※Sフロイトの『夢判断』について:K     

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【K・E】

 フロイトの"ある種"独立的な理論構造。フロイトは夢の部分的覚醒説というものに特に警戒     
 して反論するわけだが、「・・この本来の夢作業は、覚醒時思考よりも、だらしなく、不正
 確で忘れっぽく、不完全だというのでない。夢作業は、覚醒時思考とは、質的に全く別のも
 のであり、(以下の意味で・・編者注)だから夢作業を不用意に覚醒時思考に比較すること
 は許されないのである。夢作業は、そもそも思考したり計算したり判断を下したりはしない
 のである。それはただ変造するだけである。」(下巻・p254)だから、夢みるとは「まず検
 閲に引っかからないように、移動、圧縮、したりして」いろいろと「変造」する"作業"をい
 うことになる。こういうことで、確かに、部分的覚醒説にありがちな、夢が全くの無秩序で
 あるとみなすことも避けられるし、逆に、余りに誇大な夢世界の構築(例えば、それの代表
 はショルナーの説だという)にも、陥らず、"利己的な願望"に基づいて、変形を作り出すし
 くみを、移動、圧縮、検閲(削除)という機械的なイメージの言葉と、その言葉を含めた概
 念装置のようなものでもって、無意識というより精確にいえば意識と無意識の"境界"(cfウ
 ィトゲンシュタイン『論考』の"世界の限界")を、描いてみせるのだ。歪曲、移動などは、
 結局、検閲する「前意識」によって、無意識から発する願望は前もって、変形(加工)され
 るなどと論じていくのを、フロイトはそういう発想で行うのあり、このことが非常に重大で
 あるから、「心理学が、この問題を"心的なものはまさに、意識的なもの"であり、"無意識
 的心的過程とは明らかな矛盾である"などと言葉の上だけで説明しているかぎりは・・」(下
 巻・p384)と、当時の心理学の現状に対して"無意識"の重要性を強調する一方、「精神神経
 症の新しい文献に好んで用いられるようになった上部意識と下部意識という区分もわれわれ
 の採りがたいとするものである。」(下巻・p388)というように心的なものと意識を同一化
 して単純に区分することに反対しているのである。


 しかし、また このような困難な対象を、利己的願望、前意識、移動、圧縮、検閲といった非
 神秘的な印象の言葉で描き、その下に精神の中に生理学から独立した個々の"機械"(フロイト
 の好んだ言い方のように)の即物的なイメージのものを置くことは出来はしたのだが、白日の
 下に眺めようとするなら、本当の機械と違って、余りにそこにある物質的な機構との必然性が
 薄く、実際デュシャンの大ガラスのナンセンス機械と似たような、奇怪、強引さの不自然なニ
 ュアンスが漂う。(こういったフロイトの"ある種"独立的な理論構造に対して、生理学的記述
 の要求は自然の明瞭さを要求しているものとしてある程度、もっともではある。人間の肉体の
 各器官の対応、関係を想像しうるものか?)

 ここでわれわれは、フロイトが観察したような現象に別の説明を与えることを試みてみたくな
 るわけだが、かといって、本稿において、「新たな夢理論」などを提出するのが目的なわけで
 は全くないし、そうしたとして、あくまで、フロイトの理論の特徴を浮き彫りにするための補
 助手段でしかないことは勿論である。だから、私は簡単に幾つかのことをここで付け足してお
 こう。


