シェークスピアとイギリス音楽:


        

    **   『イギリス近代の黎明期に位置するシェークスピア・・ 』  **


                         ♪シェークスピアの生きた時代は、イギリス近代の黎明期に位置
                         するし、そして、その作風は「近代」の性格、精神を示すことが
                         最も本質的特徴になっている。またその意味で制約の多かった同
                         時代的音楽を越えていた。しかし逆説的なことだが、その特徴を
                         最も代表するハムレットのような内容は、分裂的要素の顕著なも
                         ので、決して後の、同様に、「近代」を示すような西洋音楽語法
                         と対応しうる直結的な発想を、持つものとは云えず、また、この
                         ことはある最も根源的なことでもある。
                         現実にさまざまな作曲家が題材としてシェークスピアを取り上げ
                         ハムレットも例外で無いが、たとえばチャイコフスキーの場合を
                         考えても、ハムレットの実体を、表現することが出来ず、結局メ
                         ロドラマとしての解釈となったりする・・。そのようなところに何
                         が欠けているかには、「近代」というある大きな深淵が存在して
                         いることを考えねばならない・・・・・・・
                              (上の元は99年10月頃載せた文章。判りやすさのため、文章を補い、流れを調整2003/4/2)


 シェークスピアの代表作は、彼のいろいろな要素を組み合わせた典型的問題
 に関する(近代の)世界観の表現といってよいが、(例えば”オセロー”は、
 やはり人種問題を扱っているのは否めないこと。同様に、ロメオとジュリエ
 ット”などは、血族的秩序と個人の相克。”リア王”は、中世的血縁秩序か
 ら資本主義的競争の不可逆性という面がある・・・etc)

 ”ハムレット”の重要性は、そのテーマが「死」と「家族の解体」にあると
 みることが出来る点である。「眠り」と同等に「死」置くことで神話的絶対
 性の迷信を、本質的には拒絶している。(これで脳機能的なコギト的発想に
 重なりうる)
 ”王の幽霊”などは、むしろ彼の「名誉」であり「椅子」の変容的表現とも
 いえよう。この作品で親と子の安定した序列を、徹底的に問い直す点は改め
 て強調されて良く、現代に至っても古びてはいない。しかも、それはある独
 特の”シェークスピア的品位”と深くつながる。

 また、しばしばハムレットは「フロイト的精神分析」の対象とされるが、む
 しろハムレットの道具建ては それをすり抜けるように出来ている。ロ-レン
 スオリビエは、”演技について”、オイディプス理論との関係について面白
 く語っているが、そのように その種の(E ジョーンズ氏らの)解釈を結局、
 冗談めかすのも やはり殺される「王」が、”単なる”父でなく ハムレット
 が最も重視している死んだ父に対比するものであり、その要素の大きさであ
 る。(ニセの父と本当の父・・ココに置いて単なるアンビヴァレンツとは云
 えなくなる・・)。
 そして、禁句的なまでに后を問いつめるのは、本質的に母性的秩序に安寧す
 る ことへの挑戦で、また、何か根本的に自らを分解しようとする意志とも
 いえる。   

 それらは、また典型的1例を挙げるならチャイコフスキー的メロディの母性
 的”ある緩さの統一”のもたらす甘さと、相反するものがある。そういった
 受け取り方と違うもの。何かの飛躍や分裂、相反するものと連続性を、そし
 て、近代的な”音楽”存在そのものに対しても、また旋律構造的な問題にお
 いても根本的に宿す要素として、ハムレットの”思想”は、要求していると
 もいえる位にもなる。実はそこに、もっと進めて云うと、その発想は、ブリ
 テン島の語法的問題、対立する旋法と機能和声の問題も、重なり得るし、何
                          かギリギリの飽和点ともいえる音楽の状態を導いたりする・・・。..........(注*)
 

                                      (上の元は99年10月頃載せた文章。2003/4/2文章再整理)





 




                                                            
                                      ◆  「シェークスピア映画とウイリアムウォルトン」 ・・・・・・・・・


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 (注*) 西洋音楽理論において、実は”旋法”の概念が最も曖昧で、致命的な難点を持って使い続けられている。
というのも、もともと古代ギリシャの音楽理論に由来する この発想が個々の名称をもつ”旋法”として、
「性格」と不可分のものとして考えられていたのは、決して軽んじられてはならないからで、実際 
教会旋法やモード奏法のそれというように、非常に実態が違ってしまうことも、この概念がどうしても
音楽の”意味”の創出と深い関わりを持つものだからである。未だに音楽の”意味”ほど不可解なものはない
のである。単に主音の位置などで把握するには、何か根本的な要素が欠けている。ただし これはこのHPで
論ぜられるような問題になり得ないので 今後 自分の用法の適用例を、幾つか示すことで
説明に変えさせていただくこととなリます・・・・・・


 (注※) 「リア王」の1つの問題。中世的血縁秩序から資本主義的競争の不可逆性といったことは、すべての時代
      の新しい転機において、生ずる傾向ともいえ、代表的で大規模なのが西欧の中世から近代への時期に起こ
      ったことと考えられる。逆に言えば、先史巨石文化の時代にも、起こり得る要素でもある。(2003/4/20)