「 義士茶会 」 流祖山田宗徧と忠臣蔵の関わり
吉良上野介は三河吉良荘に所領を持ち高家であり、宗旦から茶を学ぶ茶人で流祖宗徧とは同門で旧知の間柄といわれており、宗徧が江戸にに移った後、お茶で交流を深めていました。
松の廊下の刃傷事件の翌年十二月、吉良上野介が上杉家へ引き取られる事となりましたが、宗徧等の勧めで、茶会を催してから江戸を離れることとなりました。 宗徧から巧みに、吉良邸での情報を知りえていた大高源吾は十四日に大切な茶会があることを知り、吉良邸での茶会の日を確信その夜
、赤穂浪士の討入が決行される事となりました。討入の当日流祖宗徧も吉良邸に宿泊し、この討入に遭遇しましたが長屋に泊っていた為無事でした、持参していた四方釜は深い雪の中に隠し無傷のまま今日に伝わっています。
吉良殿の首級は舟で泉岳寺へ送り、大高源吾が水屋から持ち出した利休伝来桂川籠を首級のかわりに槍に差しかざして泉岳寺に向ったといわれています。
桂川籠も無事今日に伝わっています
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宗徧は吉良上野介の家臣小林平八郎、赤穂浪士の大高源吾と双方の弟子を持つことになりました、小林平八郎は剣の達人と言われ討入で命を落としてしまいます、生前師匠の宗徧に瀬戸茶入「山桜」を献上します。
しかし宗徧 はとても素晴らしい茶入であった為 、手紙を添えて返しました。 今日奇しくも宗家に所蔵され、義士茶会で用いられています。
大高源吾は子葉という雅号を持ち、俳人宝井其角とも交流があった。討ち入りの前夜、煤払竹売に変装して吉良屋敷を探索していた源五が両国橋のたもとで、其角と出会った際、其角は、はなむけに「年の瀬や水の流れと人の身は」と詠んだ。これに対し、源五は「あした待たるるこの宝船」と返し、仇討ち決行をほのめかしたという逸話が残ります。
茶道にも造詣深く茶杓も大高源吾の自作の茶杓銘「節ナキ」も宗家に所蔵されています 宗徧流では、毎年12月に義士茶会を 家元邸を始め 全国の宗徧流支部により催されています。
今回の梅鉢茶会で金沢では初めての「義士茶会」を行いました。 12月の寒い日ではありましたが、前日の小雪交じりの時雨
も無事あがり、松山松平家(討入後、大石主税を預かった藩)伝来の山鹿流陣太鼓でお客様を迎え致しました、待合に大石内蔵助の消息を掛け、桂川籠、等忠臣蔵にちなんだ設えで250人余のお客様に御茶一服差し上げましたことは誠に有難い事でございました、御客様には大変お待たせしお詫び申し上げます。
以下は当日の様子です、ご笑覧下れば幸いです。
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