WILLIAM WALTON

ORCHESTRAL MUSIC:

Major Barbara(Shavian Sequence)”   (CHANDOS RicherdV etc)



      

  

     Note:

   ―――――――  ◆◆◆                    ◆◆◆ ――――――― 
      Bernard Shaw      Man and Superman(1903)    ⇒   O,Spengler
                                 Major Barbara(1905)

      
    『・・・・われわれは、自己の”世界感情”を変じ得ないと同様に、自ら意識する存在は、倫理的な根                   
     本形式に対して、支配力を有していないのである。──それの不可能なことはこれを変ずる企て
     さえも、その様式をして行われるほどで、それで”世界感情”に対するその征服の代わりに、そ
     の立証をしてしまう程である──  ・・・・』             (第5章、K、11)



 これは、シュペングラーのいわゆる 『西欧の没落』: Der Untergang des Abendlandes (1918、1922)からの引用なのだが、この一見、
 大げさで胡散臭いともとられる体裁ゆえ、とても不当に扱われがちなこの本の真価を考えるとき、まずこういったパラドックスめいた主張
 が、文章上のちょっと気の利いた文句として使われているので決して無く、全編にわたる発想と記述の根底に置かれたものになっているこ
 とに注意することは大切だろう。
 このことは、その「アラビア文化の諸問題」の章の中の”宗教史の形態学”というような説明を始める時も「・・いろんな真理というものが
 あるにしても真理の歴史は存在しないだろう。1つの、ただ1つの永遠に正しい宗教というものがあるとすれば、宗教史というものはあり
 得べからざる観念であるだろう・・・」と書いて、何の疑問も持たずいろいろな宗教と呼ばれているものを西暦にそって幾つも並べて説明し、
 宗教史の本を書き上げてしまうような一般の学問の典型的なやり方を問題にしているときにも、同じ論点がある。そして、同様に道徳や芸
 術的作品についても度合いは違っても、考えなければならない根本的なことになるのである。そして、

   「 ・・・1人の文化的人間のどの生活理解にも初めから、カントの最も厳密な意味で言うア・プリオリ的に1つの状態がある。
     この状態はあらゆる瞬間的な判断と努力よりももっと深いものであり、そうしてそれらの様式を、ある一定の文化の
     様式と認めさせるものである。・・・・」

 という言い方もするのだが、実際 シュペングラーの発想は、カントの思考の限界を問う姿勢の流れの最も現代的な顕れ、と言っていい面
 があり(普通、全く逆のように受け取られてしまっているのだが)、その”思想史”を捉える視点もそういった考えが含まれている。

 すべての文化から文明への転換期にわたるいわば共通現象として、形而上的な時期と倫理的時期とに移り変わる。前者は「・・その課せられ
 た使命は信仰の目で見られた世界像の神聖な因果関係を批判的に証明すること・・」であるのに対し、後者は「大都市的になった生活は自然
 に疑問的なものとなるから、哲学的形成力の残滓を自己自身の態度と維持のために費やさなければならないのである。・・」という具合で、
 最初は倫理的なものは当たり前だから探求の対象にならないが、後者の時期になると、それは自然に存在しないから自ら作り出さねばなら
 なくなる。西欧においても哲学史はそのようなものとして展開して行っている・・・。
 というような話で、カント哲学辺りも、バロックの解析を生んだライプニッツなどと比較してもう数学的創造的思考は衰えており、カント
 の体系も”直観するもの”(理論的とされる)でなく”直観されたもの”の「仕方なしのもの」として、後者の時期への転換期を示すもの
 になる。ヘーゲルなどはもっと非数学的、その意味で倫理的な体系になり、ショーペンハウエルになると全く非数学的で「第4巻のために
 そのまえの3つの巻が存在するのである・・」というように実際的倫理学が全く形而上的思考を飲み込み、”思想の大様式”は無くなり自ら
 ”即興的思想家”と称するぐらいになってしまう。さらに、ニーチェになると初めから無い状態にある。そして、むしろ そうなるしかな
 いのが”19世紀の特色ある哲学”であり、生産的意義のある哲学といえるようなもので、本質的に単なる倫理学、社会批評以上に出ない
 のであり、逆に”形而上的な時期”のような題材を扱う論理学、心理学、体系学など を専門とするのは、”講壇哲学者”たるに過ぎず、
 ”主題を選択できなかった”ため、”退屈な体系的または概念的詭弁を積み上げたもの”となりはじめから”誰一人問題にならない。”と
 まで言い切る。一方、
 ギリシャ・ローマのアポロン的魂の倫理的時期の”アタラクシア”の境地と異なり、西欧のこの時点で、哲学は社会倫理的に成らざるをえ
 ない。そこで、いまだロマン的だったニーチェに続く人物として、ダーウィン説のより徹底した”即物的”発想を受け入れて、社会主義的
 な超人を打ち出したG・B・ショーは、西欧哲学の最後の段階の可能性として、シュペングラーにとって極めて典型的な人物だ・・という話し。
 (同時代人の”自ら”は、もうひとつの残された可能性、歴史を扱う観相学的懐疑主義とする・・)
     「・・・実際的訓練に置いて、ニーチェより優れていたショーは、『バーバラ少佐』において
        百億長者、アンダーシャフトの形を借りて、超人理想を新時代の非ロマン的な言語で表した。」( 第5章K、12)

 として、こういった戯曲作品の方が、はるかに20世紀の思想を良く表していると結論づける。


 こういったシュペングラーの主張が、19世紀、20世紀の思想状況を完全に捉えているとはいえないし、こういう系譜に今後すべて読み直され
 るなどとは全く有り得ないことだし、シュペングラー当人もそんなつもりで書いていないことは明らかでもある。しかし、こういった主張は
 19、20世紀の学問の様相と体制が、われわれが実際的に必要としているものと如何にかけ離れているか、の彼の表現として成立していると考
 えていい。(わかりにくいのは、単純な批判でなく彼独特の”歴史的必然性”という話と絡めて言われるからでもあるが・・・・)
 ”退屈な体系的または概念的詭弁を積み上げたもの”とまで、ア・プリオリ?に言ってしまうのも 一方でこのシュペングラーの本全体を支
 える根拠があるからで、それが詰まるところ”1人の文化的人間のどの生活理解にも初めから、カントの最も厳密な意味で言うア・プリオリ
 的に1つの状態がある。この状態はあらゆる瞬間的な判断と努力よりももっと深いものであり、そうしてそれらの様式を、ある一定の文化の
 様式と認めさせるもの・・・”などの他の先の引用文にも見られるわれわれの”限界”の問題になる。

 すなわち、今私たちが20世紀を振り返る立場になってみれば、シュペングラーの発想を次のように整理することもできよう。 19、20世紀の
 学問の様相と体制は、決定的に大きな欠陥をもっているのであり、それは私たちの現実生活の事柄の”真実”を、分類された概念や”事実と
 結果の寄せ集め(第5章K、18)”や機械的な手法を大勢の”労働”で(シュペングラーはこの語をかっての優れた人間たちの”行為”と区
 別している)積み重ねれば達しうるもののように考えてしまう前提があるのであり、それは私たちの生活文化の見えない大きな流れに根本的
 に制限されて成立していて、それに一見逆らうことのように見えるものも”世界感情に対するその征服の代わりに、その立証をする”ような、
 ある根本的な”限界”に全く鈍感な欠陥なのである。また、そのことは一方で単なる宣伝論駁文学ディアトリベー(第5章K、17)として、
 都市の単なる”数”稼ぎ文書、説教(彼はジャーナリズムを挙げている)の無責任さ、と同じものにもなっていること。

