・・・・・容姿の「美」を競うなどという事は、美なるものの表面的な効果にこだわる こと、もしくは物象化してしまったそれ、フェティシュなそれに対して盲従すること の典型的な行為であり、簡単に度を越して錯覚に陥り易い発想なのだが、メドウサの エピソードは その誰にとっても不動の存在のように、一見思えるものに乗っ取った ”傲慢さ”に対する”戒め”※→MEMOA: と受け取る事が出来る。その種の思い込み は、男性以上に女性に起こり易いのは色々な事情から生まれうる訳だが、このペルセ ウスの疑念は一般の単純な女性崇拝に対しての本質的な批判の照明となり、そのラフ ァエル前派初期の傾向にも、多少の異なった色彩を与える。ロマン主義の時代におい て男女の恋愛は何かしら 大きな意味合いを与えられた。そして これは女性の重視を 伴うと見て差し支えない。確かに20世紀 制度的な女性の地位向上は それ以前に 比較しようもないが、精神的な意味において19世紀よりむしろ軽んぜられる傾向が あることは改めて指摘しておいた方がよい。というのは 人間の戦争は根本的に男性 重視の手段として考えられるから、そして正に20世紀は戦争の世紀であるから。女 性兵士間の戦争というものは、生物学的にも所詮 冗談に類する。 Rシュトラウスの「薔薇の騎士」にも感ずることの出来るベルエポックの雰囲気は,2 0世紀が進行していくうちに、社会的実体を失った。ロマン派的思考の発展の末にも っともらしさへの頸木を失い、デリケートな甘美さ を追う微妙な釣り合いの時期。 (この意味では、PRBの特徴はハリウッドの元々の西部劇とニューシネマ調のものの 差に近いかもしれない・・)このようなラファエル前派的なフェミニンな感覚にも っとも似たものは分離派のクリムトらの作品の雰囲気だが、クリムトは 1862年生ま れでバーンジョーンズらの仕事から派生した動きでもあり、また同様に女性重視とい っても 特別な仕方で 母性を強調するところに重要な差異がある。しかし ながら、 「連作ーピグマリオンと彫像」 このようなラファエル前派からクリムトなどへと繋がるような雰囲気は、一次大戦を 過ぎる頃からほとんど壊れていく。 この現象は”戦争の災難””アメリカのインパク ト”などとも語られようが、このようなどちらかといえば外的で偶発的なような見方 より、こういった思潮を支えた人々の発想から、考えてみたい...。※下記MEMOB→: バーンジョーンズのペルセウスは、古代ギリシャ的な衣装では全くなく中世の甲冑姿 で描かれている訳だが、ラスキン風の中世的美学の尊重の好みでもあるし、又ポーズ も彼が右手でしっかりとアンドロメダの手を握り、しっかりと選ばれた女性を守ると いう強い騎士道的な献身がその格好に表れている訳で、それが彼の基本的姿勢といえ よう。その上で、彼は同時にメドウサの首を掲げ問いただすことを忘れない。しかし、 水面に写ったアンドロメダの魅入られたような顔は、この事柄が単純でなく、大きな ものであることを、予感させるものでもある。ここに別の観点を付け加えなければな らない要素がある。ギリシャ神話から西欧に続くラインではなく、古代的宗教の全般 の中で捉えるならば、メドウサとは単なる邪悪な存在というよりはギリシャ神話のゼ ウスの父権的秩序が成立する前の蛇崇拝を伴う、より情緒的母性的社会秩序の巫女的 存在と考えられる点である。このような打ち滅ぼされた存在の歴史の投影を、この神 話に見るなら、水面の女性の表情は簡単に切り捨てられるような、軽さで扱えない事 はより感ぜられうるだろう。ここでのペルセウスの態度は、女性に献身を示しながら も、自覚を促す矯正として「鑑」を突きつけているのだが、この方向のテーマとして、 同じくバーンジョーンズのピグマリオンの連作が、考えられる。 結局のところ、自覚を促す事は 相手に教育を施す態度であり それは、自分の望むよ うな”新人類??”の姿を作り出そうとする努力につながる。