※『小林秀雄のモオツァルト』について:Ⅱ      

   ◆ Ⅱ ◆  

                                       


【Ⅱ 青色本 】




  



       
                       
               ここまで話してきた小林やフレーザーなどの著作を、局所的にならないように引用を含め全文を通して見て来 たことや、また このHPの他のページ全体のいろいろな記述においても、        私は、”分野が違う”というぐらいしか大きな理由のなさそうなことだったり、ある種の”慣習”ぐらいでし        かないような、何かしら”不自然に”避けられている 特に日本における音楽に関する話題の立て方 に対し        て、”欠落部分”を 補うように 簡単な”スケッチ”を、意図的に並べてみたりした。 それも        そもそも 従来の”通説”に対する、一種の検証に、それなりになっているはずである。        この場合、特に留意したのは、なるべく 一目で見て取り易いように・・・ということと、なるべく、そこで取り        上げられた作品などに、もったいぶらないように面白い部分へ、引用も含め 読み手がそのまま接せられるよ        うに・・ということ。        さらに、特定の立場といえるような”立場”に立たないで(結局、言語的立場とでもいうべき立場)、できる        だけ 簡略化することと、一方 原文などの ある”正確さ”を、ともに保たせたいと思っていたのである。        そして、この場合 特に、元のものにたいする”加工しない”というのが、やはり簡単な話でなくなるという        こともある。        一般に、”検証”というのは大変に誤解されている問題で、ただ闇雲に”事実なるもの”を連ねていくだけで        は、現実的にほとんど”検証”の役には立たないし、”見て取れる”というのは、そこに係わる中心的な話題        である。(このあとの 青色本の説明で、そこは論じられる・・・)もちろん、今の場合は ”暫定的処置”が必        要なのであり、しかもそれが ”暫定的処置”の”顔”をしていることが重要なのだ。        粗筋めいたものの記述を並べるだけで検証に役立つことがある、一方、一語一句の逐一的な解説を連ねるだけ        が目的のような本が、本来の”検証”を却って阻むものになったりする。前もって、ここで言っておいて良い        のは ただ、「事実」だけを並べるだけでは駄目なのである、ということであり、しかも、そうしないだけで        なく、むしろ、事実であるなら どんな事実を並べてきても平気なようでなくては”検証”されたとはいえな        い!ということなのだ。(2010 1/28)        このことは、明らかに”文法の問題”に関わる。そこで、私はただ簡単に書いてみただけだと言ったとしても        、いやそれは「加工されているとするべきだ・・」といわれる場合は、勿論 ある。しかし、本当に”簡単に言        ってみただけ”といいうる場合も、十分にありうる話なのだ。というのは、(2010 1/29)      どっちみち人の話というのは、全く同じ話などというものはない・・とでも言おうか?そしてそれは人の言語の        核心の問題がある。とにかく、誰かが異論を言い出すにせよ、それは言語を用いたようなことに違いないのだ        から、こういった問題を最も一般的に考えるには、言語のもたらす明らかに必然的なことを、まず考えた方が        良さそうという事でもある。        そして、その様々な事情を、まとめて捉えるようにすれば、行き当たりばったりの混乱を防ぐことも出来よう。        そのためには、言語の隠れた文法の多くの問題を連続的にコンパクトに扱っているこの「青色本」は、とても        重要な基礎を与えてくれるものである。ちょっと、今 言い足しておくなら、それは 私たちの言語で、論理        が成立するところと、そのように扱えないところに関する”文法”を中心にした話である。                例えば、先程の”簡単に”書き下した文が、正しいものとされるか否かというような検証の場合、物理的事物        に関したことで、はっきりさせることが出来る場合もある。しかし、一方 元の文をより判り易い文に言い換        えることは、多分に ある曲の楽譜を演奏にしてみたり、ある演奏を自分の演奏の手本したりする場合にとて        もよく似たことで、その場合にも正しいかそうでないか言える場合があるという問題に近くないかということ。        さらに、敏感な人ならば、先に書いた”事実であるなら どんな事実を並べてきても平気なようで なくては        ”検証”されたとはいえない”というようなことが、人の行うことにおいて本当に可能な類のことか不安を、        感じるのは容易に想像しうる。しかし、そういう場合、人々は、同じ語を、どんな文章や用法でも 同じ使い        方を前提にして考えがちなことで、不可能な”理想”の像を勝手に描くのである。実際は、事実を並べるのが、        どういう用法において、その検証として明らさまになるかは、様々な"文法"があるのである。        そういったようなことを巡った話が、そこでの言語の論理や文法といった問題になる。(2010 1/30)        ここで、こういった大まかな話を まず始めにしているのは、「青色本」という著作が、割と短いものである        にもかかわらず、アプローチの仕方が、掴めていない解説ばかりあるためで、ただ 自分でもうすでに考えて        いる問題がないと、この本に書いてあることが、徒に矮小な問題ばかり論じているように捉えてしまうから。        何か自分の直接的な問題と結びつくように考えてみないと、読んでも 結局どこにも引っかからない話になっ        てしまう。        例えば、ニーチェだのフレーザーだのイギリス音楽だのと言っても、所詮 外国の思想で、日本人の得意なも        のではないし、関係ない・・といった意見(それに近いようなもの)は、まあ しばしばあるものだが、簡単に        言っても、日本のどんな代表的な文化的作品などにおいても、多分に 当時の外国で”勢いのあった”ような        ものをきっかけ(直接的であれ、間接的であれ)に成立したものだというぐらいは、まず 認めるべきことだ        ろう。結局のところ、”日本的”なるものは、極めて その時々に都合よく様々に意味され、くっつけられた        ”合成概念”である。そんなものをあてにするより、私たちの言語活動全般に関して、様々な有意味性を明ら        かにする活動が、より土台になりうると、言うことは出来るだろう。そして、こういう考察が、実は 言語形        式や、様々な文法の問題に、強く連関したことなのである。(2010 1/31)        これから「青色本」を扱っていくにあたって、以前から最も一般的に出回っているものということ、そして        主として簡便さという理由でもって、大修館の全集本 第6巻・・この本からの訳文を使い、そのページ数と共        に、全文を通しての説明を、やってみる。        しかし、この訳文は、特に難点の大きいものであることは、まず 言っておかなければならない。特に微妙な        ニュアンスの英文の箇所は、話を理解する上から明らかになることから考えても、かなり 逆の意味に訳され        ている部分もある。そもそも、「青色本」はウィトゲンシュタインの著作の中でも、最もストレートな述べ方        をしたものであるに拘らず、わざわざ[]を設けて、自らの”解説”を文中に挟み込み、文の自然なリズムと、        自然な論点をぼやかしてしまう。(何より、その[]を取り外すと、常にまともな日本語にならないように書い        てあることの奇妙さ・・・)        それで、当然 原文を常に意識して、また 特に重要な部分ではRush Rhees編の割と一般的なHAPPER TORCHBO        OKからの原文引用やページ数なども参考に付け加えてみる。さらに、今回の場合 「論考」や「茶色本」「探        求」そして、前出の「フレーザーの金枝篇について」という小編との、一貫した関連性の有無が問題となるの        で より補助的に取り込んで書かなければならない。それも、あまり ややこしくならないように 適宜 ま        ずは、ページ数を入れ 主として手近な”全集”から、その他 簡単に 引用してみることになる。(2010 2/4)        この「青色本」の場合も、今までの本とほぼ同様、・・まず全体の概要を整理してみてから、特に注目すべき箇        所を 幾つか詳しく調べていき、それを繋ぐようにして、その著者の議論の仕方、話の流れを、理解してみよ        う・・というやり方で、ここに取り上げる。こうした方が、一応 手っ取り早く 正確なところが、描けるだろ        うという考えなのだが、そのことの正当性にも後で触れることにして、この「青色本」も、まず 第一の特徴        というべきは、「茶色本」の”簡略な”前段階であり、またその「茶色本」も、「探求」への前段階として、        捉えることが出来るということになる。こうした見方は、詳しい資料的に見ても、多分 変わった考え方とも        いえないだろうし、間違っている訳でもないと思われる。 そして、この本は、学生への講義の底本だったと        いわれており、この本の話題を元に、ウィトゲンシュタインは、もっと議論をしていったらしい。        だから、そういった事情からしても、ウィトゲンシュタインの考え方を知る上で、最も簡便な”手引き”とさ        れるべき本のはずなのに、従来 余りそういう扱いで語られることは無かったようだ。(それが、上手くいっ        ているかともかくとしても)         「青色本」全体は、全集本6の翻訳文で p21からp130までの分量のものになる。他の多くのLWの著作と違っ        て、特に 数字を打った章分けなどは、されていない。話も、「探求」などのように、様々な言語に関する問        題が取り上げられるが、一見、そこにおいてハッキリした答えが与えられないまま、連続的に進んでいって、        多分に”シュールな”?