AC:管弦楽を伴う宗教的合唱、声楽音楽  :


   Belshazzar's Feast 』0(1931)   『 Gloria 』(1961)The Twelve 』 (1965)  etc 〜    


”オラトリオ 「ベルシャザール王の饗宴」”  (1931)

   一種の”音による絵画”であり、性格は全く異なるが、オーケストラのパレット    と声楽をフルに使って効果的に 情緒 を、作り出す点で、マーラーの”大地の歌”    やRVWの”海の交響曲”と、むしろ良く似た作品と考えたほうがいい。    それは、また各々の作曲家の個性を典型的に示している。マーラーのアンチ西欧    的な”虚無”(あるイミ・絶望)を”華麗に”描き出す(それ自体また逆説でも    ある)のと、対照的にWWは、最も生々しい”旧約的主張”の逸話を音楽化する。    (ついでに云えばRVWのは「希望の未来」?)    それは、新約的 ”寛容”や”博愛”に、隠された土台 ともいえる共同体本来の    原理的信念ですらあり、8楽章で 「・・トランペット吹き、笛吹きたちは沈黙し、    ハープ弾きは手を止め、ろうそくはもう2度と輝くことはない・・」と悲哀を歌う    が、つづく楽章は 決して なまやさしい同情につながらない。 終楽章にあるのは、「罪」に対する報い であり、”戒律”に対する古代的な明 確な罰 という徹底の精神である。 4楽章で頂点に達するベルシャザール王の繁栄は、金 銀 鉄 etcをたたえよと 叫ぶ部分、グロッケン、ウッドブロック、シロフォン、ゴング、2つのハー プ 、パイプオルガン、ピアノなどの他アルトサックスまで用いて 色彩鮮やか な楽器と突然のスリリングな転調、曲想の変化で描出される。 全曲のはじめの方の体を吊るされたようなユダヤの人々の苦しみの音楽と対置 されるが 、この壮大な宴の中突然 宙に現れた”手"の書き出した ”メネメ ネテケルアンファージン”の文字によって、様相は逆転し、その夜のうちに 王も、虐殺され 王国は分断する・・。 ある種水木しげる的な話?”といってもいいのだが、それが音楽において がっちりと描かれる。それは執拗な精神でもある。この曲は日本で思われる 以上に欧米では馴染みの感覚の作品ともいえて、カラヤンなど今世紀最高の ”合唱曲”(?どういう文脈での発言か私は知らないのですが・・・)と まで いっていたハズである。                   ・・・・・とはいえ、この種の ”音による絵画”は、作曲家にとっては描出力                   の腕試し的なところがあり、一般に 大変シリアスな作品 のように言われる                   ”大地の歌”も熟達に至ったマーラーの作曲技法をさらりと上手くまとめた                   ような作られ方で、実は 他の本来の交響曲に比べ明らかに対位法も 簡明で                   構成の奇怪な複雑さも無く 音の層は薄い。                   WWのこの曲の位置は、ある種のわかりやすさという特徴において根本的に                   はマーラーのものと類比的に見ることは可能だろう。    ストレートさと同様 本質的にある程度”エンターティメント”的な要素が                   あるジャンルと考えた方が 正確な理解の得られる作品。                                                ウィリアム ウォルトン 指揮    デニス ノブル (バリトン) リバプールPO                                             1943年録音 アンドレ プレヴィン 指揮    ジョンシャーリーカーク(バリトン)  ロンドン SO                                                    1972年録音       アンドレ プレヴィン 指揮     ベンジャミン ラクソン(バリトン)                                                    198 年録音       デヴィッド ウィルコック 指揮   ジーン ハウエル  (バリトン)   フィルハーモニア 響                                                    1989年録音                                                    (chandos全集盤 8760)        ゲオルク ショルティー 指揮     ベンジャミン ラクソン(バリトン)    ロンドン PO                                                                               1977年録音                                                     (LONDON425154-2)



  ”オーケストラと合唱のための 「グローリア」”  (1961)



交響曲2番のすぐ後頃に 書かれたが、むしろ 構造、表現手法的に、交響曲1番 1楽章と 良く似たもので
声楽的に展開、移されたととれる 一方 ほぼ同時期の 交響曲2番とは、対比的な性格を示すともいえる。
WW戦後のある種のカトリック傾向の本質がみてとれる1つでもあり、また それほど長くないが重要な傑作。





        バーノン ハンドリー指揮 ・・   BBC SO
            
                                      85年 プロムス ライヴ
 


        音色的感覚と重厚なかれの音楽作りとマッチした演奏となりプロムスのエンターテイメントな雰囲気の中
        でも十分シリアスさをともなった燃焼的な演奏・・








      デヴィッド ウィルコック指揮   ネイル マッキー(tenor) アムラル ガンスン(contralto)

