玲子と一緒に生活を始めてから、二年の歳月が流れた。
生活の始まりは、お互いの欠乏感を満たそうとするかのように、激しく甘い蜜月が続いたが、求めていたものが少しづつずれてきていることに苛立つようになっていた。
仕事を持ちながら家事をこなす玲子には、食事の内容、後片付け一つ取っても、てきぱきとこなしていた実家の母とは比べ物にならない不満があった。
それを玲子の体に求めたが、夜勤の多くなった彼女は、疲れを理由に冷たく突き放していた。
和紀の要求がかなわず、それを咎めようものなら、芯が強くて聡明な玲子のこと、激しく言葉でまくしあげられて、反論すらできずに、物を床に叩きつけるか、いっきに酒を煽るかのどちらかでしかなかった。
狭い借家住まいで、隣に眠る妻を、自由に求められない苛立ちがあった。
今夜も台所の食器は水に浸けたまま、玲子は疲れ切って眠っている。
蛇口からは締め切っていない雫が、ひとつ、またひとつと時を刻むように落ちている。
スリップ一枚で、肩紐がずり落ち、胸の膨らみを覗かせて眠る玲子が、眩くも歯痒かった。
水道の蛇口を力任せに締め切ると、一度玲子に目をやって、一升瓶から直に酒を流し込んだ。
もう、充分に晩酌で潤っているはずだった。
しかし、此れぐらいのことでは、彼の渇きは癒されるものではなかった。
求めれば求めるほど、彼の心から玲子が離れていくようで、一体感を味わうことはできずにいたのである。
何時でも彼の要求に応えてくれる、美しくて優しい妻であって欲しかった。
彼は眠る玲子を眺めながら、自慰に耽った。
到達までに手間取ると、彼は整理箪笥から玲子の下着を取り出して、女の体臭を嗅ぎ取った。
(玲子…、玲子…)
彼は、自分のなかに居る玲子を愛しんで果てた。
果てたあとは虚しかった。
一層の孤独が纏わりついて、夜の闇が酔った体に深くのしかかってくる。
放心と落胆の日々が続いた。
しかし、気まぐれで訪れるような、睦まじい夫婦を演じるときもあったりした。
そのようなときは、きまって玲子の何かがふっきれたような時であり、玲子自身が自分に陶酔しているような、そんな気さえした。
「私の体、きれい?」
「うん、とっても綺麗だよ」
「私のこと好き?」
「今更何言うんだよ。とっても好きだよ」
夜の生活でも、歯の浮くような台詞を言う自分に、和紀は不自然なものを感じていたが、とにかくこの場のムードを大切にしたかった。
「そんなこと無いはずよ。テレビは投げつける。茶碗は割る。お酒は飲む」
「いいじゃないか、こんな時に」
「こんな時だっていいじゃない。私だって頭に来ること沢山あるんだから」
玲子はなじるように語気を強めた。
行為とは全くかけ離れた言葉に、消滅していこうとする気持ちを奮い立たせた。
自分から求めていって、それに応じてもらえることは滅多にあるわけではない。
「悪かった。もうしないようにする」
とにかくこの場を取り繕おうと、詫びを入れたが、
「本当かしらね。あんたの言うこと本気にできないもん」
和紀の体の下から、玲子の目が怪しげな光を持って見つめている。
機嫌のいいときは、それ以上は言わずに、和紀に身を任せ快楽のなかに没ちていったが、時を選ばない玲子の言葉に、和紀は不満を募らせていった。
玲子も、婦長の職を目指して、気持ちにゆとりのない日が続き、互いの要求も、日を追ってエスカレートしていった。
満たされないままに、譲り合うことがなくなって、二人のあいだに乾いた風が吹きはじめていた。
和紀の晩酌も、量が増えはじめて、五合を越すことも珍しくなくなってきた。
晩酌を終えても、居間の電話の前に一升瓶を持って居座り、兄や姉、親に向かって長い電話をし続けるようになっいた。
電話の前で泣きじゃくったり、声高に笑ったりして、その合間に酒を飲む。
一升の酒も二日と持たなかった。
それを見て何度かたしなめた玲子も、毎日となると言うほうの気が滅入る。
自然に夫を無視するようになり、彼女は好きなパッチワークに没頭していった。
他人から見れば、火遊びのような夫婦の生活が続いていた。
冬を迎えるようになって、和紀がトンネルの現場で越冬するようになると、玲子はさばさばとした気分で仕事に励むことができたが、玲子から離れた和紀は、前にもまして酒に執着し、宿舎で酒を飲んでから現場に向かうようにもなっていた。
周りの人たちも、彼が所長であることから、何も言えずにただ呆れ顔で眺めているしか術がなかった。
和紀の現場に、玲子から電話が入ったのは、行きが降りしきる日が続き、雪崩の危険も迫ってきて、その対応に追われていたときの日のことである。
電話の奥の玲子の声は、聞き取りにくいことはあったが、少しばかり華やいでいた。
「雪、どうですか」
「現場は大丈夫ですか」
「私ね、赤ちゃんができました。三ヵ月です」
「喜んでね」
手短に用件を伝えると、玲子のほうから電話を切った。
「やったぁー」
「やったぞぉー」
和紀は、雪のなかを転げ回って喜んだ。
しかし、このときすでに和紀の心と体は、酒に蝕まれつつあった。
大粒の雪は、風に乗って激しく降りしきり、辺りの山陰さえも遮っていた。
|
|