※『小林秀雄のモオツァルト』について:T     

◆ T はじめに  ◆

                                       


【T・A】

  
  小林の「モオツァルト」は、モーツアルトの何か1曲全体のまともに音符を検討した分析?といえる      
  ような所は全く無いのは勿論のこと、必ずしも”音楽の専門家”が、書いたようなものでない、作曲   
  家の伝記小説みたいなものによく出てくるエピソードや、才能や個性などにまつわる(”わかりきっ
  た通説”)よくある評言を、素材にしているには違いないが、こう通してみるだけでも、このような
  構成で置かれることにより、そういったものとはぜんぜん違うものになってしまっている。

  詳しい説明は、後で、其々関連した箇所で触れていくとして、一貫した観点が、強くあるのに注意し
  てもらいたい。

  すなわち・・・・ ”言葉 概念”と”音 音楽”との対比を、一貫して中心にしている。そこに鑑賞に
  ついてや(大阪の出会い体験)相について(肖像)語ることの限界(美と沈黙)努力と才能の顕われ
  かたの問題(努力、子供らしさ、天才、即興性、模倣、環境)歌・旋律と概念、劇(短い主題、肉声
  と器楽的歌劇?)小林風音楽史的位置(モオツァルトの多様性)を経て、モオツァルトの音楽的宗教
  観?、死生観?みたいなもの(神、音楽という霊、死)をも、導き出しているともいえそうだし、歴
  史的資料的というより(もちろん小林本人の言葉使いではないが)”芝居風”の扱いでゲーテやスタ
  ンダール、また関連してベートーヴェン、ハイドンなどの”キャラクター”の中に、分野を超え(音
  楽と言語の)て位置づけしようとしている・・・というようなことを、十分認めうるのでないか?

  そして、独特の振幅の大きい言い方、文体にせよ、全体に強い情緒的な統一感みたいなものがあり、
  (一応日本人には)大きくアピールするような”作品”であったのは、多くのひとの認めるところだ
  ろうし、なおかつ、先程のようなある一貫した分析?の盛られたものでもあるので、殆んど類例のな
  いような”ユニーク”なもの、といった方が良かろうと思われる。(少なくとも、こんな観点の、そ
  れなり展開された音楽論の類を、私は殆んど思い浮かばないのだけれど)

  小林自身この「モオツァルト」の冒頭から2ページ目で、ロマンロランの名を挙げ、「この興味ある研
  究は意外なほど凡庸な結論に達している」と書くが(もちろん、小林の書いているのはベートーヴェン
  の音楽に対するゲーテについての話だが)、実際、本人が意識しているくらい奇抜なのが、この小林の
  「モオツァルト」の特徴・・・と見た方がいいところがある。(普通、一般に受け取られているのと逆で
  あるだろうし、またそれもむしろ特異なことといえる?)

  しかし、そのようなものがなかなかそうと受け取られていないようだし、また ”小林秀雄「モオツァ
  ルト」読書ノート”(1974)で展開されたようなカゲキな?批判、また、そのような批判の十分まっとう
  な同調者も見受けられるようなことを考えるにあたって、私がここで書いていいと思われるのは、小林
  の「モオツァルト」には議論の非常に歪められたやり方が、”隠されている”ということ。


         2




  そのことを考えるために、まず、以下の引用文を、読んでもらいたい。

  『・・・俯瞰的叙述の概念は、われわれにとって根本的意義を持つものである。それは、われわれの叙
    述形式、われわれのものの見方(一見現代に典型的な一種の「世界観」シュペングラー)の特徴
    を、示している。
    この俯瞰的叙述は、了解の仲介となる、了解の本質はまさに、われわれが、「関連を知る」こと
    にある。それゆえに”連結項”を発見することが重要なのである。

    しかし、ある仮説的連結項は、この場合、事象の類似、連関に注意を向けること以外は、何の役
    割も果たすべきでない。それは、楕円を次第に円に変えていくことによって、円形の楕円に対す
    る内的関係例証するのに似ている。それは、しかし、ある特定の楕円が、事実上、歴史的に、あ
    る円から出来上がっている、ということ(進歩の仮説)を、主張するためでなく、ただある形式
    的連関に対するわれわれの眼力を鋭いものにするためだけである。しかし、進歩の仮説も、また
    ある形式的連関の一表現以上の何ものでもないと見なす事ができる。  』

           (◆◆「フレーザーの『金枝篇』について」全集6p405)
                            (ここまで2005/10/5) 


  この文章は、1938年以降くらいに書かれたものらしい短い所見群の「大まかなノート」であるものの手
  近な日本語訳を一部一応そのまま抜粋してみたもの。これを書いたウィトゲンシュタインは、フレーザ
  ーの『金枝篇』を読み興味を持ち、まずは、717ページにもなるものを、タイプさせ、また,推敲を重ね
  たりもしていたようだが、不十分のままになったらしい。それにたいし、こちらは日本語訳のそれで全
  部で30ページくらいの短いものだが、その後のものになる。

  とはいえ、これでもウィトゲンシュタインとしては、例外的なくらいに”文化””歴史観”などに、対
  して正面から述べた、濃縮されたコメントで出来ているので、メモ的な正式なものでなくても、(何れ
  にせよ、”読む”にはとても工夫のいる文章だから)その考え方を知るにはとても重要なもの。

  上の引用は、編者のRush Rheesがまとめたらしい、Tの、もっとも長く書かれた前半の11ページくらい
  の文章の、最後に出てくる。(後半のUは、13個の引用文への断片的コメント)
  Tは、フレーザーのように未開人の行動を記述するにあたって、説明の出来ないこと。仮説、意見と錯
  誤、呪術、擬人化、死霊という言葉をフレーザーが安易に使うこと、フレーザーの野蛮、歴史的説明・・
  というふうに続き、この文章になる。(ここまで2005/10/7)

  ここで、まず言えることは、一般にウィトゲンシュタインには、こうした文化論みたいなことに関して、
  言及すること自体を否定しているような印象が確かにある(・・・語れないもの)。実際、このノートの
  始めのほうに、
   「たとえば、祭司王の殺害、といった慣習を説明しようというアイディアがすでに間違っている
    ように私には思われる・・・」(p394) また、「説明を企てる、ということはすでにつぎの理由
    で失敗している、と私は信じる、すなわち、ひとは知っていることを正しく集めるだけでなけ
    ればならず、何ものもそれに付け加えてはならないし、また、説明を通じて求められる満足感
    は、その結果として自ずから生ずる、という理由によってである。」(p395)
 
  こうゆう箇所をいきなり読んでも、「説明」は、殆んど許されるものでなく、ただ、問題となる”慣習”
  などを、「記述し」(p395)並べてみせるくらいしか出来ないことを言っている様にも見える(”何もの
  もそれに付け加えてはならない・・”)が、それから離れて置かれ、書かれている先の”俯瞰的叙述”に
  ついての引用と、併せて見ると、かなり、どの程度のことを考えているのかが判る。

  ウィトゲンシュタインのこういう書き方に、従来 多くの人は惑わされてきたのだが、一般に”どうい
  う人たちに向かって書いているか”ということが、理解する時に非常に大事なことなのであって、基本
  的に19世紀的な哲学者といえる人たちや文学者傾向の人々に対しての、言い方が強調されたかたちにな
  っている場合を、まず注意すべきだし、本来、表裏一体の二面性を持つことを忘れない必要がある。


  例えば、フレーザーがやったような雨乞いの儀式などの由来を説明する場合(P395)、「記述されたも
  のがわれわれに与える感銘」がまず重要なのであって、フレーザーの説明など、「不完全な仮説に過ぎ
  ない」ということになる。

  また(その後、p418のベルテーン祭りについて書いてあるところだと)「仮説を発表する必要は必ずし
  もなく」「読者が結論を引き出すだろうから」「資料をわれわれに提供し、それ以上何も言わなければ
  よい」と「言うことも出来よう」といい、さらに、その「結論」すら、むしろ必要ない、ともいう。

  このぐらい、否定的に追い討ちをかける議論のパターンで、述べているものの、
 
 「説明は、いずれも仮説であり」(p396)「歴史的説明、進歩という仮説としての説明は、データーを
  まとめる一つの仕方ーその概観ーに過ぎない。」(p404)「ひとつの普遍的表象にまとめてみること」が
  「可能である」(同上)と述べていることを、重ねれば、その資料自体の「感銘」が重要であり、説明は
  、集められた「データー」、「資料」、「記述」を、相互に「関連つける連結項」程度に抑えるべきであ
  り、「進歩の仮説も、また ある形式的連関の一表現以上の何ものでもない」(上引用参照)というふう
  に、この「フレーザーの『金枝篇』について」の主張を整理できよう。

  この主張は単純に受け取れば、現在ではさほど珍しくない主張のようにもみえるが、このような「説明」
  は、それ自体「感銘」を与えるものなのが前提であることも、同時に言っているので(・・感銘を与えよう
  とするものは・・・)実は大変難しいことであり、(結局、手を下さなかったものの感銘を、消さないよう
  にして使い、また全体でも感銘を与えるようにするということ。p418の内容参照)単に、どうでもいい資
  料を並べればよいとウィトゲンシュタインが、いっているので全くない。




         3



  小林の場合も、モーツアルトについて語るには、その話の素材の扱いに問題があるのは、やはり、最初に
  指摘する必要がどうしてもある。”小林秀雄「モオツァルト」読書ノート”(1974)”でも、

  「エッケルマンの引用するゲーテのエピソードにはじまる。これは特徴的である。エピソードと間接の引
   用の好み。しかも、この孫引きのやり方はよくない。・・・つまらないところで読者を、くすぐろうとする
   なぜそのまま書き写せないのか?・・」(p114) と、述べられている。
                                   (ここまで2005/10/12)

  もちろん、いろんな場合があるので、制限されたスペースで必要なことを述べたい場合、引用はなるべく
  簡潔に、便利なかたちで、済ましたいというのも、仕方の無いケースなのだが、しかし、つぎのことぐら
  いは、考慮する必要はあるだろう。

  引用を、部分的に、元の文章から、全く理解しないで勝手に取ってきて、装飾的に置いておくことは、本
  当にありふれたことであり、なるべく元の文章全体がどうなっていて、またどういうところにあるものか
  常に意識させる必要がある。また、作者が、何度もチェックを入れて自ら出版したようなものと、下書き
  のノートみたいなものは、当然、その作者の中での軽重の差を考えるべきこと。また、その作者がどうい
  う活動にウエイトを置いて生活していたか?から、かけ離れないように捉えること。さらに、意外と重要
  なのは、そういう資料、発言等を、部分的に引き出す際に、前もって情緒的にあおったりしないことで、
  別に無表情であるのもおかしいが、その資料自体(の感銘)が埋もれない、なるべく淡々と扱えるような
  開かれた雰囲気であること。

  モーツアルトの場合だと、まず、少なくとも代表的といっていいような音楽作品自体を、どの作品でもい
  いから、とにかく、全体を捉えられるような見地を残しておかないと、不当になるのは明らかなことだろ
  う。(小林は自分が音楽の”専門家”でないことを強調するにしても)また、モーツアルトの考え方を知
  るには、その手紙よりも、歌につけられた詩、その歌詞としての曲の中での扱い、また歌劇のストーリー
  や、その発想、それにつけられた場面の音楽の違い。こうしたものが大事なのは、どんな理由を挙げるに
  しても(確かに小林の「モオツァルト」の基本的なプロットに関わるわけだが)重要なのは当然といえる。

  そして、”エッケルマンの引用するゲーテのエピソード”にしても、本人自らが責任を持って言おうとし
  ていることを、脇に寄せて、回りの”間接”的な加工をくわえられたものを、頭から選びたがる強い傾向
  と、されても仕方がない感じがある(先の章別のまとめ、で書いてみたような意図もあるだろうけれど)。
  また、全文の最後でも同じように、いささか伝説風のエピソードを置いて完全に挟んでしまうやり方も、
  モーツアルトの作品自体から「関連すること」を出来るだけ検討し、また、それから受けるいろいろな感
  銘に対して、むしろ始めから終わりまで予断で包み込み、消そうとしているようなことになっていないか?



         4



  とはいえ、この「モオツァルト」という文章の、いわゆる”文芸作品”としての、 性格 を考えた場合
  、こうしたことばかり言うのは、やはり不十分にはなるだろう。けれど、その中にも強くある歴史観、進
  歩観の捉え方はいろいろな小林の著作にも、ほぼ一貫してあるもので、軽視されるべきでなく、例えば、
  それを述べた以下の文章も、さらに解説するものとして注目に値する。(この4行は2005/10/20)
  
  「歴史の合理的発展という駑馬に跨り、自由とか進歩とか喚き乍鞭をくれている、行く先は駑馬が知っ
   ているはずだ。どうも実に野蛮な光景であります。・・・」「歴史は、眼をうつろにしてさえいれば、
   誰にでも見はるかす事が出来る、平均にならされ、整然と区別・けじめ・のついた平野のようなもの
   ではない。僕らがこちらから出向いて登らなければならぬ道もない山であります。手前の低い山にさ
   え登れない人には、向こうにある雪を冠った山の姿は見えてこない、そういうものである。・・・」

    (「歴史と文学」S16年の小林秀雄の講演文:文春文庫ヒント3p231、p246からの引用)
                                   (ここまで2005/10/13)

  日中戦争が、激しくなっている時勢の乱暴な調子もみられるような講演文だが、こうした一種の”俯瞰的
  叙述”を、強く意識し、 "進歩"ということに単純に与しないで、一貫して考えることの出来る、有力と
  いえる論者は、他に誰がいたか・・というのは、やはり、重要にはなる。そして、この引用を持ってくれば、
  誰でも、その上の「フレーザーの『金枝篇』について」からの引用文の中の、”進歩”の仮説、俯瞰的叙
  述の概念という同じような発想が気にはなるだろう。そのことを、ここで要点を狙ってちょっと通り抜け
  てみるのも、無駄道にはならないとおもう。


         5


  ところで、先にあげたウィトゲンシュタインの引用にある「ある特定の楕円が、事実上、歴史的に、ある円
  から出来上がっている・・」というのは、よくあるお飾りめいた言い方ではなく、ウィトゲンシュタインの主
  要な主張としてにたびたび現われるものの、ひとつのヴァリエーションで、幾つかの問題と関係して以下の
  ことがかんがえられる。

  この引用の中の「内的関係」や「形式的」関連という言葉が用いられているのに、まず、注意せねばなら
  ない。この「形式」や「内的」とは、ウィトゲンシュタインにとって最も中心的な用語ですらある。
  
  「性質は、対象が当の性質を有しないことが思考不可能なときに、内的である」(4,123)「形式的概念は、本来の概念がそうであるように、関数で描写されることは、決して
   出来ない。なぜならそのメルクマールである形式的性質が関数によって表現されないからである」「・・形式的性質の表現とは、いくつかのシンボルが持つ其々の相である。」
    (4,126) など・・・

  上のような引用した『論考』の部分周辺を、先に一応は眼を通してもらうこととして、何れにせよ、本当は
  非常に厄介な問題が、含まれたこの文章を、ここでの話題(小林の手法の話)に即して、アウトラインが得
  られるようにするために、「形式」や「内的」という言葉を、直接取り上げるより、「円や楕円」といった幾
  何的図形やそういった類の問題を巡って話されていることを、通じて考えた方がよいと思われる。
  
  まず例えば「青色本」(1933頃)後半において、感覚与件の問題とつなげて、「物理的眼」と「幾何的眼」
  の対比が、論じられるが(全集6p116)、「幾何的」なものは、一般に思われているのと違い、無いものも
  あるといいうる基準を自らで持ちうるものなのであるということが、さまざまないいかたのひとつとしてこ
  の本の中で、強調されている。目下の目的のために便宜的なガイドとして非常に簡略的にいうならば・・・・こ
  れは、そのいみで絶対であり、それは結局、わたしたちが、測定したり、図形のいろいろな関係や、合同を
  知る、その道具として、共同体の中の扱いの所作と、つながってこそ機械的にも作動するもの(その中ではじ
  めてシステムになっている)なのだから、幾何的なものとは、むしろ、普通思われるよりずっと、物理的な
  もの以上 に抽象的な人間生活と無縁なもので全くなく、共同体そのものと根底的に関係しているということ。
  だから「円と楕円」というのは、歴史や文化現象の”喩え”で決してなく”典型”というべきもの。
   
