は父がなんと答えるか心配でした。でもその時父は、「頑張って治したいと思います。一生懸命やりますので、よろしくお願いします」と頭を下げたのです。私は思わず涙が出そうになりました。義姉の結婚式の日程が迫っていた私たちは、その翌日千葉へ帰りました。夫も私も希望の光が見えて、胸が一杯でした。そして父の謙虚で真剣な姿がいつまでも心に焼き付いていました。母によると、精密検査の結果、父の病気は脳梗塞であったことが後日わかったそうです。

 アメリカに戻った私たちには、母からよく手紙がきました。それには、父の頑張りと順調な回復ぶり、そして「お父さんの命を救ってくれてありがとう。あなたたちは命の恩人です」という母の喜びと感謝が、あふれんばかりに書かれていました。父はリハビリのため、たぶん生涯で初めてであろう何ヶ月にも及ぶ断酒をしたのです。

 一九九四年十一月。私たちのはじめての子供、聡(仮名)がアメリカの病院で生まれました。日本からは誰も手伝いに来てもらわなかったため、夫婦二人三脚での無我夢中の育児が始まりました。主人は試験も迫り大変な中にあって、私や子供の面倒をよく見てくれました。

育児に昼も夜も無い日が続いていて、あまり富山の家のことを心配する余裕はありませんでしたが、私たちは父の順調な回復が続いているものと信じて疑いませんでした。ところが一九九五年の三月頃になって初めて、母からまた地獄の再現が始まっていることを耳

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にしたのです。再現というよりも、今までにない新たな地獄が始まったという方が正確でしょう。あのリハビリを始めて数ヶ月、確かに父はお酒もやめて順調に回復しました。けれど「もう完全に回復した」と思った途端、父はまたお酒に手を出したのです。それはずっと飲み続けていることよりもひどい結果を生みました。つまり、数ヶ月間断酒した後の再飲酒によって、父は一気に前よりもひどい状態に突入したのです。その時はまだよく知らなかった「アルコール依存症」という病気の、まさに末期的な症状を呈し始めた父は、自分が誰かに襲われる幻覚を見たり、どこにでも垂れ流しをしたりするようになりました。後年母が語ってくれたのですが、この時はさすがに、あの半年の寝たきり生活から回復させてもらったことが、そして父の生命運の強さが、恨めしく思われたそうです。

 私は大学時代の親友が公務員となり福祉の仕事をしていることを知っていたので、思い切って彼女にSOSの国際電話をかけ、保健所でアルコール問題の相談ができることなどを聞き、母にその窓口へ相談するように伝えるのが精一杯でした。海を隔てたアメリカにいる私にとって、他に何もできることはなく、じれったい思いで毎日を不安と焦りの中で過ごしていました。そして日増しに父に対する憎悪をふくらませていったのです。

 そんな頃、まだ生後五ヶ月の息子の子育てで思うようにISGの活動に出られない私のために、サンディ―やウィリアム&ヴィットリア夫妻などがよく我が家に顔を出してくれました。そして彼女たちといろいろな話をしていく中で、クリスチャンの教えにある「赦

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し」ということが話題にのぼりました。けれどその時私は大胆にもこう言い放ったのです。「私にはこの世に絶対に赦せない、いや、赦したくない人が一人いる」と。彼女たちがいつも真剣に夫と私のことを思いやり行動してくれているのが分かるにつれ、私もいつしか彼女たちに本当に心を許せるようになっていました。今まで固く閉ざしていた心の扉を少しずつ開くように、私は今まで他人にはあまり話さなかった家庭の問題、父に対する気持ちなどを、正直に話すようになりました。

