※『小林秀雄のモオツァルト』について:J     

   ◆ J ◆  

                                       


【J・B】



        1  確実性について
  

  「・・真らしいものが美しいものに取って代わった、詮ずるところそういう事の結果であろうか。
    それにしても、真理というものは、確実なもの正確なものとはもともと何の関係もないもの
    かも知れないのだ。美は真の母かも知れないのだ。然しそれはもう晦渋な深い思想となり了った。」
                           (小林秀雄 モオツァルト5/末から3行ほど)             


  ここまで書いてきたように、言語的活動における「形式」には、根本的に、使う人の”考えるにおうじて”ということや、
  ”感じ”が、深く係わっているし、また、様々で無数の形式は、私たちがやろうとすることの”数学的多様性”に応じて
  決してこれという決まったものに固定されず、むしろ、無数に変わりうるものなので、それが、中心的に、「論理」に関
  係しているのなら、私たちの社会の様々な技術を支える様々な科学的知識における命題、そして、その操作、応用の最も
  確実な拠り所になりうるのか?という疑問は、当然ともいえる。 

  上に引用した小林の文章で、「美」と「真」といった話はちょっと措いておくけれど(参照 TLP4,003)、真理というも
  のと”確実なもの正確なものとはもともと何の関係もないもの”なら、甚だ言い過ぎにせよ、真理と確実なものとの関係
  は、実は複雑で、ある部分”もともと何の関係もないもの”ですらありうるという洞察ならば、重要にはちがいない。

  わたしたちが、何となく思う”感じ”にたよらず、問題のありそうなところはちゃんと一々「計量」してみることの重大
  さ(ケプラー、ニュートン的な数値処理に魔術的なまでに拘る物理学的世界記述からの画期的な成果・・)、また「用語」
  を使用する際必要ならば、定義(言い換え規則)を承認したり、また、論述に際して「関係資料」の信頼性、一見つまら
  なく、面白みのない資料でも、明らかに確実性の高いものを、総合的に整理して並べてみること、成立年代や場所、由来
  などを出来るだけはっきりさせた上で、提出し論ずること、また、出来るものは、この場で再現実験してみる。場合によ
  っては、人間のやったことと機械のやったことを比較してみる・・・etc (様々なチェック機構を設けておく)

  こういった類のことは、典型的な”検証”の例になるが、こういったことが非常に重要であり、今日も決して慢心出来な
  い注意事項であるのはもちろんのことなのである。そして、この手のことをやるというのが、むしろ、ある確実性そのも
  のとすら、いっていいことなのである。(形式という考え方が、アイマイという以前に・・・)

  とはいえ、今、そういった注意事項を含めた、私たちの言語的活動の様々な「ゲーム」が、何か非常に上手くいっていな
  い面がある。というのは、かっての人間の社会の優れた成果の残っている多くの時代に比べて、明らかにより根本的に不
  安定な危険を今日の社会が持っているということは、重大なその特徴であり、決して単にジャーナリズムが騒いでいるだ
  けのことでもない。かっての社会を支えた人々が、今日より、全般に発達した諸技術への知識を持ち合わせていなかった
  のは間違いなかろう。また、ずっとそういった知識が私たちに重要なものになっているのも間違いはなかろう。
  (かっての、その種の無知が社会に幸いし、一方、今日の人々の知識が不可避に、こういった不安定をもたらす、というより、その知識においてわれわれの、
     本来ある”本能”めいたものが欠損している・・と私には思える・・)(ここまで2007/5,2-3)
                                     
  「ゲーム」を、より面白く、安定して営むためにはゲームそのものを変えてみる・・、もしくはゲ−ムのチェック機能・・
  「検証方法」「ルール」を変えてみる、もしくは、そのどちらもやってみる。(ゲームが変わったのか、ルールが変わっ
  たのか問題となることもあるだろう・・このことは「形式」と規則の関係に非常に類似していることに注意。下記に補足)

  その際、「検証方法」「ルール」の扱いにより注目してみることは、必要で、先程挙げた典型的な”検証”の例などが、
  純粋になされるのなら全く必要なことだが、問題は、そういったことが偽装されたり、根本的に混乱して用いられるせい
  で、簡単に”超出した”ものになってしまうことである。(もちろん、いわゆる”超越論的な問題”のかって扱ったこと
  に近いわけだが)大事なのは、その範囲にはいらないものは、それに相応しい言い方をしているか?ということでもある。



  「(”私には2本の手がある”というときその信憑性を示すために何を付け加えることが出来るか四四五)12x12=144を
   それと比較せよ。ここでもわれわれは「多分」という言葉を使わない。われわれが計算違いをしない、計算に際して
   感覚はわれわれを欺かない、といったことがこの式の支えになっている点から言えば、算数の命題と物理学の命題は
   同じ水準にあるのである。私は言いたい、物理学のゲームは算数のゲームと同様に確実であると。だが・・私の指摘は
    論理学的なもので、心理学的なものでない。」四四七

   「こう言いたいのである。算数の命題(例えば九九)が「絶対に確実」であることを不思議に思う人はいないのに、
    ”これが私の手である”という命題が同様に確実と言われて、どうしてそんなに驚かなくてはならないのか。」四四八
                            (ウィトゲンシュタイン『確実性の問題』全集9p122)

   この最晩年の考察は、例によって箴言形式で、676番まであるものだが(大修館の全集で)、結局、「論考」以来
   の、様々な問題を、このテーマに沿って説きなおした、といえるようなもの。(そもそも「論考」で明言できなかった
   要素命題の実例の指摘と、この最後の草稿は関係がある・・・)この厄介な問題に対して、『確実性の問題』は、全体が、
   だんだん移り変わるように出来るだけ、細かい穴を埋めるように話が、続けられているもので、極部分的に取り出すの
   は、もちろん難点はある。

   けれど、こういった部分だけでも、非常に重要な見解が端的に見て取られるので、便宜的ではあるけれど、ここで少し
   説明してみる。

   まず、”算数の命題と物理学の命題は同じ水準にある””同様に確実なゲーム”四四七という話だが、これは、その前
   に””私には2本の手がある”四四五p111という”言語ゲームの中で作動する存在に関する疑い”二四p13とも、同じ
   水準にある確実をもったゲームなのであるということが大事なのである。
   すなわち、一見、経験命題であるような物理学の命題も、また、さらに、一見あやふやであるような”私には2本の手
   がある”という命題も、”計算に際しての感覚がわれわれを欺かない”ある安定した言語ゲームの成立である限りにお
   いて、むしろ全く同じ論理学(→言語的な状況=位置関係、を記述するものp20五一)的水準の確実性のゲームでもある
   という指摘なのである。

   そして、さらに”私には2本の手がある”という命題(『確実性の問題』全体が、この種の命題について論じたもの
   ともいえる・・cfデカルトの哲学の第1原理)は、”検証体系の全体”p71の基底をなす検証の命題でもあるということ
   が、強調されているのが大切なのである。だから、ウィトゲンシュタインの場合、むしろ検証ということは極めて重
   視されているといった方がよいのであって、よくある観念論的言説(cf独我論)と異なることは、踏まえておかねば
   ならない。ただし、普通考えられている実証とルートが違うことにはなる。即ち、ナポレオンの存在を疑うより、15
   0年前の大地の存在を疑うほうが、ありうる話になる。一八五p52
                                                                          (2007/5,4-5)
    「ナポレオンの存在を疑おうとするのは私には滑稽に思える。しかし誰かが百五十年前の大地の存在を疑うとすれば、むしろ私
     は彼の言葉に耳を傾けたくなるだろう。彼はわれわれのもつ証拠の体系をすべて疑おうとするのだから。私にはこの体系が、
     それの内部で成立する確実性を上廻るような確実性を享受する、とは思えない」一八五全文(p52) この引用文のみ追記5/12

   この例は、表面的な文法上同じよう扱われる命題でも、各々いかにその命題の使用されている違ったゲーム(≒形式)
   が、成されているかが判る代表的な例であって、ナポレオンの存在を疑うのは、滑稽な意図しか殆どありえないが、
   ”150年前の大地の存在を疑うことは、(むしろ)・・・歴史的証拠体系そのものを覆すこと”p53なのであって、そうい
   った証拠付けの仕組みそのものを、問題にしてみる滑稽以外の立場は十分ありうる。


   しかし、この種のことは一般に非常に軽視される傾向があり、本来、人の”そういう言い方をするだけのこと”という
   べきものや、隠れたある種の文法上のことが、何でも「錯誤」として扱われ(→フレーザーの手法)、詰まるところ、
   特定の立場を利するように歪ませられてしまう。
   ”私には2本の手がある”という命題が、重要なのは、本来、算数の命題と同じ水準の言語ゲーム(結局、言語的状況
   のうえで、われわれの確実性のレベル、由来を同じくするいわば「核」・・LWの言い方ではないが判りやすく云うと・・
   となっているもの)であるのに、それが、日常言語の延長した、連続した感じを、明らかにもたせるものであることに
   ある。そして、この発想に如何に人々が、抵抗を示すかを教えるのが、大概、人々がこの見解に”驚いて”しまうこと
   でもある。即ち、如何に人々が数学的命題に、何か特別なものを見ようとし、逆に日常言語における計算に際しての感
   覚、文章の中の論理、文章の感じ(論理的)を無視しようとしているか、なのであって、又 それはよくある論理学の
   ”教科書”中のニヒルに歪めた様な、本当は、妙な文例と対応させて、見てみる必要がある。
   (LWが ”意図的に”極限的な不思議な文例を作っていることに注意!・・ついでに言えば、ここ辺りの用語をずらして置き換えていく、本稿の説明のしかたは、
    もちろん、ウィトゲンシュタインに申し訳ないほど簡略化しているともいえるけれど、本稿の立場は、以下で説明する・・)
    
   本来ある言語の感覚に対するニヒルな態度が、むしろ、全般的に「検証」や「確実性」に対する、大きな混乱を生み育て
   影響を与え続けているというべきか?

   物理科学的な論述、もしくはそれを範例とする自然科学の論述の他に、フレーザーの扱ったような人々の文化的な事例
   、さらには、より”近代化された”文化事例に至る様々(競技、演劇、詩文、舞踏、音楽、絵画、広告、映画etc)など
   を扱い、「検証」や「確実性」と十分相容れる立場を作るには(むしろ、その立場を得ること自体も現代のひとつのゲ
   ームになっている訳だが)どうすればよいか?   (2007/5,6-7)

        2   説明について

   「フレーザーの『金枝篇』について」は、実は、最もLWにおいて、その辺りの重要な指針がまとめて置かれている、
   著作だと、私見では思うのだが(多分、現在残っている資料関係に最も詳しい人でも、そんなに異論は出ないと思う・・)
   フレーザーの扱ったような人々の文化的な事例に関して、どのような扱い、または「説明」(それが必要ないという
   可能性も含めて)が、望ましいか、もう1度(【T・A】の2で部分的に話題にしたので)、ここで全体を出来るだけ、
   簡単にまとめてみたいと思う。(なるべく、当の全文を読んで、以下の要約がそんなにひどくないことを確認してください。[]内の部分は、とくに本稿筆者の暫定的補助記述)


   1)「錯誤」が、使えない場合。

   ”私には2本の手がある”というような命題が、確実性の基礎となるという話は、一般的な人々考える「検証」というも
   のの捉え方と、甚だ異なっているわけで、150年前の大地の存在を疑うという話も[例えば恒星の核エネルギーサイクルな
   どから論じたりするようなものが「検証」みたいに考えるもの]大事なのは、私たちにとって、安定的な理解は必ずしも
   物理的世界記述と同じルートではない(感覚与件)ものであること。分かり易くいえば、もっとデリケートな記述、説明
   が、人々の不用な混乱を、防ぐためには非常に必要。特に、「間違い」「錯誤」という言い方の汎用は、「検証」に関す
   る混乱の代表的なもので、野蛮なものといってよく、典型がフレーザーの用法になる。

   すなわち「宗教的象徴の基礎」の文脈に「錯誤」は相応しくない。(p397参照)にもかかわらず、そうするのは「科学」
   の説明を単純に適用するため(p398参照)で、むしろ、「すべての儀式は、・・本能-行為と名づけうるもの」(p409)であ
   り、そして、そのような「全過程、意味の変化は今でもわれわれの眼前に、われわれの(現在の)言葉のうちにある」
   (p406)もの。[だから、そちらと全体的に比較すべきである。]

   2)「説明」は慎重?に。

   まず、「人は、人が知っていることを正しく集めること」が、必要で「何も付け加えないこと」(p395)が、大事。
   説明は、「満足が自ずから生ずる」(p395)程度でなくてはならない。

   そのままに「記述された資料の感銘」(p396)が、確かなもの。
   それに比較して、「説明」は、仮説にすぎず、不確実。
   「本当の宗教的行為のいかなるもの」も、「説明されるものであり[うるところがあり]」「説明されない[ところがあ
   る]ものでもある。」(p397)
   「(儀式の共通の要素を関連づける線を引くことをやって欲しいが、)深みを与える大事なところは、儀式の表象をわ
   れわれ自身の感情や思想と結びつけるところだが、そこは「欠けている」部分になる。[そこは、むしろ直接は述べて
   いない部分になる](p413)

   (ネミの祭司王などの話で)「それに感動するものは、それをこのような生き方を通じて表現できる。」
   [その感動を、伝えようとするものは、伝える人自身の、そのような生き方を、通じて表現できる・・]
   それは、「説明」でなく、[むしろ]「ある儀式を、もう1つの儀式の代わり」にすることである。(p397)

   だから、単純にフレーザーの扱ったような人々の文化的な事例に、おいて、「説明が不可能」とウィトゲンシュタイン
   が考えているわけでないことが分かるが、そのことは、次の問題に関してより明白になる。

   3)「歴史的説明」「俯瞰的説明」の仕方。

   「諸々のデーターを、それらの相互関係という点で観察すること。また、ひとつの普遍的表象にまとめてみること。」
   (p404)が、根本的なことなのであって、

   「歴史的説明、進歩という仮説としての説明」(p404)は、「データーをまとめる」あくまで、その「ひとつの仕方-
    その概観-に過ぎない」(p404)のである。

   だから、「時間的進歩の仮説という形で、それを行わないこともまた可能」 (p404)また、「植物の組織との類比」
   「宗教的儀式の形式」を用いること、「事実の材料を幾つかの群に分類することだけによって」「俯瞰的叙述の形」
   なども、同様に述べることが出来る。(以上p404)


    [全世界的、全歴史的に見る]
   「俯瞰的叙述の形」は、[特に西欧近代に出てきた見方であるともいえる。]「われわれにとって根本的意義」(p404)
   それは、[近代的]「ものの見方、世界観の特徴」でもある。

   「俯瞰的叙述の形」は、あくまで、「関連を知る」「連結項を発見する」(p405)程度にとどめなければならない。
    その「仮説的連結項」は、「事象の類似、連関に、”注意を向けさせるため”だけのもの」である。

   というのも、「諸々のデーターを、それらの相互関係という点で観察すること」それと「普遍的表象」の関係は、
   根本的に「内的関係」(p405)を述べる言語のありかたなので、物理的世界記述と同じような論述は出来ないのである。
   [このような論述は、如何にデーターを集めたとしても、「検証」から全く逸脱していることになる。]

