※Sフロイトの『夢判断』について 〜その発想とシェークスピア論からの〜 :
◆はじめに◆
当然、その中心的な仕事とは云えませんし、まとまった著作としては 規模も大きくありませんが、シェ
ークスピアについての発言は、フロイトが元々強く関心をもっていた事柄で、その著作の いろんなとこ
ろで言及しています。影響も大きく、率直な言い方で大胆な主張が盛り込まれ、もっとシェークスピアを
論じている他の様々な人たちもいるにも関らず、とりわけ興味深いものです。これについて考えるには、
当然フロイトの考え方全般を、論じなくてはなりません。フロイト自身が、自らの代表作として挙げている
事実もありますし、ここで『夢判断』を中心に議論を進めていくのは、今の場合適当な方法と思えます。
まとまった主張を持ち、分量も手頃ですので、この著作を通じて 「リア王」「ハムレット」の問題も無駄
に煩雑にせず、お話ししていくことが 出来るように思います。 また、他の著作よりもうるおいのある
トーンで、様々な夢の実例の独特な”美しさ”すら持っている点が魅力でもあります。『夢判断』の主要
な部分をここでほぼ取り上げて行くことになります。割と容易に手に入れられる 新潮文庫版『夢判断』
(高橋義孝訳)のページ数を付記しておきますので、同時にその内容もチェックしていただきたいと思っ
ています。 勿論、以下の文章の特に引用を明記した部分を除いては、その解釈主張の全責任は、私
にありますので明らかな事実誤認、それにまつわる難点がありましたらすぐ改善しますのでお教えして
いただけたら幸いに思います。 yoshi6@nsknet.or.jp 以下、5部に分けて掲載するつもりですが、
まず この第1部を載せた後、第2部分、さらにで、3,4(この辺りでシェークスピアの議論が出来るよ
うになります・・),5 と続けて作り足していく予定です。
なお、本文引用の他の書籍については、このJ部の末尾にあります。
◇ 冒頭部分の文章を、読みやすいように少し整理。今後も、他の部分を改良するつもりです。(2003/4/22)
【J】フロイトについて、私などが、すぐ連想し、思い浮かぶことは、彼の“精神分析入門“など で多数挙げられる、夢の中に出てくる様々な、物、事象を彼流の「象徴」として捉える独断 めいた説であり、また、フロイト自身では無いが、今日のいろいろな媒体で登場する「心理 学」や「分析」の名前を冠して語る“専門家”たちの、昔からの夢占いのイメージとさほど 変わらないような根拠や、ありふれた観察による”科学風”の心理説明をする人たちの姿な のではある。それでも、そういった人々や、いわゆる”フロイト的学説”に対して「・・性 的な面は、人間の一部でしかなく、もっと多くの面がある・・等々」というような反論で済 むと考えたなら、その誤りはかえって大きなものになる。 実際、フロイトは、”入門”でも後半の方(例えば角川文庫版p398)で、その種の反論に フロイト流に、それなりに答えている訳だし、また、その論述の確かに在るある種の「けが らわしさ」を伴った話題が、ふんだんに強調されている事実にも、隠された部分のフロイト の意図に、十分注意しないで単純に批判するほど物足りないものはない。また、フロイトの 発想を茶化して捉えることも、そうするその人のやり方で、同時にどの位の新たなものが生 み出されているか?が問われることになる。 はじめの「夢の問題の学問的文献」では、われわれが簡単に資料を見つけられそうもない人 たちを主とする、デルベフ、ヒルデブラント、シュトリュムペル、ブルダッハ、ロベルト、 ドラーシュ、シュルナーらの夢に関する文献全体を、整理、批判することで統合的に自らの 意見を述べている。 通常の論文らしい体裁を取りながら、続くK「・・の方法」以下の自らの多彩な実例を、吟 味して議論を行う段階への準備となっている訳だが、それでもJの部分だけでも殆どフロイ トの主張は、結構、出てしまっているのは注目しておくべき点で、後の部分は膨らましたり して変化させたものを何度か繰り返して行くというかたちを、実はとっている。 このJの夢の材料について論じる中で、夢は「その人がそれまで体験したことから、何らか の仕方で採ってきたものであろう・・」(p20)といい、しかし、夢と現実の関係は一目瞭 然でなく、「覚醒時の想起能力の支配圏外にあった何物かが・・」現れてしまう場合の例を 挙げている。 そして夢判断という著作全体のほぼ一番始めといっていい夢の実例でもあるのが、デルベフ という夢の研究者の見た”トカゲとシダの夢”である。 「・・彼は、夢の中に雪をかぶった我が家の中庭を見た。蜥蜴が2匹半ばこごえて雪 の中にいた。動物好きだった彼はこれを手にとって温めた。そして、壁の小さ な穴の中に入れてやった。・・・小さなシダの葉を2,3枚取って蜥蜴に与えた。 蜥蜴がシダを好むことを彼は知っていた。夢の中で彼はこの植物の名前をアス プレニウム・ルタ・ムラリスと覚えていた。・・・(夢が進行し又彼が蜥蜴の方に戻る と)・・・驚いたことにシダの残りをがつがつ食べている新しい蜥蜴2匹を発見し 、それから野原の方を見ると、5匹目6匹目の蜥蜴が壁の穴の方に進んできた。 とうとう道は、蜥蜴で一杯になった。どの蜥蜴も同じ方向に進んできた ・・」 (p23) これは、夢の中で‘知らなかった’植物のラテン名を知っていたり、昔見たらしい雑誌の蜥 蜴の行列の挿し絵を後にデルベフ自身が確認できたことによって、その夢の記憶の特異性の 実例して引用されていて、それ以上のフロイトの分析はそこでなされていない。