もよく気がついて世話好き、リーダーシップがある、とでも言えるのでしょうが、何事もとことんやり過ぎてしまうため、真面目にやらない人が許せず、つい喧嘩になったり、挙げ句は独裁的になって思ったことを半ば強引に実行してしまうようなタイプでした。そんな父を敵に回した場合の怖さを皆さんよくご存知でしたから、父に対して強く意見することもできません。こうして、町内会の会合という名目の酒盛りは際限なく続いたのでした。町内会長に限らず、PTA会長、議員の後援会長というように「長」と名のつくものが好きなやり手の父は、母にとっては「輝いていた」のかもしれませんが、娘の私にとっては迷惑以外の何ものでもありませんでした。家庭の幸せを第一に考える平凡な父親がいいと常々思っていました。
その頃母は、富山駅から「雷鳥」や「白山」「はくたか」といった特急電車に乗って、車内で駅弁を売る車内販売の仕事をしていました。これは私の小学校から大学の頃まで、かなり長い間やっていた仕事です。重い弁当のたくさん入った籠を持ちながらの販売だったため、母の腕の力こぶや手のまめを見るまでもなく、相当な重労働であることは幼い私にもよくわかりました。しかも乗る特急によって勤務時間がまちまちで、ある時はまだ夜が明けぬうちから家を出、ある時は帰宅が終バスになりました。しかもお盆や正月、ゴールデンウィークは一番忙しい時期なので、休みなど取れるわけもありません。その上帰省ラッシュですし詰め状態の車内を、人の間を縫うようにして重い籠を運ぶのですから、そ
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