Note:

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      Bernard Shaw      Man and Superman(1903)    ⇒   O,Spengler
                                 Major Barbara(1905)

                        【A】
  
  ・・・・では、そのショーの思想を考えるとき、とくに著作『人と超人』Man and Superman(1903)を、細かく見ていくのが便利だろうと思う。      この作品は、彼の作品群の中でも画期的なもので、”超人思想”というものを、明確に打ち出してきた作品ということは、よく強調される   わけで、実際シェークスピアなどの戯曲を、考えるならば戯曲としては実に変な格好をした作品となっており、20世紀始めのリアリステ   イックな劇の 真ん中に、いきなりドン・ジュアンと悪魔などの宗教議論みたいなものが延々と差し挟まれている。   このすぐあとに、『メジャー・バーバー』(1905)といった作品があり、それは、実際内容的にも重なっている要素が強い。(2002年・11月20日)   『人と超人』という戯曲は、一つの大きな事件の展開にそって、必然的な流れがあって、結末がある・・というような物語でなく、相当、意   図的に、唐突な筋立てと、奇想的な中間部分、を置いて、ある喜劇的効果と非メロドラマティックな当時における斬新さも狙ったものであ   る。そして、人物設定に絡んだ思想的な会話の含みが、もっぱら最も重要となり、絡み合って当時の思潮と結びついた複雑で広大な主張を   する割に、万人が印象に残る大きな事件らしきものは何も起こらないで終わってしまう訳だから、むしろ、一見しただけではかなり、解り   にくい反戯曲的な戯曲の一種といったほうが良いかも知れない。それで、説明をする前に、ここでまず簡単に筋立てを整理しておいた方が   便利と思われる。   ・・・・時代は、ほぼこの戯曲が書かれた20世紀の始まりであり、ロンドンの有産者階級といった人々が中心の話しである。若いといえる男女   数人の現実の人間関係が物語の核で、単純に云うとまず主人公の”革命家のための小冊子”を書いた堂々とした風采の活発に語りかける男   ターナーと、その友人で優男の詩人オクティヴィアスの2人がいて、その詩人が崇拝するように愛している若い活発な女性アンがいる。し   かし、アンはこの話が進行するに連れて、オクティヴィアスの方に興味が無く、むしろそのアンを怖れ逃れようとしていたターナーの方を   積極的に求めていることが判ってくる。アンは、彼女の幼馴染みでもあるこのターナーが逃げ出すと、スペインまで追っかけていって遂に   結婚することにしてしまう。その筋に詩人の妹のヴァイオレットが、アメリカ人の若い男ヘクタ・マローンと密かに結婚し、結婚に反対し   ている相手の父親を説得する・・・・という伏線的筋が絡むというだけの話し(中間部分を除けば)となる。   もちろん、そういう殆ど劇的という展開もしない基本構図にウイットのある拡がりを保たす工夫がされていて、変化と面白さはちゃんとあ   る。    すなわち、もっと詳しく書けば、第一幕は、アンの父親が死んでこれからの相談をするオクティヴィアスとその父親の友人であり町の有力   者でもある年配のラムスデンとの会話から始まる。   ト書きに書かれた ラムスデンの人物設定 が重要で、1839年生まれ、子供の頃からのユニテリアン、自由貿易論者、進化論を進んで受け入   れた世代で、また 哲学的には H、スペンサー なども奉じていたりする人物で、さらに 芸術的感覚は乏しいがジョ−ジ・エリオットの肖 像写真を置いたり、”希望”などで有名で、ラファエル前派などとも少し近いところもある ジョージ・フレデリック・ワッツ の寓意画   の印刷版なども、ありがたがって置く趣味の人物であることも、からかい気味(ある種のよくある辛気くさいセンチメンタル趣味)にショ   ーは、描写している。そのラムスデンが、ターナーの書いたアナーキーな本が気に入らないことなどを、彼の家の客間でオクティビアスと   話しているところに、当人のターナーは入って来る。彼は死んだアンの父親の遺言に仲の悪い自分とラムスデンの2人が、よりによってア   ンの後見人とされていることを伝えると、その場は全くもめた雰囲気になってしまう。そこにさらに、その話題のアンと母親が入って来る   。ラムスデンとターナーが一緒に後見人になって欲しいと自ら頼むアン。一緒にされたくないラムスデンとターナーの議論はかえって対立   するが、結局、アンが”おじいさんとドン・ファンもしくはジャック(子供の頃の呼び名)”というようなあだ名で2人を呼ぶと議論はな   し崩しにされてしまう。ターナーとオクティビアス2人での、アンの人物論の会話がそこに挟まれたあと、突然、オクティヴィアスの妹が   今、二階にいて、しかも彼女は、未婚なはずなのに結婚指輪をしていて、しかも病院に行ったのを隠しているらしいという悪いニュースが   再び現れたラムスデンによって伝えられてくる。   このせいで、再び、ターナーとラムスデンの意見はまた対立し、自由恋愛は結構なことだ、と極論するターナーと、そんな道徳を乱す男と   は一緒にやれないというラムスデンの議論にまたなる。そういう危険な意見を持つもの自身が、ヴァイオレットを未婚のままにしておく妙   な事件の犯人じゃないのか?というラムスデンの攻撃となり、そういう可能性ならあなたにもあると、ターナーがやりかえす喧嘩沙汰、に   まで発展する。そこに、ヴァイオレット当人がやっと現れる。事情があって隠しておきたいことだが、ターナーのする変な弁護には絶対我   慢できないので告白するけれど、相手を今は紹介できないだけで、そもそも ちゃんと結婚していることなので心配しないでように、と彼   女自身が、発言し、このもめごとも終わる。結婚指輪でもって周りの皆が恥をかいたな・・・というようなターナーのラムスデンへ投げかけ   る言葉で、この物語の第一幕は閉められる。   第二幕は、馬車道で故障した自動車の下から、足を出している機械技術者のストレイカ とその車の持ち主で、ストレイカの雇用主でもあ   るターナーの会話から始まる。ハイド・パークの角からアメリカ人マローンの持っている別の新式の蒸気自動車と試しの走り較べで、こち   らは故障してしまって、ここまで随分時間がかかってしまったという話から、ストレイカという技術者は”新しい男”だという人物論にな   る。そこにマローンの車に乗って現れたオクティヴィアスがアンのことで話したいとやってくる。昨晩、彼女に求婚したのだが、彼女はま   だ亡くなったお父さんのこと以外は考えられない、といってこういうことは後見人の2人にまず相談してと言われた、と話し出す。ターナ   ーに、自分がアンを託せる人間だと云って欲しい、というオクティヴィアスの言葉には賛成し、協力したいが、そもそもアンに純真なオク   テヴィアスを託してしまうのが、心配で、何しろ彼女はオス蜘蛛を殺すメス蜘蛛で、詩人の霊感の対象にずっとなる女でない・・・というよ   うなアンの人物論に再びなってしまう。新聞を持って、この場に戻ってきたストレイカが自動車の速度記録の記事を持ってきて2人に見せ   いかにも参加したそうに云い、ターナーに勧誘したりしたあと、道を歩いてくるアンに出くわす。そこでアンとオクティヴィアス、ターナ   ーの3人の直接の会話になるが、すぐにアンはオクティヴィアスにアメリカ人のマローンの相手を向こうでしてきて欲しいと頼み、ところ   払いをさせてしまう。残ったターナーは、アンに君のやっていることはおかしい、と問いつめる。妹のローダに嘘をついて、自分と付き合   わせなくさせようとする一方で、オクティヴィアスにいつまでも気のあるようなそぶりを続ける。はっきりしない行動が多いのは母親と一   緒になって変な陰謀をしているのだろう・・と云い、アンが何か迫ってくるのを感じたターナーは、さらに追求を断るつもりで、そんな陰に   こもった行動は止めて、爽快な試み・・例えば当時としては破天荒な試みに近かった、自分のやるつもりのヨーロッパ大陸での自動車走行み   たいなことをした方が良い、と提案するが、意に反してアンはあっさりと受け入れて、自分も一緒に行くと言い出す。   一方、オクティヴィアスは、ラムスデンと一緒にヘクタ・マローンという若い客人を、そこに連れてくる。