【 ツァラトウストラとゾロアスターについてのメモ 】       
  

    【2】


                     ◇◇◇◇    ◇◇◇◇



  まず、それは、前の『善悪の彼岸』の内容説明をしたところ(index.XX.HTM/など参照)にも書いたような、ニーチェの時                 
  代にも、そして根本的には今日も、中心的といえるような『利他的道徳』や『民主主義』的な概念、と関係した「善悪」
  「道徳」「正義」の考え方に対する攻撃であり、それは、同じ様な主張が『ツァラトウストラ』においても少し表現を変えた
  格好になっている。

  ひとつは、新約の有名な文句『汝の隣人を愛せよ』に対する反論で、「隣人を避けよ、遠いところの人を愛せよ。と勧める」
  などといったりしている。     (第1部・隣人愛 より)

  こういうことも、別にニーチェの気まぐれな思いつきでもなくて、(ニーチェは、むしろ全般にそのように思わせようとも
  しているが)意識的な近代哲学のコギトに無意識を含ませたような”評価”の発想(index.XX.HTM/参照・・・)をもとにして
  いて、「我」が未発達だから、古い”隣人”の考えが出てきていると、捉えていて、私は「友人」を教えようと言う。

  「君は、怖れて君の隣人に走るのだ。君たちは自分自身に充分耐えられない・・」「隣人愛よりも、・・・・事業と目に見えぬ幻影
  (前文⇒未来に出現するものへの愛)への愛・・・」ということになるのだが、このことは、その直ぐ前の章にある、
  「評価は、創造である。評価そのものが、評価を受ける一切の事物の要であり、・・・評価することによって始めて価値が生ま
   れる・・」「”人間Der Mensch”、すなわち”評価するものDer Messende”というのである。」「始めは、様々な民族が、
   創造者であった。後にはじめて個人が、創造者となった。個人そのものが最近の所産なのだ」「善と悪とは、その事業の
   名である・・」というところから、考える必要がある。

  新たな価値を作る(事業)ための協力者としての友人が、単なる土着的な隣人関係を超えたものということになる。ここから
  ニーチェの今日見ても徹底したカンジの独自の国家観もすぐ関係して見えてくる。すなわち、人間の評価にならぬ、
    ”隣人の集積的なものとしての国家”

  「どんなに国家が、多すぎる人間を誘い寄せているかを。」「善いものも、悪いものたちも、すべての人間が毒を飲むところ、
   全ての者が、自分を失うところ、万人の散漫な自殺が、・・それが国家だ。」

   また、そしてそこから、吐き出される「彼らの胆汁を、新聞と呼んでいる。」という訳で、同じものの排出物として、捉え
      られている。さらに、

  「国家が終結するとき、はじめて、余計者でない、真の人間が始まる・・・」とまで、言及するのであって(以上1部 新しい偶像より)
  今、私たちが見ても、如何に、普通の”善悪観”と、対比的な独自の”善悪観”みたいなものを、こういった話でニーチェが
  打ち出しているか明白に判る。

  今日の、極めて複雑な”国家”なるものが、ある意味、簡単な※上のような議論で、割り切れるか?とは、多くの人が思う
  だろうし、また、現代の社会の持つ、その複雑さ、人間と人間の近づけないような遠さ、無数の分割的な距離感が、現代の社
  会の大量の生産や、また、ある種の組織的安定性とに、深く関わってきたのは本当だが、ニーチェのような話のある”簡単さ
  ”は、むしろ、人間にとっての根幹的といえることからくる故の、もっともなもの を、持つと考えた方がいい。
     (逆に如何に職業的学者が目の前にある姿を、見ようせずに、無駄な資料を積み上げる強い”習性”を持つのかは、そろそろ
      皆に理解されて良いことでもある。また、今日の”技術”の段階が、この複雑さ-距離感の状況に逆転的な過渡の様相を、与
      える下地を準備しつつありそうだ、ということも付け足しておいてよさそう。)

      ※ この”簡単”に見えるというのが、曲者で、実は非常に工夫された言い方、故の簡単な論法なのだが→『善悪の彼岸』より参照

  『ツァラトウストラ・1部 新しい偶像』辺りでは、こういった国家に関する議論が、こんなふうに展開されているのだけれ
  ど、私などが、もうちょっと敢えて、勝手に、そこへ補うような話をしておくとすれば・・・

  いまだかって、人間の社会において、土着的な秩序に対して、”完全に独立的な価値による秩序”でもって成立しえた社会は
  存在しない。すなわち、土着的な寄せ集められた秩序の持ちうる、”暴力機構”による"強制"抜きで、成立し得た社会は、全
  く存在しなかった、ということ。

   ◇ ”完全に独立的な価値による秩序”などといったもの。それは、言語や表現だけから中心的に価値判断される世界、と一応言っておく。

  表面上いろいろな姿をとるとはいえ、いかに”上出来な方”の国家であり、それが洗練された教養や知識によって、成り立っ
  ているかのように見えたとしても、そういった教養や知識は、”暴力機構” による強制を発揮できる土着的な秩序と、何ら
  かの形で(薄められるかなどして?)折り合いをつけ得ることを、必ず中心に置いておかねばならない。

  一見、それが無さそうな”経済””文化機構”みたいなものによっている社会も、また、一見、土地にとらわれない流動的な
  動きをする遊牧民ももちろん、そういった”暴力機構”による強制をもつ社会の変形であり、少なくともそう言った社会との
  つながりで不可避に成立したものになる。そして、その「土着的な秩序のもつ、”暴力機構”による強制」は、決して社会全
  体の”価値観”に、無関心でいてくれる訳でなく、このことは”土着的な秩序”の持つ価値を、根本的に優位なものとして、
  色々に姿を変えて、必ず押しつけてくるのである。そして、それは逆に、”文化”による支配の意図は必ず混乱によって、終
  わってしまったということであり、それは、秩序を維持する力を持たなかった、ということと裏腹と見た方がよい。(こうい
  った観点自体が、実は、非常にシュペングラー的なものであることは、注意してもらいたい。)本来、
  どんな優れた芸術も、「王のような素振りをするようなことは、許されない」もしくは、なかった、といったようなこと。
         <Dmitri Schostakovisch>
  王を、装飾するものにはなれても、真剣に脅かすような態度には、色々な形で、常に警告や妨害が発せられる。だから、
  ショスターコビッチのオペラ作品が、『プラウダ』紙上で批判されるというようなことも、別によく言われるような、共産主義体
  制の悲劇的出来事ではなく、むしろ、これまでのどんな社会でもある、最もありふれたことの、一つの現れ方に過ぎない。

  こういった文化・教養の必ずあるような問題、分裂、対立というものが、結局ニーチェのいうところの「国家」というものに
  おびき寄せられている人々の「教養」(そして、それは「窃盗」という格好のものだともいわれている)の「彼らの病気とな
  り、災いになる」という問題にもなる。

  しかも、その文化・教養のこういった病気は、しばしば”教養ある人々”が、考えがちなような、「実際問題としてしかたの
  ないこと」、「妥協的に解決しなければならないこと」、「病気は、病気だが、飼い慣らしていかねばならぬもの」とは、ニ
  ーチェは、決して考えていないことが大事で、ニーチェの描出は、この「病気」が、決して言いなりにならない怪獣のような
  熱病であり、しかも「死の意志」を示しているものだとする。(この本の、こういった箇所は、後の歴史の展開を思い浮かべ
  ても、興味深いものがあるだろう。)

  ビスマルク時代の「国家」であっても、「国家」というものは、やはり、それなりの必要性が、あったのだから人々が、集ま
  ったのだろう、というようなことは、ニーチェのハンマーを振り回すような口調でない、”冷静な言い方”を、すれば言って
  も良さそうだとは、思う。

  そんなニーチェの国家に関する極端な非難の言い方は、当時も今もある、「国家崇拝」のありふれた気分を、打ち砕くための
  激しさゆえだと理解した方がいいかもしれない。

  しかし 文化・教養のこういった「病気」が、決して言いなりにならないもので、妥協的に対処出来ないというような主張は
  、単に誇張された激しさ、とは云えない。というのも、かって、こういった「病気」を示している様々な歴史において、それ
  は明らかに一定の方向性を見せるし、また本質的に、これまでの「国家」においての分裂した価値をつなぐのは、その必然性
  が全くなく、偶然的なもの、のみだというのは、明かであるように思えるから。それは、本質的には妥協できる根拠を、持た
  ない。結局のところ、この「病気」は、病気である限り、決して飼い慣らせない・・・・etc

