※『小林秀雄のモオツァルト』について:U
◆ U ◆
【U 青色本 】
まずウィトゲンシュタインが言い出すことは・・・この「個人的経験」の問題は、哲学の研究の中で、"すべ てが壊され(p87)"んばかりの、多くの困難を引き起こすくらい重大なものだが、「すべての哲学的問題 が解けるまで」解決不能だというものではない。哲学とはある面で「図書館の本を整理する」ようなもの であって部分的配列を決定するくらいならば、今の段階でも出来る。(すべての哲学的問題の配列でなく ても)ただ問題は、自らのその部分的整理を”最終的な場所に置いたわけではないことを承知する難しさ” (p88L5)がある・・・、ということだと、以下の話全体に いわば”前置き”している。(以上p87-88参照) (2010 4/19) 続いて、一種のたとえ話になるという、ある実例にLWは注目させている。 その「固く見える物質も本当は隙間だらけで固くは無い」というような ある”通俗科学者”の語る原子 に関するちょっとした説明のしかたのことだが、そこにある、”感覚的経験”と電子などの物質構造の知 識の混同した言葉の使い方が、当たり前 になっていることは、むしろ、とても重大なことである。 ここでの”固い”という語の使い方は、感覚を表わす言葉の用法を軽んずる無制限な使い方であって、 よくある自称するところの”科学的な知識”の特有の言い方を代表するものでもある。これが おかし いのは「固い」に対する「脆い」みたいな語を、この場合どう捉えているか考えてみれば分かる。 だから、しばしば※こういう”対照語antithesis”全般の用法の無理解が世にあって、そして、そのよう な見方から、”感覚語”や”個人的経験”というものにおいても、その”対照語を欠く仕方p89L13”で誤 用し、事柄を単純に”曖昧vagueness”と考えてしまい、反って解決不能の方に問題をもっていってしまう ものなのである。 (以上p89参照) ※ こういう”対照語antithesis”の問題を、ウィトゲンシュタインの場合は、この程度にしか扱ってはいないのだが、結局、従来”弁証法”の問題として 知られていた問題につながる。このことも後でまた論じる。ついでにいえば、ウィトゲンシュタインは、ここで、そもそも 解決不能なものは、”問題” と呼んではいけない(p89参照)とも言っている。cf TLP6・5 (2010 4/22) 続いて、この自らの”個人的経験”だけが本当だと言いたくなるくらい、この見方は誘惑的である一方、 例えば「他人の痛み」に関して、ある意味”信じているbelieve”という言い方も、おかしなぐらい ”信じる”ことが出来るという普通の”常識”の見方ももっともなものであるというのが、この問題で あるという話をする(p90参照、斜体原文)。 そして、この対立している問題を解くには、経験を内観introspectionで調べたり、科学的探究を試みる とかでは駄目なんだと言う。(前者にしても、結局、それが必ずしも”内側”の問題ではないはずだし、 また、何らかの”経験”を増やして行くやり方なのであるからイケナイとLWは言っているんだと、私 は思う・・)p90L11 というのは、この場合の問題で大事なのは、もう私たちが十分知っていることを相手にしなければなら ないのであって、別に特別な経験を増やして行くことはお門違いの話しになる(・・パズルのはめ絵の駒 は、全部揃っている。ただ、ごちゃごちゃになっているだけなのだ。p90L13)のだ。 そして、何らかの特別な知識が幾らあっても役立つわけではなく、もう、私たちの知っている日常の言 語的な事柄を注意深く眺め、無理なく、自然に収まるところを探すというのが大事ということになる。 (・・駒を無理やり力づくで合わせても無駄だということである。すべきことは、注意深く駒を眺めてそ して配列することである。p90L15) このように、これからの問題解法(?)の指針と着地点をある程度示しておいた上で、結局、この本の 中心問題とも言えることを、話し始めることになる。すなわち、(2010 4/27) 物質的世界の事実を述べる命題がある。物理的事物について述べたもので、ただ特に自然科学の法則を 述べたものというより「うちの庭の桜は満開である」とか「スミスはもう来る時間だ」というような 外界の出来事の描写の命題。 それに対して、先程から強調している”個人的経験”を述べる命題とは、とにかくその人の”感覚的経験” であって、そこにどんな物理的事実、生理的事実があっても無関係に述べる命題である。 この2つのタイプ?の命題があることを、結局 異なる2つの材料で出来た”心的世界””物理的世界” という2つの別の世界があるゆえに、成立していると考えてしまうような大きな傾向がある。 (心的なエーテル論、もしくは複雑な有機体論というような簡単に分けてしまうといった話など p91後半参照 ) こういう傾向を持った上で、”個人的経験”を論じると、「ある意見を単に主観的で趣味の問題だ」と いう時のような”見下ろす意味をもって”「すべては”主観的”だ」とかと言おうとしたり、われわれ の知識全体を、価値、信頼性、堅固さの多くを失わせる考え方であるように思えてくる。 (しかし、「機械が考えるのは可能かp92」などと論じだすと、人はしばしば何か人間の思考を特別なも のにしたがる。・・それはこの問いが何か無意味なものに思えるからなのだが・・・ そしてその場合など 「個人的経験が物理的化学的生理学的過程の産物であるどころか、どんな意味であれそれらの過程に ついて云々される基礎そのものであるように思える。 p92L7 」というようなある万能?みたいな その考えに、一方では強く惹かれるものでもある。p92参照) だから「我々を取り囲む対象」と「我々の個人的経験」(p88)との本当の関係がどんなものか? ということをこれから論じなくてはならない訳で、結局、その最後において、私がこの青色本について 書き出したところで、いきなりこの本の結論部分についてちょとまとめてみた「・・視覚データー的”描 写”というのが、独我論的solipsismな現実で、それは、むしろ私たちにとって”直接的なもの・・・」と いう”個人的経験”を独特なやり方で擁護するウィトゲンシュタインの話につながって行くのである。 ※ 見通しを良くするため、強いて非常に簡単に言い換えてみるならば、ウィトゲンシュタインは、主-客にたいして、結局 いわば”中間のもの”を考えるのである。そして、それは”私”ではないものでもある。(こういう、非常に簡単な言い方、” をすると、場合によっては、勝手な意味に取られやすくなるのでやはり、危険なのだが。必要な議論をかみ合わせてうまく排 除することが出来ないと、本当はもちろん役に立たない。) (この注※は、2010 5/1) そこに至るためには、この問題の中で複雑に混じりあった言語上の諸問題を一々解きほぐすようにして いかねばならぬことになる。 ここでは、まず、この本に書かれていること全体の必然性が解り、その上で『論考』との比較をまずや ってみるのが目的でもあるので、このp87からp124程までの長い部分の議論の流れを、ざっと掴める様に 見て行くことにする。(省略した部分は、あとで別のやり方でまた取り上げる。) ”個人的経験”即ち”自分の経験だけが本当のものである(p90)”とは、 「自分に個人的経験があるのがわかるだけで、他人にそれがあるのかどうかわからない」という文に 表現されているという。(p93) これは、さらに具体的行動を当てはめてみるならば、 「他人に痛みがあるとどうして信じることができるのか?」という問いに特化して言うことが出来る はずである。そして、 (2010 4/29) この問題は、常識的返答で片付くようなもので無く、例えば「Aに歯痛がある」の用法が「Aに金歯がある」 の用法と、実は類似性が欠如し重大な違いがあるのに、表面的に類似しているといった、文法上の類似関係 の特性を全般的に論じなければならないということでもある。(p93-94参照)(2010 5/1) そこから、まず 出て来る話は、(以下p94参照) ”痛みがある場所にあること”の「基準criteria--p57も参照」 が、どういうものか、考えてみれば 「私の痛みが他人の手にある」と言って良いケースも、充分ありうると言うことが判る。 例えば、”痛み”があり、さらに”そこで見えている手に触る”ということが、自分の”痛みがある場所に あること”の判断の基準になることがありうる。 しかし、自分の身体とのつながりがちゃんと確認できない場合はありうるし、場合によっては触られて痛い と思っていたのに、その時視野が限られていたので、後で触られていたのは他人の手であったことが判る・・ というケースは実はそんなに珍しいケースでもない。そして、その場合、”触られたことで痛かった”と は、充分言いうることでもある。 (2010 5/3) また、p97-99の例では、 「歯の痛み」を感ずるときに、一緒に 特有の当たる指の運動感覚や触覚があるといい、その普通と違った 相関関係を想像するだけで、ひざの上にある歯痛や机、何も無いところ、にある歯痛を想像しうるという。 ”想像しうるcan imagine”という言葉をここでは用いているが、そういう”基準”をもつ文法で歯痛という 言葉を用いることも十分自然にあり得る、想像し得る、ということに解して良いと思う。 すなわち、例えば 歯痛ということを指の運動感覚、接触感覚に基準をもっていう言い方もありうるなら、 「ひざの上や机、何も無いところ、に歯痛を感じる」 というのも全く正しい言い方となる訳である。 実際、 (2010 5/3) この本p98でも言及されている「足を切断した人が、(切られて何も無いところに)足の痛みを感ずる」 ということは臨床的報告としても割りとあることみたいだし、(この本の例ではないことを私が付け足すな ら)例えば「チョークが黒板を引っかく音」からの不快感を、普通に”黒板から聞く音”から感じるという 場合と同様に、「チョークが黒板を引っかく音」という文字が書かれてある”紙”から感じるというのも 充分、ありうる言い方だということなどを、考えれば、「ひざや、机、何も無いところに歯痛を感じる」 というのをあり得ない言い方だとするのは全く偏狭な言語観でしかないということは言えるだろう。 そういう「歯痛」を巡る文法として、その痛む場所の”場所”というのも、実は同じ言葉を日常言語の中で 用いながら、様々な異なる”文法的ゲームp95”をもっている。例えば、それはユークリッド空間の座標だと は、全然限らない。(p95) また、”痛みの場所を指す行為”がどういう役割をもつかも文法によって異なる。 また さらに、”痛みの場所を指すとき、前もってその場所を知っている”というのはむしろ特別な場合に 過ぎないこと(p96参照)(知識の行動に対する先行を言いたくなる人々・・)等々 といった問題が、この 話題に絡めて論じられている。(2010 5/4) 以上のように、こういうわれわれの言語の基準をどう設けるかというようなことだけからでも、”自分の痛み” は、”他人の体にある”場合もあるわけで、自分だけのもの、たとえば、自分の体だけに完結したものというこ とが必ずしも出来ないということになる。だから、”私の痛みは私だけのもの”そして、「自分に個人的経験が あるのがわかるだけで、他人にそれがあるのかどうかわからない」という(独我論的な)絶対的な主張も怪しく なってくることになる。 とはいえ、「他人の痛みを感じることは不可能だと主張する人は、それによって1人の人が他人の体に痛みを感じ ることを否定しようというのでない。」(p99L14)ということも、その通りでもある。すなわち、(p99参照) 「他人の歯に痛みを、感じようと、その他人の痛みと同じものではない」ということが、さらに問題となって くる。 (2010 5/5) それが端的にどういう問題か判るのはp102での2人の人物が掌を共有している(シャム双生児的に?)という 例になる。 「この掌がハチに刺される。・・・ともに、顔を歪め、同じような痛みの叙述をする、等々。このとき、 2人に同じ1つの痛みがあったというべきか、それとも別々の痛みがあったというべきだろうか。 このような場合に”我々は痛みを同じ体の部分の同じ場所に感じるし、我々の痛みの描写も符合す る。(としても)しかし、それでも、私の痛みは彼の痛みではありえない。”・・」 という(最後の一行の下線部分)主張が、結局 独我論の立場、”個人的経験 即ち 自分の経験だけが本当の ものである(p90)”という立場を露骨に示すものになる。 だから、この場合 例えば、痛み自体が神経線維内でのどういう類の電気信号なのか?とかどういう身体条件 で感じられるものか?・・などといったことは関係なく、「私の痛みは私の痛みであって彼の痛みは彼の痛み」 (p102L8)だからという、トートロジー的理由に尽きることになる。(2010 5/7) これは、結局のところ、同一性の規定の様々な定義基準(ルール設定)の話(続くp103参照)にそのままつな がることなのである。麻酔したりなどの実験をするといった経験的な事柄で反論できないこと(p102L12)で、 この場合も 私は私、あなたはあなた、というようなルールの話であり、それ以上の理由は遡れない。 だからウィトゲンシュタインの言わんとすることを・・こういった独我論の立場、独我論の主張というのは反論 されない、言語に関するある根本的な正しさを持っている。一方で、”私の個人的経験”という言葉に引っ張 られるので、先の話のように、"私の痛み"が、他人にもある場合という日常の様々な言語表現に、十分必然性 をもってあるものを単純に見捨ててしまう。・・というふうにまとめてみることもできる、と私は思う。(2010 5/9) ここで大事なのは、この痛みが同じかどうか?という問題において、形而上学的命題と経験命題との混同(p94) が容易に起こることで、上の区別もそういう問題でもある。”個人的経験 即ち 自分の経験だけが本当のもので ある(p90)”からきた”同じ痛み”という形而上学的な意図の話を、何かある経験的事実によって論証できる ように思い易いということである。 この”同じ”という言葉を巡っては、重要な違いがあるのに、日常的に混沌として行われている様々な用法の食 い違いの例として、以下のものをウィトゲンシュタインはまず挙げている。(p103) 「この椅子は1時間 前に見たのと同じ椅子だ」というのが、「この椅子は1時間前に見たのとそっくりの椅子 だ」と言う話が、ある場合 物理的物体として椅子自体が同じということであったり、例えば製品のタイプが同じ という場合(これは感覚与件ともいえる)であったりする区別があるのだが、こういう物理的物体と感覚与件の 区別は、案外 普通 しゃべっているときなどはっきり捉えられていないことなのである。 