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「善と悪」などという言葉は、大袈裟になりがちで、その使われている文脈や状況に、盲目的に話をし、その結果
もったいぶった陰気くさい説教になるのが、殆どだから、その人は、そもそもどんなカンジで、どんな発想の土台
でもって、話しているかを、いつも意識して考えた方がいい。
ニーチェの場合、むしろ、われわれの言葉や、そこに関連する精神のある仕組みのようなものを、説明する典型的
な話題として「善と悪」などという問題が、でてきていると受け取ると、この人の著作の各々話の全体はわかりや
すくなる。部分的に見ないこと。明らかに、ニーチェは、意図的に読者を、惑わそうとしており、謎をかけようと
しているのであって、大概が、そこにはまってしまう。なにか破壊的な、刺激的な”誤解”を、生み出すような
、ややこしい言い方を、わざと、そこここでしており、そこに注意しないと本当にニーチェが、どのようなことを
考えていたのか全く自信を持って見られなくなる。しかし、むしろ、普通に、その本を一読者として読み、そうし
た、もともと問題にしていることから、見て行くなら、ちゃんと、充分そういった自信は得られる。
そんな具合に、まず、全体の論調が、書かれた当時の人々のなかで、どんな感じであったかを、常に想像できなけ
れば、ならない。文章全体を通しての流れが、その読み方で実感できるか?その人の姿が、その周辺の重要人物た
ちとの関係が、説得的にイメージできるか?
それ無しに、細切れの翻訳の問題に余り関わりづらうのは、時間の無駄であり、さらに 日本などでは特にそうだ
が、むしろ、多くの分野で、散々繰り返しやりつくされたものを、今日は、何とか”十分利用しなければならない
時期”になっている。
ニーチェの「ツァラトゥストラは、かく語った」は、一方で、「こう語った」とまで、自分に引き寄せて古代の宗
教家の考えというものを、断言しているといえるのだが、反面、あくまで、「戯曲の形式」をとっているともいえ、
シェークスピアのリチャード3世が、実在の人物と違っていても、ある程度許される面があるのと共通した事情も
ないわけでない。
ニーチェは自身を、高度の文献学者だと自負していた経歴があり、元々、古代ギリシャの方を専門にしていた所か
ら、より異教的なゾロアスターを、対象にするようになったことは事実だし、また、そもそもこれは、ショーペン
ハウエルが、当時として新奇なインド思想に熱中し、ウパニシャッドなどを読んでいたことに対抗していることに
なるのも、踏まえなければならない。
ショーペンハウアーが、読んでいたものは18世紀のフランス人(この人はアヴェスタの正典の訳もある)が、サン
スクリットの自由なペルシャ語訳を、さらにラテン語で訳した、相当難点のあるものらしい。だが、それでも、そ
のようなインド思想の重要な内容を伝えているという評価が、より詳しい研究が進んだ時点でも十分あるのは、シ
ョーペンハウエルの哲学思想としてのある普遍的な面白さから、来るのだろうし、またそのことは重要である。そ
して、このことはニーチェにもあって、今日、ゾロアスター教の知識として一般化しているようなことを、むしろ
十分に知っていて、それに彼の思想を対応させようとしつつ、同時に、特にキリスト教的な思考法と対立する側面
をできるだけ強調しようと努力している痕がある。
もちろん、今は、このHPの本論の、参考になる程度の議論をしておこうというわけだから、ニーチェの元々の発想
の大きな流れを、想像させる幾つかの箇所を、以下、ちょっと試みに挙げてみる。
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【1】 まず、
ニーチェが正義なるものを、批判しているように見えるところ、例えば『ツァラトゥストラは、かく語った』の
第2部の”有徳者たち”で、
「だらけた眠っている心に向かっては、雷鳴と電光をもって語らねばならない 。・・・」
「・・・自分たちの怠け者、ぶしょうの悪徳を、徳と称す人々がいる。そういう人間の憎悪嫉妬が、手足を伸ばし始め
ると、彼らの”正義”が、目を覚まして、寝ぼけ眼をこすりだすのだ・・・」
こういうところでも、”正義”がありえない、という話でなく、そういうことをいうある種の人々を、相手にした話
であり、本来 議論の余地なく、それは限定的な書き方をしているのであって、批判されている彼らの”正義”とは、