最後の文章”・・、for we can't substitute for"I"a description of a body・・に行        き着き、突然のように終わっている風でもある。(2010 2/7)        だから、”手引き”みたいに扱われないというのも、この本にしたって 普通には 訳のわからないようなも        のであるからなのだろうが、そうなってしまうのは、まず、表面的なLWの著作の全然 個々違うような書き        方に 大体 まず 囚われてしまうことがある。(前期後期の分裂などと単純に言ってしまうのも、むしろ        ”手に余る”といった話・・・)実際は、相互を注釈的に読まないと殆ど理解不能になると私は思う。        そして、もうひとつ 理由を考えてみるなら、大体 英米の科学哲学の文脈で捉えようとしたり、そこから        気まぐれにフッサールによって見ようとしたり、カントによって見ようとしたりで、ドイツ語圏の哲学の中で、        十分 把握することが出来なかったことが挙げられよう。(2010 2/8)        先程の最後の文章を、その少し前から翻訳文を引用すると”痛みを感じ、または見、または考えるものは、心        的性格のものである、というこの命題の核心はただ「私は痛みを感じる」の中の「私」はある特定の体を指示        していない、ということだけである。「私」に体の或る記述を代入することは出来ないからである。”という        ふうに一応なっている。(ここで”心的性格のもの”というのは、"a mental nature"訳語になるわけだが、        この場合も、後に述べる「青色本」全体の論法から言うと、むしろ”自然””本性”といった意味で捉えた方        が正しいと思うけれど・・)        この文章は、普通の区切りからみても p123 の”ところで”から、始まる文章からの結論的な文句になって        いる。ちょっと簡単に説明しておくと・・普通の視覚的”描写”というのが、独我論的solipsismの本来の現実で、        それは、むしろ私たちにとって”直接的なもの"である。*が、それは”感覚データから引き出された”とか        ”数学の一般公式”が何か特別の直接的真理性?を持つように思ってしまうのと同じようなありがちな誤解に        よって判らなくなってしまうことなのである。このことは、結局 私たちの”描写”の自然な”直接性”を        無視して、身体か心か?という話にもなったりする。それが、”私”という直接的なものも分解して、身体各        部の記述の合成に変えてしまう話にもなってしまう。・・・        という風に、ここをいきなりではあるが、概略的にとらえてしておいてもいいと思う。(2010 2/9)      * ここは「・・視覚データー的”描写”というのが、独我論的solipsismの現実で」となっていたが、多くのことを云おうとして、かなり雑な               書き方になってしまっていたのに気付いたので修正。また6行上の、「指示」も「支持」になっていたのに気付いたので修正。2011 12/24        まず、この「青色本」の最後あたりに出て来る・・表現の ”直接的なものthe direct one”は結局 用法に        よって決まってくる・・という上で説明したような発想は、「茶色本」のⅠ(前半部分)最後で ”導出”などの        日常的行為を観察することが、言語理解において間接的indirectなのではない・・p201参照・・と、結論的に述べ        ている部分と共通するものになる。さらに、"I"が、身体の記述で分解的に捉えられないというのも、「論考」        5,5421「Eine zusammengesetzte seele wäre nämlich keine Seele mehr」と共通するものというべきである。        そして、この「青色本」の結論的な部分、直接的な”描写”があって、主体”I”が、全てから排除されること        で、構成的なものとしては無くなってしまうという話は、「論考」の命題の一般形式を説く直前の、5,62から        5,641の純粋の実在論は、独我論に一致するという重要な箇所の、ほぼ言い換えあることは、注目されるべき        である。(2010 2/10)        「青色本」について 普通の説明法とは逆さまの、しかもかなり足早な?解説をしてしまったわけだが、これ        はウィトゲンシュタインを読む場合、どうとでも取れるような、漠然とした抽象的な”単語”にとらわれてそこ        から解釈する、よくある非常に空疎なやり方を防ぐため。典型的なのは、”語るsprechen、と示すzeigen”と        いうような単語を、余り強調するような解釈。むしろ、ウィトゲンシュタインは常にデリケートな反対の言い方        を伴わせて話を進めることが多いし、それをそのように読んでいくと全てが混沌としてくる。ありがちな解釈者        の場合、ただ自らの思い込んでいることも、訳がわからないなら同じことなので、肩書きだけで書いていい話に        なってしまう。        大事なのは、ウィトゲンシュタインを読む場合、その著作に書いてある事柄の具体的な人間の行為を思い浮かべ        てみることと、それとほぼ似たこととして、そもそも、彼は誰のどんな議論にどう反論しようとして書いている        のか?を考えてみることである。        そのためには、著作の結論的な部分や、明らかに重要な問題を論じていそうな場所(哲学の古典的なテーマとも        いえるが・・)をまず、理解できるようにする。そして、そこから遡って全体を論じるのが、どこにも引っかから        ない空疎な話にならない一つの方法にはなるだろう。        だから、今回の場合も 先程の部分で論じていることと関連するように、最初の部分から要所をピックアップし        て説明するのが、最初のスケッチとして、便利でそれなりに正確なところを描くことになるはずである。        (もちろん、ここまでの説明は関係した多くの問題を省いたままである。しかし、まず組み合わせパズルにはまりそうなものを、当ててみて、後から逐一での文章のチェック         の中で 順次 明らかにしていく・・というやり方を私は、とろうというのである。)(2010 2/11) 「青色本TheBlueBook」1933-34 について始めのスケッチⅠ        まず、「語の意味とは何か?What is the meaning of a word?」という問いかけでこの著作は、始められるが、        、むしろ、「語の意味の説明とは何か?」と問うことに置き換えたほうがいいという。        そこで語の意味の説明とは、まず”言葉によるverbal定義”と”指差しによる直示ostensive定義"に、一応         分けられるものであるとする。前者が言葉が移るのに過ぎないので、”意味”に近づくのは直示定義になる。        しかし、その直示定義自身も"理解される必要"があるのか?が問題になる。(p22)        そこで、バンジョーを選べといわれ、それを取り分けたとき、その語に正しい解釈をしたと言う場合があるが、        人々は、その取り分ける行為と別の解釈をするという独立な行為を想定してしまう。(p24) しかし、「先立っ        てその語の解釈をしていない場合があるということがわかる」(p25) という。・・その前に、そういった場合         私たちのやりそうな行動全体を描写することでLWは 解釈のいらない状況を示してみせる。・・・        それから、ここにある問題は「言語に関して、固く結びついた”ある独立した心的過程”」を考えてしまうこと        が難点なので、(p25参照)そういう「思考過程の神秘的な外見の一部を避ける方法」が必要であり、それは「現        実のものを見る行為で置き換えること」になるという。        また、”数学の命題”と共に言葉の命題も”生命life”が大事だが、それは”記号の使用the use of a sign”        というべきだという。        しかし 人々は「名詞に対応するものを求める」ということなどから「記号と並んで存在するco-existingもの        のように、その”使用”を考えてしまうこと」があり、そして「言語体系の部分として生命があるのに、文に        随伴する神秘的な何かに命があると考えてしまう」(p27-28参照)とする。                                              (2010 2/17)        (この書の、こうした始めの部分からも明らかなように、ウィトゲンシュタインは ”生命”や魂といった言葉         を用いればよいと考えているような書き方で全くないのは大事なことで、むしろ そういう見方がネガティブ         に働く場合を指摘し、さらに常に 数学みたいなものやある即物的みたいな事柄を交代するように述べ、その         関係を強調させておこうとすることに注目。)        そういう風に、”語の意味”を捉えてしまい何か不可解なアメーバーの運動(p28)のように考えたり、また、実        験か何かで 頭や脳といった場所のみを思考の場所として考えると、それはある仮説でしかないのに、目に見え        る私たちの実は様々な”場所”などの言葉の具体的使われ方を忘れがちになる。(p32参照)(2010 2/18)        LWも指摘する(p33参照)ように、人の”視野”が、実は人の脳内にあるといったような答え方は、しばしばあ        るもので、今日もそうだが(脳の神経科学的に?)これは控えめに言っても「一部は文法的誤解によるものp32」        である。こういう言い方自体が「場所」という言葉の紛らわしい用法を一般に錯覚させるものなのだから。 た        だ、実際に脳手術的なことで視野の一部の欠損と対応を見つけるというのは勿論ありうる話で、そういう用法も        成り立つ。(p33参照) しかし、そういう視野のイメージや言語と脳の神経各部のある対応がいろいろな技術に        よって見つかったとしても、それによって却って、「視覚イメージを鼻の付け根の2インチ奥に感ずるp33」など        といった元々人間が言い出し易い”場所に関する文法的誤解”は全くありうることなのである。