 私はサンディ―に「赦すってどういうこと?今のあんな状態の父を見過ごすことが赦すことなの?」と、半ば食ってかかるように聞きました。それに対してサンディ―は、「お父さんの子供じみた行為をそのまま認めることが赦すことではないわ。容認することと赦すことは違うから…」と答えましたが、それでは赦すとは具体的にどういうことなのだろうという疑問には、私自身が答えを考えるしかありませんでした。父の幻覚と垂れ流しは日増しにひどくなっていくのに、遠くアメリカにいて何も手の打ちようがなかった私は、せめてその疑問に答えを出そうと、自分なりに一生懸命に考えました。そして私は一つのことに気づいたのです。今まで私は心の中で父を裁くばかりで、一度も父の気持ちになって考えたことがなかったということ。私が父にお酒をやめて欲しかったのは、あんな父では自分の人生の傷・汚点だからであって、父の身体が心配だからとか、垂れ流しになったら父の人間としての尊厳がなくなり可哀想だから、ではないということ。自分と母が不幸

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にならないためであって、父自身のためではないということ。お酒をやめる辛さなんてこれっぽちも想像していなかったし、そもそもなぜ飲まずにはいられなかったかとか、本当はこんな自分ではいけないと思っていながらお酒をやめられないジレンマとか、父自身の心の傷に全く思いを寄せていなかったということ。これらのことに気がついた時、生まれて初めて、自分がこれまで父に対してとってきた敵意に満ちた態度が父を孤独にさせ、よけいにお酒をやめられなくしていたのではないか、と反省する気持ちが生まれてきたのです。北風と太陽の寓話のように、私は今まで真っ向から父を敵視し、自分の都合だけで父を変えようとしてきたものの、それでは父の心を変えることができなかったことを、今更ながら思い知りました。父が変わるためには、父の心に寄り添い、励ましながら共に歩んであげる人が必要だったのです。もちろん歩くのは自分の足で歩かなくてはなりません。けれど伴走してくれる人、理解してくれる人がいるかいないかで、その頑張りは全然違ってくると思います。もしかしたら、それが「赦す」という感覚に近いものかもしれないと、私なりに考えるようになったのです。

 一九九五年六月。夫は二年間の大学院での勉強を無事に終え、私たちは日本への帰国を目前に荷物の整理に追われていました。私たちは明日業者が荷物を取りに来るという段になってもまだ荷物をまとめきっておらず、三日前から徹夜が続いていました。そんな夜のことです。母から突然国際電話がありました。「映ちゃん、お母さんもうダメ。限界だわ

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…」と言って、母は泣き出しました。母はいつも私に心配をかけまいと、よほどの事でない限り決して知らせてこず、弱音を吐かない人でした。そんな母がいきなりこの言葉です。私はドキリとしました。「お父さんが『人を殺して自分も死刑にしてもらうんだ』って、本当に包丁を持って玄関から出て行こうとするのを、昨日一晩中必死にしがみついて止めていたの。もう歳だし足腰も弱っているはずなのに、飲んだら目は異様にギラギラ、ランランとして、まるで獲物をねらうヒョウかライオンみたい。どこにあんな力があったのかと思うくらい、ものすごい力で私を振り払って出て行こうとするもんだから、もう必死で止めて…。あんたを殺人者の娘にしちゃいけないって、ただそれだけを思って…。」もう母の言葉は鳴咽で続きませんでした。続いて父が電話口に出ました。「映代か?おらはもう廃人ながよ。あちこち垂れ流しとっても、人に言われんとわからんがよ。廃人になったら、もう生きとっちゃあかんが。死んでしまわんとあかんがよ。死ぬためには、誰か殺して死刑にしてもらわんとダメやろが。それながに、お母さん邪魔ばかりするねけ。」ものすごい思考回路です。(父は狂ってる)と、とっさに私は思いました。「何言ってるの、お父さん。自分が死刑になりたいために、何の罪もない人を殺すなんて。その人の家族がどんな思いをするかわからないの。そんなに死にたいなら自分で死ねばいいじゃない。」私は必死に訴えました。けれど父は、私の言葉など何も聞いてないかのように、ただ同じことを繰り返すばかりです。「廃人は死なんといかんが。そうやろ。死ぬためには、誰か

