※『小林秀雄のモオツァルト』について:U      

   ◆ U ◆  

                                       


【U 青色本 】




  



       
                       
             こういう風に書いていくと、「客観的」「主観的」というあの区別の対照表の一覧の      要素が出てきているみたいでもある。しかし、この程度に そういった言葉の使い方を      具体的に考えてみただけでも、そもそも 「客観的」「主観的」、物的、心的、感情的、      ・・といった概念は文脈や使われ方によって、デリケートに当てはまるところが違ってく      るし、しばしば反対のことを含んでいるともいえるし、決して単純でなさそうなことが、      見えてくるのである。      (大体、単語的な書き表し方が誤解の元でないか?・・というのは実際その通りなのだ       が、反面 一目で見渡せるということも重要だったりする。こういうこと自体が問題       の根源になる・・・)(ここまで2012 1/30)            ここに関連する『青色本』で提示されていた重要な問題を含めて、もっと詳しくまとめ      て取り扱ってみたいのだが、その際に、先に少し言及した”中間的なもの”という私の      使った言い方を思い出してもらいたい。というのは、以下の話において(『青色本』の      段階的展開の説明)普通 主観的や客観的などといわれていることに関して、その間は      実は入り組んだような関係があり、それが何らかの意味で共有されている普遍的なもの      になっていくことに常に注意してしていてもらいたいので、こういう強調の仕方をして      みたのである。(ウィトゲンシュタインにより近い言い方に止めるなら”言語的活動そ      のもの”とでも言ってもいいのだが・・・)                            1) 語の意味  ・言葉の定義・・言葉で置き換える                ・直示定義            p22          2) 測定    ・見積もり方を憶える。               ・ルール、表を与えられる。    p36            3) 語の学習   ・記憶すること--原因                ・ルールを与える--理由--表をなぞる--WAYを示す p38〜          4) 「望む」「考える」「理解する」「意味する」「知る」          5) 事実でない事態を考えられるのはどうしてか? p65                       「思考対象と事実」 「肖像」          6)「個人的経験について」p86          7)「物理的眼」「幾何学的眼」p116          9)「私」の用法             「主観的用法」「客観的用法」p120                                       (ここまで2012 1/31)            以上は、すでに説明してきた『青色本』の骨格を成すような話題を始めの方から、順      に並べてみたのだが、全体を通して2つに分かれた書かれ方が主として行われている      ことに改めて注目して欲しい。      先の話で、我々の言語の記述を決定づけることとして、典型的な例で「人を取り囲む      対象」そして「個人的体験」などというものが、どういうふうに関係しているかを、      少し具体的に考えてみた。この例を更に補筆的に説明し直すと、(ここまで2012 2/2) 前者の”外部の物的な知識”が、確固としたいわゆる客観的知識として捉えられる一      方で、後者は、大体が 感情的なものとして、いわゆる主観的なものとしてだんだん      同一視される傾向の、それなりの必然性を示すものでもあるということ。      一般には、後者にある問題をちゃんと見ないので、こういう”外部の物的な知識”      こそ、正当化を保証するもので、一方の曖昧に過ぎないものに見える方は、どんど      ん置き換えていけば万事よろしいという傾向ともなる。      (このことは、”産業化された社会”というものがどういうものか少し考えてもら      えば関連を指摘するのは容易なこと・・)           もちろん、後者における”決定”する行為、発言・・記述と対比される”外部の物的           な知識”というのは、その自身の身体の生理的機能、細胞、神経繊維的な構造の記述            、人の行動・心理の確率的な法則、なども含む。というのは、そういうものに同調す           るにせよ、嫌うにせよ、人の行動全体の連なりの多様性からすれば、独立した決定は           どんな場合も可能だし、また、実際 そういうものなのが現実だから。           (論考5.631の記述との関連をもつことに注意・・)      ところで、”外部の物的な知識”の方で、どんどん置き換えていく、という支配的にな      っていく仕方は、土台 非常に粗雑な一般化からきているものでもあるので、人に不快      な記述をする、またはただそうしない、なども関係なく進んでいく・・という状況となる。        (ここまで2012 2/3)      そこに、”独我論”というものの生ずる理由があるともいえよう。というのは、      そういう相手に構わず押し付けられてくる”客観的”な記述と称するものに対して、      ”感覚与件”語法をもとに、個々人の”感情”を特別なものに出来るから。すなわち、      例え、どんな”科学的真理”なるものであれ、誰かがそれを肯定するよう仕向けてきて      も、”私はそれを好まない”という決定において、基本的には自らを絶対的に”正当化”      し、相手を”間違い”とすることが出来る・・という根拠がある。(2012 2/4)      勿論、”独我論”者自身がこういう根拠で議論するのでないし、所詮「・・日常的に経験      の対象と呼ぶべきものについての常識的概念の全てが壊されんばかり」p87になってくる      だけのことで、”独我論”などというものは、そもそも”客観的”というような立場あ      ってのものなのは明白だから。(とはいえ、こういう”独我論”において感覚与件を論      じるということだけに関しても、今に至るまで『哲学者』たちの書籍中で、その類の議      論がかなりの部分になるという現実は重要なのである。)      さて、一方、そういう「主観的」や「客観的」などとも言われるものが、「語」という      単位から、「私」という段階にまで、『青色本』でどう扱われているか?という観点か      ら、先の”表”にみるその連続性に注意してまとめてみる。〜(ここまで2012 2/5)      「主観的」と「客観的」、という問題。すなわち、「個人的体験」そして「人を取り囲      む対象」(いちおう外的事物とも呼びうる・・)ということが、どう言語に関係している      か?ということを言う場合、われわれの言語の営みの様々な局面で、むしろ、その2つ      が、一体となった各々の決定的要因として常に顕れていることが大事なのである。      常識的な捉え方は、何かどちらか一方が当てになると短絡的に思い、大きな混乱に、結      局、陥るので、様々な局面全体を、よく見て取れるように捉え直すのである。      そもそも「語」という単位からして、・直示定義・言葉の定義 というつながった2つの      側面があるといえる。すなわち、辞書的な”言葉の定義”だけでは、言い換えを行うだけ      なので多くの経験的知識を増やすのには役立つが、循環するだけでそれだけでは「語」は      成立しない。結局 最初の出だしは、指し示しに代表される”直示定義”という人間の      「個人的体験」を受け入れることに始まるのである。      このことは、次の”測定””学習”という局面を見ても同様なことがある。われわれは、      様々な事物の”長さ”を測り、外部世界の経験を増やして行くことが出来る。しかし、そ      の前に、測定の”ルール”や”表”が与えられないと何も出来ない。      ”学習”の局面でも、ある電気回路(p38)を作るように、脳に刻みつけ、いろいなことを      我々は学ぶことができる。ところが、その作業の前に与えられる”ルール”や”表”を”      なぞって”同じことが"出来る"ということ自体は、その前に学習したから出来る、という      わけではないのである。(ここまで2012 2/10)      そして、次の段階はそういった「語」が文章となるための述語部分となる動詞を含む場合      の話で、特に「望む」「考える」「理解する」「意味する」「知る」という”思考、信念      知識等の本性nature”(p83)とつながった動詞について調べることになる。すなわち、 実はそういった動詞は、使われ方にはっきりした境界がないし、例えば 自動詞的、他動      詞的という違った使い方を勝手にやっていたり、使う人の特定の目的や、その人の根深い      思考傾向で本当は全然別の使い方がやられていたりする。(p63〜4参照)      結局、”家族的類似”などとしか言いようのない輪郭の言葉というのが現実になる。      この段階は、単なる「語」の段階と違って、多くの語、より多くの外部的知識をも寄せ集      めたものになるのだが、      次の段階は、さらに規模の大きな”描写一般”が問題になる。(ここまで2012 2/11) 上の表の 5)          ・この部分は『青色本』で最も奇怪なような論述をとるところだが、しかし ここは『論考』に          おける命題の一般形式を論じている部分に相当する。それは、論理定項がある消極的存在で           しかないことを示す工夫であったわけで、一方『青本』では対象と事実という単純な関係が          とれないため、こういう思弁的な論述になって現れているとも云える。(この注は、2012 3/10)      すなわち、「キングスカレッジが、火事になっている」という話(p79参照)をしてみたり      すること(現実はそういう火事は起きていなかった)や、例えば 精密なボイラーを建造      するために、構造計算を含んだ設計をしたりすること、などを挙げていい。(『探求』466など参照のこと)      この場合、特徴的なのは、      こういうかなり複雑な、またむしろ日常的な話、描出といえるものにおいて、現実ではな      いこと、まだ現実とはなっていないこと、が われわれのそういう描出において多分に含      まれているのがかえってはっきりしてくることが判るのである。      こういう場合、”描写”は、事実と思考対象の対応によって成立していると単純には云え      ない。また、この類のことを通して考えるなら”似ている”ということすらも、何かが何      かの”肖像”とされることの、決定的な条件にならない。      そして、結局のところ”描写”を描写だというのは、そういう場合の”意図”だとするし      かない、即ち彼が”そう意図した”と発言する等の「個人的体験」でしかなくなるのであ      る。      こういう”言語的営み”の各段階における、「外的」なことと「個人的体験」の決定的      な関係をこのように確かめてみると、何かわれわれの”言語”が不安にさらされるように      も見えてくる。   「個人的経験について」または「独我論について」、『青色本』後      半で論じ出す重要な狙いは、それに対してのことだと解釈することも出来る。・・・一方の      「独我論」というものは、よりそのような不安定なものであるのは歴然としているから・・           (ここまで2012 2/12)      それで、『青色本』の話の方向は、今までの言語の単位の規模を追っていたのとやや別の      方向に向かって進むともいえる。すなわち、そこで      特に問題になってくるのは、独我論の「自分に個人的な経験があるのがわかるだけで、      他人にそれがあるのかどうかわからない」(p93)という文である。      「痛み」や「色」に関して展開される、こういう形而上学的命題に対して、その文法的混      乱を指摘することが大事になる。そこには      「痛み」に関して、物理的不可能性と論理的不可能性の違い(p104)があるのにそれを混同      してしまっていることがあり、また、「視覚」に関してもそういう言い方には「物理的眼」      「幾何学的眼」の混同があるのである。      そして、更にそういう主張をする独我論が拠り所とした「私」ということについても、結局      「主観的用法」「客観的用法」の混同による幻に過ぎないことが判る。 (ここまで2012 2/13)        〜以上が『青色本』の、色々と細かな話題を織り交ぜながら、一貫して、様々な形で微妙      に変形され現れる2分法的な対比で進められている全体の概観である。    (ついで      に言えば、昔 よくあったそういった多くの変奏の一つでしかない”語る、示す”だけを      ウィトゲンシュタインの哲学の本質のように語るのが、いかに変な誤解を誘うか想像はつ      くと思う・・・)特に、ここで云わんとしている問題の重要さが解りやすいと思うのは、始め      の方の「意味」「測定」「学習」の流れである。そして、表の区分で特に重要な問題をもう      一度、以下 各々補足してみる。            ・2つの主題を変奏していって、中間の複雑な部分を経て、折り返し、コーダをもったような             終わり方をすることなど、『青色本』全体がそもそも、明らかにベートーヴェンのソナタ的             なものも踏まえていると思われるのだが・・・そしてそれは『論考』もそうだということ・・(ここまで2012 2/15)                 「意味」「測定」「学習」について:表 1)2)3)     語の「意味」・・この場合、”定義する”という局面で、先のところで説明したように、     ハッキリするのは、循環的な”言い換え”だけではダメで、何らかの”直示定義”という     人間の行動と一緒になった過程が関わらないと語の「意味」が、成立してこないことである。     