ト書きにある彼は、こざっぱり   した24歳の東部のアメリカ人で、若々しいアメリカ人的な自信を示す半面、30年位前のイギリス流の文学的教養を逆輸出しようとするよう   な(ショウのいうところの”古い”マシュー・アーノルドやマコーレなど)妙に一時代前の古臭いところがある人物・・・とある種の典型と   して描写されている。その彼は、アンやその母親など周囲の人間が行きたがるのを見て、自分も自分の自動車を使って、ターナーの言い出   した南欧への皆の自動車旅行に参加したい、特にヴァイオレット嬢と一緒なら、と語る。皆は、彼がヴァイオレットを気に入ってしまった   んだな、と思うがまさか、ヘクタがヴァイオレットと秘密に結婚している当の相手だと考えない。それで、実は彼女はもう結婚している夫   人なので、そういう誘いはかけない方がいい、と皆、忠告する。ヴァイオレットの意図を意識して、ヘクタはそれを聞くと、妻をそういう   立場に追い込んでいる隠れた夫に、大いに憤慨している芝居をする。ターナーは、そんな具合に大勢で自動車旅行に行くことになりそうな   ので、ストレイカ相手に、この計画でオクティヴィアスをアンと一緒に旅行させてやることになるから、彼から自分たちは随分感謝される   ことになるぞ、と話しかけるが、ストレイカはそんなことは全然だめでオクティヴィアスは最初から諦めた方がいい、と答える。ターナー   が何故だ?と訊くと、アンが最初からターナーの方を追っかけているからで、ご主人もそういうことは気付いているでしょう?というスト   レイカの的を突いた返答に、ターナーは驚く。「君の黄金時代が来たよ。」といって、記録破りにはフランス政府の禁止とかで、時間が   ないのだろう、すぐに海峡を渡って女を避けられる回教国まで行ってしまうんだ、という風に 慌ただしく逃げるように旅行の準備をしだ   す・・・。   ここ辺りの、強引な展開は、次の第3幕の妙な展開を含めて、かなりドタバタ喜劇みたいな流れで(全体に『チキチキバンバン』みたいな   映画を連想させるが・・)この幕を閉じる。   第三幕は全く変わって、スペインのオリーブ畑も見えるがサボテンの生える荒れた平原風の土地、に舞台は移り12人の浮浪人の集団、もし   くは、山賊みたいな人たちの会話になる。各国の社会民主主義者や無政府主義者等が集まった人たちとされていて「地中海の美しい沿岸を   けがす金持ち観光客ども」から、富を横取りして、労働者階級に戻してやるために、この禁欲の土地にいるという。そこに、アンから急い   で逃げてきたターナーとストライカの乗った自動車が通りかかり、身代金目的に拉致されてしまう。しかし、ターナーは、自分たちを”澱   と泡”から成ったものだ、といってのける冷静な男、ユダヤ人隊長メンドウサと妙に気があってしまう。彼の身の上話を聞き、かっての恋   愛の話にもなる。そして何とその相手の女が、ルイザ・ストレイカといってロンドンにいた頃、知り合った運転手ストレイカの妹だと判る。   ターナーは、「こんな荘厳な丘や空の中でいながら、ブルームズベリの3階にいるデモ文士みたいな」程度の発想だねと、批判するが、メ   ンドウサは、「このシエラ山は、あの女を想い出させるんです・・」といって、ルイザのための詩を作りだし、ターナーに批評を頼む。ライ   ムやリフレインの論評もそこそこに、ターナーは退屈な詩の朗読に眠くなって夢を見てしまう。・・・   この夢の部分が、第3幕の主要部分で、この全4幕の戯曲の4つの”楽章”の中の瞑想的なファンタジーといった性格の部分になっている   とも、云える。ト書きに譜例が3つ置かれていて、モーツアルトの『ドン・ジョバンニ』からの、音楽を各々4〜8小節くらい、楽器指定   を書き込んで引用したみたいなもので、始めのものは、ドンジョバンニの序曲で、その出だし、脅かすようなDの短和音を、3つ 鳴らし、   その後、オーケストラが付点の重々しいリズムで、このオペラのラストの地獄落ちのシーンに出るものと同じ性格のおどろおどろしい動き   を示す音楽が導入として30小節続いた後に現れるもので、Molt Allegroで急に軽やかな弦の動きでニ長調に移ってくる部分とほぼ同じ部分   の引用譜で、これが夢の中で青白い光の中で、精霊のヴァイオリンみたいな感じで聞こえてくる、というようなことであり、それが少しと   ぎれるとさらに、もう一方の譜例の音楽が薄気味悪い吹奏楽器の咽び泣きで聞こえて来るという。それは序曲で云うと先程の軽やかな部分   が進行し、より活発に展開していってEの音に落ち着いた後、低音弦が下降するオクターヴの5つの音を闖入するかのように響かせた後に   出てくるフレーズに似たもので、少し変形されてDの長和音に結びつけられる。そこから話は70歳になって死んだというドンナ・アンナ   も、地獄に行き、そこでドン・ジョバンニと再会し、また殺された父の騎士長や地獄の悪魔も登場し、延々と地獄と天国、生の力、男女の   問題などのかなり複雑な議論になる。この夢の中の会話として展開される話は、1,2,4幕のストーリーや内容と決して無関係でない。という   のも、まず、ト書きにあるようにドンジョバンニは、ドン・ジュアン・テノーリオだから、ジョン・ターナーと同じであり、また、ここで   その夢の中の人物は、容姿もターナーに似ていると書かれてある。また、ドンナ・アンナは、アン・ホワイトフィールドであり、夢の中に   は出てこないが、ドンナ・アンナの恋人、ドン・オッタヴィオは、詩人オクティヴィアスであり、もっといえばレポレロは、ストライカで   、ヴァイオレットとヘクタも、ツェルリーナとマゼットを想い出させるところがある・・etc。つまり、この夢の中の『ドン・ジョバンニ』   の登場人物たちの会話は、本筋の登場人物が別の姿を借りて、その思想的内容をより詳しく主張している格好にないっている。もっといえ   ば、この『人と超人』という戯曲は、モーツアルトの『ドン・ジョバンニ』を裏返したような内容を持っているといってもいい。・・・・   こういう夢の部分は、超人を作るという話で目覚めて終わる。この夢を同時にメンドウサ隊長(ディヴァルという仲間を持つ一味の隊長・・   ・夢の中の悪魔の一味の隊長?・・メフィストテレスの笑み・・・)も見ていたのだけれど、その彼らが、寝込んでいた間に、ターナーを「真の   シャーロックホームズのような」嗅覚で追っかけてきたアンと、同乗するラムスデン、オクティヴィアスとヴァイオレット、ヘクタの車が   やって来る。また拉致グループの周りを、救出のための軍隊が取り囲む。 ターナーらは、助けられる。一方、山賊メンドウサたちも自分   の護衛だから・・・とターナーは、ゴマカシて説明し、彼らをとがめず、放っておく。   第四幕は、そんな大騒動のあと、全く逆の同じスペインのグラナーダのある別荘の豪華な庭園の中の話しで、芝や幾何学状の花壇、丸い水   盤、噴水、切り込んだイチイの植え込み、など近くのアルハンブラ宮殿風の別世界になっていて、その周辺にもう大体、車に乗っていたロ   ンドンでの登場人物たちは皆移ってきている。ストレイカに介されてまず登場するのは、新たな人物、ヘクタの父のマローン氏で、その彼   とヴァイオレットの2人のこの庭の中での会話から、この幕は、はじまる。 このマローン氏の人物像は、黒いフロックコートとシルクハ   ットの上等な衣服を着ても、十分紳士風が似合わず、作業服の頑固おやじの感じが残り、またアメリカ人といっても、アイルランド訛が最   初の一言で、もう感じられる人。彼は、息子のヘクタが結婚するのに反対で、逆らって結婚するなら、財産や現在のヘクタの生活の経済援   助は一切やらないと言っているから、そもそも、ヴァイオレットが、自分のヘクタとの結婚を周りに隠している訳なのである。   詩人の妹ヴァイオレットは、アンよりももっと端正な容姿だが、アン程、自由活発なところがなく、少し堅苦しい感じの女性。けれど主張   がない女性でもない。マローン氏とここではじめて会ったヴァイオレットは、相手の「私の父は餓死したのです。私と母は、イギリスの法   律によってアイルランドを追い出され、アメリカに渡ったのです。だから、私たちは、イギリスに来たのも、イギリスを買いに来たので、   その一番良いものを買わなくちゃならない。だから、息子の嫁は上流の貴族じゃなくちゃならない・・・・」というような、馬鹿な主張に、毅   然と反対し、経済に関することでも安易に一歩も引かないことで、イギリスの中流階級の女性のしっかりしたところを見せつけ、途中から   ヘクタといっしょになっての抗議で、結婚の許しを勝ち取る。