※Sフロイトの『夢判断』について:K     

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【Kb・D】

  また、この”命題の一般的形式”というものを、考えることによって「数」というものと命題の関係が、     
  明確なかたちで表現できるということにもなる。すなわち、それは ”操作”ということによって関係
  を持っているのである。(もしくは、それだけのつながりともいえることとなる。)
  命題の一般的形式を、操作 という観点で 表現し直した場合、要素命題のある適当な集合の表現 
  を用いると、ある命題群がありそれに根本操作Nをほどこし、続いて別の命題群のによるものも出来て
  いく”移行”の一般的な格好において、を”変えていく(操作)”ということに注目してΩ’を置く。
  移行の一般的な形式であるところの「〔〕、()」は、Ω’()=〔〕、()
  また、命題の一般式の初項の代わりに始めでなくてもいいとするとに置き直せるので上の式はさらに
  Ω’()=〔〕であっても同じく言い換えたものになる。
  だから、扱う命題のようなものはこの場合どうでもいいので、この操作を重ねることもここから表現されて、
  Ω’xやΩ’Ω’x、Ω’Ω’Ω’x、・・・・
  として移行するものとして系列の表現が考えられる。
  そこで操作されていない状態を、指数0で表現してそしてもとの状態でもあるから、これは
  =Xともいえる。Def1
  また、操作を重ねることも  として、指数の+1で表現する。Def2
  そして、このDef1と2を記号の定義とすると、
  x、Ω’x、Ω’Ω’x、Ω’Ω’Ω’x、・・・・という操作を重ねて続けた列は指数表現を使って、
  と書き表せる。
  指数の部分だけを見れば、
  0,0+1、0+1+1、0+1+1+1というものが命題の一般形式から、成り立たせることが出来た
  訳になる。

  そして、個々に対応する記号として普通の数の記号(0と1以外のアラビア数字の文字)を定義して、
  0+1=1、0+1+1=2、0+1+1+1=3、各々定義してetc・・・(Def)
  ウィトゲンシュタインは、このようなやり方で「数」をとらえる。

  また、初等算術についても、加法+は、上の定義の中にもう規定されているが、(減法もここから単純に
  記号法の工夫で出てくるだろうから)乗法×の方は、数学における根本的な”代入法”、等式という主語
  ー述語関係などとは違う関係における”置換可能性”の全般化から(四則などもでてくる)、加法の式に
  対し括弧や代入による入れ替えをさらに考えると掛け算の証明ができる。すなわち、

   乗法とは、2(a+a)=4a というような括弧内の操作に括弧外の操作が各々施される
 ことによって本質(論理における)が示される算術計算なのであり、

   とされ、νXμとは括弧で隔てられた指数のνμのこととして定義となるので、
  (また 以下の式などにある小さい「 ’」は、個々の記号がつながってないことを示す区切り記号)

  

  =(Ω’Ω)’(Ω’Ω)’x=Ω’Ω’Ω’Ω’x= =    



 こういった数理論理学特有の記述は堂々巡りの「定義」のように素朴には思われるものだが、これが「定義」
 であると考えるより、まず発案者のこういった問題に対する、表現法を顕わしていると考える方が正しい接
 近のしかたになる。実際、フレーゲやラッセルの数や基本的な算術の定義は、いたずらにどんどん膨らんで
 いったりする(プリンキピアなどの思いつきのような記述の変更のようなもの)、それぞれのいくつかの著
 作に見る変更など、明らかに何かしらの”堂々巡り”が平然と行われている結果の印象があり、それは”表
 現法”として充分な意識がないのでないか?ということでもある。
 それに比較すればウィトゲンシュタインの場合、一見 上の数や乗法の説明が、堂々巡りでないかと思うの
 も、命題を「操作」するということの関係において捉えようと意図を考えるなら、こういった一見ややこし
 い記述も結局、数は、根本的に「・・1+1+1+1+・・」であり、また”代入法”であるということで、命
 題のような何かの対象を描出したものでなく、その描写した命題記号を操作する行為、というある別次元の
 繰り返し可能なことの表現であり、無理のないものと見えてくる。また、「後期」の数学基礎論の数の定義
 「数える」ということも、論理学との直接的関係を除けば、操作する行為としてほとんど同じなのである。

 『論考』におけるウィトゲンシュタインの数学論が、フレーゲやラッセルなどのように漠然と膨大化せず、
 それに較べれば非常に簡単に済んでしまうのも、決定的には”操作”やまた、ウィトゲンシュタインにおい
 て極めて重要な発想となる”論理的形式”(後述)という、ともに 命題の”写像したもの”(語る)とい
 うのと根本的に次元の異なるものがある、という考えを持てたからなのだ、といえる。

 すなわち、数学の多くの部分は論理学とむしろ共有する「論理」によるのであり、”限りなく”ある様々な
 論理的形式の関与する、もしくはその表現でもあるものとなるので、別に論理学で扱う対象でないことにな
 る。論理学からはその命題の一般的形式からの”操作”などに関わることから、直接導かれる算術の最も基
 本的な方法に話題を限ることであり、むしろ、数学全般に直接関わることは、その境界を漠然とさせ却って
 論理的形式などにまつわる数理論理学の混乱を招くことにつながる。

 




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