「測定」という局面が、次に『青色本』で特に出てくるというのは、「個人的経験」と「外的     事物」の言語における順序的な関係が、ひとつはより解りやすいということがあると思われる。     即ち、いろんな長さを調べようとしても、その前にそのルールなどを指示してもらってからで     ないとまともな測定が不可能なことは明らかということ。(勿論、直示定義でも、それが始ま     りでありそうなことは判るが)     そして、次の「学習」という局面では、その”ルールなどを指示する”ということが、     「外的事物」の、いわゆる経験的知識と全く区別される必要があることがより見えてくるとこ     ろなのである。(ここまで2012 2/16)     というのは、誰かが指している規則性をもった駒の動きを学習する時、しばらく見ていればい     いのであって、前もって”対称的な動き”とか”1つ飛び”とか自体を学ぶ必要は全然ない。 ただ彼が見たそのままに、空間的に真似をして駒を置いてみればいいだけのことである。     また、「このりんごは、赤い」というのと違い、「このりんごは、このりんご」というのは     何か無用なことを言っているということは、論理学の知識など無い子供でも、奇妙な表情でそ     う言うときに現われるものなのである。こういう”論理的空間性”というべきものは、理解そ     のものの前提、「そう見える」ということなので、学習によって学ばれる知識一般とは、重要     な違いがある。     ところが、こういうことが出来ることに関して、例えば、生理学的、神経的な原因でもって考     えようとするような類の混乱は容易に起こってしまうということが大きな問題となる。     問題は、数学的多様性の”対応”の問題であり、むしろ そこに根本的につながるのは、その     際に、示された規則、表に至る”理由”すなわち、その行為に至る道程wayを示すことになる。     また、ここにあるのは、     「性質fを有する命題が2つある」という命題が、           (∃x,y).fx.fy.〜(∃x,y,z).fx.fy.fz     というふうに表現されるということにも共通した問題だ、とも言ってもいい。(ここまで2012 2/20)     この変数と論理定項などを用いた表現で現れていることは、通常の数の表現の持っていることと、     全く同じ空間的な多様性が大事なのであり、以上の数・・5つにしても100にしても、3つがないと     いうことは無い・・ということであり、それは数える行為で見えることそのもの、でしかない。にも     かかわらず、ラッセル・・プリンキピア〜・・の場合のように、こういうことが何か”定義”であるよ     うにされてしまう。     ここには、その理解の前提として”論理的空間性”を用いておきながら、明らかに、何かそれ自体     を更に構成できるかのように、その衣装でもって容易に欺かれるという傾向があることを、特徴的     に示している。そして、それは脳の構成や神経、遺伝上の問題とする場合でも混乱している事情は     全く同様である。     というのは、事柄が明確になるのは「学習」するそういうルールや表を与えている者が、どういう     道程でそれを提出しているか?が決定的な問題になるのであって、それを個人的な問題であるよう     に思って、何かより抽象性の高く見えるようなことを探したとしても、まずそれは「ゴールのない     ところにゴールを求める」言語的な混同に基づいている。     すなわち、言語的には”ルール”や”表””数”といった論理的関係においてこそ、”個人的経験”     というものが、決定的な関連性を持っているのであって、別様にいえば、それはある具体的視点の     提出であり、むしろ、根本的にある”感情”でもある。(ここまで2012 2/22)     「学習」という局面においては、言語における”主観的”な契機と”客観的”な契機の違いがより     よく見えているが、それでも「意味」や「測定」の局面でも基本的には同じことがある。     即ち、ルールを与えたりする論理的側面はむしろ個人的体験としての主観的な側面といえ、一方の     経験的な外部的知識は、客観的側面というべきものがある。しかも、「学習」という局面と同じよ     うに「意味」や「測定」などにおいても、必要な”定義”にならないものが定義に容易に見えてし     まい、または”ルール”がそうでないものと同じように混同されるということが始終起こるのであ     る。     というのは、われわれの”理解の前提”がもたらすそういう区別とは、「学習」という営みを先の     ように観察するならある意味簡単に、重要な違いが認められるものだが、言語においてそれが根源     的ゆえに、あらゆる場面に広範囲に類似した言い方が錯綜して広がっており、むしろ、根本的に     多くの場合”言葉の上だけからでは”単純に判断できないものと考えるべきなのである。     すなわち、そこにwayが与えられ、比較するという”検証”が言語の本質から必要なのだというこ     と。(ここまで2012 2/23)       また『論考』的に言うならば、「本来の概念」は、関数によって叙述しうる。が「形式的概念」は、       関数によって叙述することが出来ない。(4.126より)・・といわれているような、ある意味 明確な区       別がある。そして、この問題は”外的、内的”(cf客観的、主観的)ともいわれる。 しかし、こうい       ういう”形式”についての問題(関係や概念といった)は「多くの哲学者たちが取り違えた内的関係と       外的関係」(4.122)の違いということについてのことでもある。更にまた、形式的特徴(内的特徴、構       造的特徴)は、一応論ずることはできる(4.123)が、ある形式がこの特徴を持ち、他の形式があの特徴       つなどといって区別することは出来ないし(4.1241)、そして、形式の特徴は当の対象が”それをもたな       を持いことが考えられない”場合その形式の特徴であると言える・・(4.123)というように消極的な規定       しか出来ないもので、また ここでの”対象”や”特徴”という言葉にはある対応的な用法の”曖昧さ”       があるとされる(4.123)のである。そこにおいて、ある”内的関係”が成り立つということは、”その       言葉のうちにおのずと現われる”(4.125)ということで判断されるということになり、また、記号言語       のすべてが適正になれば”正しい論理的把握を行なっていることを"感じる"(4.1213)”ことが出来ると       云われる。        ・・・という訳だから、『論考』においても”語りうるもの示しうるもの”の区別はとてもデリケートな       ことで、そもそも”示す”というのは単に”語らない”ということでは全然なく、言語が明確になるた       めには”その言葉を使っている際の状況を見ろ”ということなのである。『論考』の場合は、形式的な       概念といっても、”複合的なもの””事実””関数””数”といった論理学周辺の用語、科学数学の概       念までにほぼ切り捨てられていたので、より混雑する日常用語全体と絡むような概念のルールなどに関       して”wayを語る”ようなところまで行ってはいない。とはいえ、”wayを語る”とは自己弁護的な話を       そのまま真に受けるというのでは全くなく、その言語形式に至る人の行動経緯を見る必要があるという       ことなのだ。   (ここまで2012 2/27)     こういったことは、”架空”も含んだ「描写一般」の局面についても同じように問題になるので     ある。 ・・・以下 上の表の5)に当たる『青色本』の箇所の説明: そういう現実の複雑な日常言語の多くの表現形式には、心の働きの仮説や挿絵まで定着させられ     ているので(p81)、大きな混乱が起こってくる。     その代表的なものが、例えば「ナポレオンが1804年に即位した」と言ったとき、誰かが「アウス     テルリッツの戦いで勝った男のことか?」と聞き、「そう、私は彼のことを意味した。」と答え     る場合などから、こういうやりとりで、何か最初の発言でもう”アウステルリッツの戦いで勝っ     た男、という観念”が頭の中に存在(p79)しているはずである、とするような類の心の働きの     説を容易に生むということである。     そして、意味することや考えたりすること自体を人に”ある不思議な心的活動”(p79)に思わせ     てしまうことになる。     ところが、このことも言語の幾つかの局面で、私がこれまでしてきたような説明が一貫して可能     な問題であって、言語の使用する行動の契機と経験知識的な契機との混同が、不可解なように物     事を見せているのである。即ち、ナポレオンの始めのそういう話題をした場合に使用する一般的     用法は別にその語に関する全ての事柄と一致している必要はないのに、そのような外見を示す     な言い方(意味した・・という過去形の形で会話するなど)で誤った仮説や挿絵を持っているから、     何か頭の中に連なった”真珠の紐”(p80)のようなものがずっと存在していなければならないと     いう、不思議なことを思ってしまうのである。     同じことは、数学者の言葉使いでありがちな大きな言語的混乱を生む次の問題にも当てはまる。     (ここまで2012 3/2)          いわゆる”定規とコンパスによる角の3等分の不可能性の証明”に関して、”角の3等分につい     ての我々の観念を明瞭にするものだ”というような、ちょっと気の利いた風なよくある言い方は     に余りに無警戒にすぎるということ。(p83より)     この言い方も、言語の論理的空間的契機と経験知識的契機の混同をする典型的なもので、論理や     数理幾何は根本的に用法、具体的な使用において成立するものなので、そういう”3等分”の意     味が成立するのも基本的に”証明という"やり方"が出来てから”のものなのである。     そういう言い方では、3角形や3等分などという”形式概念”を”通常の概念”のように言う典     型的な言語的錯覚になるということを踏まえるというのはとても大事なことなのである。(”角     の3等分という観念”などというものが”証明”以前からずっとあったと思わせるこのような言     い方の類すべてについて・・)(ここまで2012 3/3)     ここでも重要なことは、「アウステルリッツの戦いで勝った男のことか?」「そう、私は彼のこ     とを意味した。」というやりとり程度なら、我々の話の”焦点”はちゃんと合った感じがするの     に、 ”意味した”から、そのやり取りの状況を忘れるくらい引っ張って考え出すと、途端に     話がぼやけ、それに関連する全てが韜晦したものに見えてきてしまうということである。     これは、”角の3等分”についても似たようなことが起こる。というのは、われわれに普遍的な     ものとは、単に感情的要素を排した最も一般的なことゆえにそうなるのでなく、日常言語の多く     の表現形式を作るデリケートな感情、行動による、心の働きの仮説や挿絵までも含んだ人間の具     体的事情そのものを、こういう最も根本的に見える問題の地点からもう共有していることからで     あることを示唆する。     このような日常言語においても、われわれの感情と主観的契機と客観的契機とともいえるものが、     普通の常識とは大きく異なる関連で捉えられることで、ずっと人を混乱させてきた諸問題を解明     しうることが判る。そして、このことは翻って、独我論者の特有の論法を考える局面でも一貫し     た視点を与えることとなるのである。                ・・・以下 表の6)以降の説明:     (そして、ここにおいて”見ているもの””世界””私”というテーマが現れてくる・・・)      (ここまで2012 3/4)        既に話しておいたことなので、今度は非常に要約的にあえて説明してみると     独我論者たちは、いわば”感覚与件”の考え方のユニークさから、結局 それを云う個体が違う     ので、他人に同じ「痛み」を感じることは根本的に不可能だ・・という風に論じてしまう。     しかし、確かに”基準”によって様々な”痛み”は考えられるものの、むしろ、それゆえに、他     人の身体や周りの物品に、その持ち方如何で、その中に”痛み”あると言えるわけだし、また     この場合の”同じ”というのもそもそも典型的な文法上の、”形而上学的言明(p102)”である     ことを忘れている。だから、”感覚与件”の考え方に、中途半端に常識的な生理学からくるイメ     ージを受け入れてしまっていることになるのである。     また、独我論者たちが言いたがる”他人と同じ色の感じ方をするのは不可能”ということを含め     た個々の”視界”の独自性についても、そもそも”視空間”において「物理的眼」「幾何学的眼」     が混同されがちであることを言う。そして、例えば 独我論者的な言い方「何が見えようと見る     のは常にこの私だ」「何かが見える場合常に見えているのはこれだ」という場合(p116)でも、そ ういうような話をするときの人物の動作に問題があること注目させようとする。すなわち、     ”「これ」と言いながら視野全体を抱えるような身振り”をしたりするようなことを伴う言い方     な訳であって、こういう動作で私自身の視覚世界という感覚が特別なものであることを示そうと     する。     しかし、使用を一切含まない指示は意味を持たないものだし、また 本当に感覚全部を表そうと     しているのなら、歩き移動しながらでもよいはずなのに、そういう場合こういう動作をまずした     がらないであろうことからも、結局 物理的事物の指示の仕方があるから、こういう動作として     混同が起こっているに過ぎないことが判る。