   [また「内的関係」は、円形と楕円の関係を見ることに似ていて、何か円的なもの(例えば西欧古典古代)から、
    ある楕円的なもの(そこから進歩したもの)への変化を見る見方である。しかし、この見方も「進歩の仮説」
   であって、ひとつの仮説に過ぎず、こういう「歴史的説明」「俯瞰的説明」の最大の目的は、「形式的連関に関する
   われわれの眼力を鋭いものにするためのもの」である。(以上p404参照、また本稿既出の【T・A】の2参照)]


   3)(人の儀式的営みの)「内的本性」とは。(1)

   「(ペルテーンの火祭りの慣習において)われわれに陰鬱な気分を起こさせるのは、明らかに現代の慣習自体の
    内的本性であり、(一方、それに関する)人間供儀についての周知の事実[様々なデータ]は、この慣習の考察
    する際の方向だけを示すにすぎないもの。」(p414参照)

   「(フレーザーのこの書全体で説明しようとしている)ネミの祭司王の慣習の理由は、もともと答えられている。
     ”恐ろしいから”である。」(p395)
    「ケーキを使ってくじ引きするのは、何か恐ろしさの気持ちを起す。(ユダのにせの接吻)。とるに足らぬことで
    突然争う男にみる”恐ろしい人間”」(p417参照)


    [「このような慣習は、太古のものであるに違いないと思わせる確信」というものが、あって、それは「深さ」
    と関係があり、「由来についての考え」とも言うものだが、このようなものに検証法があるのか?データと
    なるものは何か?確実なのか?そのような確信の証拠は、(むしろ)非仮定的、心理的なもの・・・](p416の簡略化)

    「人間供儀についての暗さと陰鬱さ」の由来は、まず犠牲者の苦痛。しかし、単なる苦痛(病気などの)でない。
    その苦痛は、「外面的行為の歴史」を見聞しただけで、自ずと明らかになるものでなく、それを、再び
    「われわれの内なるもの」に持ち込んで成立するもの。(p416-7参照)


   4)(人の儀式的営みの)「内的本性」とは。  (2)その原理といえそうなもの・・

    だから、「人は、原始的風習を、自分で制作できるであろう。そうした慣習が現実にないとしても、偶然的。
    このような慣習を秩序付ける原理は、フレーザーの説明より、元々はるかに普遍的。われわれの心の中に存在
    するから、自分であらゆる可能性を考えうる。・・」(p399の要約)

    その原理といえそうなもの・・「呪術は、つねに象徴作用と言語の概念に基づいている。」(p398) さらに、
    病気治療の儀式の際、「単純なイメージにおいては、擬人化が大きな役割を演ずる」(p401)ということも、また
    「何かに激怒しているとき、・・杖で大地を打つ」「このような行為は本能ー行為と名づけることが出来る。・・すべ
    ての儀式は、この種のもの。・・これに歴史的説明をするのは、ごまかしで、余計な仮説。」(p409)
    という文章も注意すべき。

    「(人形を燃やす、愛すものの写真に口づけする)似姿[象徴]への行為は、対象に及ぼす効果への信に基礎を、
      おくのでなく、満足感。」(p397)

     しかし、それは単なる個人的なものと言っているのではない。
    「自分で創作した祭りがあっても、すぐ死滅するか、一般的人々の好みに変えられるだろう。」
    「祭りの起源の仮説の基礎になるような確信は、1人の人間のあてずっぽうでなく、
     無限に一段と広い基盤が要ること。」    (p417参照)
 
    そして、「慣習の内的本性という場合、私が言おうとするのは、・・祭り(自体)の報告に含まれていない、
    あらゆる状況のこと。・・これらの状況は、祭りを特色付ける特定の行為の中よりは祭りの精神とでも名づける
    ことの中にあるからで、そして、この精神は、例えば、祭りに参加する人々の種類、彼らのここ以外での行状
    、すなわち、彼らの性格、彼らが祭り以外のときにする遊びの種類を記述することによって、記述されるもの」
    「こうした記述から、祭りの”陰鬱な性格”は、人々の性格自体にあるものであることがわかる。」(p414)


   5)言語と「幻想」。

     「私に感銘を与えるものは本当のところ思念に過ぎない・・思念には何か恐ろしいものが宿っていないか。
      然り、だが、私がかの物語の中にみてとるものを、あなたは証拠によっても、それと直接結びついて
      いないと思われるものによってもー人間たちとその過去についての思念よって、私が自分の中や他人
      の中に現に見、そして見聞きしてきたすべての奇異なるものによってー手にするのである。」(p420) 
   
     「人間は自己の幻想を楽しむものである、ということを自明とみなす場合、これらの幻想は画かれた絵
      または造形的摸像のようなものでなく、言語と心像という異質的な部分からなる錯綜した形象である
      ことを十分考えてみるべき。」(p402)


   6)儀式の「顔の多様性」と「共通の精神」。


     「これらすべての儀式の類似以外に差異がもっとも注目すべきもののように思われる。それは、そこここに
      繰り返し現れる共通の特徴を持つ顔の多様性である。そして、して欲しいことは、これら共通の要素を関
      連付ける線を引くことである。」(p412)

     「これらの異なった習慣は、すべて、この場合問題になるのは1つの慣習の他の慣習からの由来でなく、
      ある共通の精神であることを示している。そして、人はみずからこのような儀式をすべて創作するこ
      とができよう。そして、それを考え出す精神はまさにこの共通の精神であろう。」(p420)


   7)・・・ここでの、まとめと注意書き(メモ・暫定的な方法) 


     単に未完の草稿であるという理由だけでなく、むしろ、文脈の限界を強調するように、もとの文章構成は、
     非常に入り組んで、バラバラみたいにおかれているが、ちょっと以上のように整理しなおすだけでも、大変
     重要な指摘がされていることが分かると思う。(もちろん、上で洩れている重要な論点もある。後で、取り
     上げるつもりの箇所も幾つかある・・) (2007/5,8-10ここまで書く) 

     ここでまとめた以上の論点のうちでも、やはり大事なのは「内的」という言葉になる。本稿の【T・A】の2
     辺りでも取り上げたように、ウィトゲンシュタインの「内的」と「形式的」というのは深く関係ある用語なの
     で、「内的本性」というのも、この場合、祭りのもつ「形式的」な根本性質というように捉えても、大体大丈
     夫と思う。そういったものは、根本的な性格の特徴、根本的なムード、をもって表れることに、注意しなく
     てはならないということ。

     フレーザーの扱ったような、人々の文化的な事例に関して、説明したり、論及したりする際に、それが人間
     の言語的活動の「内的本性」に関わっていることに、とても注意しないと、「検証」や「データー」が、どこで
     有意義なものか、そうでないのか?がフレーザーに限らず、今日も簡単に見失われるのである。
     儀式に関すること、”象徴作用”に関することは、一見、それをそれだけで捉えれば、不合理で馬鹿げたこと
     に見えるのであり、それは今日人々が行っていることにも丸っきり存在するのである(議論に白熱してきたと
     きテーブルを叩く人に、テーブルに何の関係があるのかと問うような実証性・・)。逆に、”象徴”といえば何
     かもっともらしいので、本来、各々響くはずの必然性、関係性への公算も乏しく、全く空疎な詐欺の一種の占
     い文句めいた「象徴」にすませてしまい、ただ歴史的民族誌的「データー」風に並べれば事実として商売にな
     る・・風な論述はありふれている

     大事なことは「全過程、意味の変化は今でもわれわれの眼前に、われわれの(現在のごく日常的な)言葉のうち
     にある」(p406)ことであり、さらに、この人々の文化的な事例に関する説明の場合、単なる「説明」というよ
     り、むしろ「ある儀式を、もう1つの儀式の代わり」にすることなのであって、根本的に、説明しようとする
     人自身の感情や思想と結びつかない(あえていえば各々が追体験しないと)と、「内的性質」をもつ言語として
     本来成立しないものなのである。直接言及していることでなく、その説明する人のあり方が全体として、どう
     重なっているかが、決定的に本来の”正確さ”に関係あることなのに、容易にそれが忘れられること。

     一方で、加工せず、資料をそのまま並べてみる重要さが、強調されているし、しかも、直接、「祭り(自体)
     の報告に含まれていない、あらゆる状況のこと」も大事にされるので、例えば、今日 多くの人が言いたが
     る、人々の生活基盤、人口構成、気象条件、産業形態、交易関係、歴史的諸資料・・等々を、並べてみること
     は、全くよろしいのである。
     しかし、今日ではありがちな「解釈なし」(解答なし)というのも結局”不安な”(p419参照)怪しいもの。
     それが、何らかの形で影響があるのは当然だろうから、「解釈」「仮説」は、現実的に常に係わり、そのやり
     方が、本当は問題となるはず。

     ウィトゲンシュタインの「検証」や「確実性」の捉え方で、とても優れているのは、個別の技術や、諸々の資
     料を、そのまま並べてよいことである。ただ、そういった論述にありがちな、言語の現実的な「核」となって
     いるもの、あなたの今しゃべっている「言語の成立する過程」「ルート」、の誤解からくる重要な欠落部分を
     埋めることは、行う。でしゃばらない”活動”自体、むしろ「理論」以前のもの(p422参照)としての位置づ
     けの有効さ。      cf TLP4.112/6.53/6.54/4.0031

     そこから、「歴史」や「顔の多様性」といった説明すらもウィトゲンシュタインの哲学から直接可能になって
     くるのだが・・上記、2の2)&6)参照、今まで、十分に考えられてこなかったと思う。そもそも、上でも、中心的な
     問題になる、「内的なもの」「形式的」なものについては、実は、とても捉え辛いものだといっていいものだ
     ろう。今までのウィトゲンシュタインの解釈者が 例外無く失敗してしまったのもそこにある。もちろん、そ
     れに関して、ここまでいろいろ説明してきたつもりなのだけれど、ヒントのまずひとつは、元来「形式的」な
     ものとは、古くから広汎に論じられたような、非常に身近な議論だということと、そして、ウィトゲンシュタ
     イン自身の議論において、「形式的」なもの、とほぼ同じような議論を幾つか探し、いろんな方向から、それ
     に関して(多面的に)スケッチしてみることも良いヒントになる。

         【メモ】ここでの立場、暫定的な方法について:

         「解釈」「解説」とは、つねに「仮説」と関わったものであるのだが、自説だけを延々展開するよりは、
         それをなるべく「仮説的連結項」程度にに止め、[上記3)参照。また、自分を出さないということに
         も、連結項に止めるには役立つと思う・・]考察対象の「資料」「文献」「作品」の感銘ある部分を、十分
         生かしたものにして、自分のやっていることに、全体的に関係させると、さらに「仮説」は、単なる
         「仮説」でなく、ある「サンプル」の、役割を果たしだす。(探求p 参照)

         このホームページで書いている文章は、大体、そんなところをねらったものだけれど、すべての面で、
         十分完備したものが、いきなり出来るわけも無いと思う。

         例えば、英語圏の作曲家を公平に考察する場合、やはり、主要なものを逐一挙げた方が良いのだけれど
         暫定的には、今の日本の通説で最も弱い、欠落したものを中心にして、バランスをとることが、まず出
         来ることには、なるだろう。また、”古典”みたいな書物を、紹介するとき、大体、日本だと非常に末
         梢的に、つまらない部分ばかり取り上げる傾向が強いので、むしろ、あらすじみたいなものをハッキリ
         書いて、代表的なものを並べることが、とても効果がある場合もある。

         一般に、今日の言論の現状は、もう始めから非常に混乱していて、マンネリ化した空疎なものほど重ん
         ぜられる傾向なのであって、ある程度、大衆がほぼ信じている確立した体制を、打ち壊せばよかった一
         世紀前の”前衛”のように、社会の混乱に無責任であってよかった頃とは違う。本当は、かなり専門的
         知識のいる哲学思想上の問題も、その議論が正しければ、みんなに無関係であっていいという訳にいか
         ない。むしろ、元来はどんな専門的な言語も、本当に重大なことなら、”社会的なもの”にそれなりに
         通ずるのであって、ある程度何となくみんなに理解されるということは、その言語の正常な機能を果た
         す予備作業でもあると思う。

         上記のまとめでも論じたことだが、特に人々の文化的な事例に関して、説明したり、論及したりする際
         に、直接出るべきものでないにせよ、説く人自身の感情や思想と結びつかざるを得ないというのは、最
         も根本的な言語の原理的なことといってよいのである。それから、リアルにいえることは、こういう問
         題で、みせかけの正確さを誇るのでなく、本当に”確実に、”この厄介な問題を処理していくためには
         、常に分野に囚われない立場でいられること、何でもないというような立場でいられることが、非常に
         大切になる。それで確実に”見えてくるもの”が全然違う。また、今の段階で安易な賞罰の結果を求め
         ないことも結局大事なことである。とにかく、現状の問題は、累積された困難さであって、何とか、筋
         道を見つけるのが、緊急の問題というような話なので、非常に広汎な問題から、重要なものを選択し、
         殆どやられてこなかった組み合わせで処理していくにあったって、「資料」に関しても、まずみんなが
         手に入りやすいようなもので、ほぼ確実に原文の言いたいことが分かるなら、出来るだけ簡単に済ませ
         る(読者のチェックを前提に手短にする加工も少々なら許容範囲としてもらいたいけど)・・というよう
         なことになる。(後で、必要なら厳密にもできる。)

         また、哲学的手法、論理的手法、において大事なのは、ここの個別的知識、技術側からの、見解に対し
         て、常に聞く耳を持っていなければならないことであって、このことも確実な検証、ルール作りには、
         ”本来的なこと”である。だから、ある程度暫定的な、この場の議論も、まして当然そのようなものと
         いうことを、理解してもらえるように書く。
         


     冒頭にあげた小林秀雄の引用部分は、その「モオツァルト」での全体の記述が、どうでもよいようなことを、気取
     った口調で書いたものではないことを、窺わせるものではあるものの、十分、考えうる重要な問題を、単に放棄の
     宣言で片付けたわけで、しかも、穿り出されたまま後々までずっと放置されたことになる。

     とはいえ、この「形式的なもの」「内的なもの」は重要な指針が、すでに与えられているといえるものにせよ、それ
     が、非常に基礎的なところに絡むゆえ出来ている、片付けなければならない厄介な結び目が、まだある。

     「もし、私が”これは黄色い。”といえば、わたしはこのことを全く異なった種々の仕方で検証することが出来
      る。そして、私がその際検証として認める方法次第で、命題は全く異なった意味を有するのである。」
      (ウィーン学団との対話・全集5p136)

     いわゆる「意味の検証理論」の由来になった部分といってもよいだろうが、のちの「探求」での「意味は語の慣用
     である」も、「論考」の「命題はかくかくの意味をもつ、というかわりに、命題はかくかくの状況を述べるといっ
     ていい」(4.0311)という記述にせよ、また上の引用文の場合、特に意味の可動性が強調されているのだが、ウィ
     トゲンシュタインにおいて、むしろ「検証」という問題は、常に根本的なことになる。フレーゲの名辞の意味と意
     義の違いような不定の要素がいつまでも入り込む考え方と異なり、いったん決めれば事実と、いわば結合され、遡
     及可能な意味の考えは、一貫してある。つまり、本来誰でも 対応が検証可能な ”あいまいな精神活動でない”
     ”意味”の考えは(探求一部693参照)、ウィトゲンシュタインに根本的なのである。