                         シュテファンロバーツ(bass)
                                             フィルハーモニア 響

                                     1989年録音

                                       (chandos 8760)





      ルイ フレモー指揮             バーミンガム市響

                                             EMI 19 年録音






                  ” Wystan Hugh Auden ”              ”W.H.オーデンのテクストによる 「12使徒 The Twelve」”  (1965)
                "An Anthem for the Feast of any Apostel"
                    〜使徒の宴のためのアンセム
 オックスフオードの司祭長のカスバートシンプソンの発案で、ともにゆかりあるウォルトンと詩人WHオーデン  (1907ー1973)の協同制作がなったもの。  曲は、普通のアンセムというより小さなカンタータといえ、詩の構成からも 大きく3つの部分で出来ている。   オーデンはブリテンとの関係が有名だが、ウォルトンともこういうつながりで交流を持っていた。  詩は、現代における信仰の必然性の疑義とその答え(もしくは示された全てが真実)というような内容を持つ。  グローリア(もちろんMissa Brevis1966の楽章でない方の)が、伝統的なミサのグロリアの典礼文のラテン  語の詩そのままであったが、こちらはオーデンらしい多層な描出で文化、言語のある荒廃と一般的大衆の在り  よう(様々な混乱した意見が向き合っている姿は、レオナルドの晩餐の12人の弟子の・・ユダも含む・・姿でも  あり、しかし結局それはイエスを中心に円として消失していきつつある姿でもある)社会的な思想の散りばめ  られものが信仰につなげられる。ー12となる月や音など数自体の含意も持つ表題だがわれわれにおける使徒  的な面を考えたほうが 日本語では、そのままにするより、より拡がりが理解し易いだろうー  また全体の構成を考えた場合、中間部の I forsake thee Forsake me not、というところとグロリア  のミゼーレ ノーヴィス・・の言葉の部分と良く似た感じで情緒の転回点になっている。またグローリアが大き  なオーケストラの響きによる流れを作り出しているのに対し、こちらは全体的により線的で静止的な構成で第  3部分のTwleve as the winds and the months are those who taught us these thingsで始まる力強い  がすっきりしたフーガ的なしめくくりをとっていることも注目される。  最後もベルシャザール(シットウエルのもの)の終わりを明らかに意識した詩に、少々こじんまりした感じと  楽しさでもって終わる。このある安定感は「・・・envisaging each in an oval glory、」という言葉に顕れ  ている。(こういった発想も、シュペングラーの『・・意欲と必然との方向が狭く包まれている円の中に与えら  れている・・』といった発想などと並べて対比的に意識しなければ、ほんとうの理解にならない・・・)TSエリオ  ットもオーデンと良く似て、このような多層に響く世界の理解の投影した言葉を操る詩人だったがエリオット  はより純粋明確なイメ−ジに拘った代わりにより神経質なタイプで、オーデンはより大雑把な格好で社会主義  的な問題意識を受け入れるタイプでもあったゆえにより許容性があったともいえる。オーデンにはIschiaイス  キア島を”君”と讃える興味深い社会批評性の入り混じった詩もある『・・・無償なもの は、ない。君の請求す るものは支払おう。そうして、異国の光の満ちたこういった日々が、沖積層 の上の大理石のマイルストーンと  なり、人生各々の中で際だつことになろう。』 が、 この作曲家との ゆえ ある共同製作は十分成功したも  のといえるだろう。    (2002/9/17)   ⇒  のちに作曲者自身のおきかえたオルガン伴奏で演奏されるときと、オーケストラでの場合がある。
   ●  R ヒコック指揮       シティー オブ ロンドンシンフォニア      CHANDOS 8824    ●  ザ・フインジ・シンガース                        CHANDOS 9222           以下は、オルガンを使ったもの。    ●  リチャード・マーロー指揮 ケンブリッジ トリニティーコーラス      CONIFIER CDCF164                  ← BACK◇              → HOME◆
    ※ memo  : 余分な話ではあるけれど、この原作者による、初期のカラーTVアニメーションシリーズの中、             『隠れ里の・・』という回は、数百年前の少年の指が、地面に”はし”という文字を書き込み、             すぐ骨となって風化してしまうシーンに始まる話である。この文字が、きっかけとなって虹の             橋の向こうの連れ去られた子供たちの「ユートピア」の世界は、瞬時に崩れ去ってしまうこと             になる。ほぼ似た時期に(少し後?)『未来惑星ザルドス』なる映画(この映画自体が凄く出来             が良い訳でもないが題材や映像イメージには、それなりに核心的なものも含まれる)やもテーマ             は重なっている。             一種のユートピア論。