  楕円が、円であることが、はっきり見えるのは、空間中に角度を持った正円が、再び、平面に投影される時、
  典型的だが、そういったことを

  「・・・右手の手袋を、仮に4次元空間で、回転できるとすれば、それを左手にはめることも可能だろう・・」
  (6・36111)という、論考における、特に奇妙にも見える一文の内容と、さらに比較して見ることは、有益
  である。すなわち、ウィトゲンシュタインが、どういった問題を扱おうとし、何を批判しようとするのか、
  さらに、ウィトゲンシュタインが、他の思想体系を”批判する”場合、どのようなことが可能と考えている
  かの集約的サンプルになるのである。

  この右手左手の話がでるのは、カントの『プロレゴメナ』先験的主要問題の純粋数学の可能性を述べた一連
  の文章の中で、悟性認識と感性認識の違いの例として、右耳左耳、右巻き左巻き螺旋の例と同様に、右手と
  左手は重ね合わせられないという話題が出てくるからなのだが、ウィトゲンシュタインが指摘しているのは、
  そういう例ならば、カントの主張とは違って(実際、カントの説明は、概念的認識を直観から区別したいと
  いう彼の体系的要求を抜きに、普通の算術的実感からいえば気まぐれな主張の感じは明らかでもある)平面
  にもまた一次元にも、すでにあることが、全く見落とされてしまっているということになる。

   注:論考の(6・36111)について、代表的な邦訳書や研究書にも見られる難点として、○―XとX―○の対称性の記号の誤解の問題がある。そもそも

  結果、この例は、カントの見方の”不具合”が、よく判るところとなってしまっているのだが、ウィトゲン
  シュタインの場合、因果律を認めないことと同様、対称・非対称、数量関係などの論理的関係が純粋に問
  題になるので、次元の問題もその程度であり、カントの場合のように、ひとつの表現形式(感性的直観の形
  式としての時空)にこだわる必要がない。そして、これはやはり、19世紀以降の数学の歩※に、ずっと対応
  できる見方でもある。

    注:※現代数学のいくつかの問題:

  ところで、「複合的なもの」「事実」「関数」「数」が、形式的概念といわれる(4,1272)のと同様、「円」
  も十分そうもいってもいいものなのだが(勿論、座標による関数表示ができるが、それによって円であるこ
  とが遡及的に決まるわけでない。心に円を描く・・etc。一方カントは、円を特に悟性的認識の中に入れたい
  のであり、”半径が等しいという条件からのみ導出しえる”といっているがこのこともまた気まぐれな感じ
  はするだろう。---しかし、ウィトゲンシュタインのいう形式的概念でも、気まぐれということは、絶対的
  正しさと同じく、根本的特性なのではあるが)、それゆえ、その「形式的特徴」を同じくすることも、関数
  や命題によって決められない。(4,126参照)

  このことは、「右手と左手」についてもいわれることであって、それが合同といえる形式的特徴を持つこと
  は、それがそうであるとしかいえない。「1つの特徴は、その当の対象がそれをもたないことが考えられな
  い場合、内的特徴である」(4,123)

        構造の特徴→内的特徴→形式的特徴
        構造の関係→内的関係→形式的関係  (4,122)(4,126)参照。

        上の関係は、双子的姉妹的関係であって、基本的には文脈に応じて使い分けられる程度の関係になる。


  そこで、従来、全く不十分にしか理解されていなかった、カントの説からきた話(6,36111)で、もっと注意
  すべきなのは、「右手と左手が、実際に完全に合同」と断言される一方で、「両者が重ね合わされる」(4
  次元空間で)ことを、挙げカントを批判してておきながら、それによって合同が決まるという言い方はせず
  に、微妙であるのが、実は重要だということ。

  すなわち、上で触れた関連することと、ここで「円と楕円」の話と、この「右手と左手の重ね合わせと合同」
  の話を、まとめて考えると以下の、大切な事柄がほぼ浮き彫りにされてくるのである。 (ここまで2005/11/13) 


  俯瞰的叙述において、ある「仮説的連結項」を発見するということは、楕円がだんだん円に変わっていくこ
  とを見て、円と楕円の内的関係を発見するのに、似たことである(はじめの引用文と同じ言い換え)から、
  歴史的文化的事象は、形式的概念の関係に似たものになるので、それ以上のことはしてはいけないのである。
  すなわち、まず関数的もしくは命題分析的な追及と区別しなければならないということになる。そして、部
  分的特徴に各々注目し、その連続的関係(連結項)を、見つけて、別の次元で、「重ねあわされる」関係を
  見ることでもある。

  しかし、そこにおいて(その次元において)「重ね合わされる」ということと、私たちが、その特徴を「同
  じと決めること」は、結局、別のことでなのである。

  だから、 「・・形式的連関に対する、われわれの眼力を鋭いものにするためだけ・・・」という文章は、
  わかりやすく言うと、”「同じ」や「類似」の関連への注意を、鋭くするため”というような、言い換えが
  可能だが、 さらに、全体的に補足すると・・”いろいろな部分の特徴に着目して、そうした内的関連におい
  て、いろんな形式的連関を(隠れた重なり合う関係)発見することができるが、結局、大事なことは、私た
  ちが実際に決める次元で、ピッタリと感ずるものを見い出す(鋭い眼力)ことであると”・・・。




         6


  そこで、『進歩の仮説』ということも、その形式的連関の可能なひとつに過ぎない(代表的ではあるが)。
  今日の常識の「アル楕円を、歴史的にアル円から出来ている」と考察する『進歩の仮説』とは、仮説であっ
  て、本当に、円といえるか(たぶん何らかの古典的世界)も問題になる。さらに、ありがちな見方をこの言
  い方に沿って描写するなら、いろんなある特定の楕円を、俯瞰的視点において並べ、歴史的一連の過程で、
  位置付けていくことになるが、ここからは、ほとんど、円から離心率の高い楕円に移り、歪の増すことが
  ”進歩”として肯定されかねなくなる。 (cf、小林の批判する”アメのように伸びた歴史※” 
   ※「無常について」より:
  
  私たちが、ふつうに 文化的現象‡と呼ぶものを、論ずる時、同一性(4.243など参照)や特徴を同じくす
  ること、類似していること、といった言語やそれに関したことを、適切に扱おうとするとき、そもそも、
  どういうことなのか?を考え、十分この道具に、ある純粋化を行い、やってしまいがちな普通の見方の偏
  向を、排除するために、むしろ、まず、必要となるのが、数学的なものとの関係になるのである。
      ‡・・・・ 会話、物語、伝説、儀礼、儀式、建築、衣食、工芸など様々な技術、算術、天体の知識、暦、絵画、彫刻、競技、踊り、歌、音楽etc
  というのも、そもそも独立したような「技術」(ある独立した”絶対”)というものは、もともと安易な
  ものでもあり、また、そこから何でも言ってしまえるように思ってしまうわけで、(不必要な駄弁の源泉
  ・・・)扱いに、特別、注意しなければならない。

  それを踏まえて、”多様性”(”同じ”に対すること)というのも捉えられなければならない。(その多
  様性というものが、どのように何から見て、という意識が必要にもかかわらず、一般に鈍感に語られすぎで
  あるだろう。)

  『進歩の見方』をして、一連にしていく前に、いろいろな比較が可能で、いろいろな人間の生活、文化の
  様々な実例(ある楕円、円)として、歴史や諸民族、そこで起こっていること,等を見て、並べ替え、一
  方向のありきたりになった見方から、様々な特徴の関連、連続(内的関係)・・多様性が、見て取られるべ
  きであること。

  このことは、何か単に生理学的、物理的工学的発見のようなものから、かって全ての多くの人々が見てい
  たようなものを見ないで、部分的なものからのみ積み上げて、私たちの必要なこと(多様性を生かすとい
  ったことなど)を、作り上げることはもともと不可能なことだ(わたしたちの目によって始めて成立して
  いるソレら--並べ替えられ、組み合わせるもの自体--が、いわば、ボロボロと崩れていってしまうのであ
  る)と、言っていることにもなる。
                                        (ここまで、ほぼ2005/11/15) 

  さらに言っておくなら、『進歩の見方』を、しなければよい、という話でもないことは、改めて引用文を
  確認するまでもないだろう。それは、どんなにいっても多くの考えられるべき内的関係の、傾向的見方の
  ある一群でしかない(重要ではあるが)。そういう多様な関係を、こういった問題自体においてでも、思
  い浮かべられるなら 例えば、1781年に書かれた、
  「・・たとえわれわれが、最高存在者を、それ自体として完全に規定し得るようなものをすべて取り去って
   も、なお最高存在者に関するある種の概念ーすなわち我々にとっては十分規定されている概念が、残さ
   れる、我々は、この存在者を世界と、従ってまた我々とに関して規定するからである、しかし実際にも
   それ以上のことは、我々には必要のないのである。・・・」(”PROLEGOMENA”-58- Immanuel Kant)

  ここ辺りの記述に、キリスト教的な神観や、進歩観を見出す事は、別段どうということはないが、ア・プ
  リオリな総合判断という設定に始まるともいえるこの書が、ここで類比によって、感性界の経験的な述語
  からくる神の概念といえるようなやり方などを排除して、最後の一線で彼の神の概念を、純粋悟性を超出
  しないものとして守ろうとしているという訳なのだが、これは、ウィトゲンシュタインのやり方と、全体
  の線を引く場所こそ違え、最後に類比と価値を決める部分を守るという論脈の関係性において、非常に重
  要な”符合”がある。(一方は、もちろん、”概念”になってしまう・・)
  こういったような”符合”こそ、本当に私たちが見出さなければならない多様性への手掛かりである。見
  い出された様々な符号を、私たちの多かれ少なかれ似通った全生活史のなかでに各自決め、提示すること
  で、上手くいけば、その符号自身も決して個人の勝手な空想でないことも、明らかにしてくれる。
  (そこに留まるのが、正によく言われる”語ることの限界”といっていい・・・)。(ここまで2005/11/16)
  
   「連結項」というものについて、より詳しく言うと、さらに『多神教』ということも関係しているので




         7


  シュペングラーは、自分たちの地域への関心にとどまらず、全世界規模の時空的関心を持つことは、『没
  落』で、そもそも現代の西欧文明の特有の”世界観”だとしている(上の引用◆◆参照)。が、こういっ
  た規模の俯瞰的な記述はそれ以前なかったとしても、何れにせよ今日ではそれなりの立場なら、現実とし
  て、ある必要なものなわけで、小林の場合「歴史とは人間の本性のことといって差支えないわけだ。これ
  を別の言葉で言えば、太初に言葉ありき・・」(”歴史”ヒント2文春文庫p144)というこの文章に代表さ
  れている見地のものに、なっている。(ここまで2005/11/20)

  小林にとって、”歴史観”というものは、多くの文章に、たびたび登場するように、一貫した独特の中心
  的主張であり、そこの”人間の本性”と”太初に言葉”からの考察が、西欧思想といえるものの、ありふ
  れた用語、概念全体に、いったん距離を置いて捉えさせ、そのことが小林に発見といってよいものを、与
  える。俯瞰的、すなわち、それはどこからどう眺めるか、で全く違うものになるのは当然だが、小林のよ
  うにすることは、より全貌を見ることに通ずるだろうし(どんな思想も結局、直接は人間の言語活動の一
  端として伝わるだろうから)、そこで、ありふれた「歴史の合理的発展」というものにも強く反対出来る
  ようになる。

  小林の考えが、何となくウィトゲンシュタインを思わせるものであるのは、随分前から、いろんな人々が
  言っていることから感じられなくもないことで、例えば、江藤淳との1971年の対談「歴史について」でも
  アメリカの言語学の発達の事情の話に関連して名前が挙げられ、小林の言語観と対比的に、そういった
  ”コンピューター的言語学”の話題が出てくるし、また、前出の”小林秀雄「モオツァルト」読書ノート”
  (1974)の中でも、小林への批判の助力のように名前が挙げられている。(各々どういう理解がされたう
  えでのことかは、ともかく・・)

  しかし、ウィトゲンシュタインも、言語を媒介にして、従来の、”進歩観”など(ある一種の世界体制?
  的な全体の傾向といってもよいかもしれないもの?)の考えに変更を求めているわけだから、小林と共通
  なものを見るのは、そしてその他、いくつかに関連して出てくるある似通った幾つかの話題を考慮しても、
  十分 可能なことなのである。

 
  とはいえ、小林の場合先の引用中でも「歴史は、眼をうつろにしてさえいれば、誰にでも見はるかす事が
  出来る・・」と述べているように、わざわざ「うつろ」に見ることを、強調しているかのようであり、さら
  に、景観の全体像を望むというだけでなく「こちらから出向いて登らなければならぬ道もない」といい、
  また「手前の低い山にさえ登れない人には、向こうにある雪を冠った山の姿は見えてこない」というよう
  に、一方で手近なものしか見ない狭い視野を当然のようにしているわけで、こういった話に対しては、
  ”見るということは、そもそもちゃんと見るということではないのか?”といってみたくもなる。

  こういった小林の胡散臭さも、例えば、その当時の日本人の現実的選択として仕方のないことだった・・
  etc・・いろんなことをいう人もきっといるだろうが、そういった話は小林自身が否定している「・・歴史の
  限界などが映るのでない・・」(田中美知太郎との対談・文春文庫”歴史について”p90)ともいえるだろ
  うか?ただもっと判るのは、小林の議論は元々、強気の口調の割には、ソレほど精度あるものに対応して
  はいないということ。「科学の成立条件は、人間の意志活動,或いは人間の有機的構造や環境の偶然と離
  すことが出来ぬ、という、例えばポアンカレのような考えが、生まれてきたのであります。」などと、書
  いたりするにせよ(ヒント3表現について:文春文庫p156)、結局は,他人事、人任せのような書きぶり
  で、自分の考えに完全に結び付けようとはしていないし、そんなわけで、小林のいう「歴史感情」(歴史:
  ヒントp63)は、”感情”という素朴なイメージから十分に抜け出せてもいない。そうとはいえ、ボンヤ
  リ眺めるというのは、細部だけを見ている人の全く気付かなかったものが、見えてくることがあるという
  のも本当のことではある。

  「僕らの望む自由や偶然が、打ち砕かれる処に、その処だけに、僕らは歴史の必然を経験するのである。
   僕らが、抵抗するから歴史の必然は現れる、僕らは抵抗を決して止めない、だから、歴史は必然たるこ
   とを止めないのです。」(歴史と文学p234)宣長に、由来すると言う「歴史の鏡に映ってくるのは、結
   局は自分自身の顔だと合点する、そういう道だといっていい。現にこうして生きている自分に還ってく
   る道です・・」(江藤との対談p75)、こういった小林の話は、実は、ある野蛮と酩酊が入り混じったも
   のであって(アル切捨て御免)、十分に色々な事柄との重なり合いを、説明できるものでなく、むしろ
   、”素朴な感情”ゆえの、大きな落とし穴さえ窺われるものでわあるけれど、言葉というものの重要な
   側面を照射するものでもあるし、小林という人物の実際に決断した、生々しい他には無い魅力といえる
   ものが、発散されてはくる。

   それに関して、以下みたいなように、考えてみることも出来るかもしれない・・・
   ウィトゲンシュタインの場合、”判じ物”そのもの、といったようなことがあり、真意といえるような
   ものは、極めて限られた人にしか見えてこないように出来ている(ちょっとでも、視点がずれると肝心
   のカタチが、全く見えなくなる。しかし、本人が言っているように、全く判っていないどうでもいいも
   のが山ほど書かれることにより、時限装置にはなるということ?)。小林の場合は、それよりは多くの
   人に直接伝わる形で、あるパースペクティブを与えてはいるのであって、それは、今日の日本人の生活
   に、その仕組みに、少なからぬ関係をもっている。(それは、よくある、その類の文章の書き方、言い
   方の特徴で判る?)そして、小林のそれは、確かに現実の、ある苦味と広がりの感覚でもって、今も強
   い”感銘”をも失っていないものだと、思うのではあるのだが・・・?