     同じく、”円形と楕円の関係を見ること”のように、比較によって言及する場合も、それが一種の”検証の方法”
     と呼んでよい、十分な理由があるわけで、しかも、本気で ”確実性の問題”を論じようとするなら、「祭り(論
     及対象)の報告に含まれていない、あらゆる状況のこと」が、問題になるのと同様、全てにわたって(LWの論ず
     る哲学も含め)元来、近代化された”文化事例に至る様々(競技、演劇、詩文、舞踏、音楽、絵画、広告、映画et
     c)なども、”常に”比較の対象になり、問題になるはずなのである。
     ところが、そのような、いわば「全面的検証」には、ウィトゲンシュタインは進めないし、そして、そこには実
     は、ウィトゲンシュタインの議論の中心での、ある難点が関係している。

     そのことが、よく判るのが、この短いほうの「フレーザーの『金枝篇』について」で、無視されているフレーザ
     ーの特徴的な以下の記述なので、次に少しこのことを考えてみる。(2007/5,14ここまで書く)




        3   フレーザーの”熊祭り”の記録と論述について【パースペクティブの問題との関係@】

                                    "THE GOLDEN BOUGH"  James G.Frazer

     ここで、フレーザーのこの著作のすべての内容をちゃんと扱うスペースは全然ない。そもそも小林の「モオツァルト」
     に、つながりのある程度に止めておかないと、話が拡散する一方になる訳だし。しかし、フレーザーの『金枝篇』(18
     90-1936頃)という著作は、十分魅力的なところ、しかも、実はとても重要なことがあるということは、ウィトゲンシ
     ュタインの強力な批判からの、バランスをとる関係でも、言っておかねばなるまい。

     フレーザーのこの本に対して、今日も、世界各地の民俗的な正確な資料としての役割を、そのまま十分果たすようなも
     のと考える、研究者は、多分殆どいないだろう。(しかし、少なくとも当時の西欧知識人がどこまで世界各地の民族的
     な風習などに、どの程度の理解と知識があったかの、良い資料にはなると思う。)
     そもそも、1910年の第3版序文で、

     「ドイツ哲学に通暁する私の友人たちが・・私の所説が、ある程度までヘーゲルの説と一致していると指摘した。・・私は
      いまだかってこの哲学者の著作を研究したことはなく、彼の説に注意したこともないのである。しかしながら、著し
      く異なった道を歩いても・・同様な結論に到達したとすれば、われわれの結論の部分的符号は、おそらくその結論の真
      実性の一証左・・」(『金枝篇』1永橋卓介訳岩波p28。以下も引用はここから)

     と本人が書いているわけだが、むしろ、この話もいってみれば、「科学」というものへの、スタンスが違うだけで、今
     日では、両者の記述は、同じような「思想書」の類、結局のところ、”一種の文学作品”、みたいに捉えるべきことを、
     示唆していると思う。(この類の比較、”一致”は、それなりに、実はとても重要なもの)(2007/5,19)

     一応、予備的に知ってもらう必要があるので、『金枝篇』の全体の内容のあらましを、説明しておく。

     この本は、ターナーの「金枝」という画からのネミ湖周辺の映像的描写に始まり、フレーザーが思い入れたっぷりに想
     像した、そこで生きていたという古代ローマ時代の祭司の男の既成事実化したような姿が、いきなり出てくる。(ある
     種の荒々しさ、独特の芝居がかった調子も含め、やはり小林のあの書き方を思わせるが)

     その祭司は、ネミ湖北の岸にあるディアーナ女神の森と聖所を守る職の男だが、その職はまた、”森の王”とも呼ばれ
     るもの。この地位はそもそも代々前任の男を、直接斬り殺して手に入れるものなので、その男も又自分を守るために、
     見張りを続けなけれればならないし、とくにこの森の一本の柏の木の上に生えている金枝と呼ばれる寄生木を、採られ
     ないように、一心同体的に命がけで守らねばならない。・・こういう奇妙な慣習的地位が、何代も続いていたらしいが、
     「その祭司職がどのようにして実際にはじまったか・・直接的証拠の欠如のため、決して証明」が出来ない(1-p40)ため
     に、「諸条件」を考えてみて、「ネミの祭司職についての相当有効な説明を与える」のが、「本書の目的」であるとい
     う。(1-p40参照)そして、そのために、ペダンティックで大規模な話が動員される。(簡約本の岩波のもので全5巻)

     1章で祭司は、ギリシャローマ神話的に言うと、ディアーナに対する男神ウィルビウスになり、”非業の死をとげる神
     話的原型の系統をもつ祭司”(p51参照)の関係などにあたるとする。そして、その祭司の行う呪術を考えるにあたって
     まずフレーザーのいう「呪術の原理」が説明される。即ち、類似しているもの、や 接触していたもの、は相互的作用
     をずっと持っているというもので、それを利用して各々模倣呪術(≒類感呪術)、感染呪術となる。(まとめて共感呪
     術Sympathetic Magicと呼ぶ等・・3章p59など)その実利的効果を”積極的に”狙ったものが呪術であるのに対して、消
     極的にやろうとするのが”タブー”である(p72)とする・・etc。(3章)
     そういった呪術を用いて天候などを支配すると思わせ(5章)呪術師(・・祭司)は王にも成長発展するという。(6章)

     フレーザーは、「同一の原因が同一の結果をもたらす」と信じる点で、むしろ「呪術的世界観と科学的世界観の類似
     は緊密」であるといい、ただ「呪術」は「因果連鎖を支配する・・法則の性質に関する全体的錯誤」があり(4章p127)
     「自然法則の擬体系・・発育不全の技術」であって「擬科学」(3章p58)であるとする。一方、「宗教」とは、そんな
     「呪術」と「科学」に「対立」するもので、「人類を超えた意識的あるいは人格的能作者の活動を想定」(p137)した
     「宥和」をめざすものであって、「不変の法則」のみによって動くと考える他の2者と混同してはならないという。

     特に、「自然に対する人間の力の限界を未開人が認識し得ない」ので、「神と人との間の相違が不明瞭」なため「受肉
     の人間神」[生き神様]といったものが出来易い(7章p204)。理論的には先の宗教と呪術の区別から、それを「宗教的
     人間神」「呪術的人間神」と区別され、前者は絶対的な神の「土の器」に過ぎず、後者は、「自然とのある物理的共感
     からその力を引き出すもの」(5章p148)である。しかしこの「2つの型」は実際上は区別不可能ともいう。

     呪術師から発展した「部分的な王」(8章)というものもいて、カンボジア、エジプトなどには、「雨の王、水の王、
     火の王」というのもいるし「森の王」というのも太古に「大原始林」であったヨーロッパにはいたはず。「5月の王と
     女王May queen」(11章p286)というものが、「樹木崇拝」と関係して存在する。ヨーロッパでは、樹を傷つけたも
     のに非常に残酷な古代ゲルマン法の刑罰があるほど、「真剣な」「樹木崇拝」が行われていた(p240)。

     「樹木崇拝」は、植物の成長、豊穣を願うもの。そして”類似しているもの”は相互作用があると考える「類感呪術」
     により、その効果が「植物生育の精霊に仮装する男女の事実上の結婚または模擬の結婚によって刺激促進」(p294)さ
     れるもの。またディアーナも、元々森林女神であった(12章p295)。

     
     古代ローマとそれに先立つアルバの王の「性格」についてや(13章・・以下岩波2巻目)、「古代ラテン諸部族間の王国
     継承」について(14章)述べたあと、ヨーロッパ全土、そしてイタリアで「カシワの樹」の崇拝が行われていたこと(15
     章)も書かれる。17章で初期の王の重責、「宇宙のバランスを支える均衡点」である「宇宙を支配する受肉神」である
     ことが書かかれ(p50)、そのため各種の「タブー」を守らなければならない(17章)。そして、タブー全体が説明され
     (22章まで)る。

     「神の死」があると考える方が、もともとであって、「人間と異なることがない」というのが世界各地の通例(24章p2
     26)。特に「力が衰えると殺される王」はいく例もある。「王の生命あるいは霊は全王国の繁栄と極めて密接に共感的
     に結合されており、・・それがなお活発で・・疫病、老齢の衰退によって影響されぬうちに次の継承者に転移するため、王
     が健康で強壮なうちに殺してしまうこと」(p235)という考えが一般にあるという。そして、その「神的な王や祭司を殺
     す習慣」は、「植物生育の精霊を殺す」ような習慣とも似たもので、「物質的で死すべき身体のうちに受肉する神的生
     命は、宿る媒質の脆さに感染しがちなので、活発な後継者に転移させるため彼から分離」(p290)させなければならな
     いということでもある。

     そのような悲劇的に死ぬ神の神話と典礼として、アドニス神(29章から33章・・以下岩波3巻目)、アッティス神(34-
     36章)オシリース神(38章-42章)をめぐるものがあり、それらは植物神でもあり、共通したものも多いし、同一視さ
     れる場合もある。また、デュオニソス神も、その類になる(43章)。

     さらに、それと関係する穀物神は、北欧においては「穀物の母と娘」であって、それはビーナスとアドニス、オシリス
     とイシス、デメテールとペルセポネーのような、愛され死んだものと愛し嘆くものとの関係としてつながっているとい
     う。(44-45章)

     穀物神と「刈り取って殺す」という発想は関係があり、収穫時に、麦畑などを刈り取るとき、”逃げる「穀物狼」を殺
     す。”という表現が今もある。そういうことで、穀物霊は、動物化身もするのである(48章)。そして、上記のアドニ
     スらの植物神は、対応する動物が各々あったりする(49章)。

     「穀物霊が時としては人間の形で、また動物の形で表されること」(50章p7・・以下岩波4巻目)そして、それは穀物ゆ
     えに当然”食べられる”。世界各地に、神の体を食べるという特別の風習がある。

     「一般に未開人は、動物または人間の肉を食べることによって、肉体的性質のみならずその動物なり人間なりの特性と
      なっている道徳的資質および知的資質まで獲得できると信じている。」(51章p53)そして、これは”共感呪術”の
     一種でもある。(p54)

     「(いままで主に取り上げた)農耕民族と同じように狩猟諸部族と遊牧諸部族が、その礼拝する存在を殺す慣わしを持
      っている」(p42)ことの例。ハゲタカ、雄牛、蛇、ウミガメ、そして、特に神聖な熊を殺して食べるアイヌなどの風習
      について。
      それが一見”あいまいな””矛盾したような”(p75)関係をとることに注目する。それは「危険な動物に対する宥和」
      (53章)であるとする。また、動物に対する礼典的屠殺は、基本的に殺されない動物に対するものか、基本的に殺さ
      れる動物に対するものかで、エジプト型とアイヌ型の区別があるとする(54章)。

      生命力が強壮なうちに、殺してしまうことで生命あるいは霊をより良く保存しようとする考え(上記2巻解説参照)
      から逆に、その「全民族に蓄積した災厄と罪悪とがこの死に行く神の上に置かれることで」、人々を「罪なき幸福な
      もの」にしてくれるという考えも成立する。(55章災厄の転移)そこで、公にわざわざそのための羊を飼って殺すこ
      と(57章)や、さらにそれが古代ローマギリシャの人間の場合(人間替罪羊The Human Scapegoat58章)であったり、
      さらにメキシコのトウモロコシ女神を殺す話にもなる(59章)。一方、

      生命力を神的な王や祭司が、保つため大事なことは「天や地との接触」(60章p241)をしないこと(タブー)であり、
      「尊貴であるとともに危険性をもった彼の生命が、安全であると同時に無害であり続けるのは、天にある時でも地に
       ある時でもなく、実に出来る限りこれらの両者の間に吊り下げられているときだ」という。(p242)

      ノルウェーのボルダー神は、険しい山と、深い海に落ちる滝の飛沫が散る前、その間に、聖所を持っていて、
      「その生命が天上でも地上でもない、ある意味で2つの間にいる神」(p243)である。大神オーディーンの息子で、
      もっとも愛されていた神だが、女神フリッグも、あらゆるものの攻撃にも不死身にしてあげるとの誓約を与える。
      それで皆は、ボルダーにあらゆる攻撃を試して、それでも不死身であることを喜んでいた。しかし、ロキというも
      のは、喜ばない。実は「ワルハラの東にある寄生木」には誓約の効き目が無いことを、ロキは聞き出し、盲目の神
      ホルに、それを使った矢で射掛けさせる。その結果、ボルダーはあっけなく死んでしまい、皆は大変悲しむ。妻も
      悲嘆で死んでしまう。ボルダーの巨大な船に載せられた彼の死体は、妻、愛馬などと共に火がかけられ、焼かれる・・

      という神話がある(61章)が、この話はネミの司祭の典礼と、後の記述でいろいろ関係が示される。ところで、


      ヨーロッパ全域に”火祭り”の慣習があり、「人形を焼いたり、生きた人間を焼くような所作」を含んでいること
      が多いが、これもまず人間供儀のひとつ(・・人間替罪羊)と考えられる(62章)。しかし   さらに、

      ”火祭り”において、なぜ燃やすのかについては、[火というシンボルの解釈的にいえば]太陽によって実りを刺激す
      るという説をとなえる学者と、汚染、悪を消毒するという祓浄説をとなえる学者がいるという。(以下岩波5巻目)

      ”火祭り”の火の解釈において、太陽説をとれば、「穀物神」の生命力の増進に関係があるが、むしろ、”魔女の追
      放”に関係する祓浄説の方により根拠がありそうだと、フレーザーは最終版(第3版)で、自説[のウェイト]を修正し
      たという。(64章p37)

      ところで、肝心の古典古代のローマのネミの祭司職の話をちょっと振り返えると、寄生木ヤドリギといえば、プリニ
      ウスが既に書き記しているように、まずドルイドDruid僧の崇拝するもの(65章)であり、それはドルイドのカシワの
      樹そのものに関する崇拝と関係がある。

      また”火祭り”の一種”スウェーデンの夏至の祝火”が「ボルダーの火葬の火」と言われたぐらいで、この儀式と
      「ボルダーとの関連は疑問の余地が無い」(p48)ものなので、(もっとも寄生木が生育する時期ゆえ)”夏至にヤ
      ドリギを採集する慣わし”と”火祭り”は、ボルダー伝説によってヤドリギそしてカシワ木とつながることになる。

      それで、その”火祭り”の慣習の「人形を焼いたり、生きた人間を焼くような所作」があるのは、単に、植物神の
      化身として殺されただけでなく、カシワの木の、神聖な火を起こすものとしての特性(木片同士の摩擦などによる)
      から”浄火”の発想もあることになる。

      「神聖なカシワの木でもって、火を起こす(浄火を作る)と共に(自らを犠牲として)燃やした」(p51)


      一方、ネミの祭司職の話にも、ボルダーの神話にもある、寄生木ヤドリギに、いわば決定的なものがあるのは何故
      かというと、広く各民族に見られるという、フレーザーのいう「外魂The External Soul」(66-67章)なるものを
      、考える必要があるという。

      即ち、「未開人は生命を「感覚の恒常的可能性」または「外的関係に対する内的準備の継続的調整」として抽象的
      に観ることが出来ず、明確な質量をもった形而下的物質的存在・・」とみようとするので、「このようなものは、
      必ずしも人間の中に在るを要しない。」(p55)のである。それで、カシワの樹全体の生命、ボルダー神の生命が、
      寄生木という、別のところにあるということにもなる。より説明すれば

      すなわち、「外魂」は、「魂は長い期間でも短い期間でも、身体の外のある秘密な場所に、・・預けておける」(p77)
      という不思議な考えだが、それはまた「主人公が戦いの準備として不死身になるように、時として身体から魂を取り
      出して移しておく」(p77)ことで、保全をはかるものでもある。

      スラヴ系民族の「死なないコシチェイの話」Koshchey(66章p61)など、世界中に例があるが、民話としてだけでなく、
      一種の呪術の方法として民俗的慣習にもなる(67章)。(2007/5,21)
       
