たことですが、私が晴れて社会人になり一人立ちしていける段階になったと母は思ったのでしょう。この時の暴力で、母の堪忍袋はとうとう切れてしまいました。ついに母は離婚を申し出たのです。どのくらい話し合ったか、母の決心が変わらないと悟った父は、とうとう離婚届けに判を押したのです。私は「やったあ!」と、心の中で飛び上がらんばかりに喜びました。私は父の気持ちが変わることを心配して、母に一刻も早く役所に離婚届けを出しに行くように言いました。けれど母は、判を押した離婚届を手にしているという安堵があったのでしょう、すぐには出しに行きませんでした。それからしばらくして、やはり恐れていたことが起こりました。父は可哀想なくらい打ちひしがれて謙虚になり、「頼むから、もう一度だけチャンスが欲しい。自分を変えるよう努力するから」というような事を言ったと思います。私は焦りました。(だめだめお母さん、だまされちゃ。そんなこと言ったって、またいつかは恐ろしいお父さんに戻るんだから)と心の中で叫びました。実際父が聞いていない所では、何度も母を説得しようとしました。けれど母は生来のお人好しで、あんな哀れな父を見たら心がほだされてしまったのでしょう。「もしもお父さんが約束を破ったら、その時はこの離婚届を出せばいいんだから、もう少し一緒に暮らしてみようと思う」と母は言ったのです。それ以上私が口をはさんでも無駄でした。私は歯がゆい思いで、あきらめざるを得ませんでした。

 こうして販売実習も終わり、私は東京へ戻りました。それからさらに一ヶ月の研修後、

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新入社員は配属先を申し渡され、バラバラに散っていったのです。

 一九八七年六月。私は海外向け製品の販売促進を行う部署に配属されました。ここで私は、人生において重大な出会いを経験しました。夫との出会いです。夫は当時、同じ職場の二年先輩でした。

 配属から一年余りたち、私にとって初めての海外出張が近づいた頃、疲労と緊張が続いていた私は、みぞおちのあたりに鋭い胃痛を覚えました。胃の検査をしてもらったけれど、どこも悪くはない、けれど何も食べられないくらい痛むという、いわば神経性胃炎のような状態がそれから一ヶ月ほど続いたのです。その頃たまたま職場でタウン情報誌を見ていた時、ミヒャエル・エンデの童話を原作にした『モモ』という映画が上映されていることを知り、お互い軽い気持ちで「じゃあ一緒に見に行こうか」ということになりました。初めて映画を二人で見に行った帰り、彼は突然「ちょっと運動しよう」と言って、その日黄色いワンピースにパンプスを履いていた私に、軽い運動ができるような黄色い平靴を買ってくれました。それから公園のアスレチックのような場所に行って軽く運動をした(させられた?)のです。鉄棒にぶら下がった時、さすがに私はワンピースの脇が破れるのではないかと心配をしたのですが、なんとか事無きを得ました。けれど内心は(映画を見に来た日にどうして運動なのよ)と思っていました。ところがその後で食事をするという時になって初めて、私は長らく味わっていなかった旺盛な食欲がわくのを感じたのです。その

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時ようやく彼が口を開きました。「ほらね、身体を動かして気分転換すれば胃の痛いのも治ると思ったんだよ。」実際その日を境に、胃の痛みは消えていきました。あの時買ってもらった運動靴はまさに、「幸せの黄色いハンカチ」ならぬ「幸せの黄色い靴」となったのです。

 こうして何度か一緒に出かける機会を経るうちに、お互いこれからもきちんとつき合っていきたいという気持ちが自然に芽生えてきました。ところがそうなるとまた、あの「自分は誰とも結婚してはいけないんだ」という気持ちが頭をもたげ、つき合いたい気持ちとの葛藤になりました。いろいろ思い悩んだ末、私はやはり(彼を不幸の巻き添えにするわけにはいかない。あきらめよう)と心を決めました。そして彼に家庭の事情を打ち明け、「だからこんな私とのつき合いを考えるのはやめて」というような事を言ったと思います。突然の話にびっくりした彼は、ずっと黙りこくったまま、必死に気持ちを整理しようとしているかのようでした。あまりに長い沈黙の間、私は夜の町を走る車のライトの列が涙でかすんでいくのをただ眺めながら、自分と周りの世界との間に幕が降ろされていくのを感じていました。

