で強い調子で言いました。「お父さんが断酒して、やっと生まれて初めての家族団らんができると思っているのに、どうして来てくれないのよ。お父さんは私たちに償いをしたいと思わないの?」私は涙声で必死に訴えました。こんなに自分の感情をストレートに父にぶつけられるのも初めてでした。「一体誰のための断酒なのよ。」

 以前なら、売り言葉に買い言葉で怒鳴り合いになるのが落ちだったのに、今回は違っていました。父は一呼吸おいてから、静かに、けれどきっぱりと言いました。「誰のための断酒かって言われたら、それはもちろん自分のためだよ。」その一言で私は頭がガーンと殴られたようになりました。私は何か別の言葉を期待していたのです。「今まで迷惑をかけた家族のためだよ」とか何とか…。稚拙な喩えかもしれませんが、私だったら自分のダイエットのためには我慢できなくても、子供の妊娠中や授乳中これを食べてはいけないと言われたものは絶対に食べないというように、自分のためにはできなくても子供のためにはできるという感覚があったので、父の「自分のための断酒」という言葉には少なからぬショックを受けました。けれど後になって考えてみると、やはり「自分のため」というのが人間として偽らざるところで、一番確かなものかもしれないとも思うようになりました。なぜなら、他の誰かのためと思ってやっていると、その人に裏切られたり期待通りの反応を返してくれなかったりすると、それを言い訳にして自分の決心を翻してしまう可能性だってあるからです。

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 先ほどの話に戻ると、その時の電話で父はさらに言葉を続けました。「『償いたくないの?』ってあんたは言うけど、償いっちゃできるもんじゃないが。それだけひどいことを、お父さんはあんたたちにしてきたがよ。だからいくら償いしようと思ったって、できるもんじゃないが。お父さんにできることは、これから一日一日酒を飲まない日を重ねていって、昔みたいな迷惑をこれ以上かけんようにすることだけながだちゃ。」父も泣いているようでした。「千葉に行ったら、博さん(私の夫・仮名)だって博さんのお父さんだって飲まれるから、こっちも辛いねけ。」
 「お父さんが来た時に、お酒出すわけないじゃない。そんなのみんな分かってるよ」
 「それもまた辛いねけ。おらがいるせいで、みんな我慢しとると思うと…」

 話はいつまでたっても平行線でした。私は父の気持ちがわかり、断酒を甘く考えていた自分が恥ずかしいのと、せっかく断酒できて家族団らんができると喜んでいたのに、それが叶わない悲しさとで、涙が出て止まりませんでした。

 この電話と相前後する頃、もう一つの事件がありました。父の六十八才の誕生日を目前にして、「お父さん、もうすぐ誕生日だね。プレゼントは何がいい?」と聞くと、帰ってきたのは「こんな歳だから、もう何も祝ってもらわんでいいわ」という、単なる遠慮心から発せられたのではなさそうな、どこかなげやりな調子の言葉でした。父の意外な声の調子に、(断酒して二ヶ月もたったのに、どうしてそんな暗い声を出しているの?)と私は

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驚きました。けれどそれは、父が断酒したことによって、明るい人生が開けたと有頂天になっていた私の間違いでした。病院や断酒会が父の世話を引き受けてくれたような錯覚を起こし、勝手に身軽な気持ちになっていたのは私だけで、父にとって断酒は、新たな自分との闘いの始まりであったのです。それは、好きなだけ飲んで暴れていた頃よりもはるかに辛い闘いに身を投じたことでもあったのです。毎日がお酒の誘惑との闘いであるばかりでなく、断酒会においては、自分では身に覚えの無い過去の醜態を母の口から発表されるわけですから、さぞ毎日が面白くないことだらけだったでしょう。事実、断酒会に入ってしばらくは、母が自分を侮辱するために事実無根のことを発表していると思い込み、会に出るたびに不機嫌になっていたようです。それでもお酒は飲めないのですから、よほどのストレスだったことでしょう。後に父は、「断酒して初めて、家庭がこんなにも楽しい所だと思えるようになった」と言うようになりましたが、まだ断酒も日の浅い頃は、生きがいであったお酒も奪われ、自分のかつての醜態を大勢の前でさらされることによりプライドもずたずた、断酒して何の楽しいことがあろう、苦しいだけだ、というのが正直なところだったのではないでしょうか。形ばかりは断酒しているものの心までは吹っ切れていないそんな状況での、「この歳になって、誕生祝いも何も…」と言った父の言葉の響きは、父の断酒で浮かれていた私の足を現実にぐっと引き戻すだけの重みを持っていました。(断酒にこぎつけたことがゴールではないのだ。勝負はこれからだ。一日一日の断酒を継続し

