もよく気がついて世話好き、リーダーシップがある、とでも言えるのでしょうが、何事もとことんやり過ぎてしまうため、真面目にやらない人が許せず、つい喧嘩になったり、挙げ句は独裁的になって思ったことを半ば強引に実行してしまうようなタイプでした。そんな父を敵に回した場合の怖さを皆さんよくご存知でしたから、父に対して強く意見することもできません。こうして、町内会の会合という名目の酒盛りは際限なく続いたのでした。町内会長に限らず、PTA会長、議員の後援会長というように「長」と名のつくものが好きなやり手の父は、母にとっては「輝いていた」のかもしれませんが、娘の私にとっては迷惑以外の何ものでもありませんでした。家庭の幸せを第一に考える平凡な父親がいいと常々思っていました。

 その頃母は、富山駅から「雷鳥」や「白山」「はくたか」といった特急電車に乗って、車内で駅弁を売る車内販売の仕事をしていました。これは私の小学校から大学の頃まで、かなり長い間やっていた仕事です。重い弁当のたくさん入った籠を持ちながらの販売だったため、母の腕の力こぶや手のまめを見るまでもなく、相当な重労働であることは幼い私にもよくわかりました。しかも乗る特急によって勤務時間がまちまちで、ある時はまだ夜が明けぬうちから家を出、ある時は帰宅が終バスになりました。しかもお盆や正月、ゴールデンウィークは一番忙しい時期なので、休みなど取れるわけもありません。その上帰省ラッシュですし詰め状態の車内を、人の間を縫うようにして重い籠を運ぶのですから、そ

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うした時期の疲労はピークに達していました。私にとって、世の中の人々が楽しむお盆、正月、ゴールンデウィークは一番恨めしく、そして淋しくなる時期でもありました。

 さて、前にも少し書きましたが、私が中学にあがる時、我が家は市営住宅から五百メートルと離れていない場所にある一戸建ての借家へと引越しをしました。小学生の時、私は先生に勧められて国立中学を力試しに受験したのですが、それが意外にも合格してしまい、最初行く気はなかったものの結局はその中学へ行くことになってしまいました。家から電車とバスを乗り継いで通学時間もかかるし、普通の市立中学へ行くよりはもちろんお金もかかるわけで、どうしてそちらを選んだのかよく覚えていないのですが、とにかくそこは割合裕福で地位のある家庭の子供が多く通うということで、(もしも私が友達を家に連れてきても恥ずかしくないように)という親の配慮があって、一戸建ての家に引っ越したようです。おまけに母はその家の居間に置くために、へそくりをはたいて応接セットまで買ったのです。「お金がないのに、どうしてそんな無駄なことするのよ」と責める私に対し、母は「お友達が家に来たって、あんまりみすぼらしかったら、あんたがかわいそうだから…」と答えました。そんな親の気持ちはわからないでもありません。けれど私は心の中で、(私が欲しいのはそんなものじゃないのに…)と叫んでいました。結局、中学・高校時代を通じて、私は誰一人、友達を家には連れてきませんでした。どんなに体裁を整えたところで、そこは私が安心して友達を呼べる家ではなかったのです。

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 友達ばかりではありません。自分自身にとってもその家は一番居心地の悪い、一番いたくない場所でした。できるだけ父とは一緒の空気の中にいたくないという思いが、次第に私を一階から遠ざけ、二階の自分の部屋にこもらせるようになりました。本来なら忙しい母のために台所の手伝いくらいすればよかったのですが、どうしても一階にはいたくないという気持ちが、だんだん母への思いやりを欠くほどに私を変えていきました。「下に降りてこい」と父に言われても、「勉強があるから」と言って、絶対に降りて行こうとはしませんでした。悲しい哉、勉強だけが自分の部屋にこもっていられる大儀名分だったのです。

