酔   い   ど   れ   記

(四)


 玲子の電話から七ヵ月が過ぎた。
 和紀は、木津川沿いにある、地蔵堂の前に居た。
 川沿いの柳並木の一角にある地蔵堂の脇からは、滾々と地下水が湧き出ていたが、その水頭が風に揺れ、飛沫となってズボンの裾を濡らしていた。
 普段なら、地蔵堂には灯明がつき、御供物がなされていて、三体の地蔵の柔和な顔が拝謁できるのであるが、今日は風が強く、扉は閉められ、常夜灯の明かりだけでは、地蔵の顔も輪郭だけに止まっている。
 並木の柳も、繊細で長い枝を、風に委ねて激しく揺れている。
 和紀は、そんな地蔵堂に向かって、軽く手を合わせると、木津川沿いを下流に向かって歩きはじめた。
 木津川は、この街を中心街に向かって縦に流れ、繁華街を過ぎ官庁街に至る辺りで中地川と合流する。
 両岸には、花街の名残の黒板塀が続き、今にも降りだしそうな重い雲のなかに重厚な軒がつらなっている。

 和紀の頭のなかは、一塊の分銅があるように、常に重たく感じていた。
 最近になって、重たさは更に増して頭痛を伴うようになっている。
 胃の辺りにも絶えず不快感を感じるが、酒を煽っても取れるようなものでもない。
 酒を止めれば少なくなるだろうが、不快感に耐えながら仕事をする勇気も沸いてこない。
 朝になると、焦燥とともに漠然とした不安に駆られ、慌てて酒を口にする。
 胃のなかに熱い刺激が行き渡りはじめると、一時の落ち着きを取り戻す。
 最早、苦痛を取り除いてくれる酒は、片時も手放せなくなっていた。
 それでも(俺が死ぬときは、酒を抱いて死ぬだろう)と強がりともとれることを言って、自分を欺いていた。
 毎日酒を飲まなければならないことは、玲子が悪いからだと彼女のせいにした。
 それ故か、今日は玲子の出産の日であるにもかかわらず、気分は優れないでいた。
 神代橋まで来ると、右手に産院の明かりが見えた。
 「夜間出入り口」と表示のある明かりの下で、季節を忘れた一匹の蛾が激しく乱れ飛んで、和紀の頭上で何度も電灯にぶつかる音がしていた。
 重量感のあるドアを押したが、意外にも軽くそれは開いた。

 小さな上がり框はきれいに掃除されていて、履物は他に見当たらなかった。
 薄暗い廊下の奥から、薬品の匂いが流れていた。
 病室に向かおうと、階段を上がろうとしたところで、
 「和紀さん」と声がして呼び止められた。
 そこに痩せ型ではあるが、気丈な玲子の母の姿があった。
 「どうも御無沙汰ばかり致しまして、申し訳ありません」
 深々と腰を折り、頭を下げる義母に、和紀の感情は少し揺れたが、それ以上の何の感情もおきることはなかった。
 冷たさのなかに、義母を見下している自分を感じていたが、
 「こちらこそ、御無沙汰致しております。玲子は……」
 「ええ、玲ちゃんは、今、入ったところで、少し遅れたんですよ」
 「そうですか。じゃぁ飯に行ってきます」
 あっさりと言い放つと、義母の次の言葉を待たずに踵を返した。
 「すみませんねぇ」
 靴を履きかける背後から、未練たっぷりに言う義母に返す言葉も見つからず、そそくさとその場を後にした。

