意味があるとすれば、それは、その辛さを体験した者にしか書けないものを書き、同じ思いをしている子供たちにメッセージを届けることではないか)と思えるようになったのです。小学生くらいの子供には、親によって与えられる家庭環境を自ら改革したり、そこから脱したりする力は殆どありません。ただその中で悩み苦しむばかりです。しかもまだ社会的知識に乏しいこの頃は、(自分の家だけがどうしてこうなのだろう)とか、(自分だけがどうしてこんなに不幸なのだろう)と感じたり、またある場合には、(お父さんが暴力をふるうのは自分が何か悪いことをしたからではないか)と自分を責めたりして、一人幼い胸を痛めるものなのです。しかも誰に言われずとも、普段の母親の態度などから、家の中のもめごとは〈絶対に外に漏らしてはいけない秘密〉のように感じるようになっているのです。だとすれば、自分ではどうすることもできない現実を前に、子供がどうして今ある自分の生を肯定し、自分のこれからの人生に希望など持つことができるでしょうか。そう感じた私は、これまで一度もお話など書いたことがないという事実を無視して、無謀にもそのコンクールに挑戦し始めたのです。ただひたすら、そのメッセージが養護施設の子供たちのもとに届けられることを願って…。

 ところが三ヶ月程かかってやっと出来上がってみると、コンクールの規定の枚数を大幅に超えていることがわかりました。多少縮めたところで規定の枚数には程遠い上、どの部分も必要に思えて削れる箇所など見当たりません。こうなっては応募をあきらめるより他

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はなく、せっかく書いた原稿でしたが、(このまま取っておいて将来自分の子供にでも読んであげよう)と、封筒に入れて本棚の片隅に片づけてしまったのでした。

 一九九六年十月。私の二人目の子供の出産予定日を二週間後に控え、富山から母が手伝いに駆けつけてくれました。近くに住む義母はとても子供好きな面倒見の良い人でしたが、あいにく身体の具合が悪いため無理をお願いするのも申し訳なく、富山の母にキャディ―の仕事を休んでもらって、千葉の我が家に手伝いに来てもらうことになったのです。父も誘ったのですが、断酒会があるし、男では手伝えることが無くかえって邪魔になってはと、富山で一人留守番をすることになりました。

 私にとっては高校卒業後富山を離れて以来、一ヶ月もの長い期間を母と過ごす経験は初めてでした。富山にいる頃でさえ、働きづめか父の問題に振り回されてばかりいた母とは、ゆっくり落ち着いて話をしたことなど殆どありませんでした。言ってみれば、人生で初めて、平和な中で母と娘が水入らずで過ごす時間でした。どんなにか楽しい時になるだろうと、母が来る前から楽しみにしていたものです。母だってそうでした。ところが現実には、予想もしない母娘の確執の時となってしまったのです。

 原因を日常の中に求めるとすれば、料理や子供の世話に関するささいな意見のぶつかりあいが積み重なったこと、母が風邪をこじらせて寝込んだため、出産翌日に退院してきた私が新生児と家族全員の面倒をみるはめになり、母は自分が何の役にも立たなかったとい

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う自責の念に駆られたこと等だったと思うのですが、結局そんなことは問題の本質をとらえてはいないように思うのです。つまり、父が酒乱で荒れている頃、私はちょうど思春期だったのですが、母に心配をかけまいと相談も反抗も甘えもせずに、すべて自分の胸の内に押し殺してその時期を通り過ぎてしまったのです。出すべき時に出さなかった反抗期が今にして襲ってきたというのでしょうか。やっと遠慮せずに何でも言い合える環境になったと思ったところが、実は母と私の間には、何でも思ったことを言い合ってそれを健全に受けとめられる心の土壌が育まれていなかったのです。

 母になってからの私は、子供の頃淋しかった自分の二の舞を我が子にさせるまいと、何事にも手抜きをしない頑張りすぎの母親になっていました。そんな私が母のする家事にいちいち注文をつけるのですから、過去のことで私に負い目を感じている母は自分が責められているように感じ、ひどく傷ついたのでした。いったん狂いだした歯車は元には戻らず、他意無く言った私の言葉も、二人の関係をぎくしゃくさせる方にしか働きませんでした。結局いろいろ話し合った末、最終的には母の希望で予定より早く富山に帰ることになりました。千葉を発つ日、母は当分の間私が洗濯に困らぬようにと朝から何度も洗濯機を回して、おむつや布団カバー、シーツを全部洗い、それらを干し終ったところで、「自分が情けないから、お願いだから見送らないで」と言って玄関で挨拶をして出て行きました。

