酔   い   ど   れ   記

(五)


 生まれたとき、少し未熟児であった赤ん坊も、玲子の懸命の子育てで、すくすくと大きくなっていった。
 赤ん坊の名は、和紀の父親の命名で、千明と名付けられた。
 多くの人を照らし導く人であれと願って付けられた名だと聞かされていたが、玲子には気に入らず、
 「あなたが何でも、お義父さんの言いなりになるからよ」と言い、
 どうせ付けるなら千秋だと言って、和紀を困らせた。
 しかし、それも月日が経つにつれ馴染んで行って、「千明、千明」と言っては赤ん坊の柔らかいほっぺたに唇を押しつけている。

 千明が生まれてから、二人のあいだは表面では変わらないように見えたが、親兄弟に対する世間体と、某かの期待を抱いての取り繕いの結果であった。
 長かった髪をバッサリと切り落とし、化粧気もなく、眉間に深い皺を刻んだ玲子に和紀は「女」を感じなくなっていた。
 和紀のなかの女は、病院の屋上で逢った、あの時の玲子であり、陽だまりで唇を交わした玲子であった。
 彼は、玲子を愛していることに、何の躊躇いもなかった。
 彼の愛を受け入れてくれない玲子。
 夫として尊敬してくれない玲子。
 だから、次第に夜の街に自分の玲子を求めて彷徨うようになっていった。
 が、しかし、何軒飲み歩いても、何日通いつめても、客は客でしかなかった。
 閉店時間が来ても、少々の時間の融通と、開店と同時にホステスと同伴で店に入れ、その店でも上等のボックス席をあてがわれるにすぎなかった。
 一見さんから上客へと扱いが変わっただけである。
 ホステスにチヤホヤされているときは得意満面で振る舞っているが、酔って店を出ると、一層寂しさが増してくる。
 心のとまり木を求めて、わずかに残った明かりを頼りに、虫けらのように深夜の街を彷徨っていた。

 千明が四才になるころ、彼女にとって衝撃的な事件が起きた。
 何時ものように、行きつけのクラブで看板までしこたま飲んで、チーママ見送られて重厚なドアを背にすると、梅雨の雨は本降りとなって、路地をはさんだ向かい側の寿司屋の植え込みが、烈しく雨にうたれている。
 和紀はしたたかに酔っている。タクシーを待つあいだに、何度となくよろめいて、しっかりしてよウーさんと 傘を持つ女に支えられ、その度に傘が揺れ、和紀も女も雫で濡れた。いくら上得意でも、これだけ酔えば女にしてもただの酔っぱらいで、迷惑千万である。
 和紀を支えたとき、深く切れ込んだ襟元から、女の上気した形のよい膨らみが見えた。その膨らみに無造作に手を入れて、嫌がる女を抱き寄せたときにタクシーが来た。
 女に放り込まれるようにして乗った車内では、ワイパーが規律のある音をたてていた。その音と、押し黙るようにしっかりと前方を見つめ、和紀の言葉を待つ運転手に、放蕩三昧の自分とは違った世間の時間を読み取ってげんなりしたが、戻った酔いで直ぐにどうでもよくなった。