        「コシチェイ」という魔法使いwarlockが姫君をさらって、黄金の城に幽閉する。助けようとする王子がどうやっても死なないが
            ついにその生命が込められたアヒルの卵を見つけ出し、「額にその神秘の卵の一撃」をくらわせることで魔法使いを「息絶えさせる」・・・

                       ●ついでに、書いておくなら、漱石の『虞美人草』(1907)の金時計も、やはり
             この類の知識からのもの、としてまず考えなくてはならないと思うが・・   (2007/5,31)  

      (総まとめとして)ネミの祭司職は、ディアーナ女神の森と聖所を守るものゆえまず、その女神に対する男神ウィルピ
       ウスなどに相当し、それは犠牲的に死ぬ植物神の代表で、植物の成長、豊穣を願うもの。が、さらに寄生木ヤドリギ
       も、一身同体的に守っていることが大事で、それは特に古代アーリアンのカシワ木崇拝でもある。というのは、外魂
       という考えから、ヤドリギはカシワの生命そのものでもあるわけだから。カシワは、神聖なる火(浄火)を起こすも
       のでもあり、植物神の一種として犠牲的な神でもあるのだが、付け加えて、その外魂であるヤドリギ自体の特性、即
       ちそれが正に「天や地との間にあること」(p121)それが美しい金色をしていて太陽とも関係する(p128)こと、そし
       て現実的に落雷にあう頻度、避雷針みたいなもの(p133)として、カミナリとも又深く関係する(雷箒という別名)
       ことから、さらに先のあり方以上のものになる。

       すなわち、まず、ヤドリギがもとで悲劇的な結末となるボルダー神話と重なるものであって、ネミの祭司職もカシワ
       崇拝の浄火で、ボルダーと同じく死後焼かれた可能性がある。さらに、太陽やカミナリと関係するので、ボルダーだ
       けでなく「天空の神」ジュピター大神でもあることになる。それでネミの「森の王」は、「その血と肉によって(ジ
       ュピター)を擬人格化したものであろうp137」というふうに言う。

       最終章(69章)ネミに関する立証みたいな話は、一応終わって、呪術と科学と宗教の全体の歴史と未来の話。呪術の
       黒糸、宗教の赤糸、科学の白糸、で織り上げられ色合いの変わっていく織物としての歴史。(p143)
       最後に、夕暮れのネミの、ディアーナの聖所が無くなり、森だけが残る今日の情景を、思い入れたっぷりの描写で閉
       める。