その次の次の章の”毒蜘蛛(タランチュラ)”でも、説明されている”平等の説教者たち”などが、典型的な対象に
なっている。すなわち、彼らが言うこと。
「”平等への意志”このこと自体が、今後は徳となるべきだ。権力を持つ一切のものに反対して、われらは、われ
らの叫びを、あげよう。 」
また、そういった発想をする人たちに対して、「自分の正義について、多くを語る全ての人間を信用するな。」と
ニーチェはいう。ここで、重要なのは、もちろん”多くを語る”であり、その直ぐ次の文章も「蜜が欠けている、と
いうだけじゃなくて、彼らの魂は、欠けている、というのが本当なのだ。」ということは、そのイミと見てもいい。
例えば、そんな類の人間にありがちなある種の自己の”厳しさ”を誇大にした(多くを語っている)、甘えるな、と
いうような独特なよくある言い方に対して、考えてもらえばいいと思う。(付け足していえば、一般的に長いものに
巻かれているだけで、大体 彼らの魂は、”欠けているのである。”) (ここまで2003/8/31&9/3)
(平等じゃない。などという意見に、どうしても抵抗のある人は、ひとまず、人各々を、バリエーションである
いくつもの曲で出来た音楽と比較して、考えよう。大きな共通性はもつものの、各曲は、一見すると同じとは
思えないくらい違うし、また、そうであることが重要である。・・・というような。)
こういった主張において、先程の「こういう人間の憎悪嫉妬が、手足を伸ばし始めると、彼らの”正義”が、目を覚
ます・・・」といって”正義”に対して、批判しているのは、以上のように素直に読んだ通りのこととも言えるだろう。
同じ章の「何故なら、正義は私に、こう語っているからだ”人間は平等でない”」というのも、変にひねった反語と
して、受け取って、だから、”正義はない”などと解釈されるのでなく、全くニーチェは正に、ここで自己の”正義”
を、控えめな言葉で語っているのである。(強い感情が込められているが)
そして、
「罰と正義が行われなければならない。・・・そう毒蜘蛛(注・そういう説教者たちのこと)は、考える」
ということを書き、一方で、再び こういった正義などが、非常にネガティブなもののような言い方をすることに、
注意しよう。さらに、
こういう「平等でない」ということから、ニーチェの有名な”同情心への攻撃”の発想へのつながりが、直接 想像し
うることは、意識しておかねばならない。(すなわち、平等でない、同じでないから、それは不可能というはなし。)
「同情者たち以上に、愚行を行ったものが、この世にあるだろうか?」
「まことに、わたしは、ひとに同情して幸福を感じるような憐れみ深い人たちを、好まない。かれらは、余りに羞恥心
が、欠けている」 (『ツァラトウストラ』第二部、以上”同情者たち”の章から)
ということを書くし、こういった攻撃は、『道徳の系譜』など他の著作でも見られるものでもある。しかしその上の
文の直後で、
「わたしは、同情せずにいられないときも、同情心の深いものと言われたくない。同情するときは、自分の身を離して
遠くから同情したい。」
といっているわけで、いわゆる普通に非難される同情心の無いような人物、というのとは、かなり違ったものを、指し
ていると考えた方がよい。
ニーチェにおいては、「同情心」というものに対して、否定的なのは、乱暴に言ってみれば、それは人間の行うこととし
ては、レベルの低いことになるから、好まないものになると考えてもいいと思う。(何故なら、本来、他人は、自らと同
じように考えられない。それで、”どうしても、人は、そこで相手を低めに、捉えて満足してしまおうとする”というよ
うなことの上に成り立つ心情になるわけ、などと考えてみるのも1つの例にはなるだろう・・・・)
「君たち、法官よ。君たちが、犯罪者を殺すのは、同情からであるべきで、復讐からであるべきでない。・・・・」
(『ツァラトウストラ』第一部、以上”青白い犯罪者”の章から)
というのは、犯罪者に関する、これも有名なニーチェの物騒な議論からの引用だが、法官たちの行為は、よくて”同情”
程度のものにしかならないという言い方であるのに注意すること。
”復讐”というのは、ニーチェにおいて、主として、自らで価値などを、積極的に決めていくことでなく、単に反対する
がための考え方のことだから、(--index.XX.HTMなど参照。ハムラビ法などの意味の復讐に単純にくっつけないで考
