◆少し改訂2002/9/7

:シェークスピア映画とウィリアムウォルトン作品




  
    「ハムレット」    
                             (1947英作品)      

        ローレンスオリビエ  監督、主演   
  

    バジルシドニー       (クローディアス)
    エイリーン ハーリー  (ガートルード)
    ジーンシモンズ        (オフェリア)
    テレンスモーガン      (レアティーズ)

              トゥーシティーズ フィルム 制作






1、 ハムレットの「位置」のもつ”特異点”

今日まで多くの人たちが、シェークスピアについて語り、
「分析」を試みてきた。その様々な内容解釈が 最も多
数 公にされた作家であるだろうし、また、それは定説
に焦点を結ぶというより、むしろさらに拡散していっているようにもみえる。
こういう事は歴史上の重要な”思想”に大体当てはまる”特質”でもあるのだが、最も極端な例の1つといえるか
もしれない。こういった、極端さ を 形作ったのは、見方によっては 明瞭なことともいえ、「英語」自体の事情
が第1の理由と充分なるだろう。シェークスピアが、その言語が確立される頃の時代に生き、その基本的センスを形
作ったというのは、しばしば言われる事ではある。かっての素朴な人間の営みから辿っていっても このように一つ
の言語体系が、全くかけ離れた種族、文化に幅広く”国際語”的に 支配的に 通用するというのは他に及ぶものが
無いくらいではある。(多様な視点から見て、スペイン語等よりも・・)
その世界的状況のなかで いわば”空気”のように 演劇といえばシェークスピアであり、リア王、ハムレットという
こととなる。通用性と意味の固定的”理解”が必ずしも一致しなくても(また大きく一致しなくても)良いというの
は近代性、”資本主義”性の根本的特徴とすらいえるのだが、われわれが それに どっぷりと浸かっており その中
にいればそれがどのようなものか知る事は出来ないのである。
とくにシェークスピアのような劇台本の、活字だけの関係では、読者、そして演技者に勝手な世界を、読み込む事は 
小説のようなジャンル以上に容易となる。もとの意味は感ぜられず、よくある上演形態のように単なる殺人事件の話
のパターンの基本型みたいな捉え方となるのは むしろ ふしぎでないことだろう。

とはいえ、そういった”権威”となったWSに対して、いろいろ異論も唱えられてきた。Lウィトゲンシュタイン
のいう、「・・シェークスピアの比喩は 荒々しすぎて 受け入れ難い・・」といった非常に尤もな指摘もあるし、・・
(例えばそのように思われるシェークスピア独特の乱暴な比喩は、いろいろ思い浮かぶ。文字どうり乱暴なまた性的
な表現は数多いし、また少し違うが「・・アレクサンダー王の貴い遺灰も、ゆくえを辿れば酒樽の栓となる・・」
「・・鳥の落ちるのも神慮だ・・」{以上ハムレットより}..こういう言い方も、またある種の乱暴さになる。画家の
アングルの「熱さで死ぬものはないが、冷たさで死ぬ事はあるものだ・・」という言い方に良く似た粗雑さだが、こう
いう言い方は、およそ稚拙から来るものでなく、ある切り捨て計算の冷たい”無関心さ”からくる。etc・・)
さらに、またハムレットの存在などに対して否定的態度を示す例は少なくない。
TSエリオットの「ハムレットは失敗作・・」等も考えるべきところのある意見となろう・・。


日本などではその内容から、「リア王」の方が在来的感受性と結びつき易く ずっと受け入れ易い傾向にある。また、
 草枕のオフェーリアイメージ、それからでハムレットを下敷きにしている・・等々の漱石はハムレットに不満をいろいろ
な形でもらすし、小林秀雄はオフェリアに託した一文をわざわざ書いている。(おふえりあ遺文、に関して後述) ただ、
こういった一種の批判を考える前に、饒舌なハムレットが そもそも 実感のある人格として伝わったのかを疑問に思う必
要がある。

今も演劇の世界的な中心地のひとつといえるロシア系の劇団の新奇な演出のあるハムレットなどは、結局 王家やある体
制のたんなる”悲劇的な”ものがたりとして演じられていたし、日本の劇団のものなどは  ハムレットの長台詞が 歌舞
伎調の大袈裟な効果という意味で理解された新劇流?となっているもの・・・・etc。

