※『小林秀雄のモオツァルト』について:J     

◆ J はじめに  ◆

                                       


【J・@】

  

  漠然とした予感のようなものにせよ、私たちは、自分たちに身近な文章や論述の様々なものに慣れると、   
  「ああ この文章の大体の主張は、そもそも、ここから来ている・・・・」とか、「ここは、こういうふうに
   ”入れ替えられているだけ”」とか「これは、”部分的なもの”を、取ってきただけ・・・」とか「ここ
   は、単に”反対のこと”を言っているだけ・・・」とかに案外、敏感に気付くのではないか。

  こういった”ある個人の言語”と、多くの人々の作り出す、その時点で、共通の特徴も見い出せる”社会
  的言語”というようなもの、その関係は、単純な人数分の加算した関係や、”宣伝”の量的伝播とは、言
  えない、ある入り組んだ”共有関係”を持っていることが、むしろ、根底的ではなかろうか?

  そうした捉え方から読み取れるものだけから、判断していくことを、”あやふや”であるというのは、もちろ
  ん何でもないことである。しかし、今日キケンなのは、広く大量に”流通”しているような”権威付けら
  れた”言説の、もっともらしい”装い”に負けて、その話から明らかに感ずる”鈍感さ”、明らかに見落
  とされている、予感にも似た”私たちを、満足させない”感じへの、注意を捨て去ってしまわないように
  しなければならないのである。

  例えば、 1950年くらいから、1975年前後の、日本語で、出版、放送されたような文章や発言において、
  ”小林秀雄のモオツァルト風”と呼べるようなものを、説得的に、並べ挙げ、各々適当に系統付け
  て、現実に大変多くのものを、見つけていくことは、不可能でもないだろうと思われる。

  「・・・、それは、又、無心の力によって支えられた巨きな不安のようにも見える。彼は、時間というもの
    の謎の中心で身体の平均を保つ。謎は解いてはいけないし、解けるものは謎ではない。自然は、彼の
    膚に触れるほど近く、傍らにあるが、何事も語りはしない。黙契は既に成立っている、自然は、自分
    の自在な夢の確実な揺籃たる事を止めない、と。自然とは何者か。何者かというものではない。友は
    、ただ在るがままに在るだけではないのか。彼の音楽は、その驚くほどの直かな証明である。 ・・・」
   モオツァルト・無常ということ”新潮社文庫p57よりーまた、以後の付記するページ数は便宜上この本のもの
       /--なお発表は1946年12月雑誌『創元』第1号とのことらしい。

  上の引用は、『モオツァルト』の最後の作曲者の死の様子を、”芝居”ふうに描出して終わる部分の直前
  この50ページ位の論考の、ほぼ「結論」といってもよいような部分だが、(これは、小林氏---以下、このHP
  の他の部分と同様に敬称は略させていただきます--の言い方の細部に惑わされなければ、普通にそう考えられるだろう。そして
  、”輪廻”や”過ぎて行くもの”という話が、3行ほど挟まる。)実際、この『小林秀雄のモオツァルト』
  という文章の、”魅力といえるようなもの”と難点が、そのまま見えているところでもある。

  小林のこういう、一般にそんなに長くない「批評文」は、いくつも国の教育制度にまで、利用されて、
  広く流布し(公けの機能の一部)、当然のように、”公け”に取り上げられる文章の”ある典型”になっ
  ていたというのは、周知のことともいえるだろう。

  一方、1974年に、雑誌で発表されたという高橋悠治氏(同様に以下敬称略)の”小林秀雄「モオツァルト」
  読書ノート”(ユリイカ1974,10)は、小林のものほど、広く多くの人々に読まれたとはいえないにせよ、
  モーツアルトやベートーヴェンといった音楽に関心のある人などが、目にすれば、非常に強い印象を与えた
  に違いの無いもの。