それで「この2冊の本の色は同じ色をしている」などと言う場合に、・・それ自身の色ならみんな違ったもので、 同じ色というのはあり得ない・・など、というのがもっともな反論みたいに人々が思ってしまうということが起こ る。(食い違い・・として、実は 別の文法規則を述べているのに過ぎない。) ”同一性”には、こういった大きな区別だけでなく、”同一”という同じ言葉を使いながらも、通常気づかれな い用法の違いが、実は その他もっと細々あって、異なる様々な定義基準をもっている。(p103参照) というのも”同一”と言うのは、(例えば、あるものが同じであるとは、あることを「A」という名辞で呼ぶ。そ ういう規定と殆ど同じ行為であること考えてみよう。cf.イコールは記号が同じことで表わされる・・TLP5.53) ”何々である”という言明と何も変わらないことであるくらいのものなので、様々なルールを持った様々な言語 世界が、そこにも反映されるだろうということは十分想像できる。(このことはあとで、もっと説明する)(ここまで2010 5/10) ところで、前にも言った【ウィトゲンシュタインの2分法的な言い方】が、ここら辺りで 幾つも重なって使われ ていて、整理しておいた方が分かり易くなるだろうと思うので、ちょっとまとめてみる。(此処から近い行順に書けば) 物理的物体と感覚与件 p103 経験命題と形而上学的命題 p94 「我々を取り囲む対象」と「我々の個人的経験」p88 ”物理的世界””心的世界” p91 外界の出来事の描写の命題 、”個人的経験”を述べる命題 p90-p91 この以上の対比は、普通 主観-客観の区別として言われている問題であるということは、一応 本当のことで、 皆、前者が「客観」に対応するし、後者が「主観」に対応することは注意されるべきことである。 しかし、微妙に違う対比であることも注目しなければならない。 例えば、感覚与件は、錯覚も含めた感じ方のデーターであるが、形而上学的命題とは普通の現実生活の経験 とは違う、ある抽象的度合いの高い?概念構成から作られたような文による思想家の独特の感じ方の表現であっ たりする(例えばの話・・大体そんなところのものか?)。 また、”個人的経験”というと、個々の体験になるし、 ”心的世界”といえば、それの全体になる・・・、という具合にいろいろな言い方で云われているのである。 、 これらの2文法的な様々に登場してくる言い方を、理解するには 普通 一言で 主観-客観の問題として、言わ れていることに対して、外界の出来事とそれに関係して人間の、言語的行為をしている状況全体のイメージがあり、 そういった行為の対比的姿に様々な角度と拡さで照明が与えられるというふうに理解するといいかもしれない。 ある場合、基本的な情報の次元における対比、より高度な文章の次元における対比、それを含めた大きな全体とし ての対比、描写とある描写以上のものの対比・・・ という具合に、それらは、あるデリケートさで状況を掴まえよ うとしているのである。 意外と人々の認識が足らないのは、このレベルくらいの、ある精緻さがないと、主観-客観の問題、などと一言 言ってて流されるままになるということである。 というのは、以上のようにウィトゲンシュタインは、主観-客観の区別をするな!といっている訳ではないが、 主観-客観の区別に、依って立って、考えろ!といっているのでもない。そういうことを、従来の様々な”解説” では、非常に軽んじられてきたということは、改めて言われるべきだろうと思う。 ・ この全集6「青色本」などの翻訳をされた大森荘蔵(氏)の一連の関係する論述などもそう。少し後でもこの問題を述べる。 あえて最低限度の簡単な言い方をするならば、彼は主観的なことと客観的なことに対する扱いの違いをちゃんと 捉えておくことで、その正当な関連を連続的にし、どちらかに偏らない言語的活動の世界として描こうとしてい るのである。(2010 5/12) そして、ここに”と「徴候と基準」「原因と理由」といった、先に説明してきた重要な対比が重なるのである。 ついでに、こういった対比で表わされるものの全体的な説明を、簡単な目安となるように、改めてここでしておい た方が、これからの「青色本」の最後の方に向かう道筋は、はっきりしてくるだろうと思う。 まず、「基準(判断の標準)criteria」とは、定義的基準the defining citerion(p57)ともいわれるように、 そのことの言葉の定義が、基準になることがある。すなわち、 アンギーナ(ある種の咽喉炎)と呼ばれているものの場合、バクテリアの発見がそう呼ぶための定義的基準であり、 のどに炎症があるというだけでは、常に伴うことが経験的に知られた現象に過ぎず、「徴候symptoms」であるに過ぎ ないことで、「ある仮説」を立てている(p57L13)ことになる。だから、この対比も、主観的なことと客観的なこと の対比に大いに関係がある。 いわゆる、”前期””後期”といった問題、その逐一的な資料的根拠との附き合わせは先送りにして、この『青色本』の今までの話や私の別のページ に書いてある『論考』の話を参考にしてもらって、それらを含め、ここでウィトゲンシュタインの重要な考え方に対する私が考える目安になるよう な捉え方を話しておいた方が、いろいろ便利になると思う。即ち、小林の問題を扱うまで、どうしても、入り組んだ長い話になってしまうので、段階的 な説明を 一々踏む話にするより、此処あたりで 後に続く 原典の事例や各著作の解釈など、私の話の整合性が保たれるかに注意してもらうことにして、 一旦 以下のような捉え方を示し、「フレーザーの金枝篇について」などといった、周辺著作も含め、基本的には ほぼ 理解することが可能であるかど うか判断してもらうやり方をとるつもりだということ。 この場合の”主観的なこと”とは、この言葉を普通に使うイメージとかなり違うことを考えなければならない。 むしろ、それはチェスの駒の最初の位置であって、ゲームを始める基準となる位置であり、"そこで見える世界" なのである。 というのは、それは世界を記述する土台の”ルール”作りが結局、ウィトゲンシュタインの主観 的なものであり、そこから、見えたものをルールの上で”並べていく”ことで世界は形成されるのである。 だから、それは物理的諸”対象(p88参照)”と別に一致しなくてもよいし、逆に、人間がすべてを勝手に作れるわ けではそもそもない。 つまり、世界の記述をする際には、特に必要な数学的多様性により無数のものが考えうるが、しかし、”何か”で はなくてはならない。その意味で視点を据えることというのがあり、それから そこに見えるものということを考え るのである。見える各々が成立しているか否かに関しては、事実との対応をしなければ判らない。一方、視点自体に 関しては人間側の事情が問題で、見えること自体はあるがままのことでしかない。また、”何かが人に見えること” というのは、実は複雑な現実の営みの結果で、個々の人間が勝手に土台から作れるもので無い、人に出来るのは、 本当は、”見る場所”を変え、何かルールを変えることだけなのである。 だから、こういったような主観と客観は言語の営みの中で一体のものであるし、客観にだけ確実性が保証されるとい ったものでは全く無いし、むしろ、前者は絶対の確実性ですらある。(だから、この青色本の終わりのほうでの視覚 空間に関してなされる対比、「物理的眼」に対する「幾何学的眼」というのは、むしろ 普通 言う視覚に関する心 理的空間であるのに、それを特に”幾何学的”と強調されるのも同じ理由だとも言えよう。)(2010 5/23) 定義というのは、そのゲームのルールを与えること、といっていい場合(基準)がある。また、そこに特徴的な (徴候)「常に随伴するcoincideことがに知られた現象」は、経験的といわれる。(p55L9)しかし、何が、基準か 徴候かというのは、入れ替わる場合もある。(p55末) (cf:また、論考では”形式”に関して特徴Eigenschaftを論ずることも出来ると言っている。ただし、経験的に随伴 するのでなく、”それを持たないことが考えられない”ことであるとき(形式)内的特徴になり、主張されるもの ではないという。4.123 それはまた人相Gesihtszügenでもある。4.1221)(2010 5/25) 先に、理由と原因の区別の説明をしたところで、”理由”を言う場合は、端的に”その行為に至るway”をいうことで ある(p41)、とLWがしているという話をした。また、そこには理由をのべるとは、「自分が受け入れたある規則に 合わせてそこに至った道を描写すること」であるとも言っている。それに対して原因を言う命題は、1つの仮説であり (p43)経験から立証する必要がある。だから、勿論 この2つの対比も主観客観の対比の別の顕れ方ということが出来 る。理由というのは、ルールを与える行動の問題から来るので、そこに至る行動の道筋を述べるというのが、全然 エ ピソード扱いの予備的問題でなく、論理的なことといってよいのである。原因というのは、調べて対応関係をチェック して始めて"正しく"言えるようななる。 ★1: この理由ということに関する説明を見ても、規則 ルールなどというものは、人の”行動”というものに根本 的に関係したものと、LWが考えていることがはっきりする。だからといって、そういうものが”人間的な” あいまいさを持っていると直ぐ考えるのは、短絡である。それの関与は『論考』的にいえば命題空間を作る、 『青色本』的なら、文法的空間を作る、多くの脚の内の一本ぐらいのもの(立っているということが”正確” と関係するともいえるだろう)になぞらえうる。 ”日常語”で物理を学ぶということと、素粒子の波動的配置をその縮尺単位で予想するような、ある精緻さが 共に成り立つということに別に不思議は無い。 そして、行動の中の、こういう多くの脚、駒で編み上げられる”命題空間”や”文法的空間”という考え方自 体、組立てられた確実なものとしての”論理”という、人が確実性の拠り所として昔から最も強い注意を払っ てきたことに、そもそも無理なく馴染めるものであることは大事なことである。科学以前の”迷信”というだ けとしてしまうことより、何かの必然性がそこにあったことを説明しうるか?ということでもある。(それは LWの自信の根拠であるとも思う。) ただ、このように”行動"という前提を、言語論において特筆する論法で、主としてLWが意図していること は、むしろ、物理学的文法の文章や科学的記述の、人間の生活行動における、いわばその”位置”関係なの であり、その本来の位置を明らかにしなければいけない、ということだと思われる。 というのは、”理由”において”way"を挙げるというのも正にそのことであり、人の用いる言語として、目に 見える具体的なものとしての”行動”に関連して成立しその連鎖で生かされている事実、それを見失わせる今 日の様々な混乱した議論(例えばハーディーなど)に、端的に対応する説明になる。 行動と言語は”見る”ということで全体で関連しているのであって、その微妙な変化による連鎖も含めれば合 成して捉え、人が小手先でコントロール出来るものでは到底ない。 また、このことは、言語における”永遠の相の下にsub specie aeterni”6.45という考え方を判りやすくも する。人は、そこで使われている言語が人の生活行動のどういうものと共通性があるのか、ということは変な 隠し立てをしなければ身近にまず感じられるものである。しかし、それをちゃんとありのままに認めて生活を 成立させることは、人にとって大変困難なことであるのだ。 だから、人において、”本来の”生活行動の下にある、ということだけでも 全くの、最も正当な(永遠の?)目標になり得る。 人はその時々で、いろんな言語的な表現(形式)を各 々選ぶのは自由であり、またそういう微妙な変化なしで それは”生きたもの”にならないものである。 一方、その現れる”行動”の位置、特徴は自分で自由に決められるものでなく、盲目化が進めばどんどん ”崩れ”て行きかねないものなのだ。 言語における”限られた全体として見るAnshauung als-begrenztes-Ganzes”とは、言語が独り歩きしないよ うに、それ全体を支える行動に対して、正しい位置(限界)に相応したものにすることであるといえよう。 さらに、ついでに言い足すとすれば、このことは『青色本』中で3度ほど触れられる”無意識”に関する議論 の中の一つ、「精神分析学が、無意識的な考えを発見した」p106 と言いたがる問題についても、重要なこと を述べているのを明らかにしてくれる。即ち彼らが「新しい心理学的反応を発見した」というのに止まらない で「意識されない意識的思考(精神分析のいう無意識)を発見した」と思い込んでいるp107問題について。 むしろ、それは『思考』という言葉の使い方の問題で、今まで知られていなかった”心理学的反応”を発見し たことと同じように扱ってはいけないであって、前者は彼らの”表現の仕方way of expression”の問題であ ると言う。(p108参照) つまり、”表現の仕方”の問題が、日々発見される新しい知識とは別に論じられるべきであるという訳なので あり、結局 それは 例えば その”思考”という言葉をどういう視野において使うか、どういう生活行動に 位置づけているのか、という文法論の問題で、むしろ医学上に限られた問題では全然無い。 だから、ウィトゲンシュタインは、文法と行動の関連を論ずることにより、現代の収拾しきれないような知識 の増大の問題を、言ってみれば全く”相対化”するような方法を打ち出していることにもなる。 (この★1:の注は、5月30日までのもの) 意味とか論理とかを考える場合、人はとかく抽象的な言葉自体に頼りたがる。確かにそういった考察は、人間の諸事全 般のことをまとめ統一的に捉えたいという欲求ゆえのものとも言うことができる訳で、出来るだけどこにでも関係する という”一般的な”言葉を使いたくなるのはもっともでもある。しかし、”同じ”とか”種類”とか”美”とか”自由” とか抽象的な言葉で危険なのは、それ自体様々な全く違った使われ方を持った言葉であり、きまった具体的な用法に結 び付けにくい言葉であるということなのだ。その何かで眼を覆ってしまった状態でないなら、それは明らかなのに、一見 整然とした風に、実はごちゃ混ぜにして話されることによって話し手は、自分の都合の良い傾向をごまかして押し付け 易くしてしまうということなのである。(ある場合は、利他的な響きのいい言葉を主に使って・・・) 大事なのは、その言葉が具体的ににどうつかわれているか、という用法を常に考えなくてはいけないということで ある。そうすると、意味や理由、表的な関係、痛いと発言する場合・・などという類のことには、むしろそれがそうであ るとしか言えない関係をもう含んでいるし、また、そのことにわれわれは”底打ち”であり、言語生活の上で、そもそ も疑問すらもっていないことが見えてくるのである。 ★2:『青色本』の論法は、カントの実践理性批判での論法をそのまま哲学全般に拡張したと言えなくもないとこ ろがあるのだが(勿論 幸福論は真逆になっている)、実際 一般的なウィトゲンシュタインの解釈の難点 が、よくあるカント解釈の難点にパラレルに通じているようなところもある。 、 今日では、検証や論証というと、直ぐ実験室の様子や山積みの資料みたいなものを思い浮かべるというのも あるので、われわれの普段知りうることの中で整理し位置づける論証を、ただの専門的知識性に転化しよう とするか、もしくは、私たちの生活行動のなかで位置づけてみようとすると、もう”冗談”みたいな態度で 、ピッタリ収まるまで探そうと真面目にはしないのである。 カントの議論の場合もウィトゲンシュタインほど徹底していないが、本体論批判といった面ばかり強調され るにもかかわらず、その反面が重要なのであって、そこにあるのはよく似た誤解である。 (この★2:の注は、5月30日) だから、今日のような”産業化された社会”では、論理や数学、そこから”理性”そして”感情”などということに もう初めから漠然とした受身の傾向性を抱いているものなのであって、論理やそれと裏腹の”不可知なもの”が、本 当はどういう具合に言語の中で関係しているか、その入り組んだ困難さを利用するように、踏襲的な言語慣用が病的 にずっと行われるのである。(ある面そうでないような言い方をしたとしても、ちゃんと全体的に捉えておかないと、 結局、また、その病気に取り憑かれる・・・) それは”個人的経験”というものの持つ様々な問題の中に集約されるともいえるし、また ”論理”そして”感情” ということに直結するような、”主観”と”客観”の間の今までいろいろ挙げてきた問題でもある。(2010 5/27)