途中、ヴァイオレットが別の男性と結婚しているとばかり思い込んでいるタ   ーナーが、変な加勢をしかけて話はこんがらかるが、ヴァイオレットは、身を起こして億万長者となり、当時の大きな新興勢力となってい   る父マローンのイギリスでの不動産売買のアドバイスまでするくらいうまく父親の説得に成功する。続いて一方、ヴァイオレットの兄のオ   クティヴィアスは、ここでアンにプロポーズの最後の試みをすることになるが、あくまで詩人的な言葉に、結局 ふられてしまう。逆に、   ターナーは現れたアンの母親に、さんざん彼女の悪口を言うが、ターナーに近寄ってきたアンはターナーのいかなる言葉もものともせずに   受け入れ、抱擁し、結婚の運びになってしまう。結局、「幸福を捨て、自由を捨て、安静を捨て、未知の将来のロマンティックなことを捨   て、家庭と生活の面倒をここで受け入れた・・」とターナーに認めさせる。そして、結婚はするがこのまわりの無駄なものを売り払って自ら   の「革命家のための小冊子」の無料配布をする、という宣言と、それに対するアンの「もっとおしゃべりを続けなさい」との言葉に、「お   しゃべりだと」というターナーの苦笑混じりのセリフでこの戯曲は終わる。(2002年・12月18日ここまで書く・・)         と わたしが、勝手に整理・要約してスジを示すと、以上のようなものになる。(皆さん、ショーのこの本に直接目を通して以上の要約が   さして無理のないものだと、確認して下さい・・・)   だから、この『人と超人』Man and Supermanという作品は、そのタイトルが大げさな割に、物語において深刻な事件らしいものが、ほとん   ど起こらないし、主人公のターナーも革命家?らしいが、何をやってくれているのか?と問いたくなるのは別に間違ってもいない。しいて、   ”革命家ターナー”が、やっていることと云えば、技術者ストレイカを率いて、始まったばかりのモータリゼーション時代に先駆けて、南欧   の自動車旅行を敢行したことぐらいで、あとはいわゆる私的なことばかりだとも云えるから。とはいえ、自動車のスピード競技にかけるよう   な情熱だけでも、それは F・ニーチェの以下のような引用にみる感覚そのままなのではある・・・・        ○もちろん、自動車社会が、無条件に正しいものである訳がない。以後、問題点や難点が、多く生じてくるのは衆知のこと。(2003/1/18)    『・・・節度は、われわれに縁遠いものである。われわれの欲情は、まさに無限なもの、莫大なものの欲情にほかならない。      さながら、鼻息も荒く、疾走する馬上の騎手のように、われわれは無限なものに向かう奔馬の手綱を手放そう。われ      われ近代人、半野蛮人は、しかし最も甚だしく、危険のうちにあるとき始めて、われわれの至福のうちにあるのだ。 』   という、部分は『善悪の彼岸』の7章”われわれの徳”224:で、歴史的感覚とは、”すべてのものに対する感覚と本能、すべてのものに対す   る趣味と味覚である・・・とニーチェは書き出し、そのあとの この224章を締めくくることばがこの箇所である。すなわち、19世紀末の西欧   人は、かってのヴォルテールなどの時代の人々に較べると、ずっとホメロスなども味読できるし、シェークスピアなども、そのイギリス賤民   の雰囲気と界隈に惑わされず味読できる、しかし それにもかかわらずわれわれに「趣味がある」とはいえないのだ、という。というのは、   完成された全ての事物が示す黄金色の冷たさ、滑らかな大海の自足の瞬間が困難で、ここには、われわれの持つ”歴史的感覚という徳”と良   き趣味が必然的に対立してしまう、という。その意味で画期的な時代に向かおうとしていることであるが、これはショーの戯曲の主人公ター   ナー的な問題でもある。実際、第3幕の終わりや、第2幕のト書きでマシュー・アーノルドなどと対比した新思想としてニーチェの名前が直   接挙げられているし、タイトルを考えても当然ニーチェの考えに触れることなく、この本を論じることは出来ないし、そして、まさにそのこ   とにおいて、前述のようにシュペングラーが興味を寄せているわけだから、2人の関係にニーチェを絡めて捉えることはどうしても、以下   必要になるだろう。(2002年・12月19日、ここまで記載)   さて、その”自動車旅行”を一緒にするターナーとストレイカの人間関係は、この本全体においても、非常に重要な問題とつながっている。   ストレイカが、最初に登場するときト書きの役名は、「両足」となっていて、見下ろすターナーと会話している。それが、運転手、ストレイ   カと変わっていくのだが、彼は、大体においてむしろターナーをやりこめる役回りになる。彼を脇に置いて、ターナーは、オクティヴィアス   に、このストレイカは、かっての教養人が望んだ”新しい女”でなく、画期的な”新しい男だ”と論じ、またイートンだ、ハローだ、とかい   うが、それは子供に階級を付けて売ってくれる子供置き場、店でしかなく、ストレイカのいっていたシャーブルック・ロードなるものは、子   供たちが何かを学ぶ場所だ、というようなことを調子に乗って発言すると、脇のストレイカは「判ってないですよ。役に立ったのは小学校で   なく、工芸学校ですよ」と突っ込みをいれたりする。ターナーとオクティヴィアスが、アンのことで言い合っている時も、「あたしの知った   事じゃないんで・・」という態度だし、さらにターナーのオクティヴィアスとアンを一緒にしてやると2人に感謝されるぞ、というような話を   しつこくされると馬鹿馬鹿しいというように、ストレイカは、口笛を吹く。その口笛をターナーに批判されると、分かりきったことのように   、始めからオクティヴィアスには脈がないんで無駄なことで、勿論、狙いはあなただ、とストレイカはハッキリと言い返す。また、この話の   結末で、ターナーとアンが強く抱擁し合った結果、アンが今日見られない、19世紀的な失神という現象に陥ったときも、ストレイカは一人冷   静に皆に集まらないで換気をよくするように注意する。そして、ターナーの引用を、ヴォルテールじゃなくて、ボー・マル・シェーだと言い   返す教養もある。 そういったことにもかかわらず、結局 ターナーは、ストレイカと「労働組合の承認を経てきている、われわれ2人の契   約」「雇い主の私事をもって煩わしてはならない雇主と技術者の関係」(2幕の終わり近くのセリフから)以上の、違いも前提にしている。   それは、結局ドン・ジョバンニと、その悪行に従いつつもぶつぶつ文句を云うレポレロとの違いと似ているし、そしてターナーは、そのスト   レイカの妹に恋愛詩を書くリーダーを持つ社会主義、無政府主義のグループに拉致されるが結構気が合い、最後にも罪をとがめないし、その   幕のト書きの念入りな説明にも関わらず、やはり、彼らは”山賊”の一味であるというのと、同じような理由でもある。   その理由は、夢の中の登場人物、ジョン・ターナーとほぼ同じ人間らしい、ドン・ジュアン・テノーリオの発言から、考える必要がある・・・   「・・そうだ、言葉にすぎないのだ。美や貞潔や道徳、芸術、愛国、勇気、それらはみんな言葉に過ぎないもので、僕だけじゃなく誰でも、     手袋のように勝手に裏返しに出来るんだ。・・・野蛮人をだまして、文明を注入したり、文明国の貧民に、搾取され、奴隷にされたりし     ても、おとなしくさせておくために役立つような。それは支配階級の内奥の秘密なので、その階級に属している我らが、自分たちの     下らない各々のことのために、より権力や贅沢を求めていくことをせずに、世界のために、もっと大きな生を目的とすれば、その秘     密のために我らは、偉大なものとなるのだ。僕は貴族だから、その秘密をやっぱり知っている訳で・・・・」(3幕夢の部分の後半)   この主張は、ターナーが、ヘンリー・ストライカの自分の名のHを発音できず、エンリとなってしまうことなどにこだわっていたり、また   「生の力だ」と何度もターナー自身が、発言していることと重ねて理解して、レポレロ的なものと分かたれる理由は、言葉によって、そ   れが、善だ悪だとか、美的だ、美的じゃないとか、意味や価値を与えることが、貴族の内奥の秘密であって、本来誰にでも出来る(分か   りやすく云ってしまえば、その勇気を持てるか持てないかと云うことだから・・・)ことだが、やる人とやらない人の違いで、そういう貴族   的なもの(実際的に、それは少数の人々)が、”大きな生”というものを、目的とするなら、くだらない各々自らのためでない、社会主義   的な”大多数の福祉”とも矛盾しない、ということを含意している。   (もちろん、この考えの新機軸たるゆえんは、ニーチェの主張を念頭に置いていないと、意味が分からない・・・・)   こういった”高圧的”と受け取られかねない一部の人々を指す「貴族的」という概念と、多くの人の福祉、もしくは「社会主義的」概念が、   矛盾対立しないというような考えは、実際 シュペングラーのなかでも、大変 中心的な思想として語られる事柄になる。   「・・・ニーチェの”奴隷の道徳”は、幻影である。”主人の道徳”の方は、現実である。これは、構想されることさえも、必要としないの     である。・・・精力的な、命令的な、動的な文化の型として、今日 現に存在し、そしてイスランドの神話時代に既に存在していたファウ     スト的人間自体である。・・・われらの偉大な善行者とは、数百万人に対する顧慮と配慮とを持つ偉大な行動者で、大政治家、大組織家で     ある。・・」(1巻5章・12 p323)   「社会主義--その一般的な市井の意味でなく、最もいい意味で--は、あらゆるファウスト的理想と同様排他的理想である。 」                                            (1巻5章・12)   「社会主義とは、倫理的なものに転換された、のみならず”命令法”的なものに転換された 経済学である。・・・・」                                            (1巻5章・18 p339)   「仏教とストア主義は、涅槃とアタラクシアの理想において、社会主義と同様な”機械的”気分に満ちたものだが、しかし、拡がりという    動的な情熱、無限に向かう意志、3次元の情熱を知らないのである。・・・・ストア主義者は順応する。社会主義者は、命令する。・・・・・」                                           (1巻5章・17 p334)   「この魂は、自己のコロンブス的憧れのために目的を必要とした。自己の活動に意味と目的があることを”装わなければ”ならなかった。    ・・・西欧文明の知性全体の中には、暗黙の感情があって、この息も絶え絶えになった情熱は休むべきでなく、休むことの出来ない魂の    絶望的な自己欺瞞であるといおうとしている。この悲劇的位置ーハムレットの動機の逆転ーから、永劫回帰というニーチェの強制的    思想が生じた。・・・」                              (1巻5章・17 p335)   ニーチェは19世紀のヨーロッパの思想に蔓延するとする”奴隷道徳”に対して”主人道徳”を説き、その畜群願望に鉄槌を下した・・とされる   訳だが、それについてシュペングラーはそもそも西欧精神において、発想は何でも、「命令的」であり、「主人的」であるという。(命令的   ー主人的ー貴族的・・というのは、この場合ほぼ同じ意味で用いられる)だから、一見 反社会的なようにに見えるニーチェの”主人道徳”の   主張は、西欧社会では、本来的な当たり前のことで、一方で 世に蔓延するニーチェの批判する”奴隷道徳”的な多くの主張も 皮相的な”幻   影”にすぎないものと捉える。というのも、シュペングラーの文化・文明の発展段階の”同時代”に対応する、仏教とストア主義、社会主義   も、そのインド性、ギリシャ・ローマ性、西欧性、において、”形而上期の大様式の時代”(本稿、冒頭部分参照)は過ぎ去って、非生産的   となった文明期の”倫理的時期に”入った頃の産物で、倫理の表面的な合理性を指向する”機械的”気分に満ちたものとしては同じだが、し   かし一方で その類似にもかかわらず全く別、 という面がある。   すなわち、例えば 非西欧のストア主義は、その発想が本質的に、”順応していこうとする態度”の倫理であり、本質的に個人的、個々のもの   で”拡がり”がないが、西欧文明の社会主義者は、その表面的なイメージとは、別に ”命令的”に他を圧する性格のもので、また個人的な勝   手なものでなく、社会全体に拡がりを持つ指向から逃れられない。そしてむしろ、こういう西欧の魂は、その傾向から 絶望的なまで逃れられ   ない(強制的永劫回帰・・)のが、重要なことでハムレットのような判断留保、優柔不断を受け入れては、より決定的な悲劇を自ら敢えて受け止   めなくてはならないことを意味する。だから、西欧社会という魂にとって、社会主義が、むしろ主人道徳的に休みなく実行され、拡がっていく   ことは、不可避でもあり、その意味で自らの”大きな生”の目的を実現させることでもある。   また、シュペングラーはここで、ニーチェと微妙に違った”悲劇的道徳”と”賎民的道徳”の区別を付け加えていることも重要で、   「すべての倫理学は、魂が自己の運命を見ることを法式化することである。悲壮にも実際的にも、偉大にも平俗にも、壮年的にも老年的にも、    わたしは悲劇的道徳と賎民的道徳を区別する。ひとつの文化の悲劇的道徳は、存在の重圧を知りこれを理解する。しかも、その重圧に耐える    という誇りの感情を引き出してくる。こういうのが、アイスキュロス、シェイクスピア、バラモン哲学の思想家、ダンテとゲルマン的カトリ    ック教であった。・・・(一方)エピクロスとストア、仏陀時代の諸派、19世紀の賎民道徳などは、運命を回避するため戦闘計画を立てる。    アイスキュロスが、偉大になしたことをストア派は、小さく行った。これは、生命の充実でなくて、貧困・冷却・空虚である。ローマ人は    この貧困・冷却・空虚を大規模に誇張したに過ぎない。西欧のシェイクスピア、バッハ、カント、ゲーテらの偉大な巨匠のバロック的倫理    的熱情、すなわち、自己の下に低くあると信じる自然的事物を、内的に支配しようとする男性的意志で、それに対して、このヨーロッパの    近代性の意志になると、自然的事物が自己と同一平面上にあるゆえ、これを外的に排除しようとする。すなわち、配慮、人道、世界平和、    大多数の幸福・・の形をとって。この関係も、(さきの西欧以外の場合と)同一関係である。この西欧の”外的排除”も、ギリシャ・ローマ    的意志の不可避なものに対する”忍従の態度”と違う、権力意志で行われる。・・・・」                                           (1巻5章・13 p328)   ニーチェの指摘する奴隷道徳は、”幻影”に過ぎないと考える一方で、シュペングラーも19世紀の西欧に、そのような傾向があるのを認めて   いる。それは、命令法的なものである”主人道徳”に対立する概念としての”奴隷道徳”でなく、文化-文明の共通の末期現象の形態としての、   かっての盛期を示す”悲劇的道徳”が失われていったものとしての”賎民的道徳”として、こういったものを捉えるやり方になっている。   この例と似た格好で、シュペングラーのいろんな概念装置みたいなものは、歴史感覚、貴族的僧侶的、科学論、フリードリッヒ的なもの、アポ   ロン的、末期の文明の矮小化、宗教観、民族的差異の問題、etc・・明らかに、ニーチェから直接受け継がれ、しかも、それらの概念を、ある観   点において、”ズラす”という、操作をして作られている、というような言い方をしても、それなりに面白いかもしれない。   『西欧の没落』の中だけでも、ニーチェ に関する言及は、とても多いし、その解釈は重要な要素をくみ取っていて、ニーチェの後の世代の   創造的理解の代表的例といったって良いと思われるし、また実際、ニーチェの遺稿を管理するニーチェ文庫(ニーチェ・アルヒーフ)と1919年頃か   ら、付き合いがあり賞をもらったり、1923年には、その役員にもなっているらしい。そして、ひどい反ユダヤ主義者と結婚して南米に移住し   たり(その人が自殺してまたドイツに帰ってきたらしいが・・)『権力の意志』などで遺稿の偽造・でっち上げの疑いなどのあって いささか   評判の良くない”野心家”ではある人物なのだけれど、ニーチェの妹エリザベート(1846〜1935)とも実際に交流を持つなど、シュペングラ   ーは、ニーチェその人の周辺とは現実のゆかりもある。       ( 1935年、シュペングラーはエリザベートなどへの強い不満から、         エリザベートならびにニーチェ文庫と絶交している。               ※35年エリザベートが死んでいるし、36年シュペングラーも死去・・・)   上に挙げたような、話題に関してもっと理解するには、いわば”元のニーチェ自身の考え”を幾つか、少々ここで見てみることが必要になる。   ニーチェは”思想の大様式”ともいえるような(ある意味哲学用語的)考察が貧弱だというようなことを、シュペングラーも論じているのは、   本稿始めでも書いたが、ニーチェ自身、自分の思想の理論内容を最もまとまった形で端的に示す作品として、『善悪の彼岸 JENSENTS VON   GUT UND BÖSE』(1886)『道徳の系譜 ZUR GENEALOGIE DER MORAL 』(1887)をあげているし、特に『善悪の彼岸』には、確かに長く   はないが、非常に重要な独自の思想がいろいろのべられているのは、やはり注目しなければならない。   ニーチェの哲学というと、非常に”高圧的”な印象、もしくは”ある種の道徳的無責任感覚”で、紹介する人も そんな感じで”影響?”を受   けている人が多くて、何かイメージが悪いとまず思う、のは不思議じゃないかもしれない。(わたしなども前はそんな感じに思ってたけど・・)   確かに、貴族的、奴隷道徳、賎民、権力、「力」などという、大変 刺激的な難点のある言葉だけを見ると、嫌気がさしてもしょうがない訳に   なる。けれど、そういう”単語”に拘らず、ニーチェ自身の話を内容を追って、言っていることを考えると、やはり、大変 あるもっともなこ   とを云っている ”正直な人”(ニーチェ自身、われわれの徳として、そんなことも論及している・・・)そして、根本的に”西洋音楽的な人”と   考えるのが、先程並べた”単語”よりも実相に近い。(此処まで2003年・1月2日)   例えば、『善悪の彼岸』は、うち第4章は、間奏曲とされる箴言集となっているが9つの章と”後歌-高き山々より”というさ程長くはない詩と   で出来ていて、1〜3、5〜9の章でニーチェはむしろ正面から哲学的議論に答えようとしている。(以下、括弧内数字はこの本の段分けに与えられた数字)   第1章は、「哲学者たちの先入観」と題されていて、非真理を意志する哲学が、可能でないか?という話から始まって、ストア派の”自然に従   う”や近代的理念としての真理への意志を否定的に捉え、カントの先天的綜合は全く”可能であるはずが無く”、霊魂の原子論にも戦いを挑ん   だりする。   また物理学などは”世界の説明”にならないとされ”合法則性”の説明は”拙劣な文献学”(22)であり、 感覚論や、自己保存の衝動また”   自己原因の説”を一種の”迷信”(17)として捉え、自己観察による”直接的確実性”に反論する。(16) ”我思う”などにについても意志は多   様で、”強い意志””弱い意志”しかなく、”心理学”は”力への意志”の形態学(23)などにならねばならないが、そのためには研究者の無意   識の抵抗(先入観など)と戦っていかねばならない(23)等々・・・。   第2章は、「自由な精神」と題され、ニーチェ自身が”水平の自由主義でない、われわれの自由”(44)を得るための方法を論じるようなところ   で、”学問は誤謬を愛する”といい(25)、”自分の城と隠れ家”をもつこと(26)、”理解されないようにすること”(27)であり、青臭い”良   心のやましさ”は危険(30)で、”強さ”をもった”独立”(29)で、”快速調”(28)で行くことであり、結局”世界は迷妄”(34)であり、”深い   ものは仮面を愛す”(40)のであり、これからは”独立に必要な心得”が必要となるし、”未来哲学者は誘惑者”(42)というものだろう、という。   またこの章で”力への意志””欲望と情熱”が論じられ(36)、人間皆 の”共有の良いもの”など有り得なく(43)、”フランス革命も茶番劇”   (38)で、西洋文明の”原典が解釈で消滅した”現象として論じる(38)。   第3章は、「宗教的なもの」と題され、結局、宗教は”利用されるべきもの”であって、”それ自身が究極化すると大きな代償”が必要で、そう   なってはならないと明言している。(63) すなわち、宗教的ノイローゼに3つの摂生法があり、孤独、断食、性的摂生(47)で、生を偽造するも   の(59)であるのだが、大衆に服従を満足させる、上昇志向を可能にさせるなど効用ももつし、新約旧約、ラテン文化、ドイツ、古代現代などで、   場合により違いも考えねばならぬ。(48-53)また、主語述語概念の問題にもつながり、近代の”魂の暗殺””キリスト教の根本前提の暗殺”が   、そこから起こっている。   第5章は、「道徳の自然誌」で、従来の”道徳の科学”などは、”不器用で未熟”なもので、そんな呼び方自体”良き趣味”でない。”価値の   巨大な類型学を準備する必要があるのに、”道徳の基礎付け”は、そんな準備無しにやられた。(186)”道徳の本来の問題は、多くの道徳を比   較することで初めて浮かび上がるもの”なのに、”今までの道徳の基礎付けは自分の道徳表現の一つの手段”。(186)また、”道徳はその創始者   の自己弁護の形式だ”と論じ、自然の道徳的命令は”さもなくば”が付き、決して定言命法でないという。(187) ”解体期の人間”は安息を   求め、冒険的危険な人間を排す意味で、”畜群津徳”が支配するし、”刑罰の軟弱化”も必要となる。(201)   第6章は、「我ら学者たち」で、近年の学者というものの持つ問題を論ずる。科学の哲学に対する優位に反対し、ショーペンハウアーのへーゲル   批判なども、”ドイツ文化との連関から切り離すことになってしまった”もので、本来 ドイツ文化は”歴史感覚と予言者的繊細”にあったのに、   そういったことは”哲学に対する畏敬を根本的に破壊してしまった”という(204)。”魂には、順位があり、問題には順位がある”といい(213)   ”学問的労働者”と区別されなければならないとする。”生む””生まない”が大事な違いで、学者はしばしば”オールドミス”みたいになると   いう。(206)(←私が言っていることでなくニーチェが書いちゃっている表現ですね。モチロン・・・ ) 認識と創造、力への意志が大事で(211)、   ”大胆な男性的懐疑”を持った価値基準の研究、統一的方法の意識的的行使(210)が未来の人物像に望まれるものとする。   第7章は、「われわれの徳」で、19世紀末のニーチェの時代の西欧人の徳の特徴を述べる。が、普通云う「徳」というより、ある明らさまさ、と   いうもので、むしろ普通云う”道徳性”に、イギリス的キャントなどと同様に全く反対し、そうでない、ある種の”正直さ”こそわれわれの徳だ   とする。そこで、かなり露骨な女性批判をこの章の後半で展開する。(それでも、ぎりぎりの品位はある内容だけど・・)   第8章は、「民族と祖国」で、ドイツ、フランス、イギリス、ユダヤ人など西欧にいる諸民族の諸特性を比較するというような章。ここで、重要   なのは統一的ヨーロッパへの指向の存在と、国粋主義的妄想・病的な状態(256)と ある郷土的美質?といった対立的でもある立場が、微妙に混   屯とした形でわざと述べられていること。また、ドイツ音楽、特にワグナーへの愛と批判の論評。さらに、イギリス人は、”何ら哲学的な種族で   ないとされ(252)、そして賎民主義的な近代理念はイギリス性だといい(253)、また”人道的なイギリス人”には”その音楽の欠如”(252)が明   らかであるなどという・・・・etc   第9章は、「高貴とは何か」で、結局、ニーチェの求める美質である”高貴”というものの諸相を描き出そうとする。それは、また”ディオニュ   ソス神をえがく(295)ということでもある。特に、”主人道徳と奴隷道徳”(260)が、諸所の道徳をみると、存在するという。そこから、利己主   義は、正義ゆえの魂の本質(265)とし、それは虚栄がない(261)。またそれは、”位階に対する本能”でもあるとする。一方、月並みなものは、    卑俗なものであって(268)、また末期の文明は矮小化していく傾向がある。(266)さらに、”食卓をひっくり返す人”がいるという。超然と生き   ること、そして、ホッブスに反対して神々は笑いを好み、笑いの順位で哲学者の位階が決まるともいう。(294)・・・   以上、本来、小説の筋を追ったり、と同じ訳に行かない”このような”本の要約を、相当 乱暴だが敢えてやってみた。というのも、一般にこのよ   うな本の要約は、大体内容に触れない程度に無難(ミスを突っ込まれないように)にやり、あとはどうでもいいような細部の方に話を持っていくよ   うにして尤もらしくしておく、というやり方が普通 好まれるから。