・・・・・             これらの場合の崩れ去る世界は、70年代的な問題意識の反映で もはや”本来の人間的世界”が             相手では一見無くなってしまっている。これは2次大戦後の世界の深刻な「断絶」の反映した姿で、 ピート・シンフィールドなどの詩の位相も、結局 ここあたりににある。             それに対すれば、ベルシャザルの世界は、まだしも幸福な「芸術家の世界」であるとも、逆に云える訳             だが・・・・                                        [この注の部分、2001・1月頃 記述]     ※ memo2 : もちろん、これは歴史上の「バビロン補囚」時代(一応 BC586-BC538)の話だが、この曲が書かれて数年後、             ナチズムが激化するとクービンの”首吊りの木”風の苦痛の光景が、醜悪な現実として、人種的問題と関係し             そこここで発生してしまうこととなる。この曲の前半の詩の”吊りさげられた”という句の持つ気分も、時代             のクービンの絵のような雰囲気が、相当投影されたようなもので、全体のムードもその種の曲調といってもい             いと思われる。             また、             シュペングラーなどは、この古代史上の重要事件である「バビロン補囚」を単純な悲劇的事象とだけで捉えて             いないのが、興味深い。バビロンから帰ってきたのは、ある種熱狂的な一部のユダヤ人であり、キロス王(前             559-前530ころ)によって帰還が許された時も、ペルシャの方が恵まれていたくらいだったので、そのまま帰っ             たのはユダヤ教の主たる人々でないのは重要としている。またこの時代にユダヤ教は、天啓教的な影響を受け、             ユダヤ的予言でないエゼキエル書などの天啓的予言、さらに第2イザイヤ書(ダニエル書も?)などの表現に見             られる黙示的傾向の強まったイメージとして現れ、一方でその黙示宗教としての改宗と転向のマギ的傾向を進             展させ増加し、エゼキエル書に出始めている法律的傾向は、一方のエルサレムでユダヤ的な法律への強い傾向             と分かれて対照的に発達するきっかけのように捉えている。             「・・・”法律と予言者と”これは、殆んどユダヤとメソポタミアの差であるといってよい・・・」(シュペングラー)             すなわち             ペルシャ的要素を吸収したことの重要性で、例えば この位の頃の人物らしいゾロアスターに見られる拝火教             の思想の影響としての善悪と等値的交代(もちろん最後は善のアイオンが帰ってくる・・・)は、この話しに典型             的なように旧約聖書の描出を力強くしているのにつながっていそうである。             そしてこの種の感覚はウォルトンにおけるこの曲の重要さと、曲調の独特さに関係していると想像することが出             来る。交響曲1番の2楽章の発想表記に、con malizia「悪意をもって」と書き込むのも含めて、例えば同じこ             の旧約の話の詩につけたシューマンの歌曲に全くない特別な生々しい人間の感覚(逆にシューマンのものは今日             の既成の芸術のイメージの中に収まりやすいものでもある)をもっているのは何か非オーソドックスなムード例             えばある種ゾロアスター的発想が、作曲者の発想の中にある可能性でもある。             このことは、当時のイギリスの国家的な中東植民地経営でアラブ・インド-ペルシャ文化が、ロンドンに流入しや             すい現実的背景もあるし、そもそも教育制度の枠内で、客として扱われる日本人が考える以上に、エデッサ伯領             などの持つ遠いコロニアルな存在に対する幻想的イメージは20世紀になっても一般に強く体内に身近なものとし             て存在する問題ともいえる。(ブレイクのエルサレム・・・)             この曲に関して成立の経緯に加えこう言ったことを考えるにはより、資料的な準備の必要な問題にもなるわけだが、             実際ウォルトンは、後年「もし、自分がシェーンベルクとソラブジの影響だけの作曲家だったら、ずっと狭い存在             に留まっただろう・・・」と告白しているくらいであって、積極的に前面となって登場しないという生き方も含め、             普通考えられている以上に、ソラブジ的なものが、20〜30年代位に全体的に作用している可能性は考える必要が             ある。・・・・・                           (この部分、2001・12月09日記述&2002・6月16日下12行位付け足す。さらに、2003・9/2 2段目の変なミスを改め、2行分程加筆。)             ※ 付記: ヨーク州生まれのオーデン(北欧系の家系)は、39年ニューヨークにやってきて46年アメリカに帰化す                   る。(エリオットの逆パターン?)彼は、自らをニューヨーク市民と語るのが好きだった。また、イス                   キア島で夏を過ごすのも彼のお気に入りで、1957年にオーストリアに家を買うまで習慣としていた。                   この変化は、オーデンの思想の転機を示すと云われており、重要な詩「南国との別れ」に顕れている。                                              (2002/9/20)