         8


  ” 判断停止の弁証法

    精神のラセン運動?正・反・合? 彼の弁証法は円運動であり、その図式は正・逆・正である。
    「ベエトオヴェンという沃野に、ゲエテが、浪漫派音楽家たちのどのような楽園を予想したか
     想像に難くない」(正)「もっとも、浪漫主義者を嫌った古典主義者ゲエテという周知の命
     題を、僕はここで応用する気になれぬ。この応用問題は上手く解かれたためしがない」(逆)
    そして数行おいて、「個性と時代の相関を信じ、自己主張、自己告白の特権を信じて動き出し
    た青年たちの群れは、彼の同情を惹くに足らなかった」(正)このとんぼがえりのレトリック
    は、一歩もうごくまいとする意志をつらぬく。ソクラテスもヘーゲルもこれほどうまくやれな
    かったろう。ありふれた命題をかかげ、「それを言うつもりはない」と口先で否定しながら、
    ちがう言い方でおなじことを言う。はじめの命題は論理であり、終わりの命題は心情である
    ところだけがちがっている。(”小林秀雄「モオツァルト」読書ノート”晶文社の本のp114)”
                      ・・・傍線は、本稿の筆者が留意のため付け加えたもの・・

  あまりモーツアルトの作曲作品自体の話をせずに、こういった類の議論ばかり続くのに閉口する人も
  いるだろうけれど、具体的な作品については、別の続く章で、ピアノ協奏曲の何曲かを中心に話をす
  るつもり。それで、この”◆ T はじめに  ◆”という章で、”「謎」「謎」と言いたがる作者の
  雲を掴むようなことになりがちな本の内容の問題点の処理の仕方を、先に大体見て取れるようにして
  おくため、しばらくこのまま、このやり方を続けさせてもらう。(それなりに、とても重要なので)
                         (ここまで2005/11/21)

  ところで、上に新たにあげた引用文だが、この小林秀雄の論法のとても個性的な感じについて、もち
  ろん尤もなところのある指摘であって、小林の記述の上のようなところの話の進め方が、”弁証法”
  といって良いものかはさておいても、この種の説得するような強い振幅をもって語られているのは、
  確かである。(ただ、上の引用で特に気になるのは、”はじめの命題は論理であり、終わりの命題は
  心情”であると書かれていることで、小林自身がそういう書き方であるかはともかくとしても、そう
  いう区別と”弁証法”というものの関係が採り得るものであるのか疑問にも思わないような書き方な
  のだが・・・)

  小林の論述が、”螺旋的”であるとは、かって、それなりに流通していた小林秀雄の評論文のありふ
  れた解説本にも、堂々と書かれてはあった(学燈社・・等)。  (だが、小林の文章は、先に書いたよう
  に振幅をもって話が構成されているにせよ、ねじの回転が対象を抉って、自らどんどん進んでいく感
  じと程遠くて、むしろ、もともと断片的な寄せ集めの議論を、もっともらしくまとめたという感じの
  ものということに注目されるべきではある。
  ある確信を求める程度のこととも考えられる”とんぼがえりのレトリック”ということなどに注目す
  るよりも、大事なのは、文章の、要素が先に自ら進まない、終わりから考えるような”ある閉鎖的な
  感じ”であって、それはこの『モオツァルト』においても、顕著なことになる。終わりはモーツアル
  トの死のエピソードで閉じられるが、この活力の乏しいような「死」へ向かう全文の閉塞的な感じが
  、もっと文章の仕組みと関わったものして注意されるべきではある。実際それは小林の論法の「トリ
  ック」といえるものの一つの「顔」であるから。 (ここあたりまで2005/11/27)

  むしろ、小林の文章は、他にない独自の魅力を沢山もっているということを、素直に認めた方が、そ
  の問題点に気付きやすい。”単に文章の書き方が上手い”という程度のことではないと捉えるべき。

    ”「ゴシップのつみかさねから突然飛躍して「誰でも自分の目を通してしか人生を見やしない」とか
     ・・・などの大発見にいたるそのはなれわざには、眼もくらむおもいがする。・・”(”読書ノート”晶文社p127)

  文章の作り方は、結構、強引でもあるけれど、明らかに、他の人の日本語の文章ではなかなか見かけ
  られない発想の豊富さに、否定的に見る人でも”発見”ということばを、使ってしまうのでなかろ
  うか?「誰でも自分の目を通してしか人生を見やしない」という9章の文章は、「自分を一ぺんも疑っ
  たり侮蔑したりした事のない人に、どうして人生を疑ったり侮蔑したりすることが出来ただろうか」
  というかなりオーバーな文章に続き、モーツアルトは、自分が持っていないから(ここで小林は冷た
  い利己心でなく利己心と書く)、父親の冷たい利己心が見えなかったという話をする。この発想は、
  「音楽の霊は、己れ以外のものは、何者も表現しない」(p32)とか「ヴァイオリンが結局ヴァイオリ
  ンしか語らぬように、歌はとどのつまり人間しか語らぬ」(p48)「彼は到る処で彼自身を現すから」
  (p53)というふうに、一貫して出てくる考え方で、こういった”自己相似形”とでもいうようなも
  のは、やはり 音楽というものを誤解しないためには、軽く扱ってはいけない注意すべきことでも
  ある。

  先の”金枝篇について”では、「霊魂に肉体と同じ多様性が与えられている、ということには、近
  代の水増しの理論の場合と比べそれにまさる真理のあることか」(p412)と出てくるが、それはま
  ず「人間の身体は、人間の魂の最良の映像である。」(哲学探求・全集8・p356)と関係をみてみ
  る必要がある。さらに
  これは「日常の言語は人間の器官の一部であって、これに劣らず複雑な構造をもつ。言語の論理を
  日常の言語から直接引き出すことは人の能力では不可能。言語は思考を仮装させる。すなわち、人
  は、衣装の外形からそれをまとう思考の形を推測することはできない。その衣装の外形は肉体の形
  を知らしめる目的でデザインされたのでないからだ。」(TLP4,002)という文章のほぼ裏返しに当
  る事に注意しよう。(ついでに言えば誰かの文章を思い出さないか?)言語の外形的な”表面的な
  秩序の感じ、外見”から、直接、その言語の論理を成り立たせている構造を判断することは非常に
  錯覚を生む。(逆に、ラッセルの「記述理論」をLWが”功績”と呼ぶのも、この”外形的な”素
  朴さというものが広汎にあることを教える、言語分析の代表例であるから・・)同じく、その外形的
  な感じに囚われると簡単に”仮装された思考”になってしまう。”思考の形”結局”思考の魂”と
  は、その肉体の形に現われるし、その”器官”も各々の肉体全体も、複雑な多様性を持つものとし
  て、”思考の形”と類似的存在なのだということ。”近代の水増し理論”は、私たちの生活の中に
  現われるこういった相似関係を、相変わらず全く部分的(本当は単に浅薄にされたもっともらしい
  科学風味の概念化)に考えようとして、非常に重要なちゃんと見えているものを軽視するから、小
  林の先程の指摘(個々の個性-思考の形・心の形?-と認識、言語・道具と語りうること、個性の遍
  在性?)なども、特有の装飾的な口調も混じるけれど、まだ十分に新鮮なもの。(ここあたりまで2005/11/28)

  また、例えば「歩き方」というものを指摘している辺り(p54)でも、「訓練と模倣を教養の根幹と
  する音楽家」であったと言える。」と書き、「独創家たらんとする空虚で陥穽に充ちた企図などに
  悩まされた事はなかった」と断ずる。これは、「思想の世界では、目的や企図は、科学の世界に於
  ける仮定のように有益なものでも有効なものでもない」とする主張とつながっている。そして、
  「或る事を成就したいという野心や虚栄、いや真摯な希望でさえ・・人を盲目にするものである。
  大切なのは、目的地でない、現に歩いているその歩き方である。現代のジャーナリストは、殆んど
  毎月のように、目的地を新たにするが、歩き方は決して変えない。・・」(p54)・・こういう主張は、
  偏っているのは、明らかだが、小林自身、十分 ”独創家”といえるわけで、先の9章引用部分の
  発想とも一貫したものを、狙っていったと解釈した方がよろしいだろう。即ち「彼の精神の自由自
  在な運動は、いかなる場合でも音と言う自然の材質の紆余曲折した隠避な必然性を辿る事によって
  保証されていた。」(p55)と書くように、目的や企図というもの、さらに独創性や自由思想に対し
  て、自意識の最重要部=(音)(p55)は、別の必然性(模倣、歩き方に関したこと)を持っている
  ことを強調しているゆえであることも、非常に重要。
   (実際、小林ほど、西欧、東洋の代表的な文化思想、科学思想のいろいろなものに受身でなく対応できて、しかも、そちらを何でも、
      完全に小林風の表現に次々と変えてしまうような”ある豊富さ”を持っている書き手は、そういるだろうか?ということ。)

  こういったふうに小林の主張は、平凡な内容を単に飾り立て、流暢な文章の上手さだけで成立させ
  たのもの・・などと、やはりいわれるべきなく、実はそれが見て取りにくいから(ちょっと見、平凡
  で頑なな主張)なのだが、非常に独自の視点から、豊富な表現で一貫した考え方を行っており、そ
  の魅力も、多分に、隠れたそのことによっている。(それが一種マジック的なものにもなる)そし
  て、以下 代表的な独特の主張についても同じように把握できるだろう。(ここあたりまで2005/11/29)

  「モーツァルトにとって制作とは、その場その場の取引であった。・・即興は彼の命であったという
   事は、偶然のもの・・予め用意した論理ではどうにも扱えぬ外部からの不意打ち、そういうものに
   面接する毎に、己を根底から新たにする決意が目覚めたという事なのであった。」(11-p52)
  というのも、目的、企図というものを有効なものでないとする訳だから、そこに、そのままつなが
  る発想だろう。
  そして、それゆえ”予め用意した論理”を重視せず、”己を根底から新たにする決意”が大事にな
  るので、”読書ノートp123”でも言及される有名な箇所(天才は)「寧ろ努力を発明する」という
  話(6-p21)も、普通の言い方では「発明には、より努力が必要」ぐらいのことにもなるだろうが、
  それが発明、論理というべきものから、捉えるのでなく、”己を根底から新たにする決意”(結局
  、ある努力)の方から捉えられていることになる。

  そのようにして、この『モオツァルト』中でも、最も印象的な(と私は思うが)、
  音楽というものの核心に、触れられているようにも思われる、最後近くの箇所

   「ここで語っているのは・・音楽という霊ではあるまいか。最初のどの様な主題の動きも、
    既に最後のカデンツの静止のうちに保証されている。・・彼は、この音楽に固有な時間
    のうちに、強く迅速に夢み、僕らの日常の時間が、これと逆行する様を眺める。
    ・・無心の力によって支えられた大きな不安の様にも見える。
    彼は、時間というものの謎の中心で身体の平均を保つ。・・」(11-p57) 、  ・・・ に到る。

  ここまでで、目的や企図といった、普通皆が考える要素を排除してしまったり、結局、”常に己を
  根底から新たにする決意”みたいなもの?を全ての中心のようにとらえようとすることや、この文
  章にやって来るまでの、振幅の大きい様々な関係する問題の小林風の処理を経ているので、この終
  盤の『音楽のカデンツの停止に向かう進行と、そこに進む不安の動き・・といったもの』と、『時間
  というものの中心で常に身体の平衡を保とうとする人間の営みというもの』(その営みが、常に”
  己を根底から新たにする決意”とも近いものであるだろうし、また”歩き方”とも密接に関係する
  だろう)との、音と人の自己相似形的な、ある一体化を果たした文章表現が、独特の強い感じ、即
  ち、音楽の本質というべきものを、何かここで明らかにしているような印象を与える。(それが、
  ”謎”とされる一方で!)

  しかも、これが、時間の逆転(カデンツの静止を前提にした)の関係であり、最初から死からの距
  離というべきものでもある、というわけなのだから(そして、そこにモーツアルトの死のエピソー
  ドをつなげて全文を終える。)、こういった骨組みのつながりだけから、ちょっと見ただけでも、
  この『モオツァルト』の文章としての面白さは、十分成立していることが、判ると思う。 
                        (ここまで2005/12/1。ただ引用-11-p57-のところ辺りまでは、2005/11/30)

     なお、なるべく文章を、長々としたくないので、引用部分はなるべく、短くしたり、省略してあります。
     ”加工する”つもりは、全然ないので、原文のその部分あたりを、なるべく同時にチェックして見て下さい。 
  


         9


  その他、あえて、もっと簡単に略図を作ってしまうと、そういう”目的や企図といったもの”でない
  ようなところから、とらえるという小林のやり方は、3章の”子供らしさ”の問題(子供は確かにあ
  んまり計画しないかも)7章の”肖像”の問題。(これも、目的や企図というものを超えた典型的な
  もの)また、同じく 7章の”ラプトゥス”(一応、芸術創作における狂気といっていいものだろう
  が、もちろん、これも企図的ではないだろう)といったところにも、一貫性が十分見て取れる。注意
  しておきたいのは、こういった話題は、普通の西洋音楽の教育法において決して、中心的には扱われ
  ない事柄になるという点である。和音の進行を習ったり、音程を覚えたり、運指、音階を揃えて弾く
  練習をしたり、リズムの取り方を習ったり、旋律の組み合わせ方としての対位法や、曲の大きな組織
  の仕方として、2,3部形式、ソナタなど、また、舞曲などが教え込まれるのであって、むしろ、や
  っていることは、技術的建築的な企図目的が、中心であって、”ベートーヴェンの精神性”などが説
  かれる時も、普通、そういうトレーニングの苦労に関係させたもので、情緒や社会的な問題(当然、
  西欧的土壌を前提にして説かれる!)などもその後、というのが基本的パターンなのである。(こう
  いう事情は当り前すぎて見逃されやすいが)

  こういう説き方を、仮に”合理的な音楽観”と呼ぶとすれば、小林の考察の面白さは、ある”非合理
  的音楽観”とも呼べるものであるという事。西欧的な”目的や企図といったもの”を、思い切って排
  して見ることで厄介な非常に非合理に見える音楽と観念の関係、例えば10章の「長い主題は、工夫
  された観念の産物であるのが普通である。」(p41)という寧ろ案外普通、言葉にされない指摘も出て
  くるし、さらにゲーテやスタンダールといった文学的思想と音楽家を殆んど同列に(8章p33の、音
  楽の技術的修練の無いモーツァルトとしてのスタンダール、といった扱い。音楽上の技術を中心に見
  るなら、それがなければ比較にもならないと考えるかもしれない・・)論ずることが出来るようにもな
  る。

  以上のように、便宜上、非常に簡略化して説明してしまうと、小林のやっていることが、とても簡単
  なことにも見えてくるかもしれない。此処で上に挙げたことだけでも、小林の「モオツァルト」大き
  な骨格の必然の半面以上を想像させることが出来ると考えるわけだが、普通の西洋音楽に対する叙述
  の仕方に対して、小林のような観点で取り上げることは、全てにおいて根本的に違ってることなので
  普通の表現法、描写、用語、構成の全てにわたって、仕立て直して作り上げないと、単なる”変な話”
  になってしまい、決して説得力のある結論(もしくはそれに近いもの)にまで引っ張っていけないも
  の。(逆に、触るものを全て金に変える王様のような小林の”豊富さ”も、そういった独自の非常に
  簡単だが”根源的な”視点によるものともいえるだろうか。物語の王様は、その能力によって、何も
  食べられなくなってしまうわけだけれど・・・・)