というのは、そ        れは”水占い”の人々がいう言い方と似たものであるともいえるから。        その”水脈占いdiviner”が、「占い杖を手にすると・・5フィートに水があるのを感じる・・」などと言う時、(い        わゆるダウジングみたいなこと・・・)問題になるのは、「よく判った言葉の組み合わせだが、我々に今の所まだ判        らない仕方で組み合わせられている・・この句の文法はなお説明してもらわないといけないp36」ということである。        すなわち、この場合も 本当にまずあるのは、「5フィートに・・ある」という基本的な人の行動にある測定の用        法が、全く別の 文脈に、それとなく組み合わされることに人が鈍感になりやすいということである。だから、        こういう場合、普通の言語の用法と学習の過程の確認(p35参照)が必要となる典型的な場合といえる。        (水占いの場合は、そういう確認を行えば、「・・nフィートと浮かぶ言葉といつも一致することを経験が示すなら        ・・非常に役立つp35」という検証の問題にも直ぐつながる。ウィトゲンシュタインの説明にさらにここで付け足し        て言うならば・・・その水占いの言語のチェックをし必要な事実確認も伴うなら、それは本当に効果がある、もしく        はそういう語法は一種の”儀式”としてぐらい 例えば マスコミの埋め草の話題としての用法など非常に限定        された意味にはなる云々・・、というふうに自ずと明確化する。        水占いの言い方も、脳に関するその類の話も、共に語の違った用法が容易に混同されることで、元々ややこしい        私たちの言語活動の様々のもののうち、すぐにも何か不可解なものがクローズアップされてくるという例になる。        そして、このことも、この本の終盤の”個人的経験””感覚与件のプライベートp102”なことへの批判の問題に        遠く関係している・・)        しかし、この問題は厄介な問題にもつながって行く。        続いて 水占いの場合も関係しうる”目測”の、その色々なケースcaseがで書き並べられる。        4階の建物を測るとき、一階が約15フィートになると思うから、およそ60フィートだと答える場合。        (2)この距離で1ヤードは大体見え方が見当つくので、4ヤードは・・        (3)背の高い男なら頭の届く高さだと思うので、6フィート・・・        (4)「どうやったか知らない。ただあれは1ヤードに見えるんだ」という場合。 (p36L15-p37L5)        (1)は、普段一階の高さの見当はつくものなのでその4倍の計算をする(2)は水平への目線角度などから 4倍        (3)は、人の背丈の常識から・・・などとこれらについて考えうる。そして、(4)は 普通 ”目測”するという        ケースに当たらないように見えるが、言語使用一般から考えると、全然 ありうるケースなのである。(2010 2/23)        即ち、「ただ”1ヤードに見えると言った”ことが起こったこと全て(p37参照)」という場合、リアルにその        場合を考えると、そのように普通の長さを測れそうな過程が現れていないような場合は、まず 直接 長さが        どれくらいか求めることに関心が無く、何か測るという動作だけが行われるようなケースで、端的に儀式的        行為の場合は、その類のものは珍しくは無い。また、正にその(4)のような言葉を発するというだけなら、         自分のやっていることに未分化で漠然とした直感に憑かれたような態度の言葉である場合。(”目測”に留ま        らずこの類の場合は、後で述べるように常に可笑しなものとは限らない。そういうものだと判っているならよ        り正しい描写の場合すらある・・)その他etc・・・        水占いの例の時、そして前の脳内の視野の話で様々な”場所”などの言葉の具体的使われ方を、文法として        区別することを強調したように、        ウィトゲンシュタインは、語句と結びついた用法(後で説明するが、結局 論考風に言えば言語形式になる・・)        の実例を、(1)から(4)で挙げている訳で、当然 各々のこういった用法を超えた場合は、各々無意味になる。        そして、(4)のケースも含めて考えると、同じ”目測”という語句を使って、微妙に違う文法が幾つもあること        になる。 特に(4)のようなケースの場合、(2)の場合の1ヤードという場合も自分のやっていることをただ説明        できない場合なども(4)の場合になりうる・・・etc という現実的に区別しにくい場合がさらに幾つも導き出され        るのでないか?        そういう風に考えることが出来る。(2010 2/24)        言語の使用における 特に(4)のようなケースを、理解するためにも、こんな”見積もり行為 the act of         estimateing"を、その習得から見ることが必要になる。そこに、「見積もり現象の原因」そして、「見積もる        ときに我々が使う規則(表a table、図a chart、 その類some such thing)を与えるもの」の2つの違った関係        の中で大雑把broadly speakingに見ることが、まあできる。そして、「黄色」という語の意味の用法を        直示定義で学ぶ場合にも、そういうものが、2つある。         A、”訓練”を原因として心理的メカニズムを作る。         B、理解する、従うobey・・の中の過程に含まれる”規則a rule”を与える。(p39) (2010 2/25)        Aは、語を学ぶ時、訓練によって、それこそ脳に刻むように覚えこむことによって成立するという半面のことである。        (look at in two different ways・・・HTBp12)だから、”忘れる”ということもある。そして  この過程の        「学習が連想や認知感等々を生じせしめる限り、それは理解・・従ったり等々の現象の 原因 である・・p39」        しかし、この”訓練”が全ての”理解”などの原因になっているか?というとそれは仮説hypothesisの問題になっ        てしまう。というのは、Bの場合とは、結局 理解、従う・・が、言語学習を一切受けなかった人に生じたというのが        ありうることを含んだ場合になるから。p39参照        (だから、Bの場合も、Aの場合から終極的に生じていることも、あり得ない事でないが、それは仮説である。少な        くとも、以下のBの場合は、学習に依らぬといっていい現象があり、それは 仮説ではない。)        Bは、「Bのケースの特徴的例a characteristic example of the caseBは、実際に表を使って理解したり、従った        りetcで、教える場合になる。p40参照」といわれる。LWの例を少し敷衍して説明するなら、(以下もp40参照)        すなわち、駒を動かす規則が図表で表わされている場合、一々 表を指でなぞって、対応する駒を盤上を動かす        簡単なゲームがあったとする。例えば、相手の駒の位置に自分の駒をぶつけて取るetc・・・というような規則の全体        のルール全体に駒群の動きの規則が、含まれているとすると、ある場合、長大にもなりうるゲームの中で殆ど、記        憶が役割を果たさないでも十分可能であり、また、そこでも優劣がありそうであることを考えてみようということ。        (記憶が1分しかもたないなような人物同志の争いみたいに・・)すなわち、そのゲームを合理的に進める優れた者が、        ほぼ”訓練 学習”と無関係に(原因でなく)成立しそうなことは重要である。        もっと簡単に言っても、表や図を運用することは、そういう”見方”自体を受け入れるか否か、別な言い方をすれば        ある程度まで説明した後は”空間的直観”というようなものを受け入れるか否かということでしかなくなるという        こと。そして、それは世界がそのようなものであるからとしか言いようのないことが土台になっている。        さらに言うなら、それこそ”神秘的なもの”である。(cf TLP 6,44 )だから、     ※ 一応ここで”空間的直観”いっておいたものは、カントの”感性的直観”も参考になると思う。違いなどはあとでもっと説明する・・        「この場合は、行為(理解する、従う、長さを目測する等)に先立つ仮説的な前史としての”学習”は、考慮の外         に置くことが出来る。p41」     (2010 2/26)         このBの場合は、こうした”表”の話をする前に、LWは自然数の2乗の例で、”含まれる”についての        区別を説明している。          1 2 3 4          1 4 9 16        すなわち、「学習は理解の過程に含まれる規則を与えること」というBの直示定義のやり方では、その”含まれる        規則”というのは、単に上の数列のように書き並べただけのものでも、またx1x2x3x4と書き加えていった        ものでも、それにあたらないうことが、問題なっている。結局、この場合 代数的な形で書き付けないと”含まれ        る規則”を与えたことにならないとしている。(p40参照)この話は、単に現れた記号の関係だけ”合致する”ので        は、駄目でそれ以外のあり得る別の規則と区別される、実際に追従できる行動をもった書かれ方をした規則でない        と”含まれる規則”というものにはならない・・ということ。        このBのケースにまつわる上のような論法などは、まだ 『青色本』の始めの部分に過ぎないのに、『外部世界はい        かに知られるうるか』のラッセルや”科学哲学”系統と大きく違うウィトゲンシュタインの特徴がよく顕れた部分        で、また ここに至る話題全体も、この本の後半などの考え方の要素が、もう そのまま出ているので話の関連を        軽視するとどうにもならないことになる。        「(例えば脳内?の黄色のイメージが、黄色という語句の学習を考えるときに必要か?という問題で・・)         ”黄色の切れを想像せよ”と私は命ずることも出来たことを思い出してくれればいい。