小矢部市の歴史上のトピックス



桜町遺跡 −先史・縄文時代−

 この遺跡は、昭和63年に発見された縄文中期末から後期初頭の遺跡です。この遺跡から、縄文当時の貫穴、欠込などの加工された柱材(=>小矢部ふるさと歴史館展示へ)が出土しました。これは、高床式の建物の柱と考えられています。

 このような建物の出現は、弥生時代以降というのが定説でしたが、それが、この発見により覆されたものです。

これは出土した柱材(小矢部市教育委員会資料から)
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倶利伽羅峠の戦い −中世−

 寿永2年(1183年)5月11日夜、この倶利伽羅峠で、木曽義仲軍4万が火牛の計により、平維盛、通盛を将とする10万の平家軍を破りました。木曽義仲軍は、倶利伽羅峠で野営中の平家軍を、数百頭とも言われる角にたいまつを結びつけた牛を先頭に、四方から太鼓、法螺、ときの声を上げて源氏軍が襲い、谷は、平家軍の死傷者で埋まったと言われています。

 木曽義仲が、戦いの前に戦勝を祈ったとされる埴生八幡宮(重文)が麓にあります。
この倶利伽羅峠は、越中と加賀を結ぶ交通の要衝でした。



砺波郡の守護代遊佐氏 −中世−

 室町期の越中の守護、畠山氏は、越中4郡のうち、射水、婦負の2郡の守護代に神保氏、新川郡の守護代に椎名氏、そして砺波郡の守護代に遊佐氏を充てました。

 砺波郡の守護代遊佐氏は、小矢部市石動の南の蓮沼にあって砺波郡を支配していました。当時、ここは、蓮沼3千軒と称され、繁栄したと言います。

 蓮沼は、遊佐氏の城下として栄えるとともに、近世の今石動と同様、舟運と陸上交通の結節点として栄えましたが、近世に加賀前田家が今石動に城を築いてからは、その交通上の地位は、今石動が継承したと言えると思います。




勝興寺 −中世−

 富山県の一向宗(浄土真宗)の2大拠点は、井波の瑞泉寺と「勝興寺」でした。この勝興寺は、現在の福光町土山に本願寺八世蓮如の4男蓮誓が土山御坊を開いたことに始まります。

 その後まもなく現在の小矢部市末友に移り「安養寺」と称し、さらに永正14年に「勝興寺」と改称し、瑞泉寺とともに一向宗の中心勢力として宗教的、軍事的活動を続けました。

 その後、16世紀末に神保氏張の寄進によって、現在の高岡市伏木に移っています。



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