  ニーチェは、「国家」と「民族」を区別していて、民族は、「善と悪について自分自身の言葉を語る」ということで、虚言と
  はいえないが、国家は、「善と悪について、あらゆる言葉で嘘をつく。・・・善と悪についての言葉の混乱が、国家の目印」と
  いう。このことは、人為的な操作の弱い「民族」の方は、個人の言語の上でも自然に関連できるのに対して、集団、組織が、
  操作しようとする「国家」の方の言語は、全く不自然で、根本的に混乱したものだ、というような考えとも、言ってよさそう
  である。(一応、ここの”自然”とは、われわれが見るもの全てからつながる”無理の無さ”のカンジ・・・)

  こういった「国家」というものに対する、非常に批判的な言い方と共に、「国家」というものを目指して、集い、相争う人々
  の姿も、「よじ登る猿ども」として、この章で、描く訳だから、いわゆる「権力の意志を説く思想家ニーチェ」を期待する、
  お決まりのコースで”出世”したがる類の人々は、多分ガッカリしてしまうだろう。

  だから、ニーチェが一方で、「戦争や闘争は、悪だというのか。だが、この悪は、必然のものだ。あなた自身の様々な”徳”
  は、それ同志で、嫉妬、不信、誹謗し合う、・・・・その徳の一つ一つが、最高の位置を目指している・・・それは、あなたの全力
  量を、要求する。・・・」(1部:喜悦と情熱)と書いたり、「戦争と勇気は、隣人愛がしたよりも、数多くの偉大な事柄をし
  てきた」(1部:戦争と戦士)と書くにせよ、それが、認識の戦士などと言ったり、兵卒でなく戦士と言ったり、制服が、そ
  れを着る人間の単一へ・・と、(以上、同じ章にある表現・・・)などとするのと、同様 先の国家観と合わせて理解すれば、お
  よそ現代で、実際に戦争へ導きたがる人々と、相容れぬ考えであることは明瞭に思える。

    ニーチェにおいては、何より、各々の”評価する人間”が、先だって重要なのであり、不自然な人為的言語体系から、物事を
    見ないということは、中心的なことになる。いろいろよく似たものを比較したり、違いや軽重を考えてみる”評価する”目の
    ようなもの。こういったことは、シュペングラーにも、アドルノの議論にも、あることなのだが、ハイデッガーなどになると、
    存在だの時間だのという、もともと、非常に多様な使い方があり、またその指しているものが特に漠然とした、重々しいだけ
    の言葉に依る体系が、先走りして見る目を、全く曇らせてしまう。こういう傾向は、より集団的見方に流されたり、また 国
    家的犯罪に近しいものとはいえる。         (ここまで、2003/9/26)


    【3】


                     ◇◇◇◇------------------◇◇◇◇

  さて、ニーチェの考えが、「隣人愛」を批判したり、「犯罪者」すら、単純に”悪”と考えなかったり、「戦争」も、人間の
  徳(美質)の相互関係そのものにあると考えたり、「国家」を無い方が良いようなもの、とまで言ってみたりすること、など
  から「通常の人々の道徳」に対して、単にそれを否定的に反発しているだけの険しい考え、みたいな印象を持たれるといけな
  いので 、一方で我々の”愉しみ”は、それなりに十分味わっておくべきだというところは、西洋思想の大部分に比較しても
  もっと持っていることも、同様に、強調しておかねばならない。

   ここまで、そしてこれからも、引用する『ツァラトウストラ』の各部分は、手に入れるのは簡単だと思いますので、是非、文庫本や
   その他の一般的な翻訳書で、チェックしてみてください。そして、引用した文章辺りを読んでもらって、ここに書いたことが無理な
   読み方、関連付けでないかどうか一緒に、考えていただければ嬉しいです。

  「世界は、多くの汚物を生産する。そこまでは、本当である。しかし、だからといって
     世界そのものは、けっして、巨大な汚物であることにはならないのだ。」   (3部・新旧の表について。14より)

  また、その前の章(13)で、「一切は、虚しい・・・」という古めかしいおしゃべりが、古めかしさゆえに「知恵」みたいに
  一般に思われていることに対して、
  
  「そういうものたちは、食卓にはついているのに、何も持ってこないし、十分な食欲も持参しないで、あげくに”すべて
   虚しい”と悪口をいう。・・・しかし、上手く食べ飲むというのは、決して虚しい技術でない。そういう愉しまない人々
   の古い表は、打ち砕かねばならない。」

  と書く。今日、これから何かをやらなければならない時には、そういった閉塞的な昔からの説教の、そのパターンは、確かに
  ふさわしくはない。

  「地上には、うまい発明がいくつもある。そのあるものは、有益、あるものは、快適である。そういうものがあるから、
   地上は愛すべきものになる。・・・・」(3部・新旧の表について。17より)と書いて、その類のイメージのものを述べるが、
   次の類ことも、そういううまい発明品に含めて考えるのは悪くないと思う。

  「(ツァラトウストラの側に仕えている動物である)鷲と蛇は言った。”外に出なさい。そこでは、世界が一つの花園のように
   あなたを待つ。・・バラと蜜蜂と鳩の群のところに行くがいい。とくに、歌う鳥のもとへ。語るのでなく、あなたが歌うことを
   学ぶために。というのは、歌うのは癒やすためにいいことだから。”」 (三部・快癒しつつあるひと。2より)


   ”いやす”というのも、一方で「人間たちの住む大地は、洞穴になり、・・・すべての生あるものは、・・・過去の腐った残骸に」
   のような状況があるからなのだが、(三部・快癒しつつあるひと2。後半)そうなってしまっていることは、以下のことと関
   係させて考えられる。

   「・・私は、すべての事物から何も欲しないということを、すべての事物に対する”純粋な認識”と呼ぶ。・・」(2部・無垢な認識)

    そして、そのちょっと前の文でも「生を欲念なしに、・・・観照すること・・」が、その”純粋な認識”のしようとすることだと、
    書いている。また、

   「学者たちは、冷ややかな日陰に座って・・ただ観照者であろうとする。」(2部・学者)

  なのであるから、その”純粋な認識”の方法というのは、この(大体の)学者たちのやり方とも、関連したものでもあるし、さらに、
  この引用の直ぐ後の(2部・救済)において”意志”というものに関しての議論では、

   「時間と”かってこうであった”ということに対して抱く、意志の敵意のみが、”復讐”の本来の姿である」と書いている。

  先にも書いたように、復讐とは、自分で価値判断しない人が反動的な行動をしたがることといえるのだが、この辺りのかなり煩雑な
  記述を、出来るだけ簡単にして考えてみると、かってあったことは、もう変わらないものなのに、生きている人間は、その時々によ
  って変わるもので、また、いつの時代も人間は各々苦悩して生きていることは変わらない。それで、(かって、に基準を置いて)か
  ってと違ってることに、苦悩の責任をみてしまう。そうすると、生きる意志自身を否定してしまうことになり易い、というようなこ
  と。すなわち、

   「いかなる行為も抹殺できない。・・・生存という罰の永遠性とは、こうである。・・・この循環を断ち切る道はただ1つである。
    すなわち、・・・意欲が意欲せぬ、に変わること。」(2部・救済)

  というようなことであるので、この”意欲せぬ”という根本的なことから、”観照者であろうとすること”と”純粋な認識”と”学
  者たち”のやり方は、連続したものであるし、『ツァラトウストラ』全体の”ストーリー”を、ご存知の方だと、もうお判りのよう
  に、これは、第四部の釣り上げられた9人の高人のなかの自称”知的良心を持つもの”に対応するのである。
                  <Richard Wagner>
  そして、この蛭に腕から血を与えている”知的良心を持つもの”は、9人の中でも特に、重要な存在であるといってよい。実際、ニ
  ーチェが”ライバル視”しているみたいなワグナーに相応する9人の中のもう1人”魔術師”が、この本の終盤で、竪琴を取り、

    「大気に光は薄れ、・・・お前の渇望を。神や子羊を引き裂いて笑いたいだけだ。・・・一切の真理から追放されたいという願いを。
             お前は、道化にすぎぬ、詩人にすぎぬ。」  (4部・憂愁の歌)

