※Sフロイトの『夢判断』について:K
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【Kb・@】混沌としているゆえに、無意識であるというふうにも もちろん言ってよいのであるにせよ、 我々は日常 自分の胃の運動が無意識であるからといって、得体の知れない恐れなど感じな いし、自分自身の様々な”症状”をみながら、このような無意識とさしたる問題なく、折り 合いをつけて十分やっていけることを知っている。身体的必然や諸々の生理的諸欲求が、直 ぐには、我々が意識して掴みにくいという不安定さを誇大にして、現代の人間を多かれ少な かれ襲う漠然とした不安のムード(後でするはずの議論を先回りして云うなら 社会を被う ”愛の枯渇”?というような状態)とごっちゃにする風に、何かそれ自体が医学的根拠のよ うに説明する仕方(例えば幼児期の欲求体験の因果説明)になるとするなら、一方で一定の 状況下ではある成果が多分生じるであろうし、一方でその説明の影響が大きければ重大な混 乱の元にもなるだろう。 というのも少なくとも、フロイトの論述全般が生理学的発想に偏り過ぎない代わりに余りに も、言語と論理に関する反省が不十分で、誰でも思い浮かべられる以下のような場合に、彼 の論述の説明手法からして明らかに必要な関心と回答が求められそうにないということでも ある。同時に、フロイトの説明のオカルトめいた性格を生む怪しい論述の主たる原因であり、 大きな混乱の元がそこに見えていて、しかも今までフロイト説を取り上げ否定肯定してきた 多数の人々にも、結局大体がより不十分な格好で存在する問題がある、ということなのだ。 しかし、・・・・ 『(※十進法のアラビア数字を次々書き取らせるという課題において)・・・・生徒が 数列を、0から9まで我々の満足のいくように書いている、としよう。・・そのような ことになるのは、しばしば上手くいく場合に過ぎないのであって、百回のうち一回正 しく行うからでない。・・私がある種の強調を行う・・・下線を引いたり、あるやり方でそ ろえて書いたりして・・今や彼は自力で書き続ける。あるいはそうしない。 なぜそのように(説明)云うのか。それは自明のことだ。・・私が云いたかったことは それ以上の説明の効果は、彼の反応に依存していること、に過ぎない。・・ 彼が数列を書き続けていく、すなわち、われわれがやるように・・と仮定してみよう。 そこで、今や彼はこの体系に通暁している、ということが出来る。しかし、正当にそ ういうためには、どこまで数列を書かねばならないのか?ここに境界を引けないのは 明らかだ。 「数列を、百代まで書き続けているとしたら、彼はその体系を理解しているのか?」と いうなら・・・”理解”が我々の”単純な言語ゲーム”では取り上げられない、ならば 「彼が、そこまで正しく書いたとしたら、その体系に習熟しているのか?」(と言い換 えてもよい。)・・・そこであなたは、言うだろう。その体系を理解(習熟)するとは この数、あの数ということであるはずがない。そんなことは単なる理解の応用である に過ぎないと。理解そのものは、ひとつの応用であって、そこから正しい適用が派生 してくるのだ、と。すると、人はいったい何について考えているのか?ある数列をそ の代数的表現から導出することを考えているのでないか?何かそれに類似したことか。 ・・・われわれは、正に代数的表現の応用を一つ以上考えることが出来る。そして、応 用例は、再び代数的に表現されるけれど、しかし、それで一歩前進する訳でない。 応用は、理解の基準であり続けている。 (反論)「でも、どうして応用が理解の基準であり得るのか。私が数列の規則を理解し ているというとき、これまで代数的表現を応用してきた経験を根拠にして、そう言って いるのでない!むしろ、自分自身についてはそういった数列を念頭に置いていることを 知っているのであり、実際に数列をどこまで展開したかはどうでもいいことだ。・・」 しかし、あなたの意見では、一定の数に対する実際の応用を記憶することを全く度外視 しても、数列の応用を知っていることになる。そして、あなたはこう言うだろう。 「もちろんそうだ。なぜなら、数列は実際無限なのであり、わたしの展開できた数列の 部分は有限なのだから」と。 しかし、その知識は何によって成り立っているのか。・・いつあなたは、この応用を知っ ているのか?常にか?昼も夜もか?あなたが、その数列の規則を考えている間だけか? すなわち、ABCや九九を知っているように応用をあなたは知っているのか? それとも、ある意識の状態ーまたは、何かについて考えている、というような出来事ー として、その知識があるというのか? ABCの知識は心の状態だ、というひとは、ある心の装置(多分 脳の)の状態を考え、 それを介するこの知識の外的表出で説明して考える。