 シュペングラーの鋭敏さは、時代の重苦しさと一緒になっていて確かに、見通せないある混乱をその手法の内に含むのだけれど、爆発的に
 一次大戦直後の世の中に受け入れられ、いろいろな形で連続的に脈命を保っているのは、その根幹が、こういったことを他に類例のないレベ
 ルと説得力で実現させているから、とはやはり言えそうなことなのである。知りもしないこと、判ってもいないことを偉そうに並べ立てるの
 は、確かに最も下品なことなのだが、シュペングラーの場合、「その存在したということ以上には殆ど知ることのない仏陀以前、孔子以前の
 一連の思想家たちである・・・」(K18)というような妙な言い方を確かにするにしても、それはそれなりの体系的欲求が言わせているとも
 いえるわけだし、また、彼が知りうる限りのことを、この本でありったけ並べているような感じがするのも(録音技術も放送技術も交通機関
 もまだ今日に比較して僅かな時代に、ビザンチウム賛歌やユダヤの賛美歌、アラビア音楽、デュファイやバンショワ、オケゲム、デ・プレ、
 からブルックナー、ワグナーと言った音楽に言及し、チマブーエから、フィレンツェ派、レンブラント、印象派、ラファエル前派、表現主義
 まどまで論評し、仏教の唯識派などを論ずるといったこと・・・)それは、
 むしろ、その当時の西欧の教養人がどの程度のことを知り得たか、の正直な証言になっていると受け取った方が良いし、そして今やこういう
 記述は非常に参考になる。実際、この本から普通の近代の歴史書と同じようなものを期待するのが、間違っているので、内容 を見ればヴァ
 レリーやTSエリオット、オーデンなどの評論と明らかに重なった話題が問題とされているし、彼らの議論の背景を知る重要な手引きにすらな
 る。
 そういった諸処の文化現象を体系的に考察し、その網の目の中で、西欧音楽を把握しうる立場と言うことは、実は極めて重大なことで最も”
 不可解な音楽という現象”を空回りさせず(欠陥のある言語学から用語を適当にとってきて、限定された視点で安易に音楽に当てはめるよう
 な場合など、如何最も空虚という意味での”形而上学”に陥るか・・・)に考え得る最も重要な道になりうる。シュペングラーの音楽観は、そ
 の意味で大変興味深い訳だが、彼の音楽論の一方の軸は絵画論と直接つながれた楽器の音色による色彩の意味論で、ガブリエリ、シュッツ辺
 りからブルックナーへの音楽史の変遷も和声的な問題の議論も、教会旋法や長短音階の出現といったような明らかに重大な歴史的現象も殆ど
 骨組みとして生かされない。また、当時のドイツ語圏の音楽の非専門家の教養人としてはむしろ常識的な反応として、ブルックナーはワグネ
 リアンの一つの変形として受け入れるが、当然見聞きされる範囲にあったマーラーを無視しているし、またむしろ意外な感じがする程、ベー
 トーヴェンに関しての記述は全体に紛れてあっさりしたものになっている。こういったことはアドルノTheodor W.Adornoが、マーラーを養
 護する文章を書き、最晩年までベートーヴェンの関する問題に非常に拘っていたのとちょうど正反対にもなる。アドルノのベートーヴェン論
 は、彼自身の自己否定になるような葛藤を持つ”ベートーヴェン批判”を核にしており、むしろ事細かな楽曲の細部の問題が寄せ集まる、一
 方、自問的な過渡的傾向と論述スタイルというより明らかな自己の混乱を表出した相当量の文章を読むことができるのだが、例えば、「存在
 するのは、ヘーゲル哲学だけだと言われることがあるが、それと似た意味で、西欧の音楽史に存在するのはひとりベートーヴェンに過ぎない
 。」(’ベートーヴェン論のメモより24)と書き、また基本的なカテゴリーの標準として、「ベートーヴェンの音楽は、偉大な哲学が世界を
 把握していく過程の形象に他ならない。つまり、世界の形象でなく、世界解釈の形象に他ならない。」(27)とするならば、少なくとも彼
 においてはベートーヴェンとは彼の世界像そのものと大きく重ならざるを得ないし、それは彼においてのある普遍的な土台と重なり、また
 「ヒトラーと『第9交響曲』。だから、包囲し合うがいい、数百万の人々よ。」(193)であるのだから、結局ヒトラー的抑圧存在にも近い
 ところにいることにもなる。
 このことは、アドルノがヘーゲル的な文章スタイルを抜け出せないまま、ベートーヴェンの抑圧性の問題を論じる困難ともいえるし、別様に
 さらにもっと言ってしまうならば彼流の作曲家を描き出す”観相学”が、彼のスコアリーディングの中だけで生ずる ある種 抽象的なもの
 で、皆が比較し聴き味わえる”具体的なもの”でないことと根本的につながった問題ともなる。(意外と誰も言及しないことのようだが、だ
 から、正に”演奏家の時代”の真っ直中にいたにもかかわらず、アドルノにおいては”演奏家論”というものがほとんど成り立たない。)

 一方、シュペングラーにおいて、アドルノが問題にしたようなベートーヴェンの問題は、例えば本来簡単に片が付くのである。すなわち、
 ベートーヴェンの音楽は全く普遍的なものでないと!というならば・・・・また こういった問題は、その第1楽章の素材はベートーヴェンの第
 9のフィナーレからのぶんどり品だよ。と語ったラルフ ヴォーンウィリアムスRALPH VAUGHAN WILLIAMSSYNPHONY No、4
 で考えなければならないことがらと、(少なくともRVWの普遍universalではない!というというようなこと)同じ観点から考え得るという
 ことも、とても重要となる。

 このことは、結局、シュペングラーがGBショウの新しい”超人”の主張に自らを重ね得たという、土台にもなるのだから、このことに関連し
 て非常に典型的なものを示すこのシラーFriedrich von Shiller(1759-1805)の詩をつけたベートーヴェンの交響曲に伴う話題をもうしば
 らく進めてみよう。
 勿論、多くの人に馴染みのこの曲の説明を、改めてする必要もないともいえるのだが・・・・この曲の声楽の入る部分は、終楽章だけで、もとも
 とベートーヴェンの計画は合唱を導入する考えが無かったと言われている。途中から元来別の曲による合唱曲を終楽章として考えたため、緊
 迫した短和音の主題と限定された素材を厳しく積み上げた非常に優れた第1楽章、ティンパニーの目立つスケルッツオの2楽章、op130の変
 ロ長調 弦楽四重奏曲のカヴァテーナなどとも共通する晩年的瞑想のアダージョ、この3つの楽章との4楽章の素材との関連性は薄いとはい
 えるようだ。
 また、終楽章冒頭に非常に変わった演劇的嗜好で、この3つの楽章の部分を回想した後、ディアトニックで平明なリズムでありながら品を保
 ちつつ率直な強さの魅力も持つ非常に有名な元の16小節の歌を一旦木管ソロを加えたものからオケ全体にして展開した後、1楽章風の緊迫し
 た響きが現れたとたん「O freunde、nicht diese Töne!」おお、友人よ こんな音楽でないのだ!とバリトンが初めて声を上げ、もっと
 快い、喜びに満ちた歌が唄いたいのだというような部分があった後、今度は人の声であの”歌”をそのソロで始める・・こんな具合になるのも、
 関連の薄い前の楽章と結びつけるためだ、という人もある。合唱付きの終楽章は、それ自体明らかに作曲の名人芸の頂上的な作品で、最も豊
 富な表情の変化をもつ多彩で高度な構造性のある手法を、底流するモチーフの関係で一貫させ、あっと言う間の流れで充実したクライマック
 スを作る。(長いコーダは、関連性から少し自由になる。もちろん完全に・・・ミリオオーネン前の旋律の再びの変形だが、ドン・ジョバンニ
 風?のオペラ的終わり方になる。そして、土壇場で上手くオケであの”歌”が駆け入ってくる) しかも、フーガ的な本来狷介な手法(それ
 が、それ程険しく響かないという不思議なこの曲の特徴がある)を相当用いながらも、親しみやすい歌によるはっきりした流れ、一方で変化
 の多彩な祝典的な愉しめる曲という困難な要求をピッタリ満たしている。

 しかし、この曲全体の問題点は、まず 合唱付きの終楽章とそれ以前の楽章からの必然性の問題で、特に第1楽章と終楽章とでは性格が正反
 対といえるほど明らかに食い違っていることになろう。(この点では、RALPH VAUGHAN WILLIAMSのSym、No1の1楽章から終楽章への曲調は
 ずっと一貫した発展的な矛盾の少ない流れがある・・・)このことは、現実的な問題でもあって、大体の指揮者は1楽章を浮き立たせて終楽章と
 のバランスを無くすのを怖れて、それが印象の弱い単に前座的なものになってしまう。これと本当は類比的な歌詞の問題はもっと大きい。
 ベートーヴェンの9つの交響曲の最後でもあり、この当時としては最も長大なようなこの交響曲の、終楽章に意匠を凝らした末、出てくる歌
 詩はとりわけ、もっともらしい荘重な意味を与えられてしまう訳で、そこにElysium理想郷、Heiligtum聖なる場所、Bürder兄弟といった言
 葉が強調され出現するのだが、これに対しアドルノは彼の”ユートピア批判論”をぶつけてくる。
  「市民的ユートピアは、完全な喜びというイメージを考える場合、かならずそこから排除されるもののイメージのことも考えざるを得ない。
   これはこのユートピアにとって特有の点となる。・・・」(81)
 と、書き出される文章で、彼はシラーの頌歌の中に、地球上のたとえ一人の心でも、自分のもの、と呼べるような人がある者ならば、輪の中
 に引き入れられる者だとして、逆に「・・そうした心を持たないものは涙して、われらの集まりから、こっそりと立ち去るがいい・・・」という
 部分を問題にする。この発想は、シンデレラの話の大団円の結婚式の結末の一部、アドルノによると”メルヘンのユートピア”の状態の一部
 として不可欠の、意地悪だった継母らの”燃える靴を履かされ踊らされたり、釘を詰めた樽の中に突っ込まれたりする”イメージと同様なも
 のであり、孤独な人々の不幸は、人々たちからなる共同体の歓び自体から必要とされるもので、結局、所有(友人たち)の歓びは非所有の人
 々(孤独な老女、死者の心、トマス・モアのいう奴隷)がいて成立するというような説をもって、この「第9の問題」においてシラーとベー
 トーヴェンの発想を批判する。とはいえ こうした論法は、価値とはそれ自体で成立するのでなく、誰か他の人が欲しがったりするゆえに成
 立するのだ、という発想と同様なもので、批判の主張も袋小路に入るのは避けられない。

