嘘偽りのない事実です。
その崔先生が、現在巡回伝道できなくなっています。その理由を、遠い地にあるわれわれは深く知ることができません。われわれに出来るのは祈ることのみです。
崔牧師ご自身の生き方からすれば、いつ出会いがとぎれても大丈夫なように生きてこられたから、決して後悔はないのでしょうが、今まで先生にご迷惑をおかけしてきた私たちはそういうわけにはいきませんし、今のような世の中だからこそ、崔先生にはもっともっと活躍して神様のメッセージを伝えて戴きたいと考えております。
イエス様がゲツセマネの園で祈られた時に、「この杯を私から過ぎ去らせて下さい」と自分の気持ちを言われたごとく、最終的には主の御心に従う覚悟をしていても、自分の意見を言うことを許して戴くというのが神様への祈りだと思います。
もう役目は十分果たしたから休みなさい、休みたい、休ませたいというのが、もしかしたら神様や崔先生、そのご家族のお考えかもしれませんが、われわれは、少なくとも私はそう思っておりません。
これは私たちに与えられた試練であり、今までなにを学んできたのかを問われているのだと考えています。
今までは崔先生に祈って戴くばかりでしたが、今こそわれわれが崔先生のためにお祈りし、先生から学んだことを生かす時だと考えております。
そして、これを単にわれわれの問題とするのではなく、一人でも多くの方々に、崔牧師のメッセージを聞いて戴くためにも、この場をお借りして、みなさまのご協力を仰ぎたいと訴えている次第です。
どうぞ、朝、晩、お祈りをするときに、崔牧師が再び巡回伝道ができますように、そして一人でも多くの方が崔牧師のメッセージを聞く機会が与えられますようにとお祈り下さい。
皆様の祈りのお力添えがあれば、必ず神様と崔先生とご家族の皆様に私たちの祈りが届くものと信じております。ご協力をよろしくお願いします。
最後まで、この拙い文章につきあってくださったことを深く感謝します。
みなさまに祝福が与えられますように。(会田夏彦)