むしろ、翻訳の問題とかで微妙なことは、全体の論調の流れを見た方が、正し   く掴めることが多い。また、元来 書いている方も一語一文で考えているわけでないのだから変な部分的調べ方は却っておかしくなる。この9つの   章の内容は、それぞれのタイトルのテーマに沿って説明を展開している訳で、完全に別なことを書いているというより、9つの方向から同じものを   見て各々の方面から描出しているといったほうがいい。だから、論法とか議論の題材というのは各々で、結構重なる。並べて考えて改めて、特に大   事と見えるものは、ショーペンハウアーを継承する”意志”の問題と余り言及されないことだがニーチェにおける、いわゆる”魂”の問題の重要さ   で、箴言集の第4章を含めた9つの章の全ての中核に関わっている。(2003年・1月8日、ここまで) 一般に単なる”無神論”みたいにニーチェの思想を考えたり、しかもニーチェの生きた時代の19世紀後半以降の状況の目立つ背景である”科学”   によって迷信的な”神”の考えを払拭するため、「神は死んだ・・」などという言葉が出てきていると受け取ってしまうのはありがちな、甚だしいマ   チガイというべきで、また、西洋の神というややこしいものを厄介払いしてくれるものとしてニーチェ思想の都合のいいところを利用するのも、同   列の難点がある。日本などでの場合は、そういう傾向が生まれたのは当時の限界もしくは状況的に仕方のない面もあったにせよ、そういう受け取り   方は反対方向かもしれないがナチ的な受け取り方と少々類似する不実な切り捨ての解釈といえなくもないし、結局、ある意味もっともニーチェ的で   ない表面的な”社会的欺瞞”また それゆえの”社会的硬化”の遠因になりはしなかったか?(元々、それが良心と優秀さを持った人たちから発した   ことだったにしても・・・・・・・)◆追記→(2003/1/29)       ニーチェの論調には、こだわらない生き生きした充実した美質が、根本的なものとしてあり(小児ということばを使わないでも)、それは多分にこ   ういった問題の考察によっている。実際 上に一応要約した1章にありそうな考えを抜きにすれば、そもそもニーチェを頼りにする必要性があるの   か?と問うていいし、また”魂”といったことと強く関連する”科学”とは、全く人々に膾炙している”ある考え方”で、重大なものがある。それ   は、端的には宇宙開発みたいな組織的なそのような話題とされる事柄を説明する人々のしゃべり方や社会的な存在など、において埋め込まれている   一定のパターンの態度と云って良く、現代では非常に普通のものだ。        それは全ての面において、単純に”合理的”とは、全くいえないし、”最も合理的”ともいえない。むしろ、それが単純に合理的と思う人は、”科   学”というような発想で話す時の”空虚な”部分に必然的なくらいに侵入してくる、土着的な思想の無言の専制を行使しているだけになる。(もし   くは、ニーチェ的な言い方に止めるなら、不可避に別のものとしての”ひとつの価値創造的な力を必要とする”もの・・・cf:『道徳の系譜』第3論   文25なども参照) 逆に”魂”などといっても、新興宗教やオカルトみたいな”不合理なイメージ”を持たせようとするのは、論外のことで、そも   そも「われわれは、合理的でなく、考えることなどは出来ない・・・」(LW)のである。      ◇ 技術において、単なる生活の必要性、目先の目的でなく、持続的に様々な注意を向けることは、不可欠なのだが、         それが従来の果てしなく不安定な流れの中で行われるのでなく、ある原理的なものへの関心、そのゲームの中で         行われるという期待は持てはしないのか?上に述べた”科学”という発想から、容易に起こる”科学信仰”また         その意味での”疑似科学”の傾向を強めた”芸術”には、一般に警戒すべきで、それは至る所から不実なものを         集め、その本来の姿をくらまし、虚しい”あぶく”を作り出す。(2003年・1月19日)   「人間の魂とその限界、これまでに至った人間の内的経験の範囲、これらの経験の高さと深さと遠さ、魂の従来の全歴史とまだ汲み尽くされない    諸可能性、これは生まれながらの心理学者と「大いなる狩猟」の愛好者には予定された猟場である。しかし、どんなにしばしば彼は、絶望して    こう言わずにはいられないことか。”一人だけだ、ああ、ただ1人っきりだ。そして、ここは大きな森で原始林だ!”と。」                                                 (『善悪の彼岸』第3章 45 冒頭) 『ツァラトゥストラはかく語りき Also sprach Zarathustra(1885完成)』でも、”魂”に関して主人公などは頻繁に言及しているし、最も核心に   関する話題で、つながってくる。また、宗教や従来の道徳的権威、ワグナー的なもの、不毛な学者根性の顕れたもの、社交界に疲れ、農夫に憧れる   贋物めいてきた王など、というかたちで、一応最後の第4部において、それまで1,2,3部で、山上と人界を往復するうちに、ツァラトゥストラ   の議論が人物化してきた9人の”高人”たちは、大体、『善悪の彼岸』の各章で批判される話題に相応する。すなわち ツァラトゥストラにすり寄   りつつも、彼らは”ロバ祭り”に酔い、その夜のうちに姿を移したツァラトゥストラと離れてしまう。朝となってこの書の冒頭と似た描写の状況の   中、獅子に襲われて 結局、消し去られる人物たちになっているところのその高人たち9人とツァラトゥストラとの関係の内容が、『善悪の彼岸』   の9つの章と後歌の内容にある程度類比的ともいえる。(ここの人数が変な記憶違いになっていたので修正2003/9/21いわゆる”魂”に関しての問題の広大さと   根源性が、われわれの直面する今日の困難な様々な諸相と、聖典的な戯曲の姿をとりつつも、リアルにつながってくることは『ツァラトゥストラ』   という著作の重大さでもある。   「実在的に”与えられて”いるのは、われわれの欲望と情熱の世界より他の何ものでもなく、従ってわれわれは、まさにわれわれの衝動の実在性    より以外の他の”実在性”へ下降することも、上昇することも出来ないとすれば(思惟するのもこれらの衝動の相互の関係し合ったものにすぎ    ない)、この”与えられたもの”が、その同類のものから、もっと機械的な(または物質的)世界を理解するに十分なものでないか、どうかを    試みに問うことが許されるのでないか。・・」(『善悪の彼岸』第2章 46・・・J/2・46というふうに表記していく・・)                                                (2003年・1月10日、ここまで)   本稿の主旨と余りどんどんかけ離れていってもまずいから、以下出来るだけ簡単にニーチェのこういった考え方を、 整理してみる。まず この上   の引用での”衝動”などを考えるとき、たとえば少し後の次の部分とのつながりを注目するとよい。   「 ・・・このような(機械的、物質的世界)世界は、われわれの情念そのものがもっているのと同じ実在性の段階のものとして、すべてが力強い統    一に包まれていて、これが、やがて有機的過程において分岐し、形成される情念の世界の、より原初的な形式として、有機的機能の全体が自己規    制・同化・消化・排泄・新陳代謝とともに相互に総合的に結び合わされている一種の”衝動生活”として解するのである。--これは生の先行形式    と理解できないか。・・・・ 」(J/2・36)   さらに、このようなニーチェの考える”衝動””情念”のレベルと類比的な発想と想像できる以下の話題、   「(誰かが、このような新しい心理学を打ち出すときその困難で苦しむだろうというはなしから、・・・)憎悪・嫉妬・貪欲・支配欲などの情念を     生を制約する情念とみなし、生の家計において基本的に欠くことの出来ないものとし、従って、生がなお高揚されるべきであるならさらに     高昇されなければならぬ情念であると、(その人が新たに)説くとしたら・・・・」     (J/1・23)   と云うくらいなのだが、”衝動”に対して われわれのする他のことも、似たレベルの”実在性”を持ったものに過ぎない、というようなニーチェ   の予想?