(ここまで2012 3/5)     そして、こういう独我論者の論法は、「私」を強調することに大きな特徴があるのだが、       その「私」という語には、「主観的用法」「客観的用法」(p120)と呼べるものがある。            ・・・ 表の 9)     「主観的用法」は、「私は歯が痛い」などで、また ”見る・聞く・思う・しようとする”      ・・・、感じることが問題となっている場合であり、例えば、「歯が痛い」というのは      間違いがあり得ないという意味で”人間の認知”は問題にならないし、特定の人間に”つ      いての”言明ではない。  一方     「客観的用法」は、「私の腕は折れている」「私の身長は6インチ伸びた」など間違いの可      能性のある”人間の認知”が問題となる場合の「私」の用法。そして、特定の人間につい      ての話である。   ところが、「客観的用法」の場合、「私」と言うとき、その「私」という語に対応するものは明 白に自分の”身体”であるのに対し、「主観的用法」の場合は 「私」という語に対応するもの      が”身体”ではないというということもはっきりしているので、今度は指示しているはずのもの      を「客観的用法」の場合に模して作り出してしまうのである。それが”我々の体に座は持つがそ      れ自身は肉体のない何者か”としてのegoである。(ここまで2012 3/6)     「主観的用法」の場合の「私」という記号が、何も指示していなくても無意味ではないことや、     命名の問題、同型の表現移行の問題なども含めて、『青色本』のこの箇所(p120〜124)で論じ られるが結局のところ、この”独我論者の使う「私」という語”という局面においても、これま     での言語の様々な局面と同じく、その”主観的”な契機と”客観的”な契機を人は根本的に混同     しやすいものであることのヴァリエーションなのである。     この”主観としての「私」の消去”は、『青色本』全体の結論的な位置にあることは、既に書い     ておいた。(残り6ページは”だめ押し”もしくは”コーダ”) 後半の独我論批判において、     感覚与件の用法における、その”痛み”や”視覚”の私秘性をその混同の不徹底とした訳であり     、その上に、そういう”感覚”の属すはずの”主観としての私”も誤りとして無くしてしまった     ことになる。     ウィトゲンシュタインが、自らの授業用のテクストとして使い(多分に自己の哲学のある程度入     門書風な扱いであったのは歴然としている・・)この『青色本』全体は、わたしたちの言語全般、     全局面において、主観的契機と客観的契機の区別という端的な方法によって、それが混乱して捉     えられていることへの体系的指摘であった。このことは同じく、言語において主観的なものと客     観的なものが、ある一体として働いていることの指摘にもなる。(cf独我論を徹底すれば純粋の     実在論に合致する5.64)     独我論的な感覚与件の議論を前提としているのは、『青色本』という書のある便宜的性格なのだ     が、それでもそういった議論のある一般性は、ある意味”われわれのすべての感覚は重要なもの     である”ということでもある。ウィトゲンシュタインが『青色本』全体で示唆しているのは、独     我論的な感覚与件の論法の混乱と”属させているもの”としての主観の「私」の消去”によって     、むしろ すべての言語の局面において、使用における行動と感じからなる用法とそれによる経     験的知識自体こそが、本当に正当化させるものであることとなる。これは、更に別様に言ってみ     るならば、全ての”主観的”見解も、その表現形式(態度)も併せて見るならば、むしろ”客観     的”であるということにもなるのである。       (例えば”態度”というものを人の行動と表情、感じ等からなるものとすれば・・)(ここまで2012 3/7)                     ・『茶色本』の『青色本』との違いは、この独我論的な感覚与件の前提に頼らず、話を組み立直していることで            あり、実際 『青色本』での多くの主要なトピックがバラバラに散らばり、少し変わった形で再び出てくる。                                                (この注は、2012 3/8)                      『青色本』に含まれる、こういうような発想が極端なことに受け取られる人もいるだろうし、ま     た、私もこういう面をも取り出して明確化するには、幾つかの論点を補強しなければならないと     考えるが、それでもこの話の段階でも、暫定的には非常に興味深い帰結を示唆することになる。     例えば、人類の様々な文化様式から生まれたものを、われわれはそれを”芸術”として鑑賞し、     捉え並べて観たりすることに根本的な必然性を与えることや、また”科学”の発展の過程を詳し     く顧みたりする場合にも、こういう発想は、非常に自然で有効な指針となるということ。(ここまで2012 3/8)     このことは、『哲学探究』の2部IA(全集p458)での次の記述と一緒に考えてみる必要がある。       「概念形成を自然の事実から説明することが出来るならば、文法の代わりに”文法の基礎”になっているもの      としての自然・・ということに関心を持つべき。それは”諸概念”と”きわめて一般的な自然の諸事実”との      ”対応”である。(”概念形成の可能な諸原因に逆戻り”するのではない)      ある極めて一般的な自然的事実を、われわれの慣れた様式と違った風に表象することで、      普通思われているのと違った概念形成を考えうるようになる。      一つの概念は一つの画法と比較できる。      例えば、エジプトの画法を近代西欧の画法と比較すると、われわれは単に”好み”で西欧風      を選んでいるのか?また、それは”きれい醜い”だけが問題なのか?・・・(以上概略の記述。原文参照のこと)」          ”文法”というものも、その特徴を語る、というように基礎となっているものを論じることは出     来る。それは人間の生活の自然の事実から、概念形成や文法を論じるということになる。正し、     それは、自然の諸原因から論じていくのでなく、むしろ、人間生活の全く当たり前の諸事実との     対応を論じるということになる。そういうやり方で、エジプトの平面的な絵画の表現形式と近代     の遠近法的な表現形式を論じることが出来る・・・というふうに、この『探求』の箇所は補筆して     言い直すことが出来る。また、     先の「全ての”主観的”見解も、その表現形式(態度)も併せて見るならば、むしろ”客観的”     である」という『青色本』から示唆される発想も、この『探求』の問いも含め展開されれば・・     ”表現形式”は、人間の自然的生活(諸行動、諸生活相、様々な顔、表情・・)によってそれに     各々一体となる形で分布されているものだが、また、その”表現形式”の持つ言葉自体では、自     身の自然の事実における位置関係(原因でないものとしての”位置”)を論じることは根本的に     出来ない。・・・     ということになる。このことをもっと解明してみよう。 (ここまで2012 3/12)      ところで、「表現形式」といわゆる「個々の主観的見解」とは、個々の描く誰それの”肖像”     という意味からも、また『青色本』全体の主張からも、近いといえるのだが、「ひとつの体に     棲むegoという考えは捨てられねばならぬ」(『個人的経験および感覚与件について』全集6     p321)と言ったり、「他人の考えていることは判るが自分の考えていることは判らない」     (『探求』p)と言っているウィトゲンシュタインが、そもそも個々の人間の間の”見解の違     い”、またはパースペクティヴといったことを直接どう論じているかということはやはり触れ     ておく必要がある。     それは、二次的資料になるが”ヴァイスマンのテーゼ”において、アスペクトという概念が、対     象を論ずる中で言われていることである。 (ここまで2012 3/13)         「日常言語は、仮説の一体系を用いている。日常言語はその際、名詞を利用するのである。         アスペクトは、空間的かつ時間的に、相互に関係し合っている。対象とは、アスペクト         が、相互に関係し合う様式なのである。対象とは、ある仮説によって表現されるところ         のアスペクトのつながりなのである。事柄を明瞭にするために1つのモデルを考えよう。         対象は空間の中にある物体に等しいとする。この場合、個々のアスペクトはその物体の         切り口である。・・・」     勿論、これはLWも二番煎じといった「ヴァイスマンの解釈」による手記からの記述だが、この     問題に注目して、このようにかなり長く書いている部分(全集5 p367〜372あたりまで)は、     他に見当たらないし、本人との対話の内容と一致する部分も多いので参考になるところがある。                               (ここまで2012 3/15)     このアスペクトといわれたりする問題は、とても重要になるが、後でまた十分扱い直すものと     して、今は先に述べた『青色本』の示していることをより浮き立たせるために、出来るだけ簡便     にして補助となるよう、ここでは使ってみることにする。(ここまで2012 3/16)     直接は物理学に関してではあるが、(同じく全集5 p229〜31)には 本人自身の発言で、上述     の”切り口と仮説”という話がほぼ同じように展開されている。(もちろん、これもヴァイスマ     ンのメモによる資料で、詳しく言うなら翻訳もいろいろ問題もありそうなのだが、ウィトゲンシ     ュタイン自身の話として、十分 一貫性がありそうなので、一応良しとしてみる・・)      ”・・我々が観察するものは、仮説の「断面」であり、しかも本質的に種々の断面なのであ       る。即ちそれは、ただ単に種々の場所、種々の時での断面でなく、種々な論理的形式を       持った断面であり、それゆえ全く種々の事実なのである。我々が検証できるものは、常       にただ一個のそのような断面なのである。・・・p229”     まず、判りにくい”断面”であるところの”種々の論理的形式”というのも、その後に挙げられ     た例・・迫ってくる球体を2つの触手などでデータを得る生物p230参照・・・で具体的に考えること     が出来る。     この場合、触手の角度と距離で球という仮説を得ることの他に視覚で二次元的な円の連続でも得     られることになりうるので、例えばこういう2つの感覚によるものが各々”論理的形式”と呼ば     れているものであり、典型的にはそれらから得られた経験を結合した、”球である”というのが     ”仮説”の実例になる。(ここまで2012 3/18)     そして、この文で重要なひとつは、この”論理的形式”を持った、ただ1つの”断面”であるも     のが、”検証できるもの”という、”検証”への言及である。     この”検証”についても、同書(全集5p64)に簡単な例が挙げられている。     ・・・「箱の上のあの高いところに本がある」という文を検証するときは、私が注視する。あるい      は、それを色々な方向から観察する。また、それを手に取り、触り、ページを開き、あちこ      ち拾い読みする、などをするということ・・・         この本文は、少し微妙な文脈で書かれているにせよ、以上のことを普通には”検証”というこ     との具体的な例として考えて良いだろう。しかし、ウィトゲンシュタインの場合、単純に確実     な外部のものとの関係を付けることでよしとしてしまうのではない。(そのことは私も正しい     と思う・・)。この場合のように、結局 感覚による受容形式(この場合、論理的形式ともいえる)     を一々確認していくことは重要なことだが、再び小分けされるだけともいえる。むしろ 検証に     おいて注意しなければならないのは”空転する歯車”ということである。(実際、先のp229の話     でも、p64の話でも 共通してすぐこの”空転する歯車”という話題が続けられる)(ここまで2012 3/20)     先の”迫ってくる球体”の例ならば、視覚という論理的形式の歯車が作動している時であって     も、触覚の歯車が止まっていたり空転していても、球が遠くにある時ならばそれは正常な動作     である。ところが、その機構が本当に変な位置に付いているものゆえに、空転しているときと     その時は区別がし難い。(私が後ろをむいた時常にストーブは無くなっている。という説もあ     る意味、正当な説として機能・・歯車が動く・・しているように見えるみたいなものである。全集     5p65参照)     だから、検証というのは、いくつかの論理的形式を比較、関連があることが見えるようにまで     提示される必要がある。そこで「我々がただそれの構文法を理解し、かつその空転する歯車を     弁別するやいなや、我々の言語は秩序あるものになる。同p65」     さて、こういう個々の断面である個々の論理的形式の結合によって、われわれの物理的な言語     の秩序が出来るわけなのだが、個々の断面自体はお互い全然別のことを言っているように一見     思えるのにもかかわらず、その適正に選んだ論理的形式の関連を含めて考えるなら同じ秩序を     持っていることになる。(ここまで2012 3/21)     そして、この”秩序”と、p65引用文で言われていることは、先のp229の引用で言われている     ”仮説”でもある。仮説とはむしろいわゆる”普遍的原理”でもある・・p231もので、物理学の     方程式も仮説・・p229である。     ”我々が観察するものは、仮説のいわば個々の「断面」であり、しかも本質的に種々の断面な     のである。(p229の5行〜)”といわれる関係を、持っている。