 ところで母が出発する前、私は母に何とかこの一ヶ月のお礼を伝えたいと思いました。

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母は「自分はこの家で何の役にも立たなかった」と思い込んでいましたが、実際は聡の保育園への送り迎えから食事、入浴、掃除、兄弟二人分のおむつの洗濯等、母がいなかったら絶対にこの時期を乗り切れなかったですし、夫も私も本当に母に感謝していました。もともと母に仕事を休んで来てもらっているのだから、その分の埋め合わせも兼ねてきちんとお金でお礼をするつもりで、ずっと前から用意してありました。ところが、母が心身とも変調をきたし約束の日を待たずに富山に帰ることになった今、(私たちがいくら感謝をしているからと言ってその気持ちをお金で返したら母はどんなに傷つくだろう)と考えたら、とても渡す勇気はありませんでした。それでも何かお礼の気持ちは伝えたい…。こんな結末になったからこそ余計にそれを伝えておきたい…。面と向かってそれを伝えられればそれが一番いいのだろうけど、今は何を言っても言葉どおりに受けとってもらえない恐れがあったし、それに、親に素直な気持ちを話すことに慣れていない私には自分の口から言うのにも抵抗がある…。八方ふさがりの中でふと私の頭にひらめいたのは、あの童話の原稿のことでした。ワープロ用紙に打ち出され、封筒に入ったまま本棚の片隅に眠っていた童話の原稿。私が生まれて初めて書いたお話で、涙の妖精との旅の中で母の愛情に気づかされ生きる希望を抱くようになった少女のことが書かれている、『涙がくれたおくりもの』と題された童話。私はとっさに、その童話を母に渡すことを考えました。けれど同時に、親には打ち明けたこともない自分の胸の内が綴られた童話を母に見せることに対し、

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ものすごい抵抗を覚えました。あれこれ思い悩むばかりで決心がつかぬうちに、母の出発時間が迫ってきました。(このまま母を富山に帰してしまっては、母と私の間に一生埋めることのできない溝が残る…。)最終的にはその思いが私の心を決めさせました。私は急いで手紙をしたため、それを童話の原稿が入った封筒に一緒に入れると、今度は母のためにお弁当を作りました。そして母に「はい、これ。お弁当作ったからね。それとこっちは、コンクール向けに童話を書いてみたんだけど結局出さなかったから、電車の中で暇つぶしにでも読んで。富山まで4時間もあるからね。」最後まで意地っ張りな私の精一杯の言葉でした。

 母へ宛てた手紙の中で私は、母への感謝とお詫びを伝えると共に、二人の歯車が狂ってしまったことに対する自分なりの解釈を、次のように書きました。「私も十八歳で親元を離れ、以来十三年間全く違う世界で暮らしてきました。その間、日常生活の中でお互いの変わっていく姿を見つめあうこともなく今日まできて、いつの間にか大きくずれてしまったお互いの価値観に直面し、当惑せざるを得なかったこの一ヶ月だったと思います。また、高校を卒業した時点の両親に対する屈折した思いが、距離と時間をおくことで一見薄らいだように思えていましたが、結局は完全に消化されないまま残っていたために、それが一気に噴出する形で、この一ヶ月に集約されて出たのではないかと思います。いわば過去の傷の排毒期間であったのではないかと、今にして思います。」そして最後に、こう付け加

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えました。「童話のテーマにもしましたが、子供時代の悲しい経験は私の力になっています。マイナスではなくプラスの力に…。だからあまり罪の意識を持たないで下さい。」

 一方母が富山に戻った日のことを、それから九ヶ月後の一九九七年八月にくれた手紙の中で母はこんな風に語っています。
 「あなたが書いた童話。私は千葉からの帰りの電車の中で一気に読み、富山へ到着する迄只々涙が止まりませんでした。そして家に帰っても三ヶ月程はうつ状態でした。会社にも出れず立ち上がれる迄に本当に永い時間がかかりました。あなたが作ってくれた車中の弁当も涙の原因になりました。小松菜のゴマ和え、レンコンのしぼりかすの揚げダンゴ、玄米のおにぎり、思い出すことばかりで、それが本当に本当においしくて、涙と鼻水でくしゃくしゃの顔で食べました。今、再びその時の味がよみがえり、涙と鼻水をぬぐい乍ら書いています。私は私の希望のサンチャンにいつなれるか、まだまだの事だと思いますが、生きている間、サンチャンになれるよう希望を持っていけると思います。」

 母が富山に戻った日の翌日か翌々日かに、富山の父から電話がありました。開口一番「映ちゃん、もう泣けて泣けてしかたないがよ。」私は一瞬何事が起こったのか、と思いました。母が傷心のあまりどうにかなったか、とさえ思いました。けれどそれに続いた言葉はこうでした。「今、あんたの書いた童話を読んだがだけどよ…」私の心臓はまた飛び出しそうになりました。まさか母があれを父に見せるとは思いもしませんでした。お酒を飲ん

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で暴力を振るう父のことが書かれている話など、いくら童話で穏やかに表現してあるとはいえ、父が読んだらショックを受けてまた酒乱の父に戻ってしまうのではなかろうか、という不安があったのです。けれどそれに続いた言葉はもっと私をびっくりさせました。「あんたがどれほど悲しい思いをしておったかがわかって、泣かずには読めんかったちゃ。これはもう、いくら借金をしてでも絶対本にせんまいけ(しようね)って、今2人で話し合ったとこながだちゃ。」

