酔   い   ど   れ   記

(八)


 「ねっ、あんた」
 「ちょっと、あんた、お父さんてばっ」
 玲子に激しく肩を揺すられて、重い目を開けた。
 「火事よっ。火事。近いのよ」
 「早く起きてよ」玲子の緊張しきった声に、布団のなかで聞き耳を立てると、騒音と同時に、四方から近づいてるサイレンの音がする。
 夕方から降り始めた雪が、霙となって軒を打っているが、その音をかき消すように間近にサイレンは鳴って止まった。
 (近い…)さすがの和紀も慌てた。夜具の間から毛布を掴み出すと、体にくるんで表に飛び出した。
 暗い闇のなかに、それよりも黒い煙が立ちのぼり、その黒煙を真っ二つに割るように、真っ紅な炎が空をめざして勢いよく吹き出している。
 何台も押し寄せる消防車と、消防士の叫び声、火に弾ける木の音がハッキリと聞こえる。火事は、スナックの方角だ。何条もの水柱が立つが、火は折からの北風に煽られて、衰えることを知らない。
 ボワッゥーという何かが破裂した鈍い音と同時に、一段と火の手があがると、背の高い樫の木に燃え移って、パキパキと音をたて、見る間に太い枝が炎とともに落下した。
 「危ないわ。もしかしたらこっちに来るかも知れん。千明起こして服着せておけや」
 振り返った玲子の顔は、炎の明かりで火照ったように見える。
 返事もせずに家に戻った玲子は、着替えを済ませて千明を連れていた。
 「俺。見てくるわ」
 「危ないわよ。行かないほうがいいわよ」
 玲子の言葉を振り切って、和紀は火事場に向かってよろめきながら走った。
 火は、先程よりも衰えたとはいえ、まだ勢いがあった。
 火事場に近づくと野次馬のなかに、頭から爪先まで、全身ずぶ濡れの正ちゃんがいた。
 火事は、正ちゃんの住むアパートを燃えつくし、隣の食堂の二階を焼き、今また、屋根伝いに看板屋の軒から、炎を吹き出している。
 寒さと恐怖で、正ちゃんはガクガクと歯を鳴らして震えていた。
 「ウーの字。燃えてるよ。燃えてるよ」
 情けなく訴える正ちゃんの吐き出す息は、相変わらず強い酒の臭いがした。
 のっぺりした顔が、一段とのっぺりしいて、和紀は無性に腹が立った。
 「燃えたんだよ。燃えてしまったんだよ」  そう言うと正ちゃんは、人目もはばからず大きな声で泣きだした。正ちゃんの足元に何気なく目をやると、白い湯気がたっている。泣きながら漏らしてしまったらしい。
 「どうしょう。どうしたらいい?ウーの字」
 縋るような目で見る年上の男を、だらしない男、情けない男と見下げていた。
 情けない男に係わりたくなくて、ママかヤンペイ先生がいないかと辺りを見回したが、家財道具でも取り出しているのか、飲み仲間は誰もいなかった。
 野次馬のなかで、場所を替えて正ちゃんを振り切ろうとしたが、正ちゃんはしつこく和紀のそばから離れることはなかった。仕方なく和紀は、正ちゃんを連れて家に戻ることにした。
 火は、三時間あまり燃え続き、アパート、食堂と看板屋を全焼し、民家を半焼して漸く鎮火した。
 家に戻った和紀は濡れ鼠の正ちゃんを風呂に入れ、客用の夜具を出して敷いてやった。
 人心地つくと正ちゃんは、玲子に聞き取れない声で「酒、ある?」と聞いた。
 正ちゃんに言われて、和紀も急に頭が疼き出すのを覚えた。
 火事場で見下げた卑しい男と一緒に飲むのかと思ったが、頭の疼きに耐えられることはなかった。
 夜が白んでくるのを感じながら、二人はグラスを傾けた。

