19世紀末頃からの、イギリス音楽全般を考える場合の キータームとなりう
るのは、「地中
海イズム」と云う言葉であり それを中心として頭に置くことは面白いであろ
う。
といっても、近年のイギリス音楽総てに その形容が用いられる訳では全然な
い。
その言葉が積極的に当てはまるのは まず 後期のウィリアムウォルトンなの
だが、これは
当然北海に面するオールドバラの町に好んで暮らしたベンジャミンブリテンと
対称的に考えて
こそ、イミを持つ表現であるのだ。というのはWWの1928年の交響曲第1
番に対して戦後
の2番、1934年のヴァイオリン協奏曲に対する1954年のチェロ協奏曲
の持つそれぞれ
の大きな印象の違いを説明するというだけではなく、そのような対比が起こっ
たこと自体にブ
リテンとの美学的(!?)な対象との大きな屈折からくるものがあり、また
その辺りの事情
は イギリス音楽全般の興味深い特徴が浮き上がる要素を示している。
もちろん ラッブラの交響曲の幾つか、ピーターウォーロック、フィンジの作
品のある
もの、には かなり見つけられる地中海文化的趣味の様な、音楽芸術内の現象
のみならず、やはり
それは、A トィンビー(A・J・Toynbee1889-1975)の「試練に立つ文明」中のローマ・ギリシャ
文明の記述に見られるような さらに19世紀ぐらいからの幅広い全文化的なものの1傾向-
一潮流の現れでもある。19世紀ヨーロッパの古代地中海指向を、語る際に 当然 話題
となるヴィンケルマン等を後回しにして、ここで殊更トインビーなどを持ち出すのは理由がある。
「試練に立つ文明」なる著作とは、まさに歴史上の「幾つか」の”文明”の試
練に対する
”挑戦”による発展と衰退のイミを、13章にわたって語っている本といって
いいのだが、
第12章「キリスト教と文明」において、いきなり2ページにもわたって、
名前を挙げないまま興味深い引用を行っている。すなわち..
「...ギリシャローマ社会とは、個人の社会への、市民の国家への従属の観念
の上に建てられ
たものである。...この没我的理想に訓練された市民は彼らの生命を社会奉仕
に置き、共同善
のためには生命を犠牲にする事も辞さない。(一方キリスト教の流行により:HP筆者
注)
...天の雲に乗って出現する神の市を見た人々の眼には、この地上の市は憐れ
むべき軽蔑すべ
きものに見えた。かくていわば重力の中心点は現在から未来の生に移され、
そのため彼岸の世界が幾ばくかの利益を得たのか知らないが、この現世の世界
はこの変化によ
り重大な損失を被ったことは一点の疑いもない。...自らの魂と他人の魂を救
済することに
急なあまり、彼らは物質的世界を悪の世界と同一視して、物質的世界の彼らの
周囲での
滅亡を、するがままに放任して満足していた。この偏執が一千年間続いたので
ある。
中世の終末におけるローマ法の復活、アリストテレスの哲学、古代学術、文学
の復活は
とりもなおさずヨーロッパ本来の生活、行為の理想への復活を、より健全な男
性的世界観の復
活をイミするのである。文明への進軍の長い休息期間が終わりを告げた。東方
人の進入の干潮
期がついに到来した。干潮は今も続いている。」
と引用した後トインビーは直ぐにこう続ける。
「干潮は今も続いている。この本は1906年にはじめて公刊されたものであ
るが、...
その名前をいまだご存じでない方のために、それはアルフレッドローゼンバー
グでないと
もうしあげたいのです。それはサー・ジェイムズ・フレイザーなのです。...
」
という具合に、「金枝篇」のフレイザーの名前を 落とし話のように(笑い)
に使って話を持っていく訳だが、
【上の文は1998年3月頃のHPを作った時と完全に同じもの。最もホッタラカシ状態。 少し手直しした方がいい部分もあリますが、元来 重要なテーマなので、後で続 けて書く気持ちはあるのです・・・ 2001・9-07 】