また、別様に言うならば、     その仮説とは、”種々の仕方で投影される3次元の物体に似た”ものともいえる。     物理学は”仮説”である・・というのは、割と有名なウィトゲンシュタインの主張なのだが、そ     の”仮説”は”言明”と文法的区別があるからで、特に物理学の果てしなく未来を指向する特     徴に対してのものである。     ところで最初の”ヴァイスマンのテーゼ”の引用部分でウィトゲンシュタイン自身の文章に     ハッキリとは余り出てこない主張が、日常言語が名詞において仮説の一体系となっている・・     といったところになる。(ここまで2012 3/22)     だから、先程の”断面””論理的形式”の物理学についての話が、”テーゼ”においては、     日常言語全般の話になっていることが、違いになっている。( 結局、名詞に対応する対象が、     物理的な世界観においてなら、”投影される3次元の物体”にあたる。・・)     物理学的な記述は”仮説”であるなどというと、日常言語全般と根本的に違いがあるとされて     いそうにも聞こえるが、むしろある場合の表面的な違いというようなもので、日常言語の言明     も、ある意味仮説によっているし、物理学的記述もそっくり言明と呼んでもいい場合もあるの     である。ただ基本的に、未来に進行的なのが物理であり、人間が勝手に決めていい言明的なの     が日常言語と考えて良いと思う。     そもそも『青色本』全体をここまで見てきてもらったことからも また、端的には、”語ある     いは命題を理解することはある計算をすることである”(全集5 p242)とまで発言すること     から判るように自然科学的なものと人文系のものを”論理”において同等に扱おうとするのが、     むしろ 基本的な意図であることは明らかなことである。     (一方ウィトゲンシュタインが、必ずしもこの問題を直接論じたがらない理由もまた想像つく     が・・)     だから、ウィトゲンシュタインのp229での引用の発言をそのまま日常言語全般に適用してみる     ことは、”テーゼ”での記述も兼ね合わせても?、本来無理のない応用ともいえよう。       (ここまで2012 3/23)     このp229〜31での本人の”切り口と仮説”の話で出された先の例において、論理的形式をもっ     た断面である”触覚”は、迫る球体を示す角度αや距離aなどの数関係を持つ表現形式とも言え     るが、これは様々な論理的形式のひとつである”観察”のひとつの形なのである。     だから、日常言語において様々な人の観察における記述は、その論理的形式に相当する。ただし     そういう断面としてのそれは、より一般的に表現形式と呼ばれるべきであろう。(『論考』で     は、あっさりと使われている”論理的形式”という言葉は、実はかなり重要な言葉で、”形式”     という一般的な言葉に対して優位的に用いられている。即ちそれは”論理的でない”形式・・こう     直接的には書かれていないが・・に対置して論理や科学を含み込んだ”形式”という用語になって     いる。) (ここまで2012 3/24)     日常言語の”秩序”とアスペクトの問題。即ち、個々の”断面””切り口”であるところの、     個々の観察の形式としての表現形式がどう関係しているか?という問題を、より具体的に考えて     みたい。とはいえ、     ヴァイスマンの”テーゼ”(論考の解説)には、「個々のアスペクトを記述しようとすればそれは     途方もなく複雑なことであろう」と書かれているし、それもまた確かなことだが、一方先のウィト     ゲンシュタインの挙げた球体と触覚視覚の例のような風に、表現形式一般でもやってみることは可     能なようにも思う。     ウィトゲンシュタインで常にあり、様々な言い方で主張される特徴的な方法のひとつは、”手の届     かないものは元来哲学に属さない”という発想である。これは『論考』ですらそうなのであって、     問題となっているのは基本的に日常言語で話題となるような我々の引っかかる事柄を整理して解明     することが大事なので、別に誰も知らなかった原因を見つけだしてこようとしたり、万人が驚くよ     うな整然とした秩序の外見を作りだそうとすることではない。そして、それをふさわしいやり方で     ちゃんと抑えて十分言い表すことこそ、本当に非常な努力がいる。     だから、表現形式の例として、ちょうど先に引用した『哲学探究』の2部IA(全集p458)の     ”エジプト人の画法”と”西欧近代の遠近法的な画法”の例は案外、見近なものともなるだろう。      「-ある種のきわめて一般的な自然的事実を、われわれ慣れているのとは違ったふうに表象       してみるがよい、そうすればふつうとは違った概念形成がその人にも理解できるように       なるであろう、と。一つの概念を一つの画法と比較してみよ。・・・・(例えばエジプトの       画法と)・・・」     ”概念形成Begriffsbildung(概念を形作るもの、cf形式を与える概念=形式概念と通常の概念 との区別)”を”きわめて一般的な自然的事実”から説明すること。”表現”としての”概念”、     ある表現形式としてのある”画法”。(ここまで2012 3/25)     もちろん、この場合 まず描写全般として表現形式との関係を考えてみることで、日常言語の表現     形式へ近づこうとすることなのである。     では、”触覚”のようなものとして、”エジプト人の画法”を考えた場合も、次のことなどが普通     には挙げられるだろう。     常に真正面の胴体に側面向きの頭部、脚がそのまま付けられる人物像。そういう登場人物の大きさ     は、そこでの重要度で決まり距離感と関係ない。かなりカラフルで、稚拙というより結構”手の込     んだ”ものだが、常に類型的な形にしようとする。背景や人間以外のものも平面の上に配置される     というやり方。・・・等々     こういうことから考えうる、”エジプト人の画法”的な表現形式においても、断面としてわれわれ     のありうる”秩序”の検証はなされ得る。ある特徴ある鳥の羽毛の色や仮にある地理的状況を描い     たような絵がある場合、そこから見えるの山の数などといったものは、正や誤があり検証されると     いう意味でもこれは一つの断面になる。しかし、また仮に中に描かれている家具や建物のようなも     のを実物で再現しようと思っても明らかに当てにならない。(ここまで2012 3/26)     一方、精密な遠近法で描かれた画像であるなら、先の画法と比較すればずっと設計図と同じような     役割を果たしうる。このことは、先の”迫る球体の例”で言うならば、触覚のソレで感知できない     遠くの領域でもその存在位置を検証しうるのが、視覚の論理的形式を備えたものであったのとやや     似た形で、空間的位置をより広く詳細に平面に対応させ、検証し得る画法の形式が、西欧式という     ことも出来る。     ここで、こういう西欧式の画法に対して、その”きわめて一般的な自然の諸事実”との”対応”と     いうもの(『探究』p458)も論じうるであろう。例えば、われわれの生活の様々な諸技術を一貫し     た方法もしくは多くを共通させる方法で記述しうるということは、それだけで社会の人為的作業の     全てに渡って無駄を省いてくれる可能性があるということに、この”遠近法的画法”は関連がある     と考えることもできる・・ということなど。     即ち、力学の方法などとも共通する、空間上の位置と詳細に対応する記述方法と、今日の我々の生     活を成り立たしめる諸道具などの生産には明らかな関連があり、こういうことを含めて、我々の自     然的な生活がどのように変化してきたか比較すれば、その変化に対応するものは示される。     しかし、また ここに「進歩の仮説」のみを見ようとすることは、人が原因ばかりを追おうとする     近来の傾向の典型でもある。そして、それは言語の働きについてのある混同に過ぎないのである。     人間の生活の自然の諸事実”全体”に、その表現形式がどう対応しているのかみる必要がある。             (ここまで2012 3/27)     ”エジプト人の画法”的な表現形式において、目に付く人物像の正面と側面の一緒になった固まっ     たようなポーズの類型的表現は、矢印みたいな方向を表す記号のようなものに似ている。 そして、     多くの人物のいる作業風景が描かれた、しばしばあるタイプの画などでよりはっきりしているよう     に、実物の空間に関連させることなどでなく、むしろ平面内の揃って秩序だった人物の方向性を描     くことに主として関係したものであるのは明らかなことであろう。(表しているものが端的に判る     典型的な形、そしてその顔、足よる”向き”)            (ここまで2012 3/28)     また、描かれている事柄の”重要度”を”大きさ”で示そうとすること位、我々にとって直接的な     ことは無い程のやり方である。文章を書いている中、特に”注意引きたい場合”、その文字を大き     くしたりするようなものである。(遠近法でも、そう描くことも出来るが、全てがそうならない場     合が当然ある)     また、描かれた人物を向き合わせたり、ある対称性に描き、全体に循環していくようなシンメトリ     ー的構図は”エジプト人の画法”において目立つ傾向でもある。     川や船、空の太陽や月、人々の農耕や儀式・・etc、そういう様々な事柄について、特に描かれた人     物等の”方向性”と”重要度”の構成によって、天体と気候、自然、人々の作業、植物や動物との     関係などにわたって、人間の生活に必要な安定した秩序を特徴的に描き出すための表現形式・・と例     えば考えることも出来る。(人物の体が正面向きなのは、階級を表す衣装が描きやすいため・・と言     われることがある。)(ここまで2012 3/29)      ・古代エジプト絵画の実例を挙げるとすれば、適当なものとして・・・ネットでもいろいろ拾えるものなどは、・・・     ここで問題となるのは、こういった描出は、遠近法の空間的詳細な描出と同様に、我々の生活の     自然的諸事実に対応したものになることである。先の”迫ってくる球体”の例の場合、”触覚”に     よる形式からの得られるものと”視覚”の形式から得られるものは、共に座標系の位置が問題にな     っており、そういうことから連続的に動く球体の仮説が2つの断面から作られる。しかし、触覚     では単なる”位置”だけが扱われるのでなく、本来”触感が良い、悪い”などといったことも非常     に大事になる形式なのである。ここに”空転する歯車”の難点も関係している。”原因”を求める     傾向が強すぎると、一般性、抽象性を持つものこそ全てのように思われ易く、例えば 視覚の位置     データで”触覚”の機能は果たしていると思ってしまうが、実は重要な部分で空転出来るだけなの     である。(ここまで2012 3/30)     こういう関係は、”遠近法的画法”と”エジプト人の画法”みたいなものを、西欧近代”的な”人     物が見た場合、抱きがちな経験にそのまま当てはまる。     われわれが日常言語に必要なものは、そしてまた、われわれが”描写”において必要なものは、特     定の”人間の生活の自然の事実”ではなく、”人間の生活の自然の諸事実”全体なのである。     それゆえ、そういうものは、日常言語の様々な文法、概念形成を基礎づけうるようなものになる。     ”遠近法的画法”の大きな難点は、”人間の生活の自然の諸事実”全体を上手く見通せるように切     れていない、ある”断面”に過ぎないのに、むしろ当然のごとく決定的で包括的なもの、に思われ     易いことがある。それは”自然法則”が、自然現象を”解明Erklärung”するものと思ってしまう     のに近い傾向である。(参照『論考』6.371&2)     我々の持っている自然の”現象”は、いわゆる”自然法則”と全然違う。”太陽が明日も登るであ     ろう”というのは、”迫ってくる球体”と同じく一つの仮説なのであり(6.6311)、それは”自然     法則”によって得られているものでは全然ない。それは様々な表現形式が結合されて生まれている     ものであるゆえ、それぞれをちゃんと満足させるように切ってやることが、そのことについての本     当の”解明”になる。かっての世界観が神や運命に対したように”自然法則”を犯すべからざるも     のにしているようなものが、今日の世界観だが(6.372)、かっての世界観の方がましなところがあ     る。かっての人間の方は、人間のやり方に不足があることはよく解っていたが、今日の人間は全般     に、”自然法則”、科学の方法、自体に根本的な限界があることを未だ理解できていない。     ”エジプト人の画法”のある種の”素朴さ”は、言語に必要なもの、描出に必要なものの前に自然     に立ち止まらさせるが、近代的な”遠近法的画法”の場合、それが”自然法則”そのもの、真理そ     のもののように引っ張りがちなので、(どうしても違うものを求めようとすると)逆に それを捨     てれば良しとすることぐらいしか思いつかなくなる強い傾向を生んだりもする。(ここまで2012 3/31)            ・この近代的な”遠近法的画法”と”自然法則(特に、力学法則)”のもたらす難点との類比的関係は、             ”調性音楽”との関係にも、そのまま当てはまってくる。というのも、この3者の発想は根本的に同             じようなものから来ているとも言えるから。また、この話は、当然、”非具象絵画””無調音楽”だ             から、つまらない、質が低い・・などということではない。(追記 2012 4/7)                       ・この上6行のうちの括弧内の若干の補足は、2012 5/04に加筆。     我々の言語的な世界は、あらゆる方向から”局面”として切り取られ得る。すなわち、実に様々な     ”観察”をしてみることができる。”