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を殺して死刑にしてもらうしかなかろうが。」もはやどんなに意味のあることを言っても、父には何も通じないのです。そんな無駄な押し問答をしている間、引越し荷物を詰めるダンボールが山と置かれている部屋で、大人用のベッドの上で遊んでいた生後七ヶ月の聡がドシンとベッドから落ちて、大泣きを始めました。(三日間の徹夜の上に子供まで泣き出して、自分たちのことだけでも手いっぱいなのに、一体どこまで私の人生を邪魔したら気が済むのよ!)頭に血がのぼった私は、受話器に向かって思わずこう叫んでいました。「誰かを殺して死刑になりたいんなら、私を殺しなさいよ!」

 (とうとう言ってしまった)と私は思いました。怒りのすべてをその言葉に含めて吐き出したら、少し冷静になりました。そして、(これで父も目が覚めてくれるかもしれない)と淡い期待を抱き、父の反応を待ちました。けれど父は、今までと全く同じ言葉を繰り返しただけでした。私は体中の力が抜けていくのを感じました。

 そのうち、電話の相手は私の知らない声の人に変わりました。駆けつけていた警察の人でした。「お嬢さんですか。警察の者です。お嬢さんも苦労されますね。お父さんを明日必ず病院に連れていくようにしますから、あまり心配されんように。」聞いていた私は、思わず電話口に向かって深々と頭を下げ、「どうか父のこと、よろしくお願いします」と涙ながらに言うのが精一杯でした。母によると、私がこの国際電話を受ける前日、父がスナックで自分を厄介者扱いした人たちを「皆殺しにしてやる」とばかり、灯油とライター

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を持ち出してきて暴れる事件があったため、とうとう警官らが「この父ちゃんはもう頭がおかしくなっているから、精神病院へ連れて行った方がいい」ということで、家に来て話をつけていたところだったようです。

 その後、日本への帰国までの十日間程は、ドタバタと慌ただしく過ぎていきました。自分たちのことに精一杯で、富山の家のことを心配している余裕さえなくなりました。いえ正確に言うと、忙しいのを口実に家のことは考えないようにしていたのです。心配するだけ自分の神経が擦り減って、自分がボロボロになりそうな気がしたからです。アメリカ最後の夜、アパートを引き払った私たちは、サンディ―の家に泊めてもらいました。夕食後、私はリビングのソファーにサンディ―と腰掛け、十日程前にあった悪夢の夜の話をしました。泣いて泣いて泣きながら、すべてを吐き出すように…。聞いていたサンディ―も、涙をこらえ切れず、私の手をしっかりと握って言いました。「映代、どんなにか辛かったでしょうね。お母さんもあなたを守りながら、よくぞここまで耐えてこられて、本当に心から尊敬するわ。」私はその言葉でハッとしました。私は今まで、(自分だけどうしてこんな不幸な星のもとに生まれたんだろう)と思っていましたが、私にはその運命と共に、こんなにも忍耐強くて愛情深い母を与えられていたのだということに、あらためて気づかされたのです。その気づきは同時に、クリスチャンの友人たちが言っていた言葉、「神様はその人に耐えられないような試練は与えない。むしろ耐えることができるように、試練と

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共に、脱出の道も備えていて下さる」という言葉を思い出させたのです。私にとっては母が、そして何よりも夫が、助け手として、いつもそばで私を守り続けていてくれたのです。(世の中には私の母のように夫で苦労している人も多いのに、私にはどんな嵐にあっても動じずに、いつも前向きに受け止めてくれる夫がいる。そんな夫に出会えただけでもこんな幸せはないではないか。どんな荒波に揉まれて溺れそうになっていても、最後まで手を放さずに一緒に泳いでくれる人がいる…)