  「・・・この本は、いやらしいゴシップに、いやらしい文章で袖を引き、わかりきった通説のもったいぶった
    説教のあげくに、予想通り、反近代的に改造されたモーツアルト像を現す・・・」

     (「音楽のおしえ」晶文社刊、”小林秀雄「モオツァルト」読書ノート”p126)
                             (ここまで2005/9/30書く) 

  小林の先に引用した文章においても、”巨きな不安””時間””謎””自然”といった一般に用法が多面
  的な、どのようにも使われる単語でもって、次々大風呂敷を広げていくような調子で、たたみかけている
  訳だが、これは、こういう結論的、総まとめ的部分に留まらず、小林の「モオツァルト」の文章全編にわ
  たって、頻出する。”精神生理学的奇跡”(P15)”自分の作品の審美学上の大問題”(P20)音楽史的意
  味を剥奪された巨大な音(P11)・・・何にでも「大」を付けたがるような傾向。etc

  そのうえに、「モーツアルトという馬鹿者」(P27)「完璧な作品」「天才」といった極端な上下する評価表現
  、また、気絶 悲しさ、侮蔑嘲笑(P30)ふざけて無作法な態度など、極端な感情表現が折り重なったりし
  ているので、このような文章の書き方だけでも、1960年代以後の雰囲気を考えれば、強い抵抗感を、感じる
  人がいそうなことは(いやらしい文章・・・)もちろん想像できる。

  とはいえ、11章のこの短い文の内容を、簡単にでも、整理して全体を見渡してみると、単なる”ゴシップ”
  的伝記のつなぎ合わせでなく、むしろ、他に類例のないような格好で、興味深い問題を扱おうとしているこ
  とが、もっとみえてくる。

  1、ゲーテの受け取り方。  ベートーヴェン、ニーチェらとの比較関係。

  2、大阪で”頭の中で鳴った”モーツアルトの音楽。
    (いわゆる”出会い体験”の自らの経験談。)その時思ったこと。

  3、モーツアルトの創作の過程を書いた手紙と、”子供らしさ””天才”
  
  4、ロマン主義以降の音楽の”言葉”の介在による”自壊作用”。また、個性、主観など・・

  5、美と沈黙。・・・「群がる思想や感情や心理の干渉」でや「様式」に”風穴が開けられ”
    「音を正当に語るものは音しかない」という「真理」が、「人々を立ち止まらせ」ない現状。

  6、モーツアルトの「努力」とは

  7、モーツアルトの「肖像」について。ランゲとロダン作のものなど。

  8、スタンダールとの比較。”若年の頃からの1つの技術を強制され、意識の最重要部
    が、その裏に形成されるという・・ようなことが欠けた「モーツアルト」??(p33参照)

  9、モーツアルトの母親の死んだことに関する手紙から、
    また、モーツアルトの”悲しみ”と”孤独”

  10,モーツアルトの「歌」
    ・ハイドンとの比較。
    ・「短い主題について」
    ・モーツアルトの歌劇について、・・劇的でなく本質は器楽的etc
    ・モーツアルトの歌・・”長い主題は観念の産物”(p41)であるのに対して、
              モーツアルトの場合は、「肉声」。「リアリスト」

  11,・モーツアルトの多様性。音楽史の中の位置?
    ・モーツアルトの即興性と”環境”との関係。
    ・ベートーヴェンとの違い。”カタルシス”の無さ。
    ・モーツアルトの「神」「音楽という霊」「死」(・・・”彼は神でない”)
    &「レクイエム」の有名なエピソードの光景の描写。

                 (ここまで2005/10/3) 

  ひとまず、ここで全体を見渡す材料にすぎないので、便宜的に各々の章の中の代表的な話題を、まと
  めてみただけであり、もちろん、人によっては、その章で重要に思うことが抜けているとも考えたり
  するに違いないが、これでも一応、各々思い出してもらおう参考程度ぐらいには、なるだろう。
     


  
     

  

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