◇ 音楽と言語表現についてのメモ ◇
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この問題は、実はデリケートな多くの問題と関連する重要なテ−マなので(実際、古典的西洋
哲学の問題の中心部に位置する話題)あんまり、安直に話すと極めて危険だが、ここで便宜的
に、私が考えることを、少し述べておくと、
”言葉”は、まず、このリンゴだとが、この石 だとか、一応直接 対象に結びつけるように
して、殆ど 誰でも、使えたり、理解できるようになる類の、ある基本的なような”言葉”と
、その言葉を使っている人の独特の生活形態の全体的な諸処の事と、強く関連してもっぱら成
立する”言葉”の典型的な2つの傾向が、あるイミ 不可避的に存在すると考えた方が解りや
すい。
(直示定義が、そのまま言語の根拠になるという話でない。また、
これには細かい議論が必要なのだが、煩雑なので今は脇に置いておく。)
また、後者の”言葉”は、普通には文学的表現もしくは、高度な言語活動と一般にいわれてい
る類に 一応、重なったものとしてよい。
前者の”言葉”は、言語記号と物的対象が直接結びついているような理解を与えるし、普通に
はそれで難点も生じないが、後者の”言葉”も、しばしばある情緒的内容・態度や感情という
サインに結びつけられ、構成されうるると考えられがちで、殆どの言語論も実際には、そのよ
うなものになるのだが、これは、実は、非常に大きなトラブルのもとになる。
さらに、それを一見否定しているような多くの理論も、結局 表面的な層でそうしているだけ
で、人工的なような用語の渦の中で、盲目的に本来の言語の”限界”を安易に超えてしまう。
(例えば、”深層”といいながら”文法”にはより、根底的な”文法”が、存在す
るはすだ、とまず思ってしまうような錯覚など。etc・・2003/4/25上4行付記)
後者の”言葉”のようなものは、情緒や態度を表現しているように見えて、実は、ある情緒や
態度の上に乗っかって成立しているものに過ぎないのに、これが常に錯覚されて逆に考えられ
たり、前者の傾向と同じように考えられたりする。
しかも、また 後者のような”言語”の用い方自体は、人間にとって(むしろ 生物として?)
”自然なこと”であり、根本的に逃れられないことも、重大なことなのである。すなはち、言
語を単純な信号系として考えて発言する人も、また 単純に言語に感情表現が出来ると思って
発言する人も、彼らはその誤りによって、情緒表現が不可能になるので、まるでなく、彼らは
他者に対して、”独特な”存在を伝えるのである。そういう人たちの言語表現への、反感や冷
淡、追従や賞賛は、われわれの言語の”分裂”を示すのでなく、むしろある根本的な包括関係
を予想させる事例ですらある。
”上の言い方が、あいまいに聞こえるなら、さらにこう考えてみよう。むしろ、われわれの
言語のそういう”後者”の言葉の使われ方を含めて、”ある基本的なこと”は、本当は知
られている、もしくは、それを前提にして普通の使用が可能になる。
(◆●◆若干付け足すなら・・ ただ、われわれは、バラバラに! それを知っている・・・
という風に考えてもいい。2005/4/9◆●◆)
だからそこにおいて、われわれは、既に何かしら 一体 なのだ。
ただ、われわれが意識的になってそれを、捉え表現しようとする場合(これは”統治力”
という現実でもある)、従来、必ず過不足のある見方に、留まらざるを得なかった。ただ
、視点が変わるだけで、50歩100歩の”相”の変化。しかし現代の問題は、”科学”†
というものが、そういうものと別の物という、”外観”を強く呈すことから、起こってく
る。
すなわち、人間の言語が、限られた能力の人間の言語※である限り、扱わなければならな
い言語のデリケートな諸問題に対し、”科学”という単純なやり方も、全く一つの”相”
に留まるのであり、かえって、その自明なような”手法”は、言語の落とし穴に、鈍感に