  という、ツァラトウストラへの批判を込めた憂鬱な調子の歌を、歌う。これに対して、”知的良心を持つもの”は1人「良い空気を
  入れろ!老いた悪い魔術師め。ここをうっとうしい毒でみたす。お前のようなものが真理についてしゃべるとは。」というように、
  この魔術のような主張は淫らだといい、恐怖から守るもの、正確な知識が大事だと説く。(4部・科学について)
  そこにやってきたツァラトウストラは、その”知的良心を持つもの”の主張も認めないが、元来、彼は ある程度、対立する両者の
  中間ともいえる立場ともいえる。とはいえ、そこから話は、普通の弁証法みたいな綜合的な展開にならず、「影」=ニーチェの薄ぺ
  らな亜流者、という人物の歌う”砂漠は育つ”という、単に荒廃を享受する、無気力なぬるま湯の永遠性(悪い意味での永劫回帰)
  の中に、先の2人の高人たちの対立も、消え去っていく。そして、続く、愚かさを競い合う、大衆的な”ロバ祭り””ロバ崇拝”の
  中に、皆 同じていく流れになる・・・。
  index.XX.HTM/参照)


  確かに”知的良心を持つもの”は、魔術師の(真実を隠し、心理的効果だけを操ろうとする・・・というような堕落した芸術の立場な
  どを代表する)を、「悪い空気だ」といって批判するが、両者は、独立した専門的知識の優位の強い傾き、という面では、よく似て
  いて、むしろ裏腹関係みたいなものだから、先の『ツァラトウストラ』のストーリーの結末に至る流れからも、”知的良心を持つも
  の”自体も、悪い空気かもすもの、とほぼ同類の位置づけなのではある。(”違った人種”と本人が語るにせよ)


    さて、ここまで、ニーチェの『ツァラトウストラ』の議論に沿う格好で、多少引っ張って説明を試みてきたのだが、読んでくれてい
    る人の中には、”意志”だとかなんとか、ある種 概念的な議論が続いて、不満を感じる人もいるだろうけども、今の この文章
    は、まずニーチェの言っている重要な論点を何とか一旦整理してみようということにある。また、このあとに、古代の宗教家ゾロ
    アスターの教説らしきものからニーチェ思想の類似部分を論ずるときなどに、補うような話もするつもり。そして、単純にここで
    整理した概念だけで考えず、『ツァラトウストラ』の文章のシーンの、いろいろのイメージやまた前に書いた『善悪の彼岸』の描
    出などを、常に関連させて、思い出して考えてもらうことが、大事で、そうすれば指しているものごと、ニーチェの考える、ある
    精神の仕組みの発想は、言葉の上でのことでなく、より直接的に見えてくるはず・・・etc
  
  こういうことなので、「悪い空気」を、作り出すようなものたちに、”観照者たち”、”純粋な認識”をする人たち、そして、”学者”
  も、属し、また(4部・科学について)というタイトルにもある”科学”も、こういった考え方では深く関係することになる訳で、そ
  れがこの【3】の始め近くで引用した「世界は、多くの汚物を生産する。」という現実にもなる。

  今日は賤民の時代だといい、また、そういう"意志を意欲せぬ”という立場が、結局「生は、愉悦の泉だ。だが、どんな泉も、賤しい
  人が来て口をつけると、毒に汚されてしまう。」(2部・いやしい民)というふうに、ニーチェにおいて否定的に扱われるのだけれど、
  そういった議論には、当然、疑問が抱かれるだろう。

  もちろん、そういった”純粋な認識”みたいなものは、中立的なものでないのか?というのはたとえつまらない意見であり、そういう
  思考がたとえ汚れた毒になるにせよ、少なくとも、例えば、このHPの、こういった文章が 読者の目に触れうるのも、機械技術の発達
  のおかげであるとも、いえる訳だし、こういったニーチェの本が、手軽に読め、ある部分、それなりの信頼を持てるような資料として、
  われわれが身近に、手に入れられること自体、そういう専門の人々のやり方、のおかげであるというのも、もちろん、れっきとした現
  実に違いない。それで、次に幾らかスペースをとって、こういったことに関して、しばらくいろいろ考えてみる必要がある。



  ちょっと今までの【3】以降で、取り上げたニーチェの議論を、もう1度振り返り、まとめ直してみると、

  ”・・・世界は、本来 味わい方が良ければ、素晴らしいものになりうるのに、特に、真理を隠そうとする魔術師のように情緒をあおる
    トリックを駆使する芸術家たちと、学問をするのに"感情"を省いて("意志を意欲せぬ”、”純粋な認識”、”科学”)行える、
    行おうとする人々のおかげで、非常に毒されている・・・”

  などというようなものが、ニーチェの考えそのものであると言ってしまうのは、余りに乱暴であるにせよ(何故なら、こういう表現を
  した場合、例えば 単純にこういう類の人たちが、いなければ世界は、全て良くなる・・・などという甚だしい誤りの解釈も出やすいだ
  ろうからetc)、こんな表現でも非常にややこしい言い方をしているニーチェの話から、大きな流れを、見失わないためには、役には
  立つ。(人間の理解、ということを考えたとき、話の大きな流れ、ということはとても大事になる)

  実際、今日の風潮は、こんな書物ですら、バラバラの”実証的理解”などをして、何の問題も感じないでいるというような具合のもの
  なのである。とくに、私たちの暮らしている、この国を考えた場合、教育云々などという以前に、『学問が退廃している』といったよ
  うなことは、どうしても言いたくなってくる。確かに、人々が全く不正確なことばかりを言い、甘ったるい架空の説教ばかり、に耳を
  傾けるようになれば、必ず学問は退廃するが、目先の生活ばかりを追い、職業的学者が、どうでもいいことばかり選んで、表面的な正
  確さを誇示するようになっても、しようもなく学問は退廃するのである。昔は、学者が、金にならないことを誇る気風があったのに、
  実際、今日の日本ほど、レベルの高い人々の間ですら、”食って行ける学問”みたいなことを無批判に、当然として肯定される社会は
  多分マレのように思われる。

  ただこういった状況も、ある過渡的なものと考えることもできる。過渡的なもの、誤解、や混乱も、ある必要性をもって考えるという
  のも、『ツァラトウストラ』の独特なニーチェ的書き方であり、注意しなければならないことになる。
  ”ロバ祭り””ロバ崇拝”を、ツァラトウストラが自分の考えであるとしている訳はないが、そこで、”最も醜いもの”が、ロバに酒
  を飲ませている姿にある崇高さを、認めるということもある。小さな馬鹿騒ぎ、宗教めいたもの、通俗化されたツァラトウストラなど
  は、ツァラトウストラそのものでなく、本来 否定的なものだが”快癒しつつあるもの”の徴、または、ある過程の徴ですらあるのだ。
  (第4部・ロバ祭り 参照)

  この書の終盤に入るところに置かれた「科学について」(第4部)で、”知的良心を持つもの”は、魔術師に対して、それは不確しかな
  ものを、探しているのであり、それは非常に危険なもので、あなたがたの欲情には根ざしたものだが、”実在でない”という。
  そして、”内と外の野獣”に対する恐怖が、特に人間の基本感情で、それが長期にわたって、洗練、霊化、精神化されて、正確な知識
  になったのだと、それが根本的であることを強調する・・・というような”正確な知識”についての話をする。

  これに対して、同じ章でツァラトゥストラは、馬鹿げていると反論する。恐怖は、例外的感情というべきで、勇気こそが、人間の生活
  の元々全内容だったのであり、最も荒々しい勇気に富んだ動物から、その持つ徳の全てを奪い取り、自分のものとすることで人間にな
  ったのだ。この勇気が、洗練、霊化、精神化され、今日の鷲の翼と蛇の聡明をもつ人間の勇気が出現した(鷲と蛇はツァトウストラに
  使えている動物である)というふうに主張する。