 けれどやがて彼の口をついて出た言葉は、「きっと何とかなるから、お父さんのことを一緒に考えていこう」というものでした。それまで私は、父の問題との闘いは自分一人でするもの、と頭から決めつけていました。そして傲慢にも、父という「自分にこびりつい

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た汚点」が洗い流され、奇麗さっぱりな自分になるまでは誰とも結婚しない、と考えていました。本当は汚点とか醜さといったものは自分自身の中にあるものなのに、父の問題さえ切り捨ててしまえば、誰に恥じることのない自分になれると思い込んでいたのです。自分だけは正しく生きてきたと過信する高慢はとても重い罪であると、後にアメリカで出会ったクリスチャンの友人たちに教えられるまで、私はそんな風に考え続けていました。

 それはともかく、彼の口から「一緒に考えていこう」という言葉を聞いて初めて私は、(ああ、何も解決していなくていいんだ。問題を抱えたままの自分と一緒に歩いてくれる人が今ここにいる。もう一人で強がって生きなくていいんだ)と思わされたのでした。

 嬉しさと不安とが入り交じったスタートでした。そして心配していた結婚の話は意外にも早く訪れました。彼としては、少しでも早く私の力になってあげたい、という思いが働いたのでしょう。一方、(自分のような者が本当に結婚していいのだろうか)と悩んでいた私も、進んで苦労を共にしてくれようとした彼の気持ちが嬉しくて、(よし、自分もくじけていないで頑張ろう)という気持ちになったものでした。そうは言っても、結婚までの道のりが案の定平坦なものではなく、父が彼の家にまで何かと迷惑をかけるようになると、自分が結婚を決意したことが悔やまれ、途中何度も、来た道を引き返したくなる思いに駆られたのでした。結局最後まで胆を冷やす展開になりましたが、一九九○年三月、私たちはどうにか無事、結婚式を挙げることができました。

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 誰しも人生において一度や二度、将来の生き方や価値観に大きな変化が訪れるターニングポイントがあるとすると、私にとってのそれは、大学入学に伴う上京と結婚、そして一九九三年七月から二年間にわたるアメリカ生活でした。これは主人が会社からの留学生として、アメリカの首都ワシントンにある大学院で勉強することになったためで、私もそれに付いて行きました。

 九月からの新学期に備えて、夫が大学院のオリエンテーションに行った時のことです。そこで夫は、インターナショナル・スパウゼズ・グループ(ISG)という会の活動を紹介した、一枚のパンフレットをもらって帰ってきました。このISGというのは直訳すると「国際的な奥さん達の会」、つまりは留学生である夫について世界各国からアメリカへやって来た妻たちのための会なのです。この会をボランティアで運営してくれているのは、三十代から四十代のアメリカ人女性たちでした。留学生である夫たちは勉強という明確な目的を持ってアメリカに来ており、英語力もある程度はあります。けれど夫について外国からやって来た妻たちの多くは、夫ほどの英語力もなく、友達を作る場所もありません。自国の家族とも親しい友人とも仕事とも切り離され、孤独にさいなまれ、ホームシックにかかる人も少なくありません。そうした妻たちへの配慮から、アメリカ生活を少しでも楽しく有意義なものにしてあげようという目的で、この会は始まったのでした。私たちは、この会のリーダーであるローリーやヴィットリア、サンディ―に案内してもらって、スー