 シュペングラーの場合、ファウスト的活動の象徴が持つものであり、逆にその他の文化ー文明・・・例えばアポロン的活動、など他のどこにも
 見られない特徴、すなわち宗教、道徳、倫理、芸術、政治、経済、どの分野にでも顕れる違い、は”無限に向かう意志”であり、また”拡が
 りという動的な情熱””第3次元の情熱”なのである。端的には

 「・・・そこでヘリオスとパンとは、ギリシャ・ローマの象徴となり、星の輝く空と夕焼けはファウスト的なものの象徴となる・・」
                                                    (第5章・J・6)

 というふうに言われたりする。この引用部分はギリシャ・ローマの演劇と西欧の演劇の違いについて、前者が群衆としてのコロスを前に常
 に置いてやられる公的活動でなくてはならなかったのに対し、シェークスピア演劇は本質的に独白で、また前者は白日の下の時間帯、午前、
 真昼の日光の下なのが基本で、後者は遅い午後という傾向がある。というような話しにおいて述べているところにある。ヘリオスは太陽神
 で、パンはイオニアの真昼の笛であるから、引用文のギリシャ・ローマの象徴は昼のものであり、日射しのはっきりと人の姿を見せるもの
 で、ファウスト的なものの象徴は光の落ちたぼんやりとする中の光としてあるものである。だから、

 「Brüder!überm Sternenzelt・・・・」ぐらいから、「Such’ihn überm Sternenzelt! über Sternen muβ er wohnen.」 のシラー
 の歌詩の最後の部分など、まさに西欧の発想そのものの現れで、逆に言えば そういう発想を持たないような他においては、根本的に受け入れ
 ようのない独特な態度をすでに表明していることになる。

  「兄弟たちよ!星空のかなたには、愛する父が必ず住んでいる。・・・星空の彼方に主を求めよ!星の彼方に必ず主が住んでいるのだ。」
 ということなのであるが、星が何か信仰の対象とつながったようなことはどの地域にもあるから、何となく見逃されがちだが、ここで言われ
 ているのは、何か果てしないものに対する感情で、また 夜の光のない膨大な空間に対する強い感情で、そう考えれば決して普遍的な美意識
 でもないことが、判るだろう。(もっと実際的でハッキリした目的を持ったもの、身近な親しみに対する美感という別なものも当然考えられ
 るから・・・)それはまた「距離感」「遠いもの」にたいする独特な嗜好でもある。

 しかし一方歌い出しを除いて6節になるシラーによる歌詞の中心的に強調される第1節(いわゆる歓びの歌)と2節で人々が皆兄弟Bürder
 となろうとすることが何より大事で反対してはいけない。(そのことを判らないものは仲間から去れ・・)というのだから、シュペングラーの
 言うところに素直に従えば、先程の5,6節の星空の彼方の主を求めよ! Such’ihn überm Sternenzelt! という西欧文化特有性の主張
 とは正に正面から矛盾し合う関係の主張を歌っていることになる。しかも、Seid umschiungen,Millionen!で始まるその5節の厳粛な調子
 (モーツァルトのレクイエムを少し連想させる作り方)で表れる副主題 とその2節の歓びの歌を2重フーガとして使ってクライマックスに
 持っていっているのだから、全く意図的にベートーヴェンは 相反する発想を不当にくっつけることを成し遂げてしまっていることになる。
 実際、捕らわれない気持ちで接するなら、この曲に全体としてある強引な不自然な調子を聴くことは難しいことでない。(たとえ、それが
 それを成し遂げるのがFreude、そしてscöhner Gütterfunken、歓び また、神の美しい閃光、という引き離されたものを、結びつける神秘
 的な力ということにある程度同調するにしても・・・)
  (* この第9の問題は、結構、重要で、歌詞を全部詳しく逐一的に説明した方が理解されやすいので別ページに書きます。2003/2/1)

 そして、当のヴォーン ウィリアムスの交響曲4番 RALPH VAUGHAN WILLIAMS:SYNPHONY No、4で非常に重要に使われている
 主題なども、この2重フーガの中で浮かび上がってくるものに最も似て聞こえるわけで、それが引き写されたといえるかはともかく、多分と
 ても冷めた気持ち(110年くらい前の合唱付きの音楽と露骨な対照性を持つ気持ち)であるのは、この曲を聴けばすぐに伝わってくる。

 ◆◇備考:
   シュペングラーの議論から、自然に出てくるこういった結論を、彼自身はそんなに主張する気持ちがなかったというのは、さほど
   理解できない話ではない。ベートーヴェン批判をやる動機があったアドルノと異なり、むしろ、現代における没落形態の末梢的な
   芸術に対してベ−トーヴェン的な言うべきものを持った職業人らしい芸術は持ち上げておく必要があったから。とはいえ、アドル
   ノのベートーヴェン批判の意図(未達成の意図)はもっともなことである。

     シュペングラーは、「・・ファウスト的なものは前進の情熱であり、特に社会主義的なものはその機械的産物であり、”進歩”であ
      る・・・倫理的社会主義者は、同情、人道、平和または配慮の体系でなく権力意志の体系である。・・・この様式の倫理は、すべて無限
      への意志の表現になろうとする。・・・ストア主義者は、世界をあるがままに受け取る。社会主義者は世界を形式、内容に従って組織
      し改造し自己の精神で満たそうとする。ストア主義は順応する。社会主義者は命令する。・・」と書くが、ここで扱われている題材に
      関して、彼の意見が適切かはともかく、かっての時代に比較して、現代で言われていることは、その表面的装い、と全く逆に単なる
      ”命令”になっていて、何か本来的なものを越えているのでないかという懐疑としてならば非常に正しいし、例えばまたロシア的魂
      と比較して・・・天に対するロシア語は否定の響きを含むに対して、西欧の人間は見上げる。平原において西欧の人間は八方に突き進
      む情熱を感じるのに対し、ロシア的なのは自己放棄で、自ら平原となってしまう。ロシアでは人間さえも平原と見る。無限の平原は
      ロシア態様の根源象徴である。ドイツ語で運命schichsalはファンファーレのように響き、ロシア語ssudjbaは、膝を曲げている。
      この低い天の下では、我を受け入れる余地はない。「すべての人は全てのことにおいて罪がある」これはドストエフスキーの全ての
      創作の形而上学的な根本感情である。神秘的なロシアの愛は平原の愛で、いつでも土地に沿い、土地のうえにうろつく哀れな動物、
      また植物への愛であり、決して鳥、雲、星への愛でない。・・(3章18の注)と彼が描写するとき、確かにわれわれの理解するとい
      ったこと、考えるといったことの近くにいるのである。

   一方、根源的に相容れない考えを卓越した音楽の技術によって強引に混ぜ合わす、第9のフィナーレにおいてシラーを用いベー
   トーヴェンがやっていることが、いかにものを見る土台を破壊し、なにも考えられなくしてしまうか。 さらに、このことを後
   世が誇張し、このようなかたちの個別的技術で圧倒すること自体が、何にか尊敬すべきもののように説かれ、そこで自然なつな
   がりでものを考えさせることをマヒさせられた膨大な大衆が、いかに危険なものか。もしくはその表面の平和の宣伝にもかかわ
   らず、いかに全く薬にならないか、現代の事実は示してさえいる。本当に、まず必要なのは中和してくれるようなものを見つけ
   ること、また”相応に扱う”というイミでベートーヴェン批判はなされるべきなのである。                 ・・・ ◇◆