  これは、「科学について」、それが一般に成り立っている感情とそれに対するニーチェの批判と、ほぼ受け取ることが出来る話しでは
  ある。ニーチェ自身の言い方ではないが、この部分を、私が少し敷衍しての説明を試みてみると・・・。”恐怖”から、様々な技術的な
  ものの由来を想像することは、説明にし易いだろうし、確実に保つべき物的なものという、発想につなげ易くもあるだろう。しかし、
  結局、消極的なものなのであって、そこしか目指さないということでもあるだろう。一方、人間において本当に美しいものは、充実し
  た楽しさを必ず各々の形で持つものなのであり、部分的な”恐怖”の感情より、もっと積極的な”勇気”の感情に近しいものになるだ
  ろう・・・こんな風に考えてみれば、ニーチェの説明の方向性を理解しやすくすると思う。

  だから、そのツァラトウストラの反論は、科学論としても面白いものと考えられるが、しかし、それにしても、この話が出てくる、戯
  曲的シチュエーションは、”知的良心を持つもの”に対する正面きっての反論というのでもないと思われる。洞窟で魔術師らに”知的
  良心を持つもの”が、語っているところに、途中から現れて、話の終わりだけ聞いて、バラの花を投げつけて反論するということであ
  るし、また、この議論の終わりがユーモアめいたものになるのも、こういう話題に対してのニーチェの決定的な反論(科学について)
  とも、されていないことを、想像させる。

  実際、ニーチェのこのようなツァラトウストラの説くところを読んで、余りにも、尊大であるとか、社会を構成する様々な労働を軽視
  しているとか、ニーチェは、正確な知識であるとかにもなる、社会の様々な技術を軽蔑するが、ニーチェ自身も、そもそも文章家とし
  ての、ある一ジャンルの個別的な高度の技術をもつものに過ぎないのでないか?などというような考えうる反論には十分答えられるほ
  どの議論の仕方でもなさそうである。


  そのような疑問に対して、【2】始めくらいにここで、書いておいた話題などを思い出したり、また、以前に『善悪の彼岸』など
  について書いたページの内容などから、私がひとまず、此処で簡単な総まとめ風に、ニーチェに代わって、答えておくとすれば、

  ”社会は、確かに様々な多数の人々の働きによって成り立っている。だからニーチェのも、あくまでひとつの見方に過ぎない。しかし、
  ニーチェの”価値を計る”という、人間の働きに注目する見方は、実は、人間にとっての在り方を、根本的に左右する見方なのであっ
  て、今日、全く多数の個別的労働を支える見方が、圧倒的であるのに比して、非常に弱い立場になりがちだが、実は、むしろ、根本的
  に重要なのであり、出来るだけ強調しておく必要がある・・・”というふうに表現しておいても、良いだろうと思う。(2003・10/25)


  また、”価値を計る”ということを、ニーチェ自身の書き方より、
  もっと”具体的に”あえて、ここで付け足して述べておくとすれば

  ・・・ニーチェも取り上げている、今まで多くの見識者といわれるような人々が問題にし、長い期間残ってきたソフォクレス、ホメロス、
  シェークスピアetcみたいな昔のものの系列、そこに連なるべきとワグナー、ショーペンハウアー、ドストエフスキー(ついでにいえ
  ば、1888年頃、ニーチェは『地下生活者の手記』を読んで感銘したらしい・・・) みたいな同時代的なもの、また、それらと比較して、
  時間にふるい落とされる欺瞞的な見せかけ芸術、また、もともと大衆向きなもの(「エバーグリーン」になりうるようなものも含んで
  いるだろう)というレベルの違いを、本当に自分のものとして、把握できることであり、そして、様々な芸能、建築、工芸etc・・・など
  いろいろなジャンルにおいても、ほぼ同様な区別が、出来ること。

  そして、そのような”価値を計る人々”に、対して、そのようなことが出来ない”価値を計れない人々”がいるが、もっと詳しく分け
  ると、価値体系が無いというより、土着的な権威体系に頭から従属している(勿論、殆んどが無自覚的に従属する)ので、高度な価値
  について主体的に自分のことばに出来ない社会の大部分の人々。そして、もう一種の人々は、そういう非主体的な人々を、自分の立場
  の利益から味方にするため、積極的な価値規定をしないことを前面に出そうとする☆”僧侶的評価形式”の人々。そして、こういう人
  々は、元々高度な価値について通じた人たちなのだが、なるたけゴマかした”復讐的表現形式”を採ろうとする人々として、独自に発
  達していく。

  そして、現代の社会の持つ最大の問題は、自ら”価値を計る”という人間の本来誰でも持てる原初的な営みが、人々の生活から、どん
  どん遠ざかり、そこに自ら関われば、歴として、その限界と確固とした必要性の解るものなのに、巨大化複雑化した社会が、それを一
  般の人々の殆んど理解できない領域のものに変える、という非常に強い傾向を有すということなのである。これは、決して、大袈裟な
  言い方でなく、又このことが人間において最も根源的なのは、明らかであり、特に、西欧のキリスト教的思考法の影響下にある一般的
  な倫理に対する表面的な型にはまった教条的な見方や、それと同一な裏腹である単なる無規律への志向は、根本的に、いわばネガであ
  る元が解りづらい”僧侶的評価形式”によってどんどん拡大して行く傾向にある。それがさらに、”科学”という衣装を着ると”絶対”
  という、非常に錯覚され易いものを帯びて、止め処なく進んで行こうとしている現状になるのである。これは大変困難な問題を生むし、
  それをわれわれは、を考えなければならないのに、多くの場合問題すら自覚されないということでもある。

  その場合、自ら ”価値を計る”という根源的な問題から、明らかになることを、徹底して強調し、場合によっては、対立するものを
  こき下ろす、ニーチェ的やり方も、決して誤りではないのである。多くの人々の様々な働きは、今日、重要なのは当り前のことで、ま
  た、それに関連する悪いイミでの作為的で、非常に不十分な科学の言語も、部分的には必要なのは当たり前のことであり、そういった
  現状を、考慮しないで、ここの問題を論じられない。
        ◎ こういうことを書くと、”欺瞞がないと、そもそも社会が成り立たない”などとか思い出す人もいるだろう(笑い)し、それ
          は、さておくとしても、また、誤解の無いよう、さらに付け足しておくすれば、上のような主張を、此処に書いたからといっ
          て、世の中 には、大変優秀な尊敬すべき人々が多数いらっしゃる、と私自身が個人的には、思っていることとは、まるで無
          関係のはなし、なのは当然である。



  ・・・以上のように、書いてみたことは、あくまで、話を解り易くする為に、私が少々敷衍して述べたもので、ニーチェがこんなにハッ
  キリ書いているわけでない(それは、それなりに理由がある)、これが強引な解説でもないことを示すために、以下の『ツァラトウス
  トラ』などからの、幾つかの引用を次に見ていただきたい。2003・10/29


    【4】


                     ◇◇◇◇------------------◇◇◇◇



   関連する部分を、すべて完全に取り上げていくわけでもないし、なるべく簡単な引用を、適宜に幾つか挙げるだけではあるが、

   まず


  a: 「生の一切は、趣味と味覚をめぐる争いなのだ」   (第2部・崇高なものたち)

   「趣味、それは、はかり皿であり、同時にオモリであり、はかり手である。
    オモリと はかり皿とはかり手たちについての、争い無しに生きようとするものは、救いがたい」(同上)

   こういう箇所を解釈するに、例えば、人は、それぞれ何を好もうが、何を考えようが勝手だという風に受け取ってはならない。
   もちろん、社会は、いろいろな趣味の人、好みの人がいるのは、素晴らしいことだが、かといって何でもいいというのは、
   虫が良すぎる。すなわち、批評される、批評する、という余地があるということにもなる。こういうところを解釈するヒ
   ントも、ある人間の思考の仕組みについて言及していると考えることである。


 b: 「どの民族も、まず評価ということを行わなければ生存することは出来ないだろう。」

   「あらゆる民族の上には、善についての各々の表が、掲げられている。見なさい。それは、その民族が克服してきたもの
    の表である。・・・隣同士の民族が、決して相手を理解することがなかった。・・・」


   「ある民族が、困難だとみなしているもの。それは、その民族にとって讃えるべきものなのである。不可欠であり、
    獲得するに困難なもの、それが善と呼ばれる。」        (以上、第1部・千の目標と1つの目標)

       個々人という水準で考えても、(各々の”魂”というようなものに対して)”外的”な基準では測ることの出来ないものだが、
   個人の違いの場合は、ある人は、価値評価を他人任せにする場合もある。しかし、民族の違いにおいては、評価というものを
   外のものに任せられないのは当然だから、主体的な価値評価の問題が、よりはっきり出てくる。・・・というふうに考えるとこれ
   らの引用は、解り易すくなるだろう。(もちろん”民族”であって”国家”でないことにも注意:前述)