論理”はいわゆる”主観的なもの”の契機、”見る”行動自     体の中のものなのである。しかし、そこに殆ど常に重大な混同が生ずることになる。どのような切     られ方にせよ、どういう”観察”どういう”断面”であるのか?というのは、「意味」「測定」     「学習」など、どんな言語の段階でも”論理”の側からそのまま語りうるのではない。しかしその     ”特徴”は論ずることは出来る。様々な表現形式によってえられるものを検証してみる。種々の曲     がった線分を相互に結合して楕円であったことを知るように、種々の断面を十分提示されるように     して、その比較を行い空回りするところを明らかにして、自らの表現形式が”人間の生活の自然の     諸事実”をうまく見通すところで、自らの行動として、切ってみること。     (科学で肥大した現代のこの複雑な言語というものに対して、例えば『論考』の”論理的形式”      というものはいわば、”上手に切った断面”になるのである。)     民族学的に収集された絵画といえるような多くのものは、嫌悪の感情であろうが、それはわれわれ     の心を捉える。それがどんなにかけ離れた土地の違った時代のものであっても返って、身近な感情     を抱くことは珍しくはない。最初はどんなに不思議な画法に見えようとも、西欧画の優れた画家が     単なる遠近法の構成を何とか工夫して信ずるに足る様々な要素を取り込もうとしているのと同じよ     うな努力を、そこに感じることが出来る場合もある。     多くの民族の言語が、大体翻訳可能なものであることを、一般的に今日の人々は疑問に思っていな     い。とはいえ、このことは非常に重要なことである。(ここまで2012 4/2)     また、人が初めて言語を学ぶ過程は、どんな場合でもそんなに変わりようがないというのは、歴然     としているように思える。動物を訓練しようとする場合も、どんな民族だろうと基本的に似たよう     なことをするのであって、そこには別に固有の言葉はほぼ関係ないし、定義から人はしゃべるのを     学ぶ訳では無い。(下記『探求』206 p164)こんな最初の重要な時点においてもそうなのだから、     言語活動全般にこういう仕組みが深く関わっていることを無視する方がおかしな話になるのだ。       ・「・・指示連関の体制こそ、人間共通の行動様式なのであり、それを介してわれわれは未知の言語を          解釈するのである。」(全集8のp164あたり参照)     名詞は、言語の体系の中で実は大変複雑な事情で成り立っている。にもかかわらず一見対象との単     なる結びつきからのものであるように思われ、また それを支える通常の文法は、文法といっても     、動詞や形容詞、接続詞などと区別されるだけといった程度の扱いがされているに過ぎない。        (ここまで2012 4/3)     しかし、本当はそれは特定の”用い方”と深く結びついていて、そうした場合の命題群以外では文     法的なナンセンスに陥ってしまう。そこには重要な区別(深層文法)が必要なのである。とはいえ     、人各々の”用い方”との関連を問うなら、それこそ全く一見無秩序なくらい規則が必要になって     くるようにも思われてくる。これに対して特に名詞と対象が対応するという考えは、そもそも一定     の強い恒常性があることを意味する。(前記部分 全集5p371参照)そこに一方で、人が言語を得る     過程の根幹が何かとりわけ違ったこともないとして また、各々の”用い方””言い方”が一種の     各々の”観察”でもあるとするならば、やはり、同じ立体形を様々な方向から眺めているようなこ     とになるのである。     即ち、ある言い方では、”丸”になるものが、別の言い方では、”楕円”であり”三角形”でもあ     ったりすることが、各々すべて”正しい”ということも別に不合理ではない(”円錐形”がそこに     あるときのように)ことになる。さらに、もっと複雑な形態でも、ある言い方から別の言い方に移     行する連続的な変化を捉えたり、様々な対称的な言い方からの比較で、新たな視点からの”言い方”     をある程度予測しうるようにもなったりもする。それは断面によっては全貌がかなり捉えられる切     り口、言い方を得ているということにもなる。そして、ここで大事なことは、そういう元の形態が     大事だとはいえ、それはあくまで”仮定”の存在であり、”検証”に結びついていることとして     そういう様々な”言い方”表現形式こそが、一種の客体性をもってあることである。  (ここまで2012 4/5)     実際、このことは”画法”について考えてみることが、そもそも こういう言語上の問題がどうい     う類の捉え方を必要としているのか?が判る。     例えば、先の”古代エジプト人の画法”といったものなどを、ごく簡単にしながら、その”特徴的”     な形態の変化の可能性に注意して見ていくことが出来る。     まず、そこでの”人物像”の扱い。明るい色調の画面の背景の中で、はっきりと大きく描かれた人     物の固いパターン化したポーズの人物は、隣接的なクレタの壁画の場合 流動的な動きの人物に変     わっていることが判るし、また、初期の古代ギリシャの人物像でも人間描写にもっと関心がある形     になっている。この個々の人間への関心の傾向は、古典期のギリシャ、ヘレニズム期、古代ローマ     の典型的にリアルな筋肉質の人体描写、その強調・・に至る連続的な変化といえるようなものがある。     (そして、それらは、彫像等、代表的な出土品の実例で示しうる。)一方、     ”古代エジプト人の画法”が、端的なまでに示している方向、大きさなどで描く、位置、環境全体     の安定性は、そちらの地域では乏しくなってくる。(古代エジプト絵画のある種の”楽園”風なと     ころと、異様なまでに型にはまった表現の両立の特徴・・・)     背景、環境との安定した位置関係といえば、むしろ 遠く離れた中国絵画全般の傾向がある。正し、     こちらは人物は大体小さめで、個々の人間の体の線は現れない着衣の人物が基本になる。また、風     景に対する独立したような関心すらもともとある。(ここまで2012 4/6)       ・ ついでに付け足しておくなら、建築や絵画における特別な”シンメトリー”への傾向を挙げると          古代エジプトと中国の視覚的造形のある重要な類似性に同意してくれる人は増えるかもしれない。          また、当然 両者が言語記号において一般に事物の具象的な形を強く残していることからも、そ          の言語を用いる様々な行動で似たような傾向を生んだとしても、不思議なことでないと思える。                        (この追記は、2012 11/21)        ・以前「建築や絵画における”シンメトリー”への強い傾向」となっていたが、”エジプトの循環するようにシンメトリーを強調する傾向”と考えた方がより         正確にもなるだろうと思ったため、(さらに上の3月29日の関連する記述も同様にやや修正した)今回、数語補ってみた。(2014年1月19日にこの注を付加)              ・以上の、こういう”書き方”は、典型的な”家族的類似”の実例と考えることが適当であるだろう。       ”中国絵画や美術”という概念に当たりそうな全てのものを考えればきりが無くなるが、誰でも知っ       ているような実例の幾つかの比較をして類似性の変化を考えるということなど。例えば、始皇帝時代       の兵馬俑と呼ばれるものの中での人物像の大きさ。漢時代の同様なそれは、比較すると小さくなって       いるが、むしろ こっちの方の人物描写が大体の時代でより一般的かもしれないこと。(逆に、また       例えば、ごく最近 文革の頃の人物の描かれ方に近くないかと見比べてみること、それは”例外”的       な扱いをするべきかどうかという問いにもなってくるetc・・・)また、南宗画の代表的なものを見て、       それがどの程度、中国絵画全般的表現・・風俗画、陶器などの上絵に見られる特徴も含め・・傾向が一致       するか見てみること。同様に、同じような目的で描かれた別の地域・・西欧など・・のそれと比較して考       えてみたりすること。サンプルを増やしていくことが、正確さを高めるともいえるがただ増やすので       なく、このような説得的な操作でもって”見て取れる”範囲に収めるということの根源性。                (この注 2012 5/5)            また、ここでの”安定した”という言葉。例えば、この場合、”永遠性”と代用できるような言葉と      して考えてみたりする。そうすると、また少し違う類似性が生まれ、ある共通な特徴が見えてきたり、      (先の古代エジプト美術などと)一方で 何かが消えてしまったりする。      こういう考察の仕方を、”曖昧なもの”と考える前に、そもそも本質的にこういう問題というものは      結局、そういう扱いの中でこそ自然な意味が生じていると捉えられないか?実行できない”架空の正 確さ”という事実は、ある物事の必然性が見える。      (・・ありふれたコーヒーの味を1ダースの種類に分け、各々に特別な形容詞を付け、識別できるよう      な訓練を施す。不可能ではないにせよ、既に何かが”転倒”しているような感じはないだろうか?et      c・・)曖昧は、明瞭さと対比されてこそ有意味性を持つ。この場合、本当に明瞭にしてくれるものは      何か?それは、決して多くの人の口に簡単に浮かんでくるようなものでない。      それよりも、しばらく、こういう考察を続けて”一回り”させてみようということ。(ここまで2012 5/7)      牧谿や董其昌に見られる風景画は、朦朧とした広大な景色であったり、連なる山々や森林をうねるよ      うな線で描いたものが特徴的だが、それは何かそこにある個々のものを描く、というより描き手の受      けたある”雰囲気の描写”といった方により近い。だから、それらは”ずっと昔の記憶の中の風景”や      ”夢の中の風景”という感じのものになる。(ここまで2012 5/9)      もしくは、こういうことは、筆や布、紙、墨など・・・といったものの特質からくる、素材自体の感覚      (その液体状の画材の流れた跡、色の変化、といったこと)が、風景の印象に”置き換わった”という      ふうにも言えそうだが、一方で、そういう風景画は、こういった”記憶”や”夢”といったようなトー      ンで覆われるため、それは建前として人の外部にある事物の描写でありながら、むしろ、人の内部の事      情、ある感情に全画面として関わってくるということがおきている。すなわち、その画全体が、風景で      ありながら、むしろ、ある表情として描かれている。      こういう”何かある個々のもの”を描く、というよりも画全体の”表情”というべきものが重視される      ような描き方(造形)の傾向、は翻って見直すと、そもそも先の”古代エジプト美術”と隣り合うよう      な位置の”古代オリエント”の方面にみられるものに、関連が見出される。      例えば、ペルセポリスでの列をなして並んでいる横向きの人物像のレリーフは、一見すると古代エジプ      トの墳墓の中の装飾品や壁画の表現と、余り変わらないようなものにも見える。(ここまで2012 5/12)      しかしながら、ある種 よりリアル?なような人物表現がある、一方 その重々しさと冷たい厳粛さの      感じ・・は、特徴的で印象に残る。そして、そういったことは、ここ辺の大河を中心とした地域、その紀      元以前の非常に広い時間の、また実際は様々な系統であるといわれる”民族”の作り出した産物の出土      品に、かなり共通して観察しうることなのである。(ほぼ同様な、古代エジプトのそれと比較して)      ウル、ウルクの遺跡、バビロン、アッシリア、ペルシア人の帝国・・etcよると言われる様々な装飾品、      彫像や石碑にみる人物表現にもある程度みられる、わかり易い端的なものは、特徴的な強調されたヒ      ゲの表現、重々しい衣装、帽子?そしてその反面ともいえる身体、体つきの表現の控えめさ(エジプト      の全般的な傾向に対して)、などということに、まず着目することができよう。(ここまで2012 5/15)      もちろん、王と幾人かの人々の浮き彫りの刻まれたアッカド王ナラムシンの戦勝記念碑などの、割と人      物の肉体のラインがはっきり見えるような類のものなどは、当然ある。ところで、こういう人間描写全      般について、ある種の関連をもつ次のような問題を考えてみることは興味深いものがある。      例えば、自分が、同時に2つの身体を所有している場合を人は具体的に想像できるであろうか?(『哲      学的考察』全集2p114など参照)・・・自己の経験の殆ど全ての前提を混乱させるに違いないと思われる      ようなこういう仮定を現実的なこととして”想像すること”の難しさ(結局、それはほぼ論理的可能性      の拡がりを求めてみること)自体からも、人のすべての経験がいかに個々のひとつの具体的身体と結び      ついて成り立っているのか、端的に示唆されるところがあるのである。      この奇妙な問いを、いくらか似たことに置き換えてみることは、この問題に我々がもっと近づけるひと      つの方法であるように思う。 人が同時に2つの肉体を持てない、という場合の状況設定をどう真面目に考えたらよいのか?というの      をそのまま詳しく論じ出すと随分厄介になってくる。それで、人は同時に2つの”顔つき”を持てない      、ということに置き換えてみるならば、ある程度 手短に見通せる問題になってくるだろう。その場合      、大概の場合は、このことは十分まともな正しさがある主張と認められるだろう。      というのは同じ顔の筋肉の位置などは、当然同時には一つの位置しか取れないということがまずあるか      ら。とはいえ同じ表情でも受け取り方は様々である・・とはよく言われる。