なお、君は         彼がその命令の了解だけをし、黄色の切れを想像する。ついで、それと同色の黄色の切れを想像する         のだといいたいのか?こういうことが不可能というのではない。ただこういう言い方そのものが         直ちに、こういうことが起こる必要がないことを示すだろう。ついでながら、また、これは 哲学の         方法を示す一例にもなっているのである。p38」(2010 2/27)                黄色の切れを指しその語を繰り返してみせて、「黄色」の語を習得させ、後で「この袋から黄色のボ-ルを選び出        せ」という命令を与えて実地に適用させる・・というこの例で起こっていることは何か?と考えさせた場合、大概        人は、命令を了解し、何か黄色いものを想像し、後でそのイメージに従いボールを選んだというようなことをいい、        (以上p37,38 以下はその敷衍的説明・・)何かそのイメージが決定的なもののように思い易い。        しかし、言語の成立においては、本質的には黄色の切れと行為の対応が重要で、そこを媒介するイメージなどは        対応自体には関わっていない。そして、黄色の切れの直示定義的行為とそれに答える行為の空間的な関係は、        「表」をなぞるような対応でもある。というのは、先に述べたように 重大なことは 根本的に ”そうであると        しかいえないこと”という意味で”神秘的”なものは、もう目に見えるそこにあるのであって、別に 脳内のこと        を、心の中のことを、わざわざ考える必要がなくなることが、こうした例でまず示されうるのである。        人が、何故 ”心”ということを、または非常に”複雑な”脳の仕組みみたいなことを、言葉の問題を考えるとき        どうして言いたがるのか?大きな理由のひとつがここにある。(もう一つは自らの”個性”の主張ということが関        係するが、それが本当は別の問題であるのはもっと後で話す。・・)        逆説的だが、私は「人の言い出だすどんなことだって、ある真理を含まざるを得ない」ということをここで言いた        くなる。というのは、「場所」のようにそれ自体元々固定した意味がなく、むしろ、その言語活動を行う際の、元        々視点の置き方の足懸かりとして視野全体と結びついた言葉と普通 ハッキリと何を指しているか用法が固定して        いる言葉があり、前者を後者のように混同してしまう。私たちが言いうるような言葉は、所詮 自らの視野の成り        立つ限りにおいてだという意味において、何らかの真理を土台にしている。         ◆「真理」というのは、どちらかといえば「青色本」的では余りないし、「論考」の”形式的な概念”と”通常の概念”              の区別の話に結局なっているが、そうなる訳は次のところでも説明する。        だから、水占いの語法にせよ、例えば 人の「思考」を、脳内物質の状態に還元する論法にせよ、言語本来の言        いえぬものが、反映しているのに過ぎないともいえる。ただし非常に不必要な混乱を増す形で・・。しかしながら、        同じ語が、様々な微妙に違う用法で使われ、また いずれにせよ語には私たちには届き得ぬものがあるとなると、        語の用法の混乱こそメリットのあるものに思われかねない。そして、この両者は、一方は 普通と全く違う用法        を強引にくっつけることによって、一方は通常の用法を強引に掘り下げることで、その局所だけに人の目を固定        させる。問答無用の前提をそれとなく設けてしまって、ありのままの本来の多用な用法全体を見せないようにす        るということでは、両者は対極的でいながら共通するのである。(こういったことは後で話す、「フレーザーの        外魂」といった問題を捉えるときも役に立つはずである・・・)そして、        むしろ、人は、ありのままの不可知の深淵を見ることを恐れるので、カモフラージュされたこういった両者のよ        うな語法と、その様々な中間形態が溢れるようになるものなのである。「哲学の方法」とは、私たちの言語生活        いたるところにある「表」「図」によってもう示されているようなことを、如何に人は簡単に無視し、類似した        語句の混乱に惑わされてしまうものかを示し与えるもの・・とさえいえよう。        それで、まず大事なのは、”黄色の切れを想像せよ”というときのことを考えたり、身近な目に見える具体的な        行為で、共有しているようなものがないか考えてみることである。これは、ウィトゲンシュタインの方法として        ずっと一貫したものでもある。大げさな権威めいた衣装を着て与えられる説が、カモフラージュを与えられてい        るが、結局は、何らかの分野的な序列をただ最初から言わんとしているだけではないかということが、そこから        しばしば見えてくるのである。(2010 3/4)         ※ 先の”黄色の切れを想像せよ”という部分を含んだ「青色本」の全集6の翻訳文p38からの引用は、原文では              ”これは 哲学の方法を示す一例にも、たまたまなっているのである。”と翻訳されている。 これも多分、              by the wayを、ぼかすようなつもりで、”たまたま”と翻訳しているのだろうが、こういった言い方は、LW              で、根本的で一貫したものであることを理解していないことによると思う。案外、重要なことなので直訳っぽ              く”ついでながら”という訳語にしておいた方が適切になる。(2010 3/4)           語の本来の多様な用法に対して、用法の混同からくる「文法的誤解p32」といえるような陳述、さらに、それら        の言い方も一切意味を与えることが出来ぬわけでない(p33)というような関係。「青色本」で述べられている        そうした言語論に対して、元々際限の無い様なものの上に例外的なものも認められうるという中で、何を「誤解」        呼びうるのか?その境界は何か?という疑問は当然 出て来る話であろう。(2010 3/5)        見通しを良くするため、私がちょっとこの本を先取りして答えておくとすれば、結局のところ この本の全体の        大事な主張は、「言葉の実際の用法にはきっぱりした境界が無い」「境界を引きたいなら君の好きなように引い        てかまわない。しかし、実際の用法に一致することは決して無いだろう」(p49)というぐらいものなのであり、        「誤解」もしくは「誤り」といっていいものを判断するというのは、結局 連続的に話題を繋げていって展開し        て行く「青色本」全体の問題を通した上でないと、充分な明確さに至れないと考えていると言っていいだろうと        思う。        (そして、さらに付け加えていっておくとしたら、私は一般に「論考」との共通性を問題にしていった方が有益         であると強調することが必要と考えている訳だが、一方「青色本」以降の著作で、違うことが生じていること         をちょっと指摘することも、ここで参考にはなるだろうと思う。         その代表的なことのひとつは、「青色本」以降の著作は、「論考」に比較するとより、自らの考察の明確さに         はある大きな支えが欠けており、本当はその補強が無い限り「一抹の夢einen Traum」(探求p431)に終わ         ってしまうところがあるとの自覚があることだと思う・・・。)             ※この箇所は、言語ゲーム        とはいっても、大事なことは 先の自然数(・・カージナル数)の2乗の数列の話で、出てきたように、        規則を考えるときに、その規則の表現exprssionが、理解、従うことの過程に含まれているような規則の表現で        あることで、単なる”規則に合致 in accordance with a rule”したような過程でないことが問題になってい        ること。 (2010 3/6)        このことは、明確さに至る観点のヒントになる。単に数的に合致したものと、規則が実行出来ることを区別し        ている訳だがここには人の言語が実行されるにあたって、その”表現”が人の行動に係わって成立する場合        とそうではない場合を区別していることになる。そして、この類の”2分法”は、ウィトゲンシュタインにお        いては、非常に重要で、その体系中で何度も変奏曲のように現れる。結局のところ、これはカントのような        薬の品書きじみた多品目のカテゴリーその他を並べる窮屈な方法などより、よりデリケートに、この厄介な明        確さの問題に対して、その全体の記述の中の、様々な位置からとられた様々な描出を与えることで浮き彫りに        していく方法であると考えることが出来る。そして、そういうふうに捉えることが出来れば、その哲学の全体        像を見失わないため、とても役立つと思う。(2010 3/8)        こういった測定の用法や、AとBに分けられた直示定義の学習での数列のなどの話の後に、”理由と原因”の区        別の話(p41~43参照)が続いてくる。(2010 3/8)        赤を描いてくれ・・という要望に答えて、描いてくれた人に、「なぜ、他の色でなく、この色を描いたのか?」        と問われた場合、色サンプルを見せて「この色が赤と呼ばれた。そしてご覧の通り、私の描いたものもその色        をしている。」(以上P41参照)この発言は、命令を実行した”理由reason”を述べたことになるという。        そして、「理由を述べることは、その行為に至る道程wayを示すこと」といい、それは「ある場合、自ら歩んだ        道を話すこと」であり「ある場合には、自分が受け入れた或る規則に合わせてそこに至った道を描写すること」        p41だという。また後者のような場合の理由は、”事後の正当化”でもありうる。        一方、”原因cause”というのは、「私は、前にこの色サンプルを見せられ、同時に『赤』という語が私に発音        された。そのため『赤』の語を聞けば今ではいつもこの色が頭にうかぶので」ということを言った場合であり、        ”理由”を言ったのでないとする。