 すなわち、ヴォーン ウィリアムス自身が、交響曲4番に関しての発言した意図も含めて、ベートーヴェン的問題に関して、シュペングラー
 の発想と何かつながるものがありそうな感じ、はこれだけでもするのだけれど、さらにシュペングラーの描き出すところの例えば、ゲルマン
 カトリックの初期の段階から、デメテル信仰のように聖母崇拝が現れ、その対比的な神秘主義を伴ったものが、ギリシャ・ローマ的神話の
 背景を得ることによって、強力に自己を作り出していく過程を書こうとしている部分”ファウスト的な世界諧謔etc・・・”(3章、17後半)
 なども、むしろ驚くほど、この”交響曲第4番全体”の浮き出させているビジョンを想わせないかということ。

  もちろん、ヴォーン ウィリアムスのこの4番の交響曲は、RVWの作品の中でも特に”音構造”の充実した多彩さ、密度の高い必然性と
  いった点で--全楽章の主題的関連性、独特の対位法的要素のユニークな連続的変化--深く言葉を特に意識しないでもこの優れた特質は十分
    味わえる作品であることは強調しておこう。また、この曲が”戦争”といったものを表現しているとは昔からよく言われてきた訳だけれど、
  もちろん、現実の戦争など芸術作品と無縁の野蛮なものと言った方が良いのだから、このような言説は大概浅薄な話しそのものになってし
  まう。しかし、多くの場合意識されないだけで音楽作品の潜在的イメージ、われわれの思考の土台のある形象と、音楽の構造は無縁では有
  り得ない。 

   『   ・・・・・3文化の信仰が無歴史的な形態に、長い間溶け込んでいた。それから、少ししてマギ的諸宗教が、ギリシャ・ローマ
     とインドの間の地域で起こってきた。・・・そして、1千年後、そこと同じように全てが内的に完成された頃、殆ど約束されてい
     なかった土地の上に、全く突然そして急激に上昇しつつ、ゲルマン・カトリックのキリスト教が現れた。・・・彼女(マリア)は
     教会の恩寵庫を守り、偉大な調停者である。けれど、清純さ、光、極度に精神的な美しさの世界は、それと切り離せない反対像
     がなければ考えられないものだろう。これは、ゴシックの頂点にあるもので、今日いつも忘れている、--いや、忘れようと欲し
     ているところの、測れない創造なのである。マリアがかの天において美しさと温和さで微笑しながら、位に即いている間、その
     背後の違った世界・・。自然界、人間界のどこでも、それは悪計を織りなして、育て、刺し、破壊し、誘惑する。つまり、悪魔の
     国。それは、創造の全体のなかに入り込んでくる。それは、何処にでも待ち伏せする。・・人間の姿をして周りにいる。誰も自分
     の隣人が、悪魔に身売りしたか知らない。気も遠くなるような恐れ。多分エジプト初期時代の人々が抱いたものにのみ、共通す
     るような恐れ。伝説、芸術、スコラ学と神秘主義は、マリアと悪魔の2つの世界を持っている。また悪魔も奇蹟を行える。他の
     文化-文明の初期宗教にないものは、(このゲルマンカトリックの)象徴的な色彩で、マドンナは、白と青。悪魔は黒、硫黄色、
     赤である。天使と聖者は大気の中に浮かんでいるが、悪魔はピョンピョン跳び、魔女は夜ザワザワと歩く。光と夜と愛と怖れが
     一緒になり内在性でゴシック芸術を満たす。これは芸術的な想像でなく現実である。情熱的なマリア賛歌の隣で、無数の火刑が
     行われ、教会堂の隣で、絞首台と車裂きの車輪が置かれた。・・ルネッサンスはゴシックの強い信仰をその世界感情の固定的な前
     提とした。ギリシャローマの神話は、会話の材料であり、比喩的な劇であった。(・・でしかなかった)その薄いベールを通して、
     人々は実際のゴシック(の生活の現実)を良く見たのである。・・・こういった神話と背景である強力なものにおいて初めてファウ
     スト的な魂にとって、自己は何であるかという感情が成長してきた。”我”は徹底的に力であるが、より 大きい力の無限の中
     では、1つの”我”は無限の中に失われる。また”我”は徹底的に意志であるが、自己の意志の自由は不安に満ちている。意志
     の自由の問題は、そのときまでこんなに深く、こんなに苦悩に満ちて徹底的に考えられたことはなかった。他の諸文化はそれを
     全く知らなかった。マギ的な”諦め”はここで、全く不可能だったため、考える一般的な精神の一部である”それ”でなく、自
     己を主張しようと求めた、個々の戦うところの”我”であるために、自由のどんな限定も生涯を通して引きずって行かねばなら
     ない”鎖”と感じられた。一生自体それゆえ、生きている死と感じられ、またそれが何故か?と問われ、そしてそれが大きな1
     つの罪の意識となって起こる。ゴシックの丸天井は祈りの重ねた手のようで、教会の高い窓からの光は会堂の中では輝かず、教
     会の歌の平行連続は重苦しい。ラテン語の賛歌はすりむいた膝などの苦行を歌う。・・・・・            
      (以上、3章17の後半から、関連する部分を要約。シュペングラーのごちゃごちゃした文章からはずれないように留意し簡略化
        をしてみたもの。細部は今後も検討の余地ありだけど、素直な日本語の言い換えにしてあるつもり。なおその他の引用を含め
        その箇所を含めた辺りと原文、英文、邦訳・村松正俊氏訳などを照らし合わせてチェックしてくださるようお願いします。) 』

  こういった内容も、意識の傍らにおいて、ヴォーンウィリアムスの4番の各部分を、見ていくと・・・第1楽章 Allegroは、まず、冒頭
  の導入部分は、この曲全体で極めて重要な使われ方をする半音で下がる2つの断片のようなフレーズが、オーケストラ全体の強烈な響き
  でしばらく展開されて 47小節 間、全体の威圧的な正面門のような部分となっている。この半音的フレーズはあるイミでありふれたもの
  で、半音階の動きには多かれ少なかれ現れるし、例えばF#-F-A♭-Aというような音の動きはむしろ、有名なバッハの名前をドイツ音名
  で置き換えた音の動きと同じになるし、単に音程関係でいえばそれほどSeid umschiungen,Millionen辺りのメロディーとそれほど似て
  いるともいえないのだが、このフレーズは4つの楽章の多くの重要な部分に関係して現れ、その現れ方によって確かに類似性を漂わす素
  材になっている。このことはヴォーンウィリアムスの楽曲における”類似性”を見出すことの重要さにも関連している。一般に”イギリ
  ス音楽”は”楽曲分析”といったものが困難というのはしばしば云われることで、音程関係やその転倒、拡大、縮小などといった「客観
  的」な基準だけでは、形式の必然性を見出しにくい。むしろ、その箇所の特徴や全体の流れの中の使われ方を見た方がより実りある解釈
  に成りやすい。この1楽章を、この冒頭部分を導入部分と別にして、そのあとの第1主題の部分、そして続く第2主題の部分を見て、そ
  の展開部分や変奏箇所の伴った部分を見て、あとCodaとするソナタ形式に似たものとして考えることもできるし、この曲がソナタ的なデ
  ザインの流れを持っていることは明らかだが、一方、A-B-C-A'-B'-C'といった大きな形を持っていることは注目しなければならない。
  すなわち、冒頭の半音の動きの主題部分をAとすると続く、F音が始め長3度上を伴う3連で鳴り、続けて短3度になった3連でもう一度
  鳴るという格好の管楽器の特徴的な伴奏と一緒に奏されるストリングスの流麗なメロディーの部分が、Bとなる。これがラプソデックに
  展開された後、以前のメランコリックな雰囲気からいきなり、正反対のキャラクターの活発で武ばったなようなテーマが、うねうね、ぐ
  るぐるととぎれなく荒々しく動く低音部を伴って現れ中心的な盛り上がりに向かう部分を作る。これをCとおく。 この調子が激しくな
  っていった末に冒頭の半音の主題Aが一瞬差し込まれ、不安定にさまよう感じでひねられた後、本格的にAの部分と似たものが再現する展
  開A’となり、 続いてBに似た部分B’さらに、Cの部分がコーダ的に用いられるC'で薄い弦と木管の響きのなかフェードアウトしていく
  ようにこの楽章は終わる。ベートーヴェンの有名なop57のヘ短調ソナタの第1楽章で中間部分を主題労作風に見ないで、仮に別の部分と
  し見た場合、割と良く似たものと考えることも出来る。同じように後続の最終楽章に較べれば、全体はいくつかの主題の性格が各部の構
  造から由来するものより、支配的で、それらの主題の部分の連結と配置で出来ている大きな風景のような音楽。この交響曲の場合、前面
  の峻険な山々があり、風のうねる少しの平地、それから本格的な山地と頂点、だんだん下って寂しい平地に戻る。それは時間的に言い直
  せば、ある時代が厳しく始まり、憂鬱と躁的時代を経て頂点を征し、だんだん衰え、もとの歴史無き世界に戻る・・・etc。そして、しかも
  この流れが、A-B-C-A'-B'-C'と見ることが出来る訳なのであり、それは結局”円環的な繰り返しのパターン”で作り出されていることに
  注意して欲しい。この曲は全体的に大変半音的動きの強い曲だが、ヘ短調の調性が与えられているし、コーダ的なC’部分は、前の短調的
  な響きから、少し離れ変ニ長のほの明るさとなるが、決定的に活気を失ったものになる。音量も音数も淡くなってしまった中、D♭が保持
  されながら焦燥的な導音をもつC-F-A♭が、薄く響き続け憂鬱に終わるが、この本来同じ旋律といえるものが最も勇ましい部分と裏返しの
  性格になっていることも興味深い。