なる。本当は、落とし穴を、ちゃんと意識したしゃべり方を工夫するべきなのに(本当の
世界の”相”・・・こういうものがあるか否か?パズルの答え?)。”
(2003/5/1付記&・・・以下は6/12付け足し)
〔※小説めいた”言い方”に仕掛けられた冗談を、それ以上に考えるのでなければ。〕
だから、理論的なことはひとまず置いておく、にしても、われわれがやるべきことは、そうい
った情緒や態度などと大きく関連したような「不可避の」”言語”を、どう用いるか?であっ
て、それは、われわれの身近に見聞きできる言語生活の状況を観察すれば見えてくるものでも
ある。そしてその際、例えば先程の「後者の”言葉”のようなものは、情緒や態度を表現して
いるように見えて、実は、ある情緒や態度の上に乗っかって成立しているもの」ということぐ
らいを、想い出してもらうだけでも、言語の限界に反するよくある大袈裟な主義、理論めいた
ものの言説に惑わされないし、また 逆に、こういう言葉を軽視する由来も想像できる。
西洋音楽を学んだり、実際職業的に演奏したりする人たちは、もっぱら、日常的に音程を正し
くとるための工夫をしたり、運指を工夫してこの指に重心があればやりやすいなどと考えたり
、音を揃える練習をしたり、キーを考えたり、望ましいフレージング、和音の鳴り方、アンサ
ンブルのテンポの取り方、楽器間の音のバランス等・・、を目的にして音を磨くのに大半の時間
を使ったりする。
だから、その曲を演奏する際も、こういうことばかり、が意識にあったとしても全く不思議な
ことでない。そして、それは”高尚な”言語表現とかなり、離れた職工仕事みたいなもので、
あるのが日常になる。
しかし、こういう作業をする前の段階(必ずしも時間的でなく)で、やはり、皆 人は自分は
この音をこう鳴らしたい、というイメージを持つのであって、それによって、全く同じ曲に対
してであったとしても、様々な全然違うことをやっている、といえるものになったりする。
そして、このイメージを持つというのが、まず決定的な役割をするといえるのであり、このフ
レーズが、あの人物、あの役者などの口調のイメージに近いと思ったり、あの建築のようなが
っしりした感じ、とか あの家具の輪郭のラインとか、あの部屋の雰囲気が、好き・・・などと
いったイメージは、曲のムードを自らの好みのものとする場合、どんな人でも必ず出てくる。
そして、そのイメージの持ち方は、演奏家の場合、どんなタイプの人でも、あの服の格好より、
この服の格好がもっと好きと同じように、こういう感じの言い方がしたいので、ここを、あの
演奏家たちのやったような大人しい雰囲気にしたくない、また もっとシックな風にしたいな
ど・・・という風な言語表現にもなる。そういった”活動”のうちには、こういった類は、必ず
あり、しかも、そのことを演奏家は”忘れている”ことすら、普通のことでもある。
(上3行の言い方を整理し直し。2003/5/12)
そして、重要なことであり、当たり前のことでもあるが、そのようなイメージの言語表現の総
合が、その曲の雰囲気、態度を規定するのでなくて、そのようなイメージの様々な言語表現は
全く、派生的事情に偶然的に出来るもので、一方、楽譜を機械仕掛けで”再生”するオルゴー
ルのようなものを聴く場合すら、その私たちに馴染みの有名な曲などに、各々 固有の雰囲気、
態度の傾向を、そこに認めることが出来るし、こういった雰囲気、態度に結びついたものは、
派生的、偶然的とは言えなくて、その音楽にあって、いつでも、どこでも、誰を前にしても、
といえるくらい根源的に存在すると考え得るものでもある。これに対し ある楽曲に関して、
悲しい恋愛ににているだとか、ある街のイメージだとか、いう言語表現をすることは、少なく
とも多分にその言葉を使う人の個人的体験が、反映して多数、雲のように成立するだけ、のも
のといったほうがいい。