  こういった非常に独自な小林の見方は、どうして可能だったのだろうか?と問うことは、この場合無
  駄ではないと思うし、また、その答えともなりうる説明、仮説もそれなりに参考にはなる。というの
  は、日本の伝統的芸能の修練の発想は、大体、西欧の”技術的建築的な企図目的”をもったものでな
  く、むしろ、それを否定することが、普通のパターンであって、小林の言っている代表的なことも、
  その辺りに重なることは殆んど明白である。

  小林のこういった発想の面白さが、「モオツァルト」という作品で、いたるところに出ていることは
  は、十分認められていいことだとは思う。しかしながら、同時に、この「モオツァルト」のページを
  めくるたびに、重大な不満を持って言いたくなるのは、”確かに、それは重要な指摘であるに違いな
  い。しかし、それはむしろ、ほとんど本来音楽全般の捉え方として、言いうることであって、モーツ
  アルトのみに何故限って言われなければならないことなのか”ということ。

  この小林の態度は、フレーザーが、常に未開人の生活を、もっぱら、進歩以前のもの、錯誤といった
  限られたこととして捉え、そういった儀式などにまつわることが、今日の生活にも、我々の眼前に歴
  としてあることを全く無視しようとしたことに対して、一種の倒立像的な興味深い関係をもつ態度、
  でもある。                          (ここあたりまで2005/12/2)

    ●フレーザーと小林秀雄;
     1972年の大岡昇平との対談「文学の40年」(文春文庫p207)で、フレーザーの『金枝篇』をめぐる、柳田国男がらみ
     の話題が出てくるし、先の引用(11-p57)辺り の描写も、フレーザーの『金枝篇』17章始め辺りの記述を、連想させ
     なくもない。 その他フレーザーと小林秀雄は、やっていることはぜんぜん違うことのように見えて、そのやり方の
     特徴は、面白い対比を描く。以下、ちょっとその


        10

  フレーザーと小林秀雄の話は、さておくとしても、”モーツァルトのみに何故限って”ということが
  問題になるとはどういうことかというと・・・・先程まで意図的に述べておいたように、小林の独特の音
  楽観は、別に、モーツァルトに限っていなくても、その骨格は面白さはあるのである。だが、例えば
  「誰でも自分の目を通してしか人生を見やしない」(p39)とある9章でも、そのように独特な考え方
  の一般的主張と十分受け取れる文章を、ちゃんと挟んではいる。しかし、小林の書き方の実際は、そ
  れだけでなく、モーツアルトの手紙に始まり、その悲しみ、遊んでいる子供のような孤独が描写され、
  19世紀文学風な、”解剖”された孤独、や”自己との対話という劇(シューマン)”という、そう
  でないものに、対しいわば最も自分の目を通して自分を見た人としてのモーツァルト(遊んでいる子
  供のような孤独)、そこに強く密着させて語られるのである。

  これは、先の終章の11-p57からの引用であった部分でも同じように全てをモーツァルトに密着させる
  ような書き方になり、ある部分で「音楽の霊」と一般的に言いながら、それは「彼」の話になり、結局
  その音楽の霊に対する「彼の音楽は驚くほどその直かな証明」であるという。これは10章(p49)
  の「僕は、モーツァルトを、音楽家中最大のリアリストと呼びたいのである。」という主張とも同じ
  ようなことで、モーツァルトの話の中で、小林流の独自の音楽観を挟み、その最大の所有者は”モオ
  ツァルト”だというパターンともいえる書き方が、ほぼ一貫してされている。
  「肖像」をめぐる7章の話でも、ランゲとロダンの2つのモーツァルトの肖像が取り上げられるが、
  ベートーヴェン、シューマンといったこの作品にも名前の出てくる人の他の肖像等は、全く比較にな
  らない。モオツァルトのもののみ「表現する意志そのもの、苦痛そのものと呼ぶより仕方のない様な、
  一つの純粋な観念に行きついている様に思われる。」(p29)といった最高度の形容がいきなり与えら
  れる。
   (こういったことからも、そんなに”肖像”を重んずる小林がモーツアルトに、キャラクターを認めず、むしろ無思想無性格
     という(p33)風に、言いたがったのも、それこそカモフラージュであることが窺えまいか?)
 
  こうしたモーツァルトを主体にする書き方でもって、小林の主張する、いってみれば音楽の企図的で
  ない、リアルな非合理要素を最大にもちあわせているのがモーツァルト、ということになるだろうか。
  しかし、こういった「音楽家中最大のリアリスト」という話が正しいものかどうかはともかく、こう
  した論述スタイルは、実体と属性という錯覚の起き易い古い論法の特徴に、近いものがあるのは注意
  すべきことになる。(構成要素のみを見て、多様な論理空間を見ようとしない・・・)



         11


  こうした、”モオツァルト”びいきの代表的な議論が、下に引用する有名な箇所になる。

  「美と呼ぼうが思想と呼ぼうが、要するに優れた芸術作品が表現する一種言い難い或るものは、
   その作品固有の様式と離すことが出来ない。これもまた凡そ芸術を語るものの常識であり、あ
   らゆる芸術に通ずる原理だとさえ言えるのだが、この原理が、現代に於いて、どのような危険
   に曝されているかに注意する人も意外に少ない。・・・・明確な形もなく意味もない音の組み合わ
   せの上に建てられた音楽という建築は、この原理を明示するに最適な、殆んど模範的な芸術と
   言えるのだが、この芸術も、今日では、和声組織という骨組みの解体により、群がる思想や感
   情や心理の干渉を受けて、無数の風穴を開けられ、僅かに、感覚を麻痺させるような効果の上
   に揺らいでいる有様である。人々は音楽についてあらゆる事を喋る。音を正当に語るものは音
   しかないという真理はもはや単純すぎて(実は深すぎるのだが)人々を立ち止まらせる力がな
   い。音楽でさえ沈黙を表現するのは失敗している今日、他の芸術について何を言おうか。」  
                                     (5章・p18,9)

  もちろん、この部分も、小林風の独特な言い方で満ちているので、そう簡単に捉えることは難しい
  が、この2ページ弱の短い5章は、「美と沈黙」という書き出しで始まり、ここで話されていること
  も、普通いうところの、”芸術と様式の問題”さらにいって芸術における”形式と内容の”問題へ
  の小林自身の考え方を、特別に短くまとめた重要な章とすることは、出来るだろう。(ただし、
  この5章のみ、”モオツァルト”という固有名詞は全く使われないが、前の4章を受けている訳だ
  し、意図があからさまになり過ぎるため・・と受け取るのは、十分まっとうな読み方だろう・・)

  この箇所の基本的な話を、一応、整理だけさせてもらうと、

    1)優れた芸術作品が表現する言い難いもの(感動に充ちた沈黙 p18L7)と
      その作品固有の様式は、離せない。これは、全ての芸術の原理である。

    2)音楽芸術は、建築であって、この様式に関する原理を明示する模範的な芸術である。

    3)しかし、今日の音楽芸術は、和声組織の骨組みが解体している。そこに思想、感情、
      心理、の干渉を受け、感覚麻痺の効果に揺らいだ建築になってしまった。

    4)それで今日の音楽芸術は、音楽の様式を失い、言い難いもの、沈黙の
      表現に失敗して、優れた芸術作品ではなくなってしまっている。

    5)音楽芸術と同様、他の芸術でも同じことが起こっている。

   そんなに、異論のでない整理だとおもうが、考えの参考にするためだけだから、もっと原文
   そのままの書き方にしても、別に支障はない。   (ここまで2005/12/5)

  さらに、この小林の考え方を、一般的なこの種の様々な議論と、区別しうるような特徴に、注目して
  みると、2)5)に関係するように、音楽芸術は他の分野をリードするようなところがあるという主
  張でも、一つの特徴になるだろうが、特にここで反論する必要もなさそうなので、省かせてもらうと
  しても、非常にユニークなのは、”言い難い”ということで”様式”という問題を論じていることで
  あって、これは他に類例の少ないような議論の仕方と思われる。
   ◆ この小林の”様式”というものを、”形式”とほぼ同義として用いていくが、以下、これは大した問題にならないことが、わかってもらえるはずだと思う。

  
  「形式と内容の問題」というのは、一般に例えば「この詩は、韻律の形式を守り、内容もふさわしく
  格調があるので、形式と内容の一致した優れた詩である・・」というような、話で用いられる用語と、  
  言って良いだろう。一方、小林の場合、様式を守り、かつ、”感動に充ちた沈黙”という状態を伴え
  ば優れた芸術である、という主張だとすることは出来るだろう。そして、もうひとつの重要な主張は
  、”思想、感情、心理、の干渉”の関係によって、この様式は揺らぎ、芸術は劣化した、ということ
  になるだろう。

  小林の多くの著作に共通する主張から考えれば、一つ目の”沈黙”ということは、”思想(意匠)を語
  らない”ということに関係が深いし、それも踏まえれば、2つ目の主張は対応していて、”形式を壊す
  ものは、思想の干渉である”ということにまで見てとり易く簡略化するのも、十分可能となる。
  そう考えれば、普通の「形式と内容の問題」を語る評言と小林の主張のユニークな対比が、よく判るだ
  ろう。
  すなわち、まとめて言ってみるなら、「音楽の様式を壊していったのが、思想であり、モオツァルトこ
  そその弊害のない、様式が整い、感動に充ちた沈黙をもった唯一の音楽」というような話。
  (前の4章と続けて小林の主張を考えると)しかし、浪漫派以降の「音楽の形式を壊していった、思想」
  などということは、成り立ちうることなのか?(後で振り返って見るため、少し、ここではちょっとラフに捉えてもらいたい・・・)

   ● 小林はモオツァルトの音楽はこの「形式と内容の一致」を超えているとする。(2章p13参照)
     さらに、「モオツァルトは形式の最大の破壊者」とは言う(10・p46)もののそれは、ハイドン的なものに対してであり
     実際、「極めて高級な意味での形式の完璧」と続けている。
     また 上のような形式と内容の言い方は、西欧でも、ロシアでもアラビアでも、インド、中国、日本でも、その他、
     非常に広く、古くからある、人間のある根源的な、”自然な言い方”であることに注意しよう



         12



  こういった浪漫派以降の音楽への批判の代表的なものが、ハンスリックEduard Hanslickの『音楽美につ
  いて』(初版1854)であって、大正時代に代表的な翻訳も出ているし、こういった類に、まず小林も目を
  通している可能性は高い。--『ハンスリックの音楽美論』(音楽之友社刊)
  ハンスリックは、日本語訳した田村寛貞氏なども含め、その主張が未だに十分理解されているとは、思い
  難い人物だが、広く読まれた著書『音楽美について』は、そこに扱われた問題の統合性や見解の高度さに
  おいて、決して単に「ワグナー派に反対して、音楽に感情を表すことは、不可能という、狷介な説を述べ
  た人物」のものではなく、この書は、今も読む価値は十分ある。(ここまで2005/12/7)
  ハンスリックのある種の浪漫派以降の音楽への批判とは、小林の主張と違って、西欧の19世紀当時の創作
  活動の現実と結びついた批評論であり、むしろ、かなりハッキリしたことである。

  すなわち、”「感情の描写」は音楽の内容ではない”(上記訳書の2章のタイトル・ p81)ということ
  によって、”一定の感情を描写する事は、不可能”(p89)にもかかわらず、そうであるかのようにして、
  必然性の乏しい緩んだ音楽を書く傾向(EHから見て)のワグナーやリスト、ブルックナーらの作品と彼ら
  を賞賛するために主観的な感情を書き並べるだけみたいな論者を批判し、運動の概念(p88) 音調の象徴
  (p89)に注目することで、純粋な「音楽美」としての「音楽の内容」でもあるところの「音響的に運動す
  る形式」(p120)を強調したのである。
                  すなわち、「音楽の形式を壊していった、感情の描写」といった話。

   (以下の記述において、話がこれ以上それないよう、ハンスリックの話題は出来るだけ補助的に
    したいので、引用などもなるべく省略する。またハンスリックについては後の章でまた述べる)

  ハンスリック(1825年生まれ)は、ブラームス派とワグナー派の総合を、自ら宣言したシェーンベルクの
  「ペレアスとメリザンド」が、書かれた翌年1904年ウィーンで亡くなった人だが、20世紀音楽への大きな
  創造に十分関わったとはいえるし、その好みは、全く、相反しそうなベルリオーズも十分高く買っている
  くらい(p133)で、小林の偏狭さ(残されている文章からすると、モオツァルトとワグナーのある一面、ぐ
  らいしか、真剣に評価する気がなかったんじゃないかな?)とは、随分ちがう。

  ハンスリックにとって「形式と内容」の問題は、非常に重要なことで、最後の7章のタイトルが、結論的に
  そのことに当てられているし、全章で「感情の美学」(1章タイトル)に対して十分包括的な議論を、一
  貫して行っている。音楽の様々な実例の解説と当時の思想教養全般を、踏まえ、ヘルムホルツの聴覚生理
  学、音響学の新知識を受け入れながらもそれに流されず、ヘーゲルの『個性を脱却した内性』の説への批
  判にも及ぶ。
    ※ 実際、この書の改訂版を基本主張を変えず重ねながらも、音楽における「形式と内容」の問題の”困難を、自ら
      認め、後年は音楽史研究の方に重点をおいたそうである。(上記日本語訳書より)ワグネリアンに対し当時かな
      りの騒ぎにまでなったぐらいだったが、実際、大規模な純粋器楽音楽の技術が、確立したことを背景に、それに
      基づく朦朧として大掛かりなワグナー音楽が、その当時は”流行”という状況にまでなる時代。教養人のまじめ
      な議論の対象として、音楽における「形式と内容」の問題が、音楽史のうえでは、始めて具体的な問題として、
      本格的に必要になった時代といえるだろう。

  「一般の見解に従うと、楽曲が含むと言われる感情をその曲の内容・思想または精神的実質とし、これに
  反して芸術的に創作された一定の楽音の連続を例の超感覚的内容の単なる形式・画像あるいは感覚的衣装
  と見なしている。」(p183)      (ここまで2005/12/8)
  と書いているように、一般的に、音楽の場合の「内容」とは、直接的には感情であるとされ、それはまた
  思想、精神的実質と考え、又一定の楽音連続の純感覚的要素(p183L11)が、単なる「形式」というふうに
  受け取るのは、実際、素朴な経験に訴える話だと思われる。しかし、ハンスリックは、”「内容」と「形式」
  という概念は互いに制約し合い補い合う相関的なものである。”といい、”内容に関して論ずることの出
  来るのは、元々この内容をある何らかの形式と対立させる場合だけに限られる”のだから、”不可分な神
  秘的統一体”であるところの”音楽では形式と対立させるようなどんな内容も存在しない”といってしま
  う。そして、さらに逆にいうと”音楽は内容の他に何の形式もない”ということになる。(p224)

  すなわち、楽音自体が、「内容」であり「形式」である。・・ということ。(p225L1)

  ピアノのために作った旋律を管弦楽曲に編曲しても、「形式」が変わらないのでなく、「形式」が新しい
  「形式」を得るというべきで、主題が移調しても「内容が違って形式が同じ」とはいえないとする。(p225)

  このように音楽の場合、もともと同じであることを強調しつつも、散見されるものをまとめると、
  以下の区別を立てている。


 「内容」とは、自身の中に容れるものをいうだから音楽の場合「楽音そのもの」でなければならない。(p218)
  「内容」とは、「形式」も「内容」も、全楽曲の場合に用いられてはならないので、「楽曲の1つまたは数
  個の主題こそ、その曲の内容である。」 とする。さらにそれは、「音響的に運動する形式」でもある
  のである。
  一方、音楽の「内容」というものを、賞賛の意味で使うことを、避けるべき、とする。(p229)
  そして「内容」と「対象」(扱っている題目)とも区別しなければならない、とする。(p218)

  また、「形式」とは、僅かの年月に使い果たされてしまう、「種々の転調・終止・音程の進行・和声の連
  続 等・・」といったことである。(p134)
  賢い作曲家は、絶えず新しい純音楽的形式の発明に向けて邁進するもの、と考える。(p134) 
  「音楽における様式」というものを、ハンスリックは、さらに、特別に”創作的思想の表現に際して
  習慣として現われる完成した技巧”という意味にして区別する。(p159)

