※Sフロイトの『夢判断』について:J     


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【J・F】

      
   さて、『イルマの夢』の説明が終わったあと、「L   夢は願望充足である 」という節には       
   いるのだが ここは、『夢判断』のなかでも、もっと注意されて読まれるべきところである。
   そもそも、最初の「入り組んだ小径のあとで、突然 高みに出る。そこから道が八方に・・」
   という出だしから、変にレトリカルで むしろ何かはぐらかしているようにもとれる特別のト
   ーンが、ある。 

   前章を、受けた 夢がひとつの願望充足であることが、全般的に成り立つことを、他の実例で
   次々に示して行こうとする。   

    ・フロイトの水を飲む夢  ( この種のものは特に”便宜の夢”とよばれる。・・)
    ・あごの手術をした女性の見た、その患部の湿布をとってしまっていいという夢。
    ・妊娠している女性の妊娠のわずらわしさから逃れたいという夢。
    ・伝染病にかかっていた子供の看病が終った女性の社交の夢。
    ・子供の単純な願望の夢・・チョコレートの夢、さくらんぼの夢。湖に船で遊んでいる夢、      
                 ギリシャ伝説の夢・・
    ・動物の夢・・地方の言い伝え・諺から「鵞鳥は、何の夢見る?とうもろこしの夢を見る・・」

   これらの夢は、のどの渇きの欲求の例から、皮膚的快感への欲求の夢(湿布)、妊娠に関連した
   欲求の夢、性的欲求の夢(社交の夢)へと流れており、もっとも単純ではっきりした身体的欲求
   である渇きの夢から、複雑なような社交の夢(フロイトが解釈するには性的な願望だという・・)
   へつながるように意図されていることが、わかるし、リアルである一方で複雑な『イルマの夢』
   へと、単純な欲求から、諸々の欲求の夢を連続させようと図っているということになる。
     そして、もうひとつの重要な欲求である食欲からの夢を、子供の夢と絡めて続いて置く。
    (そこで、子供的な願望≠フ必ずしも、身体的欲求でないもののわがままな夢の例が付け加
     えられ―湖の船の夢、ギリシャ伝説の夢がそれにあたる・・後でつながり易いよう子供の願
     望自体をを膨らましておく。・・しかし、これらも子供的なものであっても、ある種の美的
     なものへの憧れの気持ちで、それは場合によっては利己的なもので全くない時もあろう・・)
   最後に、諺から例を採ってこられた動物の食欲の夢にまで至らせる。
 
   こうすることで、前章の『イルマの夢』の“願望”と、身体器官的な欲求からの夢、さらに生物
   的現象としての夢までが、一体化したもの≠フような印象が与えられるように努力されている。

   フロイトにとって、自明に存在する生物の欲求的なもの同様に『イルマの夢』にフロイトが見る
   夢の内容である”願望充足”もしくは、精神における願望が、人間において自明に存在する根底
   的なものとすることは、非常に必要なことで、だからこそ、他のあらゆる”精神的な”諸学芸を
   も「患者」の立場へ置くことが可能になるはずであるから・・。

   この「L 夢は願望充足である」の章は、最後の動物の夢がわざわざ諺めいたものから、採られ
   たあと、「・・現実において自分の期待をはるかに越えること出会うと、人は狂喜してこう叫ぶ
   でないか”いや実にどうも夢にも思わなかった”と。」(夢判断・上巻・p173)という風に、こ
   こでも妙にひねられたかたちで締められる。しかし、このようにベールをかけて、ぼんやりした
   ような、上品なような口調に惑わされず骨組みを見たなら、前章からここまで、いくつかの夢を
   並べて見せただけで、イルマの夢の内容とかみ合わせられているわけでもない。前章の「願望」
   ということばと、あとの夢に顕れているような人間の欲求のようなものが、言葉として近い以上
   のものは、実際示されていないのである。