 余談になりますが、結婚後、私が子供のために躍起になって友達を家に招いたり、ホームパーティーを開いたりするようになったのも、この時の傷を引きずっているからのように思えるのです。子供が友達をたくさん連れてこられるような家庭を作りたいというのが、母になった私のささやかな、けれど切実な願いでもあるのです。

 中学時代、私には妙子さんという親友ができました。二年の時に一緒のクラスになったのがきっかけで、お昼ごはんを一緒に食べたり、交換日記をしたり、家に帰ってからも長電話をしたりするようになりました。休み時間トイレに行くときも申し合わせて行くぐらい、いつも行動を共にしていました。お父さんを病気で亡くした彼女には、きっと他人には測り知ることのできない淋しさがあったと思うのですが、自分のことしか考えられなかった当時の私にとっては、お母さんとお姉さんとの女三人家族になった彼女の家庭は、羨

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望の的以外の何物でもありませんでした。おまけに彼女がいつも、暖かい家庭の匂いのするお弁当を持って来ていたのが、売店でパンを買っていた私には、これまた羨ましいものでした。けれどそんな彼女も、私の童話が出版された後にくれた手紙の中で、「私はいつも勉強のできるカミ(私のこと)が羨ましかった」と書いていました。結局みんな、その人なりの悲しさがあり、その人なりの幸せがある、ということだと思いますが、その頃はそんな風には考えられず、「自分はこの世で一番不幸だ。なんで自分だけが、こんな星のもとに生まれたんだろう」と思っていました。

 こんな事を書くと、父親を失った深い悲しみの中にある人たちをどれ程傷つけるだろうと思うのですが、当時の自分の馬鹿さ加減を分かってもらうために敢えて書かせてもらうと、あの頃私は親友の妙子さんにお父さんがいないことを羨ましく思いさえしたのです。自分が悲しみの中にある時、時としてそれは、いかにその人を自己中心的な思いの奴隷に変えてしまうか、ということに私はようやく気がつきました。と同時に、一見それとは矛盾するようですが、悲しみを味わうことは他の人の悲しみまで思いやれる力にもなるということにも気がついたのです。そのどちらに傾くかで、そこから生まれるものは全く違ったものになると気づいたからこそ、私はかつての自分と同じ状況にある子供たちに、悲しみのあまり必要以上に自分を卑下したり、他人の幸せを斜に見ることのないように、今の自分をもっと肯定して欲しいという思いを込めて、童話『涙がくれたおくりもの』を書い

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たのでした。

 そんな中学時代も終わり、高校は県内で三指に入る進学校の一つに進学しました。そこで私は特待生に選ばれ、三年間授業料が免除になりました。これで少しは親に負担をかけなくて済むと思うと、名誉云々よりも救われた気がし、その資格に恥じない成績を保とうと一層勉強に身が入りました。けれど実は、私のこの勉強ぶりが、中学の頃から夫婦げんかの原因にもなっていたのです。父は母に対し、「映代は、勉強ばかりしていて家の手伝いをしない。なんであんな娘に育てたんだ。おまえの教育が悪い」と責めては、それが暴力に発展していました。母に心配をかけてはいけないと、家庭では学校の悩みなど一切話さなかったし、表立った反抗期というのはなかったものの、親に対しては、いつも刺のある冷たく険しい態度をとっていました。それでも、いつも周囲に迷惑をかけてばかりの父を目の当たりにしてきたせいで、(自分だけはどんなことがあっても絶対グレたりしない)と心に言い聞かせ、(早く父のもとから独立して生きていけるように、自分が稼いで母に楽をさせてあげられるように)と、そして、何かに没頭することによって悲しみを紛らすために、ひたすら勉強に打ち込んでいました。

 やがて大学受験の進路指導の頃になると、先生は私の成績から判断して、レベルが高いと言われる東京の大学を受験するよう強く勧めました。けれど私は、自分が家にいなくなったら誰が母を守るのだろうと考えると、とても恐ろしくて家を離れる気にはなりません