  また、「音楽が、対象を脱却した形式美」であることを、認め、「感情」を表すものでないとするが、
  その創作品が、作者の個性・人格を保持したものであることを強調するので、ヘーゲルの「個性脱却」
  には反対する。(p230)


     
  

  ハンスリックの議論は、非常に混乱していると言われることも多いが、音楽の場合、他の芸術と異なっ
  てもともと、直接的にハッキリした物質的対象に結びついていないので、「内容」と「形式」問題が、
  ややこしくなってしまうのも仕方ないことだし、さらに、ハンスリックの場合、「内容」と「形式」の
  両方とも、楽音でしかないことを強調したい立場なので、正当な理由のないことでない。

  むしろ、この困難な問題を、空疎な話にならないように、この本の中でハンスリックが常に注意して
  書いているのは、軽んじてはいけないし、以上のように、散見されるものをまとめれば、一貫したも
  のは十分見えてくる。

  さらに、「感情」とは、「我々の精神状態の促進または阻止つまり満足不満足を意識することである」
  「感覚」とは「ある一定の感覚器官の性質、つまりある音とか色とかを認知することである」と、
  いうふうにと定義したりする。(p67) そして、「感情」とは「内容とも形式ともいえない、むしろ
  それは、実際上の効果なのである」と述べる。(p184)

  ハンスリックが、20世紀半ば以降解りづらい存在になったのは、むしろこの人の良識的で現実的である
  故だと思えるところがある。この書でも、ベッティーナという女流文筆者の音楽崇拝・・音楽家としての
  キリスト、ゲーテ・・というような大袈裟な話(p198)や、エールステットのモーツアルトの交響曲の美を
  計算するには数人の数学者の仕事を超えるというような、数学や計算に対するよくある非現実的な言い
  方、この種のモーツァルト崇拝(p146)、建築的であればすべて良しとする考え(p142)音楽における健康
  効果(p166)言語と音楽の安易な類比(p146)などに警告するが、これは、今日読んでも、その通俗的な音
  楽論への適切な批判として、そのまま通用するものだろう。また当時としては、バッハの平均率曲集な
  どを、「音響的に運動する形式」という観点から、とらえる傾向を、持っていたことも、むしろ、この
  人の徒に”未来”志向でなく、むしろ今日につながる実質的な態度を顕すものである。

  だから?ハンスリックは、ワグナー派に反対して「音楽に感情内容を表すことは不可能」と言っても、
  ほんとうに、楽音が全てと単純に主張し、切り捨てて平気な人物だったわけでなく、音楽の精神(p125)
  との関連性の重要さを、もちろん、十分解っていた。 だから、単に「恋愛、憤怒、恐怖」といった観
  念の具現化(p87)、「降る雪、鳴く鶏、稲妻の心に引き起こす感情」(p105)などを描写することが出来な
  いと言いきってしまうだけでなく、それとは、別の何か言語、精神に対応するものを、考えない訳には
  いかないのである。そんなものとして「感情の強弱」の様々を、言葉で書き(p86など)効果として表現
  できるとする。

  しかし、本当に、そのような”言葉”の観念の具現化が出来ないとしたら、そういうことも言えないの
  でないのか?ということ。 むしろ、本当に、楽音が楽音のみしか表さないとすれば、むしろ、そうい
  う観念を勝手に受け取ったり、そういう表したつもりになったりするのも勝手というのが、本当でない
  のか?

  そのことにおいて、

  「音楽が聞く人の気紛れな解釈に堪えるのは、裏返してみれば音楽の異常な純粋さを証すものだと
   直ぐ気が附く筈です。」(表現について1950年・ヒント3p161)

  と書いた小林は、ハンスリックよりも、音楽と言語の微妙で、ある企図的でない不可解なような関係
  を、理解していた。さらに

  「耳を澄ますとは、音楽の暗示する空想の雲をくぐって、音楽の明示する音を、絶対的な正確さで捕ら
   えるということだ。
   私たちのうちに、一瞬の無心が生じ、そのなかを秩序整然たる音の運動が充たします。空想の余地は
   ない。音は耳になり耳は精神になる。そういう純粋な音楽の表現を捕らえてしまえば、音楽に表題が
   なくても少しもかまわない。又、あっても差支えない。・・
   空想的な、不安な、偶然な日常の自我が捨てられ、音楽の必然性に応ずるもう一つの自我を信じるよ
   うに、私たちは誘われるのです。」(同p162)

  ここにはハンスリックの実際的で技術的な、音楽の創作の目前の必要性からは、遠く離れて仕舞いがち
  な根源的必然性が浮かんでいるが、これはハンスリックの簡単に捨ててしまったヘーゲルの『個性を脱
  却した内性』の説に、関係するものでもある 

    ・もちろん、西欧の職業的音楽家の”音楽家的な素朴な意識”からすると、ハンスリックは、とんでもない一種の観念論者になってしまうだろうけど。
     (付記2005/12/17)

         13 



  ハンスリックは、自伝で、音楽における「内容」と「形式」の関係問題などは、最も困難な問題であって
  、音楽史の研究に携わって以降、”頭を悩ますことは止めてしまった”と書いているらしいが、しかし
  ながら、「内容」と「形式」という言い方は、少なくとも文学的創作物などに関して、かなり、普遍的な
  発想といえるものである。そして、そこに、何らかの必然性を探るということも、十分、試みられてい
  いことである。ただ、特に 同じような、その種の言い方でも、空回りしているような場合と、それな
  りにピッタリきているような場合があるのにも、注目しなければならない。

  ハンスリックは、言語と音楽の安易な類比(p146)を、批判したが、その前に、ハンスリックが、どの
  ような言語理論を念頭においていたかが問題となるだろう。その場合、先にすでに「内的関係」や「形
  式的」関連という言葉を、用いて「進歩の仮説」や「俯瞰的叙述の概念」について、もう一通り考えて
  あることを、思い起こそう。(ここまで2005/12/9)

  「構造の特徴という代わりに”内的特徴”ともいう。構造の関係という代わりに”内的関係”ともい
   う。私が、こんな表現を採用するのは、実に多くの哲学者たちが、内的関係と本来の(外的)関係
   とを、取り違えた由来をしめそうとしたからである。・・」(TLP4,122)

  この『論考』での文章は、直接は”対象や事態”についてのものだが、それはまた”命題”について
  の関係でもある(4,023)。内的関係というのは、前に書いた表のように”形式的関係”であり、一方
  (外的)関係とは、その形式に収めるもの、すなわち、名辞の関数における変数を常数に換え、1対1
  対応させることによって、ある実在を語ることになる。

  「可能な状況に内的特徴があるというのは、命題によって表現されぬ。その内的特徴の存在は、この
   状況を述べる命題の中に、命題の内的特徴を通じることで、自ずと現れる。」(4,124)

  だから、ある可能的状況の形式的特徴(内的特徴)は(・・命題は状況の論理的映像である4,03)、状況
  を述べる命題によって表現されることでなく、その命題自身の形式的特徴から、現われるものでしかな
  い。命題に形式的特徴を、認める否認するのもナンセンスであって、ただこうだといえるだけで、また、
  特徴をあれはこう、これはこうといっても、別に形式を分別出来る、分別distinnguishしたということ
  でもない。形式的特徴とはそんなものである。(4,1241から)(ここまで2005/12/14)

  独特な形式というものの”特徴”die formale Eigenschaft・formal propertyの、注意すべき点を、を
  以上のように書いているが、(以下、ややこしいので原文の語は、著者自身の書いた英文から主として参照)
  こういったことは、結局、命題についての形式と、内容(実在との対応)の違いをウィトゲンシュタイ
  ンが、注釈してくれているところになる。  
  付け加えて言えば、形式(外形)と内容という言葉が、内的関係と外的関係と全く反対の言葉に対応し
  ていることも、そもそもこの問題が”実に多くの哲学者たちが、内的関係と本来の(外的)関係とを、
  ・・取り違えた”こと、その起き易い一般的混乱を、示唆しているともいえよう。
  さらに、この命題における”内的関係と外的関係”の対比は、さらに概念(特には名辞)についても同
  じようにある。

  概念Begriff・conceptは、本来、関数によって叙述されるが、その概念が、その対象として含まれうる
  形式概念との関係は、命題によって表現されることでなく、その当の対象の記号自身に示されるだけで
  ある(4,126)。1対1対応という命題、名辞の根本からいって、そもそも論理定項で結ばれる関係でな
  い”つながり”は、それ以上どうしようもないのである。概念は、対象との対応において、内容を持つ
  が、一方、そのそれ以上実在との対応によって真であることが、言いようのないつながりがあり、それ
  のみがあらわれたものが、形式的概念である。
  結局、関数的対応でないもので成立している形式的概念は、結局、形式的特徴によるものである。即ち
  「その形式概念のもとで意味をなすfallすべてのシンボルに共通な特色あるdistinctive相feature」
  (4,126)でしかないのである。命題と事実の、形式的特徴も対象に由来する。
    (ただ、注意しておいていいのは、命題関数の変数xは、対象という形式概念を表す本来の記号でもあることで、変数とは、その値の全ての概念であるから、
     形式的特徴がxともいえるので、形式的概念が関数表現に無縁なわけで全くない。)

  そしてこのような形式的なものは、もともと各々のシンボル(命題を構成する)、そして結局は、名辞
  そして、それに対応する対象の”脈絡の可能性”(2.0121)のなかに由来するとされている(2.023対象
  が形式を作る)。しかし、一方で命題と対応する事実の内的特徴propertyは、人相facial featureの意
  味で、相a feature(4.1221)だといわれる。(ここまで2005/12/15)

  「名辞は命題の中で対象の代理をする」(3.22)のであり、形式をつくるのも対象なのだが、意味を持つ
  のは命題だけで、名辞は、矢じりに過ぎず、方向を持つのは命題であり、「事実(ひいては命題)のみが
  ある意味を表現できる。名辞の集合にはそれができない」(3.124)といわれる。そしてまた「世界は事実
  の寄せ集めであって、物(対象とは事物、物2,01)の寄せ集めでない」とこの書の始めに書かれている。
  このように論考は、一方で、命題を中心にしている体系ではある。(元々の書名は、Satzだったといわ
  れている。)

  『論考』全体において、こういった(いってみれば)形式と内容の対比が、一貫してみられることは、
  この書の非常に重要なことであって、強調しておかねばならない(これに比べれば、語ること-示す
  ことの対比、沈黙、トートロジーといったLWといえば普通言われている話題は全く部分的である。)

  『論考』の1から7までの小数点以下のない命題番号箇所に注目すれば、この書は、の世界は事実、
  から始まって、の事態、対象といった実在の説明になり、のそれに対応する”思考”の話となる。
  まず、そこは
  思考の素材としての映像(”picture”今日の日常語の”イメージ”とほとんど変わらないともいえる
  しかし、が”作る””物質的な”・・ニュアンスがある。)の説明になる。その映像を土台として、
  で思考とは意味を持つ命題とされ、で命題は要素命題の真理関数とされ、分析と実在との対応が説
  明される。そこで 論理の限界も説かれる。で命題の一般形式が導き出され、そこで数や自然法則
  の説明がされ、さらに 倫理や死、そこで世界に価値が無いという。そして、続いて哲学の方法に言
  及されたあと、は最後の一行だけで、語りえぬものについて沈黙しなければならないと閉められる。

  実在でも”形式と内容”の対比、映像でも”形式と内容”の対比、命題でも真理関数による命題でも
  ”形式と内容”、そして、その全体でも語れない部分(形式)と語る部分(内容)があって、一番
  最後は、もう語らないといって終わるわけなので、非常にその事で一貫した本。ここで私たちは、何
  とか音楽についての”形式と内容”をどう捉えたらよいか知りたいのであるから、直接、その話題は
  出てこないため、LWの”形式と内容”とは、どうしたところから発想しているものか、この書の話
  を、そこから整理しなおすと役に立つ。

      (なぜ、こんな”形式と内容”の対比が成立しているのか?と問うこと。その線に沿って論考の記述を組み直してみるだけだが。それにしても、このよ
        うに世界の全てにわたって”形式と内容”の対比があるのであるから、LWの考えは、音楽に関しても無理無く適用出来そうにも思えないか。)
                                                           (ここまで2005/12/16)
                                 
         14-1



  形式と内容といえば、アリストテレスも形相と質料といった区別を重視していたことなどが、典型的
  なように古くから、そして広く、色々と 変化しながらも扱われた論題なのだが、なぜ、そういう形
  式と内容が、問題となってしまうかは決して自明なことでない。しかし、ウィトゲンシュタインの、
  ”命題が実在と論理を共有するゆえに、実在を叙述しうる”(4.12や4.014など参照)といったような
  主張の他、似たような言い方で何度も出てくる”論理を共有”というような発想に注目するのは、こ
  のことを考えるために、非常に有益なのである。(「数学とは論理の一方法a method of logicである」
  (6.234)といったところにおける、このlogicは、案外解りにくいものである。が、数学も命題も、論
  理学、実在と論理を共有すると言っている事に気付くと、それは見えてくるし、さらにLWがプリンキ
  ピア・・のようなラッセル・ヒルベルト的プログラムに対してどう考えていたかも想像がつくようになる。)

  『論考』は、以前書いたように、普通の論理定項を排除するため命題の構造と否定操作で足りること
  を示そうとした書といえる位なのだが、そういう逆転図的な考え方の中核が、”論理を共有”という
  ものだと言うと話が解り易くなると思う。

  「命題においては、それが描写する状態においてと丁度同じだけのことが区別されるのでなければなら
   ない。両者は同じ論理的(数学的)多様性を有しなければならない・ヘルツの『力学』を参照せよ」
  (4.04)どうも、話が長くなるので、あえて簡便な説明をさせてもらうと、このことで面白いのは、そ
  の必要な”多様性”を持てばいいというのは、その”多様性”を持っていればなんでもいいということ
  でもあるということなのである。すなわち、それが、正しいものかは、別にその此処の設定を調べても
  どうなるものでなく、その記述のシステムが成立しているかみるしかないのである。そして、このこと
  は、論理的(数学的な)方法が、そもそも自己言及が不可能なことと根本的に通じていることなのであ
  る。「数学的な多様性そのものを再び描写できぬ。描写の際この多様性から抜け出すことは不可」(4.041)

         ◆自己言及不可能性という大きな問題に関する、もの凄く簡単な説明だが、しかし、商売っ気を、排すと世の大体のことはこんな具合のもの!