   そもそも『イルマの夢』のまとめやLの始めところ(「願望充足ということが、夢の唯一の意図
   であるから、夢は完全に利己的なのである・・」p162)で、願望であることと同等に強調されて
   いる”利己的”ということも、自らの例を用いて、自ら懺悔するように”説得的”に述べてはい
   るものの何が示されているのだろうと考える必要がある。

   たとえば、フロイトが Dr、Mに対して、不満を抱いていたことも、医療に際する心理的方面の
   関心をもっと持つべきだ、というような十分社会的正当性をもつことが、背景といえぬか?その
   不満は、必ずしも”利己的”とはいえない。オット−やイルマに対する不満も、医師として患者
   としてふさわしくない点があると、フロイトが普段考えていたから、というのも十分想像しうる
   話である。ただ、夢の中では、夢の中の治療法が不完全なのとおなじように、その考えが不完全
   なかたちで、顕れているとみなす方が、無理のない受け取り方ではないか?そして、夢の中に顕
   れる不完全な他者への批判の、おかえしに夢の中では他者にずいぶん親切すぎることもよくある
   ことでないのか?(これを、フロイトは後で「偽善の夢」と呼んでいるのだが、それも、結局
   フロイト特有の解釈のうらがえしとなるもの・・・)

   「ー新生児には歯がない。ー鵞鳥には歯がない。ー薔薇には歯がない。−ともかくこの最後の
     文章は、明らかに真である!と ひとは言いたくなる。そのうえ、鵞鳥に歯がないことよ
     りも、いっそう確かであると。ところが、それはそれほど明確でないのである。なぜなら
     薔薇は、どこに歯があるべきだったのか。鵞鳥はあごに歯はない。もちろん、翼にも歯が
     ないのだけども、鵞鳥に歯がないと言っているひとは、誰もそんなつもりで言ってはいな
     い。ーでは、ひとがこう言ったとしたらどうか。牝牛が飼料を噛み、それから それでバ
     ラに、施肥する。それゆえ、薔薇はある動物の口に歯をもっているのだ、と。ひとが、薔
     薇の場合どこに歯を探すべきか、はじめから全然知らないからといって、そのひとの言っ
     たことが、ばからしくなるわけではなかろう。・・・」『探求・第2部p443』

   フロイトのいう”願望”とか、”利己的”とかいう概念を巡る論述は、『イルマの夢』のディフ
   テリアの症状、赤痢、コカイン注射の用法、ズルフォナール投薬、といった記述が装飾的に感じ
   られるほど、別の流れの発想で、むしろ 伝統的な哲学概念としての、欲求や意志、自我、身体
   等の用法に近づけて考えた方がよく、フロイトを批判するにしても賛同するにしても、その概念
   の流れを、取り違うとその文章に全くかみ合っている感じがしなくなるし、不用意に漠然と拡大
   された”神話”(cf『フロイトについての会話p224』)に近くなる。

   だから、さらにこのように考えてみることが出来るだろう。

  『夢判断』には 余り出てこないが、フロイトは一体的な「欲動・リピドー」という特別な言葉を
   使いたがり又、夢判断でも積極的な願望と、言ったりして、むしろ、個別的なニュアンスの欲求
   の意味が出るのを、なるべく避けている。フロイトのこういうやり方は、一面では非常に重要な
   事で、夢が、単なる器質的な刺激から、直接形成されるのでなく、「願望」というその人の(フ
   ロイト的に言うと、利己的)全体的なものから、それらを夢材料として統合的に形成されるとい
   うことで、それが顕在内容・潜在内容の区別の考えなどを含めた、変形のファクター、様々な夢
   の現象において、かって全く知られていなかった(正にそれが、総合的である必要ゆえ)、何か
   主導的な機構のようなものの存在というフロイトの本当の非常に大きな”発見”に、つながって
   いる。そちらを重んずるために、欲求というより、願望の積極的なもの(の一部)とする表現が
   好まれるということにもなる。しかし、この「願望」の、このような在り方としてしか言い表し
   ようのなかったところから、いろいろおかしな事が生じてくるのである。

   
   
   
    





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