※Sフロイトの『夢判断』について:K
◆ p,10 ◆
【K・A】さて、フロイトが、先程の引用部分p330の隣で述べていることを、【T】での記述の補足にもなるし、 すこし先回りになるところもあるがついでに考えておく。 「・・満足体験の経験・・この体験の本質的一構成要素は、ある種の知覚の出現(小児の場合で云う と授乳の際のことが、例となる)であり、この知覚の記憶像は、その時以来、欲求興奮の記憶痕跡と 連想的に結合して、あとに残る。この欲求が、その次に現れるや否や、さきに成立している結合関係 のおかげで、ひとつの心的興奮が生ずるのであろう。この心的興奮は、かの知覚の記憶像を再生させ 、知覚そのものを再び喚起しようとし、だから、第一次満足の状況を再現させようとする。われわれ が願望と名付けているものはこういう興奮に他ならない。知覚の再出現が願望充足である・・」 (夢判断下巻p329) ある面で定義に近いこのような記述を読めば、一層はっきりするが、フロイトのいう欲求は、結合関 係にあり、"ひとつの心的興奮"として、願望となっていくのであり、「ひとつ」になるためには、個 々の欲求がはっきりした独立性を失う必要があり、混沌とした記憶となる ゆえに願望になれるとい うものなのだ。だから、イルマの夢でフロイトが描いた複雑な人間関係の混沌としたような欲望であ るところの人間の願望の描写もこの流れで必然性をもつのである。(イルマの夢や先程の引用部分か ら、フロイトがどのようにしてこういう発想に辿り着いたか、ここでは想像してみることが大事で、 こういったとき、確かに論理的つながりは欠けるが、ニュアンスの多彩さのあることの多い日本語の 各語を、そのままにしてこれらの概念を考え続けた方が、想像を明瞭にする助けになる) 希望と言う言葉は、限定無しでも普通に用いられる言葉で、(希望を持ちなさいetc)それは、欲求 に対するよりもっと、この語がより鮮明な"表情"と結びついているのが、解ることばだからなのだが 、 そこからすると、願望という言葉も、この希望という言葉に近いトーンの表情としての使われ方なら、 特定の限定無しで使われる場合がある。(だから、願望を持ちなさい。とは普通使われる文句でない のだが、希望から少しずれたトーンのものとしての願望、という特別の言い方で用いる場合はありう るということ。)こうした表情ということで、願望をとらえたなら、それは個々の欲求と関係を持っ たものだし、しかし、それを統一するのは「表情」という似てはいるが欲求と別次元のものだから、 欲求全体が混沌とした一体となるフロイトの描くような在り方の必要はない。何かを対象とした欲求 があり、それに相応した事柄があるし、そこに統一した表情であるところの「願望」があっていいし、 それは個々の欲求とはまた別で、無限定でもある。ところが、フロイトの願望は、同じように限定無 しの願望だが、このような「表情」というものでなく欲求も願望も同じく「エネルギー」と論じられ るのである。またそのようにしか想像されない。それで対象に限定的に結びついているはずの願望が 無限定な願望となる。この矛盾し混沌とした状態のものがフロイトの願望のイメージの描写にそのま ま、つながってしまっている。 こういったフロイトの願望を、導く発想の特徴は、フロイトの全理論の中核をなすものであるといえ るくらい、重要だからこれから、いろいろなことに関連して論じなければ十分でない。 意識や先験的統覚といったぐあいに、それまでの哲学で述べられていたからには、当然、意識で無い ものの存在もあるいみでは、前提とされていた訳だから、フロイトの明らかに重大なほんとうに新し い主張は、以前の人たちのような無意識が存在する程度の、消極的なものでなく、非常に根源的で積 極的な働きをしているという一種の発見の方なのであって、(たんに無意識の発見でなく・・)それ は、次の夢の歪曲、検閲という考えに端的に現れている。
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