 和紀は、この義母を余り好きではなかった。
 大切にしてくれることは彼にも分かっていたが、(義母さん)と気安く呼べないものが彼女にはあった。
 外に出ると、風は幾分弱まってはいたが、それでも柳の枝は木津川の流れを掃くように揺れていた。
 神代橋から産院にかけての下流一帯は、赤線の名残があって、少し足を運ぶと怪しげで毒々しい小店が並んでいる。
 何時もの和紀なら、ことのほか怪しげな店に期待を寄せて扉を開くが、流石の和紀も、今日はその気になれなくて、薄汚れてペンキもはげ落ちた、おでん屋の戸を引いた。
 「いらっしゃい」
 奥行きがあると思って入ったが、直ぐ目の前にカウンターがあって、そのなかに大きくて、恰幅のよい年増女が正面を見据えて立っているのにぎょっとした。
 和紀は、大柄な女と、唇の分厚い女は好みではなかった。
 「お飲み物は、何にします」
 煙草の煙を一気に吹き出す女を見て、多少の期待を物の見事に裏切られたことで、腹立たしい気分になっていた。
 (この女め、情緒もヘチマも持ち合わせていないな)
 (こんな店、出てしまおうか)
 和紀の思っていることを、年増女は見透かしたように、
 「旦那さん、いい男ねぇ」と媚を持った声で迫ってきた。
 「酒」(仕方ないか、何時もと違う日なんだから)
 「お酒、燗にしますぅ。それとも冷やで……」
 「冷や」
 「あいよっ、すごく上等、楼閣の月。一丁」
 角取りされた細長いグラスに、慣れた手つきであふれんばかりに酒を継ぐ。
 「だ、ん、なっ、ホントにいい男ねぇー」
 益々媚が強くなり、おまけに抑揚までつけて、見え透いたことを言う。
 和紀は、満たされた酒を一気に煽ると、「酒」と言って二杯目のグラスを突き出した。
 カウンターの上に、グラスの底でできた丸い酒の輪が残った。
 酒が、まるで水のように喉を通過していくのが、自分でも気味悪くなってくる。
 「いい飲みっぷりねえー」
 「しびれちゃうわ。私のお、ま、たっ、」
 付きだしに、法菜と薄揚げの和物があったが、この女の物は食欲が失せた。
 一杯目の酒を急激に流し込んだせいもあって、軽い胸のむかつきがある。
 「私も頂いていいでしょっ」
 当然のように言う年増女に辟易としながらも、捨て鉢で曖昧な返事をした。
 「ねっ、社長の産まれってどっちの方なの」
 女も和紀に負けず劣らず、飲みっぷりがいい。勝手に二杯目を継ぐと黙っている和紀に追い打ちをかけた。
 「ねぇー。社長。それぐらい教えてくれたっていいじゃないさぁー」
 「ねっ。どっち」
 しつこくまとわりつく女の言葉を無視して、三杯目の残りを一気に飲み干すと、ぶっきらぼうに勘定を告げた。
 「また来てねえー、社長ー」
 追いかける女の声で、吐きそうになるのを懸命にこらえた。

 病室とは反対の階段を上がって、診察室の扉の前まで来た。
 「おめでとうございます。女の子ですよ」
 「可愛いですょー」義母は目を細めて喜んでくれた。
 その目が少し窪んでいて、あきらかに疲れが見えた。
 「そうですか。どうもありがとうございます」
 「ささっ、こちらですよ。こちらですよ」
 疲れを見せまいと、気丈に案内する義母が不自然に思えた。

 分娩室のベッドに横たわる玲子からは、出産を終えた女の生臭さが漂った。
 「あなた」
 声は弱々しいが、しかし、精一杯の笑みを浮かべて和紀を迎えた。
 和紀は手を取ると、
 「良かったね。よくがんばったね」
 とねぎらいの言葉をかけたが、単調な言葉遣いには、本当に玲子を思いやっているようには見えなかった。
 そして、子供の誕生した感動も、玲子には伝わらなかった筈である。
 「女の子よ。あなたが望んでいた女の子よ」
 言いながら感極まったように、玲子は涙を流した。
 涙は、白く艶のない頬を伝って、耳にまで流れた。
 それなのに、医師と看護婦の見守るなかで、この場を早く切り上げるのが、本当の男だと思った。
 男らしい男とは、こんなところに長居をするものではないと考えていた。
 玲子の涙を打ち消すように、
 「わかったよ、わかった。また明日来るから」
 「お願いね、仕事終わったら直ぐ来てね」
 玲子の懇願するような言葉の終わらないうちに、ドアのノブに手を掛けていた。

 義母は、一晩玲子の付き添いをするというので、そのままにしてきた。
 この家族には、子供が産まれた時に見せる、素直な感動や暖かさは垣間見ることすらできない。
 和紀は、自分が冷淡な振る舞をしていることよりも、自分の空虚さを埋めることに気を取られていた。

 粗末な建て付けのドアを開けると、冷たい空気が部屋の奥から流れてきた。
 慌ただしく部屋に入り、テレビの脇に置いてある焼酎を息せき切って、直接口に流し込んだ。
 持ち上げた瓶の尻が、蛍光灯の傘にあたって、部屋にある物陰が揺れた。
 まるで、今の和紀を象徴するような揺れであった。
 始めは、台所の戸棚にしまわれていた酒の瓶も、何時の間にか居間のテレビの脇に置かれるようになり、中身も日本酒から、焼酎に変わってきている。
 飲み方も、お湯割りからストレートに変化してきていたが、玲子は単に酒好きの故と思い、深くは考えようとはしなかった。

 焼けるようなはらわたを抱えて、敷きっぱなしの夜具に潜った。
 目をつむると、重い瞼の裏側がグルグルと廻りはじめ、烈しい動悸と、突き上げるような吐き気が伴い、頭と体が勝手に浮いたり沈んだりして、寝返ることもできずに、じっと耐えているしかなかった。
 果して、子供は無事に育てられるだろうか。
 襲い来る酔いのなかでボンヤリとそう思った。