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でした。それまでも何度か、父が母の首を絞めるところを見ていましたから、(万一母の命が危うくなっても、誰も止めに入る人がいなければ、母は本当に死んでしまうかもしれない…。)母を置いていく不安と、それでもこの地獄の家から出たいという思いとの間で、私の心は揺れに揺れました。でもそんな事は先生には話せるわけがありません。先生にはただ、「私は将来小学校の先生になりたいから、地元の大学を出ていた方が採用の時に有利だと思う」という勝手な理由をつけて、富山に残りたい旨を主張していました。けれど所詮それはごまかしに過ぎません。おまけに、生徒の意志を尊重してくれない進路指導に疲れ果て、先生不信に陥った私は、先生になりたいという夢まで失ってしまったのです。こうなるともう、地元の大学へ行って先生になるという私の主張自体根の無いものになり、いつの間にか先生の意見に流されそうになっていきました。そこへ持ってきて、母の言葉が私の心を揺さ振りました。「映代は、できるだけお父さんのもとから、遠く遠くへ逃げなさい。できるだけ遠くによ。そして将来は自由に羽ばたきなさい。あんたはこの家にいたら、絶対幸せにはなれないから」と、母は何度も何度も私に、そして自分自身に言い聞かせるように言いました。もちろんそれは母の本心ではありません。いえ正確に言うと、やはりそれも母の本心であり、そしてまた(娘には自分のそばにいてもらいたい)というのも、母の本心でした。私が二つの相反する思いの中で揺れていたように、母もまた二つの思いの中で揺れていたのでした。

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 結婚当初から父のことで苦労の絶えなかった母は、私がお腹にできた時、「この子さえいてくれれば生きていける」と思ったそうです。そんな母でも、あまりの辛い日々に耐えきれず、まだ幼い私を連れて川に身を投げようとしたこともあったようです。いつの頃だったかそれらを母から聞かされた時、私は思わず(最初から不幸になると分かっていたのに、どうして私を産んだのよ!)と、母を責めたい気持ちに駆られたのでした。自分を守ることさえ難しい状況にあって、それでも尚、全身全霊の愛情を注ぐために私を産んでくれた母に、そしてその決心のとおり、自分の命をかけて私を守り通してきてくれた母に、私はなんと罰当たりなことを思ったのでしょう。実際私は母に向かって、「私なんか生まれてこなければよかった」というような言葉を投げつけたように思います。いざ自分が母になってみるとわかるのですが、親にとって、子供から言われるこれほど悲しい言葉は他にないでしょう。お腹を痛めて産んだ子がこの世に受けた生を何一つ喜べないとしたら、こんな悲しいことはありません。とは言っても、「私なんか、生まれてこなければよかった」という言葉の裏には、ただ単に(生きているのが辛い)という思いの他に、別の意味もありました。それは前にも書いたように、母は自分が盾となって娘を守るために、敢えて離婚はせずにいましたから、私はそんな母の気持ちをありがたいと思う一方で、(私がいる限り母は自由にはなれない。私さえいなくなれば、何も気にせず、母は父のもとから逃げられる)という思いを抱くようになったのです。実際、二階の自分の部屋でひもに首

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をかけ、自殺の真似事をしてみたことが二度ほどありました。けれど、死にたいという思いは本物だったはずなのに、実際にやろうとすると「ああ苦しい」とすぐに外してしまうのですから、まだどこかに生きる余裕があったのでしょう。

 話は少しそれてしまいましたが、結局私は、親になるべく経済的負担をかけるまいと、国立で女子寮がある大学という条件をつけることで、自分自身の迷う心に折り合いをつけ、東京にある女子大を受験したのでした。落ちたら浪人はせず働くつもりでいましたが、幸いにも英文科に合格しました。こうして初めて、親元を離れての生活がスタートしました。

