※Sフロイトの『夢判断』について:J     

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【J・A】

  

 さらに、ここで注意しておきたいのは“器質的”なものでない方向という、フロイトの方法   
 の傾向である。フロイトが、本人が思わせたがっていたほど「科学的」ではなく「思弁的」
 な考え方の人物だという2度目の大戦後には、珍しく無くなった風評は、確かにもっともな
 ものなのだが、しかし、今、強調して置くべきなのはそのフロイトの「思弁的」なものは、
 案外 奥深くまで食い込む類のものだったと云うことである。

 “「夢は意味のない現象である」というのと「夢は身体的な現象である」という、すでに
   唱えられている2つの見解に対して我々は断固として反対せざるをえなかった・・”
                             (夢判断・下巻p357)


 だから、当然、夢というものは、意味的現象であるとも云うことも出来るだろう。そういう
 わけでフロイトは、夢が単に支離滅裂なものでないといい、「・・夢は実際にひとつの意味
 を持っており、支離滅裂な脳活動の表現でない・・」(p158)また脳障害者、精神障害者に
 ある夢は歪曲が甚だしいから、健常者の夢の方が分析にふさわしいとしたり、また 「・・
 私は、これまでに睡眠の問題(睡眠状態の特性描写のうちには、心の構造にとっての諸機能
 条件の変化が一緒に含まれてこないわけにいかないとはいえ)はもともと生理学上の一問題
 だからである。したがって睡眠に関する文献もここでは度外視する。・・」とはっきり言う
 わけだから、 この本の中に、直接的な脳神経学的、生理学的記述が殆どないという注目す
 べき大きな特徴は意図的なものである。(だから、その意味で古くもならない・・)

  「 心的生活が、実証可能な器質的諸変化から、独立的であることや また、心的生活の
   いろいろな実現における自主性などを証明しうるようないっさいの事柄に出会うと、
   今の精神医たちは、驚き怖れて、そういう事柄を、承認しては自然哲学や、形而上学
   的な心霊を考えた昔に逆戻りすることになりはしないかと、うろたえる有様である。
   精神科医の不信は、人間の心を財産管理の下において、心の動き一つ一つでも、その
   心自身の財産であることを暴露するようなことが、あってはならないと考えているか
   のようである。しかし、こういう態度は、私に彼らが身体的なものと心的なものの間
   に架け渡されている因果の鎖を実はたいして信用していないことを物語」」っている
   としていいであろう。(cf→”心という機械”というフロイトのことば・・筆者注)
   心的なものが、実際の研究に際してある一現象の第一義的動因であることが認知され
   る場合ですらも、さらにつっこんでみると、心的なものが実は器質的なものに基礎づ
   けられていることがいつかわかるはずであろうが、しかし、そうであるからといって
   、心的なものがわれわれの認識にとってぎりぎりの終点を意味せざるを得ないような
   場合に、なにもそれを否定するには及ぶまいと思うのである。(夢判断・上巻p59)」

 このことは、今も新鮮な問題なのであり、いくつかの重要なテーマをもっていると考えるこ
 とも出来よう。

  「・・ある種の運動形態は生理的に不可能だから、わたくしには例えば、立方体の図式
   を2つの互いに入り組んだプリズムと見ることは、出来ない。・・・等々  これが、
    証明になっていたとしよう。―「そう、いま わたくしは、それが見ることである
   ことを知る。」―あなたは、今や見るということの新しい、生理学的基準を導入した
   のだ。そしてそれは、古い問題を隠蔽することができるかもしれないが、それを解く
   ことは出来ない。 ― しかしながら、この考えの目的は、われわれに生理学的な説
   明が提供されるとき、どのようなことが起きるか目の当たりに引き出してくることで
   あった。生理学的な説明は、かかる説明に抵触せず中空に漂っている。そして、我々
   の問題の本性は、それによって明らかになる。・・・・」

 これは、『哲学探究』のウィトゲンシュタインである。(第2部・p423)まず、両者の考察
 を、生理学的なものとの関係から、比較してみることも出来ようし、「説明」が、心の領域
 でどのように、必要なものとなるか?その限界における問題をそれぞれ明らかにしようとし
 ているのを、延長的関係で捉えることは、実際 役に立つ見方なのである。(とは、いえ
 ここら辺りを、カントの理性批判などと安易に結びつけることは、“専門家”の陥りがちな
 “浮いた”言葉使いになることもついでに、云っておきたいのだが・・・・・・)
 『探究』の最後のページ(SJN)は、物理学に現在の心理学を対比させ概念の混乱と、実
 験的方法へのある批判を行って終わる(数学の別のかたちへの示唆と共に)のだが、『探究』
 全体に、夢や心理学に関する言及部分は多い。
 
