※Sフロイトの『夢判断』について:K     

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【Kb・E】
 

 フレーゲやラッセルの著述で奇妙なのは何か、つじつまが合わないとどんどん体系を拡張していって話を済
 ましているようなことで、その流れで基礎づけるはずの側の論理学とされる側の数学の違いがどんどん混沌
 としてくる。
 
 だから、ラッセルの無限公理やタイプ・オーダー理論、還元公理などもウィトゲンシュタインで不要にな
 るのも逆に当然のこととなる。

  「 数学にあって、集合の理論はまったく不要である。このことは、数学で要求される普遍性が偶然的
    なものでないことと、一脈相通じる。      (TLP  6・031)             」

 ラッセルの思想、数学論において、集合論は非常に重要な役目を果たす。まずラッセルでは基数・カージナル       
 数とは、実在する集合があり、それを前提に共通するものとなる。3,4,5・・・・・などに対応する集合があ
 って数の概念が存在する訳だから、無限個であるはずの自然数全体に対応するものが実在しなくてはならない
 という考えがでてくる(無限公理)し、アレフ零のような+1しようとアレフ零のままというような、順序を
 示す最も小さな無限集合の個数というなどというものも考えなくてはならなくなる。が、ウィトゲンシュタイ
 ンのように「数」が「操作」という風に捉えるなら「今年とれたリンゴの総数」のように実際に存在する対象
 と結びついたものでなく繰り返す手順として、根本的にいつでも何回でもやれる、という前提の”話の仕方”
 なのであるから、実際に何かが無限個の集合として存在するラッセルのような必要性は全くない。このことは
 、「変数」として論理学的に顕れる”論理的形式”の本質でもあるのであり、この変数の存在を「本がある」
 とかの言い方と混同することでナンセンスな見かけの命題が出来る。というふうにも述べられている (TLP
  4・1272)。

   また、

  「 かかる見かけの命題と結びついた問題もすべて片づいた。ラッセルの無限公理が語ろうとしたこと
    は、つぎのように言葉で表現できるだろう。異なった意味を持つ、無数の名辞が存在する。    」
                           (TLP 5・535)

 この『論考』の記述は、ラッセルらの”同一性の定義”に関する批判に続いて(5・53)置かれているのだが、
 アリストテレス流の形式論理学から、現代の記号論理学に転換するにあたって ブールの代数的論理表記(ブ
 ール『論理学の数学的分析(1847)・英』)あたりぐらいから、以降 強い数学的表現の影響は重大なものが
 あり、そのことに由来する記号論理学の根本的な難点もしくは混乱は先の(TLP  6・031)からのの引用部
 分にも述べられている、集合論を数学もしくは論理的思考の根底に据えようと考えているような傾向であり、
 さらに代数的表現の”イコール=(等号)”を、命題における同一性 と混同してしまう重大な傾向であり、
 そういったことを私はここで予備的に考える必要があると思う。

 ラッセルは、”序文”で自らの「識別できぬものは同一である」ということによる同一性の原理に関して、ウ
 ィトゲンシュタインの”・・・あらゆる特徴が共通だとしても2つの別の対象であるということをどうして(必然
 的原理的に・・序文の表現)否定できるのか?・・”というような反論(5・502)を受け入れて『論考』の同一性
 に関する説を基本的に認めているが、両者の説の違いを考えるなら、実際的には次のことを見たほうがよさそ
 うである。
 例えば 2+3=5という表現は左辺と右辺は算術で同じものを表していることしてイコール=(等号)と普通云
 われるが、これは結局+1の繰り返しが同じだけ右辺左辺で成立しているということに置いての共通性で、例
 えば左辺は加えることを表しており、右辺 はひとまとまりを表しているわけだから、全く違った事柄でもあ
 る。にもかかわらずイコール=(等号)と置けば一般にとにかく同じものを表していると考えてしまう(正に
 数学的厳密さで?)。このような混乱の種を持つ表現を論理という最も根源的な表現が必要な分野で用いられ
 ると、イコール=(等号) は勝手に書き手の着目している面だけの共通性でもって 記号的表現が与えられ、
 様々な混乱した表現が生まれてくる。
 このような書き手の”意識”している面だけを見て表現を重ねる原因は正にラッセルの定義「識別できぬものは
 同一である」の発想なのである。

