※Sフロイトの『夢判断』について:J     


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【J・G】

      
   フロイトが、動物の夢や「夢は主としてやさしい願望充足者である・・」というようなLの論証を    
   したとき「世間の言語慣用」(夢判断・上巻p173)を援用したことに、ここでより従うならば「欲
   求Bedürfnis」というようなニュアンスを持てば、概念は、確かに「より」身体器官的なものに近
   く、「願望Wunsh」というようなニュアンスの概念は、「より」全人的な、また抽象的なものだと
   いう違いがある。  
   しかし、 フロイト自身が、Lのいろいろな夢の例を、あげて示された内容は普通に言うわれわれ
   や生き物の「欲求」なのであり、その延長として普通の言い方の「願望」というものがある。そし
   て「欲求」という場合それは、殆ど何らかの対象が限定句や文脈の内にあり、基本的に食物や眠り、
   健康や性的なこと等の身体的なこと、そこに直接、間接につながる”ある事柄”があって本当に意
   味が通じる。それはつねに何らかに対する「欲求」なのであって、全てに対する「欲求」など「欲
   求」にはならないし、そのようなものは この言語の慣用に反するのは隠しようもない。だから、
   同じように「願望」もそれに比べれば抽象の度合いが高まるにせよ、元来 何らかの対象に対して、
   「願望」するのが普通の用法なのである。(だから、”漠然とした願望”というのは、とくに”漠
   然とした”と形容される必要がある。)フロイトが、掲げた「夢は、願望充足である」という文句
   は、”限定句無しの「願望」”なのであり、そもそも普通の用法でないものなのだ。フロイトは、
   「願望」を常にこのような”限定句無しの「願望」”に傾けて用いるし、”利己的な”という形容
   詞も 先の引用(p162)から判るように、むしろ「願望」の同義語に近い。

   また、ふつう後期の思想だと言われることもある”死への願望”という説も、夢判断の文章中に、
   もう登場する考えであり、フロイトがこういう考えを言い出した理由は、十分この観点から想像する
   ことが出来る。限定のない、利己的な「願望」は、結局 すべての欲求を内容とするわけで、即ち
   特定の内容と関係ないことが、特徴となる内容なのだ。そのイミで、すべての欲求が無くなった状
   態(死の状態)のみが、同様の特徴的内容を持ちうる「願望」になる。
   そういったわけで、利己的な「願望」という特殊なフロイト的ことばが、こういった2つの”性格”
   を持つのは、特別 深遠なこと などと思わないほうがよいといえる。

   実際、日常的会話の中で、このような含意を生む「限定句無しの”願望”」という言葉を、用いれば
   必ずしもはっきりとは認識できないまでも、何となく違和感を伴う。実際、フロイトは 精神分析に
   伴う、(夢は願望の説に対しても)患者の抵抗を、実例で紹介し、強調する。そして、同時にそのこ
   とをも、自説に利用しようとする。

   ダリの描いた姿のように、フロイトは ある渦巻いた心の一つの典型で、それは、到底 ひとすじ縄
   で片づかない。(『夢判断』全体に見られる、その困難な主題を克服していく叙述が、紛れもなくフ
   ロイト自身が、ある大きな事態そのもの、または”偉大”であることを示している・・ということで
   もある。)


   そんなわけで、イルマの夢にリアルに描写された現代的な社会の複雑な生活下の人間関係における
   ”利己的な願望”といわれるもの姿と次の章に取り上げられたいくつかの夢は、具体的な欲求という
   ことに自然に注目すれば、決して素直につながらない、むしろ、大きなギャップの違和感を本来もっ
   ていることに気付くのであるが、にもかかわらず こういった重要なことがなかなか見えてこなかっ
   たのは、そこに何かがあるからなのだ。

   すなわち、そこを目立たなくさせているのは、フロイトの奇妙な言い回しだけでなく、そこで取り上
   げられている”子供の願望の夢”が、きわめて重要な役割を果たしていることになる。
   チョコレートの夢やサクランボの夢を、フロイトはただ並べているのでない。そういうものを単純に
   欲しがることを現した子供の夢から、”子供のわがままな姿のイメージ”を、幾つも描き出すことに
   よって、はじめて、生物的単純な欲求と、イルマの夢の大人の人間関係の自分勝手にもとれるような
   態度のイメージを、結び付けることが出来るのだ。
   さらに、両者は因果的関係で(いかにも19世紀自然科学主義ふうに・・)結びつけられるうるもの
   となるのは重要である。(cf性格論、幼児性欲説・・)

   しかし、ここで強調しなければならないのは、フロイトのこういったような議論において「子供」と
   いうものが、”そこにある物事を見えなくするもの”『ブラックボックス!』として、利用されてい
   るのでないか?ということ。
   (”本能”ということばも、フロイトはその線で用いる・・)

  「・・下方世界、秘密の地下室という観念。隠れている気味悪い何か。2人の子供が生きているハエを
     人形の頭に閉じこめ、人形を地中に埋めて逃げ出すというケラーの話し・・」
                            『美学についての講義3・26 p177』

   フロイト説を、考える場合、忘れてはならないのは、その”オカルト話しめいた”効果であり、
   暗闇から、グロテスクな、もしくは強力な何ものかが、思わぬ形で次々と飛び出てくるカンジ。

  「 ”われわれは、この夢が本当はしかじかであるという事実を回避できない”といいたくなる強い傾
    向が存在する。それは、その説明が極度に不快であるため、敢えて受け入れざるを得ないという事
    実なのかもしれない・・・・。」          『美学についての講義3・24 p177』

   その”強い傾向”とは、何か?
   今となっては、われわれはある程度の想像をすることが出来る。
   フロイト説は、間違いなく ハカイ的な作用に 効果を上げることが出来た。
    (19世紀的西欧のある種の安寧の雰囲気・・・)

   フロイトにある、「トリック」めいたものも、フロイト自身の言い方に沿っていくなら、敬意
   をはらう理由は十分ある。ただ、今日 無意識というものを、まだ”おどろおどろしいもの”
   のように捉え、しかもフロイトによって、人々がそのようにしか見ることが出来ないとすれば、
   それは大きな害だといわねばならない。
   

            
   
      【J】の部分は以上で一応、終了です。近々【K】の部分を付け足して行くつもりです。



                           //「2002年、3月23,24日記す」   

 

    ● なお、本文中の引用文、その書籍のページ数は、以下のものです

      角川文庫 改訳『精神分析入門』安田徳太郎・安田一郎訳

      大修館書房 ウィトゲンシュタイン全集 第8巻『哲学探究』 藤本隆志訳

      大修館書房 ウィトゲンシュタイン全集 
            第10巻『美学、心理学および宗教的信念についての講義と会話』
                                   藤本隆志訳





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