その後の部 分でも、この本のOの夢の象徴的表現の部分で、ほんの2行だけ、去勢抗議の象徴として蜥 蜴があると書かれているだけである。しかし”この印象的な夢”とフロイト自身が書き、ま ず持ってきた夢にしては、奇妙な扱いとなる。 たぶん、夢が取るに足りない馬鹿げた無意味なものでないことを、示すため冒頭近くに置い たのだろうが、これを去勢抗議として全体を読むとどうなるだろうか?デルベフの中で、何 らかの去勢抗議(欲求と障害)が増大していった夢とでも解すのだろうか?この夢の詩的魅 力は、雪やシダ、蜥蜴の夫婦?、家の庭、動物を保護する姿、といった要素が簡明なつなが りで陰影のある情緒を産むこと、少々衒学趣味めいた味付けと、さらに大きいのは「どの蜥 蜴も同じ方向に進んできた・・」という予言的雰囲気でなかろうか?この夢に社会的潮流の 雰囲気を感じ取らなかったら、魅力は半減しないか?そして、それがフロイトの夢理論(利 己的願望・・)とどう噛み合えるか考えることに、実はフロイト全体の問題の根本的なもの が、すでに隠れている。 フロイトの引用する多くの文学的作品の話題からも、その方面にフロイトが関心が高かった のは明らかだし、そういった意味で、自らの文章のニュアンスに非常に留意しているのもは っきり解る。実際、この書の最初の部分を見るだけでも、そのフロイトの傾向は、これらの 夢の実例の多彩で豊かな感じに十分現れている。 例えば、以下の話が、次々に載せられている・・ モーリーの、知らない仏のミュシダシという町が、夢の中に登場し、県まで答えてみせるが、 実際に地理の事典で正確だったことに後で、気付く話。 イエッセンの報告する、イタリア古代の大スカリジェルのヴェローナの著名人を讃える詩を 書いた時の話。彼の夢の中でブルニョルスという男が自分が忘れられていると嘆く。小スカ リジェルが、後に実際にいた人物と気付く。 デルビュ−・ド・サン・ドニ侯爵が語る金髪の若い女の夢。自分の妹に刺繍を見せている金 髪の女が、夢に出てきたが誰か判らなかない。 もう1度寝て見た2番目の夢で女に話しか けると昔 海水浴場で会ったと答えてくれる。すると細かいところまで想い出せた・・。 フロイトの患者の「知らないウォッカの名前」が出てくる夢。さらに、フロイト自身の繰り 返し見たザルツブルク近くの小さな駅の回りの風景の夢。大学町の薄暗い中のビアホール、 ぼんやり光るグロテスクな石像、寺院の塔、見たかったジョットのフレスコ画にまつわる忘 れていたその風景。・・ モーリーの夢。子供の頃、橋の工事の指揮をする昔の父親の夢。遊んでいる自分の側にやっ てきた制服の男の名前を聞く・・。後で、当時の女中に聞いてみると、本当にいた橋番の名 前だったという。そして、フロイト自身の夢。夢の中で故郷の町の医者の顔が、中学校の教 師の顔と重なるが、なぜだか判らない。母親に尋ねると38年会っていないこの医者が、中学 教師と同じく片目であったことがわかる・・。 こういった例は単なる例示に留まらず、その描写が、多様な土地柄、豊富なイメージが活用 された相当凝ったものであるのを見逃してはいけない。フロイトは「超記憶」の例として、 こんなものをどんどんあげていく。面白い話ではあるけれど非常に希なのは誰でも判る訳で 、「大抵の夢はごく新しい過去の諸要素・・」ということやロベルトの「一般的に言って普 通の夢は、ただごく最近の印象だけを問題にする・・」という常識的な見解を一応受け入れ 、しかし保留的な言い方をする。(古い印象を無理矢理押しのけて、その代わりにに最近の 印象を引き入れるもの・・p29 )しかし、このフロイトの言い方は必然性を持つものでもあ る。フロイトは幼児記憶というものを言いたいから、先程のような例を重視するのだが、そ れでも、ロベルトのような発想だと、最近の強い印象がもっと夢の中心を占めそうなのに現 実的にある、夢の忘れかけていた日常のどうでもいい記憶が主となる傾向を説明しにくいだ ろうから。また、次の章「C 夢の刺激と夢の源泉」で、(一)外的〔客観的〕感覚興奮・ ・ふとんが落ちた時の夢、頸部圧迫によるモーリーのギロチンの夢(二)内的〔主観的〕感 覚興奮・・入眠時幻覚など・・(三)内的〔器質的〕感覚興奮・器質的感覚に由来するもの ・器官の病気、気分、欲求の感覚など(四)心的感覚興奮[→フロイト説へ]というふうに 我々が、誰でも体験する眠っている時の感覚刺激の夢への直接的影響をこういう風に体系付 けし、そのようにフロイトはむしろ常識的発想全体に関心がない訳で全くないことを示す。 それは根本的に“総合的なもの”として、自らを位置づけしようとしている。概説的な知識 からの一般的イメージとしてあるような、フロイト説が夢を「そのまま」幼児からの性的願 望によって出来ているような考えで捉えているとするのは、基本的には誤っている。潜在内 容・顕在内容ということでもあるが、実は確かにフロイトは、怪しい書き方をしていて、何 でもかんでもすぐに性的なものだと、思わせたがっているようなところがある。 が、むしろ、フロイトにとって性的願望とは、そのスキャンダラスな書き方とは別に、普通 の人がその言葉からイメージするものと根本的に別の、ある総合的な機構的なものを指して いるとさえいえるのは、ここだけでなく、以下 注意して読むと見えてくる重要なポイント になってくる。
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