  第2楽章はAndante moderatoで、前の楽章を引き継ぐように、音的に云えばC-F-B♭-C-D♭という緊張を伴った音列を始めに単独的
  に呈示して、弦の低音のピッチカートでポツリポツリ繰り返される一定の音形の上に、代表的なのはフルートのソロなどで先の音列と共
  有する特徴をもつ旋律を歌わせていき、だんだん、盛り上げていく・・というような基本的な仕組みの音楽で、根本的な理由でイギリス人
  好みのパッサカリアのような形式に近い作られ方をしている。     1楽章のような半音の動きが強調された作り方より、むしろ、
  元々のヴォーン ウィリアムスの音楽の作り方に近いとも云えるわけで、調が曖昧になる感じで、白鍵の上の適当に選ばれた音のグルー
  プを動き回るような、ディアトニックな動きの方に傾く。この楽章の音楽全体の流れに、ピッチカートの低音の音形は適当に不規則に、
  道連れとして繰り返され、ある部分休止を挟みつつ、正に”とぼとぼとした足取り”を思わせる。そして、その上に1楽章の全体的に圧倒
  的なオーケストラのトゥッテイの響きの支配的な音楽でなく、弦のセクションや、木管を中心のソロの受け渡しを行うことで、ある種の質
  素さを保持した非常に清楚な楽想が、メタモルフォーゼンして盛り上がっていく感じで、ほぼ3回のアーチを描くようにこの楽章の流れは
  出来ている。その各頂点付近に、冒頭の音列に近いものが、ブラスで旋律の流れの中に突き上げる感じで侵入し、さらに4度でヒラヒラと
  揺れて降りてくるような特徴的な音形が重なって、山場となる全奏部分が作られる。ヒラヒラとした動きはなく、より変形された音列で頂
  上を築く次の2つめのアーチが最も高い頂点といえ、再びヒラヒラと降りてくる音形のの出る3つめのアーチはずっと抑えられた高さとな
  って、この楽章を静かに終わらせる。この楽章全体の真摯な意識の持続は、真面目さや、責任感、利他的な心を想わせずにはいられないし、
  デリケートに受け渡されるクラリネット、オーボエ、フルート、バスーン等のソロ的なリレーや対話は寄り添う心と心を奏者に要求してい
  る。この楽章はその感情や音的な作られ方など多くの点でウォルトンの交響曲1番の3楽章Andante con malinconiaと共通性がある。が
  一方、大きな違いは、ウォルトンの曲が楽章の最後に向けて、真摯な意識の持続が憂鬱さから、自己に任せて最後の破局とも見えるところ
  に突進していって、その消失の中で終わるのに対し、ヴォーン ウィリアムスの方は、この楽章においては、全体としてある癒やし、なだ
  めの性格でもってひとつの大きなアーチ状のフォルムを作り、その中で最後の孤独なフルートソロが奏される格好をとる点を挙げられよう。

  第3楽章Scherzo:allegro molto。ベートーヴェン時代より、はるかに発達した管楽器の力をフルに発揮できる風の音楽であり、特
  に、このスケルッツオ楽章のトリオをなす中間部分、フーガ風進行のソロ的な管楽器の金色の音色が支配して交叉するところが、めざまし
  いように、高度な内容を持つ音楽としては、希なくらいの音楽になっている。フーガの部分を挟む、騒がしいスケルッツオは後の方は少し
  省略された格好だがほぼ同じようなもので、2楽章の冒頭の音列と類縁性をもって引き延ばされた強く上向するフレーズに続く、1楽章の
  半音の動きの冒頭の主題(結局2楽章のヒラヒラ下降する音形もこれに関係している)がくっつけられたものによって、前の楽章からの連
  続性を持つが、性格は極端なくらい正反対なのが基調になっている。跳ね上がるようなリズムを持った動きに、険しいような半音の短い動
  きが付加された奇想が、ぐるぐる繰り返すように用いられ、そこから気楽なようなこの楽章の新しい旋律が生まれるなどして、次いで1楽
  章の半音の主題がそれだけでしばらく展開し、また始めの跳ね上がる音楽が戻ってきたあと、さきの上向するフレーズから派生するテーマ
  を用いてフーガ部分になる。
  『怒りの日』の旋律を用いたベルリオ−ズの幻想交響曲の終盤部分と共通するようなグレゴリアン・チャント風な幻想が、このフーガ部分
  の主題などにもあって、前から潜んでいたものがよりはっきり見えてくるし、このムードが交響曲のここからの展開でよりどんどん濃厚と
  なっていく。
  ホルンの風船の破裂するように膨らんでいく響き、チューバなどの象のような巨大な響き、トローンボーンのグリッサンド気味のブカブカ
  鳴る音。フルート、ピッコロの華麗に飛び回る音。・・etc。こういった管楽器の響きは確かに、ある”快楽”をイメージさせる。飲み過ぎ、
  喰い過ぎで膨れ上がったフォルスタッフの腹のようで、快楽にまかせて膨らんでいく音は、スケルッツオ的音楽の発展的持続感の無くなる、
  ぐるぐる繰り返される展開と気まぐれで突発的な主題のリズムに強化されて、全く人々が気ままに快楽に身を任し、”感染”(フーガ)し
  ていく”饗宴feast”の様相をこの種の音楽は作り出す。
  貧乏臭さ や 型にはまった説教臭さは、無くなり、ある種輝かしいものであるにせよ、この種の傾向は、個々人の勝手な名技性の追求にな
  ったり持続的な責任感を失わす方向にあるものなのは想像できることだろう。フーガ的部分は打楽器にの打撃により、もう1度もとのスケ
  ルッツオに戻ってほぼ同じことを繰り返すが、跳ね上がる音がびっくり箱のように破裂して、突然 低音の弦のピッチカートのみの暗い響
  きの中に入ってしまう。何か次に来るものを予期する脈動のように・・・・