 その時の私の驚きといったら、とても言葉では言い表せません。それまでの私は、親にボールを投げれば受けとめてもらえるという信頼感が全くなく、自分からボールを投げたことさえ殆どありませんでした。ところが今初めて、自分が親に向かって図らずも投げたボールを、親ががっちりと受け止めてくれたことがわかったのです。自分と親との間でそういう心のキャッチボールができる関係が成立したということ、そして、子供の思いを両親が形にしてくれ、酒害に苦しむ人々のために少しでも役立てたいという共通の思いにたって家族が行動を起こすことができたということは、私にとって言い尽くせぬ程の喜びでした。こうして、私の書いた童話はまさに、家族3人が心を合わせて作ったかけがえのない作品となったのです。

 その後の展開は、この手紙の冒頭に書いたとおりです。ここまで書いてきて改めて私は、自分の人生に起こった物事のつながりとそのタイミングの不思議さを思わずにはいられま

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せん。父が断酒して半年くらいの頃、父は断酒会の若い会員に向かってこう言ったことがあるそうです。「自分がもっと早くにお酒と手を切っていれば、こんなにまで家庭を崩壊させずに済んだはず。あなたたちは私などよりずっと早い時期に気づいたのだから、またお酒に後戻りして家庭を壊すようなことをしないでほしい」と。一昔前の私ならこの言葉に心底納得したことでしょう。実際、父の言う通りなのです。けれどその時の私には、ふと別の思いが心をよぎったのです。そして私の口から出た言葉は次のようなものでした。「でもホープさんの断酒が今この時にして起こったということ、私たちがそれまでの長い間苦しみの中にあったということにも、何か意味があるんじゃないかな。」もちろんその時は、それが何かはわかってはいませんでした。けれど今は、それが何だったかわかるような気がします。父は今毎日のように、私の童話をリクエストして下さる全国の方々からの手紙に対し、少しでも自分の経験が役に立つものならと、過去の自分の恥をさらけ出して心をこめた返事を書いています。

 けれどこの童話を書いたことによって一番救われたのは、実はこの私自身でした。自分の過去を見つめ直しそれに新たな意味を与えることで、自分の人生のマイナスの部分をも肯定する気持ちになれたのです。そればかりではなく、今も逆境に耐えていらっしゃる多くの方々からのお手紙を頂き、改めて自分が井の中の蛙だったことを知らされると共に、そうした方々との心の交流を通じて、慰められ、教えられ、励まされたのは、他ならぬ私

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自身だったのです。

 もしも私が東京の大学へ行かなかったら…、父がもう十年早く断酒していたら…、夫と結婚しアメリカへ行くことがなかったら…、次男出産の時、母との確執がなかったら…、きっと何もかもが違っていたことでしょう。その時点時点ではいつも道の選択に迷い、これで本当に良かったのだろうかと後悔をしつつ今日に至ったわけですが、こうして振り返ってみると、そのうちのどれ一つ欠けても今この状態に達することはできなかったのだ、と思わされます。

 この手紙を書き始めた頃、人の足元の低い所でその小さな黄色い笑顔をあちこちにのぞかせていたタンポポの花は、気がつくと白い綿毛に変わっていました。綿毛のついた茎は他のどの茎よりも背を高く伸ばし、空に近づこうとしているかのようでした。三才と一才の幼い兄弟は、綿毛を見つけると競うように顔を近づけ、一生懸命に息を吹きかけていましたが、まだ弱い彼らの息では綿毛はなかなか飛びません。そんな彼らの無邪気な様子を見ながら、私はふと、当たり前すぎて見過ごしていた大切な自然の法則に気づかされたのです。あんなに小さな綿毛にも、やはり飛び立つべき「時」があるということ。それには十分な強さの風が必要だということ。そして、風に乗って舞い上がった綿毛たちは、思い思いの方向に飛び、その落ちた地面でまた新しい命の種となって地中で春を待つのだ、ということを。その姿を見ていると、いったんは花の時期を終え人に顧みられなくなること

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も、また小さな種となって土に隠れ冬を過ごすことも決して無に終ることではない、と思えてきます。この世に生かされている限りその命のすべての段階に何一つ無駄なことはなく、今あるその姿はそれぞれに価値があることだと思えてきます。

 真理さん、あなたと出会えたことも本当に感謝です。今まで他人には見せることのできなかった心の内を話せる相手ができたことは、それだけで、生きていく上での大きな力になるように思います。いつまでも心の友でいて下さいね。そしてお互い、いかなる状況にあっても、そこに幸せが存在することを感じながら毎日を送ることができますよう、お祈りしています。それではまた。さようなら。


       一九九八年五月

横田映代

       真理様

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