 ウィトゲンシュタインにおいては、こういったイコールの表現は、単に”記号”としての置き換えの場合に限る
 のであり、(4・241)また、「数学の命題は等式であり、それゆえ疑似命題である。」(6・2)とされ、本来の
 命題と根本的に区別される。「論理の諸命題がトートロジーにおいて示す世界の論理を、数学は等式において示
 す」とある類比的な言い方もするが、そこでもイコール自体が結びつけているわけでもないことをウィトゲンシ
 ュタインは強調する。「等式は私が2つの表現を観察する視点を打ち出しているにすぎない。すなわち、それら
 の意義の同一性という視点を」(6・2323)「(等式の)2つの表現が互いに交換可能であること(代入可能性)
 がそれらの論理的形式を特徴づける。」(6・23)として、等式が命題と異なる数学の論理的形式と切り離せない
 表現だということとなる。
 だから、論理における表現としては根本的には、そもそも「a=b」といった表現は使ってはいけないのであり、
 対象の同一性は等号で表してはいけないので、同一の記号でのみ表現されることが必要で、イコールを使った便
 宜的な表現に対し、それを使わない表現を工夫しなければならないし、それは可能で基本的にイコール=(等号)
 を使った表現の錯覚を認識させることにもなる(5・531以下)。だから「2個の物についてそれらが、同一であ
 ると語ることは無意味であり、一個の物についてそれが自己自身と同一であると語ることは全く何も語らない。」
 といわれる。これは彼の真理関数の理論における前提でもあるから、(5・5301)で主張されるのは
    ‘(x):fx.⊃.x=a’
 は、けっして関数fを満足させる事物があってそれに対して関係を持つaが存在するのでなく、端的にaのみが、
 関数fを満足させると考えねばならない。対象の写像されたものとして存在するのはaのみで、xは変数であり
 形式概念でしかない。だから、=は対象間の関係を同一性として表したもので全くない。
 また写像された名辞としてはいくらでも成り立ちうるので無限公理が語って良いこと としてはそういう意味に
 なる。さらにここに続いて、

  (5・5351)で、a=a(疑似命題・・本当は命題として誤っている)と似たような誤った記号の使い方として
 p⊃p (これはトートロジーで意味を持たないが、命題として成立している)が使用条件のように書き足さ
 れる場合に言及される。すなわち、『数学原理 プリンキピア・マテマティカ』でラッセルがやっている「p
 は命題である」という”ナンセンス(疑似命題・・命題として成立していない)”な文をp⊃pで置き換えてし
 まい、これを仮定としてある命題の前に置いて、その独立変項の座を命題だけが占めることができることを、
 示すためにわざわざ書き足されているような場合(5・5351よりの要約)、


 「命題に対してその独立変項の正しい形式を保証するためにp⊃pという仮定を、当の命題の前に置く
  ことは命題ーでないもの(a non-propos・・・・)が独立変項となる場合は、当の仮定が偽(false)で
  なく無意義(nonsensial)となるゆえに、そして、その命題自身も正しくない種類の独立変項で無意
  義(nonsensial)となる。
   なぜなら、正しくない独立変項に対して、それ自身が保護されているのは、保護の目的で書き足され
  た意義を欠いた(without sense)仮定の場合と、そうするのがが 良くっても、悪かろうと(ともか
  く)同様なことなのであり、最初から仮定をおくのは無意義なことなのである。」(5・5351の後半)    