さて、「p87からp124」程までの長い部分 の概要を話している途中で、”同一性”の問題(p103)が出たところ で、ウィトゲンシュタインの考え方の中心的なところを、一旦 説明するつもりで、これまで出て来た”2分法” のいろんな言い方などをまとめてみたのだが、この「p87からp124」の部分は、最後に「われ思うゆえにわれあり」 の「われ」に言及して批判を加えている部分なので、その議論の展開は特に注意をしておかねばならないところ でもある。 ”同一性”に続く”できる”という言葉や、”知る”という言葉(p103)も、”形而上学的命題”(文法的命題) を作る言葉であり、何気なく文章の中に出てくるものだが、実は その文章の文法(文法形式)を示している言葉 として考えなければならない場合がある。 ”できる”や”知る”は、経験命題として(日常のまず普通の言葉として)勿論 使うわけだが、独特の欲求や ”遊んでいる言葉”のニュアンスで使われる場合があり、それは文法的命題なのだが一見すると判らない。(p103参照) だから、主観側の事情の問題(文法的問題)か客観側の事情の問題(経験的問題)が、しょっちゅう混同されて 考えられていることになる。 ここに「私は彼の痛みを感じることは出来ない」という、典型的な独我論solipsismの主張も、容易に経験的問題 にすりかえられて論じられることになる。例えば、神経の特性や何か物理的不可能性の問題でもあるかのように 思ってしまうことで、行き場所の無い全く閉ざされた問題であるように思い込むようになる。実際は、それは ”表現形式a form of expression”(p106)の問題であり、他の表現に対する類似性や相似性(p105)に関して、そこ を強調したい欲求などであり、線を引く場所を変えるなどするのである。それはそういった問題として考えない限 り尚更、不可能なものに見える。 例えば、”デボンシャ”という地名などに関した線引きの場合(p106)それが、単に物理空間の問題だけでないのは 明白なことで、ひとつの表示法が「いかに多くを意味しているかp106」そして、その変更がどういう類の困難を持っ ているか考える実例になる。(反面、特殊な用語や自然科学の細部の多くの場合には変更は容易である。) (2010 5/31) ”同一性””できる””知る”などいった言葉は、単に主観と客観というより、いわば中間的な問題である文法的な 問題が、如何に広汎にありふれて関係するかを、示しているともいえるが、そういった問題に対して個人的経験すな わち、その哲学上の代表的主張、独我論solipsismの議論の持つ誤りを洗い出す話になっている。 結局、デカルトの言葉にまで達するこの話は、大きく前後に分かれているともいえて、前半のp94ぐらいからp110L4 辺りまでは、それを”私の痛み”を巡って話を進めている。 〜〜〜[下波線まで、簡単な”前半”の(先に飛ばした所も含めての)議論のアウトライン] すなわち、”他人の(と同じ)痛みを感じることは不可能である。p99”といいたくなってしまうことだが、それは 先に説明した、そういう発言をするときの”基準”の設定の問題を考えればあり得ないことでは全然ないのであり、 私たちの言語生活で文法がどのように関係するか?そのありうる具体的ケースを調べて見れば、”痛みを感ずること” というのが、むしろ「私」「他人」「机」などということに関わらずあることが判るという話だった。 そこを中心にするように・・そもそも”同じ痛み”の”同じ”というのも様々な用法が実はある訳だし、このことは そこでも経験的問題ではない。・・・という話も出てくる。 また、”他人の痛み知ることは不可能である。”ともこのことは、言い換えられるところから、そんな極端な意見 ではなく、”他人の痛みは(振る舞いなどから)推測する(くらいならば、知る)ことが出来る”(p100参照)と いうような常識的(あるイミ中間的)な主張が、むしろ、最も正しいようにも思えることについて。 しかし、この主張も問題を誤解しているのであって、「知ると推測するの用法の違いに潜む困難」をわかっていな いからだとする。即ち、独我論の”不可能”というのは無意味ということであって、”推測”とはそういう言葉で ないし、ここの「知る」は文法的命題を作っているものなので、「推測を知るに対立する言葉として使えない」 (p101L7)から結局、混同でしかないことになる。 この誤解も、”他人の痛み知ることは不可能である。”というような主張が、”ゴールの無いゲーム”ということ を理解していないことでもある。(p101参照) だから、”他人の痛み知ることは不可能である。”という説を本当に論破しようとするなら(前段述べたように) 、それが主として”表現形式の問題”であることを踏まえなければならない。 既存の表現に対して、類似性、相似性に関して違う強調や線引きを行いたいという欲求、何故誘われる(p110)のか を問題にする必要がある。 〜〜〜[前半終わり] (2010 6/1) この前半は、例えばこのようにも捉えられる大きな流れで、一応解釈できるが、この前半の議論の特徴は「痛み」 を巡っていることだといえる。というのは、独我論の主張する半面は、自分の感覚が全く、独自、特別である という主張なので、痛みという一見、具体化して確認、客観化しにくい強い感覚に代表させているといえると思う。 後半の方は、独我論の発想のもう半面、自分の世界は完結している”何が見られようとそれを見るのは常に私”p114 ということが問題となってくるので、拡がりのあるある世界の感覚、主として”見る”ということを巡って話が 進められることになる。 とはいえ、まず出てくるのは仲介的な 「我々が『青』と呼ぶものを彼も『青』と呼んでいるか決して知りえない」(p110) というのは、”痛み”の独自性が、”色の感覚”の独自性に置き換わっただけみたいなものだが、この場合 こういう典型的独我論的主張が、そもそもどんなものであるのか示唆するためにLWは、奇妙な例を出してくる。 「赤red」になることを願う。という際に、願っているときは本当の「red」でない何か”薄ぼんやりとした赤” なわけだから、「a pale red」という言葉を使うようにしたら・・・、とか わざわざ否定文のために否定用の 「rode」いう語を作るケースなどを想像させるようにしている。 注)ところで、武満徹(氏)が、この色に関するこの独我論的主張と、殆ど 同じことを何度も、インタビュー等で 発言しておられるの(『一つの音に世界を聴く』p )は、非常に注目に値することである。これは、日本語的 なある問題とつながっていて、”小林秀雄『モーツァルト』”の議論とも多分に関係があるが、あとでこれも 『青色本』の内容の応用みたいな格好で話す。 すなわち、先の独我論の主張も「rode」などの語を使う場合も、通常の言語に対して、何か独自なより微妙なもの を、要求しているという点ではまず似ているのである。そして、言い方を変えても、ともに”何か新しい真理を告 げた”ことになる・・・等 でもないし、むしろ、やはり、ある欲求を満たすための表示法でありそうということに なる。すなわち、文法的欲求。 (2010 6/2) 先の言い方は「彼が見ている”青さ”を、私も見ることは出来ない」というふうにも言える。だから、先の言い方 も青い色の問題というより、主観のあり方を主張していると、いえるかもいれない。それで、ウィトゲンシュタイ ンは、この独我論の言い方を、 「私の頭を彼の頭につっこむことができない」(p112)というふうに言い表す。 つまり、身体が融合できないように”見ている頭”も個々バラバラなものであるということ。 ・・もちろん、LWは、この独我論を批判しようともしているわけなので、(そこまで書いていないけど、あからさ まに言ってしまえば)むしろ、「本当は私の頭は彼の頭につっこむことができる」というような考え方だと、 私は思うのだけど・・・ (2010 6/3) ところで、 「私だけが本当に見る」(p110)という独我論の主張は、「私」と「見る」との関係において、「私」の方に、 注目させる言いかただけのことで、ほとんどそのままのなので、 「何が見られようとも、それを見るのは常に私である。」(p112)という主張に言い換えられる。 だから、その「私」というのもこの主張の中で論じなければならない重要な問題だと判る。すなわち、 この場合の「私」とは何だろうか?ということ。”見るもの”としての、一定したような全体、 「私」ということ、すなわち、「ある人物」 、普通 人が考えることは その名前に対応するような余り変化 しないような特徴、性質、記憶であって、この場合は(視界に身体が、いつも入るわけで無いから・・・)身体的 外見というより、普通いう”人格”のようなものであるだろう。(p112・p114参照) そこで、”人格”という問題を考えるウィトゲンシュタインは、非常にユニークな人格の”幾何学”(p113)な ることを言い出す。 かなり断片的で簡単に寄り道的に触れているだけだが、後で参考になる話でもあるので、すこし補うようにして そのアイディアを説明してみる。(p113からp114中程まで参照) そのユニークなところは、その”人の同一性the identity of a person”を考えるときも、”特徴characterist ics”というものから、考えようとすることである。(結局、言語形式やある文法に”特徴”を見たりするのと 同じ発想である。) この”特徴”は、前のアンギーナ識別の話における基準と徴候(p57)の対比からくる”基準criteria”によって 判定されるものであり、甲高い声、鈍い動作の穏やかさ、怒りっぽさ、深い声、神経質な動作など・・(p113L4) 多くのものが考えられる。 こういうものを”幾何学”と呼んでいるのは軽く考えるべきではない。(・・『青色本』全体にわたって 言語論における”幾何学”というものを、意図的に何度も記述の構成の中に織り込んできているのだ。・・) 例えば、 こういったものは例えば”怒りっぽさ”に対して”穏やかさ”があるだろうし、”甲高い声”に対しては、”深 い声”というものがあるかもしれない。こういうものは常に対照語(p89参照)を伴ってこそ正しい用法なので ある。またそういう形容詞は”色体系”のような空間的関係を持っている場合も十分ある。また、とがった感じ 丸っこい感じといった形といえるようなものも普通の表現になるだろう。 また、対称的関係や相似関係、大きさ小ささ、強さ弱さの度合いなども自然に考え得る。 さらに、識別され区分されるのだったら、”特徴の組”として、様々な順列組み合わせや構成可能性が考えられ る。そして、たとえ人体自体が全く同じでも、その”特徴の組”が 全く別ならば、その”特徴の組”が同じ方 が、人体だけ同じものより、”人名というもの”に近い気がするだろうという。 (2010 6/4) また、”見る”ということの単純な一定性に対し、パルス的な対極に変化する運動としての人格も考えられる。 すなわち、”特徴の組”としての人格の中に幾つも対照的特徴を持つものが2つあり、それが交代して現れる ことがある場合。極端な場合は、ジキルとハイド(p113L11)みたいな2重人格のようなもの。 さらに、その変化が全く不連続で、性格と一見関係なさそうな暦に正確に対応するような場合もあり得る。 しかも、周りから見る”特徴の組”の不連続だけでなく、本人の記憶も2つの人格間にはないという場合。 しかし、こういう人格の”幾何学”といったものを述べるにもかかわらず、ウィトゲンシュタインが言いたい ことは、”人格”という言葉を論じても、役にたたないということであるのだ。(2010 6/5) というのは、よく知られたジキルとハイドみたいな人物には判りやすい格好で見えてくるわけだが、この場合、 そもそも ”人格”という言葉を用いたとしても、彼が2人の人間と呼んで良いのか、単に変化する一人の人間 であると言った方が良いのか、十分 各々それにふさわしい場合があり、そこでもう、その意味するところは違 ってしまう。 そして、ジキルとハイドは、ともかく、暦などに関連にて、記憶も分断した完全な2重人格みたいなものの場合 なら(古代的な宗教祭礼のために訓練されたような人物などでは、全然ありうる場合・・・)なおさら、漠然と ここで「人格personality」などという語を使って話をすることがおかしく感じるだろう。そして、そんな”人格” や”人”みたいな語を巡って定義したりして、論じていく(道徳論みたいな)議論の危険さを、端的に示す例にな るといえるものでもあろう。 