オリビエの「ハムレット」の特徴は例えば クローディアスもそれほど悪人ぽくはなく、むしろもっともらしい身なりの”
普通の人”のように描かれていることにも現れている。また ハムレットが最も 大言壮語するシーンの一つは、妹を失っ
て悲しむ”同情すべき”レアティーズの死者へのたむけの言葉に対して激怒するところであり、それは母親を問い詰める
と近い程度のエネルギーが費やされるが、こういったことは共に 本当は万人の共感を得にくいし、ちょっと考えただけ
では理解もしにくいはずのものである。ところが、こういう描出が最後の山場の前にもかかわらず 一見 どうでもいい
ようなオズリックとの会話を意味あるものにする。原作では小柄とされているが 長身となりより”伊達男”性を強めら
れたオズリック(帽子をのせたハエ男)をあしらう このシーンは単なる休憩でなく むしろハムレットの根本的な主張が
あり、日常的な会話の強調(実際原作では言葉遊びや性的な冗談が頻出する)と 裏腹の そのセンスを失い かたちだけ
の虚飾の表現に対する嫌悪であることの重要性(それは、クローディアスに対する嫌悪でもある)が、オリビエの演出で
は一貫して解るのである。しかし それは単純にシェークスピアに忠実というものではない。元来 朗読会的な上演であっ
たゆえに説明的な文句がセリフに盛り込まれているが、それをかなり省いてしまうというのが、オリビエの方法のようで
あり、またそれは映画技術に対応した”リアリズム”をシェークスピアに初めてちゃんと持ち込んだといえそうである。
(レコードがクラシックの演奏スタイルを変えたように)舞台の桟敷席には必要なものも、写真の連続体である映画には 
余分で また写真的描写に即したものに変更するというのは むしろ 怠ってはならない事ですらあろう。今見ても その写
真的なリアリズムは、幽霊の出現する際の大きな心臓の鼓動音(控えめなミュージックコンクレートの試み・・) 又 役者
自ら行うこととしてレアティーズとの剣闘の情景などとして 効果を最大限に活かしていると見てもよいし、そういったと
ころから、つまらない凡人のローゼンクランツ、ギルデスターンが、結局クローデアスの性格に吸収されたり、”殺害の方
法”や細かい状況 セリフが 実際の事件のようにもありうる格好に整理されているのも「シェークスピアに忠実」を超えて
全体が現代的なリアルな読み込みによって成立していることに主として関連する。
(もちろん、映画の上演時間という問題を意識していることも、本人が言っている)

 そして、オリビエのやったような こういった理解は決してどのような演出に際しても見られる類のものでもない。
 すなわち、 ハムレットの究極の行動は 母親やレアティーズ、オフェリアそしてオズリックらとの言葉のやり取りの
中からおこるのであり、逆に「・・マクベスはついにハムレットではなかった。なぜか 血をもって贖った王の称号には、
高貴な血脈は通っていない。所詮マクベスはハムレットのごとき宿命的な個性は持っていないのだ・・」(福田恒存マク
ベス論S22年)というような”所与”的要素の性格付けの演出傾向では 追いかける事の出来ないものと考えた方が良い。
宿命であれ血脈であれ それほど ハムレットの個性がもっともなものかは、実は微妙なところが問題なのであり、17世紀
初めの詩句的な方法であれ、映画的方法であれ ある種の「リアリティー」を持った言葉のやりとりから、考えねばならな
いわけで狂人の真似をし、天災の類縁、宿命してとして復讐を実行する「クラノスケ」の話とまるで変わらぬものなれば、
セリフは宙に浮くか、全体の中に埋没するというのが、実際となる。

又一方、オリビエの「リアリズム」は、ハリウッドで流行ることとなる”スタニスラフスキーシステム”の役者たちとも 
大きく異なるのはやはり注意すべき事柄である。(王子と踊り子 56年)むしろ、目立って普通のイミでは現実感とかけ離
れたシーンが発展の極として、置かれる・・例えば「リチャードVのラスト」・・。それは、役者の「詩的感覚」や「象
徴性」ともいえるものを、常に保とうする意識で、無機的なまで 日常人の態度をマネようとする60年前後の”システム”
の役者たちのやり方と相当隔たっていると思われる。