  「特に、どういう表示方法が採用されたかは瑣末なことかもしれない。しかし、その表示方法が可能で
   あることは絶対的に重要である。哲学一般についても事情は変わらぬ。・・」(3.241)(ここまで2005/12/19)

  描写、ある表示をする際の、その形式の持つ多様性は、その立脚点の構成に根本的に関わるが、『論
  考』の場合、そこは隠れがちな書かれ方になっている。
  (これは、結構意図的で『論考』の主張の難点とも、見えるものとも関連してしまったのだが、そのことは後で触れる)
  その関係を、ここでより浮き彫りにしてみる。まず、実在と命題(もしくは映像、記号)だけでなく
  、”操作”というものが根本的に別にあると受けとった方がいいこと。
  操作とは、(操作と関数を混同しないこと5.25)これは結局、ある行動であり、数えたり、枚挙した
  り、そしてそれだけでなくそういうことをして、つぎに何かすることも定めるのである。このことは
  、機械的システムとしても作動することと、つながるし、また、作動すること自体は宇宙に人間がい
  てもいなくても関係ない。
  しかし、それでもその作動の別の物質的在り様が幾らもありうるものということは、非常に重要であ
  る。さらに、言語における形式概念や論理的形式、そしてある名辞というのは、言語と実在の間に人
  間の現実の行動があってこそ、成立するものだし、それは、操作、枚挙のように、人間の行動、生活
  のある分節局面(相)なのである。そしてこれを立脚地とする論理的形式として多様性を共有する記
  号系を様々に選びうるのであって、(この裏から言えば、対象にもそれと同じ多様性があることとさ
  れるのである)根本的にその形 が固定的に実在と対応しているわけでなく、それを通じてのち、此
  処の命題と実在の対応が決まってくる。

  「記号の選択には、きまぐれな要素があるのは確か。しかし、一旦、ある事柄を任意に決定すると、
  それに応じて他の事柄も決まらねばならぬ。この事実は、動かせぬ」(3.324)だから、

  こういった『論考』での主張から、そもそもなぜ、形式と内容の区別の根本的必然性を作り出してい
  るものあるかが、人間の行動と記号の間で判ってくるし、また音楽にも十分適用するものなのである。

  すなわち、まず、記号系、形式を特徴づける相、実在の関係において、音楽の営みを捉えるわけだが、
  命題の論理的形式の場合、「命題のある構成部分を変数に変え・・その操作の結果、命題関数の値とな
  、命題の集合が存在する。この集合は・・・変数とみなすときの最初の任意の取り決めで普通決まる。」
  (5.315)そして、その集合を作る命題が「共有できるもの」が、表現expressionである。その表現が
  、命題の形式と内容を特徴づける。(3.31)(この場合、名辞の関数と命題を変数とする真理関数のど
  ちらでもほぼ同じ問題なので一緒くたに話す。)というのだから、命題の形式とは、変数を含む命題
  が「形式」であり、その形式に共有されるものとしての”表現”によって前もって決まってくる、値
  域の集合を作る変数に代入されるべき集合が、「内容」といっていい。そこで、考え方をLW風?に
  音楽作品の場合に、拡張するとしたら、まず、音楽の場合も形式も内容も、命題のように”感情”の
  ようなもの自体でなく、記号系のものでありそうである。(命題の形式が、命題の一般式のように、
  変数を含む式であり、p,qといった個々の要素命題が、収められる内容であるのと同じく)

  そして、その形式を決める(入れる変数の集合を定めるもの)ものは、”特徴”や”表現”といった
  もので、前もって”思い浮かぶ”(これが実は重要なポイント)ものが内容として該当することにな
  る。そんな考え方でいくならば、例えば、最も普通に思いつくのは、音楽の場合の”形式”とは、ま
  ず、バロックスタイルとか、もしくは、個人のモーツアルトスタイルというべき、独特の曲作りの特
  徴であって、”内容”も、ソレ風な幾つかの書き方、ある程度想定される和声進行とか、リズムのパ
  ターンとかの色々ある全体というふうに、とりあえず、考えることも出来る。(ここまで2005/12/20)



         14-2



  ただ、今、「内容」において実在との関係ということを、一応省いて説明したが、その問題のために
  は、いきなり、上のように音楽における形式と内容の例みたいなものから、考えるより命題に近い詩
  歌の場合を、予備的に見ておいた方がよい。

  詩歌の場合の、形式とは、俳句や7行詩みたいな場合のように、韻律やテーマの傾向、例えば、5-7-5
  の文字数とか、季語といったものが、そうだというのは、別におかしくはないだろう。音楽的なリズ
  ムや固有のムード。先程した、形式の持つ立脚点の構成(上の傍線部分参照)の話を、もっとまとめ
  ていうと、形式というのは、人間の言語的活動の論理的構造(多様性)に、根本的に関わっている人
  間の生活局面(相)であり、その多様性を十分に示せるかのみにある、本来何でもないもの、元来 
  自己言及不可能性のもの(何らかの、単独での対応により真偽の定まるものでないもの)なので、詩歌
  の場合も、形式とはそういった特徴的ムードによるものであり、そのシチュエーションで、ありうる
  言語のつながりなのである。だから、内容というのも、そういったつながりを共有しうる特徴をもっ
  た単語、文ということが出来る。

  命題と同じく詩の場合も、変数に代入される単語、文、例えば「伊豆の海や沖の小島に波の寄る・・」
  というのに対応する地理的事実というのを見つけ真偽をいうことが出来る。(実際、伊豆は海に面し
  ているとか、島が見えるとか)詩の「内容」というのも、その「形式」による可能な集合のうちで、
  こういった対応により、成否を定め、実際に成立しうる詩の文章を作る、ともいえる。しかし、それ
  でもこういう”地理的事実”もしくは”物理的実在”そのものが、「内容」なのではない。こういっ
  たものが、内容に思われやすいのは、皆がそういった風景を見た”感情”を、精神的内容と考えてし
  まうからでもある。

  しかし、その作品の持つ感情、ムードというのは、大切なのは、その作品の”内的特徴”であって、
  物理的地理的実在が持ち合わすものではない。すなわち、それは、われわれが比較することによって
  始めて、特徴 その間の類似、軽重関係、優劣として捉えられる。
   (”フレーザーの『金枝篇』について”における「内的関係」や「形式的」関連という言葉について、内的特徴、形式的関係といった近い言葉、類似や、比較
     重なり合うといったことなどに関連して、ある程度 すでに本稿の段・5と6で述べておいてある。そして、この少しあとに、また輔弼的説明も加える。)

  だから、古くから広く一般的な批評の文句として「形式と内容が一致している」というのは、必要な
  正しい言い方で、選ばれる語句は、その形式の特徴を十分持っていなければならず、そのことは「正誤」
  (真偽)が判るのである。 しかし、仮に、”その万葉調の形式と内容が一致し、その内容は雄渾ゆえ
  優れた詩である”などと言ったとすると、基本的にはおかしな言い方とする事が出来る。というのも、
  特に、優れている劣っているというの問題は、作品全体を、比較していえる内的関係であり、その内
  容の選択とは、直接関係ないから。(・・題材が全く同じでも、詩人によって全く違う作品のムードになる・・etc)  (ここまで2005/12/21)
  
  こういう例だと誤解を招くかもしれないが、言いたいことは、詩の場合も、形式に当てはめる語句は、
  一応、”実在”(対象とってもいい)との対応があるが、その語句自体が、「内容」とされるべきで
  ”実在”やその語句に関した”感情”は、内容でないということ。それが”論理的形式としての多様
  性の観点”とでも言うべき、先程の本稿の整理の仕方からは、言ったほうが良いということである。

  さらに、詩の場合、むしろ、歴史的、地理的事実、実在、と全く反したことを、書く場合も珍しいこ
  とではない。例えば”オリバー・クロンウェルは、ピストルで暗殺された”というような詩を、作り
  出すことは何でもないことである。(一方、これは、新聞記事の形式にはならないといったこと)

  しかし、これは単なる出鱈目というより、そういった詩の類の場合、ふさわしそうな語句、先のよう
  な歴史的事実に反するような類の文章を決める形式(その特徴をもつ)というものも、十分ありそう
  であって、その雰囲気の下で、これはいけそう、これは全然だめ、これはいける駄目とかのものでな
  い・・そういった一群は十分想像しうる。こういった場合は、内容とされる語句などは、可能性として
  のその詩歌の論理的形式を、いわゆる実在と全く無縁に、成立させるための正負の符号を持つ要素に
  なる。

  しかし、こうした場合、事実と全く異なる文章を、日常の文章と一見違いが不明なまま構成してしま
  うもののため、当然、支障も考え得る。ハンスリックは次のように記す・・「他の芸術では、手本となる
  べき自然美があり、その内容を確定し、これを認識させる・・。このような手本になるべき自然美を持
  たない芸術(音楽)こそは、厳密な意味での無形芸術である」(p233)
  詩歌や絵画、造形芸術の場合、その内容というのが、自然美であるというのは、割とよく見受けられ
  るオーソドックスな考え方で、ハンスリックもその考え方の土台を受け入れているのがよく判る箇所
  となる。 ”手本”というのは別の含みもあるが、一応模写、即ち、実在描写が、音楽以外の芸術に
  おける内容という考えは、前述のように難点のあるとらえ方である。詩歌の場合も、代入される語句
  の表す自然の美が、そのまま作品の美であるというのは、錯覚ですらあって、むしろそれは、その形
  式の可能性を埋める語句の一つに過ぎない。さらに、形式によっては、全く事実でない、また自然に
  は在りえない現象を、内容とすることで形式として成立させる場合は、珍しくないのであるから、そ
  れらは例外的なもの、もしくは、”手本”に達し得なかったまでのものというより、元々詩歌形式の
  重要な内容として、全くあるということ。

         15



  こう考えた場合、”論理の立場”というのは、普遍的な命題形式や論理形式を通じて、内容を考え、
  そこに対象、事実といった実在との関係を、設定する訳だから、内容において自然の実在的要素、
  結局、経験的素材を、扱わねばならないスタイルの詩歌よりも、そういう内容と反対のものを扱う
  形式をも、可能的に包摂しうる、個々の形式、内容を扱わぬ立場ゆえ、根本的に公正な立場をとれ
  るということになる。そして、このことは、実は重大な帰結でもある。cf「哲学という語は、自然
  科学と並存するものでなく、自然科学の上か、或いはその下に位するものを意味せねばならぬ。」
  (4,111)         

   『TRACTATUS LOGICO-PHILOSOPHICUS』(1921)は、そこに展開されている問題を掴むと、その議論の
   精緻さ、巧妙さ、清潔さに驚くくらいのものだが、ただ、私たちの”精神の営み”(・・以下もちょっ
   と論考的用語でない言い方になるが)の非常に大きな枠組みの”モデル”しか扱っていないことは、
   むしろ、とても注意しなければならない事情でもある(元来、厳密な哲学とはそんなもの)。しかし
   、その”モデル”が、本来収まるべき場所に、全体に上手く当たっているため、従来のありがちな混
   乱に対して、必要な回答といったものを与える仕組みを、もう持っている。(いろんな事情ゆえ、十
   分に展開されなかったったが。また、『PU』(1936-1949)との関係は、後で少し述べる・・)


  ハンスリックは、”楽音自体が、「内容」であり「形式」である。”(p225)と断じ、一般的には”音
  楽の場合の「内容」とは、直接的には感情であるとされ、それはまた 思想、精神的実質であり、
  一定の楽音連続の純感覚的要素が、単なる「形式」である(p183など)”という風な考えを持ってい
  ることに、強く批判を加えていた。(上段12参照)

  このハンスリックの主張は、寧ろ、画期的な慧眼であったというべきで、上の13、14段と、行ってきた
  考察によって、例えば、バロックスタイルとモーツアルトスタイルという「形式」と、ある程度想定さ
  れる和声進行とか、リズムのパターンとかの色々ある全体群・・としての「内容」(14段中ほど参照)と
  いうような区別を仮にやってみたが、大体似たような区別を試みている箇所を『音楽美について』(18
  54)にすでに、書かれている中で見いだすことが出来る。ただ、ハンスリックの場合、”様式”(本稿
  で仮に試してみたのはむしろこっち)と、”形式”を一応区別している(ここまで2005/12/23)

  「音楽における様式を、・・・創作的思想の表現に際して習慣として現われる”完成した技巧”という意味
  に解釈しようと思う。」(p158)と、前述のように書くのだが、「大家は明瞭に把握した観念を実現し
  ながら、あらゆる貧弱なもの、不適当なもの、平凡なもの等を取り除き、こうして技巧上の各々の点に
  置いて全体の芸術的特徴を統一的に保ち、これによって「様式」を維持するのである。」(p159)
  さらに、「わたしは、”様式”という言葉を、音楽においても絶対的な意味において用い、歴史的あるい
  は、個人的分類の意味などは、顧慮せず、”彼は、何々の性格を有す”というのと同じように”この作曲
  家はこれこれの様式を有す”といおうと思う。」(同p159)

  すなわち、ハンスリックにとって「様式」とは、芸術的特徴を、統一的に保つものであり、”性格を有す”
  というようなものでもある。これは、11段で既に書いたように、彼の「形式」とは、「種々の転調・終止・
  音程の進行・和声の連続 等・・」といったことであると捉えており、彼の「内容」とは、「楽曲の1つまた
  は数個の主題こそ、その曲の内容である。」というわけなのだから、「様式」という概念の方が、命題の
  「論理的形式」の「相貌」や統一的に保つといったような考え方にとても近い。すなわち、より独立した
  ”絶対的”な価値観(特徴)のニュアンスがある場合、「様式」とされるのだといえよう。(11段参照)

  一方ハンスリックの「形式」とは、ワーグナー派に対して、音楽のはっきりした構造性としての「形式」が
  無く、単なる題材や感情の意味でない、「内容」とは、主題の展開力としての「内容」が無いことを批判
  するための言葉だから(p225辺り)、彼にとっても「形式と内容」とはまだ、価値判断するための言葉な
  のである。さらに、付け足すとハンスリックにとっては、当時の創造活動に結びつけて使われる言葉。

  しかし、西洋音楽の全体の”特徴”が、むしろこういった強い構造性であり、非西洋音楽の非構造的な
  ”特徴”が、当時は全般にまだ殆んど積極的なものとしてみなされなかったわけだから、西欧固有の
  ”絶対的”な特徴だと思われなかった故に(言い換えれば、世界的に見れば相対的特徴とハンスリック
  には自覚されなかった)こうなってしまったというふうに、この特徴のみを特例化させる、ハンスリック
  のやり方を”時代的な問題と”理解することは、十分ありうる事である。しかし、そういったことよりも、
  音楽解釈における感情や思想という”実在”と容易に関連してしまうものを、音楽の形式と内容という問
  題から、意図的に排除しようとし、それを楽音と楽音の問題として捉えたこと。歌詞のある場合より、器
  楽曲において音楽のこの問題が、典型的に現われるとして、考察の対象にしたこと。そして、「形式・内容」
  と別個のこととして、”効果”というものを考え、それに感情を当ててみたこと。これらは、総合的に見
  て不当に軽んぜられているゆえに、今日、重要性を、実際、強調しなくてはいけないことなのである。

  だから、ここではこう考えたい。そういった西洋音楽のはっきりした構造を志向する特徴(「音響的に運
  動する形式」11段参照)自体も、形式の一種、様式の一種(実際、『音楽美について』では、形式と様式
  は、結局大体は同じように書かれてはいる※)であり、バロックスタイルとモーツアルトスタイル(これ
  は普通ハンスリックでの様式といえる)と同様、、「種々の転調・終止・音程の進行・和声の連続 等・・」
  などで構成される西欧音楽的構造的スタイルというのも、一種の「形式」で、そういった”楽音による
  ”操作的系列的表現(関数)に、同じく代入しうるような主題や、和声進行とか、リズムのパターンとか
  の色々 ある全体群を「内容」と、ハンスリックに習って、こういった形式と内容の分かり易い端的な例と
  して、考えることが出来ると。(無数にある中の、各々一つの例として)

    ※

         16



  「楽音」であるものから、「楽音」であるものに移す、という「形式と内容」に関する重要な考え方。
   (勿論この楽音とは、19世紀西欧の平均率的な音、音組織、近代楽器による音などを基準にしたものだが、そうじゃない場合の問題は今や当然で、一応先に触れた・・)

   すなわち、ここで何が行われているか?というと、例えば、作曲における「形式」の場合なら、(2005/12/24)
  「楽音」を、作曲者が選択し、連続的に適用した系列が、作曲作品という「楽音」の連なりとなるわけで
  ある。これは、「形式と内容」ということに関して述べるなら、論理的形式を有する、ある真理関数に、
  実在と真偽対応する要素命題を、内容として、継続的にいくつも適用していき、真なる命題(もしくは、
  偽なる命題)を構成するのと類似している、というより、むしろ同じ行為であるということが、言えるよ
  うになるのである。

  無数にある場合からの、具体的な例を、ここで挙げてみるなら、作曲者が、先のように「種々の転調・終
  止・音程の 進行・和声の連続 等・・」を、自ら「形式」からの選択で、その”特徴を持つ”「楽音」を
  連続的に、正負の位置に選んでいって、継続的に構成する。
  この「形式」とは、直接には「楽音」でしかないので、音の選択傾向、をパターン化機械化していって、モ
  ーツアルト風の音楽を機械的に作り出すシステムにも似ているが、大事な点は人間の言語活動全体の根本
  的な変化が関係しうる点である。 (これは「形式」というものの最も中心的なことでもある)