そのような状態は、傾向 Disposi tionと呼ばれる。 しかし、ここで心の状態について語るなら、異なる2つの基準が無くてはならない。 その装置の働き、とその構造の認知、それが出来るかである。 (ここの意識している状態と傾向の対比を表すのに「意識beuwβt」「無意識unbeuwβt」注 という語を使うこと程、混乱を招くものはないだろう。 なぜなら、この一対の語は、 ある文法的区別を覆い隠してしまうから。) (a)ある語を理解する一つの状態。しかしそれは、”心の”状態なのか。 悲しみ、興奮、苦痛は心の状態という。 文法上の考察。 「彼は、1日中悲しん(ずっと興奮して・ずっと苦しん)でいた。」 と 「私は、昨日からこの語を理解している。」を比較せよ。 後者は、間断無しに、といえるか。勿論、語の理解で、理解の中断もありうる。 しかし、それはずいぶん違った場合である。 「あなたは、いつ苦痛が和らいだのか」と「いつあなたはその語を理解でき なくなったのか」 の違いを比較せよ。 (b)いつ君はチェスをする能力があるといえるのか。 いつもできるのか?駒を動かしている間か?ひと駒動かせることが、全ゲー ムを行う能力があることになるのか? 「知る」という語の文法は、「出来る」「能う」という語の文法と密接に関連している のは明らかである。 しかし「知る」は、「理解する」という文法とも関連しているのである。 (ある技術に”習熟”する) ところで、「知る」はまた別の使い方もある。 「今や、私はそれを知っている!」同様に「今や、私はそれが出来る!」「・・・それを 理解している!」 という場合。 すなわち、Aの書き出している数列を、見ているBが、その数の系列の中に規則性を見つ けようと努力している。そして、「いまや、私は続けて書いていける!」と叫ぶ・・・。 このような場合、この理解(能力)は一瞬のうちに生ずるものなのだ。 ──Aが、1,5,11,19、29・・という数を書いていく。Bは、いろんな代数式を 当てはめようと努力する。 なる式を試し、続いて書き足された数 を見て自分の仮説を確証した。別の場合には、式のことを考えず、緊張感をもってそれ を、見つめ4,6,8,10の項差を見つけ、自分も先が続けられるという。 また、別の場合には、「あ、この数列なら知っている」というような場合。 しかし、この上に述べた出来事が、理解ということなのか。 「Bが数列のシステムを理解する」と言うことは、どのみち、単純な「an=......」なる 式に思い至ること、でない。なぜなら、その式に思い至っても、なお理解していないとい う場合は、大いに考えられるから。 「彼が理解する」とは、式を思いつく以上のことで、何らかの特徴的な、理解に随伴する 出来事を含んでいなければならない。 ないし、外的表出以上のことが、「彼が理解する」ということ。 われわれは、今とても荒っぽいが、従って誰の目にもハッキリ見える、理解という心的な 出来事を把握しようとしているのだ。 それは、その諸々の随伴事象の背後に隠れているもの、である。 しかし、その把握は現実の試みにまで至らないのである。 理解のあらゆる事に共通な何事かを発見したとして、なぜそのことを理解としなければな らないか。 わたしが、理解しているがゆえに「今や、わたしは理解している」と言うとき(※以上の ことがあるのか?)、その時は理解という出来事は全く隠されていない(※そのものであ るはず)し、隠されているというのはありえないことだ! これは、混乱か? 「今や、私はそのシステムを理解している。」ということが、ある式に思い至る、その式 を口にする、書く、というのでないならば、その式の発声表現の背後もしくはそれに随伴 して成り立つある出来事の記述、ということ へと、やはり帰結しないか。 その式に思い至った、書き続けられるというのを正当化するようなある種の状況。 しかし、理解を「心的出来事」と決して考えてはいけない。それは混乱させるもととなる 語り方である。その代わりに どのような”状況”で、「今や、私はその先を知っている。」というのかと問うこと。 「理解」ということが、特徴的な出来事(※特徴的な状況)があるといういみでは、 理解は心的現象でない。 (この心的な現象とは、ある苦痛感覚やメロディーや文章として 聞こえてくる こと。)』 【以上、「哲学探究 PHILOSOPHISHE UNTERSUCHUNSEN」BLACKWELL Pub,また大脩館版 ウィトゲンシュタイン全集8(藤本隆志訳) をもとに、本稿の筆者の責任でもって 少し短縮整理してみたもの。※の括弧内は自由な補い。143〜154原文参照のこと・・】 こういったウィトゲンシュタインの議論に、今また耳を傾けてみることは 大きくはあるが、 混濁したフロイトの話に、ばかりにとらわれて話を進めるより、役に立つので こういった議 論の奥へとこれからの部分で考えてみたい。