そのオリビエの感覚はむしろ「音楽的なもの」、音楽が本来の力を発揮するような言葉の状態、とでもいえるものでもあり、
これは彼の映画の47年の「ハムレット」の最も重要な特徴となっているもの。実際 LOは「・・この映画を作る時頭に在った
のはウィリアムウォルトンのテーマ曲だった・」と述懐している。彼は普通の映画監督に比べ希なくらい映画音楽に協力的
な”監督”であったと言っていいは、彼の伝記的著作からだけでなくとも 想像しうるが、これが彼独特の”明晰”な演技
の言葉の魅力と 一緒になった音楽によって 作られる 驚くべき この映画の本質を生み出している。映像と音がシンクロ
する事はトーキー以降の映画の当然の事柄ではあるが、劇伴音楽にもあった特徴がより決定的な明瞭さを帯びる事となる。
すなわち、それ自体がどんなに優れた音楽でも 映像とマッチしないと必要な意味合いが生まれない ということが、かなり
の”客観性”で判断しうる という問題である。

映画音楽には、色々なタイプのアプローチがありうる。いわば映画における自然で密接なチームワークの重要性を語って
いたと思われる言葉「・・映像で言われたことを、音楽で改めて説明する必要など無い・・」(武満徹)一方、
WWは、かなり独立的に映画のための音楽を作曲する人でもあり、それゆえ この言葉であるイミ揶揄されたような傾向が
全く無いわけでないタイプだが、この「ハムレット」においては、シェークスピアの言葉による描出にウォルトンの様々
な情景の描出が、積極的にかなり荒っぽくぶっつけ合わされる事で相互の共有する部分が強調され、ハムレット本来の
強烈な人間的存在性が、分析されて 画面に漂う 結果となっている。

そして、それは少なからず”英語的なもの”であり、”自然的”な状態では分割し難くあるものを、強引なまでの意志
でもって解体 再構成しようとする意欲を、根本的な特徴として両者は持つ。エリオットの「ハムレットは失敗作」との
議論は、ボローニアス殺害などの軽はずみな行為などは、「心理的負担を解除するためのもの」の「気分」的パターン
でしかなく全般に劇としての必然性が十分でない。その悲劇にふさわしい「外的対象の欠如」・・ ともまとめられる
考えだが、むしろ それはまっとうな意見であろう。「対象の欠如」とは 単純に”復讐劇の名作”と既存のものとしな
いで考えれば、ハムレットの行為が 様々な社会の根本的構成要素をハカイする-もっともらしい父の復讐を掲げながらも
 家族の騒動を 好んで拡大していこうとするともとれる傾向-がそれとなく読み取れてくる事への不快の表現とみた方が
いい。この種の”不快感”をトルストイなどもしばしば口にしていたし、実際 ハムレットの口調はちゃんと考えれば
かなり、特殊というべき ある「気分」と結びついている。例えば チャイコフスキーの”ハムレット幻想曲”は、彼のオ
ーケストラ作品と見た場合 それなりによいものだし、WWのものの各シーンに密接に付けられた曲が、音楽の自律した
論理の貫徹を妨げられているに対してもっともらしい演奏会用として座りの良いものともいえるが、オリビエの描き出し
たハムレットに重ねれば余りに薄く、このように不可解なまでの粘着的な ある「気分」とは遠く、(必ずしも音符の数の
イミでない)表面的に感ぜられる事は歴然としている。

ウォルトンの音楽の中のオリビエのハムレットは確かに言語、土地のプリズムを通された歴史の広がりの中でも恐らく
比類のない稀な繋がりでもって、かって1度はたとえ作者の脳髄を出ることはなくてもあろうとありえたであろう ある
人物の充実した瞬間をフィルムの中で今も見せてくれる。それは当然”お国もの”という問題の絡んだものでもあるが、
ただこの場合考えなければならないのは、同時にそれをずっと超えている大きな現象なのだ。