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ていく為には本人の意志が不可欠なのは言うまでもないが、それには家族が横でしっかりと支えていかなければならないのだ)と、思い知らされたような気がしました。

 この時の電話で父の言葉に不安を覚えた私は、父が拒否した誕生祝いを、カードという形で敢えて贈ろうと決心しました。それには確かこんなことを書きました。「お父さんは『こんな歳になって誕生祝いなどいらない』と言ったけど、お父さんは断酒して生まれ変わったばかりなのです。何もかもお酒に逃げていた暗闇の人生から、愛と希望の人生へと、生まれ変わったばかりなのです。だから私は、その生まれ変わったお父さんに、心からお誕生おめでとうと言いたいのです。今のお父さんは聡と同い歳ですね。日々成長している聡に負けないよう、お父さんも一日一日を大切に生きていって下さい。」後になって知ったことですが、父はこの誕生カードにとても感激してくれて、今後は自分のことを、カードにある「希望ある人生」からとって「ホープ(希望の意)さん」と呼んでもらうことに決めたそうです。母も同様に、泣いてばかりだったかつての人生にさよならして、常に明るく家庭を照らす太陽のようでありたいとして、「サン(太陽の意)ちゃん」という呼び名に変えることになりました。

 その誕生カードが父の気持ちを前向きにしてくれたのか、それから数週間後の一九九五年九月、両親は千葉県松戸市の我が家に二泊三日の日程で遊びに来てくれることになりました。それは両親にとって、初めて初孫の聡に会う機会でもありました。生後十ヶ月の聡

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はあいにく人見知りが強くなった時期で、たった三日という短い期間ではなかなか打ち解けることができませんでしたが、それでも父は「聡、どれ、爺ちゃんとお馬さんやろうか。ハイドードー!」と畳の上を四つん這いになって歩くなど、終始涙ぐましいばかりの子煩悩ぶりを見せていました。私はそんな父を見て、(私の小さかった頃も、父はこんな風に私をあやしてくれたのだろうか)と思ったりもしました。

 両親の滞在中に一度、近くに住む夫の両親も我が家に呼んで、夕食を共にすることにしました。もちろんお酒は一切抜きで。その席で母は、アルコール依存症だった頃の父の事件の数々を、正直に包み隠さず話していました。私は内心(ホープさんは今断酒しているんだから、何もそんなあからさまに過去のひどさをこの場で言うことないんじゃないの?)と思っていました。それは決して、嫁ぎ先での私の立場とか体面を考えてのことではありません。断酒会で発表されるのとは違い、夫の両親がいるこの席でこんなにも赤裸々に言われることは、父をとても傷つけ、事態を悪くするだけだと思ったからです。母の言葉に口をはさむこともせず、黙ってうつむいている父を傍らで見ながら、私は不安でしかたありませんでした。そんな時、父がようやく口を開きました。「実を言うとね、娘が嫁に行った家のご両親の前で、昔の私のひどさを話されるのは、本当は耐えられんことなんですよ。だけど、断酒していく上で一番の薬は、自分が過去にしたひどいことを周りの人から聞かせてもらうことなんですわ。だから、私は家内にいつも言うとるんです。『一番

