AB2c:・・・ピアノとOrchのためのシンフォニアコンチェルタンテ
                               。。ピアノのオブリガート付の協奏的作品。。(1927)




 1)



                     I. Maestoso -- Allegro spiritoso

                     II. Andante comodo

                     III. Allegro vivo, sempre scherzando


                             ウイリアムウォルトン指揮    バーミンガム市交響楽団 


                       フィリス ゼリック  (pf)

                改訂版    1945年8月 録音     (EMI CDH 7638282F)






     Osbert  Sitwell        (L)

   &   Edith  Sitwell         (C)

   &   Sacherverell  Sitwell (R)           2)    バーノン ハンドリー指揮 ロイヤルフィル   キャスリーン ストット(pf)


                                     オリジナルバージョン 初録音  1989年7月 (conifer CDCF175)



      ウォルトンにとっては、協奏曲というのはとても重要なジャンルになるが、ある意味wwの1929年のヴィオラ協奏曲は、
      その評価の一般的高さを考えても、彼の音楽的アイデンティティーを最初に確立したものということも出来るし、そこか
      ら、中期と呼ぶべきエネルギッシュな作品群を区分してみるのも、さほど間違ってはいないと思う。このコンチェルタンテは
      その僅か1年前くらいに作曲されたものらしいのだが、ヴァイオリン、チェロと続くかれの3つの協奏曲に比べると、多少
      内容、規模において軽い感じがするのは否めない。事実 コンチェルタンテと銘うたれてるのも、そのためもあるだろう。
      オブリガート程度にしかピアノが参加しないということだけでなく、いろいろな意味でヴィオラ協奏曲は作曲家として
      長足の進歩と重要性がハッキリ出てきている独自の協奏曲となるが、この一種のピアノ協奏曲はその準備的作品ととるのは結局
      事実に近いかもしれない。とはいえ、どうでもよい作品ではない。シャンドスの全集盤では何故かこの曲は 全く取り上げられて
      いないのだが、?(・・これは勘違いデシタ。ファサードのオケ版続編のCDが、あり そっちには入ってますー後記ー)作曲家自
      身は、2度も自ら指揮をして録音しているし、十分 独特の魅力はある。
      ウォルトンには、コロニアル的エキゾチズムといえる作品群があり、それはまたwwの世界の基本的イメージの一つとなっている
      と考えてみる事が出来る。すなわち そういった要素は まず、シエスタ であり、ファサードの一部であり、ヴァリカプリチ
      やヨハネスバーグフェスティバル序曲にもそういう要素は漂い、何より交響曲一番の終楽章のコーダのフィナーレ直前の一時的
      に静かになる部分にも一瞬の幻影めかしく現れるものだが、このことは単なるエピソードでは済まない問題があることを示して
      いる。
      (実際、この曲に、のちの「クリストファーコロンブス組曲」で使われている素材が存在するのは目立っている・・)
      いわゆる「リゾート」や「レクリエーション」は、休息だったりや 労働の骨休みとして行われるため、思考の対象というより
      思考の”以前のもの””空白地帯”として意識されがちだが、近代社会の本質的な構造の一部であり 矛盾の析出点ととらえる
      ことが必要な訳である。ところが、大衆産業化した文化装置はそれを忘れさせ、日常的無意識化させる機能で働く・・                         ・・・・・・・・・・
      もちろん、WWの他の主要な曲に比して、全体がリラックスしたものであることが、この曲のおおきな特徴ではある・・アル意味、
      速度の構成も急ー緩ー急で 発想もモーツアルト時代のそれ風に屈託無く陽気でにぎやかに終わるとも云え サイズもそのくらい。
      ただ 内容的な組立は全くそんなものでなく、変形 融合されたもので、・・・・・
      せわしい独特な英国的傍若無人さの
      3楽章の終盤近く4つのトッティの打撃で衝突事故のように停止した後、静まり濁ったカオスの中からソロのピアノの5連譜の滑り
      落ちる音形が繰り返して上昇し高音のDで止まった所で弦とホルンがffでなり、そこで肯定する言葉のように全奏で鳴らされる
      第1楽章の最初のマエストーソの主題が、思い出されたように登場して共有的に使われるのも循環作法風でもあるし、
      単純なソナタ形式で全然ない1楽章も基本的
      にトッカータのアイデアで、それが3つの楽章に全般化した発想ともいえる・・   改訂版と比較して、このオリジナル  
      ヴァージョンの一番の違いは、2楽章のもつ執拗なピアノのオスティナートと多彩な音色感の配置の強調の度合いにあると
      思われるのだが、(改訂版はよりスマートなソロパートの書法etcはあるが そのほかは まあ 同じようなカンジに聞こえる・)
           C,パーマーのように、この時代の創作の経緯のひとつとして当然あったであろうが、そのペトルーシュカの影響を過度に考える
      ことは、結局 新古典主義美学に単に近づけて見るだけの話になり、そして それはWWの最も特徴的な本質を見落とすことに繋が
      る。むしろ、他の作曲家においては ある程度役立つ イミ付けは WWの場合特に、不似合いな色づけを与えてしまうものと、
      なりかねない。この曲のある美しさを本当にとらえるのはWWの無意識の批評性に気づくことでもあろう・・
      2楽章の冒頭にけだるい甘さでソロのホルンで始まるメロディーに伴い何度もむしろ神経症な風に単調に延々受け継がれ繰り返
      されるピアノの1楽章でも使われたフレーズがつくのだが、そこにおいて レヴィ=ストロースではないが、「悲しき熱帯」
      なる言葉の響きが元来どこにあるか?と問うことは 奇矯なけたたましさに始まる、3楽章にも正当な意味づけと座りの良さ
      を与えるためのヒントとなろう・・・・
      また、C パーマーは、この3つの楽章が シットウェル家の3人の肖像という説を紹介している。これとてすべてが説明がつく
      というような視点でもないであろうし、・・・・・・     


   3)      ヤン ランタム‐コーニグ指揮  ロンドンフイルハーモニー  エリック パーキン(pf)

                                          (CHANDOS 9148)

               ( 語り抜きの「ファサード第1,2,3組曲」など、との組み合わせのCD )






      どういった訳だか、シャンドスの全集のうちこの1枚だけ、最近まで気付かずに筆者は、買い忘れていた演奏。1992年に録音さ
      れた、この演奏は、幾つか細かい箇所で疑問もあるけれど、全体としての曲のイメージが、自然に聞こえて来るし、こなれたや
      り方となっているイミで、この曲の既出CDのうち最も素直に楽しめるものと思われる。
      これで聞けば、参考資料的な曲で無く、20世紀音楽の必然的レパートリーとしての一個の世界があり、より豊かな演奏の可能性
      を持つ曲ということが想像しやすい。
      この演奏自体が、特別にハイクオリティーである訳でないが、後発のメリットは、確かに得ている。
      







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