近代産業社会はストラットフォードアポンエイボン生まれのちょっと前まではまるで富裕でもなかった劇本作家まで株主に
する社会から生まれ、ほとんど英語圏の世界化に比例して拡大したわけだが、その秘密は奇妙な仕方で生まれた場所を越え
ず隠されていたといってみることも出来る。(演劇台本というのはあまりに補弼されるされるべき要素が多くなる”芸術作
品”のジャンルともいえよう、・・小説であったらより作者の意図はハッキリした??・・それは「自由」ともいえようが、
能が台本だけ存在して、伝承的要素が全く失われたケースなどを想像すれば この事態が本当はどんな意味を持つものか 
別様に見ることとなろう・・)
この音楽を付けられた映画「ハムレット」から俯瞰することが出来ると、世界化した他の上演形態は、根本的にあるものが
欠けていることが解ってくるし、同時に ここに盛り込まれた特別な情緒からみれば むしろ、他のハムレットにある「欠
落」は、手軽な普遍性の手形 と 無条件の品質保証 という奇妙な2重性において、社会が歴史でもって生んできた「必
要要素」として 実は 透かし出されて見えてくるものにもなる。

いわば”新しい世界”を発出させた”その点”が 作り出された世界と矛盾する”原理”によっている。その点は全く同じ
モノは2度とないだろうし 同等なものも稀で その元の場所においても無意識の語られないなかにある。そこから生まれた
”新しい世界”の不安な動きの全体に対応するに、その元々の「点」を”身近に”見ることは、本来われわれ自身に必要な
”われわれの”「コントロール」に最も近づく。
ハムレットが、何かしらシェークスピアの一番の代表作とされてきたのは理由のあることで例えばギリシャ悲劇などの古代性
と最も違う自我の意識が端的に現れた作品であるからといっていいだろうし、そしてそのことは今まで多くの人に、何となく
その重要性として直感されてきた理由でもある。

このオリビエの「ハムレット」は、それなりに重視され、今でも十分”名作扱い”はされているともいえるが、ある種棚上げ
の観がある。実際 映画的な”鑑賞をすれば本当は違和感があるとすら言える。
このハムレットはその行動から見ると 大体20代半ば前後位で、(※ 文中のセリフから単純に計算して30歳とする考
えがあるのはもちろんだが、ものごとを大ざっぱに語ることもあるものだし、総合的に考えた方が良い・・)そのスレスレの
行為の真実をリアルに理解させることが出来るが(例えばエリオットに対しても?)当時40歳のオリビエは余りに大人っぽ
すぎ、貫禄?がありすぎるのは否めない。そしてこのことは全体の映画としての印象に大きな影響を与える。
(舞台であるならばさほどでもないであろうがより開かれたジャンルの映画はそうでもない・・)
とはいえ、このことはオリビエも強く意識していた、「Confession of Actor (82)」中で、”ガートルード役のエイリー
ンハーリーは私より13歳若かった!しかし こういった”厚かましさ”気にしていなかった何故なら「それがハムレットだか
ら」・・”と書いている。彼は「それはお約束事だから・・」と言ってる訳だが、約束ごとは「外部」には通じないものだし、
それは固有の影響を持つ。日本の「女形」の習慣は体制が"危険"を予想して作り出した規制から生まれた約束事だし、17世紀
にイギリスでも似た理由から女優はいなかった。結局、不問のうちに行われるそういった”間接化”で隠されたようになって
しまうシェークスピアの「本質」に外部から当てる照明は”音楽”となる。


 ◇上のアンダーライン部分について:実際、この映画でオリビエが本当に30歳未満位だったら、ずっとこのハムレットの劇の
  ”本質”が、ピッタリ伝わることになったろうと、想像は出来るのでないか?そうすれば、エリオットの疑問のように「何
   のための悲劇なのか?」というようなこと(悲劇にふさわしい外的対象の欠如)は、きっと思い浮かばない。しかし、この
  リアルさは、多分多くの人に大変”危険なもの”と写るだろう。その問題が、実はハムレットの問題が全く古くなく、リア
  ルに生きている現実で、今もあるということの核心でもある。結局、”芸術”であるということにおいて”ベールを通した
  もの”にならざるを得ないことのある種、欺瞞的な奇妙な現象は、こういうことが、実は最も良い例にもなるのである。
                                                (2003/2/15追記)


