※Sフロイトの『夢判断』について:J     


◆ p,05 ◆

                                       


【J・D】

      
   一八「 テイラーとわたしが川沿いに歩いていて、テイラーが手を伸ばし、わたしをつき落とすとせよ。   
       わたしがなぜそんなことをしたのかと尋ねると、かれは“わたしは、あるものをあなたに指し
       示していたのです”というが、それに対して精神分析医はテイラーが意識下で私を憎んでいた
       という。たとえば、2人のひとが川沿いに歩いていたとき、次のようなことがしばしば起こっ
       たと仮定してみよ。

          @ 2人は、仲良く話をしていた。
          A 1人は、明らかに何かを指し示していて、もう1人を川に突き落としてしまった。
          B つき落とされていた人物はもう1人の人物の父親に似たところがあった。

       ここで2つの説明が生じる      

          @ かれは意識下でもう1人の人物を憎んでいた。
          A かれは何かを指し示していた。  」
                                                      
   一九「 この説明は両方正しいかもしれない。どういうときにテイラーの説明が正しいというであろうか。
       かれが悪意ある感情をそれまで一度も示したことがないとき、教会の尖塔とわたしが彼の視野に
       入っていて、テイラーの誠実さがはっきりしているとき。しかし、同じ状況下で精神分析医の説
       明もまた正しいことがありうる。そこには2つの動機―意識されているのと意識下のと―が、存
       在する。この二つの動機によって行われるゲームは全く異なっている。2つの説明は、あるいみ
       で矛盾しうるけれども、それでも双方とも正しいものでありうる。(愛すると憎む)」

   この部分は、“3”において、最も誤解されやすい部分であり、また理解するうえでもとくに重要で注意し
   なければならない。というのは、この例で云わねばならないことが、デリケートである一方で、この例自体
   が、ほとんど余り起こらないような出来事になっていて、事態が想像しにくいので誤解しやすいのである。

   こういう例は、『探求』のウィトゲンシュタインの単純な言語ゲームと同様、出来るだけ複雑な諸要素の絡
   まない例を選んで話を進めているのだが、肝心なことは、「2つの説明は、あるいみで矛盾しうるけれど、
   それでも双方とも正しいものでありうる。・・」と言う部分を、考えるにあたって”同じ状況下で”2つの
   動機(意識上と下の)2つのゲームが成り立つというのを、行為のうえで2つのゲームが成り立っていると
   いう風に解釈しやすいし、そして、この部分のこの例だけを考えればそうみるのも不可能でもない。けれど、
   ここは”動機解釈のゲームの上で2つである”というのが、はっきりしなければならない。こういう記述は、
   生徒の作った講義録ということもあるが、ウィトゲンシュタイン自身に”あるもどかしさ”が在った可能性
   も想像しうる。

   そこで、思いきって もっと複雑な事情の下(経済的、社会的・・etc)に置いてみると同時に、もっと平凡
   な、ありふれた出来事の典型である、次のような例を持っていったほうが、問題の本質が見えやすくなる。
   単純ではあるが、多少不自然なようなものから、自然な状況ということで、そこを考えてもらえば”通俗化”
   の危険には陥らないと思う・・・・。





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