  第4楽章Finale con Epilogo fugato.Allegro molto:3楽章の終わりの抑えた低音のピッチカートが鳴り第1楽章の始めの半
  音的テーマが、影のように響いている中、いきなり 大きな太鼓の音と共にブラスがなだれ込むようなファンファーレで入ってくる。これ
  は、2,3楽章の主要テーマが、上向の音列を基にしていたのと反対に、下向の音形を示し、この4楽章でほぼ新たに登場し、この楽章を
  区分するような地点で用いられるという役割も含めて、何かしら”総括をする”風な性格ともいえる(これをTa4とする)。その後に、金
  管のブッパ、ブッパ、ブッパ、ブッパという特徴的な音を伴うテーマB(Tb4)となる。これは第1楽章のCのテーマ(Tc1)とほぼ類似し
  たもので、伴った低音弦の連続する音がブラスになったもので、Tb4に少し先行して登場し、しばらく呈示される。このTb4は傍若無人に
  歩き回るような感じの部分で、そこに区切りを入れるようにまたTa4がなだれ込み、Tb4を内に含めるような形で、そのTa4の要素の回転運
  動の片鱗を表し、踏みしめるようにティンパニを打つ。次に、何か運動を愉しむみたいな新しい主題(Tc4)が現れる。これは前半の引っ
  張られた音価と後半の小刻みな音価が、特徴的で第3楽章の主題に類似する。
  ここまでのTa4、Tb4、Tc4、がこの4楽章の骨格の中心素材といえ、特に、Tb4、Tc4は、この楽章を、もしもソナタ形式的に捉えた場
  合、第1主題、第2主題とも見える役目を果たし、そうみればここまでが、一応 呈示部にあたり、そして、この運動会的主題Tc4は、だ
  んだん第3楽章のフーガの主題にまで近くなって、そこで回転運動を起こすことで、この第1部分の終わりを印象づける。 ただし、
  この楽章を、・・展開、再現、コーダ、とここから後を、見て行くより、下向主題Ta4などにより、例えば4部分&コーダというふうに「区
  切られた対位法的音楽」と見たほうが、全体としてはふさわしいと思われる。最初の部分から、全くのフーガではないにせよかってのベネ
  チア樂派が好んだのと幾分似た交唱曲的、模倣、こだまなどの発想や線的動きを充実させるための思考が常に強く、またこの楽章全体が、
  線的動きの変化を緊密に計算されて作られた独特な対位法的音楽の一つの極北で、その構造を十分理解するためには、和声的、あるイミ弁
  証法的なソナタ形式や、その変形としての理解を元来超えている。
  その後の、いわば第2部分は、この楽章の中で誰しもまず目に付く違った部分で、第1楽章のコーダ部分の静かなところ(Tc'1)が、その
  まま突然戻って来たような印象を与える。この部分は この楽章の出発点とほぼ同じ、半音的テーマとTa4のあと、ブッパブッパするテー
  マTb4に導かれて、急に現れる短い静かな部分で、このTc'1は低音の乱暴な動きを失っているがそもそもTc1と同じもので、だからTb4
  とも類似性の強いものだから、この部分はTc4の終わりで3楽章を回想し、由来を示したのと同じことになる。ただ、この第2部分は、ある
  種の死んだように見える時代、短い歴史無き時代?、仮死状態(さなぎ)という全体の大きな転換点なので、こうして特別独立的に扱うこ
  とも出来るだろう。この静かな第2部分は、また半音的テーマのザワザワする音が暗雲のようにたちこめっていって、登場するTa4の下向
  テーマで打ち破られ第3部分となる。そのTa4があって、次にブッパブッパの形を伴いながらTb4、そして運動会的テーマのTc4がつなが
  り、そこにまた3楽章を思わせるファンタジックな管楽器の動きが入り、そして、また回転運動・・・ということになるから、ここは第1部
  分の進行を「再現」させていることになる。しかし、第1部分のような区切りのTa4が間にわざわざ入らず、スムーズにTb4とTc4がつなが
  り、さらに流動的に続くTc4から起こった動き、は第1部分の終わりと同じようにTa4の下向音形と結びつくがより高まった流動的動きに金
  管のスタッカートまで、使って活動性が強調される。この第2部分の第1部分に対する特徴が、流動的な運動の増大なのは、その最後の木
  管と弦楽でより、派手に受け渡される回転運動の渦に最も現れており、しかもさらに上下に打撃が与えられより拍車をかけようとまでする。
  だから、この「再現部」的な箇所は、このままで終わっていかずさらに、重大な第4部分を引き起こす。この部分が最もフーガ的対位技法
  の集積した部分となる。無茶なような拍車の打撃は、第1楽章からずっと機会ごとに使われていた半音的テーマの動機を呼び起こし、しか
  も、挑戦的な信号のように独立した金管によって鳴り響く。この半音的テーマを使って、オーケストラの豊かな楽器群の織りなす、最も充
  実したフガートな展開が行われていく。その展開の先にまず、Tb4のテーマが、ブッパブッパを伴わず影のように現れ消えていき、次に
  ソロのトランペットのパパパ・パ、パパパ・パ・・・の信号から、Tc4のテーマが投入され一応2重フーガと言っていいものが、半音的テーマ
  と共に展開される。ここがベートーヴェンの第9のフィナーレの2重フーガと良く似た、全曲のフィナーレになっているともいえる。(も
  ちろん、曲の印象は正反対で、何か殺意?に近い感覚のものになるのだけれど・・・)こうしてこのフガートの部分が、ストレッタ的にオーケ
  ストラ全体がトレモロのような動きを示しだした時、何か稲妻のようにTa4の下向主題が降り下ってきて、うねって落ち、そこにオーケスト
  ラ全奏の終結的な半音的テーマによるものが鳴り響き、その音程を奇妙に引きずる動きの後の、2つの半音の関係を通過する、C音→F音の
  動きで全曲が急激に閉じられる。しかもこの終結部分が、この交響曲の全曲の始まりと殆ど全く同じものであって、そのこと自体が、ある
  特別な驚きの感覚を残す。

  第1楽章の半音的テーマは、この交響曲全般にわたって、一種の苦い刺激剤みたいな格好で、要所、要所に注入される役目のものだから、
  特別なものとして、また4楽章のコーダ部を全楽章の結末と考えることで除外し、そして第2部分は構成を際立たす仮死状態的部分として
  見ると、4楽章は1,3,4部分ともに、主にTa4-Tb4-Tc4という流れが、繰り返されていてほぼA-B※-C-A'-B'-C'-A"-B"-C"という形で
  、一連のテーマによる円環を3回繰り返して、増大化させていることになり、変則化させる要因も加味して第1楽章の構成原理をもっと強
  化したもの捉えることもできる。
  このことは、見方を変えれば、前記のベートーヴェンのヘ短調ソナタの3楽章が、大きな風景としての第1楽章に対して、目前の出来事と
  して展開される性格の楽章、という対比感をもつのに近いものを、この第4楽章は示しているということでもある。  
  すなわち、両者の冒頭楽章が、持っている主題の対比的性格を連続して各々引っ張っていったものの配置による大きな性格的変化による構
  成ということに対して、両者の終楽章は、扱う主題群は性格的対比は余り差が無くなり、旋律と背景という区別もなくなり(右手と左手の
  区別も余り無くなり・・・)、断片化した性格のものをより徹底的に空間的構成の”変化の連続体”として扱うことによって、事態の”クロ
  ーズアップ”が起こるということ。これは、元来、より対位法的になるといったことにもなる。もちろんベートーヴェンの方は、フガート
  な部分、又は より体位法的な味わいを出すところは展開部冒頭の一瞬ぐらいしかないし、極めて限定された素材の強い効果を最大限に節
  約しながら組み立てていくのに対し、RVWの方はもちろん、管弦楽としての豊富な音色を用い、RVW特有の豊かな旋律の表情的変化を
  織り込んだ対位法的音楽という”違い”は、自ずとあるのだから単純に同じ発想だと言っているわけではない。ただ、両者の両端楽章の、
  ある強化されるような相互関係などには共通するものがある。

       (上の曲の構成の説明は、細部をもっと改良しようと思っています。2004/3/25)



  また、この第4交響曲を、リハの時から高く賞賛していた、ウォルトンは、自らの作曲中の交響曲第1番の終楽章にフ−ガ的なものを導入
  することを考えたとき、ヴォーン ウィリアムスの終楽章と似たようなものにならないよう特に留意しなければならなかった。(WWは、
  ニューグローブのフーガのページを見ながら作曲したと茶化しているが・・・)フーガ的音楽と言えば、もちろん機能和声的な構造の成立
  という強烈な背景を持つJSバッハの作品は、極めて重大なものとなる訳だが、甚だ 事柄を単純化して、あくまで目安のためにそこから眺
  めてみるなら、ウォルトンの場合はそこからフーガの運動感のスピードある流れをより抽出して発達させたところがあるのに対して、バッ
  ハの多くの優れたフーガ作品にあるようなフーガの主題が移って行くに連れて、連続的に多彩な変化を見せていくという面は乏しい、一方
  ヴォーン ウィリアムスのこの4楽章場合、その連続的変化の多彩さはとても豊かであり、またロマン派以降の対位法的音楽としては緊密
  な必然性を伴っている点で、その多くの部分はそれ程フーガ的な線の重なりが無い割に、むしろ全体としてよりフーガ的音楽になっている
  印象を与える。
  もちろん、ウォルトンの交響曲のそれの場合は、バッハ的な音楽の抽象的な純粋性はより保たれているともいえるし、またヒンデミットの
  ようなフーガ的音楽の得意な人の場合の声部の連続性はヴォーン ウィリアムスに比して、より保持されているところがある、とはいえヴォ
  ーン ウィリアムスの4番を全体として見ると、その創造的な対位法的音楽として重要さは特筆すべきものがある。

