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【Kb・F】タイプ理論によって、別々にされた”世界”に同じ論理を通用させるため、下から上への貫通させる必要性 を説く還元公理など無理矢理のつじつま合わせの典型だが、(それは、まさに”渦巻き”の不安定な構造 を持つ!・・・)それでも、一方でウィトゲンシュタインの議論によって、現実的にラッセルのような体系が 払拭された訳でもないのは、まず、ウィトゲンシュタインのアフォリスム的書き方が”科学者受け”しなか ったことは当然あり得るし、また ウィトゲンシュタインの主張は何か確定したような印象を与え、余り積 極的に伝播されなかったのに対して、ラッセルの記号表記の方の、欠落した、完結しない表現への、むしろ 一つの”言い方の好み”として何か新しいものを開拓するような印象を与えるため、論理や言語の”機械化” を押し進めようとする人々にずっと影響(もちろん、それが”遊んでいる歯車”でしかなかったことを想像 するのは重要なのだが)もしくは、きっかけを与えた、という事情は一応考えておく必要はある。 (ついでに言っておけば、フレーゲにもタイプ・オーダー理論とある程度似たようなものはあるとされて いるし、またラッセルが自ら提言したパラドックスにフレーゲはとても動揺を示した話しは良く知られて いる。解決の方法は違っているのだが、彼らの体系に大きな不整合の痕を伺えることは、その発想の根本 的特徴の共通性を示しうる事柄となろう。また、フレーゲの名辞的な論理の旧守性・関連する民族主義! とラッセルの結果的に名辞的論理から分かれるがより不安定な体系となること・・・後でまた触れます) ただ今日まで、ウィトゲンシュタインの体系の説得力の根本性が、その体系の一体性と統一性においてある、 ことが従来十分に考えられていなかったのは強調すべきであろう。 言語と事物の対応として命題の写像理 論があり、また、写像出来ないものについて。そして、その命題、名辞等の構成としての「世界」の論理的 原子論があり、その関数表示による真理関数の理論、真理表。その分解的構成を成立させうる決定的な導因 としての論理定項の非積極的存在があり、その徹底としての否定操作と一般的命題形式。論理定項の一種と しての限量記号の定義における確定した論理的原子論における「世界」の存在、一般的命題形式から示しう る、それと根本的に異なるものとしての「操作」と、また同様なそれ自体 写像できないものとしての「論 理的形式」。そこから「数」の定義と「数学」の関係、そして、そこから無限公理・タイプ、オーダー理論 ・還元公理のナンセンス。また「物理学」と経験命題、非経験的なものとしての「倫理」、また非経験的な ”非理論”としての「哲学」。こういったことが円環的に関連し合い、また相互に深い必要性、必然性を持 つ。 また、「確率論」も、命題の真理根拠の、場合 組み合わせの数の分数比として簡単に関連がつくし、さら に、従来の「論理学」の扱った全領域も、 「 ・・・・論理においては、どの命題も証明の形式である。論理の命題は、いずれも記号によって述べら れた肯定式(modus ponens)にほかならない」 (6・1264) 「 ・・・われわれは、ある種の操作を幾つかの論理命題に漸次適用して、それと異なる論理命題を作り出 す。この点に、正に論理命題の証明が成り立つ。・・・」 (6・126) 「 論理の内部では、経過と結果は同等である。(それゆえ不意をつかれない)」 (6・1261) 、”唯一の”トートロジーのいわば 同等なヴァリエーション でしかなくなり、いろんなやり方で 積み重ねられた、”3段論法”のA、I、E、O などから派生した多くのことも、 素朴な”名辞” に傾いた論理学の不純な経験の入り混じったがゆえの体系だから、 「 論理のすべての命題は、同等の身分を有する。それらの間に 根本法則、派生法則といった区別 は、もともとありはしない。・・・」 (6・127) 殆どが抹消しうる問題だし、むしろ「論理学」が単に個別科学でなく、より根本的な「哲学」に留まりう る限り、”不偏性”に留まり、トートロジーの経験的軽重など扱うべきでないとなるのである。 こういったあるイミ徹底した、統一性、一体性を考えるとき、つねにウィトゲンシュタインの議論の具体的な 大体の発想とつなげて捉えなければならないし、単独の「語句」や、ひとつの「理論?」に囚われて考えると 殆ど常に悪意の誤解が生じかねない。(例えば、TLPの”無限”という言葉など確かに一貫性が保たれていない) ウィトゲンシュタインの「全体」なるもの、を捉える場合も特にそうなので、『論考』終わり近くの、倫理や 、意志、死や美、”世界の限界”に関する一見 ”神秘的な”「修辞」にも見えかねない、こういった部分は 写像や命題の”論理的形式”から直接 関連する部分なので、そういった視野 を常においていないと、その 「全体」は最も安易な誤解を誘発する源になる。そこでまっとうにウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」 の限界のもつ様相をみたなら、安易な”超言語”などばかばかしいとも思うだろう。ラッセルは大体において ウィトゲンシュタインに大きな厚意をもって接したといってよさそうなのであるが、ウイトゲンシュタインの 最も初期の草稿にみる「論理は、自分だけで自分だけを配慮しなければならない」(1914年 9月2日)という 発想の重大さと深刻さに十分感じることが出来なかった、ともいえる。 ( 2002年 9月30日 記す・・/ )
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