だから、言語表現においては、”少しでもかすっている限り”ある意味 何だって、言えるわ
けなのである。しかし、優れた音楽家や優れた演奏家などの場合は、その音楽の固有の雰囲気
、態度の根本的中心的イメージに近いものを、教師的立場の人、周りの音楽仲間のやり方から
、”受け継いだり””関連して思いついたり”また、それ以上に、西洋人の場合、例えば、そ
の人が住む生活の中で、先程言ったような部屋のデザインの好みや、しゃべり方の好み、また
仕事の手順の好みなどというのを、自然に自ら抽出して、その楽曲の態度と深いところで、一
致するものを、得ている人たちとも、いえるだろう。
そこにおいて、的外れの表面的イメージでなく、楽曲の構成の根本的な”必然性”と自らの態
度を同調させて行く事が出来る。
♪「イメージ」が、その曲の「態度の根本的中心的イメージ」に近い(例えば、ファウスト的増大
などといった風に捉えていったりする・・)と、西洋音楽の演奏の場合、根本的な建築的態度で
、その曲の進行の必然性を無駄なく一貫した流れとして導ける。とくに、日本人のような、元
来非常に遠い生活的背景を持っている場合など、「イメージ」の誤りによって、不足した表情
の非常にあっさりしたものになるか、逆に、無駄な表情付けが散漫で、全体の流れのかえって
見えない、弛んだイメージのものになりがち、ということも起こる・・・・などといったことは、
これからのために多くの新しい演奏家は、ある程度、想像できるようになった方が良いだろう。
(2003/616)
▽ さらに付け足すなら、一般に西洋音楽の演奏で、個々の音は、なるたけ充実した透明感のあ
るものにしておく必要がある。これは、ある種ニュートラルな表情で、積み立てるためのレ
ンガのようなものになる。一方、簡単に言うと日本の伝統音楽は、一個の音が全部を示して
いるようなところがあって、個々の音自体が、何か 苦渋的わびしさ、さびしさであったり
もするetc。この違いの深刻さ。土台からの不純な混ぜもの部分から、俗悪な表面的なもの
を紛れ込ませ、その心無い薄っぺらさが当たり前に、陥ってしまう社会の全般的危険性。し
かし、新たな視点のヒントや、最も根源的なものに至れる可能性としては、むしろ、私たち
の環境は恵まれているハズなのか?(2003/622+704)
イメージを現す言葉自体は、偶成的なもので多数あるが、本当の根本的な態度に通じていくよ
うな、しゃべり方、言語的表現はあり、そうした特別なものである。その結果、そうした深い
ところからの態度の一致があると、自分のカラダの一部でもあるかのように、当たり前に活用
できる存在となるから、”技術的なもの”も、むしろ、必然的なくらいに向上してくる。(に
わとりが先か、卵が先か、風の無意味な因果の前後を、論じているのでない。)
すなわち、優れた音楽家や、優れた演奏家においても、その楽曲をとらえるイメージは、必ず
あるし、それは、ある根本的態度、一連の情緒パターンとして、実際に存在するものだから、
イメージは、何だって良い。という訳にはいかない。しかも、それらは、確かに先程、言い表
したような、言葉になるのだけれど、実際は、普通 言葉や文章にして、書き残す、といった
ものには、それなりの”格好になって”いなければ、わざわざ成されることはないし、むしろ
自分たちのやっていることを、その生活圏での、通常のありふれた文章のパターン以上のもの
に、やってる通り正確に描写することは、非常に難しいことで、普通 バラバラの断片的言葉
みたいなものになるから、表には出ない。だから、ぼんやりしていると、楽曲をとらえるイメ
ージが、全く 非言語的直観を通じてやってくる、もしくは、全くの先天的、”個人的天才”
ゆえのものと、いきなり見られがちになる。
♪近年の音楽家のビデオ映像の一般化は、逆に新たな難点も作り出す一方、楽曲をとらえる作業
におけるイメージの重要性を、やはり、もっと身近に教えてくれる傾向を示すといえよう。(2003/6/10)