         17



  先に、「”論理の立場”というのは、・・・個々の形式、内容を扱わぬ立場ゆえ、根本的に公正な立場をとれ
  るということ」(上15段冒頭)を、述べたが、この言語芸術(造形的芸術の場合もこの場合、問題は変わ
  らない)全般に関する問題を、別の言い方でさらに説明してみよう。

  
  自然の対象を扱う(風景を描写する文章など)ことが、「美」である、ということは、代表的な芸術理論
  の言い方になる。しかし、そんな言い方をすれば、実は自然物と、すべての「美」といったものに、つなげ
  られた命題が、事実に1対1対応していることになり、むしろ、非自然物が「美」でないということと、同語
  反復といえる関係にもなるということですらある。
  (完全な補集合関係にある、ない、というような言い方では全くないのに注意しよう。むしろ、この言い
  方は、「人民の幸福がすべてである」という言い方に近い。)

  そもそも、こう言い換えるだけでも、ある文章表現の、「内容」が「自然美」を対象とすることであると
  いう論法の根本的混乱を想像させうるのである。現実的には、自然物、非自然物(人工物、機械などでな
  くても、文章中の韻律や、記号の規則性、構成、もしくは、可能、不可能的出来事の記述も本来そう)だ
  けを扱っても文章として、適正でありうる。(”適正”という事と美は無関係であり得ない。)
  こうした眼前で混乱した言い方を、人は相変わらず何故好むかといえば、それが、自身の眼を混濁させて
  くれるからであり、その中で、自身の立場を主張しているのに過ぎないのである。しかし、その自己の立
  場とは、その文章の扱っている事実に止まらず、その文章を作り出す際の、その人自身の傾向、特徴なの
  である。

  対象として、自然の記述を排除するのでなく、非自然物をも、同等に事実として、描出した語句を、文章
  の論理形式に代入されるものとして、成立するか、しないか(適正であるか)を、問題とする”論理の立
  場”というのは、内容や個々の形式を直接扱わないことで、結局、こういった様々な立場(傾向)を包摂
  するのである。

  同じように音楽作品の場合(特に純粋器楽)、自然的実在(自然美など)などに対応しているのが「内容」
  とは、なかなかいう人はいないだろうが、音楽作品の各部分が「感情」に対応しているというのは、むし
  ろ、一般常識的な見解だろうし、それが「内容」といっても十分、通る言い方であろう。(その「感情」
  を介してならば、”自然的実在”や”思想的観念”なども間接的に顕せるというのが、常識的なものでは
  ないだろうか?)

  しかし、それは詩歌の各部分が、「自然美」に対応しており、その「自然美」が「内容」というのと、同じ
  難点があるというべきなのである。

  確かに、音楽は全く情感に無縁という人は、何か別の狙いがあるか、音楽に全く関心の無い人であるか、
  ぐらいだろうが、しかし「感情に対応」しているというのは、”言い過ぎ”であって、明らかに対応して
  いるのは、むしろ、「ポーズ」ともいえるものであるだろう。(さらに今は、まず作曲作品を、例にして
  話しているので、「身振り」とまではいかないものとして「ポーズ」を捉えてみれば良いと思うけれど)

  この「感情」と「ポーズ」の区別は、重要といえる。音楽作品の各部分には、発想記号のようにゆっくり
  歩くとか、快く動く、とか、ゆったりしたテンポとかの指示は、当り前だし、音量でも、強く、急に強く、
  だんだん強くする、だんだん弱くする、というものなど、楽器の音色、打楽器のドンと鳴る音・弦・金管
  ・木管など(ある柔らかさ?硬さ?みたいな指定・・)のその高いものと低いものの指定の違い、重ね合わ
  せ・・etc作曲家のやっていることは、こういう各部分の違いと構成を、考えているわけだから、何か感情と
  の対応を直接作っているように思うのも、別に不思議でない。

  実際、こういうことは、せかせかしたポーズをしたり、ゆっくり動いたり、大きな声を出したり、だんだ
  ん小さく話したり、又対面している相手に、何かびっくりさせるような鋭い音、硬い音を出したり、足を
  どたどた踏み鳴らしたり、反対に出来るだけ優しい響きで喋ったり・・こういうことには、明らかに非常に
  近いことであるだろう。
  しかし、どたどた大きな音を出し、その人が怒っているか、怒りの表情を持っている場合があったとして
  も、いくらでもそうしないことは出来る。反対に、ゆっくりした動きで小さな声で喋っている人にある時
  悲しみを感じたとしても、常にそのような音量とスピードで悲しみ”があるとは限らない。

  作者が、そのポーズを上手 に組み合わせ、何らかの状態に持っていけば、そういったポーズは、正にそ
  ういう感情にもなりうるということなのであって、決定的な問題は、作曲者が全体のムードをもって、そ
  の位置を決め、様々な手法、ポーズを連続的に適用し、系列的に楽音を並べることによって、全体として
  その作品は、他の作品と違った特徴と各部の情感が、成立するというふうに見たほうが全然よろしい。
  そして、詩歌の内容が「自然描写」だけとはいえないように、音楽作品の内容も、そういった「ポーズ」に
  関係した「内容」だけでない、音組織上の必然性・・動機的統一、和音の工夫したつながり、旋律の配置の
  合理性、微妙な調関係などといったことが、作曲者の「形式」的な正負の判断で、連結されるのである。

   ※「形式と内容」に関する論考の記述について補っておくべきことして、細かく言うと幾つかの事情が挟まっているので、そんなに書かれ方は、ストレートでない
    ことには、注意する必要がある。まず「命題には、意味の形式は、含まれている。だが、内容が含まれていない」(3.13)と書かれている。これは
    (この注は、2006/1/25に付記)

   ※この17章の上から8段9段の感情とポーズの違いといったことについて、作曲作品内での構成の実例みたいな話を、元々のこんがらかった書き方?から
    少し整理し直す。(書きたかったことは全く同じだけれど・・)(この注と以上の修正は、2006/3/6)


         18



  こうしたことの区別の必然性は、音楽においても「形式と内容」の区別の重要性によっているのであり、
  人間の記号的、言語的活動の根本は、記号と実在の間の、生活局面の多様性が、決して、同形的に、1対
  1対応に移せないし、また「形式」によるつながりは、個々の設定が任意であることでもあり、それは必
  然性をその内側から、決して築けないのである。この違いは、ある決定的な重要さをもつ。・・・だからこ
  そ、古くから、人々はこの言い方ー「形式と内容」を巡って、(もうひとつ上手く収まっていないと自
  覚しつつも)何事かを言おうとしてきたのかもしれない・・・。

  半面、そういった完全に捉えていない場合も、考え方としては成立してしまうというのは、確かに「形式」
  の持つ”特徴”とは、実在に対応していない多様性をもち、そのようなものは経験的な、分析可能なもの
  のような語り方は出来ないのだが、しかし、「われわれはある意味で、対象や事態の形式的特徴や事実の
  構造上の特徴なりを、論じることが出来る」(4.122)

  というわけで、形式概念同志の比較される特徴を言ったりするように、”比較”によって、その必然を示
  す具合になら、言及することは出来るので、一見違いが僅かだったりするから。(ついでに言っておくな
  ら、特徴を論ずることだけでなく、結局のところ、「形式と内容」の区別の必然性自体、その比較による
  説得性において成立する。そして、大事なのは、この問題を考える時、全体の輪郭が、くっきりして安定
  性が増し、薄っぺらな感じ がしないことに注目すること。)

  音楽が、「感情」という外部の経験的対象に結びつくものを、「内容」とせずに、可能性としての「形式」
  の”特徴”が、”比較”という制限においてだけ、言葉と結び付けうるということ。と、何故、ハンスリ
  ックのような「楽音」から「楽音」に移すみたいな考え方に、こだわる必要があるか、そして、音楽におい
  て明らかに付帯する「感情」の関与の仕方(ポーズみたいなものを考えてみたりして)がどういうものか、
  ここで、説明してみたわけといってもいいが、さらに、その前から、言語的芸術作品と”論理の立場”と
  いうものとの関係、から、連続して、音楽における、形式に対するポーズ的な楽音、音組織的な楽音、そ
  ういった代入、という話を、17段始め辺りからしてきたことを見直してほしい。

  自然の描写などを扱う、言語的芸術作品(例えば自然の風景などを描写している詩歌を、考えてもらって
  いい。こういった区切りの範囲は、別にどこでもいいのだが)と、いわばそうでないような非自然的なよ
  うなものを扱う文章。(ここでちょっと詳しく言うと、前者において、詩歌的自然描写だけでなく、日常
  的観察ふうの描写、さらに力学的数式的表現を含めた描写もありうる。)命題の論理的形式と内容、そし
  て実在を考える”論理の立場”は、そういった各々の立場を、包摂する関係にあることを、述べてきたが
  それは、また、内容の如何によらず、すなわち、不純な対象の偶然的特殊性を排除することと、ともに成
  り立ってくる関係であるということが出来る。すなわち、それが、前にも言った論理というものの”公正
  な立場”ということだが、先の”ポーズ”云々という説明全体は、音楽にもほぼ同じようなことが、成り
  立っていることを示すためであった。

  それは、「論理的形式」もしくは、「形式」というものが、命題と実在が、ともに論理的構造(多様性)を
  共有し、そこにおいて両者に表裏を向けた言語の限界(境界)というものを作る(「ものさしの一番端の
  目盛りだけが測るべき対象に触れる。」(2.15121)・・勿論、この言い方自体は、後のウィーン学団の人々
  と会話などでは少し変形される・・・)が、さらに命題での「論理的形式」が、”言語活動のポジの側面”と
  すると、”相的なもの”というものは”言語活動のネガの側面”というべき、両面の一方なのを見ておく
  必要があること。

  すなわち、音楽のほうは、直接、言語が顕われないもの(歌詞とかでなく)であって、その一端は、「ポー
  ズ」に代表される動作であって、これはより一般的に言うと日常的な喋らなくても成立するような生活動
  作やもっと凝った踊りの様々のもの、演技、パントマイムやそういったような(すべて時間的経過のある
  もの・・)類に対し、経験的事物との関係の最も少ない(最も一般的)純粋器楽曲にもある「ポーズ」をも
  ったフレーズ(此処から通奏低音が聞こえる、リズムパターン、ポリリズム、休止、音の飛躍、早い音階
  ・・)は、包摂的関係にあり、またある純粋化への関係でもある。また、一方、音楽は、言葉が表面に顕わ
  れない技術的なものを代表するようなものでもある。例えば、いろいろな技術計算は、特に関係ある人も
  いるが、全く関係ない人もいるようなもの(経験的)で、それに対して、音楽における技術的記号操作的
  活動は、最も一般的用途だともいえる。これは、その類の技術的修練の営みの純粋化(論理的形式と諸要
  素の操作)であると同様に、包摂的関係となる。

  今やったような区別自身は、別に何でもいい。しかし”論理”が、ことばが表面化している言語的活動に
  おける関係と、”音楽”が、必ずしも”ことばが表面化していない言語的活動”において十分同じような
  ことが言えることは、重要である。即ち「全てを包括し、世界を反映する論理が、特殊な鈎針と運針で・・
  世界を映す巨大な鏡へ編み上げられる・・」(5.511)というのと全く同様、こういったことにより、何か思
  いつきの気の利いた台詞として全くなく、「音符によって編まれた世界の鏡」として、音楽というものが
  あり得るということ、は、いろいろと重要なことに関連するのである。

  『論考』の考え方が、ここで絶対的に正しいといいたいわけでない。「鑑」(鏡)であるということは、
  覗いた人物の”顔”が正しく写されなければならない。あらゆる様々なその姿、立場を、公正な位置に映
  し出して見せることを、(”論理学”が果たすべきことのように)どうにかやってみることは出来ないだ
  ろうかということ。--「音楽」というものの、人間の他の営みに対しての位置関係を示してみること--

  それには、私たちの精神の営みというべきものが、様々な知識などと、どのような関係においてあるのか
  、なんとなく音楽に関して、一種の”文学的表現”として口にされてきたことは、単に装飾的な”美辞麗
  句”に過ぎないものなのか、そうでないのか(何かそこには全くの空疎でなく、ひっかかるものが確かに
  ある)試みるというのは大事なことである。

  今迄、ここでやってきたようなスケッチ、簡略な整理ではあっても、『論考』で隠れがちに置かれている
  ”モデル”を利用して、例えばまず第一に、ハンスリックの言っていた混乱した様なことを、まとめて再
  び軽く検討しなおすと実際に、見通せるものになってくるのである。(2005/12/28ここまで)

         19



  一見、奇妙に禁欲的なような説となってしまったハンスリックの「形式と内容」に関する主張は、当時の西
  洋音楽の創作の活気と強く関係した、実際的で必然性のある議論であったことは、まず、踏まえておく必要
  がある。
    ・田村氏の解説なども、結局、当時のヨーロッパ音楽の全体的な大きな流れ(にある作品)を、日常的に生きている人から出て来る意見では到底無くて、
    (かっての日本人的環境なら確かにもし欧州に居たって不可能に近かったろうが)ありがちな日本の知識人の今日もある”未開のお客様”の表面的に利口な意見。

  @ ハンスリックが「形式と内容」がともに楽音の問題でなくてはならないとしたのは、ワグナー派の言説
  に対する実際的反論といっていいだろうが、西欧音楽本来のしっかりした作品を作るためには、楽音から楽
  音を考えるということの重要さは、作曲をしたりする時の全く現実的な感じでもある。

  ハンスリックが、そこを云おうとしているのは非常に正当なことだったのだが、難点は、そうすると「形式
  と内容」を、区別する必然性も無くなってしまうのである。それは、両方共、物理的”音”でしかないと見
  てしまい、関数的表現の実在的関係を捉えていないため、単に、型に収めるものと、収められるものと考え
  ても、”収める”ということがどういうことか、何もそれ以上に積極的に考えられない。だから、例えば
   「内容」も、「音響的に運動する形式」という変な矛盾的表現を露骨にしてしまう。

  A さらに一般的常識風の素朴な考えのように「内容」が感情だとすれば、人間の精神との結びつきは分か
  りきった事のように思われるのに対して、ハンスリックは「内容」も、楽音だと云ってしまったために、結
  びつきも、簡単に云えないことになってしまう。
  そこで、ハンスリックはさらに、「効果」という「形式内容」に比べて副次的なものを考え、「強弱や運動
  感覚」のような感情、(いわばより”基礎的単純的な感情”)なら表せるとする。

  このことも、当時の音楽批評として必要な感覚の指摘で、そこから、”強弱や運動感覚”の”特徴”が、
  より現われた音楽が、望まれると主張するぐらいなら、全く正しいのだが、しかし、そこから、思想や観念
  などを音楽の感情は全く表せないということを導出して、ワグナー派にとどまらず音楽の思想や観念に関す
  る表現、主張の一般的否定までをやってしまう。

  「強弱や運動」といった「言葉」に対して、そういう言葉に対応する、より基礎的単純的な「感情」が、命題
  と事実が対応するようにあると考えてしまうので、その否定命題のように見える、”思想や観念などを音楽
  の感情は表す”ということをも否定しなければならなくなる。
 
  感情に結びつくものとして「形式内容」に対するわざわざ「効果」という、ある”副次的”ともいえるもの
  を、区別して何か偶然的な意味合いに考えていたのは、ハンスリックの実際的な鋭敏さだが、それでもさら
  に「強弱や運動」といった「言葉」が、”特徴”を表す形式的概念に対して、比較という限定付きで言葉とし
  て関係できるのにすぎないことが掴めなかったため、それを超えた適用をやってしまっていることになる。