  というのも、第2楽章の”祈りの手”のようなアーチ状の音楽での、辛い薄曇りの不安と信念の織り成す中、和声の暗雲の晴れ間の一瞬拡
  がる温和な青空の印象の鮮烈さ。その澄んだ希望の青と白に対して、”サバトの狂宴”を芸術家の夢のなかの出来事でなく、ガッチリとし
  た構成でリアルな現実として示したような 第4楽章のまさに、Dies irae的なものや”Und wenn die Welt voll Teufel wär”-世界が
  悪魔で一杯だったとしても-(2巻3章18)の音楽の発展形態といえるものの描き出すものは、不吉な赤黒い空の色や黄ばんだ夕暮れがあ
  る。そこで悪魔めいた音たちが、ピョンピョン跳び歩いたり、ザワザワ、のしのしと傍若無人に歩き回ったりする。(例えば、ボッシュの
  暗い空の燃える都市の絵や、ブリューゲルの膨大な人々が描かれ、痩せた馬が浮いている絵などを思い浮かべることは、ここの色のイメー
  ジとしては悪くないだろうと思う。彼らのユーモアとヴォーン ウィリアムスのユーモアも共通するところがある・・・)
  第3楽章の放埒に繰り返されるリズムやブラスの饗宴は、人々の自由を求める心が不安を宿しているがゆえに形ある快楽を求め、膨らんで
  いく金管の音のようにただ一杯になっていき、直接 あのDies irae的世界を呼び起こすことにもなるのだが、この成り行きは、遠景で眺
  めて、1楽章の突然沸き起こった、ゲルマン・ゴシックの頂の山景と無歴史的な溶け込んでしまう状態までのようなすがた、としても描か
  れていることになる。さらに、重要なのは2,3楽章が対称的に描出された個人各々の営み(ソロ的な傾向)であり、それが意匠を凝らし
  た4楽章にて、加速されたり、引き延ばされて様々な異様なものを盛り込まれて、流されていった果てに、その、全くの突然に、「最初」
  に戻ってしまうことによる、”驚き”は、”われ”が、全く”無限”の繰り返しの中に放り込まれてしまうことを意味している。
  加えてその所々に意識的に置かれた車輪刑の地獄を見るとき、少なくともヴォーン ウィリアムスが、シュペングラーと大差ないくらい、
  文化・社会を見る目を持っていることを認めざるをえないのでないか?もっと云うなら、この交響曲4番は、シュペングラー思想と殆ど変
  わらないようなレベルの発想を、純粋に交響曲と融合させる新たな対位法音楽の緻密な構造を作り出すという形で実現した殆ど”奇跡的な
  作品”ともいえないか?

  われわれは、この交響曲4番を、ブライデン トムソンの素晴らしいCD録音の演奏で手軽に聴けるし、エイドリアン ボールトのよりゴシッ
  ク的な尾鰭を感じさせるニュアンスも込められた優れた演奏も、聴くことが出来る。後者は、1954年の録音の古いものであっても、その表
  現にある”過激さ”には、特別の驚きを感ずる。ストラビンスキーの春の祭典より、まっとうな理解があれば遙かに過激な主張を聞き取る
  のは難しいことでない。ボールトは1935年BBC-SOで、バックスに献呈された版の初演をやっているが、G、グールドはこのことに興味を持
  っていて、それほどスキャンダルにならなかった理由について、”あいつは、仲間だから許されるんだ・・・”というような解釈がされたん
  だろう、という意味にもなる話をひねってわざわざ書いている。 実際、このことは”マスコミ、大衆が騒ぐ”という現象の実態について
  の、面白い例証にはなる・・・。1931年から、34年に作られたとされるこの”過激な”交響曲が、1936年ミュンヘンの自宅で心臓発作で死ん
  でしまったシュペングラーにとって認められる感覚と遠かったろうことは、一方で想像しうる。この作品が彼の文化象徴と十分重なる音楽
  化とも呼びうるにもかかわらず、こういった宗教的な西欧文化の状況は、主として20世紀では形骸化するものでもあると云う彼の発想に
  もっと着目すれば、当然相違点をも含む。とは、いえ彼がちゃんと賛意を表明しているバーナード・ショーの思想とも、重大な相違点があ
  り、本当はそんなに変わらないことは、大事なことなのである。その意味で、続いてこれから扱うショーとシュペングラーの似かた、と相
  違点という問題(これも同様なイギリス的思想とドイツ的思想の関係の問題でもあると見てもらってもいい・・・)を考えるときも 先の第4
  交響曲とシュペングラーの不思議な類似性の関係 を念頭においた方が良さそう、ということにもなる。(2002年・11月19日)


  では、そのショーの思想を考えるとき、とくに著作『人と超人』Man and Superman(1903)を、細かく見ていくのが便利だろうと思う。
    この作品は、彼の作品群の中でも画期的なもので、”超人思想”というものを、明確に打ち出してきた作品ということは、よく強調される
  わけで、実際シェークスピアなどの戯曲を、考えるならば戯曲としては実に変な格好をした作品となっており、20世紀始めのリアリステ
  イックな劇の 真ん中に、いきなりドン・ジュアンと悪魔などの宗教議論みたいなものが延々と差し挟まれている。
  このあとに、『メジャー・バーバー』(1905)といった作品が、あり、それは、実際 内容的にも重なっている要素が強い。