さらに、音楽家において、こういう態度を、捉えるような 言語的イメージが、全くないかの
ように思われてしまう理由の一つは、そういった音楽家自らの経験みたいなものを、まとめ挙
げて”下手に言語化”してしまうと、実は積極的に、音楽家としての活動や仕事の質に、非常
に悪影響、障害を引き起こしてしまうことすらあり、というより、根本的にそうなってしまう
危険のあるものだということも考えなければならない。
そして、優れた音楽作品ほど、その存在する根本的態度、一連の情緒パターンは、その生活文
化圏全体の基本的仕組みを、根本的に”描出”しているといえるものであり、自然の姿を見て、
力学法則によって根本的に描出するのと、むしろ近いところがあり、個人的体験や全くの流行
感情、泡沫的意見でないので、存在するある大きな態度を”発見する”ことに近づいたものに
なっている。だから、誰もが、それに”対面し”多くの人の個人的イメージを呼び覚ますこと
が出来、そして 複数の視点からの多面的なアプローチ(古典のいろいろな演奏みたいに)が
、可能にもなる。しかし、やはり、固有の雰囲気、態度の根本的”中心的”イメージというも
のはあり、そこを巡ってのものなのだ。
存在する大きな態度自体は、言語的イメージのむしろ、土台なのだから、それ自体を、言語は
結局、十全な格好で「語りえない」という問題と、このことは、ほぼ類比的なことでもあり、
逆に、多様な言語的イメージは、こういった根本的理由から、全く当然 もくもくと成立する
が、また一方で 当然 土台的なそれは、何だって良い とは、ならない。
たとえば、ベ−トーヴェンの音楽を演奏する人が、その人生?の”厳しさ”のイメージを語る
感じで、あの先生とその先生に習って、コンクールのため、毎日 何時間練習していました・・
というような話ばかりしか、出てこない様子だったり、”感謝のイメージ”についても、両親
や、そういった教師たちに関する感謝などが、当たり前のように通じているように思っている
などといった、人物だとすると、むしろ、その音楽の持っている”態度”と根本的に相反する
”ある世界観””社会観”の確立したイメージを、もう既に、そこで示していることは、一般
に、もっと真面目に考えられた方がよい。
案外、人が当たり前に思っていることに、重大な芸術上の”陥穽”が、あらゆる色々なところ
にあること。(このリンゴとか石とかいう、言語の使い方と違う言語の用法になる。)
一方、今、例として上げたありふれたセリフなども、”そのこと自体”は望ましいことには違
いなく、ことさら改めて非難されたり、議論され否定される訳でもないというのも、むしろ、
興味深い現象といえる。というのも、”開かれた”構造、教育体系を持つはずの、西洋芸術の
ある”不思議な?”特質につながる問題でもあるから。
日本の伝統芸能、謡曲みたいなものの歌い方の記された記号?を見ても、誰もそれだけで理解
できるようなものと思わないが、ベンジャミン・ブリテンのスコアを、見た場合、その音楽の
適切なイメージ無しには、決して理解できないような極度に西欧的な”特殊な感情”の盛り込
まれたものにかかわらず、五線譜の知識やリズムや音程の訓練で理解できると、錯覚しやすい。
しかも、西洋音楽の教育は、むしろ、その錯覚を前提とした体系ですらあり、”内容”や本当
に正しいイメージは、例外的な場合にしか語られない。そして、もちろん、正しいイメージの
伴わない音楽は、ひとつのナンセンスな存在になる。
♪ ブリテンの曲の多くの演奏が、単に朦朧としたものになったり、単に権威的な重々しさになる
場合が多く、素顔が見えてこないのも、こういった理由を、考えるべきだと思う。(2003/6/10)
こういった問題は、決して単なる”エピソード”的問題ではない。私たちのような、西欧社会
から、本質的に遠く隔たった人間からすれば、西洋の音楽の形成の歴史を、絵画や言語芸術、
演劇、産業、建築等、と常に真剣に関連させて捉えることの重要さは、強調した方がよい。そ