ピグマリオンは自分の 作ったものしか愛せなくなるのだが、このテーマも、決して偶然的にこの画家によっ て選ばれたテーマでないというのは、例えば バーナードショーのマイフェアレディー の原作となった話もそうで、言語と人格との関係の現代的な把握や、別の要素も勿論 「ピグマリオンと彫像」 盛り込まれているが、基本的に人為的に作り出された新しい女性への関心があり、こ れも大きな思潮の流れの背景を考えるべきである。 そして 、 水面の2つの女性の顔に、絵画として自覚的にその姿勢の矛盾が表わされた以上に、 「ピグマリオン」においては、方向性の矛盾はより明らかとなる。 即ち、その相手は 人間ではなく彫像になってしまうのであり、無意味な努力を前面で立証してしまう。 ロマン主義からの重要な女性尊重の流れに、意識的に付け加えられたこの努力、変更 は、結局 男性支配を意識的に呼び戻すことに道をつなぐことなる。というのも、エル ンスト、デルボーらの女性をオブジェ的に使用する例に近づくのは明白だから。(つ いでに、いえば20世紀芸術を考える場合、多少ゴシップ的方向から見るならマーラー の交響曲10番の草稿でアルマへのメッセージとされる文字には、単なる気取りでない それなりの重みを感ずるべきだし、シェーンベルクやパウルクレーのような優れた人 物の夫人の、年齢以上に非常に老け込んだストレスを感ずる写真が残っているのは理 由のない事でなく又時代の背景の変化を想像することは可能だろう。・・・シェーン ベルクはのちの喜劇的な室内オペラ『今日から明日へ』で、芸術様式の浅薄な流行を 皮肉りながら、同時にのちのG夫人に対してではあるが ある種の家庭生活への-相当 無骨な-反省も滲ませている・・) そもそも、フェティシュな発想、物神崇拝的な思考法 は、自ら望んで そうなるとい うもので普通はない。 むしろ、その人 その系統の人たちの発想、やり方の限界が特 定の歪んだ形や偏りとして現れるわけで、特にこのような男女の間での理想の押し付 け合いのような場合、その非常に古い根源に説得的に溯のぼるような力が無い限り、 相手のその種の愚かさを注意したところで空しいものであるのは自ずと気づかれる。 バーンジョーンズらの方法 も、勿論 このような偏りと無縁ではない。 そして、その偏りは 彼の絵画手法自体がよく示している。「不吉な顔」(全体図は 下、参照)は、その充実した意味の広がりを生む上半分と対照的に、何か余り意味な く見える緑色の目立つ 下半分がバランスを欠いている様にも見え、それ以上に 鏡の ような水の入っているはずの容器が、余りに重要な位置を占め過ぎているように、こ の絵全体を見た場合感ずるのは仕方の無いようにも思える。とはいえ、未だかって、 すべての意味で完全であった絵画など、どんな名画とされるものでもあろうはずがな い訳で、(未だ十全な知識に達した人間がいないように・・・)形態として理想的な 絵に限って無内容なイデーにしか結びついていない場合が殆どである。 そして、この絵の場合は、それなりに理由が考えられる。ボッチチェリの春のそれを 思わすようなアトラス王の花園の”黄金の果実”等(この絵の林檎?・・)の魅力的 な植物群の生きた描写が、裏手から覗く手すり(?)と水盤のようなものの幾何学的 スタナップ・・「ペロペネイア」より 形態を、取り囲むような円周状に緑色の部分として描かれている訳だが、その真ん中 に置かれた8角形の不思議な水盤?は、庭の置物というより、家具のような形態と色 をして大きな存在感を与えられている。 絵画として基本的に、このような単調な形態 が画面を占めるのは問題があるといえると思うのだが(例えばレオナルドの受胎告知 の脇の建物の積み石の灰色の長方形なども同様に思えるが・・)まず、考えられるの はこのような幾何的形態に対する信仰が西欧文明全体にあるとは、いっていいことな のである。これは西欧言語における数詞の重視と似た事であろうが、絵画的発想を越 えて文化的傾向としてあること、さらにこの場合は、この水盤?が明らかに魔術的存 在であることは重要であろう。