そんなように本当は非常に異なる用法が、混合しているだけなのに、重々しく大そうな面持ちをしている語が あるが、そんな語の用法を、ウィトゲンシュタインは、”合成用法composite use”(p114)と呼んでいると言って よかろうと思う。そして、 「人」や「人格」といった語は、様々な類似性の関係のなかで、選択され「哲学」の中で様々に用いられてきた訳 だが、(より精密なものが要求される今日においては・・)「正統唯一の相続人」は無いと言う。(p114参照) そして、独我論の「見る」によってなる世界の話に戻って、 「見ると言う経験がなされている間中常にそこにあると私が言うものは、それがどんなものであれ、 ”私”という特定のものでなく、見るという経験そのものであったのである。」(p115) と言い 、そもそも”私の体の性質””私の振る舞いの特徴””記憶”などが、常に見るという経験の中に あるわけでない(p114参照)ので”特徴”からの”幾何学”から導かれた”人格という言葉が役立たない” ということも、かまわないということになる。 (2010 6/6) こういう展開になる話ではあるけれど、せっかく人格の”幾何学”みたいなものをウィトゲンシュタインが、 ヒントのように提出してくれているので、そこから考えうることを私は少し述べてみたいと思う。 まず、ウィトゲンシュタインの議論の進め方は、別に解らない訳でもないが(結局、”見る”体験の中に主 体自身の特徴の問題が関与しないことを、直接 論じにくいので、間接的にそういう論じ方をしても哲学的 な人格論など成り立たないことを言うことで、その問題を排除しようとした・・というような考え。)、 話を導いていながらそこを全て捨て去るのだから、話がややねじれているのは確かである。 いろいろな”特徴characteristics”を、空間的に扱うことはその本質からみて、とても役立つやり方を示唆 していると思うが、その話で欠落しているのは、その実例を扱うということだと思われる。 ”人格”なる言葉は、確かに”合成用法”から出来ていて当てにならないだろうが、”人格”を表わしている ような”文章””絵画”"音楽”等の”作品そのもの”、そういった人々が常に話題にすること好んできた様々 な作品群はそうでないということ。(2010 6/7) ”後半”の話の流れが大事なので、以下最後まで、原文との細かい対応は、”本”を直接 見てもらうことに して、より”アウトライン”が間単に掴み易いように書いて見たい。 ”人格”の関与はまず論じられないとして、それでは、”見るもの”を規定するというのを考える場合として、 単純に”自分の目を指す場合”、どういうことがあるかをまず論じるという話になる。 それは、視界の中で自分の目を指す指がだんだん大きくなるというような現れ方で指されている”眼”。これ を”物理的(肉体的)眼”と呼び、それに対して、鏡などを利用して目を指す場合(”錯覚”して眼と違う場 所を指す場合も含む)の位置にあるものは”幾何学的眼”と呼び対比している。 これも、一連のウィトゲンシュタインの2分法のひとつだが(先にそこで少し触れた)、こういうふうに ”見ているもの”自体を指し示し記述することは出来るわけだが、それと混同されるような 視野自体を 指し示そうとする動作があり、そのことが続いて論ぜられる。 先に書いたように「私だけが本当に見る」(p110)という典型的独我論の文章は、以下とほぼ同じ文である。 「何が見えようと見るのは常にこの私だ」 という文章になり、また見えているものの方を強調すると、 「何かが見える場合、見えているのは常にこれだ」という文章になる。この文章は、 独我論者の視野自体を指そうとするような動作、”「これ」と言いながら視野全体を抱える身振り” が、自然に思い浮かぶような文章でもある。 しかし、この視野への”指し示し”は、自分の眼を指し”見るもの”を示す2つの場合と何か変わらない ものに思われなくも無い。(これは指すということ自体が案外複雑で錯綜していることにも関係がある) だが、これは個々の何物も指していないし、視野全体を指すということは、混同からおこることで”指す” ということに反する、ナンセンス(p117)でしかない。 こういう独我論の言い方は単純に誤りと言っても正しい議論にならない。(「哲学者は正気を無くした男で はない」p108のである。)こういう”表現”は”意味を持っている”と言えなくも無いが、大事なことは 「形而上学的でない表現と同じ意味での意味をもっていると誤って思い込まれている(p117末)」という ことである。 ”意味”で大事なことは、ある句a phraseの使用、用法の中で、意味が規定されるということで、 その句が実際どのような使われ方をしているかということに常に注意しなければならないということであ る。 しかし、一般にその句、語、を「使われる記号系の中でそれが何をするか示すp118」ことが大事という 認識が欠けており、直ぐ その語自体にだけ関心が向いてしまう。だから、 「チェスのキングに紙の冠の飾りを付ける」ことが、ゲームの運用の規則の中で意味と呼ばないことと、 誰でも判りそうなものなのに、言語の中で使用に具体的な連関の結びつかないような言葉に対して鈍感 で、ただそれらしく飾られた言葉に引かれやすいのである。 では、先の独我論者の言い方、その振る舞いがほぼナンセンスであるにもかかわらず、彼らがその飾りみ たいなことに引かれる理由を、次は考えてやらねばならないことになる。 それは、”「これはここだ」と言い、自分の視野の一部を指すことは、他人に情報を与えることは出来 ないが、私自身には一種の原初的な意味を持っていると考えられる・・(ということが言われることがある)” (p118参照)ということである。 (2010 6/11) この文章は先の「何かが見える場合、見えているのは常にこれだ」という文章の後半であり、簡略化した ものでもあるのだが、結局”同一法則the low of identity「a=a」”(p119)にそっくりなものなのである。 (そして論考風に言えばトートロジー) そして、トートロジーを念ずるように思うときの態度は、独我論者の態度そのままでもある。 哲学的問題を考えるときに需要なのは、いろんな人が発言するときその細かい状況に注意することである。 それが 独特の”形而上学的発言”に陥っていることは、容易にそこから判るものでもある。 この場合 こういった発言が、”私の見えているもの全て”を指すと言いながら、歩き移動しながらでは、 そういう発言はまずしないものであり、大体 静止した周囲のものに向かって言うような文句であることも 、こういう発言の理屈がおかしく、何かお飾りの文句であることを推測させうる。 だから、「何かが見える場合、見えているのは常にこれだ」という発言は、”普通の意味での経験的な事柄 を何ら述べていない”(p119末)すなわち、”何も言っていない”ことになるのだが、それでは その”原 初的意味”といっても、何が残っているのだろうか?と問う必要があるだろう。 ”そんな伝わらないこと”をいうことによって成し遂げられることといえば、まず言語的にも言えそうなこ とは、”私の言うことを聞き手が理解できてはならない(p117)”という要求に対してである。そして、そ れは言語のやり取りの中で、”私を例外的に扱って(p117)”ほしいということにもなる。 実際、それに周囲の人間も対応することが出来る。LWが「私だけが本当に見る」と妙な発言をしたとして も、周りの人間は、「LWがしかじかを見る」と普通に受け取るので無く、わざわざ「しかじかが本当に見 る」というような言葉で受け取って、LW氏の表示法に特別に合わせてやることは、言語的には可能なので ある。(p149の例より) しかし、この表示法を”正当化”出来ると、独我論者が考えるというのが端的な誤りというべきことなので ある。ただ、ここで起こっていることは注目すべきことがある。というのは、 「LWが見る」と言ってしまっては無くなってしまう、”例外的な位置を自分に与えてくれるよう他人に求 めるもの”が、「本当に見る私」の方にはあるということになる。すなわち、 ”普通の意味では経験的なことを何も述べていないのに”特別なことを要求するものとしての「私」。 結局、LWでない”生命の器p117”としての「私」、特別な配慮に釣り合うものとしての”私の体の中に住 んでいる真の私p120。とにかく何んにも無くても価値があるようなものに対して独我論者の言いたがってい ることの元がありそう・・ということを、ここで考えてあげる必要があるのだ。(2010 6/12) そして、このことは全く言語的な問題として論ずることが出来ることに結びついているのである。 すなわち、 ”「私」という語の特異な文法ならびに、この文法がひき起こしがちな誤解p120”の問題。 「私」(または[私の」)という語の用法は2つの違った”カテゴリー"がある。 1)「客観としての用法」 2)「主観としての用法」 ・・・この区分で”私”が”客観”でもあることに注意しよう。 1)の種類の用法の例は、”私の腕は折れている””私は6インチ伸びた”・・・といったこと。 2)の種類の用法の例は、”私はこれこれを見る””私はこれこれを聞く””私は私の腕を上げようとする” ”私は歯が痛い”・・・といったこと。 1)の「客観としての用法」は、特定の人の”認知recognition”が入っていて、従って、誤りの可能性が用意 されているもの。(腕の痛みを感じたとき、たまたまそこに折れた腕だけが見 えて・・本当は別人の・・、自分の腕の折れた痛みだと思ってしまう場合。・・etc) 2)の「主観としての用法」は、何を認知するという問題でないもの。 そもそも”誤る”ことが不可能な場合。 (「私は歯が痛い」という場合、誰かと私を間違えることは、根本的に不可能 であること。) 2)の方の「私」を使う文章は、むしろ”うめき”であって、ある特定の人物についての言明ではないというのが 決定的に違っている。すなわち、私と他人を区別するための言葉ではないのである。この場合の「私」は、ハイと、 返事して太陽に向けて手を挙げ叫ぶ行為に似ている。手の指し示している方向は全然関係ない(私という方向と無 関係)のであって、何か注目させたいということが大事で、区別を考え、発言している訳ではない。(p121) こういう「私”I”」という語の問題を考えるとき、それが一種の人間の”道具”と考えてみることが必要である。 すなわち、普通 人は”語"に対して、辞書の中で均等・均質に並んだようなイメージを思い浮かべる傾向が非常 に強いのだが、実は 語は各々道具箱の金槌、のみ、定規、糊つぼ・・みたいなものをむしろ考えないと誤解する くらいの、全然違うものがごっちゃに入っているものなのである。(P121) だから、「私」は、個人名「LW」と場合によっては指すものが同じになるが、この2つの語は用途によって 特徴付けられた別の道具であり、例えば「私」の2)のような使い方は、「LW」を使っては一般にされない。 「LW」は、そういう機能の付かない独特な”語”なのである。 一方、「私」は、2)のような機能が重要になる。しかも、この2)の場合、この語を使って、そのゲームの規則 により、”私は痛い”と言っている人物の、その"痛み”は”私”といいながら、他人の体や机などにもありうる ということが根本的に重要になる使い方なのである。(この話がp87以降の”前半”の痛みの話で強調されていた) だから、こういう、自覚されにくいような各々の語の機能、そういうことを踏まえるためにも、語を均質な辞書的 とらえ方をするのは危険だという風に見直してみる必要がある。(2010 6/13) そこで重要なのが、三角形の内角の和の証明で使われるような合同性、同型性の表現の移行である。 三角形の底辺に向こうの角γと接する平行な線が必ず引けるので、その線と角γを挟む2辺で作る3つの角 (α’β’γ)と3つの内角(αβγ)が必ず同じになることから、180度を証明する場合がある。そこでα=α’ β=β’と同様にγ=γと言ってしまうことは、非常に簡単な例だが同一性の表現が、始終 厳格な外見に反して 実は曖昧に、そして任意に行われているかを典型的に示している。 私は今まで『青色本』では、言語の文法表現と、数学表現を要所要所で常に同列に扱うように書かれていることに 注目させるようにしてきたつもりだが、(これは、言語による文法ゲームも、数字、記号による計算・証明なども、 現実を描出する規則に基づくゲームとして変わらないという、勿論 基本的な考え方からの意図的な構成である。) ウィトゲンシュタインは、ここではある控えめな言い方・・similar is somewhat analogous to・・をしているけれど、 こういう”2つの表現が同型になってしまう”が容易に一般的に起こりうるということは、全文の論旨の展開の中で とても重要なことである。 すなわち、2)の場合の「私は痛い」の「私」は、指示代名詞でないのに、 指示代名詞的な1)の「私」と 同じものにされてしまう(結局、混同されていること)が、容易に起こるのである。 しかし、この2つの「私」を区別すべきなのは、実際のしゃべり方の”強調点p123”に注意しても判るし、また、 2)の「私」は、他人と区別する語でないからただ何の用法もないと思うのは間違いである。(p123) それなのに、この「私」の2つのカテゴリーが混同されていることがあり、そこに「私」が主観として使われる場合 、本来 特定のものと結びついている言葉でないのに、人々の言語に対する、”用法”を見るよりその”名札” だけに注目してしまう傾向や、”直示定義の定式”に拘束されて、語の対応物を探すことで満足してしまう傾向 によって、1)の「客観としての用法」の場合と同じように、その対応物を見つけようとしてしまうのである。 にもかかわらず、”「私」が主観として使われる場合、ある特定の人間をその身体的特徴で認知し使われているので ないと我々は感ずる。p124” そこで、対応物として出てくるのが”我々の体に座を持つがそれ自身では肉体ではない 何者か”という”幻想”になる。 だから、これは”独我論”に止まらず、「われ思う故にわれあり」の「コギト」の時点でもう起こっているようなはず の全般的な文法的誤解からの問題なのである。 ここまでで、『青色本』全体の内容の最初の説明は、ほぼ終わったことになる。 全集版の訳文のページで、p125からの6ページほどが残っているが、デカルトからの哲学の議論の大枠の批判 につながる此処までの話に対して、付け足すような小さなまとめの部分であったり、この本から少しはみ出す ような部分を匂わせるような、いわば『コーダ』風の部分なので。 そこに触れる前に、もう一度 ごく簡単に『青色本』全体の話の展開を振り返ってみよう。 (2010 6/14) まず、p65くらいまでの”始めの部分”。ここで、意味や思考を”現実の物を眼で見る行為で置き換える”という 基本的な『青色本』の方法を述べ、そこから、”規則”(もしくは、”表”みたいなものの扱い)ということから、 言語の基本的な問題を巡っての一般的な誤解を、様々な”2分法”を用いて指摘していく。すなわち、 われわれの言語のやり取りをカードのやり取りのように具体的に見ることで、もうそれ以上言いようの無いこと 定義できないようなこと、問いの底を打っているようなことが直ぐそこにあることを指摘して、一方の経験的なこ ととの違いと関係について述べる。測定や学習に関して、原因と理由の違いを捉えることの重要さ、基準と徴候 の基準を捉えることと一方、その境のあいまいさ(p58)の話が出る。大事なのは、規則を作る方、幾何的な方 は、その正しさを示すには”way”を正直に言うとかの、その人間的行為に関係があって、一方の仮説である原因 などを調べるという方は、客観的対象に関係があるということ。 そのような規則をもつ記述方法は様々なものが考えられ(数学的可能性から)それは”表現形式”でもあるが、 とくに「望む」「考える」「理解する」などといった語は、本当はハッキリした境、定義が無く、 家族的類似性 や言語ゲームとして考えなければならない。哲学の方法とは、むしろ その実は単純な境界のない様々な表現形式 の間の人を誤らせる作用を中和することである(p62)。 そして p65から、p86の中盤といえるようなところは、事実でない事態を考えられることが強調され、願望・意図 が、表現形式の根にある(p76)と言われる。 p87以降は、そのような個人の意図願望の大きさからも、”個人的経験”という問題がメインテーマになり、 その経験の私秘性が特に批判されていく。それに関連する対照語や哲学のやり方についてまた論じられた後、 p94からp104の”前半”は、”痛み”というもので、その基準の持ち方や、”同一”という言葉の使い方、基準な どから、他人や人でないものなどに、”同じ痛み”が全くあり得ることを論証しようとする。 そういう”他人の青の感じ方は違う”というのと同じような”個人的経験”についての話は、各々で全く私秘性を もっているという独我論の説が批判されるのと同様、p110からp124の”後半”では”個人的経験”から生ずるよう に見える説、「私だけが本当に見る」という孤立したような私のだけの世界があるといいいたくなることへの批判 になる。 そもそも「私」ということ、人格、をどう捉えるかも含めて、そう言うことは意味を持たないと言う。 最後に、そのような「私」へのこだわりが、規則、表現形式の全般的な誤解からくる、「私」という語の2つの用 法を混同することから起こる”幻想”であると結論付ける・・・。 (ウィトゲンシュタインは、勿論 ずっとデリケートで精巧な言い方をしているので、こういう荒っぽい言い方で 説明してしまうのは、かなり気の毒になってしまうけれど、従来、殆ど見通せるような説明は聞いたことがなか ったので、それこそ ”中和する”役目としては、最低限許されるとは思う。) 改めて注意しておきたいのは、この本をさっと見ていくと”独我論"に対する強い批判に満ちているように思える 話なのだが、実は半面”独我論"に対する強い擁護の本だともいえることである。 (2010 6/16) p124末から、p128半ば位までのいわば、”コーダ的な”部分(その前半)は、今までそれを中心にして話を進めて きた独我論の”個人的経験”という言葉を、そのまま”科学哲学”の人々もしくは米英圏の哲学者の用いたがる ”感覚与件sense data”という言葉に全般的に置き換えることも出来るという話になる。 それで”感覚与件”という用語から、いままでの話を要約することが出来るし、それは”見る聞く感じる”という ”心”の働きを述べる語の用法を要約して述べることにもなる。 そして、それはデカルト的な自我を”幻想"として消去した先の話の終わりに出てきた問題、・・それなら”心”と いうものはないのか?p124・・という疑問に簡単に答えておくことでもある。(この段は2010 6/29) 感覚与件とは、まず「ある事物が存在しない場合にも、我々の”見え”においては存在するといえることを信ずる」 という考え方p125L3で、一般的に”哲学者”の立場からは認められている考えである。(・・『青色本』ではあえてこ の”簡略化された”論法が便宜的に採用されていることに注意されるべきだけれど・・) ここから出てくる文法的違いの端的なことは、”同じに見える”ということの場合、A=B、B=Cであるからといって、 A=Cにはならない(非遷移的な同一性)ということがありうるわけだが、ちょっと考えるほど、論理的にこれはそんな 難点のあることでもない。 むしろ、危険なことは”2分法的な問題”として今までも強調していたように、”感覚与件について言明の文法”と ”物理的事物についての言明の文法”の扱いの違いを忘れてしまうことである。すなわち、 ”曖昧さ””位置””運動””大きさ”といった語が使われるとき、この2つの文法において違った扱いをすべきな のに、混同することで、結局、”心の働き(つまり”感覚与件を述べる語句の文法”でもある・・p124)の文法”にお いての様々な誤解が、単純な主客関係の世界観という、”ありもしない幻想”を作り出してしまうのである。(この段2010 7/8) それは、”感覚与件”においても、”指し示し”という表現を使うことが出来る。それは”照準をつける”といった ことを考えれば分かりやすい。そこで、”この指の指すところが、あの木の私に見える感覚与件になる”ということ がいえるし、それは鏡像のときは物理的位置と全く違う場所を指して次のように言うのも正しい。”(鏡の中を指し) 私の姿が見えるのはこの方向だ。”(p126参照。ここは微妙なことが問題となっているので言い方がとても難しい。 ウィトゲンシュタインの原文もやや舌足らずのところがあるし、日本語にするときにも工夫がいる。なお、ここは p116の”幾何学的眼と物理学的眼”のところで出て来た、”鏡”の例を含めた話の、親切な要約ともいえる。) ところが、その”感覚与件を指す”表現を、”音が聞こえる方向を指す”場合や”眼を閉じて自分の額の場所を指す” こととごっちゃにしてはいけない。(この段は2010 7/13) そういう聴覚、運動感覚における”指し示し”は各々区別され、その中であそことここなどの区別があって、こうい う”指し示し”の表現として、有意味性を保てる。しかし、人は”指し示し”の行為があれば意味を持っていると思 いがちなのである。(”チェスみたいな駒が盤上にあると、とにかくそういうゲームの類だと思ってしまう傾向。” ・・p127末参照・・ついでに本書にない例を考えるなら・・”白衣を見れば医者やその類だとまず思ってしまう傾向。”) (この段は2010 7/18) 混同されやすい文法的違い、その際の動作も含めた関係が、実は極めて重要だということ。 そこで、独我論の典型的な言い方・・「これが本当に見えているものだ」と言って”指示し”の動作をする・・といった ことが、典型的な疑似命題的”しぐさ”であることを確認することなども重要な問題になる。(2011 3/26) すなわち、続いて論じられるのは”独我論的な言い方”に見られる用法が混同されて生じている2つの言明について であって、それは先に論じた”感覚与件について言明の文法””物理的事物について述べる言明の文法”が混同される のは外見上同じような形をしていることから生じやすい(p125参照)という話・・に近いところの、 ”疑似命題pseudo proposition”の問題の例を次に考えることになる。 まず、「これが本当に見えているものだThis is what's really seen」といって前方を指差す・・という言い方を考える。 (以下 内容を議論が明確化するよう書き下すので、 全集6 p126L9〜p127L5の箇所の記述を参照) もちろん、これもp108辺りからはっきり出てきた「独我論者が、彼自身の経験だけが本当のものだ、と言う時・・」とい う話からくるバリエーションである。・・「私だけが本当に見るonly I really see」、という句(p110)などと同じよ うな一連の言い方のひとつになる。 (2011 4/6) 「これが本当に見えているものだ」という独我論者の言い方で重要なことは、その際”視覚のみに頼って指差す”とい うことが行われていることである。これは独我論者の言いたいことを表現するためには絶対このことが必要で、もし ”見えていない”横や後ろを指しているとすれば、彼の与えたい意味が生じず、その”しぐさ”も無意味になる。 というのは、この言明の文法は、やはり 視覚空間の感覚与件に関したものであるのは明らかであるから。 しかし、視覚空間の感覚与件の言明の文法であるなら、さらに「一つの物を他の一つの物と区別して指す」という こともどうしても必要なことで、そうでないならば ”指差しのしぐさ”は、ただ”しぐさ”だけのものになって しまうのである。 ところが”独我論者の言い方”というのは、まさにそういう”区別しない”しぐさでもって、その独特な言い方が生 まれるものなのである。また、 この言い方が、「車で旅行する際、急がねばという焦りを感じるとき、本能的に自分の前にあるものを押す・・」とい う行動に非常に近くないか?・・と考えることは、理解を助けてくれる。 だから、このように”区別しない”しぐさでもって、”・・・私が見ているものを指しながら「私はこれを見ている」 とか「これが見えている」ということが、もし意味をなすならば、私が見ていないものを指しながら「私はこれを 見ている」とか「これが見えている」ということもまた意味をなすはずである。 -p126終わり2行からの引用-” ・・・ということになる。 すなわち、視覚空間の感覚与件に関した言明であるなら、同じように重要な前提であるので、区別しない言い方が 成り立つぐらいだったら、そもそも先の”見えていない”ものを指す・・という方の言明も正しいものになってしま うはず、ということになるのである。(ここまで2011 4/8) ”区別がされない”ということは、その独我論者的言い方「これが本当に見えているものだ」において、指すもの と指されるものをくっつけてしまって、”指差しから意味を奪ってしまうrobbed the pointing of its sense” ことをやってしまっていることになる。 これは、時計の文字盤と針を固定して廻しているようなものだが、独我論者の哲学が、いくら精巧な概念構成を やり立派に見える話をしても、肝心のところで何も指していない、何の意味もない話をするのを連想させること でもある。 すなわち、この「これが本当に見えているものだ」という意味のない言い方は、もうひとつの重要な特徴として、 ”トートロジー恒真命題”を思わせるもの、ということがある。 ・・以上p126L9〜p127L5の箇所の書き下し終り。 こうした話を述べた後、ウィトゲンシュタインは「これが本当に見えているものだThis is what's really seen」 という文章を、”疑似命題pseudo proposition”と呼び、そういう命題を人が言いたくなる理由reasonsとして 、”それが(本来の)命題と類似しているから”ということを指摘する。 この場合、「私が見ているのはこれだけだI only see this」「これが私の見ている部分だ this is the region which I see」という、ちゃんと見ているものを区別して指して言うような本来のこういった言い方に、一見 あまり違わない(類似している)ように見える。 こういうふうに周囲の事物からあるものを区別する、または、視覚空間でない物理空間での言い方の場合の、ある 方向を別の方向から区別して指すような場合も、疑似命題ではない。 またウィトゲンシュタインは、「これが本当に見えているものだ」という文句そのものがイケナイといっている 訳ではない。ある人が”自分”の見ているものを強調するため、ちゃんと区別するような指差しをしたうえ、 特別に”本当に”という言葉を付け加えるのは、別に一つの表記法notationとして異議はないともいう。(p127L12) こういった”疑似命題pseudo proposition”と”類似”ということを巡る問題について考える場合に、『論考』で すでに言及されていることを思い起こす必要がある。確かに、この『青色本』の記述では”身振り-指差し動作”が 強調されているところは一見違うけれど、十分 参考になる記述が『論考』にある。(実は、身振りに関しても 『論考』の発想にもう含まれているものなのだが・・・) (ここまで2011 4/9) その語が出ているのは、4.1272 5.534 5.535 6.2 になる。 疑似命題に関するLWの考え方を示している長め の特に代表的な記述は4.1272なので、そこから『青色本』の話からそれないように、簡単に説明する。 本来 個体変数Iという記号で現わされるようなものだから”対象object”という言葉は、疑似概念であるという。 そういう変数としてとらえると、「Iがある」という命題のIを、「本booksがある」という命題の本と、同じよう な扱いができるものと思ってしまう誤りを端的に示すことになる。 「対象」は論理学の記号体系の中の内部の変数で、「複合的なもの」「事実」「関数」「数」などと同様に扱われる。 だから、「・・・の性質を持つ2個の対象が存在する」というのは(∃x,y)・・・という用法のはっきりした言葉だが、 漠然と「対象の”総数”・・」などといっても記号体系的に書き表しようのないことだから、 言葉の誤用のナンセンスであることが分かる。 こういった”対象”などという論理学的な”概念”が、他の仕方で 本来の抽象名詞の一般の使い方をされると、 必ず ナンセンスな”疑似命題pseudo proposition”が、生ずる。また、 こういう言葉は、”形式的概念”を表示したものともいえるものだが、ラッセルやフレーゲなども含め、一般に誤解 して叙述されている。 例えば、「1は数である」「ただ一個のゼロが存在する」といった類の表現はみなナンセンスである。 「3時に、2たす2が4になる」という馬鹿げた命題がナンセンスと言えるのと同じように。 ・・・以上は、『論考』4.1272をほぼ全体を、ちょっと私が書き下してみたものだが、さらに いくらか解説 を加えてみる。(ここまで2011 4/11) まず、大事なことは論理学の「対象」という言葉は、論理学の記号体系の中で、使い方がはっきりしたものなのに 様々な用法のある抽象名詞の一般的な使い方と混同されて、「対象の”総数”・・・」などといったナンセンスな疑似 命題が生じてしまうということ。 (もちろん、混同される理由は”対象”という同じ言葉が用いられ類似した用法が、頭から可能だと思ってしまう からである。・・・) それは、ちがう”形式的概念”の混同ともいえることで、ここで挙げられた例のように、 「1は数である」の場合ならば、「数」という言葉は、変数をいう数の一般的なものを言う時や、他の言語における 数の表示と区別する場合などならば、正しい用法だが、わかりきっている「1」のみをとりたてて「数である」とい うのは、用法の混同、誤用でしかない。 だから、「3時に、2たす2が4になる」という文が、言う必要のないことをわざわざ親切に言っているというより、 むしろ、「3時に、・・」という文の用法に反した文章につなげられて出来た混乱、誤用された文章だから、ナンセン スでしかないのと同様なのである。 すなわち、より明確にしようなどと考えて叙述、根拠を連ねたとしても、言語の本来の用法に反した使い方をすれば 混乱と不明確さが増すばかりなのに、それが誤解されている。むしろ、文章とそれと定まった用法・行動、それで本 来 明確になるのであって、必要なのは我々の通常の使い方を確認することで問題はそれで十分なのである。 (実際、「1は数である」などと改めて言われるとわれわれは、強い違和感を感じる。それは私たちの日常のごく基 本的な体験と関係があることを思わせる。ではなぜ、一般にそのようなねじまがったような言い方の方が、普通に なってしまっているのか?続く4.12721「形式的概念は、それが適用される対象にともなって、すでに与えられて いたのだ。・・」などということが、実は素直に受け入れにくいという問題がある。このトリックめいた現象につい ては少しあとでのべる。)(ここまで2011 4/12) さて、以上のように この程度でも『論考』に書いてあることをチェックしてみるなら、先程までの『青色本』 の記述と、根幹は殆ど同じような話であることに気づいてもらえるだろうと思う。 ”疑似命題”という考えは、例えば、 論理学の記号系の中で使うことと関係して用いられるべき「対象」と いう概念が抽象名詞の一般の漠然とした使い方と混同されることによって、意味のない(意味不明の)命題が 出来上がるということである。そして、人はそういったことで驚くほど鈍感になれるという問題なのである。 概念と使い方の様々な慣用の中で私たちは生活しているにもかかわらず、多くの人は簡単に見落としてしまう。 ”使い方”といえば、言明とそれに伴った指差し動作(それ無しでは、そのような言い方にならないような動 作)であっても、問題になるのは何の飛躍もない。 (ただ、『論考』の方は、6.2 「・・数学の命題は等式であり、それゆえ、疑似命題である。・・」とあったり、 先の4.1272の冒頭のように、疑似概念を形式概念との関係でより拡めで規定してあるが--通常の命題でない という意味で--、それは『論考』の体系上の用語の問題でたいした違いではない。・・・) また、 先に、時計の文字盤と針がくっ付いているイメージの話が出され、「私だけが本当に見るonly I really see」 という言い方は、”トートロジーを思わせるreminds。”という記述になっているということを書いておいた。 しかし、『論考』的に言うと疑似命題はナンセンスだが、トートロジーは疑似命題でもなくナンセンスでもな い。(記号体系に属しているので・・、ただ何も語らない。) だから、ナンセンスな「私だけが本当に見る」が、トートロジーを思わすというのは、問題になる記述なの だが、恒真命題のようにこの形而上学的命題が絶対真理みたいなニュアンスで使われるという話だと思われ る。(『青色本』ですぐあとに、このことが違った風にまた述べられていることに注意。) (ここまで2011 4/13) ところで、 この『青色本』の末尾部分、p124L16から終わりまでの部分(以前、私がこの本の”コーダ”みたいなところ と呼んでいた部分)を、これからの話の都合上、まず、p128L12までを、(A)部分、その後を(B)部分、 と呼ぶことにして、さらに(A)のp126L9までを(A-1)そしてp127L12の”しかしもし、”より前の部分 を、(A-2)その後を(A-3)と呼ぶ。また、(B)部分も、前半のp129末までを、(B-1)それから終わりま でを(B-2)と呼ぶことにする。 ここまで、(A-2)までの説明が順次終わっているので、 続く(A-3)についての話を続ける。 (ここまで2011 4/14) 「これが本当に見えているものだ」という文句も、ただある人が見ているものとして、普通に言っていること を、”本当に”という言葉を付け足したものとして、特別な表記法として採用することは別にありうることだ と、LWが述べていることを先程書いた。 ただ大事なことは、その普通の言い方に対して、その特別な言い方が自分自身に何かを伝達するp127L13(もし くは、何か違った特別なことを言っているとすること。だと思うが・・)ことが少なくとも可能だと思ってしまう のは、誤解であるということである。 そのことは、こういった一連の独我論者的言い方のヴァリエーションの一つといえる「私はここだI am here」 という単純な文章を考えると分かりやすい。 (これも”私の世界は特別だ”という力を込めた言い方で言うようなセリフとして想像できるものだと思う。) しかし、このニュアンスで言われるこの文も、用法を混同した疑似命題であるのを知らなくて使っているせい なのは先と全く同じなのである。 すなわち、「私はここだI am here」という文章は、確かに正しい文章でもあるのだが、それはもっぱら、 その声がする方向で、「私」の位置を知らせるような特殊な場合である。なぜそれが、特別な”意味” (哲学的深遠な?)を持つと思えてくるのか? 「それが、私に近づいてくるIt approaches me」という文章は、決して物体が、物理的空間で接近してく る場合のみに正しい文章であるわけでない。 (たとえば、私が次の行動に移れるチャンスとしての”it”が、近づいてくる・・・という類の文章は全く 正当で有意味な文章である。勿論、後の”視覚空間”というのでないが・・)(ここまで2011 4/15) ”同じようにin the same way”全く物理的でないこととして、「それが私に届いたit has reached me」 という文章もナンセンスではない(・・makes sence to say,・・)。 そして、さらに、そこにあるということ・・「それはここだit is here」という文章も、物理的ではない こととして、十分 有意味なことを語りうる。 ”この「それはここだit is here」の「ここhere」は、視覚空間の中のin visual spaceのここであった わけだが、大雑把に言えばRoughly speaking、それは幾何学的眼 the geometrical eyeである。p128” というふうに書かれてあるように「それはここだit is here」という命題は、幾何的用法の命題として 別に物理的には何もなくても、正しい命題であり得るし、疑似命題ではないのである。 (この”幾何的”というのは、これまでに何度も出てきたウィトゲンシュタインの言い方だが、 ”物理的”というのに対比的にいわれる特徴である。改めてちょっと付け加えると、例えば、 「そこを通る線分で、合同が最も証明しうるこの点」などという”点”は、別に物理的には 存在しないものといえる。先程 私が例としてあげてみた、チャンスみたいなものとしての ”it”と、そんなにかけ離れたものではない。というのは、それは、結局 様々な事情の末 感覚上にあるもの、見えるものを言葉に写した物理的でないものである。そして、『青色本』 は、『論考』より、より日常の言語表現の用法に対応させようとしている著作であるという ことも考えた方がいい。)(ここまで2011 4/16) しかし、「私はここだI am here」という文句は、むしろ、”公共の空間のある場所”というべきものに 関したことであり、そうした用法で話されなければならない。そして、それは”視覚空間”と区別されな ければならないものである。 にもかかわらず、「私はここだI am here」と言うことで、hereを、視空間と考え、”I”という私の世界 の存在を確認するというような特殊なことを言うことが出来ると思ってしまうのは、”公共の空間のある 場所”からの声としての、「私はここだI am here」と混同してしまっているからなのである。 すなわち、”「ここ」が、公共の空間の場所を意味する文から言葉上の表現を借りておいて、今度はその 「ここ」を視空間の中のここに解しているのである。p128” だから、「”私が誰かに向けてhereと声を発している位置”が、”ここ”という公共の空間のある場所 である」というのなら、有意味な発言だが、「”自分にhereと言っているだけの私の位置”が、”ここ” という私の視空間上にある」というだけのことになってしまうから、独我論者的言い方の「私はここだ I am here」は、結局、「ここはここだhere is here」というくらいか何かのことsomething likeといえ る。 そして、この結論は、(A-2)のラストあたりの「私だけが本当に見るonly I really see」が、くっ付い た時計の指す針と指される文字盤が廻っているみたいなもので、指差しが”区別しない”言い方で使わ れるので何も指示しない無意味な言明になるので、”トートロジーを連想させる”といわれていたのと 同様に、この(A-3)ラストの「私はここだI am here」についても、”公共の空間の場所を意味する文か ら言葉上の表現を借り”混同を引き起こしてしまうせいで、実際にいっていることは「ここはここだher e is here」という”同語反復的命題”にしかならないことが起こってしまうということである。 そういうわけで、独我論者的言明、「これが本当に見えているものだThis is what's really seen」と いう類の言明にしても、「私はここだI am here」という言明にしても、指示の仕方にせよ、他の公共的 空間における用法を間違って借りたりすることにしても、用法の混同による疑似命題の典型例であり、 また両者とも、トートロジーに似たものになってしまうということなど、意図的にシンメトリカルな書 き方、話の展開がされていることには注意しなくてはならない。(ここまで2011 4/17) 前にも述べたように、この(A)部分というのは、その前に この『青色本』全体の大きな結論といえる ような話が出てしまった後にくる部分なのだが、今まで説明してきたように 結局 この部分は 言語 の用法・・『論考』的に言うなら”形式”と言う問題における”類似”とそこから起こる誤りを述べた部 分で、ウィトゲンシュタインの基本的な考え方を特に集約したような部分といっていいと思う。そして 例えば どういったことを批判しようとしているのか?推察できるようなところでもある。 確かにウィトゲンシュタインの書き方は非常に簡潔で、言葉が足りない気味があるせいで、ちょっとし た訳の仕方の違いで大きな難点につながりやすいところがあり、厄介なのは本当だと思う。とはいえ、 この全集6巻の訳の場合は、それ以上の問題があるということを、以下に載せた原文と訳文の1/4ページ 分くらいを例にして、ここの説明も終わったので ついでに考えてみたい。 まず問題になるのは、2行目の"it is here"を、「それはここだ」と訳しておきながら、5行目の "it is here"を、「これはここだ」と訳していることの不自然さである。 もちろん、単なる誤植的なものの可能性もあるが、ここの訳文全体の傾向と関係しているから、 問題には値すると思う。というのは、”前の「これはここだ」の文の中の「ここ」”といっても 訳文だけでは分からないことになってしまい、"it approaches me"が物理的なことでない命題 というのに続く"it is here"と、 In the sentence以下で受けた視覚空間の命題としての"it is here"そしてそれをラフにいえば”幾何学的眼”・・という連続的した話が消えてしまう。 [物理的なことでない命題(感覚与件的)-視覚空間の命題-幾何学的眼]* *ウィトゲンシュタインがこんな書き方をしているのは「私はここだ」という話が余り特殊な例にならないように 広がりを持たせるために、ある段階的な書き方になっているのだと思う。私が例としてあげてみた、チャンスみ たいなものとしての”it”を考えてみるというのも、独我論と言われているものの思想を論じていることを想像 するなら、ややオーバーながら役には立つと思う。(ここの付記も2011/419) 何より、”意味がある”とされる"it approaches me""it is here"という視覚空間的な言明側 と、同じように視覚空間的でありながら、意味をなさない"I am here"、そして公共空間を指示し 意味をなす"I am here"との対比が寸断されてしまうから、用法の混同により誤解して”言葉の 表現を借りる”疑似命題の問題が隠れてしまうことになる。 (ここまで2011 4/18) というのは、もちろん、この訳文でも”公共の空間”でないと意味をなさないとは言われてい るけれど、混同が問題と言うより、物理的な空間、公共の空間というものに対してプライベー トなもの、視空間 幾何学的眼といったものが、対比されている印象の方が強くなる。 そして、なぜ最後の同語反復的命題になるか?というよりも、「私はここだI am here」「こ れはここだit is here」「ここはここだHere is here」と似た印象の言葉を強調することで、 3つの文が本質的には同じ・・というような書き方になっているのでないか?(だから、”それ” をわざわざ”これ”に変えた?) さらに、一方で訳者自身の注意書きとして入れられた[(嘘もつけるし、幻覚の場合は真とな る)]との文句は、意味あるもの とされる言明も、「嘘」や「幻覚」という特にネガティヴ なことのみ挙げられるせいで(感覚与件に関してLWがそういう書き方を決してしないことは 重要だし、そうでない場合の重要性が問題であろう・・)、返って 意味あるもの と無いもの の差がぼんやりとしてくる。結果、この訳文全体の印象は、物理的、公的なものに対して プライベートな感覚がぼんやりと2層になったような話に近くなってくる。 (実際、訳者の大森氏自身の著作の内容と関連があると思われる。---注***参照--) 最も問題だと思うのは、原文の話の自然な展開が半端で平坦な説明で見えなくなり、意図 されているシンメトリー、連続した話の区切り、の対比などの文章の元々の形態が分からなく なるせいで、ウィトゲンシュタインの”類似”に関する立体的な視点がどこにあるか?という ことに思い至らせないということ。 (ここまで2011 4/19)