2、 ハムレットの「優柔不断」の問題。
 
  

    「 ・・・イチイの樹のつめたい指は曲がってわたしたちのうえに垂れ下がるだろうか。
               カワセミの羽根が光によって光に答え、静まり返ったあと、
                       光はまだ回る世界の静止点にじっとしている。                   」

          ( T.S Eliot:  バーント・ノートン Burnt Norton W より  1936年)

         

TSエリオットの描くヨーロッパの都市風景は、のちに帰化した彼自身との微妙な距離感が見られ、また彼の頻用する
”水死のイメージ”とが 重ね合わされる・・・

 「河のテントは破れてしまった。最後の枯れ葉が指のように絡みつき濡れた
  土手に沈む。・・美しいテムズよ。流れよ!穏やかに。私の歌が終わってしまうまでに。・・ネズミが一匹土手の
  草むらをヌラヌした腹を擦りつけながら静かに這い行く。・・・冬の夕方、私は・・ どんよりとした運河で釣り
  をしていた、兄王の船が難破した事や、それに先立つ父王の死に思いを沈めながら。葬られもしないで海底に横たわる
  白骨の死体や、狭くて低く乾いた屋根裏部屋に捨てられた骨がネズミの足に蹴飛ばされてカラカラ鳴るうちに年月
  のたっていくことを考えていた。・・空虚な都市 冬の正午の薄茶けた霧のしたで無精ひげのスミルナ商人・・」
                        (V 火の説教  「荒地」1921年)


この都市において傍観者的な小狩猟者である釣り人は、「テンペスト」のファーディナントの言葉をもじったとされる
文句で王である兄や父のことを考えるわけだが、このように全くの小市民性で描かれる自己との対比性の材料として
TSエリオットにおいては、シェークスピアの登場人物等は 重要な小道具となっている。釣り人は 必要な配慮も受けず
「ほうむられない・・」王族たちが骨となり、又ネズミに蹴られるままになっていても何もできない。このようなダブル
イメージは、初期の「ブルーフロックとその他の観察」では もっとはっきりした用いられ方として、


 「  いや、俺はハムレット王子でない、また そうと生まれついてもいない。お付きの貴族に過ぎなくて、
    筋の進展、場面の転換に一役かって、王子に進言する従臣。全く手軽な道具、・・術策、用心深さ
    小心よくよく・・時には全く道化者・・」


 という自嘲的な言葉となって出てくる。そのつながりで、エリオットがハムレットについて物議を醸す発言をするのは
 彼の思考の明瞭な概観性を、好む姿勢と兼ね合わせ自然なこととなる。 例えば 、1927年の「シェイクスピアと
 セネカのストア主義」 において、オセローの最後の自己を弁明するようなな台詞 を長く引用して、「ボヴァリズム」
 として、即ち 事物をありのままでなく、わざとそうでないように見ようとする人間的な意志を読みとり、シェークス
 ピアほど暴露した作家はいないといい、マーストンやチャップマンの主人公たちと共通するセネカの影響を論じている。
 シェークスピアの”偉大さ”を自分がけなしているのでないこと注意しながら、「人間というものは、身をなげうって
 一体となるべき何かを持っている限り、宇宙と一体になろなどとはしないものである・・」と、ストア主義を分析し始
 める。ただストア派に関するエリオットの視点は、普通の哲学史のバランスから考えると相当強引であろうが、興味深
 い問題を提出するものではある・・・・
   


   【1999年11月頃記載・・・殆ど付け足してないようなほったらかし状態2002中には何とか出来る?/2002年4月】

  ※ 久しぶりに、このほったらかしの文を読んでみたら、 語を落としたり、変な繰り返し を誤ってやって
   ましたね・・余り雑なのもなんなので、 内容は全く変えていませんが、数カ所ほど文の流れを 少し良くな
   るよう補い、単純ミスを一応直しました。でも、見落とし部分もありそう・・・・・本格的に後続部分を作ったと
   き、行も もっとそろえて直す予定?       (2002・9/4)               
                                 




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