   そして、その価値というものの重大な特徴は、個々の民族で別々のものになってしまうということで、理解不能みたいになって
   しまうことが、ある。さらに、この価値または”善”とは、その民族にとってのぎりぎりの困難なところ=限界、にこそ出来る
   のであり、もっといえば、そもそも、そのなされる事柄というより、この困難さが伴わなければ、善の基準にならない、という
   問題を、ニーチェがここで述べているのであり、それは非常に注目すべきである。

 c: 「君たちは、ただ精神の火花を知っているだけだ。しかし、君たちは、精神の本体である鉄敷を見ない。また、精神の鉄槌
     の残酷さを見ない。」 (第2部・名高い賢者たち)

    「肉欲、我欲、支配欲、この3つは、今まで最も甚だしく呪われ、もっとも悪し様にそしられてきた。まちがったレッテル
     を、貼られたものである。この3つを、人間的に良いものであることを、私は示そうと思う。・・・」(第3部・3つの悪)

   実際、人間を生物としてみた場合、ここで言われてような要素のもの(欲)が、これまでの人間の言説に前提として、含まれて
   いないはずがないし、それは、火花として現れてくる人間の言説の、打ちつけるハンマーと土台のカナシキという問題を、今ま
   で十分見ようとしなかったということでもある。
   また、恐らく、こういう欲といったものを否定するのが、善を説くしゃべり方で、通例化したのは、あるレトリックのパターン
   が、なぜ起こるか、これまで説明しにくかったからだと、言うことも一つの解説になる、と私は思っている。(2003/11/03)

   同じく、この3つの欲を語っている(第3部・3つの悪2)では、これらの欲が、”湧き出す健康的なもの”なら、美しさや
   徳でもあるようなものだと言われ、またそれらを他者に及ぼそうとする”贈り与える徳”は、自然の”下降”であるとする。
   反対に、悪意の眼差しにも抵抗しないもの、余りに忍従的なもの、なんでも満足するものetcといった奴隷根性のものは、ま
   た、粗悪や、えせ知恵、といったものでもある。正し、こういうふうに欲を、肯定的に扱いはするものの、ニーチェは、一方
   で、こういうものを、扱う際の、陥りがちな危険もよく知っている。特に、肉欲といったものなど、それを安易に語るのは、
   一見、正直さのふりをして、実は、他者に対する自己の押し付けや、侵略的な緩んだものと、同様となってしまう。

     「肉欲。だが、私は、私の思想の周りに、また、私の言葉の周りに、垣根をめぐらそう。私の花園に豚と酔っぱらいが、
      侵入してこないように。」      (第3部・3つの悪2)

    こういうふうに書いてくると、こういった価値評価を巡ることの問題は、簡単なことのように見えてくるかもしれない
    が、上の引用部分だけでも、ちょっと真剣に組み合わせて考えてもらうと、如何にしばしば世間にある言説が、上で話
    題になっていることと強く関連した類のことを、説得の土台として話しているか透かし見えてくる。これらの比喩のイ
    メージは、一見、それが複雑に装飾されていても、”彼らの錯覚していそうな部分が、大体ここら辺りに潜んでいるの
    でないか?”と、私たちが、探る際の重大な手がかりになるのである。以下も、そういう感じで受け取ってもらいたい。   


 d: 「もちろん、賢明でない者、民衆は、無意識に流れる川にひとしい。だがその川に一そうの船が浮かんでいて、進路をと
     って行く。そして、その小舟の中には、覆面をした価値評価が、厳かに座っている。君たちは、君たちの意志と君らの
     立てた価値を、こうして生成の川の上に浮かべたのだ。民衆の善と悪として信じられているものは、こんなものであり
     そこに昔あったと同じ、力への意志がここに透けて見える。最高の賢者たちよ。君たちは、こういうふうに様々な価値
     判断を、客として、船に乗せる。華やかな装いと誇らしい名を与えたのは、君たちであり、君たちの支配意志だ。そう
     すると、川は、船を先へと運んで行く。(・・波が逆らったりしても、そんなことは大したことはない・・云々)最高の賢
     者の危険は、川から来るのでなく、その船に乗せた善悪の価値評価からの終末の危険であり、船に乗ったその意志その
     もの、から起こってくる。・・・」(第2部・自己超克)          (2003/11/04)

    ”民衆”や社会といったものは、”無意識”的な流れみたいなもので、決して、自ら、意識的に、賢明さを選び取っていく
    ものではないが、かといって、それは、自然現象、肉体的現象みたいなもので、あるイミ誤りもしない。この場合、嵐など
    が想定されているのでないから、その川で「船が沈没する」などというものは、乗っているものに原因があるのであり、こ
    の点では、川である”民衆”に責任があるというわけでもない。

    こういう「川の中の小舟」の比喩の話は、この(第2部・自己超克)の章のはじめの、最高の賢者たちの「真理への意志」
    というものについての議論に、すぐ続いて出てくる。ここでの「真理への意志」に関する議論とは、本稿の筆者が、前に
    『善悪の彼岸』の説明を書いた部分を、思い出してもらいたいけれど、ほぼ同じ発想で書かれている。
    「真理への意志」とは、「一切の存在者を、思考しうるものにしようとする意志、私は君たちの意志をそう呼ぶ。」であっ
    て、賢者たちは、そういったものが思考可能か、真剣に疑ってはいるものの、結局、「君たちの意志の欲するところは、
    一切の存在者が、君たちに適応し、服従するということだ。・・・精神の鏡として、映像として・・」だから、「真理への意志」
    とは、それが真理であるというよりも、賢者たちの「力への意志の一種なのだ。君たちが、善悪、種々の価値について語る
    ときも、そうなのだ。」という。

    だから、「小舟の上の覆面をかぶった価値評価、善悪」も、当然、それが本当に「真理」であるというより、最高の賢者たち
    が、何とか力ずくで、船の上に、もっともらしく仕立てて乗せ、上手く川の流れ浮かんで下って行くものにしたに過ぎない。
    本当に船を浮かべているものである、”無意識”の川の流れから、直接、苦労無く生じたものでない。だから、船の上の価
    値評価には、「冒険、危険、そして死を賭けての博打、これが最も大いなるものの献身である。」というものが、むしろ、
    根本的に反映しているのである。この(第2部・自己超克)の章は、「川の中の小舟」の比喩の話のあとに、命令は困難で
    あるという話やショーペンハウアーの『生存への意志』という説に対する反論、破壊についての話など、になって閉じられ
    る。・・・・この(第2部・自己超克)の章は、『ツァラトウストラ』全体の中でも、理解する上では、特に重要なポイントとなる1つと考えてもよいと思う。

    もちろん、真理ということがまるで関係の無いものではない。(川の流れ、水の動き、渦、深さ、等といった”無意識”の
    動きの関わることを、ある程度掴んでいなければ、船は上手く浮かんで進んではくれないと思われる。)だから、「まこと
    に、力へのわたしの意志は、真理へのおまえの意志をも足として歩むのだ。」と、ここでいわれている。
    ショーペンハウアーの『生存への意志』が、人間の真理だという説も、本当の真理でなく、例えば「生きているものにとっ
    て、多くのことが、生そのものより高く評価されること」でも、反論できる。だから、これまでの最高の賢者たちの言説を、
    考えるとき、決して忘れてはならないことは、それが真理であるというより、いろいろな理由で「価値評価を行うものよ、
    君たちは、善と悪についての君たちの評価と言葉によって、暴力をふるっている。そのことは、隠れた愛でもあり、君らの
    魂の輝き、おののき、氾濫」といった、あるギリギリのこと自体が、むしろ根本的なことになるのに、注目すべきだという
    こと。 だから、この章の終わりぐらいで、卵の比喩 が出てくるが、少なくとも、これまでの思想を、考えるとき、
    こういうギリギリの薄皮で出来ている過渡的な善悪などというものは、卵の殻みたいなもので、本質的に、新たに創造的で
    あろうとする人間にとって、この卵の殻を打ち砕こう、破壊しようという衝動は、むしろ、ある根本的なものとみなければ
    ならないということになる。(2003/11/6)