To say "it approaches me"has sennse,even when,physically speaking,nothing approaches my body; and in the same way it makes sense to say,"it is here"or"it has reached me"when nothing has reacheed my body.And,on the other hand,"I am here"makes sense if my voice is recognized and hered to come from a paticular place of common space. In the sentence"it is here"the "here"was a here in visiual space.Roughly speaking,it is the geometrical eye.The sentence"I am here",to make sense,must attract attenstion to a space in in common space. (And there are several ways in which this sentence might be used.) The philosopher who thinks it makes sense to say to himself"I am here"takes the verval expression from the sentense in which"here"is a place in common space and thinks of"here"as the here is visiual space. He therefore really says something like"Here is here". 「それが私に近づいてくる」と言うことは物理的に言えば何も私の体に接近していないときでも意味 を持っている。同じように、何も私の体にとどいたものがなくても「それはここだ」とか「それが私 にとどいた」と言うことには意味がある。[(嘘もつけるし、幻覚の場合は真となる)]。一方、 「私はここだ」は、私の声だと認知され、公共の特定の場所からくるのが聞かれるときは意味をなす。 前の「これはここだ」の文の中の「ここ」は視覚空間の中のここであった。簡単に言えば、それは幾何 学的眼である。[だが]「私がここだ」という文が意味をなすには、[視覚空間でなく]公共の空間の中の 或る場所に注意を惹かねばならない。(そしてそのようにしてこの文を使う仕方は幾通りかありえよう。) 「私はここだ」と自分自身に言うことも意味をなすと思っている哲学者は、「ここ」が公共の空間の場所 を意味する文から言葉上の表現を借りておいて、今度はその「ここ」を[プライベートな]視覚空間の ここに解しているのである。だから、彼が実際に言っていることは、「ここはここだ」という類の ことである。〜『全集6』p128の訳文そのまま〜 ()は原著者のものを訳した部分。[]は翻訳者 自身の注解。(この原文訳文を、ここに写したのは2011 2/25)
続いて、先に(B)とした部分の説明にうつる。 先の(A)の部分は、感覚与件の文法から始まって、様々な文法形態の”類似”からくる、混同の 代表例を示すことによって、『青色本』全体の問題をひとつ総括したような部分、と言ってもいい かもしれない。 それに対して、今度の(B)の部分は、前もってちょっと言っておくと、先のような感覚与件につ いての文法や、数学的演算におけるやり方、身体と心に関する表現・・といったこと、そういう文法 形態、表現方法についての、直接的か間接的か?と言う問題、(結局、何を より*根底的、基本 的と考えるか)という問題に関してなのであり、そのことで『青色本』全体の話を、終えているこ とになる。(ここまで2011 4/21) * ウィトゲンシュタインが、こう書かないのは、勿論 理由があるが、でも結局のところ このような問題に行き着くことになる・・・。(この注2011 4/21) (A)から、引き続いて”独我論”者の典型的な論法を考えることを、まずやってみることになる訳だ が、それは”この描写は、私の感覚与件から引き出されたthis description is derived from my sense datum"というような言い方に対して、である。 何かを見て、その描写を、絵で描いたり、文章で現わすという場合があり、その描写を、”それは 、これらの物(見ていたもの)から引き出された”というのは正当な言い方といえる。 そして、それはちゃんと、意味のある発言である。また、他の人も同じように描写していたとしても 「自分の描写だけが現実から引き出されたものだ」と言ったり、また、他人の描写を「空白の描写」 と言ったり、「この描写だけが現実から引き出された。これだけが現実と照合された」などという いかにも独我論者的発言をするのは、まあよいとしても、しかし、さらに ”この描写は、私の感覚与件から引き出された”と言ってしまうのは、むしろ もっと大きな難点が あるということなのだ。(ここまで 2011 4/26) すなわち、こう”感覚与件から”と、わざわざ言いたくなるのは、ある”誘惑”に関連したものだと ここでウィトゲンシュタインは書いている。 「他の人が『茶色』で本当は何を意味しているか、または、自分が茶色を見ていると(正直にtruthfly) 言う時も本当に彼が何を見ているのか私には決して知ることが出来ない」と言いたい”奇妙な誘惑” ・・p129が、それであって、そして、その類の主張に反論する考えを端的に述べる。 すなわち、 〜「茶色」という一語の代わりに2つの語を用いて、一つを彼だけにわかる独自の”感覚印象”に、 もう一つを万人に理解できるような意味を持たせて使う・・といったことを考えてみれば、 「茶色」という語の意味と機能から考えて明らかにおかしいのでないか?〜 という以前の話でも注意しておいた”黄色の切れを想像せよ”といった場合と似たある”思考モデル” といえるような話なのだが、しかし、この”直観的”だがある根本的”反論”には、『青色本』全体 のこれまでの話・・はっきりした境界の定義がないもの、規則と学習、測定や痛みや色を巡る、従来の 主観的なもの、客観的なものに対して、様々な二分法的な関係から融合的に論じたり、いわゆる主観と しての”私”の幻想などの議論etc・・を、経ていることを考えなければならない。 (ここまで2011 4/30、正し 最後の5行は補足的な2行分を2011 12/21に付け足し・・) * <ここからまた加筆していくつもりです。2011 12/21 > 自分だけが独自の感じ方を持つ(彼の特定の感覚印象)という根拠を、”感覚与件”に求めること。 これに対してウィトゲンシュタインは、”自分の描写の正当化justificationをありもしないところに探 し求めている”ことでしかなく、それは理由の連鎖がどこまでも遡れると信じる人の場合と同様である という。(p129) ・・即ち、理由と原因の混同からくる、根拠の取り違えだというのである。 (原因の遡及には終りがないが、理由を述べることには終りがある。以前のこの説明と下記の5,64の説明を参照のこと) この補足は2012/1/2 こういう感覚与件の話から、数学的演算を必ずしも一般公式から導かなければならないことはない、とい う問題(p129)、 また、ある色の四角形を見て、それを色見本表から、”茶色”という語を引き出してきた・・というのは、 描写に必要な語を引き出すひとつの仕方を説明しているが、しかし、この際、私の受ける特定の色感覚 があり、それを経由して”茶色”という語を引き出しているとわざわざ説明することは、無用でナンセ ンスなことであるという問題(p129)、 と比較させる。 ”感覚与件”という語の使い方から流れる、こういった話は、各々の場合、どちらの表現が、より ”直接的”か”間接的”か・・という問題(p129L10-11)、即ち、自分を”正当化”する場合にどちらが よりそのまま関係するか、無関係に近いか?ということにつながってくることになる。 そこで最後のページで、ちょっと唐突な感じで話題になるのが、”痛み”をめぐる哲学の古典的な 『心-身問題』である。 (ここまで2011 12/21) ここ(p130の6行まで)での話をより簡単な日本語に、補足して書き直してみると、・・・ ”人間の体自体は、痛みを感じない”というような見解は、むしろ西洋の伝統的な言い方では普通の ことであって、痛みを感じるのは、「心」に関することだから、身体という物質で出来たものではな く、物質的な事物と違ったものでなくてはならない・・・云々 、という具合なことがいわれるもので ある。 しかし、こういった見解は”決めつけ”に過ぎないこと。 こういう見解は、数字の「3」が、何かの物理的事物の記号でないと気付いて、逆に ”数3は、心的、または非物質的なものである・・”という発想のようなものである。 こういうふうな話なのだが、こういう心と身体に関する哲学的な従来の議論(その典型的なのが、これ もデカルトの考え・・)に対して、「数」を捉える時のような言葉の問題と考えることが非常に大事であ って、それが単なる決め付けの話にならないために必要なことだという主張だろう。 (ウィトゲンシュタインは、言い足してないが この場合、”痛み”を感じるのは”物質”であるとい う逆の見解の方が、最近では人の頭にまず浮かぶことかもしれない。しかし、それだって、どっちか 一方を考え、そうじゃないと思うともう一方しか考えられないという点では同じ発想でしかない。 本当は、後の話で出てくる”用法”が問題なのだが・・・)(ここまで2011 12/22) ところが、医者にかかったらどうか、この前にその痛みは1日しか続かなかったのでないか?・・etc というようなことから「この体が、痛みを感じる」という表現を日常的にすることを、考えれば、 そこには全く問題が無いし、そして使っている表現なのである。 しかし、これに対して「この表現の形式は、少なくとも”間接的なものan indirect one”に ならぬのか?」と反論してくる場合はあるだろう。(以上、7行から9行の意訳) 『心-身問題』に関する、哲学風の議論の表現と、日常の表現。どちらの表現が、より”直接的”か ”間接的”か・・という問題。 これに対しても、また算術的な表現の問題を対比して話を続ける。すなわち、 「この式に3を代入substituteせよ」という表現のかわりに「xのかわりに3を書け」 ということが、すぐ”間接的表現”を使うということではないのでないか? この場合、逆に、後者の場合だけが、”直接的”だという哲学者もいるが、 そもそも、表現の意味は、その表現を我々がどのように使っていくかに全くかかっているので、 ひとつの表現が他の表現よりあたまから”直接的”などということはないのである。(9〜13行の意訳) そう言った上で、(p130終わりから5-3行 参照) ・意味が、心が事物と語の間に作る、神秘的な結合(an occult connection)であると、イメージ しないようにしよう。 また、 ・この語と事物の神秘的な”結合”が、ひとつの語に関するすべての使用を、中に含んでいるな どとイメージしないようにしよう。 と、現実の語の用法を軽んじて、事物と語の結合の関係に、全てをみようとする(全てをそこに 集約しようとする話)ことから、どちらがより”直接的”か”間接的”か?という決めつけ的な議 論の誤りへと、つながっていることを、こういう注意で示唆しようとしている。 ・・・後の方の”注意”に関して、特に”樹木の種が、のちに成長してできる樹全体を、もうその中に 含んでいる”という考え方があることもここで指摘されている。これは、ある種の”有機体論”で 自己相似形を保ち発達するといったような考え方の話だろうと思われるが、こういう場合によっては 正しいかもしれない(だから、Let'sと書かれている・・)考え方も、その前に見なければならないこ とがある!という主張なのであろう。・・・(ここまで2011 12/23) だから、意味というのは各々の用法、表現に”直接”関係するのだが、むしろ語と事物の対応だけ に注意が集中しがちで、そこから『心-身問題』などの哲学的な大きな問題も誤解となって起こって くることになるのである・・ということ。 そして、私のこの『青本』の解説の一番初めにも紹介した、最後の文章(p130)が来る。 「痛みを感じたり、または見たり、または考えたりするものは心的本性のものである、この 私たちのour命題の核心は、単に”私は痛みを感じる”の中の”私”は、ある特定の体を 指示していないということだけである。”私”に身体のある記述を代入することはできな いからである。」 ( cf 「思考し表象する主体なるものは存在しない。・・・」 論考5・631) ”痛みを感じたり、または見たり、または考えたりするものは心的本性のものである”と 言う表現は別に可能なことで、ナンセンスでもない。場合によっては、身体的な本性と対比 する意味が重要なこともあるから。 ”私は痛みを感じる”・・こういうふうに我々が言うとしたら、それはこの文章で、”私”に 特定の身体部分の記述を代入出来ない、という問題への適用を意味している。(論考の命題 関数ふうなやり方・・) (ここまで2011 12/24) だから本当に問題になるのは、その表現がどのような用法でもって使われるか?なのであり、 この場合、すでに説明したp120の”私の用法の2つの区別”ということを、思い出す必要が ある。 この”主観としての”用法の場合、特定の個人の肉体ではない(むしろ”他人の身体にもあ ることが強調されるようなものであること*)し、身体各部分でもない。 こういう言い方の”私”の場合、そのような分解のできない直接的なものであり、そうした ものを心ということも出来る。 *括弧内は2012/1/5追記 しかし、難点があるのは、こういう用法で使われる”私”が、一般化してしまうことで、 それは、事物と語の関係だけに問題を限ってしまい、われわれの具体的な使用を見ないこと で容易に起こってくる。 独我論の特別な”私”の云わんとすることは、その本来の視覚の描写的な直接性においては、 正しい。