 和紀の家は車の入れない路地の奥にある。
 タクシーを下りた彼は、水溜まりを避けようとして歩いたが、意思とは別のほうに体が傾いていく。路地の中程まで来て避けきれずに、一度水溜まりに足を踏み入れてしまうと、観念したようにビシャビシャと飛沫をたてた。
 靴底と濡れた靴下のずれが、ボンヤリと意識のなかに入ってきたが、構わずそのまま玄関に立った。上がり框の前で濡れた衣服を脱ぎ捨てていると、音に気づいた玲子が険しい顔つきで起きてきた。
 「何よその恰好は。この雨降りに何処で飲んできたっていうのよ。こんなに遅く」
 「……………」
 「一寸止めなさいよ。板の間で脱ぐのは」
 「……………」
 「ソッチ行って脱ぎなさいって。板の間が濡れるからぁ」
 玲子の言葉に耳を貸さずに、柱にもたれ掛かってなおも脱ぎつづける和紀に、
 「ホラッ、こんなに板の間が濡れてしまって」
 「掃除は誰がするのっ。エッ、ソッチ行って脱ぎなさいよ」
 「私の言うことが聞けないっていうのッ。ソッチへ行きなさいって」
 言うか言わぬのうちに、玲子は和紀を精一杯の力で土間のほうへ押しやった。
 酔っている和紀のことである。体はもんどりうって土間に叩きつけられた。
 まとわりついたズボンの裾と、ずれて恥毛がはみだした下着姿のままで、尾てい骨をしたたかに打った和紀は、動けないで暫くそのままになっていた。
 酔眼で眺めた自分の姿が、他人ごとのようにも感じることができて、よけいに惨めで情けない。痛みが少し納まって、脱いだズボンを叩きつけて居間に上がると、テレビの脇から焼酎を出してきて、そのまま口にしようとした。
 「コノッ酔っぱらい」
 言いざま、一升瓶を持って仰向いている和紀の手を、玲子の手が激しく叩いた。
 和紀は前歯と一升瓶の口先で、嫌というほど唇を打ちつけた。
 「もうー、我慢できないッ」  「もうー、あんたとなんかやっていけないッ。どれだけ飲めば気が済むっていうの」
 「私、千明を連れて家に帰るわッ」
 和紀を睨む玲子の顔は醜く歪んで、険しい目からみるみる悔し涙が溢れてきた。
 泣きながら背を向けて、千明の着替えを取り出している。
 「私だって、どれだけ我慢してきたかッ。千明のため、千明のためとそればっかり
  考えてやって来たのに。チクショー、悔しい、チクショー、あんたのお父さんに
  言ってやる。こんな酔っぱらいと一緒にやってられませんと」
 「私、ハッキリ言ってやるから」
 とどまることのない悔しさに、肩を震わせ絞り出すように泣いた。
 為す術のない和紀は、茶伏台の上にあった千明のマグカップを取って焼酎を継ごうとした。バランスを考えないで持ち上げた瓶は、カップの縁に当たってカチリッと小さな音をたてた。
 玲子は振り向きざまに、膝元にあった千明のぬいぐるみの大きな白熊を投げつけた。
 手の塞がっている和紀はそれを顔面荷受け、焼酎は畳の上に散らばった。
 急に尻の痛みと、唇の痛みを感じた和紀は、玲子の上に覆いかぶさるように仁王立ちになって、今までのうっぷんをはらすかのように、声を荒らげた。
 「エーイッ、コノッ。言わせておけば頭に乗って。アンッ。酔っぱらいだと。
  親父に言うだとッ。どの面下げて言いに行くんや。ちっとも俺の言うことも
  聞いてくれんで。親父に言いに行くんか。エッ。ちゃんちゃらおかしいやッ。
  どの面ヤッ。どの面下げて言いに行くんヤッ」
 「この面ですよッ、この面ッ」
 玲子も負けてはいなかった。挑むような目で和紀を見上げてじっと睨んだ。
 もう涙は乾いていた。憎々しげな憎悪の光を目の底に漂わせていた。
 その目に、この女の強情の極みを読み取った和紀は、憤怒の思いで大股に台所へ行くと、鈍い光を放つ出刃をぶら下げて戻ってきた。
 玲子の側で片膝をついて胸ぐらを捩じり上げると、
 「よおーも言ったなッ。覚悟しろッ」出刃の切っ先を蒼白な顔面に垂直に立てた。
 「やりなさいよッ。殺しなさいよッ」
 「さぁーッ殺せッ」
 震える声ながら怯みもせず更に挑んできた。
 その目のなかの怪しい光に、和紀は逆に脅えを感じた。
 そのまま二人は、無言のまま対峙した。
 「わ繙」
 突然、大きく幼い泣き声がした。隣の寝室で、川の字に敷いた夜具の中央で、恐怖に泣き叫ぶ千明の姿があった。
 今までの一部始終を見聞きしていたであろう千明は、母の一大事に堪えきれず泣いた。
 千明の泣き声は、澄んだ濁りのないものとなって、夜気を震わせた。
 待っていたきっかけを掴めて、和紀は玲子の胸元から手を離し、出刃を静かに置くと崩れるようにうなだれた。二人のあいだの緊張がとぎれると、玲子も小走りに千明を抱きに行った。
 「ごめんね。ごめんね。お母さんが悪かった」
 「もう大丈夫。大丈夫よ」
 そういって千明をしっかりと抱きしめると、千明の頭を撫でながら泣いていた。
 雨はいつしか小降りになっていて、隣家の裏庭についた明かりも、千明の泣き声が静まるのに合わせて消えていた。