しかし、このことはかなり別      なことなのであって、人は相手の顔つきの微細なことに実は大変敏感に反応するし、違った反応をした      としても認識しているものの状態が人によって大きく食い違っているというのとは、明らかに別である。      一方、そういう”顔つき”とは違い、”身体のポーズ”も筋肉の動きなどから座標的には、一つの位置      しか取れないと言えるが、右の肘が5cmくらい腕の位置がずれた程度の別のポーズならば、その印象は      殆ど変わらず同じに思える場合があるだろう。(ここまで2012 5/26)      とはいえ、その連関の”緊密さ?”がある程度異なるだけで、”顔つき”と”身体のポーズ”というも      のは何か根本的に似通ったものだということは、一般的にも十分認められるものでもあろう。      いづれにせよ、このことは、同時に自分が複数の”顔つき”を持つ状態を様々な状況で根本的に思い浮      かべ難いとするなら、翻って考えれば、そもそも人間の”想像しうること(ほぼ言語的可能性・・・)”      というものが、その時の”顔つき”(現実的には自分のひとつしかないもの)と強く関連する仕組み      (論理)があることと、ほぼ同様なことを述べていることになるのではないか?       「六六 仮に、私が二つの身体を持つ、即ち私の身体は2つの分離した肉体からなる、とすれば        どうであろうか?・・・        2つの肉体でなされる経験など一体想像可能であろうか。視覚経験に関しては不可能である。                                   『哲学的考察』全集2 p114   」      ”分離した肉体”による”視覚経験”を持つみたいなこと、このことは具体的に考えられないことでも      ない。      例えば、2つのカメラの同時的な映像を分割されたモニターの画面で見ること。しかし、こういう経験      は勿論可能ではあるにせよ、分割されたモニターの片側の画面を見るような経験は、元の画面の経験と      常に決定的に異なることは明らかなものである。(ここまで2012 5/27)      即ち、もうひとつの自分が見ているはずのもうひとつの視覚経験になりようが無いのであり、こういっ      た分割された映像を考えてみることで、2つの肉体でなされた視覚経験をそのまま同時に持つことが不      可能であることを逆に教えてくれる。      2つになってしまっていることだけで全く別の”雰囲気”が与えられてしまう。こういう視覚像、人物      描写、顔つき、という問題を考えるとき、この”雰囲気”ということを含めて、決して曖昧で済まされ      ない重要な役割(むしろ”論理的な役割”)を、これらが果たしていることに注意しなければならない。      前述の”アッカド王ナラムシンの戦勝記念碑”といわれるものは、王らしき人物が誰かを踏み付けにし      ている大きな人物像が上の方にあり、その下に同じようなポーズの6人位が2層の列みたいに並んでい      る部分などから成る(破損部分もあるのである程度、想像してみなければならないようなもの)。 (ここまで2012 5/28)      こういう複数の人物が描かれた絵画、もしくは浮き彫り、彫像の類というものが作られるというのは、      例えば、そこにそういう光景があり、それを引き写したから、などと言うことも当然出来る。      しかしまた別に、これは視覚映像の人体描出の話であり、言語における肉体の関連という問題と単純な      混同は、決して出来ない問題にせよ、やや似通ったことが考えられることでもある。      今、ここに、ある人間の上体の写真があったとする。(証明写真のような)どんな服装をしていたとし      ても首から下を、ある単色の画面に置き換えた場合、全体の印象は余り変わらないことも多いかもしれ      ない。一方、その下半分を単なる色でなく何か別の顔写真に置き変えた場合、元の写真と同じ印象がす      るなどとは、ほぼ誰も言わないであろう。      最初の場合に、単色を選択できる時、元の写真の印象が余り変わらない色とかなり変わってしまう色と      の違いは、起こり得るだろう。また、次の場合も下半分を別人にするにしても、同じ別人の上体の首か      ら下の部分と交換するならば、変えたことに気付かないような印象に留まる場合も十分あり得る。                               (ここまで2012 6/5)      さらに、これが半身写真でなく全身の写真の場合であっても、ほぼ同じことが云えてくる。すなわち、      この全身写真の首から下を別人のものと交換した場合、印象の余り変わらない場合と大きく変わって      しまう場合が出てくるであろう。その場合まず思うのは、その人がどんなポーズをとった写真か?と      いうことであろう。前の上体の写真の場合は腕の位置ぐらいであったが、今度は激しく運動するよう      なポーズ又は静かなくつろいだようなポーズ、直立不動のようなポーズ・・・と首とのつながりでさほど      無理のない格好の写真なら何でもいいのだが、それでも元の「顔」の方の印象に近いようなポーズの      グループがある程度出来る一方で、全然釣り合わないようなポーズのグループもありうるであろう。 (ここまで2012 6/6)      勿論、その前に服装がどういったものか?というのは、当然 目を引く条件である。しかし、服装の      柄やとりわけ変わった形などをひとまず除外すると、先のエジプト絵画の男性の人物のような身体の      特徴(ポーズ)がよくみえる服装とペルセポリスの人物像のような身体の多くを被った服装の違いが      問題になってくる。 というのは、身体の形というのは、印象の強いものといえるだろうから。よっ      て、その場合は、元の顔写真から印象の違うものができ易い、ということでもある。すなわち、別の      個性、個体を連想させてしまう。それに比べれば何か服装で単調に覆われた場合は、無個性的になる      。・・・   (ここまで2012 6/7)      ところで、こういう記述を続けているのは、今までと違った見方に導き、新たな検証への道を整備す      るためともいえる。(それに留めることに注意しなければならない・・・)それでも、まだ人が割とす      ぐに思い易いのは、こういったことは個人の感じ方に過ぎないことでないのか?という類だろうが、      そのために”類似性”(実は言語において非常に根本的な土台を与えているもの)について(特に、      この場合の)、一言 触れておく。      例えば、どんな写真を見る時も構わず、特定の指の形だけに関心を向け続ける場合などがありうるし、      そうした場合は、上に述べてきたような変換された画像での印象は全く同意されないものになるだろ      う。しかし、大体それは「そのように云う事も出来る」というだけで問題を取り違えた反論のしばし      ばあるやり方なのである。そうも見えることは全く否定する必要はない。私もそう見ることは出来る。      その意味では”個人の感じ方”と言ってしまうのは良くない。むしろ、ここで言っていることは、その      角度から見ると、その風景は全く断片しか見えていないけれど、この角度から見た風景は全体をよく      捉えている風景(ある局面)になりますよ!ということに過ぎない。にもかかわらず、こういう”類      似性”に関する問いを人はしばしば、別の言い方と混同するのが本当の問題である。(ここまで2012 6/10)      話を戻すと、人体の各部分(の画像)に関して、こういった類似性、ある同一性を人が感じる、即ち      特に 顔の印象に強い限定性があり、それは弱められるが身体の格好、色などもそこに対応しうるよ      うな、いわば互いに”表情を持って関係付けられる”ということがあるのを示している。      そして、当然のことだが、こういった”同一性””類似性”は、事柄の事実的関係に基づかないとい      うことでもある。(つなげられた”腕”は、全然、別人のものであっても構わないということ等・・)      ここで言いたいのは、こういう風に類似したものを合わせていく、別様に言うならば、違う顔を同時      に食い違うように並べておくことに抵抗があるような感じは、全くありふれた日常の事実で、仮説と      いうようなものですらないということ。(だから、当然 こういう感じに従っていない場合も多いこ      とを、後で述べるが・・・)広く知られた、いわゆる「モンタージュ」という手法は、こういったやり方      に近いところがあるし、また、普段 ある人を相手にするする、見つけ出そうとするとき、気に入った      品物を並べる時、デザインを考えてみるとき、etc・・様々に似たやり方をしていることを、ここで記述      しているだけ。 (ここまで2012 6/14)      色の場合と同様に、ある表情を持った「顔」に、いわゆる「模様紙」の類似した印象のもの、対応の      つけ易いものを選んでそばに置いていくことも出来るであろう。それは、様々な図形の画などでも同      じことになる。例えば、ある「顔」の周りにそれに類似するものを多重にぐるりと並べていくなどし      た場合、「顔」は、様々な類似したものの重なりの中心として存在することになる。そうすると、周      りのものでもう既に、その「顔」を持っていると言いたくなる場合はあるだろうし、徹底したものを      求めたい場合、その「顔」自体を無くしてしまった方が、よりその「顔」を感じる・・と言いたくなる      ような場合も十分想像できる。 (ここまで2012 6/15)           ・歴史的に、このメソポタミア周辺の体を覆う衣装や目のあたりの表情が強調されるようなヒゲの            表現から、イスラム時代の衣装の特徴に連続的なものを感じるのは不自然なことではないだろう。            (気候的なものの原因があろうがなかろうが)また、偶像崇拝の禁止と図像と「顔」の問題は、            当然関係があるものでもある。 (2012 6/15)         服装というものの、「柄」は、そういった「模様紙」を当てるのにほぼ相当するが、全体の形なども      考えなければならないし、そういうのは社会的な「職業」や「階級」といわれているものに多く関係      することでもあるだろう。(しかし、今は”画像”を見ている場合、”人体”を見る場合、どのような      ことになっているのか?という、よりずっと”ありふれた”ことをまず問題にしている訳なので、こ      ういったことには、今そんなに話を進めない方が良いだろう。・・)      「柄」などというものは、様々なものがあるし、人物像がそのまま模様になっている場合などという のは、もし別に技術的に難しくなければどんな時代でも考えつきそうなことであろう。      (こういったケースを論じるのは、もちろん、由来を述べているので全くなく、我々が様々なことを      する類似した代表例の連なりをより知るためのヒントとしてである・・・)      例えばそうすると、見る人物像に、”複数の人物像”が当たり前に入り込んでくることになる。しか      し、”本当の”人物像で無い方は、普通には、より平面的、リアルでない感じだったり、端的には      より、”小さい”ということで区別されることになるだろう。 (ここまで2012 6/17)      もしくは、我々の視覚体験における、中心と補助的なものを段階付けるような関係を示す、何かしば      しばある関係も、同じようになっていれば、複数の人物が描かれていようと、ある中心的な顔に対応      するような、その付属物の関係として把握される場合がありうるし、また そのような描き方もあり      うる。そして、それは”まだ”1人の人物の肖像であるとも言うことも出来る。      そのような「一つの顔」としての人物群の絵画、浮き彫り等の典型的なひとつは、同じ人物像、その      顔を、登場画面の中で、幾らか大きさを変えて繰り返すという手法になってくる。(ここまで2012 6/22)      というのは、あるひとつの「顔」を何度も見るという体験と、似たような「顔」がずっと並んで行く      ものを見るという体験は、人の「見る」という体験全体の中で、十分”似ている”のである。      良く似た「顔」(良く似た描写法で描かれた顔、と言ってもいいが)の、個々の微妙な違い、リズム      に違いを与えるような多少の変化した部分を伴って並び、そこに中心といえるような強調された人物      があり、再び 続いていく・・というようなもの。      こういったタイプの描かれ方が目立つのは、非常に古くからこの地域の表現の重要な特徴と言えるか      もしれない。例えば、BC2600年頃の製作とされるウルのスタンダードというモザイク工芸品?の瀝青      、ラピスラズリの背景の中の行列している人物、小さな馬?(ろば)、戦車などの織り成す光景。(ここまで2012 6/24)      そのように、以下よく知られたものの中から例を採っていくなら、 BC9世紀のアッシリア、アッシュールナツィルパルII時代の浮き彫りも、重々しい服装のヒゲを蓄えた      人物たちが、列を成すようだったり、切迫して多数重なったり、様々に並べられた描写などで出来てい      る。      BC6世紀前期のの新バビロニア、ネブカドネサルII時代のイシュタル門も、ブルーを背景にして主に      動物が、何か重々しい人物のようにポツリポツリと、それでも全体として列をなすようなデザインのも      のになっている。(ここまで2012 6/26)      ここまでの話の中でも触れてきた、BC4世紀後半廃墟になったアケメネス朝ペルシアのペルセポリス、      そして、スーサの壁画などでも、典型的な列をなす似たような人物群の描写になっている。      