だが、それは”身体各部分でもない”という場合であり、また (個人の名前に結 びつくような・・・)特定の体でもない場合という”だけonly”の話だという表現形式を踏まえ ないといけないということ。 (ここまで2011 12/25) これは、従来の哲学を構成してきた意味での「私」が殆ど無くなることに等しく、また そういう直接的な”表現(形式)”自体こそが、「実在」(それを”正当化justification” するようなものをこう言うとすれば)になるわけで、 「ここにおいて、独我論を徹底すれば、純粋の実在論に合致することがわかる。 Hier sieht man,daß der Solipsismus,streng durchgeführt,mit dem reinen Realismus zusammenfällt.・・・ 論考5.64」 (ここまで2011 12/27) 実は、解釈の中々厄介**なその前の5.634も、ここから更に『青色本』での概念をまとめ て、参考にしてもらうと、かえって その元来の言わんとすることが読めてくる。 直接のものである言語的な表現は、われわれが”見る”ことによってあるので、いわゆる 「私」によってではない。まして、身体各部分でもない。だから、われわれは視点を自ら 変えられる、という意味において(ルールを変えられる)、記述には”先天的な秩序”が あるわけでない。(いわゆる客観的な事物そのものの秩序が、記述の秩序になるわけでな い。・・事物のそういうものは秩序orderではない・・)(2012 1.17 1行削除) ただ、『論考』の方は、「論理学」の解明ということの裏腹としての”表現形式”全体 から、論じているのに対して、『青色本』の方は、具体的な言語表現の用法のチェックか ら論じているだけのことで、こういったような主張をすることは変わらない。 (ここまで2011 12/28) ** この5.634の解釈が難しいと思われるのは、ラッセルの階層理論を一見想像させるようなorderという、 かなり幅広い意味を持つ言葉が、何か唐突に使われるせいでもある。(この注は、2011 12.29 また2つ上の段、1行加筆) しかし、こうなってくるといろいろな表現形式の直接性と間接性の方が、重要になり 本来、もっとまんべんなく言語的な活動において取り上げる必要があり、そういう全体 を代表するように、様々な用法自体が問題とならなければならなくなる。 ところが、『青色本』の考察では終局的に”私”の語の文法にとどまるだけで、 かなり限られたものになってしまう。(このことは『探求』でもそんなに変わらない) 一方、『青色本』とほぼ同時期の草稿でありながら(この私の文章で以前ある程度 代表的な内容を紹介しておいた)ウィトゲンシュタインの『フレーザー金枝篇について』 の方は、明らかに人間的活動のもっと違った方面も問題とせざるを得ないような話にな っている。 ところが、両著作の記述の内容の関係は決してそんなに判りやすいものではない。 フレーザー、小林秀雄、ハンスリックらの論じた問題は、実は密接に人間の言語的活動 とその生活様式と関連があるということが、ここまで並べてきた話題の関連性から想像が つくだろうと思うけれど、『青色本』と『フレーザー金枝篇について』の考察の必然的な 関連性を、中心に今度は考えてみることで、小林秀雄、ハンスリックらの問題も鏡面のよ うに、そこでみえてくることになるだろうと思う。 (それで、小林の”モーツアルトへの偏重”などいう現象、がなぜ起きるかの話のケリ もつく・・・) (ここまで2011 12/29) これまでで大体、通して『青色本』の主要な論点を、最後まで見てきたことになるが、 (割と早送りした中間部分は後でまた取り上げる・・)ここまでの私の話に注意してもら うならそれが、『論考』と無理なくつながることは明らかなことといってよいと思われる。 そして、こういう”連結項”を探るようなやり方は、より拡がった視点を、われわれに与 えてくれないだろうか。(ここまで2011 12/31) ところで、 ” 「私」が主観として使われる場合には、ある特定の人間をその身体的特徴で 使われているのではない、と我々は感じる。この感じが、この語は我々の身体に座 は持つがそれ自身は肉体のない何者かを指すために使われるという幻想を生んでし まう。更に、このものこそ真の自我、「我思う故に我あり」と言われた自我である ように思われてくる。・・・『青色本』p124 We feel then that in the case in which "I" is useted as subject,we don't use it because we recogize a particular person by his body caractaristics ;and this creates the illusion that we use this word to refer to something bodiless,which,however,has its seat in our body.In fact this seemes to be real ego,the one of which it was said,"Cogito,ergo sum". この直後に、 ”それなら、心はなくてただ体だけあるのか、と反問されよう。答え、「心」 という語には意味がある、即ち 我々の言語の中にある用法を持っている。 そういってもまだどんな用法でそれを使うか言ったことにならないが。” という文章が続いていたのだが、 『青色本』p130最後の先程の文章は、正に この問いへの補足する話になっていること が判る。 すなわち、「心」という語が有意味なのは、感覚与件的な言い方に陥らず、心的本性 に言及する場合などであるということ。 だから、上記の英文(原文)の引用箇所は『青色本』全体の一旦の終結箇所としての 重みを持っていることが、改めて確認されるとも言える。 (2012 1/8) 一方、そこに又続く部分で、 ”これまでの探求で我々が問題にしてきたのは、見る、聞く、感じる、等「心の 働き」を述べる語の文法であった、と事実言えるだろう。それは、我々の問題 とするものは「感覚与件を述べる語句」の文法であるということと結局は同じ になる。”(p124末) と言われているように、『青色本』の主要な議論は、物理的存在と対比するように ”ある事物が存在しない場合にも我々の眼にはあるように信じるということである” (p125.3行)ということを前提にしているともいえる”感覚与件”を論ずる哲学者 たちと問題意識を同じくしているということはとても重要である。その意味では ”感覚与件語法”というのも「心」の問題なるものを論じやすくなる場合があるし、 それを導入するのは注意すれば役立つことになる。(p125-6参照のこと) だから、ちょっと別な様に言ってみるならば、『青色本』とは、先のコギトの問題を 論じるに至るまで、感覚与件という問題で現れるような、いわゆる”心的世界”と ”物理的世界”(p91)というある常識的な区分を、従来の哲学者たちと、違ったよ うに描き直そうと、だんだんと積み上げてくる話だと捉えることも出来る。 ---------------------------- 『青色本』の最後の行まで、一応 私の説明もし終えたし、又全体の話もかなり長く 複雑になってきているので、ここで そういう観点から『青色本』を簡略化して整理 し直してみて、補足説明を与えたい。そして、その議論の持っている射程、引っ掛っ てくる問題を、この段階でも言えそうなこと、それをより具体的にすることで、 本来の小林秀雄のモーツアルトでの論法の問題(それに関与するフレーザーやハンス リックの問題・・)のナビゲーションとして、ちょっと置いてみたい。 いわゆる”心的世界”と”物理的世界”というものと、いわゆる主観的、客観的 などという2分法的区別に関して、前にも『青色本』の説明の中で、少しまとめて 書いてみたが、それでは、今 まず むしろ、一般的に、常識的に、人々はどうい うものを『主観的、客観的』と呼びたがるか考えてもらいたい。 ”ある意見を単に主観的であり趣味tasteの問題であると言うときの見下すderogatorily 意味で主観的だ、と・・・”(p92より)といったウィトゲンシュタインの言葉を参考にし ても良いが・・・ 例えば、 『主観的』・・・個人的、感情的、趣味的、芸術的、人間的、非合理、曖昧性・・心理的・・etc 『客観的』・・・非個人的、非感情的、普遍的、科学的、数理的、合理、明確性・・物的・・・etc といったようなことを挙げるのは、そんなに勝手なまとめかたとはいえないだろう と思うし、実際 今日人がこの類の話をするとき、このような用法を多かれ少なかれ 含んだ事柄を念頭においている、などというくらいなら認められることに違いない。 (デカルトに単純にこのことがあてはまる訳では全くないし、LWも直接名前を挙げているわけでもない。もちろん、”延長をもたぬ、 疑い分離するものとしての思惟”はこのような常識的なものでないが、しかし こういう分裂の元にはなっている・・とは言える。) (ここまで2012 1/11) ・ついでに書いておくなら、論考5.64の”延長をもたぬ点”である自我は、実在と対応していた自我、と表現されるのであって、 ある意味デカルトの”自我”と背中を接しているが反対(”疑い”と”数学”の扱いで)を向いている・・ (この注2012 1/13、17に若干追加) こういうように対照付けられた概念群を見ると、ある”リアルさ”の感じを受けると、 共にある種の”冷淡な”というような感じも受けとれるということ、そのこと自体に 注意して欲しい。(もちろん、各々いろんな”形容詞”を当てていい。”想像しうる” ということが重要だから) また、こうした場合当然『主観的』ということに"見下す"という視点があること、そ して、それと同様なくらい、音楽などの芸術に関して優れた能力を示す場合 特に ”天才”などといった呼び名を多発する風なよくある傾向は、共に似たような雰囲気 を持つかもしれないことにも注意して欲しい。・・・小林が”天才”やその他の”褒め言 葉”また”貶す言葉”をどのように用いてるかも思い起こして欲しい。ここには関連が 無いわけでない・・・(ここまで2012 1/12、この上の段 17日に少し修正) ところが、われわれの使う”言語”というものに即して考えるなら、そのような 対照は、非常にその本質から離れた偏見に過ぎないことが判る。(2012 1/13) そして、こういうような”対照”に人が陥りがちなのは このような人の傾向は、決してそんなに昔からのことではなく、今日のような私たちの生活 事情と多分に関係ありそうなことかもしれない・・・ということをも踏まえてもらいながら 次のことをまず考えてみたい。 われわれの使う”言語”において、「人を取り囲む対象」そして「個人的体験」(p88参照) が、それを構成する事情の大雑把な由来を与えているというのは、ごく普通の考え方である。 実際、「地球の内側に惑星が幾つ存在しているか?」という問いに、個人(人)が何を思 おうが”無関係に”、観察から数えることで答えうる、ということは一応出来る。 (とはいえ、”惑星”の定義や、ここでの記述の仕方がどうあるべきか等・・は無関係で ないのを忘れないように) こういう「人を取り囲む対象」と言っていい類の記述の一方で、「個人的体験」からの 記述と言っていいものには、『青本』でも挙げられている”考える、希望する、信じる、 ・・”などいう述語の入った心的過程mental proccesと呼ばれるもの"に関する記述(p83参照) がそこに入るととも言えるだろう。 そう考えるような事情を先の”惑星”の例のように、もっと端的に示すために、こういう ”考える、希望する、信じる・・”というウィトゲンシュタイン自身が使った言葉と、ちょ っと違う”好む”という述語の例を見てもらいたい・・・(ここまで2012 1/26) というのは、”考える、希望する、信じる・・”を使うの記述の場合は、まだ 「人を取り 囲む対象」に対しての話になるが、”好む”の場合は、明らかにもっと「個人的体験」 ”個人”の側だけの事情から、その記述の内容が決定することのように思えるから。 例えば、 「好む」というのは、”望むwishing”(p52参照)〜欲求する〜とも似た言葉であると も言えるだろう。(かなり言い換えができる・・)飢えの感覚が消失するようなことが”望 む”であるというのはひとつの仮説(p52-3参照)ではあるが、何か身体的感覚を含んだ 漠然とした幅広い要素の必要性が、”ある緊張感a certain tension”というような感情 の一つの特徴でもって表されているような言葉であると解釈もできる。「好む」となると 、一般にもっと身体的必要性を離れて、何が直接的な因果関係を持つかより指摘しにくい ものになるともいえよう。どっちにしても、問題はこういう「好む」を使う記述の場合な どには、さらに様々な幅広い要素があり、感情のある特徴a characteristic of certain sensationでもって決定づけられ、記述される場合がありうるということが重要である。 即ち、こういったような場合 記述を決定しているのは、雑多な「人を取り囲む対象」な どのどれとは言えないから、その人自身が「好む」と言うという決定にあり、この場合 特にそういう「個人的経験」が、記述を決定づけている例として考えることも出来るので ある。 そして、またこの場合、いわゆる”感情”といわれる類のものが、どういう具合に記述に 関係するか、ひとつの典型的な例にもなる。 だから、「好む」という語を用いる記述の場合は、「個人的経験」から発するもの、 「主観」からくるものを明らかにし、それは同じく”感情的なもの”でもあるという、 あの”常識的な”対照を裏付けているかのようである。 また、「好む」を使う記述は、”肯定的”な感情の記述にもなるだろうし、「嫌う」は、 ”否定的”感情の記述となると、実際 日常言語のかなり広範囲な叙述の形を含むもの ともいえる。 そして、それはあの「真」「偽」という判断に、ほとんど変わらないように見えること すらあるのである。 とはいえ、そのような「好悪」の話など、しょっちゅう人と人が、仲良くしたり、諍い を起こしたり、するのと同じく甚だ当てにならないものにも思える。にもかかわらず 人が普段 最も関心を寄せる話題の一つがそういう人の「好悪」の話題であり、という ことは、われわれにとって少なくともある必要な”情報”には違いないともいえるので ある。
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