       【おまけ】しばらく、音楽についての話を、余り書いて無いので、ついでに、関連しそうなことに触れておくなら、
       ストラヴィンスキーSTRAVINSKYの有名な”火の鳥THE FIREBIRD”には、普通演奏会でよく演られる1919年版の5曲の
       20分弱くらいの組曲ではなく、全部で45分くらいの、ストーリーを追った1910年の全曲版というものがある。 か
       なりオーケストレーションも異なるし、楽器編成ももっと多彩になる。そして、その組曲版にないところに面白いと
       ころが多い。  ※1911年版の組曲というのもある。ちなみに、1919年版の組曲の演奏で私が、ときどき聴くのは
                                          R、Kempe/Staatskapelle Dresden
       魔法の森にやって来たイワンが、火の鳥を捕まえるが、逃がしてやる。代わりに、鳥は自分の黄金の羽を置いていく。
       話の終盤は、魔法の宮殿を支配する怪物カスチェイと部下たちが、イワンを襲いに来る。彼が、黄金の羽を取り出すと
       火の鳥が現れ、まず、怪物たちを強烈な踊りに誘い、次に子守唄によって眠らせてしまう。が、カスチェイが目覚め襲
       ってくる。そこで、イワンが、カスチェイの生命の込められた卵を地面に投げつけると破裂して、魔法が解け、カスチ
       ェイら化け物は死んでしまい、魔法にかかった宮殿も元に戻り、囚われの娘たちや石化した闘士たちも蘇り、全員が感
       謝するフィナーレになる・・というような話。

       私が中学生位のとき、ピエール・ブーレーズP,BOULEZニューヨーク・フィルNEWYORK PHILHARMONICのレコードを、近
       くの店で見つけて買ってきた。コントラバスがゴトゴトうなり、ティンパニが、16譜音符刻み続ける間に全奏のfffが
       、ジャンと響くカスチェイの踊り、静かな子守唄、最後のフィナ−レ。組曲版でも有名なこれら部分の間に面白いつな
       ぎの音楽が入っているし、組曲にある部分もオーケストレーションが違っていて、より装飾性の少ない分、元々の音作
       りが、立体的な音色の構成で、描写的にもっと見えてくる。とくに、カスチェイの踊りの辺りのすっきりした独特の感
       じや、不気味に低音の管が、下って行き、そこに、脅かすようなファンファーレが、入り、だんだんと動き出そうとす
       るかのような断続的な音に対して、卵を投げつけるティンパニーの一撃と、断片が転がるようなピチカート、その後の
       大気のような弦楽のざわめく音の中でソロのホルンがアンセムのメロディー奏し出す所。こういった辺りの鮮やかな音
       色と曲の展開が、気に入って良く聴いたもの。(こういう曲の作りと後のISのハンスリック風の発言の対比は面白い)

       組曲版の方が、ずっと一般的だが、元の版にもっとはっきりしているこの全体の曲想からも、つながる問題は、大体、
       ロシア皇帝のイースターエッグでないが、こういった卵というのは、そもそも,とても19世紀的テーマの一つと考えら
       れるくらいのものということ。又20世紀は、ある大きな卵の破裂から始まっているとは、色々な意味でいえなくも無い
       のである。(2003/11/07) ※ムソルグスキーの1874年頃の『卵の殻がついたヒナのバレー』も、単なる表題というだけ
       じゃなく、前打音の付いたリズムのカシャカシャする諧謔的な動きは、そういったものへの志向の芽生え・予感みたい
       なものになる?                                    (2003/11/08)

  e: 賢者たち、もしくは、価値評価を乗せた船を浮かべ、そういったかたちを、作り出した人たちが、どういう人々だったかという
     と、第4部に出てくる”高人”らに現れているような人々、まず、そういう典型的なキャラクターの人物たちと似た人々であろ
    うと思えるし、また、彼らは第3部の、名高い賢者たち、僧侶たち、学者、有徳者たちなどの章で描かれた特徴的な人々が、各
    々、1個の人間として、この本の記述の中で、発展して生まれてきた者たちともいえる。『この人を見よ(1888)』でもニーチェ
    自身が、自らの代表作と考えている、この『ツァラトゥストラは、かく語った(1885完成)』は、普通の”哲学書”のように、概
    念の展開という形をとらない。これは、単なる”戯曲”だから、ということではない。(有名な話だが、もっと概念的体系を示
    す『権力への意志』は、偽書に近いところがある)そういう説明がされているのを、少なくとも私は見たことは無いが、この書
    では、根本的に”キャラクターの展開”による構成がされていると捕らえるのは、極めて大事であるにもかかわらず、従来、十
    分注目は、されていないということ。

    1部の冒頭部分は、ツァラトウストラが、一般大衆に向かって、超人と末人についての概要を演説するが、落ちた綱渡り師のよ
    うなものになるだけだと、無駄をさとる部分。そのすぐあとの、らくだ・獅子・幼児の3段階の発展に関する説については、ど
    の解説にも出てくるが、それは人間の発達についての単に、彼の人生が反映した経験的なような説として説明される場合が多い
    ようだが、むしろ”論理的”内的なキャラクター?と考えた方がよく、この章以後の構成へのヒントを与えるものになる。

    第1部は、この章に続いて、眠りの徳を、伝えるありがちな世渡り術の説教者の描写に始まり、大雑把に流れを説明するとまず
    「背面世界論者」たちを批判し、その反宗教の立場から「肉体の侮蔑者」も誤りとし、”肉体は、一つの大きな理性”であると
    いう。次の「喜悦と情熱」では、情熱みたいなものはとても大事という。それで「犯罪者」すら、そういうものがある場合、裁く
    側に対して、単純に悪ともいえないとする。「読むこと書くこと」では、山上の俯瞰した視点が大事で、そのイミでの”軽さ”
    を強調する。「山上の木」では、そのように高いところで成長することの悩みに答えようとする。また、世の中の「死の説教」
    する傾向、あわれみの情などを重んずる人々を批判し、逆らって「戦争と戦士」を評価する。一方、現代で 戦争を実際に行う
    ”国家”を「新しい偶像」として徹底攻撃し、また世の「市場」も蝿の集まりとしてみる。都市の猥雑に対して「純潔」の話をし、
    ”友”には裸の付き合いなどを奨めず、民族には「千の目標と1つの目標」があるとし、「隣人愛」より、”未来に出現するも
    のへの愛””遠い友”への愛を主張する。”女性論”をはさんだ後、最後に「死」についての話、そして人々に「贈り与える徳」
    の話で締めくくる。

    最後の章は、ツァラトウストラ自身の「贈り与える徳」への希望と情熱が、語られるが、3段階の話をした後、この第1部の始
    まりは、眠りの「徳」を、伝えるありがちな世渡り術の説教者の話(「徳の講壇」)だったわけで、以上のように1部全体は、
    「徳」を巡る諸々の問題の基本的な論点だと見られるし、この最後の章を読んでも解るように”向上”や強い克己の調子をもち、
    いわば、”らくだ”の苦難に耐える姿の部分になる。     (2003/11/12)

    これに対して、第3部は、第2部の終わりの章「最も静かな時刻」で、

    「おまえは、これから幼子になれ。そして、羞恥の思いを放棄しろ・・・」

    と、”最も恐ろしい女主人”である、その”時刻”に言われた後に続く部分で、本当に命令するものになるために、涙と苦しみ
    の羞恥を超えて、”幼児”の心境にならねばならない・・・という話が第3部になる。

    即ち、綱渡り師の死んだ町から出て、第1部では”まだら牛”という町で、説法していたのだが、2部冒頭で1度、山の洞
    窟に戻ってから、船で「敵と友のいる島」”至福の島”に渡る。2部はこの島での話しになる。そのあと、この島の”至福”
    を捨てて向こうの港に出るため、島の山の頂を苦悩を持ってのぼるところから、この3部は始まる。島の港から船に乗って
    、”謎と痛みを心に抱いて”の航海が4日たつと、確固とした気持ち(”望まぬ至福”の章)を得られるようになる。しか
    し陸に着くと、孤独をもって民衆や都市を素通りし、元の山上のすみかに戻ることとなる・・・
    というのが、困苦を経たことをあらわす、少しややこしい第3部の状況設定。