 母からはよく手紙が来ました。心配するようなことはあまりかかれてはいませんでしたが、意図的にごまかしてあっても大変な毎日が続いていることは、行間から感じられました。けれど、だんだん甘い生活に流されていっている私は、あえて文字どおりの意味にしか読まないよう、手紙の裏に隠されたものに目をつぶり続けていました。父は字を書くことが嫌いで手紙はよこしませんでしたが、遠く離れている分、逆に不安をあおるような後味の悪い電話をちょくちょくよこしました。中には一度か二度、「お父さん、生きとるのがもう嫌になったからよ、今から死ぬわ。これからガス栓ひねるから、お母さんのこと頼むちゃ」と言って、ガチャンと電話を切られたことがありました。(「今からガス栓をひねる」と言われたって、今すぐ富山に飛んでいけるはずはないし、どうしてわざわざそんなことを耳に入れて不安にさせるのだろう…)と、私は父を心配するどころか腹立たしく

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思い、(いっそ死んでくれれば…)とさえ思ったのでした。後で母から聞いた話によると、実際その時父はガス栓をひねっていたらしいのですが、ほんのわずか、ガスが充満するには程遠い量だけ、ひねってあったそうです。「あの人は、どんなに『死ぬ、死ぬ』って言ったって、本当は死ぬことなんてできん人やわ。」ため息にも似た母の声の響きでした。

 私が東京での大学生活に逃避している間、富山では父の酒乱がさらにひどいものとなり、母にとってはまさに命を張っての日々でした。たぶんこの時期が、父がいちばん荒れていた時期だったようです。けれど母は多くを語りません。なぜか口をつぐんでいます。母はただ、「あれでもあんたの父親だから、全部聞かせたらあんたが可哀想」と言うだけです。

 大学の四年間はあっという間に流れました。卒業式には母が来てくれました。そして当時付き合っていた彼も来てくれました。母が上京するめったにないチャンスで、しかも二人とも同じ会場に出席していたのに、とうとう私は二人を出会わせることもなく、紹介することもなく、終えてしまったのでした。母が帰った後、その彼から「どうしてお母さんに会わせてくれなかったの?」と言われましたが、私には答えようもありませんでした。(私は誰かを好きになっても、絶対に結婚はするまい。してはいけないんだ)と思っていました。(もし結婚して、相手の家まで地獄に巻き込むようなことになったら…)と思うと、とても恐くて結婚なんてできません。自分が大切に思う人の家族まで不幸の巻き添えにした場合の辛さ、申し訳なさを思うと、一人で不幸に耐えている方がまだ気が楽です。

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「あの父の娘である」という運命は、重い鎖となって、どこまでも私の足にからみつき、私が自由に生きることを決して許さなかったのでした。

 大学入学の時、後ろ髪を引かれる思いで富山を後にしたのとはうってかわり、四年間親元を離れて暮らしてみると、もう一度あの地獄の家に戻る勇気はすっかりなくなってしまいました。英文科のクラスメートの大半が、地方から出てきて東京に就職するというパターンでしたが、私もその例に漏れず、東京の大手電機メーカーにさっさと就職を決めてしまったのです。東京に就職を決めるということは、この先もう富山には戻らないということを意味しているにもかかわらず、これから先父の問題をどう引き受けていくのかということから、わざと心をそらしていました。

 一九八七年四月、入社式。スーツに身を包み通勤電車に揺られる生活が、いよいよ始まりました。コンピュータに関する新人研修が終わりゴールデンウィークが近づくと、各自出身地の支社へ帰っての販売実習が始まりました。研修期間は二週間くらいだったと思います。こうして私は研修の一環として、富山の実家に戻ることになったわけです。実習中私は、先輩について客先を回ったり、社に戻って実務の補助をしたりしました。毎日が緊張と好奇心で一杯で、社会人になった実感を味わいながら心はずむ毎日を送っていました。

 ところが一方で、家では大変な事態が起きていました。母が父に殴られて目が紫色に腫れ上がり、眼帯をしないと外へは出られない状態になりました。これ自体は過去にもあっ

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