       以上、全体に、相当ややこしい筋を、出来るだけ浮き彫りにするためまとめてみたもの。(ここまで2007/5,22)         ●上のように論脈をはっきりさせるためだけの目的で、前提となっているものを隠さず、常に対照を読者に注意を促すかたちで、整理する程度の”加工”を行うのは、               暫定的には許されていいと思われる。→まず”自己の主張”が中心となることで、資料や題材の面白みが薄まらないようにすること。そしてパズルの一片、一片               をはっきり捉えなおす程度のことと、自己の”独自の哲学”をずっと論じ続けるのとは、読めば違いが分かると思う。・・だんだんずれて行かないようにすること。        もちろん、フレーザーについて、詳しい資料的問題や、解釈において微妙な問題も相当あるだろうけれど、当面の目        的は 一応、全体像をつかんで欲しいためで、以下の問題を考える参考のため。(2007/5,25)                             この要約からでも想像されるように、フレーザーは全般に仮説に仮説を重ねる議論のやり方をしたり、そもそも本当        に、そのようなものとして、行われていたのか相当に怪しいような話を、すべての起点、中心にして、最初から見て        来たような、その映像的な描写から、まずやりだしたりしている。一方で、古代人や非西欧人たちの(しかし、同時        代の西欧人の迷信も完全に見逃している訳でもないが)残酷と迷信の甚だしさを「科学」の未発達なものとしての        ”呪術”という観点から、「科学」と対置的に、ほぼ一貫して論じようとする。        とはいえ、この本の次々と現れる最も珍奇でありながら、常にある程度の資料的根拠をもつ実例の多彩さ、その各々        の情緒の強力な激しさ、独特の切迫したリアルさが、「壮大」といっていいような”織物”をなして 連続的に流れ        て行って、全体でも、それなりに、その独自の根拠によって、大きく統一されてもいる。そして、全体のポイント、        ポイントに、むしろ、(私が思うには、それが立証というより・・)沢山の中に、デザインされたように配置された魅        力のある代表的な幾つかの話、またいかにもフレーザーらしい独自の説、が散りばめられる。この本すべてを通して        みれば、"必然性”は、今日も十分感じられるし、そしてそれは多くの人にとっても未だそうだろうと思        う。(2007/6,2)        しかし(一定の権威を前提になどすると・・・)何となく、それはそういうものと思われて、普通見逃されてしまうが        、この話全体が、非常に不安定で、特にちぐはぐな印象を持っていることに、やはり、注目することはとても重要な        のである。        というのは、とても簡単な話、まずフレーザーが様々な伝説、呪術的慣習に強い愛着を持っているのが明らかであり、        またこの書の根幹的な”チャームポイント”として使っているのは全くの現実であると思われるのに、一方で、フレ        ーザーは、呪術的なものを、単に「科学」の「錯誤」の形態としかせず、殆ど その何かしらの人間における積極性を        認めないといっていい主張をしていること。        実際、そのくらいなら、何かの物理的研究、様々な自然科学的研究、そうでなくても歴史的、民族的資料調査、その        分布配列、”お話”の体を成さないデーターだけを並べることこそを、やるべきなのに、そうはしていないというこ        と自体、もう”始めから”、変なところをさらけだしている議論なのである。        様々な呪術的なものや儀式には、それに面白みを感じさせ、また「それを考え出す精神はまさにこの共通の精神」        (LW金枝篇についてp420)といえるような、何かの積極的なものが、現にあるので、それを無視しないようにす        ることは、決して、未来の科学の進歩(69章)、によらないと達成できない類のものでない。必要なのは、様々な        儀式、慣習の違いと共通性といった関係を掴む為、なぜ人々が、各々そういうことを信じるに至っているのか十分        読者に、実感できるようなピッタリとした説明”連結項”でもって、埋めていくことなのである。        にもかかわらず、フレーザーでは、そういうところが根本的に半壊しているし、むしろ、”始めから”そうしない        ようにしていると見た方がいい位のものなのである。        だから、全体の結論、ネミの祭司職についての話も、むしろ、いわば”壮麗”が目的で、様々な伝承、引用の衒学        趣味の混ぜ合わせであり、長大なプランで飾り立てられていることに、納得させようというもので、それは本当の        ”説明”なのではない。        しかし、大事なのはフレーザーの”説明”というのは、必ずしも、そういうやり方ばかりでもなく、特に”動物に        対する礼典的屠殺”に関する箇所(51から55章あたり)においては、(LWも指摘する”雨乞い”の説明などの明        らかに的外れで、歪められた説明とかと違って)余分な知識、文献の参照で飾り立てなくても、十分、現実的な説        明といえるものであり、洞察と、人間のある根源的なリアルな描出が含まれてはいる。さらに、それがこの本全体        の構造と深く係わっていることで、隠れている要素を持ち、他の人々による民俗学的報告などには、全く無いよう        な重要な記述になる。それゆえ、しばらくは、その箇所の議論を、以下すこし詳しく取り上げてみる。(2007/6,4)        ここで取り上げるのは言語論的な立場からに止まる話であることに注意しながら、話の流れを整理してみると・・        上記のこの書の全体のまとめを参考にしてもらうとして、まず、ウィルビウスの話から、だんだんと穀物神を食べ        る話まで移っていき、50章の”神を食べること”(食物を食べるときの儀式全般)51章”肉食における呪術”という        話になってくる。        すなわち、穀物神、植物神がその”人格的な・・強力な精霊によって活かしている(p21)”ところの植物自体を、食        べるときの儀式は、”神を表す人間、動物の形に似せたパン(p33)”を食べる習慣につながる。さらに、それが、        ”動物または人間の肉を食べることによって、肉体的性質のみならずその動物なり人間なりの特性となっている道        徳的資質および知的資質までも獲得できると信じる(p33)”ことへ関連することは、人間の”原始的思惟”から極        めて明らかであるという。★  (2007/6,8)         すなわち、それは共感呪術、類感呪術的であり、食べられる動物が神的なものの場合は、その物質的本性とともに        神性の一部をも併せ吸収することを、その際に期待するという。(p34)        (話の流れが、原文でもかなりわかり難いと思うが、50章以下の議論について、前もって補助的に言っておくと・・         穀物神の表象としての人間や動物を殺す慣習の狙いは、穀物の霊が強壮なうちに、別の新たな後継者に転移させ         ることで、霊の老化、衰弱から守ろうとするものと、まずフレーザーは、している。(参照51章冒頭など)         さらに、その動物的食物などを、人々が摂取することで、後継者への引継ぎだけでなく、儀式が、犠牲になっ         たものの徳や資質の、(食べたりすることで)人々への分配も兼ねることになるという問題を、フレーザーは51         章から、54章までを導くテーマとしていると考えていいと思う。)(2007/8,18)        51章:        例えば、エクアドルのインディアンは、狩猟に身の軽さが必要なため、体の重い動物・・獏、野猪などを食べず、鳥        猿、鹿、魚などに限り、摂取している。また、多くの未開人が、歩きの遅い動物の肉を食べると、自分の足が鈍る        と考え食べない。全く逆に、ブッシュマンは、追いかけてられている動物の方が、人の摂取した動物の肉に共感的        影響influenced sympathetically・・受けると考えるので、遅い動物を食べたりする。        同様に、ウサギを臆病だからと食べず、ヒョウやライオンの勇気と力を得るため、その肉や乳を飲んだりする例。        長寿の動物を食べると、長寿になるとしている例。鹿肉は臆病になるとしている例。アイヌは水鳥を雄弁と考え        その心臓を食べると、賢く雄弁になれる、とする。その他、犬は勇敢、カンガルーは速い、トラは 獰猛、蟻は        眠り知らず?。鳴く鳥や虫は、声を出したり,しゃべったりに利く・・。というような様々な地方の実例があげら        れる。(p34からp38)        また、魂を大きくするものとして、動物の肝臓を特に注意して食べる中央アフリカの部族がある、という例(p39        まで)のあと、次に人間を食べてしまう例になり、東南アフリカで、勇気の座が肝臓、知性の座が耳etcと思われ        ていて、敵の死体のその部分の灰を儀式で若者に呑ませている(その徳などを分け与える)という話になる。        さらに、山地の部族では、すぐ心臓を切り取って(勇気と知恵をもらうため)食べる。そして近代に西欧人がそ        の目的で食べられた実例をあげる。勇気と知恵は、心臓だけでなく、手足、胆汁、血、脳なども、そのために摂        取される実例があるという。        ニュージーランドでは、酋長は「アツア(=神)」と呼ばれ、それらの中では強いものも弱いもののいる。皆        強いほうになりたがるので、「他人の霊を自分の霊と合体させる方法」で、より強く、より「神性を偉大に」し        ようとする。即ち、そこの酋長たちは、どんどん他の酋長を殺して、「その神性が宿っている器官」、すなわち        、相手の両目を、すぐ食べたりするという方法で、自分の神性が増大すると考えている。(p41)        こういう風に、だんだんエスカレートする実例をフレーザーは挙げて行き、この章のまとめとして、「未開人が        神的なものとみなす動物や人間の肉を食べることを切望する理由whyは、今や容易に了解されるIt is now easy        to understand・・」すなわち「神の体を食べることで、神の属性と力attributes and powersとにあずかるshares        のである」という。(7段上の★印のp33のよく似た説明部分と違いに注意)        さらに、そこに「その神が穀物神であるときは、穀物が本来の体である。彼がぶどう神である場合、ぶどうの汁        が彼の血である。・・パンを食べぶどう酒を飲むことで、礼拝者はその神の真実の体と血にあずかる」という話へ        フレーザーは結びつける。しかし直後のこの51章の末尾は、キケロの引用を使って、古代ローマ時代でさえもバ        ッカス祭みたいな酒宴で”神を食べている”と信じるのは正気でないと考えられるようになったと(いう論旨で)        結ぶ。        52章:        「農業によって生活するまでに発達した多くの民族が、小麦、米などの固有の形か、動物とか人間のような借り        られた形かで、彼らの穀物神を殺して食べる習慣をもっている。」ことを、以前の諸章で主として述べていたが、        こんどは、狩猟民族、遊牧民族で、(51章の例の様に獲得が目的で食べるだけじゃない)”礼拝する存在”であ        ることにより注目して、フレーザーは説明していこうとしている。(p42L4参照)まず、        ”未開段階の最下層p42”のカリフオルニアのインディアンによるハゲタカの「鳥祭り」。・・神殿に、鳥を持ち        込み、皆がその周りを狂乱したように踊る。そのあと大神殿に鳥を運び、血を失わぬように殺す。皮をはぎ、羽        毛も後の儀式用の衣装のために保存する。骸を、神殿の洞穴に埋め墓とする。そこで老婆たちが、その死を悼ん        で、激しく泣き悲しむ。鳥に対して呼びかけ、亡くなった事を叫び嘆く。儀式のあとも、踊りは三日三晩続く・・        というような祭りなのだが、この人々は、毎年のように村々で各々この祭りを、行っているのに、供儀される鳥        は、一つであって、同じメスであると信じているという。まず、このことをフレーザーは、”多数の単一”と呼        び、未開の考え方の、特に注目すべきものという。すなわち、フレーザーたちとは違って、未開人は、「個体の        生命と別のある種の生命の観念を理解できない」といい、「個体の生命と種の生命を混同」しているので、むし        ろ、この鳥の場合も、そのまま放置すると、個体が死んでいくのと同様、彼らが神的なものとみなす、その鳥の        種が、年をとって死に至ると考えるのだという。それで方策として、生命を別の新しい水路に導きいれて、活性        化、甦らすために、その種の一員(鳥祭りの場合の主役のその鳥)を殺すのだとする。(p44参照)(2007/8,20)        それと類似する例は、古代エジプトテーベの牡羊ram。        テーベ人他のエジプト人すべては、牡羊を神聖なものとして、犠牲にしなかった。しかし、毎年一度のアムモー        ン祭には、牡羊を殺し、皮をはぎ、その神の偶像にこれを纏わせる。そして、牡羊の死を悼んで、神聖な墓所に        埋葬した。        この場合フレーザーが指摘するのは、牡羊がアムモーン自身に他ならぬと言うことで、獣神が、発達しきった        人態神full-blown anthropomorphic godに至る前の半羊半人的な画が碑文にあることも、神と羊の同一視を、        示すものになるとする。殺された牡羊の皮を、偶像にまとわせるのは、そのことを明らかに示すという。        この皮をまとわせる事には、注意すべきで、穀物霊の表象として穀物畑で殺されるgoatの皮の場合は、神の記        念として保存されるが、毎年更新されるにつれ、金属製や石製等の恒久的な偶像に転化するという。そこに、        毎年、新鮮な皮をかぶせることになり、儀式はむしろ、この偶像への供儀として解釈されるようになる。この        テーベの牡羊の場合も、そのような結果アムモーンやヘラクレスの説話で説明されるようになるという。        代表的例の次はアフリカでの蛇。これも皮をはぐが、その神聖な皮に赤ん坊を触れさせ、益にあずかろうとする        風習であること。        以上のハゲタカ、蛇の動物の崇拝の例は、農業と関係が無いため、遊牧段階、狩猟段階、の社会に起源を持つ代        表的例と推定出来るとする。        続く代表的例は、ニューメキシコのズニ族の海ガメ。この慣習の場合も、遊牧段階、狩猟段階起源のものとフレ        ーザーは見ている。印象的な目撃者の話を引用したものだが・・死者の魂が集う湖に、使者が派遣され、亀を捕ら        え厳かに持ち帰る。亀を水盤に入れ、傍らで女神に扮した男と男女が踊る。その儀式のあと、捕らえてきた者た        ちが亀を家に持っていく。翌日、「祈りとやさしい懇願、供物・・」などを伴って、殺され、肉は食べられ、また        甲羅が保存される・・というような風習として、記述されている。(2007/8,21)         この場合、フレーザーが問題にしているのは、「神を殺す慣習についてのべた一般的解釈」(p52)・・即ち、種を        活性化させるみたいなこと・・は、「適用されえないようで、この真の意味はいくぶん不明瞭」であるという。        というのは・・彼らは「海亀」が、ズニ族の「トーテム氏族」であって、自分たちの民族の祖先が、その亀であるこ        とを信じている。だから、その亀は、彼らの「片割れ」と呼ばれている。それで、それらは、「海亀の形をとった        死者の魂」なのであり、「死んだ人間の転生」であるから、「あの世との交通を保持」(p52)するため殺して、帰        すのである。また、亀の前で踊る舞踏は、夏至に雨を求めるものとみられるので、「亀に転生している祖先の霊に        天の水を」乞うためにやっている・・として、フレーザーは多少別様に解釈してみせる。(まだ不明瞭なものがある        としつつ・・p52L6)        次の実例が、蝦夷のアイヌと東部シベリアのギリヤークによる”熊祭り”になる。        この書の中でも、ここに特別、重点が置かれているのは明らかで、同じような見聞記が、5つも使われている(共        観福音書みたいに)。そして、まず、「熊に対するアイヌの態度を解釈することは決して容易でない」という。        (あとにも、”不明瞭な態度”p71””慣習上の矛盾”p75というふうにして、強調されている。)        この慣習について、フレーザーが記述しているところを、大体共通した部分でまとめると、以下のような        ものになるかと思う。        ・・熊の子を買うか、生け捕るかして、それが供儀に役立つまで、2,3年間飼い育てる。小さいときは、村の        女が乳を与えて育て、あとは魚やひえの粥を食べさせたりして、人々は”非常に可愛がる”。しかし結局、大        きくなった熊は、祭りが催され、村人が矢を射掛けたり、皆で2本の棒を首に挟んだりして、そこで殺され、        その肉は、村人全員に分け与えられ食べられてしまう。        この祭りに際して、決まりごとのように行われる様々なこと:まず、「これまで出来る限り熊を大事に扱って        きたけれど、もはや飼育していくことが出来なくなったので殺すほかないと弁解して謝罪」したりする。(p55)        また、「熊を育てた家婦は、独り物淋しく悲しげに座って、時折涙にむせんでいた。その悲嘆は明らかに嘘偽        りの無いもの」であった・・そして、殺される熊の檻の前で、女たちは踊り、涙を流しながら単調な歌を歌った        りする。また、檻から出して皆は熊を村中の家に連れて行く。それによって人々に祝福がくるとされていたり        する。にもかかわらず、一方で「人々は絶えず熊を揶揄したりいじめたり、突いたりくすぐったりして、熊を        苛立たせ、立腹させる」ことを、行ったりもする。(ギリヤークでは、何度も行列を作って引き回すという)        またわざわざ「やじりのついていない矢を雨と浴びせかけて激怒させる」というケースもある。        そのあとで、熊は、皆に殺される。が、蝦夷の場合「射手は弓を投げ捨て大地にひれ伏す。老人女もそれにな        らう。ともに号泣またはすすり泣く。・・死んだ獣に、哀れみ深い言葉で話しかけ、御礼を言う。・・」などする。        「熊は頭と4本の足が、切り落とされ、聖物として保存される」。そして、その体に酒や菓子などが供えられ、        人々は宴会を始める。そこでは「女たちは悲しみのあとをさらりと棄てて陽気に踊るのだった・・老婆ほど楽        しげに見えた」・・。熊の肉は、皆で食べ、はらわたは薬にされたりする。アイヌでは血は飲まれる場合がある        が、ギリアークでは飲まない。最後に、熊の頭骨を特別な場所に持っていく場合がある。・・(2007/8,22)           *上のまとめは、5つの見聞記から、スペースの関係で、参考までに、大体の姿を想像しやすい部分をつない            でみたもの(映画のシナリオ作りみたいに??)。フレーザーは、Rev.バチュラーの記を主要文献に、            アイヌの場合、Dr.ショイベ、日本人の記録の場合3種、ギリヤークの場合、ロシア人旅行家などの記録            2種使っている。それぞれ別の集団のものを見聞したものなので、細かくはもちろん異なったものだが、            大体似たような話であるし、また、受け取り側の傾向が感じられる記述でもある。        この52章で、これまで並べてきた儀式との関係に注意して、このアイヌ(もしくはギリヤーク)の”熊祭り”を        、フレーザーが、どう捉えているのか、その要点をあげてみる。        まず、「熊は、アイヌにとって神聖な動物だとはいえず、さらにトーテムだということも出来ない。」(p54)        (cf、かって、熊はアイヌ氏族のトーテムであった可能性・・Rev.バチュラー説)        すなわち、「アイヌは、熊を神とは考えないで神の使者と考えているのにすぎ」(p71)ない。しかし、「神的なも        のとして取り扱われる動物」(p73)であることも事実である。また、一方において、そもそも、熊は、アイヌにと        って主食の一つであり毛皮は衣服になる(p54)。「日常追いまわし、殺し、食べている動物」(p75)なのである。        こういった「慣習上の明らかな矛盾」(p75)にも、「行動に対しては理由をもっており、」「ある者は極めて実際        的な理由をもっている」(p75)という。        