側面に庭の緑と殆ど同じ色で、延長的に、模様が描か れている。上昇する水のような、と言われることもあるみたいで 生命的運動を内部 に宿した幾何的物体に魔術性を確かに感じることが出来るし、ラスキンらの中世指向 を考えれば、原-科学信仰もしくは錬金術的と考えるのは、一般的解釈とも言えるだろ う。さらに、絵画効果を狙っているのは明らかで、実像以上に鮮明な映像(顔)を写 し出している水盤の上部の八角形はデリケートに歪んでいてそれが奥行きとそこに引 き込むような効果も作り出している。だから、この絵の上部の人物の顔のある所で十 分だとは、言えず接近的な細部の線の運動と全体の流れを考えるならやはりこの縦長 の全画面を画家は必要としているのである。逆に言えばいかに面白いアイディアとは いえ上部の人物像だけでは細かく見ればその重量感を欠いた平板な描写ゆえ絵画とし て持たない事が判るとも言える。そしてこれはラフアェル前派の多かれ少なかれある 特徴で、本当の西欧古典的絵画の要求を 本質的に満たさない事 を運命づけられてい る 。とはいえそれは、確かに限界付けられてはいるが、いわゆる西洋画の主流派に 比べ劣った立場ということは出来ない。「●対象の形態性以上に線的運動性の重視」 として十分必然性のある単なる絵画を越えた重要な思考の立場の特色と考えて見た方 が良い。 (そして コレは20世紀 イギリス音楽の特徴を考えるときも 重要な参考となるだろ う・・)この「線の運動」の特徴をさらに知るため「愛の巡礼」(1897)の画面を 見ていただきたい。・・・・・・・・・・・・・・・・・ ・・・・・・・・・・”ラファエル前派とロマン派絵画について”( 続きB) next ◇back
※ MEMO: 簡単に云えば、ラファエル前派のフェミニンな特色という問題は、音楽のジャンルで ヘゲモニー を”重厚な”ドイツ音楽が握っていたといっていい19世紀後半において、 本来流麗で誇大なドグマティックな要素の少ない、パリー以降のイギリス音楽の対比的 な全般的特徴と重なるものだし、こういったフェミニンな感覚の復活と音楽創造の再活 性化は、ある生気を土壌に吹き込まれたような関係で、つながっていると見直すことは、 有益だと思われる...という風にも説明できるだろう。 この”あるフェミニンな感覚”は、ヴォーンウイリアムス交響曲3番の4楽章「レント」 の始めと終わりの言葉の無い、実際ほとんどはソプラノで演奏される歌に象徴的に顕れ ているといえるし、一応譜面でA管のクラリネット又はテノールでも代用可能となって いるが、そのことすらも この新しいイギリス音楽の再生の女性的”感覚”のもつ独特の 中間的性格という別の側面を示す象徴的?記述でもある。・・さらに、私生活的なこと も ついでに云うならば、後の世代のWWもBBも父的となることを拒否していた事実も 簡単に無視するわけにはいかない例には、ならないだろうか?・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ ※ MEMOA: 『浪費多い女よ、自分の言い値を男が払う他無いのを知って、美しい自分自身にも値を 付けてしまうとは。これで、楽園をどんなにも安くしてしまったか。この上ない 天与の資質を投げ売りして、どんなにパンをダメにして、又酒をこぼして捨て去った ことになるのか。パンも酒も節制して使うことで、けだものを人間に、人間を神に 変えることが出来るのに!・・・』(ラスキンの1864の講演「ゴマと百合」の引用より) こういう引用を好んだラスキン(John Ruskin1819-1900)を考える場合、その芸術・文化 論において、キリスト教の説教師的な価値観は、極めて重要な要素になる。一方社会 経済的な観点を含み、功利論を越えた考察も展開した。その全般的実践的な文化論は、 大規模で大胆な主張から導かれるもので、K・クラークらの芸術論の総合的、より資 料的、中庸的なものとは違うが、返って 今や興味深いところがある。