 その際、最も注目に値するのは、ショーペンハウアーの夢や妄想に関する説とフロイトの夢理論
 との、関係である。むしろ、フロイトとショーペンハウアーの説は、ある意味で夢を高く評価す
 る点などで似ている訳だが、実は重大な点で根本的に相反する。だから、フロイトは、夢判断な
 どで、ショーペンハウアーなどについて夢を狂気の一種のようにあつかったなどと、その説の有
 名さに比すれば非常に簡単にひとことで済ませてしまおうとする。ショーペンハウアーは、実人
 生と夢の差を、長い夢と短い夢といったりするぐらいであり、前後の因果関係ぐらいでしかはっ
 きりした差はないし、夢自体の中は実人生と変わらぬ位のものがあるといったりする。また、彼
 において元来 夢や妄想、狂気、そして天才のインスピレーションは“根拠の原理に従った相互
 関係の認識”から離れたイデアの世界に近いことで共通するのである。そして、ショーペンハウ
 アーは、妄想とは平常時は過去とつながっている記憶の糸が、ばらばら散りじりになって、「継
 続的なつながりが無くなってしまい、過去に向かって均等につながっていく回想が不可能になっ
 てしまい・・・その回想には隙間がある。この隙間をフィクションで満たすのである・・」もの
 だと云うわけだが、夢の混乱もこの種の切れ切れの記憶とフィクションで、間を満たすと云うこ
 とでかなり説明できる。ただ、こうなるとフロイトのいうところの部分的覚醒説にとても近くな
 る。ショーペンハウアーのいう”フィクション”でつなぐ、というのは、面白い考えでもあるが
 、単なるフィクションでは無規定的なので、ここに私はフロイト的な”利己的願望の考え”が利
 用できないかと考える。フロイト的な利己的願望、むしろもっと言い換えてしまえば”ある主体
 の自分の態度を作るためにする無意識な活動”が、夢の記憶の糸の切れ切れの流れの中で、その
 場その場で、無意識に”解釈を与えていく”訳である。本人が知らないままに、かってに夢の記
 憶の流れは、場面を切り替え、もう一つの場面、へと飛んでいく。態度、もしくは「情動は保持
 される・・フロイト・夢判断“H 夢の中の情動”p194など」から、2つの場面の似た情緒を持
 つ部分は、”解釈”されることで、ごっちゃになって重なったりもしくは移動したりする。(c
 fフロイトの圧縮、移動)現実の体験の場面はそれぞれその中で普通の意味のつながりを持つわ
 けだが(旅行に行った体験なら、その町の現実の位置関係、現実の歴史、社会構造等の事実)そ
 こには主体からすると、又別に一定の意味があるから(その町のその人にとっての雰囲気好悪印
 象、人生におけるタイミングetc)、場面が重なったり混乱すると却って、その主体自体の態度
 の特徴のみがはっきり出てくる。・・だから、夢解釈ということもそれなりに必然性をもつ・・
 このようにフロイトの『利己的願望』による、固定的な圧縮、移動、検閲等の仕組みによる夢形
 成でなく、上述のように利己的願望を表情、情緒、態度によせて考えることにより、フロイト流
 のそれ程作業的、また独立した”機械的”組織の営為としての”夢”にせずに、われわれの夢に
 対する自然な印象でもある”ある種の偶然の形成物””脳の器官のお休み(欠落)の副産物”で
 あることと 逆に” 何らかの人間精神の根本的なものの現れ”という印象の両方に馴染ませる
 ことができそうにも思える。  

 またついでに言っておけば、フロイトの記述からでも”イルマの夢”や”老婦人の夢”などは、
 ある程度気分の振幅が認められるようにも思える。ソナタ形式の第1主題と第2主題が、対比的
 な表情を持つことが多いと言われる。これは詩の形式などにも似たような反映のあるものが認め
 られるし、これはそもそも人間の普通の情緒の重要なパターンである。浮かれた気分は愉しいが
 、あんまり続くと実際危険であり、また沈んだ気分も必要だが、逆に心に害を及ぼす。中間の態
 度はむしろ難しく、単に刺激の乏しいだけのものになりがちである。こういったことは夢の中に
 もパターンとして登場しそうである。”老婦人の夢”の夢の繰り返し登場するざわめきの部分は
 、”検閲”とフロイトによって呼ばれているが、それだけでもなくバランスを取る沈んだ部分と
 いうことも関係あるかもしれない・・・等々。


                 【ココまで2002年4月17日くらいに掲載して、現在中断したままになっています。
                他のページを、幾つか少し書き込んでいましたが、少々私用も重なりこの第2
                部もまだ出来ていません。この2部の後半に書こうとしている問題を、最初の
                予定では部分的にあっさりまとめておこう、と思っていたのですが、やはり、
                重要なので、内容を全体的に扱う必要がどうしてもあるだろうなと考えたから、
                というのが理由ではあります。しかし、(7月17日現在から・・・・)
                今から2〜4週間程度で、この2部の残りを書き足すことが出来るハズです。】
   
      ◇◇只今、このあとのページを少しづつ繋いでいっていまーす?(2002・8月)









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