また、ついでに幾つかのことを言っておくなら 以上のような、引用部分の論述は 特に0と自然数もしくは簡単な整数といった数列に関しての み意識的に話題の中心となる「単純な言語ゲーム」として例が選ばれている訳だが、本来、別の より複雑さを持った場合の方が、ここで扱われている問題の射程が、より直接的になるかもしれ ない。 すなわち、実数に属すとはいえ、より複雑な記述がされる無理数の発想を含むような対数計算を 計算尺で近似値を求めようとする場合など、も考えてみることができよう。そこで、たとえば 何本かの重なった板きれは、何かを理解しているなどと云えるかとか、そうした際にわれわれの やっていることは、板きれを用いないときと何が違うか?とか また、ある限定された条件で、 曲線の内部の面積を丸覚えした式で導くことが出来るひとが、教科書の記述をろくに読みもせず、 また説明を全く忘れていたとしても、答えを出せるのなら極限の発想を無意識に理解していたな どと話すことの正否とか、また随分違ったことのように聞こえるが、ある複雑な曲を記憶してい て、その複雑な「音列」をある面で理解し(ある規模以上になれば人間は”ある種の理解”無し には全部記憶など出来ないから)記憶して、その音列を鍵盤で再現出来、またそれが百回だろう と繰り返せるようになり、一方、その際の一々の指の動きなどは、殆ど関知せず、他人からその 曲の部分の行った運指を訊かれても精確に覚えていない場合など。最後の例における”無意識” は、興味深いものでもあり典型的なものでもある。そのひとを、少し違った観点(傾向?)で鍵 盤に向かわせてやると能力がほとんど十分に出し切れないといったよくある現象も偶然的とはい えない、重要な関連の有りそうな問題となる。普段 意識しない個々の指の動きを思うように誘 われる場合(”あがり”なども良く似た現象etc)。ムカデが自分の足の動きを考え込む話し・・・。 (こういった音楽への話題の関連は、実は『探求』全般で強く暗示されている・・) 以上のような例を付け加えてみて、敢えて「単純な言語ゲーム」に拘らなければ、上の引用文は 自然に関連していくと思えるし、ウィトゲンシュタインの論点が本来リアルで社会的なものによ り、つながりうる疑問であることを、予想させることが出来るかもしれない。 さて、上記引用文の『・・ここの意識している状態と傾向の対比を表すのに「意識」「無意識」 という語を使うこと程、混乱を招くものはないだろう。 なぜなら、この一対の語は、ある文法的 区別を覆い隠してしまうから。・・』とあるように、上の説明全体は普通しばしば誤って 「意識」 「無意識」の混乱を招きやすいことばで説明される現象の、実態を描き出そうとしている文章だと も云えるわけ・・・。そしてそれは理解ということを巡ってまず、「応用」との関連によって成立し ている語であるとする。が単純に代数式の導入を思い浮かべるようなまた応用だけの方を考えても いけない。確かにいちおう2つのことを前提とした言い方となるにせよ、一方を「心の状態」のよ うにして考えると まず持続しうる苦痛などと根本的違いがあるにも関わらず、一緒くたにされる 言い方になりがちである。 また さらに 理解は、知る、能う という語と似た文法を持つことに注目すべきだし、しかし またそれとは少し違って、一瞬のうちに起こることをも いっている場合のあるのも大事で、そこ には、特徴的な表情がある。さらに言うべき事はこうした規定付けをこの問題は、根本的に嫌う ところがあること。・・・etc「理解」を考えるときその特徴的な状況全体を、考えないと大きな文法 的混乱に導かれる可能性がある・・・。 敢えて、要約という目的のために一面的、大変乱暴な要約 を行ってみれば、こういうことも出来無くはないのだが、(当然、こういう乱暴な要約は別の文脈 に置かれるなら、大きな混乱の温床になりかねない・・というのも、こういった問題の本質ではある。 ・・・)こういうふうに仮に整理して見るだけでも、上記の引用文の そのこと自体は ひとが素直に 受け取れば本当らしいこと言ってるようであり、説得されそうでもあるにせよ、しかし、こういっ た文章になれていない人の場合は、まず、こういった説明は本当に説明と云えるものなのか?また こう理解することが実際何の役に立つものなのか?その由来も含めた大きな疑問を持つだろう。 こういう方向に考えを進める際に、やはり重要になるのはウィトゲンシュタインが主著として生前 唯一一応の出版を認めていた『論理哲学論考』を見てみるのが手短であろう。(もう一つの主著と いうべき『哲学探究』は遺著で 大体のまとまりを持ったものになっているにせよ、現行のアンス コムらの編纂した標準的なブラックウエル版なども、 本人が出版する最終的な形をとったもので ない・・・)
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