    第3部の扱う内容は、順序は違うが、第1部に似ていることに注意すべきで、まず「さすらいびと」で、さすらい、最も高い頂
    に登り、山上の視点を得ることで、”最も柔和なもの、最も過酷なものにならねばならない。”という。「幻影と謎」は、船の
    中で、”重さ”を語る小人に対して、”瞬間”の思想を説き、のどに蛇の詰まった者が蛇を噛み切ることで、最高の笑いをうる
    、謎のイメージの話をする。不幸によって自分をきたえるみたいなカンジで、「望まぬ至福」であり、また世界の日の出を絶対
    的に肯定するため、「日の出前」で合理性をも否定し、「オリーブの山」で、人生の”冬”の過ごし方を考え、都市に対しては
    そこを「通過」する。また旧来の宗教に戻ってしまう人々を「離反者」で考え、自らは「帰郷」で孤独の喜びを悟る。「3つの
    悪」で、肉体的なものなど人間の欲求を肯定し、「重さの霊」自らの”鳥の性癖”と反対の他律道徳など旧来のものを批判し、
    「新旧の表」で、新約聖書の言葉や背面世界論者を否定し、”何が善であり、悪であるかを知っているものは、ただ創造するも
    のだけだ”とういって古い色々な道徳の表を砕くべきとする。その中で「快癒しつつあるもの」として”言葉と音調”の素晴ら
    しさを語り、さらに「大きな憧れ」で魂の充実を述べ、「舞踏の歌・後編」で”生”という名の女と対話して見せ、「7つの封
    印」で、これまでの自分のやり方を、黙示録風に7つにまとめて、これでいいのだと、”封印”し、信念を固め、”感謝の言葉”
    として3部を締めくくる。(2003/11/13)

    一応、簡単に、内容の大雑把な共通性を見ておくと、まず、山上の俯瞰した視点、鳥の性癖、による徳の重要性を強調するの
    は、「読むこと書くこと」があり、一方は「さすらいびと」「重さの霊」「幻影と謎」など。肉体や人間の欲を肯定的に捉え
    る「肉体の侮蔑者」一方は「3つの悪」。都市的なものの罪を書く「純潔」一方の「通過」。そういった都市などの多くの人
    々のもつ問題を主張する「新しい偶像」「市場」など、そういった多数の人間の世界の描写と裏返しの3部での「帰郷」「オ
    リーブの山」など。また、宗教者批判は「背面世界論者」「死の説教」など、一方の「離反者」「新旧の表」など。そういう
    古い説教でなく、新しい人生訓みたいなものは「山上の木」「喜悦と情熱」「戦争と戦士」一方の「望まぬ至福」「オリーブ
    の山」など。いろいろな価値や道徳があり「千の目標と1つの目標」「犯罪者」、新しい創造的な価値を重視する「新旧の表」
    。魂が満たされることからくる「贈り与える徳」、3部の「大きな憧れ」「快癒しつつあるもの」「7つの封印」など。

    もちろん、一応こう書いてみたが、そんなに簡単には区別できるわけでないし、当然、内容は各々多面的で重複もする。しか
    し、ある程度、1部と3部が共通性を意識して書かれているのは、明らかだろう。ただ1部では、その徳の説教が、まだら牛
    という町(多分従順さをもった人々を表す地名)の人々を相手にした”向上”を主張するものだったのに対して、3部のそれ
    はより内部に深められ自己に語りかけ、満たされたもののなかでだんだん幼子の心境を得てくる、という違いで、トーンが変
    わった視点でもって、同様なテーマを書いている、ともいえると思う。   (2003/11/14)

    このように第1部と第3部が、似ているということは、逆に、第2部が、違った対照的なものになった部分、ということでも
    ある。1部と3部の内容も、”キャラクター論”ともいえるのだが、いわば、キャラクターの要素?徳、という感じの記述で
    あったのに対して、第2部は、むしろ、普通にいって、いろいろな職業的な人々が分けられているともいえ、また人物像その
    ものに近いものを、各々語っているというわけなのである。そして、第2部は、第1部と第3部が、似ているようなかんじで
    、第4部といろいろ似ている構造を持っている。

    例えば、第4部は舞台でも演じられそうなくらい、この書の中で最も戯曲的部分といえ、明確に9人の登場人物となって、現
    れる。2部は、人物的キャラクターが特定の人物ではないが描かれ、4部の下敷きになるような関係にあるのである。だから、
    端的には、2部の”至福の島”は、”わたしの友と敵の島”と言われるし、9人の高人の出てくる4部も、やはり敵でもあり
    友でもあるような人々との話になっている。

    2部と4部の、こういった類のキャラクターのうち、民衆の上に船を浮かべて進めさせるような働きをしたもの、いわゆる
    ニーチェの考えている賢人たちといえそうなものを、話が長くなるので全部でないが、各々のキャラクターの、代表的なもの
    の特徴と限界を、なるべく簡単に抽出して、以下、挙げてみる。(ここまで2003/11/15)


    1:【名高い賢者たち】

      第2部「名高い賢者たち」という章と、「自己超克」という章に、ほぼ似たようなもの、に関しての記述が、ある。
      ”名高い”というのは、民衆に支持されているというようなことで、これまでの有名な賢者たちの「真理への意志」と
      いうものが、”精神の本体を見ない”不十分なものであり、もっと砂漠の獅子のようにならねばならないと主張する。
      (第2部「名高い賢者たち」より) 川の上の船の比喩(第2部「自己超克」、また上述の関連する記述参照)のよう
      に、これまでの賢者たちは、皆、民衆と関連した自分たちの成り立ちを自覚していない、という限界がある。

      だから、4部で、9人の高人を各々紹介していった後の部分で、より期待されるべき高人に対して(かっての賢人より
      も)民衆との関連を問い直すような発言をまずすることになる。高人たち全員に向かって、ツァラトウストラが、長い
      演説をする(第4部・高人1〜20)中で、”神に対して平等であったかもしれないが、その神は死んだのだから、賤民を
      前にしてなら、平等でない。高人よ、その民衆相手の市場を去れ”というような話をする。(ここは2003/11/17)


    2:【僧侶たち】

      「屍として、生きようとする。・・・彼らのそばで住むのは、たとえると、ヒキガエルの甘い憂鬱な歌が、水底に響く、
       黒い池のそばで住んでる様なもの。」

      彼らは、救済者を持つのに、救済されている風に見えないのはどういうわけだと述べ、

      「・・彼らの救済者自身が、認識の絨毯の上を歩んだことは無かった。・・・救済者たちの精神は、隙間だけから成り立っ
       ていた。隙間には、彼らの迷妄が詰められ、それが神といわれる。」「最大の人間も余りに人間的だった」
      「偽の価値と虚妄の言葉のくびきにつながれた・・僧侶。僧侶の建てた小屋・・・教会・・まやかしの光、よどんだ空気・・
       この建物が崩れ、晴れた空が覗き、崩れた塀で、元の草や、赤いけしの花に光が届くようになって、はじめて、こう
       いった場所に私は心を向けたい・・・」

      こういう、”僧侶”というようなものへの、強い批判の考えと同時に重要なのは、反面、ツァラトゥストラ自身と
      彼らは、近いものでもあるということ(上記☆など参照)で、

      「私は、かれらと血のつながりをもつ。私の血が彼らの血の中にあって、それが彼らに十分敬われることを要求するのだ」
                      (以上の引用は、第2部「僧侶たち」より)

      だから、第4部で、ツァラトゥストラを敬って、”退職した法王”が、現れるが、それは、その職業の長となりながら、
      限界をもって、引退した人でもあるわけで、僧侶でもあったし、また、単なる僧侶でない人物ということに注意。
                                   (ここは、2003/11/16)

    3:【学者たち】

      第4部の「蛭」の章で、
      「わたしが、巨匠であり、熟知者である領域は、蛭の脳なのだ。それが、わたしの世界なのだ 。」と言って、
      蛭に自らの腕から血を吸わせ、沼で研究している、ツァラトウストラに誤って踏まれた男は、自ら、「知的良心を
      持つもの」と名乗る人物。”学者”たちの中から、高人として選び出されたというようなキャラクター。また彼は、
      「手のひら大の根底で十分だ。それが根底なら。・・・その上に人は立てる。真の良心的な知識の世界には大小の区
       別は無い。」という。この章の話は、2部の「純粋な認識」「学者」章に、そのままつながっているとも云える。