  B また「形式」と「様式」を特に区別してしまっているとはいえ、音楽の「形式」という問題に音楽家の
  「個性」の保持が常に伴うことを強調しているのも、ハンスリックが非常に重要な観点をとらえていること
  になるが、しかし、一般に「個性」の強調ということは、元来、無制限のばらばらの無責任な主張になり
  やすい。
  ハンスリックは、一方で、音楽が精神的創造物であるゆえに、「大いに」「思想と感情を包含することが出
  来る」と考える人であったので(p125)(「その時代の詩歌、造形美術・・文学、学術と深い関係を持っている
  筈である」(p140))、「内容」が、楽音でしかない音楽においても、結局のところ、彼が、音楽とは違っ
  て「内容」として”自然美”を模写していると考えていた「詩歌、造形美術」のように何か実在との対応を
  探らざるを得ない。

  その詩歌などで”自然美”に対応するのに似たものが、副次的な扱いにせよ、音楽における”強弱や運動
  感覚”の感情であり、実在と対応している言い方になるのだが、それでも、高度な文学、学術に比肩するよ
  うなものに足りないのは明らかではある。他の芸術における「形式と内容」の一般的な通念をそのままにし
  ておいたので、結局、西欧音楽特有の強い構成的な”形式”自体が、絶対的な精神的基準にならざるをえな
  くなる。しかし、音楽が他芸術の何か実在的な内容であるはずの「思想と感情」を「包含する」という関係
  は、不明という他はなくなる。ハンスリックは、音楽に「無形芸術」という呼び方を与えることになるけれ
  ど、シェーンベルクは、無調という言葉を、否定的でしかないものの意味があるから特に嫌ったが、ハンス
  リックの無形芸術という呼称の中途半端さにも、このことは、関係する可能性は十分あると思う。

   ●シェーンベルクの立場は、もちろん、他の文芸との関連をハンスリックより進めて明らかにしていく
    考察をしたわけでなく、むしろ、音楽の独特な価値基準を徹底して、ある自然的なものに見える調性
    すらも遠くへ離してしまい、他の文芸、絵画などを追従させるような反語的な独自の『音楽美につい
    て』を作り上げることだったということも出来そうである。(この注は、2006/1/16)

         20

  論理的形式という概念は、古くから私たちを混乱させてきた多くの重要な問題に対する、効果的な見取り図
  を与えてくれると考える訳だが、一方、それが独特のある曖昧さという事情を持つことも、小林の話に戻る
  前にちょっと触れておかねばならない。(2005/12/30ここまで)

  『論理哲学論考』といえば、「哲学の正しい方法とは、実際以下のようなものであるだろう。語られうるこ
  とを除いて何も語らないこと。それは、自然科学の命題。それは、哲学をするのでない何か。・・」(6.53)
  という一見、明解な、まだ20世紀始め頃の多分にプラカード的な最後近くの主張であり、一般にそれに引っ
  ぱられすぎて※誤解していることを、改めて指摘する必要はまだあると思う。

     ※上の引用部分でも、原文を必要以上に強調した書き方にしている法政大学出版の邦訳書など。

  この主張は、この書で、いろいろ言って来た後の最後の判断と受け取るべきで、見かけより複雑な事情を、
  加味したものととらえた方が良いだろう。(そもそも 論考の全命題は、一種の擬似命題であり、また自然
  科学の命題自体でもないのである。)実際、この本を理解しにくくしている最も重要なことは、何かしらの
  「科学理論」のように見えたり、ある種の「公理系」みたいなものにも見えるようなところがあり、そうで
  ないとすれば何か必然性は強く備わっていそうなのだが、その考え方の類例みたいな手掛かりが、掴みづら
  いことと言えそうにも思われる。
  
  ところで、この著作において、直接、音楽について論じているところは、無いわけではなくて、代表的なと
  ころが、4.011から、4.0141にかけての、ところになる。とはいえ、ここは、一見この本の中で最もさえな
  いような記述が続いているようにもみえる箇所ですらあって、音楽に半知半解の技術分野の学者みたいな人
  物が、何か気取った薄っぺらな流行の教養をちらつかせているように、ちょっと読むと思うところ。

  ●もちろん、こういうところ(4.011から、4.0141にかけて)の記述も、この本が単純に自然科学の話とはやはり言えない例にはなるわけだから。(追記2006/2/1)

  というのは、「レコード盤、楽想、音波。これらは、言語と世界の間に成立する・・・論理的な構造が、これ
  ら全てに共通する。・・」(4.014)といっても、”論理学”という最も”完全な確実さ”を要求するはずの話
  題にも関わらず、楽譜は、楽想を十分表すものとはやはりいえないものだし、レコード盤の演奏は、演奏者
  によって全然違うものになってしまう位でもある。録音の状況も様々に異なるわけだし、だから音波という
  ものとの対応も、共通な”論理的な構造a common logical pattern”といえるだけのものの例になるだろう
  か?と考えるほうがまともな疑問の持ち方である。

  しかし、こういう大体の解説者の共感を誘い何でもなく見える部分は、著者本人がいっている”目の前にぶ
  ら下がっている鍵”に相当する。(2006/1/16ここまで)
  「命題propositionは実在の映像a picture of realityである。我々がそれを想像することにおいてas we im
  agine it、命題は実在のモデルであるA proposition is a model of reality。」(4.01)の、注釈に当たる1
  ページくらいの内容になるわけだが、まず、楽譜が、音楽の映像には一見思えないがそうだという話になり
  ♯♭の例が出て来る。”aRb”型の命題が、aはbに対してRである、という関係の映像であるように、5線譜
  は、線の上下関係が音程関係の上下を似姿の映像として表すが、♯♭は、音程の上下関係が記号の違いなの
  で、全体として楽譜は、見かけの不規則さを持っているが、それでも描写depictしている・・、というような
  話がされる。(2006/1/17ここまで)

  こういう記述は、レコード盤の条痕、楽想、総譜において、導出する一般的規則a general ruleが、存在し
  交響曲と総譜との射影の法則the projection of lowがあり、また楽譜の言語から、レコード盤の言語への
  翻訳の規則the rule for translatingがある(4.0141)、というふうに続くから、先程の楽譜の♯♭などの
  記号規則のようなもののきわめて複雑になったものが、交響曲が総譜に射影されるときのruleであって、こ
  の話は何かそういうふうに”比喩的に”大きく言った説明としての解釈をされがちなのである。(2006/1/19ここまで)

  この4.01以下が注目されるべきなのは、内的関係internal relation内的類似性the innner similarity(最
  初の”金枝篇について”からの引用参照)投影、描写という重要な用語を巡って、極端な場合の具体的な例
  を伴ない、短い文章の中で、密集(ある縮図風)して現われるからである。

  まず注意しなければならないのは、このレコード、楽想、総譜といった話の後に、象形文字に描写の本質が
  あり、失われたわけでなく(4.016)、命題記号の意味the sense of a propositional signを”我々に説明
  explainedなしであって理解understandできる事実から、見てとれる(4.02)、という話が続くこと。

  そういうことが可能なとき、私たちがどうしているか、まず考えてみれば、知らない土地で、知らない人間
  が書いたらしい、象形文字のような未知の記号をいきなり見せられたときも、理解できそうな場合があるの
  は、私たちの行動と環境の多かれ少なかれある類似のおかげというのは、全く現実的な見解なのである。(2006/1/25ここまで)

  この象形文字を例にする話を、従来の解説でもましな場合なら、「つながり」「脈絡」「配列」ということ
  に(2.01)(2.02)以下参照関連する問題とされてきたが、非常に表面的に、ネガティブにあしらわれているのが、目立
  っている。
  ・下でも引用してみた、日本の代表的な研究書(T・p205)によると、

  まず、この場合の「脈絡combination」といったこととは、直前(4.002)で”人間器官の一部”というような
  ”複雑な構造”、もしくは”暗黙の協定”云々とある箇所と関連している記述とみるのが、この書の文章の
  流れとして自然であろうということ。だから、各人が「前もって説明されなくても理解する」(4.021)よう
  な、言語の脈絡、配列、つながりを持っているとは、その辺りを探るべき話なのである。
  「文字の配列が、実在側の対象の配列と1対1に対応し、それによって写像が成立する」(p206)ということ
  を、この4.016の解説とすると、単にその配列が視覚的な配列であるかのように思わせがち(U・p108)であ
  り、そこで1対1と強調するのも、規約的な記号規則を連想させすぎる。

  私たちが、先程のような図形(文字)の読み取りを行う場合、大事なのは私たちの生活の諸要素、諸過程の
  結びつきからであって、そういった”多様性”が、私たちの”事実の描写”の中に、反映していることなの
  である。(2006/2/1ここまで)

  このことが、「内的関係」「内的類似性」というものの核心にあることなのだが、人間の言語の錯綜したも
  つれが、甚だしくなるところで、この『論考』での議論も何重にも細分して論じた方がいいが、本題とかけ
  離れていくので、最低限の幾つかのことをここで書いておく。

  まず、この箇所で楽譜や楽想the musical idea、交響曲、レコードなどという話が出てくるのは、レコード
  を聴いて、いわゆる「耳コピー」が、可能で一応元の楽譜を推測できることに、命題と楽譜はともに、記号
  言語として、表現しているrepresentものの映像pictureであること4.011が、現れており、それは内的関係に
  よって可能であるということに言及するのが、ほぼ狙いということは、大体注意しておくべきことである。

  だから、”内的関係”(→形式)といっても、普通の「音楽の形式」に、完全に単純につながる話ではなく、
  「耳コピー」が出来るような解釈を可能にする、わたしたちの持っている前提の「つながり」である。
  けれども、
  聞き手がそれを行う時、音程の周波数すべてを捉えて、音符に置き直すというより、大体、現実的にこうい
  う音楽なら、こういう書き方、こういう和音のつながり、ルバートまで普通は記譜しないことを前提とした
  リズムの捉え方etc・・想像しうる書法で書くというものなので、結局は、自らのスタイルを想像する作曲の
  「形式」というものとも十分通ずるような「内的関係」でもある。

  大事なのは、第1に、楽譜が記号言語として映像になる(4.011)というのは、内的関係というつながりが、
  音楽と似姿(4.012)であるからなのである。確かにその記号が、ある音と対応するが、書かれた命題が喋る
  音声と対応し、さらにそれが外部の事態と対応するように、楽譜の音符がさらに”感情”に対応(描写)す
  るまで主張する考えなのではない、ということ。
  次に、この「内的関係」というのは、レコード盤、楽想、楽譜間各々にある関係であり、また、その内的関係
  は、論理的なパターンとして各々皆、共通してもっているもの(4.014)でもあり、さらに描写を可能にするも
  のでもある(4.015)という、非常に適用の幅(解釈の幅)と変化のある、ある”可動的なもの”とでもいう
  ふうに呼んでいい在り方のものであることも、極めて重要 であるのだ。(そこに留意して、説明を試みて
  みよう。・・)

  しかし、普通、♯♭といった記号規則や、また総譜を読む規則が、交響曲を音符に投影projectする規則、と
  いう4,0141記述もあるので、描写や映像を作る内的関係が、この規則とまるで一致したものののように読まれ
  がちになってしまう。だがその直前の、4.014にある2人の若者、2頭の馬、2つの百合といった例は、大体
  このような文章をリアリティーを持って考えるなら、いわゆる”魂が、一致している”というようなことを
  謂わんとしている以外に捕らえようが無いのであって、それを真面目に受け取らずいい加減に考えすぎてい
  ることから来る読み方なのである。 
  ウィトゲンシュタインの”内的関係”とは、まず命題の「つながり」「脈絡」「配列」 に関する事だが、
  それは同様に、人間の命題を扱う時の、生活の関係、人間の身体の基本的仕組み、「相」との連関性、様々の
  ”暗黙の協定”も含んだ関係であるゆえ、それは殆んど人間の営みそのもの、いってみれば、魂といったもの
  と同じにならざるを得ないというべき”つながり”でもあるということを、ここで併記していると、考えなけ
  ればならない。もちろん、魂などという言葉、は全く時代遅れに思われているみたいな状況で発言してこそ、
  効果のある言葉で、安易に使うと甚だ害のある言葉(正に言葉の限界そのものをいう妙な言葉)であるのは
  、忘れてはならないが。(それは論考的な「世界」の限界の於いて、まさに成立するもの)(2006/2/16ほぼここまで)

  先に引用した「・・我々がそれを想像することにおいて、命題は実在のモデルである。」(4.01)のように、私
  たちが、想像の及ぶ範囲で切り取られた自分の生活の様々なある部位、局面(先の14-2 L8でいきなり”生
  活局面(相)”という変わった言葉で説明したが・・)において、その私たちの生活に備わる「内的関係」が
  様々な現われ方、様々な断面の形、様々な形式「・・論理的形式は無数にある。without number」(4.128)とな
  る。
  ここで単純な「1対1対応」に必要以上に囚われると、一般にどうしても固まった見方になる。だから、論理
  (的形式)において、ウィトゲンシュタインが、一方で強調している「事物thingsにはアプリオリな秩序ord
  erがない」(5.634)という系統の発言がちゃんと理解できなくなるのである。というのは、記述の形式とは
  、根幹の多様性の関係さえみたせば、本来 全く、無数に各々作りうるからである。

  「・・私たちの見る全ては、別の何事かであってもよかった。私たちの記述しうる全ては、全然別の何事か
    であってもよかった。」(5.634)
    ・こういう箇所を見ても、『論考』の思想を”決定論”などという古い哲学用語で、頭から説明しようとするのは的外れになるのは当然のこと。そもそも、批判する
     にしても、作者の考え方の道筋を、辿れている自信があるのだろうか?それ無しに、こんな用語を使えばますます何も見えなくなってしまうのでないか。

  世界の記述の直接の仕様(何事かwhatever)は、変わるものである。論理的形式は”あること”を、前提に
  しているので(5.552)、”ない”もの、別の論理的形式にあって、こちらにないという場合は、そもそも扱
  えない(5.61)。だから、簡単に、言ってしまえば世界記述の限界(在る無いの境界)は、”固定した”境
  界では全くない。そういう元々定まった記述の仕様の(・・多分、特に価値の体系の)秩序orderはない。

    ついでに言うと、『哲学探究』第1部97において、言語の本質、命題、後、推論、真理、経験、等・・諸概念間に成り立つ”秩序”Ordnungは、錯覚で”超秩序”であると
     書かれている。これは、『論考』の体系を自己批判する箇所のように、解されがちだが、5.634の言い換えでもあることに注意(原文には5.5563の指示があるが)。違
     いは、『論考』の体系にしても、概念の理想化・・結局、”概念への価値の付与”を完全に脱している訳でないという話と考えていいと思う。そのムードを壊すために
     、”低俗な用法”を常に忘れない必要性の指摘・・。(この注のみ2006/2/23)

  『論考』では、実は、極めて重要な論理的形式の問題が余り目立たないように、むしろ、物理的存在や、物
  的対象、それに関わる規則が、強調されるように書かれているので(後でも挙げる事情により)、核心がさ
  っぱり掴めないものになりがちなのだ。 そんなわけで、4.01以下の奇妙な箇所は、その隠れた問題がある
  ことを教えてくれる、そして論考の核心へ直結する一番の”鍵”といえるもの。

  このような風に考えれば、少々性急で荒っぽい書き方であっても、論理的形式のある曖昧 the shifting u
  seなような問題(→4.123参照)の重要な輪郭が浮かび上がってくると思うが(人間の魂の類似、遷移、解
  釈の揺らぎ、継承のような”内的関係”の曖昧さ?・・)、さらに論理は、ある”完全な確実性”を確保しな
  くてはならないものなわけだから、このことに関連する、前にも強調しておいた”論理を共有する”という
  厄介な問題(そして、形式の自己完結性・決定/形式の重ね合わせ比較・・間違いの成立)も、出来るだけ
  簡単にして、ちょっと整理したものを、以下付記しておく。(2006/2/19ほぼここまで)

    ”曖昧さ”も、非常に害のあるものなのである。とはいえ、何かある強く”偏った現象”があるとき、われわれがそのようなことを言いたくなるのは、人
    間の普通の反応な訳で、問題は、数学的確実性といわれるものや、物理的観測といったものの関係を、  
  
  




    (以上、幾つかの注解など書き足す予定。そして、書き損じ部分など、調整中 2006/2/23) 





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