 すなわち、この『論考』の章は、ある命題において独立変項が命題であることが必要な場合、そこに命題が必要
 だということは最初から判っていることなのであり、それ以上書き足すのは混乱しているのであり(悪かろうと)
 そこに命題の正しい形式をもったものの必要性は、その当の命題自身で同じように示されている・・・このような命
 題自身がもうすでに命題でないものから、保護されるというような発想があることが顕れた文章でもあることで、
 このような考えは、論考全体にわたって見て取れるし、先の引用部分の集合論に関する否定的な見解もこれと大
 きく関連する。べん図のようなものを用いて、円の組み合わせで示された要素の内部と外部のような関係で推論
 形式を説明する場合など、明らかな難点はその図示された推論根拠となる要素を示す区域が全く等質であるよう
 に思わせることである。数学の場合なら、数学が今まで成立してきたのは、その書き方で十分成立し、その書き
 方しか出来ないとも云える各々の根拠を持っているのであり、それは偶然でなくそれ自身必然性を保ち、図形の
 区域の大雑把なイメージなど別に本来不要だということでもある。(少々乱暴にアダプトしてしまえば・・・・)
 それに較べウィトゲンシュタインが好んだ真理表の場合なら、推論根拠となる要素は線分で区切られ、むしろ 
 等質でないことをイメージさせるのである。 これは命題は自ずとそれ自身を保護し 成立させるものを持って
 いることでしかも、これは条件文を書けば済むようなもので全くなく、非常に複雑でもあり、また個々別のもの
 でもあるということでもあり、このことは実際”論理的形式”の核心と結ぶものでもある。

 だから、さらに云えば、”論理学の致命的パラドックスを救済するはず”のラッセルのタイプ・オーダー理論な
 どは、こういった類のことを全く見逃しているから起こる発想でしかなくなるのである。命題はそれ以前におい
 てある保護がされているのであり、そもそもそうでないと、説明も本来最初から出来ないし、またその前提を無
 視した理論や説明は明らかに不自然で混乱した様相を呈してくるのである。
 ウィトゲンシュタインの影響を受けたといえるF・P・ラムゼイが、単純タイプ理論として集合論、主語述語表現
 に関する記号表現的一般的修正を提言し、言明に関するオーダーをまたぐような命題は限量記号の適用範囲をお
 のおのあるイミ、ウィトゲンシュタイン的に適宜に定めるような、ラッセルの理論を実際的に簡明に変更する議
 論をしたのもそういった事情が見える訳で 、だから

  「 関数記号は、その独立変数の値となるものの原型を既に含んでいて、それ自体を含むこと
    が出来ない・・」
                  (上の下線は、本稿筆者による・・・)  (5・333)

       というのは、その直前の ”有名な箇所”、


  「いかなる命題も自分自身について何かを言明する事が出来ない。・・・これが、タイプ理論の全てである・・・・」
                                    (5・332)

      に続いた説明の部分となっている。 こういった自己言及の不可能性は、ここだけを取り
      出して見ると不必要に”神秘的”な主張に受けとられがちだが、本来


  「 要素命題に形式の階層があるはずがない。われわれに予見できるものは、われわれ自ら構成するもの
    に限られる。                           (5・556)        」

  「 ・・・ある体系に従って、諸記号を形成できる場合には、この体系が論理的に重要なものであって個別
    的な諸記号でない。そして、私に考案できるような、諸形式(※論理的形式)を論理の中で問題にす
    るなど どうして 可能だろうか。そうでなく、私が諸形式を考案できるように可能ならしめるもの
    こそ、問題としなくてはならないのである。 」 (※は本稿筆者の追記)  (5・555)

  「 いかなる特殊な形式の指摘も 十全に 恣意的である  」       (5・554)

       という、発想の流れで捉えられなければならない、ということでもある。
       また当然、還元公理には否定的で、

  「  ・・ラッセルの還元公理のごときは、論理命題でない。それが真だとしてもまるで偶然にすぎない、
    というわれわれの疑惑を説明する。(※偶然的普遍妥当性について)」  (6・1232)

  「 還元公理が妥当しない世界を想像することができる。しかし、われわれの世界がそうなっているか、
    いないかに論理は明白に関知しない。」                (6・1233)

  
                                             




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