様々な職種、民族などを表す小物を付けた人物が、大体同じポーズで四方から集まり、王に謁見すると      いう発想を基本として持っているようなペルセポリスの人物群でも、時代と民族の通説にある区分から      全然違うものだと決めつけず、以上の簡単な代表例と共に比較し、最も基本の言語的な描出という体験      から捉えてみるなら、ある場合の各々の違い、変化と同様に、通底する傾向が認められる。      この傾向は、隣接するエジプトの美術的な特徴と対比すると際立ってくるようなものだが、改めて      まとめると、それは各々の人物の個別的な身体描写を避けることにより、重厚な服装をした、同じ「顔」      「ポーズ」の繰り返し、に基づく「列」の表現がより好まれる傾向がある、と一応言えるだろう。      さらに付け加えると、この「顔」というのは、もっと詳しく言うなら、それは「目」の表現に中心を      置いているとも云える。(ヒゲや巻かれた布等もそれを強調する小道具になるかもしれない)即ち、      「目」は否定肯定が最もはっきり現れる身体部位である。怒り、悲しみなども、そこを見れば最も判る。      そして、その意味で我々が”雰囲気””ムード”などという時、最も意識するのはこの感覚である。            ・ついでにいえば、”エジプトのアイシャドー”は、目辺りを強調していると同時に、実は目の決定的な             微妙な表情を隠しているのである・・・(ここまで2012 6/27)        そして、われわれが、描写をするとき、この”雰囲気”の統一、別様に言えば、「顔」の統一というこ      とが強調されて重要になっている場合があるのに、そのことは通常隠されているとでも言える過程が潜      むことを、こういう例は示唆している。即ち、それは似ていると思えることが大事で、外部世界の事実      とは全然対応しなくてよい。      エジプト周辺地域とメソポタミア周辺地域において古代文明として多くの共通するところを反面ここでも      忘れないこと。特に河川に関わる農業生活を管理する統治体制であり、石造りの大きな建物、そういった      ものを使える技術を持つこと、また武器、兵士などの戦争遂行の強制能力、祭司、王といった存在の関係      、儀式、文字の使用、動物神など(座ったスフィンクスと立った有翼神獣像の違いと共通性etc)           ・同様に、こういった対照の”境界”は、時代状況によって揺れ動く、家族的類似であることも思い起こすこと。            場合によっては、「エジプト」も対立者と全く同一の文化圏に見られるという場合も別におかしなことではない。      しかしながら、エジプト地域での描写の特徴は、単一の「顔」「身体」の繰り返し、そういうムードの統      一に主眼があるのででなく、ヒエラルキー的表現(ピラミッド的)であると同様に、空間に配置していく      描写ということが強調されているという傾向において特に、もう一方と対照的なのである。           例えば、新王国15世紀前後の特異なアマルナ様式にやや近い手法を含んだもので、王墓でもない、役人や      書記といった人々の墳墓ではあるが、色鮮やかな様々の生活描写がされたもの。      ”メンナ”での水鳥や川の魚たちを捕まえている描写を含む大きな左右対称的人物を置いた水辺の風景の      壁画。船と人々の姿。      ”ナクト”での葡萄酒作りの作業風景、女楽士たち、又 メンナの水辺の風景と良く似た壁画(下の画像)                        ・・・などを見ても、メソポタミア地域での描写では殆どない、例の胴体は正面なのに、顔、足は横向きとい      う格好で描かれている。(ただし、王墓ほど厳格でなく、全体として素朴な画法のせいか、そんなに不自      然な感じでもない・・)そこでは、もちろん、「列」の図柄をとっているものもあるが、より特徴的なのは      、人間たちなどが、円や三角形、長方形、台形などの組み合わせで出来ている印象にある。それを対称的      な構図を基本にして、パズルの一片一片ように間を埋め、配置していこうとするのが、ここでの目的であ      るかのようにも見える。      各々の個体を表す「身体」はより被いが少ない姿で、いろんなポーズをとることが重要で、個別の人々を      様々に配置して描いている。それは否定肯定のような強い感情というよりも、目の前の品物を数えている      時のような、即ち、ある「雰囲気」があるとかも全く気の付かないような淡々とした感情に、場合によっ      ては、近い。      だから、ここには むしろ「見えたものを写すだけ」といった態度が比較的あることになる。そして、      このことは、あの”独我論と実在論の対立”のひとつの変化形(ある萌芽のかたちで)が、こういう描写      法の対立の中にも見出されるということになる。(ここまで2012 6/30)      最後に、先にも例として用いた”アッカド王ナラムシンの戦勝記念碑”について、もう一度話のまとめと      して、少しこの考察を補足してみたい。(というのは、この例は見方によってはどっちつかずのものにも      見えるものだから)      これの対比として、時代が一致しているわけでもないが、異民族との戦い(その”勝利”の宣伝?)とい      う主題のほぼ同じようなものを考えたほうが良さそうなので、ラムセス2世のカディシュの戦いの浮き彫      りや、ツタンカーメンの王墓の”箱”を装飾する”戦車を用いた戦いの図”などを見てもらうことにする。      (これらも今までの例と同様、誰でもネットで割と簡単に見つけられるような類の画像があるので)      その”アッカド王ナラムシンの戦勝記念碑”とは、王らしき大きな人物像が上の方にあり、その下に同じ      ようなポーズの6人位が斜めに並び、小山のような右側のところに向かって行くような図柄をもった特に      有名な石碑。(BC23世紀、山岳民族を征服したとき、これを記念して作られたものとされている。)      顔の部分は、かなり破損しているし、それにもかかわらず全体の印象はこのままでも、かなりはっきりし      たものがあるので、この浮き彫りをそのまま、ひとつの「顔」の列による構成とはいいにくい。      また、服装はエジプトに見られるよくある格好とそんなに変わらないということも、このケースの特徴と      いえる。(ここまで2012 7/5)      ただこういったことは、より細かく”特徴”を捉え直せばその対比はまだ十分保たれていることが判る。      ひとつは、エジプト方面において、「顔」的な表現が”無い”、などと言っているわけでは当然なくて、      (「顔」的な表現は、何らかの形でもって、統治の方法として常に伴われるものでもあるし、エジプトの       代表的なものをわざわざ挙げるまでもなく・・・)      「顔」のあるリアルな表現が避けられ(ある種の人形めいた表現)、平面上の構成の中に並べ置いていく      ことの方が優先されている・・とでも言い換えられることなのである。      もう一方の傾向は、反対に、ある”リアルな”肉体的表情的表現を保っているという意味(これは結局、      古代ギリシャの彫刻の特徴の半面である、筋肉的リアルさにつながっているようなもの。)での、同じ      「顔」を繰り返すということが強調される。(ここまで2012 7/6)      先に述べたように、この”メソポタミア”的な特徴というのは、独特な”目の表現”であるとも云える。      怒り、悲しみも生々しく感じるような、ある威圧的なまでの感じ。「顔」的なものを、色や柄模様のよう      なものにすら、対応する類似したもので置き換えていくような見方が可能であることも述べてきたが、      このような”目の表現”は、多分にそこの筋肉の表現に関係がある。何事か決定づけるような筋肉の引き      締まった動き。だから、王の顔などもほぼ消えてしまっている”戦勝記念碑”においても、そこでの人物      の体つきの描写で、十分それの代用は出来ていることになる。そもそも、ペルセポリスの人物のように被      われる衣装ではないが、棒を垂直に持つような、この辺の出土品でよくみかけるポーズは、それと殆ど同      じである。      (正面向きの胴体、横を向いた顔と足・・・いわゆる”エジプト”様式にも近い格好だが、印象がかなり      違うというのも、こういったことが含まれているからだろう・・)(ここまで2012 7/7)      反対に、同様な”戦勝を記念する”題材の有名なカディシュの戦いの浮き彫りの方は同じ「人物」だけを      描いているとは云えない要素が強いし、また ”決定づける”というのと違ったことが描出されている。      (少なくとも、これは全く戦闘の途中の描写である。)ところで、今 出来るだけ簡単に 話を進めるに      あたって・・・      古代エジプトの絵画は、方眼の目盛で描き方が多く決められていたそうだし、また類似した図柄が様々な      ところで繰り返されているらしい。そういったことなどから、当面の目的のためならば、BC13世紀の”カ      ディシュの戦い”のものとBC14世紀のツタンカーメンの”箱”の図柄は、上の画像のように実際 関連性      の明らかな絵柄であるとも言えよう。そこで、      アブ・シンベルの有名なそれと違って、”箱”の”絵”の場合、周りの状態との関連や細部がもっと判り      易いこと、また多人数の”人物群”が描かれていること、などから この両者併せて比較対照をするのが      便利なので、考察の実例にさせてもらう。(ここまで2012 7/9)      さて、今から論じることが一種の『うさぎーアヒルの絵』問題であり、見る人の”慣用”、そして比較の      脈絡に関わっていることに前もって注意しておく。そして、まず      アッカド王の碑、戦車による戦いの図、これら両方の図柄共に、全体に斜めの線が引ける中に、敵方と見      られる人々の残酷と言えるような敗退している姿が織り込まれたものであり、そのことを含め共通した目      的をもつ題材の図柄を代表するものとも十分言ってよさそうだし、逆にそこでの違いを考えることは両者      の描き方の特徴を捉えるためのサンプルになるのでないかということ。(ここまで2012 7/11)      アッカド王の碑の方を、漠然と眺めた場合、一人の人物の立像を三角のような岩の断片に彫ったものとい      う風に見え、そのあとで下のごちゃごちゃした人物群の描写に気づく、という具合のものになるのは普通      のことだと思われる。そのあとに、「山」の三角形や、人物群のいる2つの平行四辺形?の部分に目をや      るというようなものだろうか?しかし、これをみて、三角の関係、平行四辺形の積み重ねの図形の関係に      まず注意を向けるというのは、かなり特殊な見方をしていると思われる。というのは、それほど上の独り      の人物の姿がハッキリしているからであり、山の形、下の人物群のいる部分も、結局 岩全体の輪郭を      クローズアップしていく”段階”ぐらいのもののように見てしまうから・・なのかもしれない。            一方の、戦車による戦いの図の場合、細々とした人物の見えない石の浮き彫りの方でさえ、確かにとり      わけ大きく描かれている人物ひとりの図とだけ受け取る場合は稀であろう。少なくとも、前足を跳ね上      げている馬の大きな斜めの三角形?は、円弧の中の弓を射る人物と同じくらい強調されているし、その      他 車輪の円なども印象に残る。(ここまで2012 7/12)      箱の外側の「絵」の方でも、例えば、同形の繰り返しということを見ても、それは中心の人物ではなく      、むしろ”馬の形”の方が、噛み付いている犬の形で小さく繰り返されていることがわかる。また、戦      車に乗ったもの同様、アブ・シンベル神殿のよく知られているもので、相手の腕を掴んで槍を振り上げ      ている人物の浮き彫りや髪?を掴んで棍棒?を打ちつけようとしている浮き彫りの、共に何か露骨に攻      撃的な情景の描写をしたものにおいても、大振りなポーズをした人物の形とそこに”くっ着いている”      負けている側の人物の形が、大きく描かれている。      こういう描き方というのは、それが単に主人公?の人物像というだけでなく、同じくらいにその菱形の      ような図形が、その他の図形と画面全体のなかで組み合わされる、ということに配慮して出来ているも      の・・と言うことも出来るのでないだろうか。      (ここまで2012 7/14)      そして、こういう印象は箱の「絵」のその他の部分も眺めれば、一層強まる。矢を射る人物の背後に      掲げられた扇?の半円形、その人物のいる楕円を縁どるような鳥の翼の形。右上から左下への斜めの     線の下側の倒れたり、組み敷かれたりしている人物たちの組み合わされている様子。こういう形を平     面のなかに押し込んでいこうとするゲームをやっている傾向が、そこでの人物たちの表情を描き尽く      そうという傾向より勝っている・・・死に瀕しているはずの人たちの描き方など・・ということ。          * そもそも正面向きの胴体、横を向いた顔と足・・・いわゆる”エジプト様式”の人物の描き方の”奇         妙さ”はそういうポーズを人がしないからなどということではない。ただ、このような仕方で強引に         平面に押し込まれていることが独特な不自然な感じを引き起こすのである。(ここまで2012 7/17)      それらと対比されるアッカド王の碑を見た場合、そういう図形の組み合わせと見るよりも(もちろん、      絵画を描くような場合 形の関係に配慮するのはどこかに多かれ少なかれ必ずあるわけだけれど・・)      まず、大きな人物を見るだろうし、そのあと、山のようなものや上の天体のようなものを見たり、もし      くは、密集している小さな人物群に目を留める・・などということに普通はなるだろうと思われる。                 (ここまで2012 7/19)      山や天体、敗者たちという、かなり簡単に小さめに付け足されたものを、中心の人物の補足説明のよう      に考えるとするならば、この岩に彫り込まれた努力の大半は、中心の人物と下の2列を成して登ってく      るその分身のような格好の人物群に費やされているとも見える。