p42            (2010 3/9)        このことを理解するためには、先程の”学習”に関したAとBの区別をしたおりに説明したことを見返してみよ        う。        まず、Aは訓練であり、ある電気回路を作ることになぞらえたりもするものになり、一方Bは、典型的には図表        でそのまま行動することと簡単に言えるだろう。だから、”原因”というのも物的関連性からの因果関係をい        うものとは大体言えそうなことである。しかし、”理由”に関しては、そのあとで”原因と動機”の文法の違        いの”動機”にあたるもの(p43参照)でもあると言っているように、普通に言えば何か”心理的なこと”を        指していて、”学習”に置ける”表の使用”のようなある空間的なものと一見、食い違うようなことをLWが、        指摘していることに注意しよう。さらに、「理由を述べるのは、ある結果に君を導いた計算を示すことに似て        いるのである。p43」と、この”理由”をめぐる話の最後に付け加えていることからも、先の自然数の2乗の        話での”単に合致した過程”と”規則が含まれている過程”の2つに区分した場合の後者において”代数的        な形p40”なものであり、共に数学的な表現でもあることが同じように特筆されていることも大事である。         だから、”理由"とは根本的に”動機”のような心理的なものものでありながら、”数学的表現” でもある        という訳で、常識的な見解からすると、人間的な極”主観的なもの”である自己告白と、数学という正確な        最も”客観的なもの”という相対立するものが、LWの場合むしろ同じこととして両立していることになる。        じつは、人が常識的に何故そういうふうに考えがちかが、本当は問題なのであり、そして、正に そのことが        ”ギリギリ”において成立していることを全体に証してみようというのがLWの著作でもあるのだが・・・。        それを考えるとき”行動”というものが、今までの話で深く係わっていることに注目するのが、必要である。                                                (2010 3/10)        すなわち、”理由”とは、wayを示すこと(p41)と言っているのであって、その人の行動の過程をただありの        まま示すことなのであって、”動機”もそういう行動の過程を言っているので、刑事事件の加害者みたいな        自己弁護的な空想を交えた話であっていいと言うわけで別にない。いわばただ、自然科学的な因果関係でなく、        その人の行動の連なりの位置みたいなものということは可能だろうと思う。表や図を使うことも、基本的に        或る程度以上は、それ以上言葉で定義したりしても仕方のないこと(後でこういった話は出て来る)、という        意味での”行動”なのである。そして、これがあるということは、言語論的には全く”仮説”ではないのであ        る。そして、これを踏まえて言語は用いられるのであって、結局のところ、こういう”行動”は、いわゆる        主観でも客観でもないし、また、それを多様に”表現"として言い表すことも出来る。(これは、私が最初に        書いてみた『青色本』の結論部分の話と直結していそうなことにも、気付いてもらえるだろう。)(2010 3/11)        こういった”理由”と”原因”の混同は、「なぜ」の2重の使い方といった語句の用法の問題 などと一緒に        なり(p43参照)、容易に起こってくるものでもある。そして、LWのいうこの”理由”と”原因”の区別自体        もこの本でずっと出て来る他の様々なテーマの持つ問題を、やはり含んではいるものでもあり、必ずしも気楽        な考え方でもない。  その他、        現実の言語形態は非常に複雑なものになり、その混乱の解明も様々なケースがある。様々な水占い的なケース        なども含め何重にも変装された姿があり、分析して適切な言語活動が成り立つには、そういった混乱に対応し        なければならないということでもある。 しかしそれは不可能なことでもなく、ある日常的なことでもある。        非常に複雑で専門的知識を大規模に含んだような話であっても、そこにある基本的な難点は、その細かい言い        方のクセや、特徴ある言い回し、また それに伴う表情などを、何故そうするのか、できるなら当人と問答し        てみたり、そうでなくてもその人の必ずしも専門的でもない分野での言い方と通常の正しい語の用法、文法な        ど、逐一いろいろ照合してみたりして検討することは可能なことである。実はある基本的な文法的混乱に関し        て、それだけでも非常に重要な解明が得られるものなのである。        そういった例として考えられるのは、少し前に出てきた”ゴールドバッハの予想”についてGHハーディーが        言ったという          「自分はゴールドバッハの定理が真だと信ずるゆえに、その定理は[有意味な]命題である。」(p36)        という文句に関する話、そこにある典型的な言い方が問題になる。(2010 3/12)        この文句の前後は、『青色本』の中で、(以下p36)        ”水占いの答弁を、検討することが大切なのは、「pが、事実であると私は感じる(または、信じる)」         と主張するだけで、既に陳述pに意味を与え済みだと思ってしまうことが多い、という事実があるか         らである。(ハーディー教授の言、自分は・・先の引用部分・・である、については後程ふれよう。)・・・”        となっており、この話題はその『青色本』内では、その後二度とは取り上げられてはいないのだが、『探求』        (全集8 一部 五七八 全文 p303)で、引継ぐように、実は語られている。        ”ゴールドバッハの命題を信ずるとはどういうことなのか、自問してみよ。かかる信念は何によって成り         立っているのか。われわれがそれを述べ、聞き、あるいは考えるときの確信の感じによってか。(これ         にはわれわれは関心が無い。)すると、その感じの特徴はどんなものか。その感じがどの程度命題その         ものによって喚び起されたのだろうか、わたしは知りもしない。私は、信念が思想の色調である、と言         うべきなのか。どこからこのような考えが出てきたのか。そう疑いの調子が存在するように、信念の調         子が存在する。私は尋ねたい、信念がどのようにしてこの命題に食い込むのか、と。信念がどのような         帰結をもたらし、われわれをどこに連れて行くか調べてみよう。           「それは私を、この命題の証明の探索へ誘っていくのだ。」   よろしい、ではさらに、あなた         の探索は、そもそも何によって成り立つか調べてみよう!そのとき、われわれは命題に対する信念とは         どういうことなのか知るであろう。”   (2010 3/13)        まず、『青色本』では、先の文句を、「pが、事実であると私は感じる(または、信じる)」とするだけ        で、陳述pに意味を与えてしまうと思ってしまう”誤り”の例として出してきている訳だが、割と何とな        く読むと、常識的には、ゴールドバッハの定理といったものの真理性は、「信ずる」という主観的なもの        に無関係と考えるのだから、LWの言っていることは、改めて普通のことを言っているだけに思えてしま        う。        一方、『探求』の方は、 このゴールドバッハの定理の話が、命題と信念の関係の問題であり、 そうい        う定理を信ずると言うことは、本当の信念の調子というべき”疑いの調子”のようにそこにあるのか?が        問題で、実際にそういう信念がどういう風な帰結を見せるのかを調べる必要があるということ。しかし、        そもそも、ゴールドバッハの命題の証明自体に関することというより、”ゴールドバッハの命題を信ずる”        という言い方そのものにあるような何かが探索を起こさせるのでないか?・・・といった話をしている訳        だから、批判や断定的というより、かなり、ここではより大きな問題の関連で捉えるようにして、慎重な        抑えた言い方に変えているというふうに云えるだろう。        こういった、両著作の考えには、十分 つながりがありそうだが、それはここまでやってきた考察によっ        て明らかにできるように思う。        『青色本』でこの”ハーディー教授の言”を、水占いの答弁と一緒にして語っていることに、そこで言い        たかったことは、もっとあるはずで、「pが、事実であると私は感じる(または、信じる)と主張するだ        けで、既に陳述pに意味を与え済みだと思ってしまう・・」というのもやや補足して理解してみたほうがよ        り、リアリティーのある話になる。(2010 3/14)        すなわち、普通は、感じる などと主張しても”弱い”言い方になるのだけだが、この水占いやハーディ        ーの言い方の場合は、かなり違うことに注目しなければならないということ。というのは、        先にも簡単に書いたように、”感じる”とか”測る”という実際にはたくさんある通例の用語法に、明ら        かに食い違う用法を、”堂々と”やっているのがむしろ”特徴”なのである。        そうすると普通 人は、日常的言語に”普通の文法”と違う強い文法が存在すること自体を知らないし、        反って頭からそれに食い違う言い方をされると、知らない世界が現れ、そこに引っ張られるということに        なってしまうものなのである。さらに、        ハーディーの「ゴールドバッハの定理が、事実であると私は信じる」の場合、”理由と原因”の区別に関        する何か”原因”のように、ある種 聞こえてしまうのが問題であろうと思う。 というのは、この話の        ポイント(注目点)の一つは、これが”素数”というものに絡んだ話であるこで、明らかに誰も知らない        ”素数”の成立原理と、それにあいまいに関連した様々な諸定理との関係(・・・結局は、それは私たちの        不可知な この”世界自体”につながるような問題??)に対して、”信じる”という言葉が用いられて        いることなのである。         ※”理由と原因”の区別が、その前の直示定義の学習の2つの区別、測るの用法の区別などと連続して、強い関連を持              ち話が展開していることに注意すれば、この例にもこの区別の適用を行ってみるのは決して強引な解釈ではないと思う。(2010/317追記)                     自らのやってきたこと、自らの業績に対する理由付けとして、ゴールドバッハの定理みたいなものに対す        る信仰beliefを挙げること。        しかし、本当に必要なのはそういうことを言うのでなく、まず率直に自らのやってきたwayを述べること        が大事なことで、自分のやった仕事の手順とか、元にした考え方、不足に思ったこと、様々な数学的技術        の利用過程や習得について述べるのが、本当の”理由”になる。にもかかわらず、その種の信仰告白めい        たことは、”理由と原因”の混乱にあたり、私たちの本当に信じているもの全般に対して、大きな誤解を        与えることであり、整数論の様々な専門技術の問題を薄く被せることでそれが行われていることになる。        (ハーディーの言う様式patternと内容ideaといった話、数学の実用性と美の話、重さと深さの話、列挙         性の問題、チェスとの関係・・これは、何れもむしろ言語的な問題であるのに、ある”職業”からの         弁明apologyで語られる。『ある数学者の弁明』参照  これはある典型的な20世紀の傾向ともいえ         る歪んだ議論とした方がいいものだが、ここの話にまで立ち寄る訳にはいかないけど・・) (2010 3/15)        もちろん、いかなる場合もこういった言い方が無意味という訳でもない。例えば、ゴールドバッハ自身の        行った様々な考察に対して、ハーディ自身の数学的考察の関連性を調べることも可能かもしれないし、そ        こに仮説としていろんな因果関係を見つけることも出来るかもしれない。そこに”信じる”の意味を遠く        考えるような場合。        別にこのハーディーの場合に限らず、定理を”信ずる”みたいに言う場合 例えば それと逆に数学的な        ものは一切信じないというぐらいの馬鹿げたような立場よりは、現実的にも、望まれるならより効率的な        ”合致”した関係を見出す役には立つだろうという程度のことは言える。 しかし、それだから正しいも        のでもないのである。        ”理由"を述べるということは、実は正直に材料を提示するだけであり、”合致”する関係だけを求めるの        ではないが、別に”合致”させることを阻害する訳でもない。言語というものを”生かす”ためには、普        通思われているのと違う微妙な関係がある。基本的な誤用を重ねると、非常に不可解な症状の社会的な難        問になってしまうが、そうするのは元々は誰でも可能なことでもある。        ウィトゲンシュタインは、いろんな事情もあって、そのことをかなり控えめに指摘している訳だが、あえて        ハッキリ言ってしまえば、この”ゴールドバッハの命題を信ずる・・”という話が『青色本』のここに書かれ        ているのは、元々 胡散臭い占い紛いのその類の人々の口からでなく、高度な専門的学術で十分そこにおい        ての業績といえるものがある人々の口から、重大な悪影響のある用例が教えられている場合の典型だからで        もある。 (2010 3/17)        「命題に対する信念の関係」(探求p303)とは、いろいろなふうに言える厄介な問題なのだが、ここまでで        述べてきたような話題だけからでも、ある程度のことは考えられる。        「・・・・を信ずる」という場合、通常の文法では”・・・・”に当たる事柄は、特に区別されては教えられない。        ”明日が天気であること”でもいいし、”Aという人物”でもいい。深刻な社会的問題になるのは”・・・・”に        、代表的な宗教の名前が入る場合である。そのように列挙して見ていくなら、そこに”ゴールドバッハの予想”        を当てはめるのは非常に特異な場合になる。大事なのはそういうことを言うときの人の表情や目付きを出来れ        ば見てみることだが、実際に「信じる」ということは、人の言語活動に”深く食い込んだ”ものであるもので        あることが判る。日常的に繰り返す言語のやり取りや学習(新しい言葉を憶え、また忘れる・・)において、        ”そうであるとしか言いようの無いこと”をそのまま受け取るのがどうも常に関係ありそうだということだけ        でも、「信じる」ということが土台にならざるを得ない理由になる。そして、直示定義の場合も、そこで人が        行うことに対し”疑う”というのは、そもそも例外的でありそうなことが、想像できる。        一方、「何々の定理を信ずる」というのは、それだけでも不自然で、言わなくて良いことを言っている感じが        する。数学的正しさを信じるとは、そんな特別なことを信じるのでないし、むしろ、日常の計算行為を、様々        な計算技術行為全体を信じている訳だから、特別な目的のために作られた、甚だ"人工的な"文句であるといえ        よう。        結局のところ、「・・・・を信ずる」というしばしば非常に強調されて使われる言い方を移動させ、わざわざ あ        る”体裁のよさ”を持った”数式”で置き換えて出来ているだけともいえよう。        だから、こういうトリックのある言い方をされた場合 本当は、その人の個性(思想の色調?というべき信念)        がもっと現れている、”隠された信念”の方を、ずっと問題にすべきだということになろう。そして、世間が、        簡単にこの手の言い方で溢れ易いところは、今日の社会の特徴でもあるのである。 (2010 3/19)         ※ 実際は、        「信じる」ということが、私たちの言語活動にとって”深く食い込んだ”ものであるなら、何故、人々の主張        することが、深刻に食い違ってくるのか?ということはここでもう思い浮かんでも仕方のない疑問である。        というのは、此処までだけの話でも、AとBの直示定義の区別にせよ、普通 考えられているより、相当大きく        人の言語の営みにおいて、相手を信じ、また、一方的に受け入れることが土台となっているというような話でも        あるから。        しかし、こういった話は、「信念」のレベルの違いみたいなものや、「人格」と言語の係わりなどといった、        『青色本』のもっと後の部分の記述に主として関係してくるので、勿論 まだまだ 早急な問題になる。        今はただ、私の文章の進行の都合上のことと、なるべく、『青色本』で展開されている話が、何のひっかかり        もない言語論上だけの”抽象的な”話では、元々ないことを理解してもらいたいために、問題意識の射程とい        うものを強調してみているのである。そして、この最初の部分だけからでも、含まれている話題を、かなり         先回りして説明することで、次に書きたいこの何の章分けもない『青色本』の”全体の構成”の話を、掴む材        料にしたいためでもある。                 (2010 3/20)                『青色本』の考え方の特徴を、改めてここで整理して説明するため、先の”理由と原因”の話に続く部分から        以下のところを読んでもらいたい。         ”思考は、本質的に記号を操作することだ というとき、君の最初の質問は、「では記号とはなにか」          であるかもしれない。-この質問に何らかの一般的な答えをする代わりに、「記号を操作する」と          いいうる具体的ケースのあれこれを君に注意深く観察することを求めたい。言葉を操作する簡単な          一例を見てみよう。・・・”(p45)        「なにか?」と問うことに、人を惑わせる言語的混乱を与える典型的な材料がもう揃っているのである。        そして、仮に、”一般的な答え”があったとしても、それが何の役に立つのだろうか?そう考えてみること        が、まず、ウィトゲンシュタインの考えに近づく方法になると思う。(2010 3/21)        ”一般性””共通な何かを探す傾向”(p46)でもって、”出来る限り少数の基礎的自然法則に帰着させる”        というのが代表的な”科学の方法”(p47)であり、そのように私たちの知識を、整理することが、私たちの        社会生活のある面で、重大な変化をどんどん与えてきたのは歴としたことで、そういうことは今や誰でも認        める類の話である。(・・そのような方法は、私たちの知識のもつある能力をずっと高めたというコト・・)        しかし、この「方法に先取りされてしまいpreoccupation」(p47L9) いわば人間の言語本来の以下の特徴が        殆ど黙殺されてしまう傾向がある。         ・個別的ケースの重要さ。(p47参照)          (実際の)ケースを枚挙し描写するだけで充分満足できるものがあること。「具体的適用例」は           本来、一般や共通する要素に比し軽視されるべきで無いこと。(p49参照)         ・一般名詞は、”家族的類似family likeness”によって形成されているのであって、共通な何か一つの          要素によってではない。(p46参照)         ・日常言語は、子供が言葉を使い始めるような単純な記号を使う仕方の描写、”言語ゲーム”の描写          を連続的に複雑なものにしたものから、観察して行くことによって、          その厄介な”心の霧the mental mist”の混乱から逃れうる。(p45参照)          一方、”言語ゲーム”の「ゲーム」というものにも共通な要素はなく、          家族的類似で把握できるだけである。(p46参照)(2010 3/22)         ・「思考」は「物質的な事柄」でもないし、単に「プライベートな意識の出来事」でもないこと。           (p44参照) すなわち、「思考は、記号を操作するp43」(..行動)全般のことである。           「思考は心の働き」というのも、結局、「思考とはなにか?」