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        ← ◇cf,シュペングラーと様式概念の大雑把なメモ              → HOME◆   ◆幾つかの表現を多少、改訂-詳細は下記-2001・5月-◆ 戦前のイギリス映画「Major Barbara」は、当時の有名な俳優ウエンディー ヒラー、レックスハリソンらの出演したものらしいのですが、私は見ていませんし、 日本で公開されたものかもわかりません。バーナード ショウ自身の脚本によって制作 された「貧困」と「資本主義」の問題を扱ったといわれる戯曲「バーバラ少佐」 (1905)の映画版(1941)であるわけで、とすると むかし なにか そんな ようなような内容の外国映画をTVか?みたことがあるかも?位なのですが、音楽に ついてはある程度のことは言えそうに思います。 シャンドス盤の編曲者クリストファーパーマーが そこに書いているように、 彼が勝手な抜粋を全くしていない、WWがこの映画のために作曲した作品だそうで、 4つの部分からなる、曲自体いろいろな意味でとても面白いものなのは確かです。 戯曲の方では女優ウエンディーヒラーが、演じたものらしいバーバラ”少佐”は、 大ブルジョワの父に反抗してプロテスタント系慈善団体である、いわゆる”救世軍”で 活動する女性で、他のショウの代表作「聖女ジャンヌ」や「ピグマリオン」(映画マイ フェアレディーの元本)と同様活発な女性が、主人公となる場合です。 (ただし映画は、戦時下的状況を反映して、単純な”女性少佐”にしてしまったみ  たいなのだが  2003/2/1) イプセン的問題からキャリアを始めた彼の社会改革のイメージが、女性の愛に結び ついている「基本パターン」であり、問題を巡り ショウ的場面転換が進んで行き ます。 1) 音楽においてもこれは単に 映画のために書かれた4つの曲が、並んでいる のでない(Shavian Sequence)ということを考えて良いと思われます。 「貧困」と「資本主義」の問題。 実際 このテーマは 19世紀イギリスの非エリート系文化人の典型に属する GBショウ(これもQEJ朝のWSと共通するのはどうでも良いことでない)にとっ て根本的なものです。ソビエトに招かれたショウが、当局の 都合の良い 市民が豊 かで平和に 労働し暮らしているような光景ばかり見せられほとんど理想的な国家 と思い込んでしまったことによる、マスコミを巻き込んでの騒動という彼のエピソ ードからも(既に大量の”粛正”がおこなわれていたわけです・・・)、 このことが、彼の人生においての重要な問題であったことが現れています。ショ ウのエッセイは、人間の貪欲さや、愚かさを 皮肉を持ってリアルに観察し描写 したものですが、一方人間の向上心にも素朴に期待を持つ人でしたので 今から 思えば滑稽なまでに ソ連に期待していたからという事でしょうし、それはベル グソン的な彼の「創造的進化」の思想とも関係あるのでしょう。 それは、 この曲の場面転換と重なり合います。勇気を持って立ち向かえば -前進- (ONWARD)1楽章 人間は過ちを犯すものであり、非人間的な機械の荒れ狂う「死 の工場」(FACTRY OF DEATH)2楽章 すらも、どんな「谷の影に永遠の光が存在 する」と信じる「LOVE」の気持ちさえあれば 3楽章 、かならずや そこに ending thema 「愛」が復活する・・・4楽章・・という 基本的には楽観的な 姿勢のショウ的思想のビジョンが、この4曲の流れによって端的にそして簡明に 現わされていることに注目すべきです。 こういういわば、進歩に類する発想は、陳腐なくらい当たり前のことにも思われま すが、その当たり前さが問題で、実はこの米英思想の潮流の重大な態度の特異さを読 み取るべきなのです。 例えば、ショウ自身が影響を受けていると信じていたマ ルクスの考えは決してそのようなものではありませんでした。個人的な誤りや善 意 愛の不足の集積によって資本主義的害悪が生じたのでは全くなく、商品社会 の剰余価値の運動を、生み出す社会的意識の近代的偏向という全体的 知識下的 問題 の結果にほかなりません。 ですから「人間を神の地位まで、地獄を天国の地位まで・・」という3楽章に関する 台詞は美的な文句でなく、非内在的な虚偽の仮定となりそのユートピアの温床ぐらい にしかならぬ ともいえます。 (実際ドイツ的感受性からは、ハープの鳴り響く3楽章は、無形態的に甘すぎる  ととも想像されます・・) ただその”甘さ”にも、一方で独特な現実感覚のニュアンスがこめられる特徴は見落 とせません。 端的にいって、ショーは、単純に「社会福祉事業」の推進を唱えていたので 全くない 事にも注目すべきです。 実際、戯曲では兵器産業”アンドルーアンダーシャフト”社長である主人公の父 の工場が、地獄の「死の工場」であるというのは、 善意の主人公の思い込みで、実は福祉施設の整った田園の先端的工場であり、 悲惨な物質的意味の労働者環境が幻として消えていくという筋は、いかにも皮肉です。 が、ここに物質的意味の社会主義が本質的問題でなくて、真の問題は その種の 慈善事業家魂の自己満足心の精神的難点だということを強調してバーバラに気づかせる ことになります。このことは、ショウのピュウリタン思考から、自然に出た皮肉な こだわりと言えるのですが、普通思われているのと逆に、「資本論的マルクス」に彼を 近づけているともいえます。というのも、物質的問題を霧散させてしまうこういう顛末 は、より「体系的に」生命科学技術、物的欲求の”明快な”処理制度?で、より完全に 近いところの「もはや困窮を知らない世界・・」を描いて見せたSF小説の祖 「すばらしい新世界」(1932)のオルダスハックスリなどの問題意識にも容易に発 展しうるという事があるのでしょう。オーウェルも含めたこのくらいの時代の発想 すなわち、20世紀の初頭は むしろ今以上に科学技術の即効性を信じられていたとい う背景から、この時代に この種の発想を取り入れた作品がまま見られる訳でしょうが 、しかし却って 技術論の本質から見れば今だに 最先端的 というのは変わらない。 ところで、改めて注目しなければならないのは、キリスト教であろうと無かろうと、 こういった筋は、物量的問題と価値の問題が極限形で論じられ分離されている点。 普通単に「唯物論」と呼ばれてしまうマルクスの思想は、根本的に唯物「弁証法」な のであって、教科書的説明に囚われずマルクスの論述自体をちゃんと追っていけば、 ありがちな即物的発想を説く人と全く異なることに気付くはずで、マルクスのいう 物質的なものとは、物質を重視する人間の思考そのものの運動。とでも乱暴にいっ たほうが通説を是正する意味で適当かもしれないのだ。その意味で実質的生活・非 華美・禁欲的なピューリタンとは普通思われているほど差はない。本当は、この位 視野を広げないと「資本論的世界観」の根本前提は納得できないし、それ無しでは KMの剰余価値や恐慌論などもまとまって理解出来ないのである。マルクスを考える とき、彼が戦略的に当時の労働運動と提携することが必要で、もともとマルクスは 労働運動と距離があったし、彼の主張とされているものはジャーナリスティックな 執筆をしたエンゲルスの由来であることも考えなければならない訳で、実は本当の 彼の主張は、そんなに現実に直ぐ結びつくようなものは殆どない。しかし彼は労働 運動との関係を得るために、こういった重要な点において誤解されることを好んだ のであったといえる。 そういった意味から考えれば、むしろGBS、OH そして0Hに特別な興味を寄せていた TWアドルノなどは、非自覚的にKMにつながっていたことも これから十分論じられる べき問題で、このような音楽の社会主義性を考える時にも、こういった広い意味付け は必要で、やはり参考なるので、このように触れておいてもいいでしょう。 とはいえ、逆に キリスト教的愛 ましてや 優良企業は、独立的 に普遍的に存在するものでなく、それ自身 根本的な「示差」をもつパラダイム であり、マルクス的基盤とまるで相入れません。(無神論というような単純で  むしろKMにとって派生的な類型で論じなくても→※マルクスの暫定的宗教論) さて、 そのようなある”イギリス的甘美さ”とでも言っていい部分に続くところの 終楽章の「楽観的」な独特の終わり方も、 謝肉祭 ピアノ4重奏曲 変ホ長調 交響曲などの終楽章にみる、シューマンと同様社会的な楽観性のマニ ュフェストと呼べるものですが、それでも シューマンの観念的夢幻的展開に対 し、ウォルトン的ファンファーレを伴ういきなりのENDINGは、楽観的とはいえ恫 喝するくらいの、あくまで目覚めさせる、リアルな眼前の「楽観主義」となりま す。 こういうリアルさの感覚も、2楽章のオスティナートと金属音の鳴り響く工 場描写のサウンドに(ここは資本論の自動化された機械工場の生命化した描写を 思い出させます)結びつき、また3楽章の”甘さ”と結びつくのは大変「独特の 感覚」です。 このような音楽で、各部分の性格が明晰に、しかもエンディング へと、息の長い皮肉なゆらぎをともなったメロディーラインによってつながれる ことで 独特なリアルなものが生み出されてきます。こうして全体としてショウ の思想・文章と同様、今も 決して 陳腐とは言えない、米英の本流的近代社会思 想の「戦略」の骨格を作るリアルなキャラクターを音楽で直接 体感できるので す。 ・・・・アンドルーアンダーシャフトと例えば、大戦後のロックフェラー?? ところで、この曲のこういうような意味を持った表情のつながりを、無視して 打楽器的音響やいかにも映画音楽風のムード的なところが、独立的に演奏されて しまうならば、それは陳腐なもののなってしまうでしょう。 ある意味、「素材」からいえば 古めかしく 調性にこだわって 前衛の自由さに 欠けている様にみえるWWの特徴は、すべての作品で意味や主張と結びついた非 センチメンタルな表情のシークエンスにこそあるといえ、それは欠けている部 分を補って余りあるのです。 シャンドスのマリナーを始めとする一連の演奏は、全体にメロディーや音質の緊 張感を 常にだそう としているのは、十分評価できるわけですが、さらにいえば その線で 表情が やや単調に陥る傾向は否定できないようです。(・・今後、 日本人が、WWを演奏する場合、いかにその意味の流れに対応し、かつ 結局 そ の単調さから来る攻撃性を抜け出した表現が出来るかどうかと思われます・・・) もうすこし付け加えるなら ”Major Barbara(Shavian Sequence)”が、 簡明ながら ショウ的世界観を ピッタリ(注1)と 描き表わした曲でありそう だ・・・という事。それは、裏返し してしまうならウォルトンの作曲作品として かならずしも典型的とはいえない感覚があります・・・ということ。(例えばショウは、 ”アイルランド的”であり、その特有のひとなつっこさの感覚をずっともちつづけ ていたひとでもあったようということを考えても良いかもしれません・・・) またこの曲は 映画音楽作品として有名なシェークスピア映画「ヘンリーX」 「ハムレット」「「リチャードV」における以降の曲が、其々の情景とつながった 多数の小曲による構成でなく、(これは映画の発達段階とも関係あるかも・・) かえって そういった今までもよく紹介されてきた曲に比べ、短いメロディーが独立 的にならないから、より一貫した大きな自然な流れが出ている点で 同じ41年の「マ クベス」と 同様 、WWの作品系列においても 貴重な作品となっているように思いま す・・・・・・

/  改訂部分など→ 筆者の99年9月頃のメールの記述を、HP用に付け足したもの。            マルクスに関する部分が、主としてこのテーマに関して面白いと思えたので            HP用にした時点で追加した部分・99年11月頃。また、2001年5月、新たに            他の増えたページの記述などの重複的な所又悪戯風の強調した書き方を、            止めるため、文尾8行くらいからの部分の記述など、表現を多少改めた。                        2002・5月;元の文が、いかにも唐突にマルクスに関する記述を詰め込ん            だカンジがあり、それがとても、悪ふざけ風なので、6行位加筆し、流れ            良くなるよう十数語書き換え、また不要な部分5行位カットした。            いきなりの詰め込んだ印象は残ったけれど、こういう方面の話題は必要だ            し、主張も基本的に正しいと思っているので、結構無茶な詰め込み風だけど            このようなこの曲に関する記述も残しておきます。            また、将来、こういった記述をもっと、やり易い便利な文脈の上で            展開するつもりではあります。                【付記】   『ラスキン、モリスらとその他の系譜。』・・・・・・・・⇒      ※『シュペングラーの思想についての覚書。』・・・・・・・・・・・・・・・・・⇒♯♯                  † イギリス映画「Major Barbara」                     2000年10月現在の時点では、一応 ネットでこの映画のビデオは、                    手に入れることも可能となっています。     ※(注1)・・・ショウは、ウォルトンに対して、ユートピアの部分は変ロ短調             にして欲しいな。と言ったそうである。もちろん、半分は冗談             だが、彼の意図は想像出来よう。