      2部の「純粋な認識」「学者」の章で、
       「彼らは、熟練しており器用な指を持っている。・・・彼らは、上等の時計仕掛けであり、ねじを巻いてやりさえす
        れば、ちゃんと時を知らせ、その上、つつましい音を立てる。・・・粉引き機械のように作業する。」しかし、

       「彼らは彼ら同士で、監視し合い、相手を余り信用せず、小さい策略に長け、・・・蜘蛛のように、わなを張って待つ」
       また、こういった人は、”純粋に認識する人”ともいってよく(上記、関連する記述参照)、その章で、
       「お前たちの、受けた呪いは、お前たちが決して産出しないことだ。たとえ、地平線上で、大きな妊娠した腹を、持
        って横になっているにせよ。」だから、こういう意味ですぐ次になる章「学者」の最後に、
       「人間は平等ではないから、公正にいって、彼らには、私の欲するところを、欲する資格を持たない。」という。

        「彼らが、賢者ぶるとき、彼らのみすぼらしい寸言や真理に寒気を感じる。」(同)

       ちなみに、同じく第2部の”毒蜘蛛(タランチュラ)”の章は、平等主義者の話で、当時の社会主義的思想は、
       タランチュラの伝説のように、人を踊り狂わせるものがあるということ。この人たちと、学者仕事との共通性
       は、もっぱら”小さいこと”を相手にして、それ以上のことを思うことができないところにある。(ここは2003/11/17)
            
      

       4:【詩人】 

      「われわれ詩人のうち、酒の偽造をしなかったものがあるだろうか。・・たびたび有害な混ぜ合わせが行われ、
       沢山のいい難いことがなされた。」(第2部・詩人/以下も、ここからの引用)

      ここで、”われわれ”とツァラトウストラが言っている様に、彼自身、自らのキャラクターが、特に 詩人に近いと考え
      ているわけで、また第4部で、魔術師から”詩人に過ぎない”ともいわれてもいる。

      ただ、上の引用のように、詩人には大きな難点があると自認するものである。だから、「取り持ち屋であり、混ぜ合わせ
      屋の、寸足らずの不潔なものだ」といい、それは結局『詩人は嘘をつき過ぎる』ということになる。ゲーテの”永遠に女
      性的なるもの”も、(ニーチェにとって)嘘になるともいえる。※「感情のこもった興奮がやってくると、詩人はうぬぼ
      れる」からであり、「観客を詩人は欲するものだから」、こういった限界に突き当たる。ツァラトウストラは詩人たちが
      変化することを求める。「私は、古い詩人、新しい詩人(といわれるもの)に飽きた。」

       ※ シュペングラーへの、影響関係を考えても、ゲーテとニーチェは、元々、思想の仕組みの上で大変近いところがある、と考えても良いと思う。
         参考までに1言付け足すと、ただ、ゲーテは、より安定した”古典主義”の態度を根底に持とうとし、”永遠に女性的なるもの”もここに関係する。

      また、「密輸品なのだ。」とはいうものの「あらゆる神は、詩人たちの編み出した比喩であり、・・」と、考えているし、
      また、保留的言い方はするものの、「知に到達するには、特別な通路があり、それは個々のことを学ぶものには閉ざされ
      ているが、われわれ詩人には、開かれているといわんばかりに、・・・」ということを書く。
      ただ、私がこういったニーチェの話に、付け加えるなら”文字通りのこれほどの「通路」でないにせよ、何故こういった
      類のことが成り立ちうるのか”ということは、本来、もっとまともに考えられるべきであった。(ここは2003/11/18)                     


    5:【魔術師】

      「孔雀の中の孔雀よ。虚栄の海よ」また、「お前は、根底からの俳優だ。いつわる者よ。どうして、お前が真実を
       語ることができよう。・・」(第4部・魔術師よりの引用、以下も同じ)
      と、ツァラトウストラが、魔術師に語りかけるのだが、はじめの引用の文句は、第2部の詩人で、詩人を形容したもの
      と全く同じ台詞だということもあり、魔術師は、詩人の一種みたいなものとも考えられる。ただ、第4部は、ツァラト
      ウストラが、危急の叫びを聞いて、その叫んだ人を助けようとして、探して回るのだが、偽の叫び声を上げたのが、こ
      の人物で、危急の叫びまで”嘘をつく”ような人物でもある。そしてこの人物がワグナーだというのは有名な話である。

     「・・お前は、万人に術をかける魔法使いになった。しかし、おまえ自身に対して、嘘やたくらみの持ち合わせが尽きたの
      だ。」といい、また、魔術師自身「私は疲れた。私の技芸に吐き気を催す。偉大な人間を演じようとしたが、この嘘は
      私の力に余って、この嘘で私は砕ける。」という。こういう自ら、偉大でないと白状する発言で、ツァラトウストラは、
      彼を、精神の贖罪者として、この点では認められるものとする。しかし、魔術師は、「・・・・・ひとりの真実な人物、正
      しい人物。単純な人物、明快、誠実さの具勇者、・・・認識の聖者・・誠実さの具有者」を、(ツァラトウストラを)求め
      ていると発言する一方で、ツァラトウストラを批判する”魔法の悪魔”を呼び出し、憂鬱な歌を歌わせたりする、どこ
      までも狡猾な人物。

                                         (ここは2003/11/18) 
      

    6:【影】

      結局、ツァラトウストラ(ニーチェ)の安い様々な亜流者の典型。


    7:【最も醜いもの】

      第4部に出てくる、魔術師の偽の危急の叫びと違って、本当の危急の叫びを上げたらしい人物。
      ”神を殺した”とされる人物。逆に言うとツァラトウストラ自身は、決してそうでないということ。
      「お前は、神の殺害者だ。お前を徹底的に見たものを、許すことが出来なかった。最も醜い人間よ!
       お前は、この目撃者に復讐した。」
      人間には、神を思うにはふさわしくない、不調和なところ、不条理なところがどうしようもなくあるが、
      希望や肯定的に捉えることをせず、現実の醜いところばかり、確認し、強調して見る立場もありうる。
      「彼以上に、自分を軽蔑した者を見たことが無い。これも、”高さ”の一つだ。叫びを発したのは彼だ
       ったのだろう」とツァラトウストラは、この章(第4部・最も醜いもの)の最後で言う。
      だが、このように神を根本的に信じないものが、決して無敵?なわけでなく簡単に、エセ宗教に逆戻り
      する(ロバ祭り、ロバ崇拝)というのも重要な特徴。 (ここは2003/11/18) 
       


      

    8:【火の犬 etc】

      ツァラトウストラの話し相手として、でてくる火の犬の類は、一応、賢人とはされない、

      「わたしは、お前をせいぜい、大地の腹話術師とみなしている。転覆と爆発の悪魔どもの語るのを聞くたび
       それが、お前そっくりであるのを見いだす。塩っぽく、まやかしで、浅薄なのだ。」(第2部・火の犬より、以下も同じ)

      ここでいう”火の犬”と同類な者とは、19世紀当時もあった、国家転覆や爆発といった騒ぎを起こす人々なのだが、

     「偽善の犬よ!お前はお前の同類を最もよく知っているはずだ。お前と同じく国家も偽善の犬だ。国家も、煙と咆哮で語
      りたがる。お前と等しく事物の核心から語ってると信じ込まそうとする。・・国家は自分を地上で最も重要な生き物であ
      ろうとする」

         しかし、両者とも、派手な見た目ほど、本当は重要でない。

     「私の言うことを信じなさい。私の友、地獄の喧騒よ。最も大いなる事件とは、われらの最も騒がしい時間でなく、最も
      静かな時間なのだ。世界の回転の軸となるのは、新しい喧騒の発明でなく、新しい価値の発明者である。世界は音もな
      く回転する。」

      ただし、こういった世間の大騒ぎは、全く何の役割も果たさないという訳でもないから、この章の話も少し複雑になる。

      黄金と笑いを、大地の心臓から汲み取る”別の火の犬”もいるというし、また、この対話相手の火の犬といる少し前、
      ツァラトウストラの分身みたいなものが、この犬のいる火山を目指して、飛んでいったことが人々に目撃され、ツァラ
      トウストラ自身は、そんなことは私の名誉を傷つけることだと語ったりしている。(ここは2003/11/19) 




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