という問いが、「どこで起きるか           ?」という問いと混同されがちなことから、誤解と混乱に陥り易い、ある偏った見方からくる           見解でしかないのである。そういう話ならば、言語的には、紙の上で、頭の中で、書いている           手で、喉で、と言ってしまうのが、正しい見解といえる。(p43) (2010 3/23)           この「思考」の場合も、共通な語句、要素に、結びつけようとすること自体が、言語的混乱の           元でしかないということ。           こういった話の連なりから、ウィトゲンシュタインより大胆な説明を、もっと付け足しておく。           そういう「思考」という複雑な人の行動のあり方を、各々多面的に描出した各々が必要なのであ           り、この面だけが、ただ正しいなどということはない。           特に、頭の中の身体的機構のみで考えてしまうと、「思考」に関係した問題のむしろ大半が言語           自体の元々不可知的な問題(数学的でもある)とそれとの関連で自然に決まってくる仕組みや           人の置かれた環境との関係からくるものであることを、殆ど ちゃんと見ることが出来なくな           ってしまう。           そこの”神秘”が”脳や心の霧の神秘に置きかえらてしまうのである。さらに、それを利用し           自分の都合のよい方面だけを言おうとする。           むしろ、対応関係を具体的に眺めれば、まず 明らかなことがある。また、どんなに人の知識           が増大複雑化しても、いつも「記号の操作」やその行動ということは、当然ある訳で、そういっ           た多面的適用を、そのまま踏まえることは、私たちの生活と行動に、”正しい位置”・・明確な           もの・・を、あたえることでもある。  ◆ ここの説明が、元々「論理学」というものの成立から、無理のない考え方であり、また、十分 ウィトゲンシュタイン                       的でもあることを、後ほど また話題にしてみる・・・         ・ 「現実の理由には始めがあるということを、一旦認識するならば、その注文に従うやり方way            には、理由がないケースがあるという考えに、君が反発することもなくなるだろう。」            (p42L10、原文p15参照)            ”それ以上理由がないといっていい場合”があること。            一方、”原因cause”は、科学的仮説でもあるので、宇宙の原理の解明が終わりがないとす            べきなの(それこそ、厳密な独断でない考え方である)と同じように無限遡及されうる。              (『ウィトゲンシュタインとウィーン学団』p139&論考6.36311&6.372比較して参照)            この問題も、理由として人が挙げているのは、まず それを尊重して考えるべきであって、            より一般的、より根本的で少ない要素に遡って考えなければならないことはないし、そうす            ることが却って、不必要な混乱の元になることが多いということ。(2010 3/24)         今、箇条書きにして、書いたところは、大体 p42の理由に関して書かれた部分から、p49あたり         までの”一般的なものへの渇望”に関して書かれた部分の内容を、原文のまとめ方と違ったふうに         整理しなおしてみたものである。(『青色本』の訳文でもいいので、常に 参照してここのHPの文         章をチェックして読んでもらいたいのだけれど、例えば話題の現れる順序は逆になっている・・)原         文にも、箇条書き的に書かれたところはあるがそれと別に、その前の話からの関係や大事なことが、         こうすると、判りやすいようになるし、便宜的に簡単にも出来ると思う。         というのは、その前に説明した”脳の動きを見る経験p32”や”水占いp34””ゴールドバッハの定         理p36”といった話は、「思考の場所」「学習」という、この書の最初の問いかけ*から連続的に変化         して現れてくるテーマみたいなものの下に語られていた。私は、その部分も逆行して説明してみた         し、さらにそこからのつながりを、上の箇条書きのように逆にして説明したことになる。がしかし、         これは、そんなに勝手なやり方ともいえないと私は言いたい。後でも、再び触れるつもりだけれど、         このようにすると、そうしても不自然にならず、全体からの話の整合性も保つようにやるならば、単         に書いてあることを、良く判らないままにただ並べていくというやり方と違って、この書の 目立た         なくて無視されがちだったところが、はっきり見えるようになると思う。よって私は、これは割と、         しばしば役立つような説明方法でないか、と考えるからなのである。         (*「語の意味とは何か?」から始り、「意味の説明とは」、「定義」にはどんなものがあるか、          語の解釈とは、解釈する思考とは、思考と目で見える過程、思考と使用、思考は記号を操作する          働き・・・例えばこういうふうに、、此処まで上で話してきたこの本で書かれている問題を、整理し          なおすことも可能である。・・・これはもう一度見返してもらえばそんなに無理なくそうなっている          ことがわかるはず。・・・そして、そのように”連続”した関係で話題が移り変わっている、その各          々を、テーマということも出来よう。)(2010 3/25)         『青色本』では、先の”一般性””共通な何かを探す傾向”を問題とする一連の話の最後に、さらに         「数の概念」の説明の話と「種類」という言葉の使い方の話が続き、そこでも、個別的具体的ケース         を、枚挙する方法が十分役立つし、軽視されるべきでないという話をする。(p48-p49)         ところで、この書の冒頭から、このp49辺りまでは、この書全体の構成の中で、一つのまとまりを持っ         ていると考えることが出来る。(2010 3/26)         その後のこの書の話題の流れを見ると、           ”我々が、「望む」「考える」「理解する」「意味する」という言葉を研究する場合には、望む、考え            る等々の様々なケースを描写すればそれで満足するだろう。”(p49L2)         という、文章のように、続くp50から、p65までは、主として「望む」「知る」「恐れる」         「測る」等 といった場合で、前段の直示定義的な語句の学習の場合より、語を用いる人の”感情”         などが、より積極的に関与するもっと複雑といっていい場合の考察を、その具体的な例の描写         を主として用いることで、話を進めていく。         今まで 私たちは、この本の最初から、p49までの、その論旨の展開を、かなり詳しく見てきた         ことになるので、ウィトゲンシュタインの考え方の基本的な方法や、話の進め方、問題意識のありそうな         所、等が、かなり、想像できるような準備を、既にしてきたわけである。(2010 3/27)         この最初の部分とその後の部分を比較して、この本全体の構成を推し測ってみるため、今まで書いてきた         ことを、ちょっと別様に、         改めて要約しなおしてみる。すなわち、この本では、まず意味とは何か?と問うより、意味の説明の具体的         なものを考えることなのである※。         さらに「思考とは記号を操作すること」というのも、思考を具体的行為全体として考えることで         あるし、それは別の言い方をすれば、”一般性””共通な何かを探す傾向”に対して、個別の例を枚挙する         やり方が言語において、非常に大事なことなのであって、そのように「思考」や「意味」などというものを         考えるべきだということでもある。         そういう個別の言葉の使い方の具体的なものが多くの人々にとって、用法の混乱(水占いやハーディー風の         言い方など)によって、かえって知らない世界(この言い方は私が上で試しにしてみた言い方だけれど)の         ものみたいになる。具体的な言語の使い方を積極的に捉えなおすために、”家族的類似”や”言語ゲーム”         などの新しい理解のための手法を提出してくる。 (2010 3/28)           ※          こうしたことに加え、先に話した連続して進んでいく”テーマ”みたいなもののつながりも、踏まえるなら         ば、ここは「これは、赤い」とか「これは鉛筆である」とか「あそこは7mある」とかいう普通の言い方で         の客観的な事物についての言語の用法や学習を、いわば、それを大枠で基礎付ける意味や思考ということと         の関連で、どう捉えるかの話なのである。さらに、それは主としてそういう意味や思考の問題が、あの         ”二分法”の”空間的直観”から来る問題の、この段階での現れでもある。         こういったp49の前までの部分。それに対して、その後の部分(結局p50からp65辺りまでの部分。以下参照)         を比較してみる。         まず「Aが、4時から4時半までの間、Bが自室に来るのを期待している」の例を挙げていて、そこでの         「期待するexpect」の語を説明する場合、         ・・お茶の用意をしたり、そわそわしたりする~など(p50)。ここで幾つもの動作の描写や、また感情         との関係など、あり得るケースを、具体的に述べる部分に、実際なっている。 (2010 4/6)         その後に類似はしているが、ちょっと違った言葉に移る。それは、ラッセルの「望むwishing」p52であるのだ、         が、そこに関連する”対象に向けられていない感情p53”(「知らない」ことに対する感情)という問題を、         取り上げ、身近で具体的例を、また 幾つも挙げて描写し、その話を進めていく。         りんごと梨からの満足感、知らないものへの恐れの文句、痛まない虫歯の無意識的歯痛、などと言った話。         