えよう・・・)まるで、ダメなことなのである。
そして、昔から、いわゆる犯罪らしい”犯罪”などというものは、根本的には、無能力で、愚かさゆえのものだから、最
大の厚意も、同情ぐらいしか値しないのである。
ただニーチェが不満なのは、法官たちが同情以上のもので裁いている、と尤もらしく思いがちなことであって、
「本当に、彼らの(君ら善人たち・・前の文章から、いわゆる良識的な法官などのこと)狂気が、真実、あるは忠実、正義
とよばれるもので、あればよいと思う。だが、彼らが自分たちのものとして、持っている徳は、長く生きるためのもの
で、しかも惨めな自己満足の中で生きるためのものなのだ。(ものでしかない。)」
(『ツァラトウストラ』第一部、以上”青白い犯罪者”の章の終わりのほうから、括弧内は、本稿の筆者の補い)
法官たちの”真実、あるいは忠実、正義”に、”狂気”が、欠けているのが面白くない、という訳なのである。
もちろん、”狂気”などは、普通 、誉められる性質でもない。だから、法官の類の人々に対して、犯罪者のもっている
この狂気も、「行為の後の狂気」と「行為の前の狂気」があるという話を、ニーチェはしている。即ち、こうった類の犯
罪者は、もともと、犯罪に至る思念をもっていたのだが、それは、その犯罪自体とは別の、ある必然性(犯罪と直接の因
果関係はないが、)を持っていたのに関わらず、犯罪者は、大体、その結果に圧倒されて、単に自分の犯罪行為と等身に
なってしまうものであること。こういう錯覚に陥る愚かさは、ひとつの狂気といえる・・・というような、話。もう1つは、
犯罪の前にも、彼が本当に欲しかったのは、血やナイフの幸福だったのに、自分が欲しいものは、金とか恨みをはらすこ
とであるかのように、思って行動してしまう愚かさ。こういう愚かさが、こういった犯罪者を、青白い存在にしてしまう。
しかし、こういう描写でも解る「狂気」におけるその愚かさを、ひっくるめた 彼ら自身を、全くの破滅に追いやってし
まう程の、極端な情熱みたいなものは、実は重要なものがあり、それがない法官たちは、本当は”惨めなもの”であるの
に、「悪人」や「罪びと」を、判断できるのだと思っている。正しくは、せいぜい、犯罪者たちを圧倒する「敵」でしか
ないのに。
もちろん、こういう主張は、大変 物騒なものであるのだが、それでもニーチェの思想自体が、犯罪を勧めているわけで
ないのも、本当のことで、実際、この章の終わりは、自分は、そこに存在する「激流」の「欄干」で、自分を押しとどめ
ようとする者の、本来、役立つ物であり、ただし、「松葉杖」みたいなものでないだけだ、とハッキリ書いてある。
犯罪者は、「病気の堆積」であり、また、「群がった蛇の集まり」であって、その「蛇が勝手に抜け出して世界で獲物を
得ようとする」のが、こういった犯罪である、とする。
こういった犯罪者観、人間観察は、普通一般のものでないが、もちろん、ドストエフスキーの描くところには、とても近
い。あるイミ、そういった人物は、 ”東方的に”中心人物にまでされて、全体を塗り込めてしまうが・・・・。(とはいえ
ラスコリニコフは、ニーチェの青白い犯罪者より多少ましな人物とみた方が良いだろうけど。)
こういった”犯罪”という、端的な場合に、上述のように「悪人」や「罪びと」”真実、あるいは忠実、正義”というもの
の通常の考えへニーチェは、攻撃を加えているのだけれど、確かに、犯罪者にまで、「悪人」や「罪びと」と、単純に考え
ない、という位、善悪の常識とは、それは随分異なったものになる。
とはいえ、ニーチェの書き方から、善悪などはなく何をやってもよいのだ、という主張のみを、多くの人は、表面的に見て
受け取りやすいのだが、主張の理由を彼の話の、本来のつながりから、考えた場合、そうではなく、一般通念から、大部分
の人々の形成している「善悪」「正義」の考え方に、対立する”別の”「善悪」「正義」の考えを、ここで彼が提示している
と捉えた方が、その主張の”意図”みたいなものは、判りやすい。 (ただし、後で述べる重要な論点を、ひとまず置いて
おいて言ってみればだけれど・・・)それは、次から見て行く、以下の幾つかの箇所もそうで、ニーチェの 中心的議論(魂な
ど)とのつながりが、見えて来る。(ここまで2003/9/10)
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