そのルネッサ ンス批判の社会的な態度のように、ある種の退廃主義やアメリカ的即物性(ホイッス ラー裁判)に対して敏感に(戦闘的に)反応しようとする。ウィーンの世紀末派のな どの無神論的立場まで至らなかったともいえるが、無規律さに単に向かっていくので ないこと、と根本的に独特なフェミニンな感受性を持つことはむしろ新鮮と言った方 が良い。 2002/10/30 ⇒ラスキンについては後でもっと詳しく書かねばならない・・・・※ MEMOB: 20世紀は、その戦争的原理の顕在化した前半、変質化した後半、ともにかって無いくらいの激越な変化を呼び起こした 特異な時代であることは、強く意識して置いた方がいい。21世紀がどうなるかさて置くとしても・・・・ (2002・2/26)
【 絵画の”資料”に関すること&”注釈” 】 まず、冒頭のタイトル下の絵画は、シュトッツガルトのシュタース・ギャラリーのコレクションより、 のキャンパスにグワッシュで描かれた『不吉な顔』1886-7年と言われる作品の部分で、絵画全体は左 上に掲た画像で、全体の大きさは155Χ130cmある。 この絵とサザンプトン美術館にある『ペルセウ スとその花嫁』(1885年頃グワッシュによるもの)は、殆ど全く細かい部分まで描いているものも同 じ構図の絵で(全体の人物の描き方のニュアンスや、体の少しのずれ-手の握りかたなど-位しか違わ ない)次のページに引用したケネス・クラークの引用文もそちらの絵に関するもの。また、その絵は 『ペルセウス物語』連作として、アーサー・バルフォアの家の音楽室の装飾のために描かれたものだ が、完成されず、その原寸大のグワッシュの下絵として残されたもの、という。 日本では、『バーン・ジョーンズと後期ラファエル前派展』として、東京、栃木、山梨などで1987年 催され、また同年の代表的月刊美術誌にその特集が組まれ、そこにここで取り上げた画像の幾つかと と同じものも掲載されています。またそこに数人の方々のラファエル前派に関する論文が掲載されて いて、このHPの記述のひとつの論点は、そういった美術関係の方々と違う見方もありうる、というこ とでもあります。そちらの論文で取り上げられている絵画と上記の私の論稿の題材となっている絵画 とは余り重なっていませんが、このページを作った後気付いたことですが、展覧会のあった当時、関 連してのNHKの美術番組(多分87年)で、バーン・ジョーンズの絵画について特集されていて、その 時、先の美術誌のものと ほぼ同じ絵画が取り上げられていたはずで、『不吉な顔』についても、当 然、むこうの研究を元にしたりした一般的解釈としてメウサの顔と男女の顔についての言及があった はずですし、また水盤の模様についても言及があったかもしれません。1度だけしか見ていない番組 ですので、当時、誰が解説されていたか、細かい話題、全体がどのような番組だったか覚えてないの ですが、どなたかご存じのかたがいらっしゃればお知らせ下さいませんでしょうか? また、このページを作ったとき、どういうわけか、日本でも翻訳版として出ている『バーンジョーン ズの芸術』というウォータースによる代表的な研究書が、はじめ手に入りませんでした。このページ の文章を書いて、そのかなり後でチェックする感じになりましたので、ウォータースの本では、ここ で取り上げた絵は余りテーマになっていませんし、論調は全く反映していないはずです。 このページの議論は、このHPの他の音楽に関することと共通する問題を示す目的で展開されているの で、そのために特に私が代表的と思われる一連のラファエル前派の絵画の解説と絡めて論じられてい ます。当然、自分勝手な話にならないよう、このページでは、作る際、その他、日本で手近に手に入 れられる美術書や事典、絵画に関する書物などの何通りかの”客観的”資料を下に、上記のように私 見としてまとめたものです。著作権等の利益を害さないことを意図していますが、画像などに何らか の問題がありましたら、直ぐ改善いたしますのでご連絡下さるよう、お願いします。 2002・12/2