すなわちフレーザーの言うところによれば、その極めて実質的な利益にうちには、おいしい食べ物である熊の肉や        血を、現在および将来における同様な機会にむさぼりたべるということがある。そして、その動物を食べることで、        その動物の様々な力を得ることが出来ると思っている(p73)。儀式は「殺されて食べられることが彼らの名誉であり        、喜びでもあるかのよう」に思わせる狙いがある(p74)。すなわち、「その動物がこの世に肉体的復活をなすこと        を予期」し、未来もその「得た利益を再び残らず刈り取ることを望む」(p73)ためにやっていることになる。        また、アイヌの動物に関係する同様な慣習として「わしみみずく」「ワシ」の場合にも確認されるように、”神の        使い””仲介者”なのであって、死んで上界にいって、神々の元に、”災禍から護ってくれる”願いの使信をもっ        て行く事を希望もしている(p73)。        53章:        52章末において、「未開人の行動が・・一連の理論に基づいて行動するものであることを発見するはず・・」そして、        ”熊祭り”が、「素朴な哲学の理論に基づいて未開人が常習的に殺して食べる動物に向ける尊崇の、特に印象的な        例に過ぎぬことを示したいと思う。」というふうにフレーザーは、述べて、この章に移ってくる。(2007/8,23)        「未開人は高慢ではない。彼は一般に動物が人間と同様な感情と知性を賦与されていると信じ、また人間と同様に        動物が肉体の死後までも生存して遊離霊としてさまようか、あるいは動物の形をとって再生する霊をもっていると        信じている(p77)」という。 それで、その”素朴な哲学理論”にもとづき、動物を殺す未開人猟師とは、動物が        親類の縁、血族のための戦いの義務感によって団結し、仲間の一員に加えられた危害に対して、憤ると考えるゆえ、        自分自身が霊の危険にさらされると信じるものだという。        それゆえ、未開人は殺さなければならぬ切迫した理由の無い動物、復讐される危険な動物の生命はとらないのが、        むしろ、普通だという。その例として、まずワニ。人が殺されたとき以外殺さない。トラも同様で、ベンガル人は        極端に殺すのを嫌がるし、報復の場合のみ。蛇また狼もほぼ同様な事例があるし、殺害には償いが必要で儀式の専        門の人に頼むときもある。また伝説的に暴風雨を引き起こすとされるスーダンの黒い鳥も、手出しされない。        そして、「あらゆる動物の生命を脅かさないで済ますことは、もちろんできることではない(p81)」ので、「犠牲        とその親族を宥めるためには、可能なことなら何でもする」のである。 そのために「殺す最中すら、尊敬の念を        表し、死を要求する自分の責任を弁解し、また責任を覆い隠したりして、遺族を正当に取り扱ってやると約束する」        そして、その動物たちに、むしろ、進んで「犠牲となる運命を、仲間とともに甘受させようとする」(p81)。        その代表例が、カムチャッカ周辺の”熊祭り”なのであり、また広く類例を挙げることができる。まず、カムチャッ        カ半島民が、”ロシア人のせい”にしたがること。またどんなに丁寧に取り扱ったか強調したがること。そのような        「熊に対して払う猟師の尊敬は、ベーリング海峡からラップランドに至る旧大陸の北部全体に見られる」拡がったも        のであるとする。さらに、熊狩りに関して、アメリカインディアン、オタワの熊氏族、ブリテッシュコロンビアのイ        ンディアンも、殺された熊に贖罪の儀式をしたり、北米でも似たことがあると書き、ある一般的現象であることを強        調する。        また、熊に限らず、他の危険な動物の場合、手出しをしないというだけでなく、熊祭りと「同じような尊崇の念を表        すことがある」という。まず、大きな象。カッファー族は、殺したことを弁解し、王と呼んだり、災悪を避ける品を        埋めたりする。ライオン、ヒョウの場合も酋長などが、尊崇を表す。野牛も、危険な霊を避けるために、特別に頭を        処置する。鯨も、未開人が狩猟の対象とするが、一部族、家族を形成していると考えられており、また、親切なもて        なしや、復讐の念を記憶しており、訪問してくるものと、考えられている。河馬でも、南西アフリカでは、殺したも        のが牝のとき、それが母となれなかったことを怨みに思い、同族が復讐すると考えられている。あと、山猫、ワシに        対しても 死後に、各々特別な供儀を行う場合がある。テトン・インディアンは、災悪があるといって、出会うだけ        で灰色蜘蛛を殺すが、雷のせいにしてしまう・・。        未開人の野獣に対する尊敬が、ある程度までその力と獰猛さに比例している・・という(p88)。(最後の例はその傾向        を示す・・)危険でなく、役にも立たないものは軽蔑される。恐怖されたり、食べるによい、そしてその両方の動物は、        儀式的尊敬を受ける。恐怖されないが、毛皮のいいものは、同様な尊崇をうけるテンやビーバーの例がある。その際        、その動物の骨を特別に配慮してやる場合があり、鹿、海亀も、骨が、大事にされるが、「それが肉をまとって復        活」(p96あたり)してくるという信仰があるからという。獲物になる動物の、将来の豊富な復活を期待して、魚、ア        ザラシなど死んだ体の一部を特別に丁寧に扱う。全く逆に、害獣や害虫は、復活が困るので、死体の一部に特別な措        置をする場合がある。さらに、全滅させたい害虫や鼠などは、わざわざ、そのうち数匹のみ丁寧に扱って、小船で流        し、全体の復活を阻止するまじないにしたりする。(p101あたり)(2007/8,24)        54章:        「今や、われわれは・・熊に対するアイヌとギリヤークの曖昧な行動を、了解できる位置にある。」(p102)といって、        前から提示してきた問題に、ここで解答できるというように、フレーザーは書き出す。まず、原理principle        として、(2007/8,25)         「未開人は、人間と他の動物と区切るthe sharp lineが、な」く、動物は人と対等なもの、または、より上のものと        考える。それで、自分自身の安全を考慮し、死んだ霊や同種の動物から、出来る限り危害の及ぼされぬ方法を必要と        している。そこで、「種族のうち少数の選ばれたものに対して、著しい尊崇の念を示す」ことを一般に行う。        この原理から、「不分明で撞着すると見えるアイヌの熊に対する態度の説明」(p103)ができるという。        熊の肉と毛皮は、食料と衣料になる。ところが、熊は知的で強力な動物だから、復讐を避けるため、その多数の死に        対して人間は、何らかの満足、償いを、その種に対して行う必要がある。子熊を飼育し、出来るだけ、尊崇の念で接        し、悲嘆と尊崇を持って殺すなら、熊たちはアイヌの生活を荒らすような行動はしない・・ということが、そこの説明        になる。(p103参照)すなわち、有用だが強力な動物に対する宥和としての動物崇拝。        さらに、その原始的な動物崇拝には、2つの型があり、一方は動物が礼拝されるゆえに殺されないもの、もう一方は        、礼拝されるが、常習的に殺され食べられるもの。これに、対応して、さらに「動物神を殺す慣習」にも、2つの型が        あるという。すなわち、一方は、尊崇される動物が日常食べられるもので全くないもの(エジプト型礼典 )。もう        一方は、尊崇される動物が、日常的に食べられ殺される場合(アイヌ型礼典)。        遊牧諸部族の屠殺は、この2つの礼典の型を示している。家畜を他民族に食用で売ったりするコーカサスの諸民族の        場合の礼典的食事は、代表して聖化した一匹を殺して食べることで贖罪するわけなので、これもアイヌ型礼典の一種。        南部インドの水牛の場合は、人々は「絶対に牝を食べず、牡も一般に遠慮」する。例外として、年に1度、若い牡牛        を、儀礼的に扱い、男子だけが食べる。これは、エジプト型礼典の一種。        また、中央アフリカのモル族は、主として家畜を飼って生活しているが、年に1度 町中でする場合(犠牲動物の血        の印を皆で求める風習を含む)の他、災厄が起こったときなどで家族的に行う場合も、子羊に礼典的屠殺をする。        苦悩や悲嘆において、神聖な動物を儀式的に殺すこの儀式も、52章:カリフオルニアのインディアンによるハゲタカ        の「鳥祭り」、テーベの牡羊の儀式での悼みと、同じものを、示すという。(p108)(2007/8,26)         この上の例で又別に重要なのは「すべての者がその心的な霊験にあやかることを・・願う交わりの型」(血の印・・)が        あること、でこれはギリヤークの熊祭りにも例示されたもの。その類の例は、パンジャブの蛇部族の祭りで、これは        代理として粉で作った蛇を、使う儀式だが、やはり、その蛇を持ち回ることで、皆の災厄を消すとされている。さら        に、丁重に埋葬して拝んだりする。蛇部族は、蛇を殺さず、咬まれても害を受けないとされている。また、それによ        く似た儀式といえるのが、ヨーロッパの”ミソサザイ狩り”。ミソサザイは殺すと極めて縁起の悪い鳥とされる一方        で、年毎に殺され翼を広げて長い棒の先に結びつけられ、行列をなした人々が、それを先頭に掲げ家々を回るという        儀式がある。        マン島では、死んだ鳥を棺架にのせて墓場まで行列して持って行きそこに葬る。アイルランドでは、全ての小鳥の王        であると歌いながら行列する。フランスのカルカッソンヌでは、ミソサザイを最初に見つけ殺したものが、王様とさ        れ、王冠をいただき、青マントをし、王笏をもって華々しく行進する。王様の前には、オリーブまたはカシワ、もし        くは、その寄生木で出来た花輪で飾った棒を持ち、そこにミソサザイを吊るした男が行く。教会で大ミサを開く。さ        らに大金を集め、”王様の饗宴”まで開く。        ギリヤークの熊行列、インドの蛇行列、ミソサザイの行列には、類似が極めて著しい、とフレーザーは言う。        ”同一の思考系統に属するもの”・・「死せる神あるいは死に行く神から発出する・・神的霊験の一部を礼拝者各自が        受け取るよう、動物が・・持ちまわされる」(p113)。さらにこういった行列は、先史時代のヨーロッパ人の典礼で        も重要なものでもあったらしい、という。スコットランドのカルインという儀式は、皮をまとった男とそれに連なる        行列が、牛革を叩き、騒がしく家々を回って祝福を与える。これも、その痕跡の例と判断しうる、という。        ●51章から54章までの、フレーザーの論述の仕方について:        上記の記述内容について、動物と人間の強弱関係がより、一方的なものになってしまっている今日、こういった儀式        にみるような、動物の扱いが、そのまま認められるものではないだろうし、(しかし、それは生き物のひとつとして        の人間の根源的関係を示すものではある)また、ここでも、フレーザーが説明している幾つもの説がそのまま完全な        説得力(その言い方も含めて)を持っていると、私(このHPの製作者)は言いたいわけではない。(2007/8,27)        ここで大事なのは、その民俗学的記述として、今日から見てどうだかという話よりも、そこに隠れている言語論的な        問題に、むしろ、注目することである。そういう視点においてみると、普通、世界の珍奇な例の集積とばかり見られ        がちなこの本の、実は、かなり判りにくい、独特な論法がまず、考えられるべきではあろう。(2007/8,30)          ・・・・・ 51章で未開人が、いわば自分の能力を高めるために、”呪術”のひとつとして様々な動物の肉を食べる例        として、敏捷な動物から、勇気と力のある動物、長寿の動物、働き者、雄弁・・と考えられている動物など場合が、挙        げられる(この順序も何かモラリステックな度合いを想像させる)。次に、魂を大きくするため食べられる動物の肝        臓の話に移り、そこから能力に対応した身体各部の話になり、人の各部を食べる話が出る。最初は、灰、それから、        どんどん殺して目玉を直ぐ飲む話まで。        以上のようなフレザーの話は、もちろん今日に比べて限られた資料内の話しな訳でもあるし、一見、偶然的で 気楽        な日常会話(イギリス風エッセイ?)のように流れる。しかし、身体全体、各部、という段階があり、また各々その        度合いが、強まって行き、もっともひどい人食いの話になる訳で、気に入ったものを、細部でも全く情緒的に並べて        いるのでもなく、むしろ、空間的、造形的(発展的?)計画といっていいものはある。それをまとめて、未開人が        「神の属性と力をあずかる」ために肉食をするのが判明するといい(p41)、そこに直ぐ、飲み食いして穀物神やぶど        う神の体と血をあずかるというローマ時代の儀式の話を最後にしたりする。(2007/9,5)         52章冒頭で「ここまでの章は”主として”農業まで発達した民族が、小麦、米という固有の形、また動物、人間のよ        うな借りられたかたちか、・・で彼らの穀物神を殺して食べる習慣を」見てきた・・と書くが、上記のような人食い民族        は、やはり、その類の農業的民族ではなさそうである。だから、フレーザーの話は、50章など確かに農業に関係して        穀物神を時として、動物や人間の形のもので、殺し食べることを主として書いてあるが(正し、50章最後は、食べら        れない毛糸の人形やワラ人形に悪霊を錯覚させててとり憑かせる場合であり、人身供儀に由来しないという例で終わ        る) そこから、        51章では、そもそも、動物などの肉自体を食べるというのはどういうことかということが問題となり、 穀物といっ        たん関係ない肉食自体の原始的諸民族の風習の呪術的理由を取り上げている訳になる。そして、その発展的?記述の        末に、本物の人を、「神の属性と力をあずかる」ために摂取する人々の話、すなわち 50章の穀物の粉製の人形を食        べるのに対応する類似形の話に戻ってくる流れになっている。(2007/9,6)        そして52章自体は、「農耕民族と同じように狩猟諸部族と遊牧諸部族が、その礼拝する存在を殺す慣わしを持ってい        ることを示す仕事(p42)」として書かれているというようなわけで、まずは「未開段階の最下層」のカリフォルニア        のインディアンのハゲタカの祭の例が出る。(簡単に言えば・・)        動物の生贄を行い、一方で皆が悲しんだり踊ったりするという例であって、それがまたテーベのramの儀式に似てい        るとする。(間に、多数の一、皮と偶像の説などが挿入されている。)次に、短くポー島の蛇の例がある。そこで        「カリフオルニアとエジプトとポー島の慣習の動物の崇拝は、農業と何の関係も無いとみられるので、狩猟段階、遊        牧段階の社会に起源を持つものと推定される」という(p47)。        次は、また同じく一応農業に関係ないとされるニューメキシコの亀の儀式。(2007/9,8)        これもまた似たような生贄の儀式といってもいいような話だが、フレーザーはここで特に「神を殺す慣習の一般的解        釈は、・・このズニ族の慣習には適用できないように思われ、その真の意味は幾分不明瞭・・(p52)」と書く。        そして、亀がその部族の死んだひとの転生であり、死者の魂で、雨乞いのために天の使いとして殺されるという解釈        をしてみせる。        次が、大きくスペースのとられた”熊祭り”で、先の例と同じくここでも「熊に対する不明瞭な態度(p71)」といい        また、「慣習上の明らかな矛盾(p75)」として見えること(敬意を払うことと殺すこと)を強調している。        アイヌは自分たちを熊と呼ぶわけでないし自由に殺す(トーテムでない)、また熊は必ずしもアイヌの祖先ではない        し神でもないが、先の亀の場合と似ていて、神の使いであって、民を災いから守ってもらうために、人々が天に使信        をもっていくことを期待して殺すというふうにフレーザーは、解釈を下す。また、実際的にアイヌの衣食となる動物        であり、それを食べて動物の様々な力を得ようとするし、さらに熊が肉体的に復活して、アイヌの利益が再び将来同        じように刈り取れることを望んでいるということも、書く(p73など)。               そして、この章の終わりでは、こういう慣習は、「非理論的非実際的でなく」また、それを行う人々は「人生のある        根本問題に対する長い沈思の能力を持っている(p75)」とまでいい、次に、熊祭りは「未開人が常習的に殺して食べ        る動物への尊崇」の典型的なもので、「素朴な哲学の原理」を持っているので次に述べるというふうに、この52章を        閉める。        53章は、その素朴な哲学の理論というべき、危険な動物への尊崇を示すことによる宥和の考え方の説明。それには、        52章でも書いてある”多数の単一”というような見方、人間と動物とを同じ立場でみる見方などが関係している。        そのような危険な各種動物に対する習俗の例と、同様な扱いをする危険でないがとても有用な動物に対する例。        さらに、全く逆に駆除したい動物に対して似た扱いをする例。        54章に入って、まず、フレーザーは上で述べたような考えを”原理”としてまとめ、この考え方で、”熊に対するア        イヌとギリヤークの曖昧な行動”をも了解出来るようになるのだという。 そして、さらにこの章で、まず、        ”原始的な動物崇拝”を、その動物が礼拝されるし、殺されもしない型、とその動物が礼拝されるが殺される型に分        け、その上動物が殺される場合内においても、”その型に対応するもの”として、その動物が日常的に食べられてい        る場合とそうでない場合(アイヌ型とエジプト型)を区別する。前者の例としてコーカサスの家畜の礼典の場合、後        者の例として遊牧民族トダ族の水牛の例(普通は水牛の乳しか飲まない)をあげる。 (2007/9,9)         その後は、家畜を主とした財産にしているが農業も営むモル族の子羊を殺す儀式の例。この例はアイヌ型とエジプト        型というよりも、より中間的な例みたいで、儀式のあと子羊の肉も、「貧乏人たちが食べる」だけらしい。大事なの        は、その嘆きが、「カリフォルニアのハゲタカ」や「テーベの牡羊」と同じであることで、その動物が”神聖な動物”        または”神なる動物”であることを示している・・(p108)という言及である。すなわち、ここで狩猟部族と遊牧部族の        「礼拝する存在を殺す慣習」の例を次から考えていこうとした52章の始めに、話を戻しているのである。だから、話        の流れとしては、「未開段階の最下層」のカリフォルニアのハゲタカの祭から、いったん一応、神的動物であるが、        実際生活の必要性の強い”熊祭り”の傾向までを説明し、それをアイヌ型と区分する。そして、その後、話を礼拝す        る存在を殺す慣習のいわば、狩猟部族と遊牧部族も含めた神的犠牲という本道?の流れに、この割と中間的なモル族        の例で戻していることになる。犠牲から得られる”神的な霊験(p108)”が、人々に分け与えられるようなかたちを        、このモル族の例が持っているのも重要で、一方でこれは熊行列に典型的なものである。そこから、この類として、        インドの粉製の蛇の例、そしてフレーザーにとって、もちろん身近な地域である西欧のミソサザイ狩りの風習の説明        にもって行き、さらにより西欧の古い時代を示しているらしい牛革の祭り、カルインの話で、この54章を閉じる。        ●全章の流れから見た、フレーザーのその論述の仕方について:        この本を知っている人なら、わざわざ2度も同じような解説を上で、私が書いていると思ったかもしれないが、実は        フレーザーの文章はパターンみたいな、確かに独特のmagicの仕組みがあるので、その論旨のもって行き方に注意して        ほしかったからサンプル的に書いておいた。そして、このHPでの目的は、資料的な問題でないので、そこに関連した        フレーザー解釈としては十分でないところがあるかもしれない(以下の記述でも)。とはいえ、私が注目してもらい        たいと思うのは、結局この本が「人類の信仰と慣習の総括的研究」(1900年2版序文より)といえるようなものであ        り、また、そもそも「儀式」というものと「形式」もしくは「ゲーム」というのは、深く共通性のあるものであると        いうことなのだ(このことは後でもっと詳しく触れる・・)。