富山県小矢部市について
1 小矢部市の見所(資源) 2 小矢部の歴史関係の資料館
3 小矢部の歴史上のトピックス[桜町遺跡・倶利伽羅峠の戦い・遊佐氏・勝興寺]
小矢部市は、人口3万5千人余りの町。かっては砺波平野の中心都市として栄えました。小矢部市の中心市街地である石動(当時は今石動)に置かれた今石動町奉行が、江戸時代を通じて、富山県西部の砺波平野と氷見平野で町立てを許された、今石動、城端、氷見の3町を支配していました。また、砺波郡と射水郡のその他の町々は、郡奉行の支配に属していたのですが、今石動の奉行所は、江戸時代の初期には、同時に砺波郡、射水郡の郡奉行を兼務していました。[地図の下へ続く]
■小矢部川の舟運
この石動が、砺波平野の中心都市であったのは、小矢部川の舟運のためです。富山県には、多くの河川がありますが、急流河川が多く、砺波平野で最も舟運に適した河川が、緩やかな流れの小矢部川でした。
古代には、小矢部川河口の伏木(高岡市)に「越中の国府」がおかれましたから、京都から越中国府への行程は、加賀から北陸道を通って倶利伽羅峠を超えて越中に入り、石動のあたり・・・・・(古代は北陸道の宿駅が置かれた「坂本」、中世には「蓮沼」、近世には「今石動」)・・・・・で舟に乗り、小矢部川を下って国府に着くという道筋でした。また、この時期小矢部川河口東側には越中最大の「亘理湊」があったことが知られています。
さらに、中世には、同じく小矢部川河口東に隣接する「放生津」が日本海沿岸交易の主要な拠点となっていたことが知られています。この「港湾都市」放生津には越中の守護所が置かれていました。つまり、古代から中世に至るまで、一貫して小矢部川の河口近くに越中の国府や守護所が置かれていたわけです。
一方、砺波平野最南部に位置する「高瀬神社」は、貞観元年(859年)には、国府近くにある当時の越中一宮の二上神(射水神社)とともに、同格の正三位の地位が与えられています。これは、この周辺にこれを祭る越中最大級の勢力があったことを意味すると考えられています。また、これとの関係が明らかではありませんが、天平19年(747年)に大仏造立のために米3千石を寄進して外従5位下を授けられた砺波臣志留志をはじめ、越中の土着の有力豪族として砺波郡司職を9世紀前半まで独占していた砺波臣氏の存在が知られています。これは、砺波平野と国府を結ぶ小矢部川舟運の重要性を示すものといえます。
■交通の結節点だった小矢部市
つまり、小矢部川は、古代から越中の大動脈であり、石動は、その交通の結節点だったわけです。また、石動から上流の砺波平野の米をはじめ多くの物産が、小矢部川を使って運ばれていました。江戸時代には、越中の米の値段は、今石動で決まったと言われています。
ですから、富山県で最も早く敷かれた鉄道は、今のJR城端線(当初は地元資本による「中越鉄道」)なのですが、これは、この小矢部川の舟運を代替するねらいを持っていたのです。小矢部川が砺波平野の西部を流れているのに対して、この鉄道は、高岡(伏木)と砺波平野南部とを砺波平野の中央部を通って結ぶものでした。以来、石動は、砺波平野の中で少しずつ地盤沈下してきたというわけです。そこで、
■ 小矢部活性化のための私の提案 (なお[下の地図の下にも少し])
小矢部市の位置
■ 小矢部市南谷地区について[地域・メルヘン建築・城など]
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