こういった例が、先の”p49の前までの部分”と明らかの違っているところは、まず、期待の感情、満足感         恐れ、痛み・・などであって、先の部分での”赤い色””バンジョーという楽器””目測での長さ””数を書き         並べること”という、ある客観的事物のようなものを巡る事例なのではない。むしろ、その言葉の使い手(話         者)の”感情”というべきものが、どれも、中心的に問題になっていることである。         さらに、先のp49の前までの部分であった、語の用法を区別しないといけないという問題が、この後の部分で         は、「2つの用法の間の衝突」(p59L10)というものになっていることも注意しなければならない。         例えば、このp59での”時間の定義における衝突の問題”。そして、、p53の「望む」という言葉においても、         望みの対象は、あるようでないようなものという問題がある。(私は林檎を望んだが梨を食べて満足した・・         というある種のパラドックス)          そして、痛みのない歯痛というもののパラドックスからの”無意識”という言葉における用法の混乱の可能         性。・・・etc といった衝突。         (以上、p53、p55参照。 今ここで、この本の見取り図を書くため、一応 これは、私が問題のでない程度          の目安に、簡略化した説明を書いてみたもので、あとでまたこの話はします。)(2010 4/9)                  p50から、いかにも文章の区切りを現しているp65L15までの部分は、簡単にまとめると、そういう問題に絡め         て、”基準と徴候の区別”p57、定義がないことp58、規則というものについての困惑と哲学p60、表現の形が         及ぼす幻惑に対する戦いとしての哲学p61、定義できないものとしての類似性と哲学の相続人としての方法         p62、表現形式と根深い思考傾向の問題p64、・・・といったことを絡めた部分といえる。         (先段と同じく、以上挙げた話はどれもとても重要なのであとで、詳しく説明しなおす。)         この部分のあと、p65末から、p86中程までの部分も、大きな区切りがあるととるのは、文章の書き方からし         ても無理のない見解になるだろう。(2010 4/11)           すなわち、          ”今考察している、「望む」「考える」、等の表現の意味には、非常に多くの哲学的困難が結びつい           ている。だが、それらすべて、「事実でない事態を考えることができるのはどうしてか?」という           問いに集約できる。”(全集6 p65)         こういう「事実と思考対象」(p66)が、必ずしも一致するわけでなくて、そこに”意図”や”願望”         というものが関係する・・という話が、p86辺りまでずっと続いている。(・・ざっと、本を確認して下さい。)                  ウィトゲンシュタインの文章も、基本的には、普通の議論の展開をする場合と同じと考えるべきなのであっ         て、”今までの話を要約すると”とかいう一連の話を総括するような文句や、”ところで””さて”、みた         いな話の接続関係を、示しているような言い方に注目することは、その文章の構成を考える場合に、大きな         目安になるのは当然のこととである。(アフォリズムスタイルの文章でも、それに近いものは現れてくる)                                            (2010 4/13)         それゆえ、Let us sum up:If we scrutinize・・(HTB p43)と始まる文章、          ”要約してみよう。「考える」「意味する」「願う」等のような言葉の使い方を吟味するならば、           この吟味を経過することによって、思想を表現する行為the act of expressing our thoughts           とは、別に何か奇妙な媒体の中にしまい込まれた奇妙な思考作用を探し求めたい誘惑から解放           される。”(全集6 p86)         とp65の文章的な対応と、ここで言っていることも、思考を頭の中の問題にしないというこの本の最初の部分         からの主張をリフレインして、強調していることからも、この本全体において、その間を大きく区切っている         箇所だと想像がつくと思う。         私たちの”言葉の使い方”を吟味してきたので、一見 奇妙な「事実でない事態を考えることができるp65」         という”思考”の難問から解放されているということなのだが、注意すべきなのは、先に一応説明した         p50から、p65L15くらいまでの部分も、その前の部分に比べると”望む””期待”といった”感情”の関係が         重視されてきたのに、ここでは結局、”事実でない”ものも”期待”といった感情※※によって成立しうると         いうことになっているという点である。(あえて言えば、無から有が生じている・・ともいえなくはない。)         すなわち、先の部分がよりエスカレートしているともいえるのである。 (2010 4/14)          ※ ここの部分(p65~p86辺り)が、実は全体で解釈が最も厄介な部分である。今はこの本全体の最初のスケッチとしての、見取り図を描くのが目的                 なので、以下と同様 早送りして行く。勿論 後で、別の重要な問題と絡めて論じる。              ※※ その”感情”というのは何なのか?と当然問いたくはなるだろう。しかし、ここまでの話においてはまず、人間というものが宇宙に存在しても、しなくても全く                 変わらない仕組みはあるだろうが、言語においてはそうでないものは、ある必然性においてありうるということをヒントにしてもらいたい。後述・・         その次も、同じように”話の接続関係を示す”文章に注目して、見ていくやり方で、このまま最後まで簡単に         整理することにする。         その「p65から、p86辺りまでの部分」の直ぐ後の          ”個人的経験について語るのをこれまで引き伸ばしてきた理由は、この問題を考え出すとあまたの           哲学的困難が呼び起こされ、日常的に経験の対象と呼ぶべきものについての常識的概念の全てが           壊されんばかりに見えるからである。”(p87)        という文章も、下の文章と対応があることが判る。          ”これまでの探求で我々が問題にしてきたのは、見る、聞く、感じる、等「心の働き」と呼ばれる           もを述べる語の文法であった、と事実言えるであろう。それは、我々の問題とするものは「感覚           与件sense dataを述べる語句」の文法である、ということと結局は同じになる。”(p124)                            (2010 4/16)        上の「個人的経験」ついての話が、その前の「p65末から、p86中程までの部分」から、続いて現れるというのは、        (引き伸ばしたた理由が経験の対象についての困難が起こるから、といっている訳だが)私は、今までここでし        てきた説明からも、無理なく理解できると思う。        その前の部分において、「事実でない事態を考えることができるp65」という問題を論じていた訳だが、        その発想を端的に説明する『青色本』のこの部分における文章は、特に挙げれば以下のものである。          ”「何によって、ある肖像が誰それの肖像となるのか」、この問いに対する、当然の正しい           答えは、それは意図intentionである、ということである。”(p68)        そして、「肖像portrait」は、「事実の影shadow」であり、その影は「命題」であり「文の意義sense」で        もあると言う(p68参照)。 そして、”(思考内容を事実そのものとは違うと言いたいとしても)そう        かどうかは正に、「事実」という語をどう使うつもりかにかかっている。”(p67)とも言う。        「意図」は、結局 「願望」に殆ど近いものである(p77参照)し、客体的事物と違い、ある個人がその        場の勝手に出来る”感情”のようにも思われるものだから、ある個人の「個人的経験」が全てを産み出        せるものみたいな話に、やはり、この前の部分ではなってきているのである。        「我々を取り囲む対象the objectsと我々の個人的経験personal experiencesとの関係を考えるとき         時に、これらの個人的経験が材料であってそれから現実realityが作られていると言いたくなる。」p88        さらに、続く先に引用した箇所の間「p87からp124」程までの長い部分において、まず「意図」に支えら        れているような勝手にも見える「個人的経験」からものを考え出すと、人は「我々の周囲の対象に対する        確固とした保持が、失われているp88ように思われ、「その個人的経験自体も定かならぬ、絶えざる流動」        のように見えてくるものなのであると言う。そして、そこで日常言語と別の確固とした(人工的?)言語        を作ろうとしたり、しだすものだとも言う。(p88参照)                だから、そこからのウィトゲンシュタインの話は、「意図」と感情といったものが、根本的に私たちの        言語活動に係わるものとはいえ、そのあり方がそうようだからといって(感覚的経験の包括的)「曖昧        性」(p89)といえるものではないし(・・・対照語を欠いて使われるアヤマリp89)、また いわゆる論理的        でないとか、いわゆる”科学的な知識”に対して劣ったようなもの、もしくは 個人を超えた経験でない        ・・etc といった、ありがちな発想に対する幾つもの”問題”を組み合わせた反論になってくるのである。                                (2010 4/18)     
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