(2007/9,10)        (LWのいうように”加工する”ことが、とても難点になる場合がある。しかし、その必要性が十分にあり、原文が             ハッキリしていて、常に参照を促すようにしていれば、一般的に問題ないと思う。例えば、この「金枝篇」自体の             論述の場合なら、読者は普通、取り上げている儀式を全く知らないのだから、もともとこの場合、解釈は大変危険             なのである。また、トーマス・マンが、『ファウスト博士』において、シェーンベルクの12音技法についての直接             の言及を避け、参照を望まなかったような態度も、同じように大変危険なものということは出来る。)  (2007/9,10)        そういうわけで上の54章の終わりは、礼拝する存在を殺し、その犠牲の”神的な霊験”を分け与える慣習を、ヨーロ        ッパ内の話へと、そしてその古代的痕跡にフレーザーは戻したのだが、続く55章では、”分け与える慣習”がさらに        より、主要なテーマとして強調された場合、すなわち、「災厄」を取り払う目的で、意図してそのような犠牲を用いる        実例が挙げられていくことになる。        そこでまずその一般的原理のようなものの話(肉体と精神、物質と非物質、の未開人的混同)をしたあと、無生物、        動物、人間への転移、そしてヨーロッパの場合と、例によって発展的段階的?記述を、この章でして行く。・・          ◎ ここで、今まで割りと詳しく説明した50章から55章辺りの記述を、改めてこの本全体から、捉え返してみる。        そもそも、(1章)でネミの祭司の映像的描写から始まり、まず、そこに直接関連する「幾つかの事実と伝説(p40)」        ウィルビウスや、ヒッポリュトスの神話の説明をしたあと、それをまつる祭司職であった人物が問題となっているの        で、(2章)では祭司という職自体の方が論じられる。それはまた森の王というものと結合していて、それは「人間神」        といえるようなものであったとする。 (2007/9,16)         そこから、その祭司と王権とを理解するために、「呪術の原理」に知識を得ることが必要(p56)という。そこで、        (3章)から、原理的説明としてまず、共感呪術の区別と説明を長くやる。        そこから(4章)で呪術と宗教の違いと関係、(5章)で呪術によって天候を調節するような場合、(6章)でそう        いう呪術で王となるような場合、さらに自分自身が神になってしまう(7章)の受肉の人間神というような未開的な        ものについてのべる。 呪術、科学、宗教、王、人間神など というフレーザーの話題に出てくる世界の基本概念を        、この辺りでまとめて、この本のいわば最も一般的原理的な話として説明しておく。(2007/9,17)        その次から(8章)で1、2章で話していた「森の王」の話に戻る。・・それも先の王の基本的説明から出てくる「自然        の部分王」という類に入ってくる・・        また、それが”森”の王の話なので(9章)では、森、樹木の崇拝の世界一般の話になり、さらにヨーロッパの樹木        崇拝の慣習の例が、幾つも述べられる(10章)。「森の王」は一種の人間神なのでそこに全体的影響があり、その結        婚などは、植物生育に関係する(11章12章)。        そこから、ネミの司祭のいた時代位まで辺りの古代のローマの王の儀式、信仰(ジュピターとしての王)、そこにおけ        る継承問題の話になる。(13,4章)        (15章)続いてネミの祭司が守っていたカシワの木というものが、雷、雨の神とともにヨーロッパのアーリア系民族        の主なものに崇拝されているし、またゼウスはそういうカシワの大神であるという・・またDruidも「カシワの人々」を意        味するという説があるという・・。        (16章)では、受肉の人間神というものは「呪術時代と宗教時代の中間に停足しているものp38」であって、ネミの祭        司もそういったものと言い、また、ネミの祭司と同一視される人間神ウィルビウスが、そもそも”ジュピターの地方的        変形”であるとし、またデイアーナのペアのディアーヌス(ヤヌス)でもあるという根拠を述べる。        8章から16章までは、直接的に昔のネミの司祭に関する話だったが、次からはまた「王」に関した一般的問題を論ずる        形で、話を進めていく。        (17章)は、「王権の負担THE BURDEN OF ROYALTY」として、”宇宙の動力的中心the dynamical centre of the univ erse”すなわち受肉の人間神である王や祭司たちの、守らなければならない厄介なタブーの実例を世界中から集めてみ        せる。(18章から23章)にかけて、王の生命を危険にさらすことは、霊魂を危機にさらす場合であり、そのような危険か        ら護るはずの、一般にタブーとされる行動全般の例が挙げられ考察される。{外部の人間に接すること、飲食、顔を見        せる・・などの、行動。ある種の人物自体、職種がタブー。鉄や鋭い武器、血、頭部、毛髪、爪、唾液、ある種の食物、        結び目、指輪などの体の一部分もしくは物品的なもののタブー。ある種の人名、親族、死者、神の名など言葉のタブー}        (24章)次に、結局、念入りなタブーによって護られなければならない危険は、王には常にあるわけで、”死すべき        運命”p226が、ハッキリしている世界中の実例があげられ、”力が衰えると殺され”たり、全く”一時的なもので”        しかないような王の例(25章)。王の息子が身代わりになり何とか王権を長引かす例(26章)の話。その後、王や司        祭といった神的人物の霊魂が、衰えることなく後継者に転生させる方法として、定期的に王が殺される場合などの継        承の話になる(27章)。        だから、17章から27章までは、神的な王や司祭にある人間神の生命を護るタブーなどの組織と、さらにそれを不可避        の老衰から救う唯一の手段としての”非業の最期”を一般的に必要としているということを示すため、世界中の例を        独特の連続的な書き方で取り上げていることになる。・・p283参照        次の(28章)では、再びネミの「森の王」の方に、戻すため、ヨーロッパを中心とする森林地域にも、その森の生命        を保つため、何か王を殺すことを模したような様々な各地の祭り慣習の実例・・謝肉祭等・・があることを述べる。 (2007/9,22)        (29章から43章)今度は、アドニース、アッティス、オシリース、ディオニュソースという(ほぼ皆、東地中海周辺        発祥のもの)神々が、皆”穀物神”と呼べるものであり、また、皆、”本質的に同一”p139 ということを、様々        な神話や文献からの引用的記述でずっと論証しようとする。・・ここ辺りの論述の対象と死すべき神といった話題にお        いてブルタルコスとともにニーチェの議論を連想しない方がおかしいと思うが・・さらに、(44章)以上の神々が夫        もしくは、愛人としてペアの女神を主として持つわけだが、母娘の関係であるデメテールとペルセポネーの関係も、        オリエンタルな場所由来のものより、より”やさしくて清らか”になっただけで”本質的に同一”の穀物神を巡る関        係であるという。(45章)またさらに、北部ヨーロッパにおける”穀物の母、娘”も、それに連なって全く同一であ        るとして、語源やドイツ、スコットランド、ウェールズ、スェーデン、ポーランド、ロシアなどの穀物に関する慣習、        儀式の実例から、論証しようとする。(46章)はヨーロッパ以外の、アメリカ、インドなどの穀物の母の例。それに        加えて、穀物の母が娘でもあるという”2重擬人格”という場合について。       続いて(47章)は、またギリシャの物語からのリテュエルセスの話だが、前章で穀物のペアの神が結局、一つの穀物        の神でもあることになったのを受けて、歌の名にもなっている一人の穀物神といえるこの人物の例を、出してくる。        リテュエルセスは、穀物畑で早刈り競争する人物で、見知らぬ人にその競争を挑み、相手が負けると、刈り束に巻き        込んで捕まえ、首を鎌で刈ってしまう。しかし、とうとうその相手としてヘラクレスに巡り会ってしまって、逆に、        彼自身が首を切られ、河に投げ込まれる・・。        この話の特徴は、死と復活において共通している、先のペアの穀物神たちと、北部ヨーロッパの直接は”死と復活”        的でない?”穀物の母娘”を、つなぐ役目をする”穀物畑”で起こる儀式にまつわる話だということ。        穀物の刈り場でのリテュエルセスの行為は、そのままフレーザー自身見聞したデボンシャーの”首の歌”にまつわる        穀物・・→穀物の母娘・・収穫の際の慣習に通じる。さらに、ここで首と呼ばれる刈り束などは、動物扱いされて切られ        、”殺される”と呼ばれることも重要。        (48章)すなわち、穀物神は、・・植物のものなのに・・動物化身もするというのが、先の例などからも一般的といい、        刈り束にいる穀物霊として、それが各地で犬、狼、雄鶏などと呼ばれている例をあげる。(49章)さらに、アドニー        ス、アッティス、オシリース、ディオニュソース・・という先に挙げた植物神自体も、豚や山羊、雄牛などに化身する        場合を述べる。また、ネミの司祭のウィルビウスも化身として馬でもあり、犠牲に供されたかもしれぬという話を最        後にする。(2007/9,26)        (50章から55章)穀物神が動物化身するという先の章の実例にも、その動物が食べられたり、その動物の形のパンや        人型の菓子などが食べられた場合がもう述べられていたが、50章では、そういうふうに作られる穀物自体もすでに穀        物霊の体であるという話。特に、新穀を食べるときの各地の儀式で、その植物自体を活かしている強力な精霊に配慮        するための”宥和”の行為がある実例などがあげられる。またメキシコでも聖なるパンに神が化体する発想は古くか        らあって、神を食べることで神と一体化できるというふうに考えていた。またその際、それで作った人形の首をはね        たり、刺したりもする。(2007/9,28)        51章では、そこにつながって今度は、必ずしも穀物ばかりでなく、肉食でも同じように殺して食べる動物自体に、神        的なものがある場合、それと一体化できるという話になる。動物の各種能力を得るために食べる例から、極端な人食        いの話まで。        すでに47章において、リテュエルセスの物語に近い、非常に乱暴な実例としてインドなどの豊作を確保するための過激な        人間供儀の例で、実際に人が殺され肉がとられたり、 また、未開部族の生贄の人を食べてしまうような場合がもうチラリ        と触れられていたが、ここでちゃんとその話題が出てくる流れになっていることにも注意。  (2007/9,28)                                                        52章は、ここまでは"農業によって生活するまでに発達した民族の話が主"であったと述べ始め、そこで動物、人間        の「借りられた形」で穀物神を殺して食べる慣わしをもつということを見てきたという。それに対し、この章から        は、いわばより原初的?な狩猟民などの話で、もっと”純粋かつ単純な動物”として、崇拝しかつ殺す場合の話。        {すなわち、本当はアドニース、オシリスといったような穀物的神話的物語から出てきていない場合、というふう        に理解していいと思う。}        それで、まずカリフォルニアのハゲワシの例、続いてエジプト テーベの牡羊の場合。後者はアモン神"への供儀"で        あるかのように変形されたが、実は牡羊自身が獣神である{単純に動物への崇拝が元}という。そして、ポー島の蛇、        ニューメキシコの亀の例。最後に、アイヌ等の熊祭りの例。結局、この章のこういった例で強調されているのは、        そこの人々の動物への慈愛尊嵩の態度と、虐め殺害する態度の対比、その”不明瞭な態度p71””慣習上の矛盾p75”        であり、その最も極端な度合いの対比があるのが”熊祭り”という(配置・・)ことになっている。        53章は、そういう”慣習上の矛盾”が起こる原理的説明としての”野生動物への宥和”の説。        54章は、さらに原理的な区別として、動物神を殺す慣習の2つの型、エジプト型とアイヌ型という話をする。即ち、        その動物が日常的に食べられているか否かの区別によって、最も”実際的p75”目的のための動物崇拝がなされる        典型として、アイヌ等の”熊祭り”を、位置づけることになっている。(2007/9,29)         だから、この54章までの話の流れを(17章辺りから)振り返ってまとめてみると・・・        17章辺りからいうと、27章まで受肉の人間神という「呪術時代と宗教時代の中間」にあるような「王」「司祭」に関        した一般的問題を、ずっと論じている。すなわち宇宙の動力的中心であるゆえに、念入りなタブーの組織によって護        れていなければならないのだが、それはまた不可避の老衰から救う手段としての”非業の最期”を一般的に必要とし        らているということでもある・・。        そういう一般的な話から、28章でネミの祭司に近いといえるような何か王を殺すことを模したふうの謝肉祭などがヨ        ーロッパの森林地域周辺に、あることに、事例を戻していく。                続いて、そういう「森」の植物神の話から、”穀物神”として同一なものであるという、地中海周辺発祥のアドニー        ス、アッティス、オシリース、ディオニュソースといった神々の話になり、それらが皆、先のような”非業の最期”        をむかえるものであって、共通したものがあるということを23章から43章くらいまで述べる。        そこから、一見タイプの違う、デメテールとペルセポネーも、それらと同じだという話になった後、さらに、それが        フレーザー自身が属する北部ヨーロッパの農業の慣習にみる”穀物の母、娘”もそれに連なって同じという議論をす        る。そこにおいて、早狩り競争をして殺されてしまうギリシャのリテュエルセスの話と良く似た収穫のときの儀式が        あり、北部ヨーロッパの20世紀にも実際に行われている慣習にも、そういった”非業の最期”の要素を見つけること        で、先の神々の話とも同一なものがあるとする。        また、そういう20世紀の北部ヨーロッパの農業の慣習に”穀物狼”という言い方があるように、植物神が動物神でも        あるという話が、48、49章とされ、そこで植物神の「借りられた形」として動物が供儀される場合も述べられる。        そこに続いて今度はメインで、”動物”が殺され食べられる場合の話になって行き、穀物神が関係なさそうな狩猟民な        どの純粋な動物崇拝にも、ほぼ同一的なものとして、連続して話題が移って行っているのである。そこで、アイヌ等の        ”熊祭り”の事例が、穀物神的なものと直接関係なく、典型的に実生活の必要性において、ある”純粋性”で動物崇拝        が起こっている実例の話として、出てくる流れになっているのである。すなわち、冒頭のネミの司祭の物語が、矛盾し        たような極端な態度の対比のある典型的儀式、しかも、実生活の必要性から直接きているものと思われるそういったア        イヌの儀式、でもある・・と、ここで同一的につながってきているのである。(2007/9,30)        (55章)        そのアイヌ等の”熊祭り”は、はっきりと直接的に人々に肉を分け与えるための儀式でもある訳だし、”殺してし        まうことで生命あるいは霊をより良く保存”するために犠牲を必要とする様々の同一的な神儀の中でも、その儀式        によって「すべての者がその心的な霊験にあやかることを・・願う交わりの型p108」があるのがはっきり見えるもの        でもある。その面で、蛇祭りの行列、ヨーロッパのミソサザイの行列に連なるものになる。その流れで55章は、人        々がそこで霊験を得るという以上に、自分たちの災厄を転嫁させようとするものにもなってくるという話。(2007/10,1)         (56から59章)そのような地域の人々から災厄を取り除くための、公的な儀式というようなものが普遍的に存在する        という事例を集めて見せ、また古代ギリシャ、ローマにもあったという。毛皮をまとった古代ローマの”マールス”        は毎年3月に街を引き回され打たれて、追放された。アテネでの人間代替羊は引き回され、さらに石で打ち殺された。        また、アジアのギリシャ人のサルゲニア祭の人間代替羊、ローマのサートゥルナーリア祭の模擬の王の儀式は、は        生殖と収穫の係わりを示す例でもある。とくに、後者は、社会の不満を取り除くような奴隷と主人の転換の馬鹿騒ぎ        を含んだ大規模な”はけ口”であり、とても有名なもの。・・この古代のカーニバルは、近代イタリアのカーニバルにも関係がある・・                このように人々から災厄を取り除くための、公的な儀式の事例のフレーザーの記述は、度合いと規模を増大させてい        き、最後に”メキシコの神殺し”の過激なものまで実際にあったのを採り上げる。それでネミの祭司職の人間供儀が        リアルに行われていたことの証拠p212になるとする。(2007/10,2)        (60章)この本全体の話の流れを考えた場合、この章は注目しておく必要がある。即ち、フレーザーはここで、こ        の書の”論証”の大きな流れの整理を自分でやっている。        この書の冒頭には、2つの質問があって、1つは、アリキアの祭司が前任者をなぜ殺したか?2つめは、なぜ、金        枝を折りとらねばならないか?というものだとする。そして、その第1の質問、その祭司が”規則的に”殺されなけ        ればならなかった理由については、この前の章、59章までですでに答えられたとする。(それが儀式として必要と        される重要な理由と、それが世界の儀式の事例から現実的に存在しうること・・・・)だから、60章からあとの章は、        金枝を折り取る理由の方の、「答」となる。        (祭司の生命と直結している)金枝というものを考えるためには、まず、祭司の生命を定めるタブーを取り上げる        のがよいとして、第1は大地に触れないこと。第2は太陽の光を見ないこと、という2つが世界的に重視されてい        るという。それは乙女の隔離の風習に現れているが王祭司にも適用できる(神的人物の生命の保持ゆえ)という。        (61章)それは地と天にはいないで、その中間にいることなのだが、そこで重要となってくるのがボルダー神であ        る。(この神が、死なない絶対の天上的?な神でなく、森に関係した、北部ヨーロッパの神の代表的なものゆえだ        と思うが・・)また、ボルダー神話を考えるとき、主要事件といえるのは1)寄生木を抜くこと2)神の死とそれを焼        くこと、であるという。        (62章)こういった事件の複写といえるものが、現代もヨーロッパ諸地方に広く年次儀式として、様々の形で行われ        ている”火祭り”である。四旬節The Lenten Fires、復活祭、5月1日のペルテーン祭The Beltane Fires、夏至、10        月31日のハローウィン、冬至と時期的に分けたりして、フレーザーは、火祭りの事例をこの書の中でも特に重んじ        て書いている。(2007/10,3)         (63章)は、そういったヨーロッパ諸地方の”火祭り”の解釈編である。また異説、異論を強調して併記している        ところが、ここまでのこの書の記述と少しスタイルが変わっていることに注意したほうがよい。すなわち、火祭り        における火の解釈を、太陽説・・火は、豊穣、創造するもの、または、浄火説・・火は有害邪悪を焼き尽くす、破壊の        ためのもの、という2つを同じように説明して見せるが、結局、浄火説にウエイトをおいたような話になる。        (64章)は、さらにその”火祭り”における、人形を焼いたり、動物、人を焼く場合があることについての解釈編。        人形を焼くのは、植物霊の表象として、豊穣、多産などのために、この書の他の部分でも何度も述べた生命観的な        理由で「死」を与えると考えられるし、ベルテーン祭の火に投げ込まれる人物を模したような男も、その種の人        間供儀の痕跡とも考えられる。