うすることで、そこに言語が、どうかわっているか、注意するようになるから。
さらに、いえば、日本では、ある種の”言語批判”が無くては、殆ど 西洋音楽に関する本当
に価値ある活動は、不可能であると考えるべきであると・・・・。一見、そう思えないところに、
人は、どこでも重大なナンセンスさ、を作りだそうとする。
本当にジャーナリストでしかないような書き手ならともかく、西洋音楽史をゴシップの連続み
たいにしか、語ることが出来ない人※がいたら、その人は親しみやすい話題で啓蒙しようとす
る人ではなく、西洋音楽のもつ態度に、根本的距離をとってしか接することの出来ない人なの
であり、それは人に、作曲や演奏にあたって、決定的に欺瞞的なポイントを、選んで行くよう
な試みへと、常に向かわせる。
また、同様なことは、今日の、表面的な粗を無くすだけの、音楽教育上のナンセンスな”メソ
ッド”で同業者組合風に支配しようとする目的だけの様相になったりもする。アマチュアであ
ればよい訳では、全くないが、それに比較すれば、一生懸命やっているアマチュアの演奏の方
が、場合によっては、西洋音楽のイメージの根源に近い場合がある。
あえて、乱暴に言ってしまうと、西洋音楽の根本的な難点は、音組織の技術体系と言語表現の
本質的不整合であり、それは、和声法や対位法といったよくある教科書の説明における、言語
表現の悪い意味の素朴さにもなり、そこからだけでも、言語や数に関する混乱、表現やコミニ
ュケーション、進化に関する錯覚が、しばしば見て取れる。それは結局、純粋な音組織上の事
柄、和声、対位法、楽式などにも直接反映するし、また社会上の混乱すら予想しうる。
音楽教育が、大規模に組織化し、大衆化した現代では、音楽に対するイメージの言語表現は、
むしろ一般に退化する傾向にある。というのも、社会の中で自然に、個人的な伝承的関係の方
が、より勝った環境であれば、気楽な表現がし易い傾向があるだろうから。(何かしら、物量
的な価値基準の優先の今日の環境)それは、”開かれている”ようにみえて、こりかたまって
実はしばしば閉鎖的である。しかし、また単に伝統的な環境も、もちろん閉鎖的になる。
こうした、言語表現と音楽の関係は、ここまでのちょっとした考察だけを振り返っても、非常
に重大なものがあると気付くだろう。これまで、一般にあまりにも、こういった関係に対する
注意が、音楽について考える際、欠けていたとはいえるだろう。ありきたりの教科書的な音楽
の進化や流行を、考える前に、自分が音楽を聴いている場合など、何をやっているか、どうし
てこういうを反応したか、その際の、言語的イメージををもっと観察した方がよい。
今日の音楽教育、ポピュラー音楽を含めての音楽産業は、確かに歪んでいて、何か根本的な混
乱を宿すものである。音楽は、確かにある意味で、語れないもの であるのだが、半面、限界
まで語る必要がある。本来、誰しも持ち得るその勇気、とくに言語に本来的に向き合うこと、
に対して、巨大に見える現代の社会や、膨大に見える知識が、だましだまし、挫き、”退化”
を進行させようとするのであって、それは今日の状況へ、深刻に大きく関わっている。
(2003/4/23 記す。)
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† 「科学」崇拝は、本質的には、技術的向上、改善、に決して、直接は結びつかない。むしろ視野を拘束して、機械的なこと、もしく
は、より一般的な分野でも、技術における、よくあるパターン的な発想をよび、”自由な”思考を阻害するといったほうが現実的。
(2003/5/9付記) →cf:ニーチェらの見解・・・
※「流行のタレント」の移り変わりとして、位の見方。(左記の他、本文のアンダーラインや言葉の整理も2,3カ所付記。2003/5/7)
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