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ひどかったことから話してくれ』と。そうせんと反省にならんがですわ。毎日毎日反省の材料を与えられることによって、その日一日どうにかお酒をやめとれるんですわ。」母も横から口を添えました。「こんな親の恥をわざわざ娘の嫁ぎ先の両親に話すのは、私たちだって本当はしたくないんです。それでも『敢えて隠さずに話そう。そうして今ある姿をわかってもらうことが、今の私たちに示せる精一杯の誠意とお詫びになるんじゃないか』って。千葉へ来る前に、二人でそう話し合ってきたんです。」

 その時ふと私の心に、(これだけはこの場で言っておきたい)と思う言葉が浮かびました。そして私は口を開きました。「あのね、ホープさん、サンちゃん。それなら私もこの場を借りて言っておきたいことがあるんだけど。実はね、私がまだ結婚する前のことだけど、ホープさんが披露宴のしきたりや何かのことでうるさく言って、いろいろもめたでしょ。その時博(私の夫・仮名)さんは自分のお父さんに、少しだけうちの事情を話して相談したの。その時博さんのお父さん、何て言われたと思う?『自分もお酒はよく飲むし、飲兵衛には飲兵衛の気持ちがわかるから、おまえが選んだ人なら信じるよ』って。みんな承知の上で、結婚を許して下さってたんだよ。」

 父も母も初めて聞く事実に少し呆然としていました。父の酒乱という問題を抱えた家庭の事情はずっと伏せて、体面だけは取り繕ってきたつもりの母でした。けれど母の知らないところで、父は何度か夫の家に不愉快な電話をかけていましたし、自ずと知られないわ

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けはないのです。それでも母はごまかしごまかし、娘の嫁ぎ先にだけは家庭の恥を知られないようにしてきたつもりだったのでしょう。それが蓋を開けてみると、実は何もかも承知の上で受け入れてもらっていたのです。父も母もその事実を知って驚くとともに、今まで大きな心で見守っていてくださったことに胸を熱くしていました。

 こうして両親が千葉に遊びに来た、たったの三日間は、私がそれまでの人生で初めて、両親と共に過ごす時間を心から楽しみ、時がたつのを惜しんだ忘れられないひとときになりました。

 時はめぐって、一九九六年三月。聡がまだ小さいためお正月にも富山に帰らずにいた私たちの家に、再び富山の両親がやってきてくれることになりました。「今度はもっとゆっくりしていって」という私のたっての願いに、母はゴルフ場のキャディーの仕事がちょうど冬休みだったこともあり、今度は九日間も来てくれることになりました。けれどこれもスムーズに話が運んだわけではありません。九日間も千葉にいるとなると、困るのは父が日課にしている断酒会に出られなくなるということです。私は「こんなめったにない家族団らんの機会ぐらい断酒会に出なくたって…」と言いましたが、父は頑として受け付けません。またもや千葉へ来る話はご破算かと思われるような状況にまでなりました。そこで私は、父になんとか千葉へ来てもらうための方策をいろいろと考えました。調べていくうちに、千葉には松戸市だけでなく近隣のいくつかの市にも断酒会があることがわかりまし

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た。松戸市の断酒会会長さんに連絡をとると、父が千葉にいる間、こちらの断酒会に参加させてもらえることになりました。断酒会というものがこんなに身近に、どこにでもあるものなのかと内心驚きつつ、(これで父も千葉にゆっくり滞在してくれる)と安堵したのでした。