しかし、ここでも別解釈として、一方で、かって猫を焼いたりした場合などのよう        に、「女魔法使い焼き」のために、そういったものを焼くと考えるのは、むしろ一般に妥当ともする。        (65章)以上のようにヨーロッパの”火祭り”とは、植物霊を供儀するなどのために”焼く”祭りだが、ヨーロッ        パの各地で夏至に寄生木を採取する慣習が行われていたこともフレーザーは、同様に強調する。        このヨーロッパ北部中心のこの2種の慣習は、ノルウェーの神ボルダーの話に光明を与えるものだという。即ち        61章で述べていたように、その神話は2つの主要事件があり、この2つは各々の複写的なものであるし、また両        者間の関連性は深いものがある。 それで、フレーザーは、ボルダー神話とは火祭りと寄生木を採取する習慣の        2つに分割された”原本的なもの”である、または、そこに「実践と理論の関係」を見ようとする・・p49。そして        、その慣習を混ぜて考えることで、ボルダー神話を具体的事物的な話?として解釈しようとするのである。        65章の始めのほうで、世界的に見て、寄生木への信仰と様々な効能と考えられていたものについて述べる。また        「アイヌも北方起源の多くの民族のように寄生木に対して特殊な尊崇の念を持っている・・p40」などと書く。        すなわち、万病の薬、火事を消す、落雷よけ、豊作、乳牛に良い、・・といった神秘力を持つとされる一方、扱い        に注意が必要で、特に地面に付けてはいけない・・等々。また、ボルダーが植物神と考えたとき、それは特定の        植物であったはずで、ヨーロッパの場合まずカシワの樹に相当するだろうという。さらに、それはその木片で発        火された聖火を作るものでもある。        だから、ボルダー神とはカシワの樹の擬人格を表わしたもの。そして万病を治すような、またカシワ自体が冬枯        れの時期にあっても青々としているような、生命のもと-生命の座-である寄生木が、付いている限り、そのカシ        ワの神は、大丈夫なもの、不死身なものである。しかし、その寄生木が取られてしまうと、カシワの樹、その神        は、たちまち殺されてしまう、燃やされ消滅してしまうというような話・・p53参照・・。        以上のようにボルダー神話は言い換えられるし、それはヨーロッパ人の儀式や慣習の土台となる信仰のひとつの        ”原本”になっているということ。        (後に述べる理由で、フレーザーの実際の議論の仕方はかなりややこしい。上の要約は、つながりの骨格を出来         るだけ、見て取りやすくしてみたもの。)        (67-67章)は、その-生命の座-である寄生木みたいに、身体の外にそういう存在を設けること=”外魂”というも        のに対する”原理的”な考察であり、終盤近くに差し挟まれている形になっている。世界中の民話や慣習から、        それが未開的民族にとって普遍的な考え方であることを論じていく。(最後はトーテムという問題に関係させる)        (68章)この書の”論証”の一応最後の部分になる。(65章での”ボルダー神話の言い換え”は、じつは不完全な        ものであった・・というのは、)ボルダー神話では、寄生木が取り去られたのでなく、寄生木で出来た矢を打ち込        まれたのであるから、見方によれば、ある種の”矛盾p119”のようにも思えることが、まず問題になってくる。        しかし、「ある人物の生命がある特殊なものとなって具現し、・・その物の破壊が彼自身の死を引き起こすとなって        いれば」、「そのものの一撃で彼が殺されるというのは全く自然である」とフレーザーは言う。        コシチェイがその生命の卵を投げつけられたり、ある魔法使いが枕の下に生命の石を入れられたり、タタールの        英雄が、彼の魂の託された黄金の矢によって殺されるとの警告を受けたりする場合と同じだとする。p119参照        そういった類に、人間神の生命を預けておけるのは、天と地の間に上手く吊るしておく故で、そういうことに        ”その神秘的性質p121”の一部を得ている。また、寄生木がボルダーを死に至らせた武器であるだけだけなく、        それがかれの生命を保有していたと言う見解を支持しうる類似例は、スコットランドのヘイ家にまつわる伝承        と詩にもあるという。        その矛盾の問題を、こういう言い方で一応終わらせておいて、次はそもそも、ネミの司祭と関係する直接的資料        であるヴェルギリウスのアイネイアースを描いている文章に出てくる”金枝”とは、完全に寄生木だと言ってい        いのか?という問題を取り上げる。なぞらえた言い方に過ぎないものでもあるが、ちゃんと カシワの樹上の姿        を描写しているし、詩的な言い方とすれば、同一だとするのは不可避とする。        その結果、ネミの司祭の護っていたのはカシワの寄生木である。そうとすれば、何故そこで”寄生木が折り取ら        れなければならなかったか?”という60章で提示されたこの書の後半の問いには、ネミの祭司の話に対して、61        〜65章で解説してきたようにボルダー神話の実態?とは実は完全に”類似の比較例”がなりたっているので、こ        こで答えられるとする。・・こういう論法をフレーザーは、展開しているといっていいだろう。(2007/10,7)         すなわち、ネミの祭司のカシワの寄生木を折り取る理由は、カシワの木であったボルダー神を殺すために、その        不死身の由来である”外魂”としての寄生木を切り取らねばならない(先に述べたように”切り取る”のと”打        ち込む”ことと結局 同じことなので・・)理由と全く同じと考えてよいのである。 ネミの祭司もカシワの木の        精霊なので、寄生木を切り取らないと同じく、その精霊としてなら本当に死ぬことはなかったはずでもあるから。        ・・p124参照        だから、史実として直接は残っていないが、”殺された祭司を夏至の火祭りで焼く”といった”仮定が要求され”        てくるという。(同じように逆に”切り取った寄生木を祭司に投げつける”ということが行われていたのも”恐        らくは”想像されるという)p124参照        ほぼ此処まででこの書の問題提起の解答、証明の過程は終わったともいえるが、フレーザーは此処からこの章の        最後までさらに、ひとひねりを加えた終わらせ方をしているとも見られるだろう。        即ち、”残った問題”として、そもそも”寄生木”という地味にも思えるこの植物が、なぜ”金枝””すべてが        金色”などとヴェルギリウスによって、ことさら呼ばれているのか?という疑問から、起こってくる解釈。        数ヶ月乾燥させたものは、確かに金色がかった黄色になり、飾りにも使われたりするが、それももっと由来を考        えてみる必要がある。        寄生木になるシダは、その種が金色で太陽の血と呼ばれる場合があるように、太陽の火の放射と思われていた。        また、占いに役立つもの、鍵を開けるもの、灯り・・(「金」のイメージをもつ植物?万能のもの・・65章p45辺り        ですでに、火事よけ、雷を避けるもの等の効能が列記されていたことに注意。)        カシワの木は、火を起こす元となる木であり、むしろ”太陽を養うための火の倉庫”とみられていた。        そしてその寄生木の姿は、夏至の太陽の放射と考えていいとする。        このように寄生木、カシワの木は火、太陽と関係が深いので、ウィルビウスやボルダーといったカシワの木の        精霊の神も”太陽そのものと混同される”ところあった理由とする。そこで、        カシワの木=神が、そこから引き出す”火”、それに関連する金枝の効能、ゆえに崇拝されたのであり、天空の        神との関係は火から連想された派生的なもの?にすぎないというような捉え方にもなる。        しかし、ここから先の63,4章でもやっていた異説併記と関係する新たな異論を問題にし出す。すなわち、むし        ろ、カシワの木の崇拝は、アーリア人本来の天空の神を崇拝することから起こっているのであり、特に、雷に        当たったりすることが多いというような”頻度にもとづく推論”程度のことから逆に派生?しているものとも        十分考えられるという。  だから、樹上の寄生木の金色の姿は、”夏至の太陽の放射”でなく、”雷電の        放射”とも考えられるとする。p134-5参照  また、        このように考えることは、樹上、天に近い、ということに関する神聖性を説明することにもなるという。        たとえば、寄生木は、雷箒とも呼ばれるが”雷の作ったもの”としての神秘性をもっているという。        ・・このような2つの異論は、調和させることは全く不可能なわけでもないが、しかしこの「2つの間の矛盾」と        いうようなものは、現代人には古代人の考え方が、結局、完全には理解されず、蓋然的なものにしかならない        ことに関係しているので、これ以上論じない・・・というような短いただし書きみたいな話p136をしてから、        この考究の結論としてTo conclude these enquiries・・」と書き、先の”雷電の放射”説より、フレーザー        は新たな話を導き出してくる。        というのは、前にボルダー神話を寄生木を切り取られ燃やされ、死んだカシの木の話に置き換えて捉えた        訳だが、それが、今度は        雷の焔であり、雷避けでもある寄生木が取り去られると、そのカシワの木は落雷を受けて死んだという話        に解釈されうるということ。        こういう話になるというだけではなく(視覚的によりドラマティックな解釈になるわけだが・・)        この書の前部にあたるような15章・2巻p31〜で既に述べていた、ネミの祭司 ウィルビウスが、元々        ”ジュピターの地方的変形”でありうるというフレーザーの説、すなわち、雷 天の神でもある性格と        、ボルダー神話の解釈が、より結び付けやすくなってくるのである。        だから、ボルダー神話も、単にカシワの精霊の火の性格であるだけでなく、雷の性格でもあることで、い        っそう2つの物語は同一性を強めるので、ネミの祭司がジュピターでもあり、寄生木はジュピターの生ま        れ変わりでもあるということが、より積極的に言えることになる。        そこから、祭司が剣でもって、寄生木を命をかけて護ったとしても「何の不思議もない」と言いうるわけ        だし、さらに同時に、16章で述べていたディアーナがジュピターのつれあいのユーノーと同じものだとい        うフレーザーの説もより積極性をもつことになる。・・・ネミの湖の水面の鏡に、自らを映していたのは、        ディアーナであり、また「天の王妃」でもある。・・・        (69章) 論証の”流れ”とは、直接関係が薄いので、このページの上、”『金枝篇』の全体の内容のあら        まし”を述べた部分を参照。・・後でここに関してもまた触れる。(2007/10,8)        ● フレーザー『金枝篇』の隠れた言語論的なもの。その論述によって本当に成り立っていること:        以上のような、ネミの祭司という慣習の存在を巡る、長くて規模の大きいこの書の論法が、もちろん、その        直接のテーマで、そのまま認めうるものかどうかは、今となっては余り問題にならないだろう。それでも、        なぜ、こういった話に、多くの読者がある必然性を感じてきたのかはとても重要だし、そして、それがやは        り大切な”役目”を果たすようなものであったところは、ちゃんと見ておかねばならない。        先程まで、この議論の流れに特に注目して見てきたわけだが、少なくともここで結論に至るまでの道のりで、        呈示されている実例群には、フレーザーの指摘しているような関係があることは、大きなつながりでは認め        られそうだということを、イメージしていただけただろうか?        即ち、犠牲的に死ぬような神として、アドニース、アッティス、オシリース、ディオニュソース・・など        に共通したものを見出せるし、それは特に世界的に見て農耕社会における植物神の信仰に全般的に関係付        けうる・・といった発想の重要さ。         さらにそのような地中海周囲の神々と北部ヨーロッパの神話と現代にも一般的に残る火祭りのような西欧        諸国の慣習も、いささか複雑化、間接化しているにせよ、共通性がありそうだということ。        ・・etc        そして 結局、そこにおける”生贄”という人類の広汎で奇妙な?習慣を根本的に、比較すべき有力な他の論        者が無さそうな位、扱っていることと共に、それが立証という形を取りつつも、全編 常に”単なる無味乾燥”        にはならず(あとで述べるように重大な錯覚とごまかしの温床ともなるにせよ)、むしろ、丹念にデザインさ        れた多彩で壮麗な情感の織物として構成されていることなどは、(先の終盤に至る流れを改めて検討してみた        あとでも)やはり、十分正当と言っていいことだと思われる。(2007/10,16)        とはいえ、このようなことがそのまま見て取れる話では、全然ないことが、勿論、重大な問題・・。        そのようになってしまう理由として、        まず 挙げていいことは、ウィトゲンシュタインも書いているように・・        「全ての儀式の類似以外に差異が注目すべき・・。繰り返し現れる共通の特徴を持つ顔の多様性である。共通し        た要素を関係付ける線を引いてほしい・・全集6p412」ということ。        フレーザーの議論の特徴は、重大な"原理principle”の大胆な呈示とともに、実は類似、同一性の大規模な適        用をやっているにも係わらず、隠れたような扱いで見えにくくなるような具合で行っていることがある。そし        て結局は、地中海の神様たちは皆 同じであり、皆 穀物神であり、それが北部ヨーロッパの習慣もまた同じ、        ゼウスもウィルビウスもボルダーも同じという、その議論の根幹は、本当は かなり単調な繰り返しなのだが        、一見 そうとは見えないということにもなってくる。        というのは、こういった儀式、慣習などというものは、「言語的な形式」の一種といえるもので、その類似や        同一というべき議論を正当に扱うためには、基本的に”比較”を行うことであって、区別して捉えなければな        らないことなのである。        むしろ、まず全体を見渡し、そこで特に言語的な系統にある程度整理してみたり、そこにおける顔の多様性に        注目して、社会における位置関係(・・子供向き、産業、諸生活との結びつき、女性中心、男性中心?・・etc、        ・・上記、ウィトゲンシュタインの”金枝篇について”で述べた”説明にについて”(4)での、”あらゆる状        況のこと”辺りで、書いたことなど参照)、        さらに表れた”顔つき”の対照的関係などに注意して、大きなアウトラインを引いてみることが大事になる。        それを簡単にやってみるだけでも、非常に不当な錯覚的意見を防ぐことが出来る。        しかし、フレーザーの場合、彼の"原理principle”からの”演繹的”展開の流れにおいて、特別な断りなく、        ”演繹的”思考の延長でもあるかのように、自らの都合の良い方向にどんどん進めて行ってしまっている。 (2007/10,18)         また、とても重要なこと        「深みを与える大事なところは、儀式の表象をわれわれ自身の感情や思想と結びつけるところだが、そこ         は”欠けている”部分になる。全集6p412」        儀式の表象を、扱おうとする場合、年時・地域など、またそれと関係付けられたりする資料など、そのデータ        ー的な記述だけでなく、結局、何らかにおいて”われわれ自身の感情や思想と結びつけるところ”が、どこか        で出てくる(そこに書き記された文字等だけでなく、それはわれわれの生活との”深い”必然性によりどこか        に顕われる・・)。 (2007/10,21)         だから、その際の、適切な「説明」の方法としては、表面的な論述のもっともらしさ以上に、その記述の”欠け        ている部分”に注意する必要がある。というのは、私たちの言語において”比較”、もっといえば”自分自身”        との比較、関係付け抜きには成立しないというところが、むしろ土台を成している。”自身の感情や思想と結        びつけるところ”というのは、直接、書いてあることというより、そういった記述を行っている人の、”隠れ        て、欠けている部分”すなわち、その際の”扱い方”である。さらにいえば”土台としているような態度”と        いうようなものが、ずっと問題になるのである。        普通ちょっと不利そうに思われがちなのだが、結局、一番いいのは、基本的に素直なやり方をして、自分の考        察の手順や拠り所も素透しにして、そのままな位な方が、自分も他人も混乱させないということは強調してお        いて良いと思う。特に、人間の様々な慣習、儀式、芸術などといった偏見の起き易いものを扱うとき、その議        論の責任者の話のプロセスのウエイトの強弱は、”隠れた部分”の在り方に非常に影響があるから、そのよう        にした方がよい。 こういう民俗的な問題を、十分資料に基づく話として展開しようとする場合、多分に一部        の文献上に存在する程度の例を、小説の主人公のように、頭から”動かざるもの”のように設定してしまえば        、端から元々デリケートなこういった類のものを全て狂わせてしまおうとする意図と余り変わらないものにな        る。(2007/10,22) もちろん、         『金枝篇』が、一方で非常に”文学的”であり、そして、ある自然科学の一分野としての”民俗学”という         ものでもある・・、という”並存”が可能であったこと:そもそも当時の世界各地の民族的な諸事情について         の情報が、こういった小説風のまとめ方にも、必然性を与えるくらいの分量的レベルであったというような         ことは、やはり考慮していいと思う。(2007/10,25)         フレーザーは、未開の民族の慣習などに決して単純に否定的な訳ではない。先にも紹介した52章アイヌの儀式        の問題を扱ったところで、”自分自身に関係する諸問題について深く考え、それに理論付けをし、結論はしば        しば非常に違うが、人生のある根本問題に対する辛抱強くて長い沈思の能力を持つ・・p74」とまで、書いてい        るし、また特に23章「未開人への感謝(恩義)OUR DEBBT TO THE SAVAGE 」でも、「一般的によく筋道が通り        、相当完全で調和のとれた全体を形作る掟a system of rulesを作り出すのである」と書いたりするくらいで、        フレーザーの主張を、”原始未開人the savage”を単に嘲り軽視するありふれた言説と十分区別しておかねば        ならない。        しかし、フレーザーの場合 未開人の手法としての呪術的な、そしてその観念連合自体が、「科学」に対して        因果的連鎖という基調を同じくしながらも、乗り越えられた”錯誤”であり、その手法の”致命的な欠陥”         第4章p127・であるように思わせる記述を、するのである。        即ち、明らかに馬鹿げた、人の脂肪でできたロウソクを使うロシアの呪術師のことや近代的な気象科学のイメ        ージと雨乞いの対比といったこと・・などを並べて。        一方、実のところフレーザーの科学と呪術の本当の区別は、真理か錯誤かという同語反復的定義、そして        せいぜい”真理とは、結局最もよく働くことのわかった仮設”・・第23章p225・というようなものでしかないの        である。(だから、この意味でも、フレーザー的な発想の中からも、決して無理でなく、むしろ”野蛮””未        開人”こそは、素晴らしいとか、いう主張は、”ある限定”付きなら、全く出てくるものとなる。)        ここで大事なのは、        「呪術は、常に象徴作用と言語の概念に基づいている」 ウィトゲンシュタイン『金枝篇について』p398        という認識である。(2007/10,25) さらに、        
         

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