 神様の恵みが私にも与えられていることを初めて感じた時、友人たちが言っていた「神様の与える試練にはすべて意味がある」という言葉が、何か真実味を持って私の胸に響いてきました。(それならば、私の暗黒の子供時代にも何か意味があるのかもしれない。その意味とは一体何だろう…)新しい疑問が心の中に湧きました。けれどすぐに答えが見つかるはずもなく、私はこの疑問をアメリカからのもう一つの帰国荷物として、心のスーツケースにしまい込んだのでした。

 一九九五年六月末。私たちは日本へ帰国しました。帰国後一週間程は主人の実家にお世話になりながら、新しい住まい探しのための不動産めぐりや、時差で昼と夜の感覚が狂ってしまった息子の世話などで、アメリカを出る前からたまりたまった疲れさえ取る暇もありませんでした。その嵐のような忙しさもどうにか一段落し、やっと富山の家の状況を心配する余裕ができた頃、私は母との電話で父が六月十九日以来(つまりあの国際電話の翌

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日に病院へ行った日から)断酒しているということを知りました。父は病院でお医者さんから、「もう一口飲んだら命の保証はできませんよ。あなたは死と断酒とどちらを選ぶのですか」と選択を迫られ、さすがにもう後が無いと思ったのか断酒を決意したようです。あんなに「死にたい」と叫んで人を殺しに行こうとしていた人が、医者から現実に死を突きつけられたら、やはり恐くなったのでしょう。それを思うと、これまでの父の強がりや虚勢を張った生き方はすべて、父の臆病さや弱さの裏返しではなかったかと思えてきました。そして母にしても私にしても、父の飲酒を父自身の心と身体の問題として捉えることをいつしか忘れ、自分たちがいかにその災難から免れるか、そのためにいかに父の始末をつけるか、ということだけを考えるようになっていたことに気づかされたのです。半年間寝たきりでいた父を病院に連れて行くかどうか話し合った時、私が母に「お母さんが少しでも楽になる道を選んで」と言った言葉の根底にも、また母が「夫を殺人者に…」ではなく「娘を殺人者の子にしてはいけないと思って」と言った根底にも、やはり父自身のことを本当に考える気持ちはありませんでした。

 それにしても、父の断酒を母から聞かされた時は正直いって、娘が「私を殺しなさいよ!」とまで言った悲痛な叫びには耳を貸さなかったのに、医者の言葉なら素直に聞くのかと思ったら、断酒の安堵と同時に腹立たしささえ覚えたものでした。けれどこれはもっと後になって知るようになるのですが、アルコール依存症という病気にかかっている人は

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お酒が切れてくると禁断症状が出て、それを抑えるためにまたお酒に手を出さずにはいられなくなるらしいのです。もちろん断酒を継続していくためには本人の意志が不可欠ですが、断酒し始めの頃の禁断症状を克服するためには、医学的な処置も必要なようです。身体がお酒に対してそのように反応するようになってしまった状態が、アルコール依存症の特徴の一つだからです。

 父の断酒から二ヶ月ほどが経過した頃です。私たちの新居にアメリカからの最後の荷物も届き、日本での新生活も一応落ち着きを見せはじめました。私は、まだ富山の両親がアメリカで生まれた孫の聡に会っていないことを考え、そろそろお互いに会うチャンスを作りたいという思いを抱くようになっていました。父がお酒を飲んでいる頃は私の方が会うことを避けていたのに、不思議なもので、父がまじめに断酒を続けていると聞くと、無性に会いたくてたまらなくなりました。けれどまだ生後九ヶ月の聡を富山に連れて帰るのは大変なので、富山の両親にこちらに来てもらおうと、その都合を打診し始めたのです。ところが意外にも事はスムーズに運びませんでした。

 あれほど聡に会いたがっていた父なのに、千葉へ来るのを渋ったのも父でした。何度電話で話しても、一向にウンと言ってくれないのです。父が断酒してやっと娘としてのわがままも言えるようになったのに、その娘のたっての願いも聞いてくれないのかと、だんだん私は腹が立ってきました。腹が立って、悲しくなって、涙も出てきました。私は電話口

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