  「わたしは、あるときウィーンで若い女性芸術家の手になる画展を見ていた。そこには、
   地下室のようながらんとした室の絵があった。2人の男がシルクハットをかぶって椅
   子に坐っている。その他に何もない。そして、その画題は『Besuch訪問』。これを見
   て私はすぐに、“これは夢だ”といった。私の姉がこの絵の話をフロイトにしたとこ
   ろ、彼は“その通り、それはありふれた夢なのです。―処女性に結びついた―”と言
   ったという。その画題が、夢として片付けられるものであることに、注意せよ・・・
   ・・・諸君は、あらゆる絵について、これが夢だとは、いわないであろう。そして、
   このことが、夢言語のようなものが存在することを示しているのである。・・・・」
                        (フロイトについての会話p211)

 ウィトゲンシュタイン自身が、特に言及し名前を挙げている人々としてフレーゲ、クラウス
 、シュペングラー、ヴァイニンゲルなどと共にフロイトがいるが、こういう限られた人々の
 類似性と違いを見ることは、ウィトゲンシュタインの理解にも大変有用になる。 普通思わ
 れている以上に、フロイトとウィトゲンシュタインの問題意識は似ている。



 ところで、フロイトの文章は、テーマ自体が面白みのある題材であるわけだし、それほど、体
 系的な用語ばかりを並べて話を進めるのでないから、一読するくらいでは、そうとも感じない
 が、実はかなり晦渋な文体といった方がいい。シュルレアリスムの画家、ダリが、ツヴァイク
 の紹介で、1937年 直接 会見している事実は、やはり、それなりに面白いことだ。ダリは、
 そのことを『告白できない告白』(1973年刊行)で得意の誇張を織り交ぜた口調で書いている
 が、フロイトからツヴァイク宛ての残っている手紙も事実としてそこに引用されている。

 「私を、守護聖人として選んでいるらしい それらを、完全な狂人・・・純度95%の無水アルコー
 ルのような確実性で・・・と、見なそうとしていたからである。狂信者のあどけない目と、否定
 できぬ腕の冴えを持つあのスペイン青年のせいで、私は我が意見を再検討せねばならぬような
 気がする。・・その種の絵の発生過程を分析的に研究するのは、興味のあることだろう・・・。」

 実際、「レオナルドの幼年期のある思い出」という有名な割と長い画家の精神分析を、行って
 いるフロイトが、興味をもったのはたぶん本当だろう。
 (無意識的物質と前意識との同化の量的関係から、彼が、芸術の概念の拡張は一定の限界があると思っていたにしても・・)   

 夢判断・下巻O夢の作業p10でもまた絵の表現の限界に言及しながらも、視覚的的語法につい
 て論じているのは重要となる。 そのダリは、亡くなる一年前のフロイトの姿を、“渦巻き
 カタツムリの原則によってかかれたデッサン”として描いている。フロイトの文体は、一見
 平易にも見えるが、一旦出した結論を、後で否定したかと思うと、また肯定するような流れを
 とる場合も多く、概念が単純に実はまとめられない。数字を振ってあげたことがらも、ときに
 どれを指すのかすぐには、見えない。それに比べれば、カタルニアのダリの書き残したものは、
 ペダンティックな装飾がなされているとはいえ、発想が具体的で概念の混濁が少なく、むしろ
 明快でもある。特に、フロイトのあげる夢の実例など、ダリならば多分面白おかしく省略、単
 純化しただろうものを、プライベートな理由その他で、部分部分引用し、ある部分を隠したり、
 あんまり関係ない部分も事実のままに(相当の程度で、たぶん・・)細々と書いてみせるのも
 話の全体像がぼけてしまうようなところがある。

 もちろん、フロイトは、自分の夢を書き記したのは、楽しみのためでなく 夢の分析の手段と
 して最もメリットの多いものだと考えたからで、あの“イルマの夢”も、フロイトの親族に近
 い若い女性・イルマを診察していたフロイト自身が、当時 イルマにかんする夢を見た話しで
 ある。これも、登場する人物が読者にはいきなりでわかりにくく、(なにしろ、親族でもない
 読者には何の予備知識もない人たちであるわけだから・・)そもそも、イルマの病気もヒステ
 リー性でそんなにはっきりした病気でなく、そこに局所性ディフテリアetc〜、プロピール製
 剤etc〜のある程度専門的な病気の話題が、相当入ってくる。(しかも、結局 主筋には余り
 関係ないところもある・・)

 結局、『フロイトは、ヒステリー気味のイルマを治療していたが、夢の中の診察でイルマがフ
 ロイトの治療法を十分受け入れないので、イルマが「首、胃 お腹が痛い・・」と訴えても、
 フロイトは、「君自身の責任なんだぞ・・」という。さらに、のどを診ると、病気の症状があ
 るので先輩格のDr、Mに相談する。そのDr、Mは、レオポルドという医師に診察させ、その結
 果から、彼は「伝染病になっているが、これは問題ない。赤痢になる毒物も排泄されるから、
 大丈夫だ。」という。しかし、そこでフロイトは、この伝染病の原因を作ったのは、そもそも
 オットー医師(フロイトの同僚でレオポルドの親戚でもある・・)が、プロピール製剤の注射
 をしたためなので、彼のした注射の消毒も不完全だったことが原因なのだろうと考える。・・・』
 少々乱暴に単純化すれば、こういうような輪郭の夢の話と考えられる。

  このページの文章、細部で少し整理し直し。(2003/6/22) 



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