は、一方決して単に欲望の優位の哲学(≠生の家計における不可欠)を意味するのでないし、ある意味ホッブスのような個々人と欲望の   力の単純な関係を前提とする哲学ではない。というのは、こういう以下の話題に関連する独自の考えを主張していることは重要だから。   「いつでも、なお無害な自己観察者がいて”直接的確実性”が存する、と信じている。例えば ”われ思う”だの、あるいは、ショーペンハウア    ーの迷信だった”われ欲する”だのが、それである。・・・・・・・・思うとは、原因と考えられる一つの存在体の側での1つの活動であり、作用であ    る。一つの”われ”なるものが存在する。最後に、思うと呼ばれるものはすでに確立している。思うとは何であるか私は知っている。・・・ともか    くも、あの”われ思う”は、私が私において知る他の状態と比較して、確定する、ということを前提にしているのである。このように現下の状    態は、他の時・所の”知識”と遡って関係づけられるから、あの”直接的確実性”をもたない。・・・このように”直接的確実性”の代わりに哲学    者は、一連の形而上学的問いを得るのだ。「・・・何処から、私は思うという概念を得るのか?・・・何が一個のわれについて、原因としてのわれに    ついて、ついには思想の原因としての一個のわれについて云々できる権利を私に与えるのか?」(J/1・16)   こういう”直接的確実性”の諸前提に対するニーチェの揺り動かしによって、結局 彼は 何だと ”われ”みたいなものを捉えようとしているか   だが、それは   「 われわれの肉体は、実に 多数の 霊魂の共同体 に過ぎない 。 このように意欲するもの は、命令者としての 自己の 愉悦感情 に     加えて、遂行し効果を上げる 道具の愉悦感情、隷属的な”下層意志”または ”下層霊魂”の愉悦感情を愉しむ。・・・多くの”霊魂”の     共同体を基礎とした 命令と服従 ということが絶対的に重要なことである。・・・道徳は、”生”という現象が成り立つための支配関係に     関する教説だと解される。」             (J/1・19後半より)(2003年・1月14日以上)   すなわち、ニーチェにとっての”われ”は、個々人の中でも魂の複雑な支配関係によって成立しているものになる。が、さらに、このことに密接   に関連して、同じ 1章19 の 前半では、”意志”というものに関してまず、”第1にあらゆる意欲には感情の多様がある”と書いている。さ   らに、第2,3と続けて特に指摘しているのは、”思惟は、意志の成素であり、””思想を意欲から分離すると意志は残らない。”(第2)さら   に一方、多様であるはずの”意志は一つの情念・司令部的情念”だという。(第3)     この多様であるものが一つであるというのは、先程の引用部分 J/2・36の続きにもあって、”原因”という概念を扱うなら、      そもそも”意志の原因性”を信じることで、”幾種類もの原因性を想定してはならず”全ての結果を引き起こすことに、原因      を考えることは、そもそも一義的な力への意志として規定する権利がある、というようなふうにニーチェは云う。   こういった、論拠にもとづいて、ショーペンハウアーの”意志のみが本当に熟知のものと仄めかした”ことを批判して、”意志はまず、ある複合的   なもの。言葉としてのみ単純なもの”(J/1・19冒頭より)という主張をし、さらに”われ欲する”が”ショーペンハウアーの迷信”(先の引用J   /1・16より)という表現にもなっている訳になる。というのは、”欲する”はともかく複雑なことで、われというものに単純にくっつく訳でない   と云うことと解釈していいと思われる。ニーチェの主張を考えるとき、ショーペンハウエルの説を、念頭に置くことは極めて必要なことで、ありが   ちな不毛な誤解は、その対比性を十分考えないから大体起こってくる。   ”仄めかした”というような感じで、ニーチェは批判するのだが、ショーペンハウアーの説は、『意志と表象としての世界』第4巻60節において、   性的器官が”意志の本来的焦点”というくらいで、むしろ非常に複合的なものを内包しているのは明らかであるのだけれど、・・・   「・・・私は自らに、意識的な思惟活動の大部分を、なお本能活動のうちに数えなければならないと言う。しかも、哲学的な思索でもそうなのだ。    ・・・・分娩の作用が、遺伝の進行やその継続の全過程の中で、別なもので無いように、”意識している”ということも何か決定的な意味で本能     的なものと対立したものではない。・・・・」             (J/1・3)   このような”意識”と、それを包含するような”本能的なもの”、これは100%のイコールだとは言わないが、もっといえばある種の”無意識”   と言い換えることもできる。ニーチェの思想で実は最も重要なものといえるのは、その”無意識的活動の重要さの指摘と、そして、それを多くの場   合、改めて指摘しなければならない位だから、現実的に多くの以前の思想や人間の活動に見て取れる”意識と無意識の乖離”の指摘だといえる。そ   れは、その視点を含めて、考えられることが特有の観察眼の面白さに富んだ文章となって表れている。そして、このことは全くショーペンハウアー   の文章にもまた、当てはまることなのである。以下 手短にするため、ある程度教科書的に少々、図式的に過ぎるが、目安としてその対比性の説明   を付け加えると、   ショーペンハウアーは、カント的な根拠の原理によって、現象界ともの自体の世界としての意志の世界を分けたといえるが、その意志は”認識を欠   き、盲目的で抑制不可能の単なる衝動”である一方、現実の現象界も夢と較べてもさしたる優位を保てない頼りないもので、カントの定言命法など   の概念性も意志の世界を律し得ないとする。また個別性を抜け出した意志の本当の姿に達するには、音楽といった最高芸術、また偶然の産物である   天才性を通じないと得られないものだが、それは一時的、偶然的なものでもあるから、本来的には、認識の生により、意志を滅却する、いわば聖人   の道が奨められるという。このような話で、ショーペンハウアーは端的には性的器官の問題であるとするまで、”無意識的”な意志の世界の複雑さ   と重要さという、それ以前の哲学思想に殆どない発想を体系的に強調し、さらにごく希にしか一致しない位のものとして、”無意識と意識の乖離”   を強調したのだが、ただ彼は、ニーチェと違って”われ欲す”というかたちで、認識の生を遂行するいみで、意識を無意識に優位に立たせることで   いわば”強さ”を見、どうしても存在する”乖離”(もしくはバランスの崩れ、統御不可能みたいなもの)に対していわば”たてまえ”として、意   志の滅却を説いた、と考えられる。一方、ニーチェは、同じく”無意識と意識の乖離”を強く考察した結果 『善悪の彼岸』の冒頭 第1章第1節   で、「何故にむしろ、非真理を意志ないのか。無知をすら意志ないのか。・・」と問いかけるほど、真理や意識の単純な優位を最初から放棄し、概念   的な体系を放棄した代わりに、”乖離”もしくは無意識の優位ゆえ、無意識自体の”強さ”に根拠を求めるようになったと、大雑把には云えるのだ   ろうと思う。   その考え方で、ニーチェ的”強さ”とは、   「現実の生において、問題なのは、ただ”強い意志”と”弱い意志”ということだけである・・・・・・・」   (J/1/21)   と、いわれる訳であって、ニーチェにおいては、価値や道徳に関して(・・カントの判断力批判、実践理性批判の領域)、そもそも概念的構成の   規定が出来ないし、”われ”というものに、単純な優位的関係があるわけでもなく、単に意志全体で判断するしかないから、”強さ””弱さ”   という規定ぐらいのみが可能になる、というような発想の仕組みになっている。   こういった考えは、ニーチェの論法の中で極めて根本的なもので、結局、”独立”ということが、ニーチェにおいて重要になるのも、いわば価   値を考えるに、いわばその”魂”全体の強弱で判断するしかないからで、社会の貴族的支配関係もしくは搾取的関係が、問題とされないのも、   先程 引用した部分あったように、個々の魂自体の中にもう、支配の関係がある(別にこれは概念的構造でない) いわば”魂の仕組み”からだ   といっていいし、”民族の魂”といわれるように、民族の問題においても、概念で動かし難いイギリス人のキャラ、ドイツ人のキャラ、フラン   ス人のキャラ・・・があり、それは各々全体に浸透していて、”魂”全体の問題で判断するしかない。