それで この浮き彫りはいわば三角と      斜めの平行四辺形2つなどといった図形的関係の中にいる王の姿というよりも、あくまで王らしき人物      像、その進行する姿が描きたいものであり、それが繰り返しで強調されているということも出来よう。           ・そして、この人の形が縦に刻まれたくさび形文字に似ている、ということも決して偶然でない、と言っても            良い気がする。エジプトの描き方がその象形文字の配置の仕方に似ているように・・・(ここまで2012 7/20)            図形を組み合わせて当てはまった限定的な画像を作ろうとする時は、正確にそこにある物の数を勘定しよ      うとする時と同じく、人の外部にある事実に従っているというふうに強く思うだろうし、また こういう      時の行為を、しばしば自らの”感情を抑えて”やっている(感情的でなく正確に・・という言い方)という      ことにその重要さを見出したりする。      反対に、物事を決める時、「顔」、雰囲気、などといったことの類似性こそ重要という場合は、決して稀      などとは云えないものである。これは私たちが何か決めたりするとき「違和感を感じる」等と言い、拒絶      否定する時のことを想像するなら、とてもありふれた判断であることが良く判る。そこにあるのは、多分      に馴染んだ正しいはずの自分の感覚と似ていない・・などと思うことではないか?      また、そういう場合に関連して、先に引用した『哲学的考察』の”私が二つの身体を持ち、2つの肉体で      なされる経験など想像不可能・・”というようなウィトゲンシュタインの提起している考えと一見全く食い      違い、反面それと類似しているともいえる問題をここで確認するのは有用である。                    ・この図は、先に説明したヴァイスマンとの対話からの”迫ってくる球体を2つの触手などでデータを得る生物”の話でのものだが、             こういった身体的感覚を数値に置換するような場合にしても、単なる距離も判断されるが、例えば 視覚などと違う独特な特性を示すことも想像しうる、             ”形式”ということへの重要なヒントを与えるものになる。(現実的な条件を考えることもできるし、その場合より細かい時間的動きの変化などには一             般的な視覚体験よりも鋭敏になりやすい触感に近いモデルを想像することが、身体の関わりを具体的にしてくれることにもなる・・)こういった身体感覚             の形式や、パースペクティヴ、アスペクトといった問題に特に言及があるので、このような談話の記録や『哲学的考察』その他の幾つかの著作からも適             宜に引用を行って以上のように話を進めてきた。ウィトゲンシュタインに関しての一般によくある話は気まぐれで唐突な引用から、やりがちなので注意             しなければならないが、今までやって来たように『論考』や『青色本』全体を通した上で理解することができれば、こういった箇所も整合的な解釈から             外れたものにはならない。(実際、著作間の違いは説き方の違いからくる言及先のある程度の変化ともいって良いことが判ってくる・・・)             また、『哲学的考察』における、この”2つの身体”に対する言及のある六(p104-p115)は、特に以下の小林の議論との関わりが見て取りやすい部分な             ので、『哲学的考察』という著作全体に関して予備的なことをここで前もって若干付記して置こうと思う。(ここまでの注は2012 10/20&21)             LWは、1920年から6年くらい続けていた(『論考』が正式に出版されたのは1922年)山村での教師の仕事をしていた時、Mシュリックに手紙をもらい             (1924年)以降だんだんと”復帰”することとなる。そのシュリックらとの29年30年頃の対談、が”ウィトゲンシュタインとウィーン学団”などという             形で残されている。そして、そのほぼ同時期に最初はラッセル宛に提出された草稿が、すなわち『哲学的考察』と呼ばれているものになる。(その本人             の序文は30年11月の日付がある)また、この著作は33年から34年にかけて書かれたとされる『青色本』の材料の多くを見つけることが出来るものでもあ             る。ケンブリッジの学生向けに閲覧されて、半分 公刊されたに近い扱いの『青色本』が、短くはあるが一貫した流れのある著作であるのに対して、             『哲学的考察』は、自説全体のまとめノート、自己確認のようなものになっており、また、ずっと大規模なものだし、数学の基礎や論理学的問題に関し             てより詳しい言及がある。しかしながら、両者には著述スタイルの共通性と呼べるようなことがあり、この点では『論考』と違った段階に立っていると             も見ることができる。ところで『茶色本』(1936)が、感覚与件を前提とした『青色本』と近いながらも多数の言語ゲームの例から構成し直している一             方で、「私」の消去の主張は薄まっているのに対し、『茶色本』を引き継ぐような『探求』が私的言語批判の形で『青色本』の主張も反映している、と             い見れば、こういった代表作の基本的関係を簡単にとらえられると思う。そこに、公刊に近い形を余り意図しなかった多量の草稿からなる幾つかの著作             を考えると、こういったものから引用をした場合、変にならないための目安にもなる。『考察』と兄弟のような『文法』(33年頃)は、授業用の『青本』             と同時期のものらしく、『考察』をより”教科書的”な構成にしようとしたものとも見られる。37年から44年までなどは『数学の基礎』に絞った問題に             力を入れている。(これは『探求』の執筆時期とほぼ同じ)ついでに言うと『金枝篇について』は、多分38年以降のものだが、『青本』の以前31年に多             量のこのテーマのタイプ草稿がもう作られていたらしい。また、『確実性の問題』(49-51年)は最後のものだが、同時期に色彩論の草稿も沢山あるそう。             (このように見ただけでも、並行しているものはある補完的な関係などがありそうだが・・・)(ここまでの注は2012 10/23&26)             『考察』以降の著述スタイルを考える場合、大体、普通の解説などで軽視されている「完全な記述」というものを取り上げて簡単な、もうひとつの目安             にしておきたい。「この斑点は、緑である」という記述はその時点において、十分「完全な記述」と呼べるものということも出来る。というのは、他の             色が排除されているこの状態が解るから。しかし、記述を、要素命題の真理関数と考えた場合、要素命題は基本的に独立していなくてはならないので、             特に 一般的な”度数”を表現する命題の場合など、度数間で積極的な排除の関連性を持つことを不可能でないけれど言いにくいし、一々それで終わり             という”補足的言明”も必要になる。 例えば、x・yを見た場合、普通、真理表のWFFFをまず思ってしまい、こういう度数間の論理的形式をむしろ見             誤りがちになる。ウィトゲンシュタインは、ウィーン学団との接触によって『論考』の時思っていた明確な構文法の規則の確立により、こういう誤りを             防ぐという、多分に共同の技術指導書?めいたものを作るべきだというようなアイディア(多分・・・そのようにも言える考え)は、度数の表現にみられ             るその不自然な煩雑さに気付いたことなどから却って萎んでしまい、『論考』においては隠れがちだった要素命題間の関係を与えてくれる形式の本来の             重要さの考察が前面に出てくることになる。即ち、本来の「完全な記述」というものの使われ方自体が探求されるようになる。これが『考察』以後の発             想をウィトゲンシュタインのむしろ徹底して頑固な一貫した考え方から、下手に切り離して理解してしまわないためのポイントになると思う。                                   (ここまでの注は2012 11/20)             注-付記1・・・上記のことからも想像されるように、要素命題は具体的なものを挙げることが出来ない。一方、命題の「形式」は、”命題の定項を変項で                   置換することで純粋な形式の像が得られる”という定義的なものが成立し得る。(論理形式について1929年前半・全集1)しかし、「完全                   な記述」という通常の記述のやり方を重視すればその定義のようなものも成立せず、逆に、「形式」という言葉自体は前面には用いられな                   いことになるのである。(この注は2012 11/24)             注-付記2・・・こういう『哲学的考察』八などでの、空間・時間の”色”の不貫入問題など、随分 ”古典的物理学”に囚われた議論のように思う人もい                   そうだが、あとで少し触れるけれど現実的に”言語論”としてはこういったことはそんなに大した問題にはならない。(この注は2012 11/24)      すなわち、先の”アッカド王の戦勝記念碑”で見てきた単に”絵画的な表現”の話だけに留まるのでなく      むしろ、人が自らの”分身”としての別の肉体を持つなどという考えは本当は極ありふれたもので、人の      言い方の代表的なあるタイプを形成している、ということ。(ここまで2012 7/21)           ・『哲学探求』で言及されたエジプトの画法の話から始めたこういう”絵画的表現”と、地域-時代的な             関係の話は、ここ(エジプト-メソポタミアといった・・)でとどまるのでなく、本来 地球的な規模             で、特徴のパズル合わせが可能な問題である。古代ギリシャの彫像から、イコン画の平面性への”逆             行””平面性の復権”。そこでの東方ロシア的なもの。反対に、西欧の遠近法の確立という平面の中             に立体を取り込む技術(中世の平面性からの脱却の展開)。それらとは別の必然性の系統としての             例えば、”材質感””重量の感覚”の反映としての殷の青銅の工芸、同様な中米・南米の古代文明風             な世界における彫刻・工芸品の傾向。恐怖や筋肉の動き(死と生命感)に関するアフリカの民芸品、             アボリジニの解説・図解としての平面図(根源的平面性?)・・等々へと、詳細に論じるべきではある。(この注は2012 8/17)      従来、こういう言語に関する基本的問題の考察でアポリアにいたってしまう大きな難点として、非常に見      落とされていたことは、言語的活動の様々な局面に常に均等に飛び移れるような考察スタイルを保たねば      ならないことを挙げることが出来る。      即ち、これまで様々なヴァリエーションで述べてきたように、主観的側面と客観的側面の交叉的な本質を      理解するには、それが「私たちが言語などを使って描出をする。(ピクチャーを作る)」ということに即      することが大事になる。そういう描出の際の、描出されるものと行動との誤解されやすい巻きついた関係      を上手く解きほぐす必要がある訳だが、描出関係自体を考えるためには特に概念や一般的な用途、分野に      囚われ、局所的に見ないことが大切になる。それは最もつまらない話に陥りやすい。(ここまで2012 7/26)      「科学science」という言葉で、人は様々なことを意味させて用いることが出来る。もちろん、その類の人      のやり方で肯定的に扱わなければならない、場合によって大きな成果を上げたものがあるのは今や言うま      でもないことである。そして、      そこで言われている新しい知識、そういうものは細分化して確かめられ場合によっては繰り返し実証可能      で特定の個人によらず成立するものかもしれない。また、厳重に”定義”された言葉を使っていると主張      する場合も当然あろう。にもかかわらず、そういう知識を誰かに伝えようとする際に、どうしても出てく      る”普通の言葉”そして、それを語る人の行動の”場所””状況”というものは、そこで却って論じられ      ない隠れたものになり易いということは今日強調されるべきである。(ここまで2012 7/27)      ここまでしばらく扱ってきた、古代の対比的な地域のレリーフの絵画的な表現の違い、などに関する幾つ      かの問題を論ずるにあたって、注意してきたのはなるべく”特別な知識”(歴史的なことなど)に頼らな      いで、それらから受ける明らかな”特徴の違い”を記述することが出来ないか?ということでもあった。       ・参考として画像も掲載した、この例が特に資料として興味深いのは、人の制作したもののうち、その言語も           明確なケースの最古の場合に属するということがある。そしてこれらはその社会全体として今日と比較し圧           倒的に有用な知識量が少ない頃にも関わらず、こういった画像で見るものは、今日の最も優れた絵画的表現           に対しても単純に劣ったものとか、何か取るに足らない欠けたものである訳では決して無いということがあ           る。このことは我々の新しくどんどん付け足される”知識”に対して全く別の側面として考えるべきものが           人の営み(制作、言語活動・・)にはあるということを典型的に示唆している。(この注のみ2012 8/9) (次頁に続きます。・・・・・)   

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