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パーでの買い物の仕方から商品の特徴まで教えてもらったり、アメリカのおふくろの味と言われるアップルパイの焼き方を習ったりしました。またイースター(キリスト復活祭)には卵の色づけをしたり、ハロウィ―ンには大きなかぼちゃのランプを彫ったり、サンクスギビング(感謝祭)には七面鳥とパンプキンパイを食べたりして、アメリカの生活文化に触れる機会を得ました。

 これだけの楽しみを私たち留学生の妻に与えてくれるアメリカ人女性たちの労力は、本当に大変なものだったと思います。けれども彼女たちは、ボランティアでありながら、主婦としての時間を割いて本当に一生懸命やってくれているのです。いつも真剣に私たちの悩みや相談事を聞いてくれる素敵な人たちでした。彼女たちをこんなにも優しく、強く、しなやかに動かしているもの、そしていつも、彼女たちを深い思いやりと平安と活力に満ちさせているもの、それは一体何だろう、といつしか私は考え始めていました。そんな中で私は、英会話とアメリカ人の精神世界を同時に学べる場として、彼女たちの家で行われている聖書勉強会にも顔を出すようになりました。聖書を読み進む傍ら、彼女たちは自分の身に起きたこと、そしてそれをどう受けとめたかということも、話して聞かせてくれるようになりました。ある女性は、人生の苦しい局面に立たされながらも、「神様はその人に耐えられないような試練は与えない。私が今これだけ苦しい思いをしているのは、私がこの試練に耐えうると神様が見込んでくださったのだから、それを喜びとしなければ…」

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と言いました。そして「物事が順調に運んでいる時は、つい本質的に大切なことを見失いがちになる。だから逆境にあって初めて、私たちは真理に立ち戻ることができる。だからこの試練はきっと必要なことなのだ」とも。こうしたやりとりを通して、私は「神様の与える試練にはすべて意味がある」という考え方を理解するようになっていったのです。けれど正直なところ、理解はしたものの共感するというところまでは行かず、それは一つの考え方として私の頭の隅に置かれるにとどまりました。

 一九九四年六月。アメリカに来て一年程たった頃、義姉の結婚式に参列するために、私たちは日本に一時帰国をしました。富山の父はそれより半年ほど前に突然倒れ、布団に伏す毎日となっていました。どこが悪いのか医者に診てもらおうと母が勧めても、父は「どうせおらは不治の病でこのまま死ぬに決まってる。病院に入って薬づけにされるだけお金の無駄だから、医者には見せない」と、頑固に布団に伏すだけの毎日でした。そのうち本当に、上体を起こすこともトイレに行くこともできなくなり、母に排泄の世話までしてもらうようになりました。母は父の介護のためにゴルフ場のキャディ―の仕事も辞めようか、でも自分の収入が無くなったらどうやって暮らしていこうか、と悩む毎日でした。父は自分で立って歩けない歯がゆさからか一層短気になり、台所にいる母を呼んでもすぐに母が来ないと、布団のすぐ横のふすまや壁をドンドン叩く、怒鳴る、を繰り返すようになりました。痛みを紛らわすためと称して、お酒もウイスキーの原酒をがぶがぶ飲み、たばこも

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ひっきりなしにプカプカやる、という状態でした。そこで夫と私は、この一時帰国を利用して父と母の様子を見に富山に帰ることにしました。私たち二人が顔を見せた時、父は「映ちゃん、お父さんこんなになってしもて…」と、顔をくしゃくしゃにして泣きながら言いました。けれどこちらが「お医者さんに診てもらおう」という話をすると、急に顔をこわばらせ、どんな言葉も頑として受け付けまいとするのでした。

 その夜、夫と私は二階の部屋にこっそりと母を呼んで、私たちの考えていることを打ち明けました。「お母さんは、お父さんが寝たきりでいるのと治って元気になるのと、どっちがいい?寝たきりでいる方が安心なら、私たちもこのまま何もしない。だけどもし、今の状態の方が辛いのなら、私たちどんなことをしてでも、明日お父さんを病院に連れて行くよ。そのために車で帰ってきたんだから…」