全体的なものである魂は”位階”で判断する   しかないもので、その実証的要素、例えば、その費やされた”労働時間”などで判断するなどニーチェからすれば当然馬鹿げたことにもなる。   これは、男女の問題でも同じことで、男女のキャラ、というのは動かし難くあって、その価値において各々の人間の問題全てに浸透しているこ   の感覚が大事になるから、表面的知識、概念で失われると「女の魅力の喪失が起こってきているというのか。女の退屈化が徐々にやってくると   いうのか。・・」(『善悪の彼岸』7章239)というような”嘆き”にもなる。・・・etc   もちろん、ニーチェのこのような主張は、現実の社会の不当な不公平さ、不当な差別を、助長させるため都合良く結論的な部分だけ利用されて   きた訳だが、ニーチェの議論の全体の流れの調子に注意して、こういった問題を眺めれば、そのような利用された粗雑な感覚とは、程遠いもの   に見える。ニーチェの主張は明らかにもっともなものがあるし、一方は 何か不純な別のもの。   むしろ、今日 考えるべき問題は、そういった違いはどのように生まれるか?ということ。   再び強調するが、以下の引用においても   「 あらゆる芸術家は、自分の”最も自然的な状態”すなわち”霊感”の時における自由な整序・措置・処理・形成が自然放任の感情からいか     に隔たったものであるかを知っている。ーまた、あたかもその場合にこそ、自分がいかに厳格に、かついかに微細に数千もの法則に従って     いるかを知っている。これらの法則は、まさしくその峻厳さと明確さゆえに、概念による一切の定式化を嘲るのである。」 (J/5・188)   とあるように、あるわれわれの行動、ある創造において、統一されるような様々な”法則”めいたもの、概念的ではないもの、のイミであり、   超自然的なものを、この”霊感”とか”魂”とか”全体的なこと”とは、指していないことが想像できるだろうし、また、無意識の全体みたい   なものが、ニーチェがいつも問題にしている相手だと言うことも想像されるだろう。   こういう考え方に立つことによって、ニーチェは、それ以後にも希だし、それ以前の哲学者には全く無かったといえる”特別な観点を、その   体系的に持つことになる。(単なる思いつきの考察でなく・・)    「道徳のうちには、その創設者を他人に対して弁護しようとするものがある。」      (J/5・187 次の引用部分も同じ)    「”われわれのうちには定言命法が存する”というような主張の価値については、しばらく措くとしても、常になおこう問うことが出来る。      このような主張は、それを主張するものについて、何を言い表しているか?と。・・・要するに、道徳も又情念の一記号法に過ぎない。」    「あらゆる偉大な哲学は、次第にわたしにその正体を明らかにした。すなわち、創設者の自己告白であり、欲せず気付かれないまま記され     た覚え書きなのだ。・・・」    「こつこつと働く学者たちは、認識活動において、彼らの衝動が、総じて本質的に作用しなくてもよいであろう。(冷静に学問的な労働を     するということ・・・引用者注)そして、それ故にその学者本来の”関心”は、通常全く別のところに、家庭や金儲けや政治などにある。・・」                                               (J/1・6)    「あらゆる哲学は、一つの前景の哲学である。・・・彼が此処でさらに一層深く掘り下げず、鋤を捨てたということには何か恣意的なものが     ある。・・・何か不信なもの・・・あらゆる哲学は更に一つの哲学を隠している。あらゆる意見も また一つの 隠れ場所であり、あらゆる言葉も     また、一つの 仮面である。」                              (J/9・289)   さらに、またこいうことまで言ってしまう・・・。    「 愛から出た行為ですらも”非利己的”であるというのか。・・・・しかし、本当に犠牲を払ったものは、自分がその代わりに何かを手に入      れたことを知っている。・・しかし、こんなことは贅沢に慣れた精神が関わることを好まない問答の領域だ。・・・結局、真理は女性なので      あり、真理に暴力を加えるべきでない。」                        (J/7・220)   こういう主張は、厨房をのぞき込むようなものともいえるけれど、単に皮肉な思いつきではないし、また、単に少々”品の悪い”理解というわ   けでもないことが大事になる。というのは、ニーチェはこの書の最初から、「何故に むしろ、非真理を意志ないのか。無知をすら意志ないの   か。・・」というセリフに類したことを何度も問いかけているし、これまでの哲学者たちの「素朴性」(J/7・225)&「正直さが足りない」(J   /1・5)を、批判しているのであって、基本的立場になっているものと考えるべきである。というのは、簡単に言ってしまえば、真理を意志し   た哲学・学問などというのは、実際、全く当然の前提ように考えられている訳で、一方、どんな哲学・学問などといっても真理からの距離を感   じるのも実際なのであり(浜辺のアインシュタインみたいなものではないが・・)そうすると、普通 そういった哲学・学問は、残念ながら真理   に至らなかった様々な段階、もしくは未来のための段階みたいなものとして当然のように考えられがちになる。けれど、ニーチェのように”真   理性”を絶対の中心にしない立場をとることによって、はじめて、そういった在りようになった哲学・学問は、無意識的に様々な事情から、そ   の時点で 十二分に彼の必要性を果たしているから、成立しているのだというような見方も本当に出来る。  (2003年・1月17日、ここまで書く)   また、こういった考えで、ニーチェは”真理”を単に否定していると考えない方が良い。というのは、”真理”を意識することを、包括するよ   うな人間の様々な事情、ある自然、を問題にして揺さぶりをかけていると見た方が良い。 「非真理を生の条件として容認すること、・・・」(J/1・4) このように ”真理”を揺らして見せるとのと同様に、(ついでに付け加えておくと、ニーチェは全く”真理”が成り立たないと考えているわけで無い、と考えた方がいい。    これはゾロアスターが善悪の振幅を想定したの同じようなことで、その意味での”揺らす”・付記2003/1/26)またニーチェは、”自己原因の概念”(J/1・21)を批判   するといえるのだが、   それは倫理の前提になる自由意志の考えなどに対して、   そもそも「神・世界・祖先・偶然・社会をその責任から放免する要望」は ”不自然”でないのか? また、その   「自己の行為そのものに対する全体的かつ究極的な責任を負う」(J/1・21)ことに対する”自己矛盾”(J/1・21)を問うているし、   それは「自己保存は、単に(生物の現象における)最も頻繁な帰結の一つに過ぎない。余計な、目的論的諸原理が持ち込まれないよう   にすべきだ!」(J/1・13)と書く時も同様に、自己完結的な仕組みを、強調する作られた論理をまず揺らそうとする。   これは、言語的に言うと「主語”われ”が述語”思う”の条件であるというのは、1つの偽造である」(J/1・17)という考え方にもなる。   というのは、「思うことが、制約で、われが制約されたものでないのか。」(J/3・54)というところにもあるように、ニーチェ において   は、 ”われ”という意識が、優位に立っているのでなく、むしろ”思う”という複雑な現象によって包括されている、もっといえば、”わ   れ”を超えた無意識的魂を問題にしているようなことの、 言語的表現 。   (ついでに言えば、この書で、何度も”魂は迷信””霊魂の原子論にとどめを刺さねばならない”みたい    な紛らわしい言い方をわざとしているので、魂という考え自体に対してニーチェが否定しているような    誤解が起こる。    日本の戦後の代表的論者においても、ニーチェから魂である主語の実体概念が神の死ということで否定    された、みたいな解説があったが、こんな言い方だとニーチェの意図の方向を完全にねじ曲げている。)                                        → ◆BACK ◆NEXT
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