 両親が千葉に滞在中、私は両親とともに松戸市の断酒会に出席するチャンスにめぐまれました。それは私にとって、初めて断酒会の中身を見る機会でもありました。父があれほどこだわっていた断酒会とはどんな所だろう、という興味がまずありました。そしてそこで父や母はどんな発言をするのだろう、と思いました。けれど断酒会の場で一番興味をもって待たれていたのは、実は私の体験発表でした。後で聞いたところによると、断酒会には本人以外に妻の参加は若干あるものの子供の参加はほとんど無く、実のところ皆、子供がどう感じ何を思っているのか一番知りたいところなんだ、ということでした。そこへ私が両親と一緒に参加したものですから、みなさん私の発表する内容に非常に興味を持っておられたのです。

 その日松戸市の断酒会にはざっと見て七十人くらいの参加があったように記憶しています。そのうち奥さん方は六、七名。二時間くらいの間に一巡するようになっているのか、みなさん簡潔に自分の話をまとめて発表していかれます。そのうち私が指名されました。私の場合、両親と共に断酒会に参加するチャンスもめったにないと思ったので、一つのエ

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ピソードに絞らず、小学校から結婚に至るまでの自分の気持ちの変遷をざっとかいつまんで話しました。そして最後に、「昔のお酒を飲んでいた頃の〈お父さん〉は許せないかもしれない。けれど今断酒して頑張っている〈ホープさん〉はとても尊敬できるし、これからも応援していきたいと思う」と、その時点での正直な心境を話しました。けれどこの文章を書いている現在は、その時の心境とはまた少し違って、(私は〈ホープさん〉が今お酒をやめているから好きなのか。いろいろな心の弱さからお酒に飲まれていった昔の〈お父さん〉を赦すことは、やはり無理なのか。もう一度父が飲んだら、私は今のように寛容でいられるだろうか)という大きな問いにぶつかっています。そしてその答えは未だ出せずにいます。

 この断酒会出席から約二週間後のこと。普段は育児に追われゆっくりと新聞を読む暇などない私が、その日はたまたま新聞をパラパラとめくり何気なく広告部分に目をやりました。そこへ飛び込んできたのが愛と夢をテーマにした童話コンクールの募集記事でした。今まで童話など書いたこともなく、ましてやコンクールに応募することなど全く頭になかった私でしたが、その日はこれまたなぜか募集記事の内容まで読み始めたのです。そして私の目はすばやく、「優秀作は童話本として児童福祉施設へ寄贈されます」という一文を見つけ、その上を何度も辿ったのです。小学校の頃、私のクラスには近くの養護施設から通う友達が何人かいて、私はその子たちとよく席が隣になりました。実は、勉強が遅れが

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ちだったり内向的だったりする友達の面倒見役として、先生がわざとそうされていたのだと大きくなってから聞きましたが、そんな大人の考えとは別に、私は純粋にその子たちが好きでした。もしかしたらその子たちには、普段屈託なく装っている私ではなく、悩んで傷ついている本当の私が見えているような、そんな勝手な思いを抱いていたからかもしれません。周囲の人の目には仮面をつけた自分の姿しか映っていないだろうことは、それだけ自分が立派に演じている証しとして嬉しくもありましたが、本当の自分を理解してもらえない淋しさはいつも付きまとっていました。童話コンクールの記事を読んでまず思い浮かんだのは、その子たちの顔とその頃の自分の姿、毎日押し入れの暗がりを見つめながら(自分は何のために生きているんだろう。悲しみ泣くだけの毎日のために、なぜ生き続けなければならないのだろう)と思っていた頃の自分の姿でした。しばらくの間その姿を何度も思い描いているうちに、私には一つの言葉が思い浮かびました。アメリカの友人たちが言っていた「神様の与える試練にはすべて意味がある」という言葉でした。それと同時に、断酒会がこれだけ各地にあるということから推察しても、そこにまだ結びついていない依存症の人がいかに多いかということ、そしてその回りには、かつての私と同じ思いをしている子供たちがいかに多いかということに、思いが及んだのです。その時初めて、アメリカから持ち帰った心の荷物――今まで答えが出せないでいた自分への問い――に、答えが見つかったような気がしました。つまり、(私の辛かった子供時代にも何かプラスの

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