 「そんなこと言ったって、あの人が言うこと聞くわけないわ」母が言いました。
 「いえ、お母さんがその方がいいと言うのであれば、僕たちはどんなことをしてでも病院へ連れて行きますから。」夫が言いました。「お母さんにとってどちらが良いのか、僕たちはそれを尊重して決めたいと思っているんです。」

 私たち二人の考えは、もはや父の病気を治す・治さないではなく、それを看護する母が少しでも楽になるような方向で対処したいというものでした。父の問題で一人苦しみ闘っている母の姿を、遠いアメリカで心配するだけで何もできずにいるじれったさは、もうこ

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りごりでした。今回の短い帰国中に、母さえ少しでも救われる方向に持っていければ、私たちはそれで良かったのです。結局一時間以上話したでしょうか、いつまでたっても歯切れの悪い母に、私たちはとうとうイエスかノーの答えを迫りました。「そりゃあ、医者に見せて治るもんだったら、その方がいいけど…。」

 「わかりました。」そう夫が言って、その夜の三人の話し合いは終ったのでした。

 翌朝、私は父にこう切り出しました。「お父さん、今日こそ私たちと一緒に病院へ行こうね。どこが悪いか診てもらわないで勝手に諦めててもしょうがないでしょ。私たちの車で病院まで運んであげるから、心配いらないよ。」すると父はいっぺんに形相を変え、「映ちゃん、何言うとんがけ。おらは自分の病気のことぐらい、ちゃんと分かっとるが。病院に行ったって意味ないがよ」と叫びました。それからは昨日と同じ押し問答の繰り返しです。もうこれ以上話しても無駄だと判断すると、夫と私は顔を見合わせコクリと肯きあいました。その瞬間です。夫が「お父さん、すみません」と言って、父の身体をぐいと抱き上げました。「何するがんけ。降ろしてよ。」父は嫌がってしきりにもがきます。それを必死にこらえて、夫は玄関先に用意してあった車まで父を運び、後ろのシートに乗せました。車に乗っても尚、必死で降りようとする父。それを必死に押さえつける私。その手をまた振りほどこうとしながらも、娘に抵抗する力さえ無くなっている父。母が乗ったのを確認すると、「いいよ、行って」の私の一言で、夫は車を発進させました。(これじゃあ

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まるで人さらいだ)と思いながらも、ここで引き返すわけにはいかないと、夫も私もそれは必死でした。車の中でもずっと「お願いだから、降ろして」と泣き叫び続ける父。そんな父を見ながら、内心(何もそこまでしなくても…)と涙をためている母。後戻りできないと覚悟を決めて鬼になっている私たち。やがて車が富山市民病院へ着くと、私はすばやく車を降りて受付へと走り、手短に事情を話した上で車椅子を借りました。父を車から降ろして車椅子に座らせた時には、さすがに父も観念したようで、おとなしく検査を受ける気持ちになってくれました。最初に問診と簡単な診察を受けた内科では、先生がこうおっしゃいました。「半年前に倒れた原因が何だったかは詳しく調べてみないとわかりませんがね、今診た限りではそれほど悪いようにも思えません。ただし、半年も寝たきりでいたら誰だって筋肉が衰えてしまいますから、それで歩けなくなっているという可能性は考えられますね。」驚いたことに、それを聞いた父は診察室を出た途端、車椅子から上体を浮かせて立ち上がろうとし始めたのです。そしてそれができるとわかると、今度は手すりに捉まりながら一歩、二歩…。父は確かに歩けました。たどたどしくはあったけれど、リハビリをすれば順調に回復するのが予想できるくらい、しっかりした足取りでした。そして市民病院での一通りの検査が終わると、すぐその足で、紹介してもらったリハビリ施設を訪れました。入院・治療にあたっての面接を受けた時、まず患者自身が本当に治りたい意志があるかどうか確認されました。それがなければ入院は認められないと言うのです。私

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