 和紀が目覚めたのは、昼をとっくに過ぎていた。
 隣の夜具に目をやると、正ちゃんの姿はなかった。
 仕事に行かなければと思ったが、正ちゃんのことも気になった。
 「正ちゃんどうした?」
 洗濯物を干している玲子を庭先に見つけると、和紀は遠慮がちに聞いてみた。
 不機嫌そうな玲子は、口先を尖らして
 「あの人、どんな人なんよ。人が世話してあげたのに礼も言わんで、目が覚めるとこそこそと酒飲んで、黙って出て行ったわよ」
 和紀は、自分が叱られているような嫌な気がして、のろのろと仕事着に着替えようとした。
 「会社には、火事があってひどかったから、休ませてもらうように電話しといた」
 「ああ、そう」
 仕事を休める安堵で浮き立つ気持ちとは裏腹に、抑揚のない声で答えると
 「ありがとう位、言ったらどうなのよ」
 と語気も鋭く迫ってきた。
 「ありがとぅ」
 消え入るような声で礼を言ったが、玲子には聞き取れなかったようだった。
 (それにしても……)と和紀は考えた。
 それにしても、身寄りもなく、会社をクビになり、失業保険で暮らしている正ちゃんは、いったい何処に行くところがあるのだろうか。
 うっすらと積もった雪が、陽に照らされて眩いばかりに輝いていた。

 二三日して、スナックへ行くと、火事見舞いの酒が所狭しと並んでいて、壮観だった。客は和紀のほかは見当たらなかった。
 「この間の火事は、凄かったなあー」
 ママが突き出しの盛り合わせをしている奥に向かって和紀は幾分明るい調子で声を掛けた。
 「凄かったちゅうもんでないよ。ウーちゃん。うちなんか燃えなくてよかっただけ、家のなかは水浸しで、まだ畳なんか乾いてないのよ。現場で使うコンパネあるでしよ、あれ敷いて寝てんのよ。凄いもんよ」
 突き出しのうちのひとつを持って、暖簾を潜ってママがカウンターまでやってきた。
 「火元のこと知ってる?正ちゃんの寝煙草だったらと心配したんだけど、正ちゃんの上に住んでるホラ、四十がらみの女がいるじゃない」
 「さあ、知らんな。そんな奴、いたっけ」
 「いるのよ。それが」
 「その女が喰らえこんだ男と喧嘩になって、バタバタやっているうちに、ストーブが倒れて油がこぼれて火が広がったらしいのよ」
 「ふーん。そう言えばいたなような気がするな、そんな女。それにしてもあんな女のどこがいいんだろうね。少し猫背で年より老けて見える女なのになあー」
 「ところで、正ちゃんどうしたんか知ってる?ママ」
 「正ちゃんね。どうしたと思う?」
 少しやんちゃな目遣いでママは和紀に聞いた。
 「どうしたって言われても、見当もつかんわ」
 「そうやろ、そうなんよ。誰も見当もつかんようなことしてんよ」
 「どうしたと思う?。あの人、病院にはいったのよ。入院…」
 「アパート焼け出されて、行くとこないでしょ。だ、か、ら」
 「すげえな」
 「そうでしょ。前から悪かった肝臓理由に、入院。あの人五回目よ」
 (そうか…。そんな手があったか…)
 ストーブにかけられた鍋のなかで、豆がぐつぐつと小気味のよい煮えたぎりの音を立てているのをボンヤリと眺めていると、ヤンペイ先生がやってきた。
 ママは、和紀に言ったようなことをヤンペイ先生にも話したが、
 「ああ、あいつはアル中だから仕方がないわ。それにしても考えたな」
 「そうだ。そうだ。正ちゃん完全なアル中だもんな」
 尻馬に乗った軽薄な和紀の態度を戒めるように振り返ったヤンペイ先生は、
 「ウーの字。人のことは言えんのやぞ。お前もそうなんやから」
 「えっ」
 と絶句した。しかし、慌てて否定した。
 「正ちゃんは身寄りもないし、会社も行ってないし、部屋の中もバタバタやし、あの人、時々唇震えてるし、何時もフラフラになって歩いてるやん」
 「そういうこと言ってるようでは判ってないな。今に痛い目に逢うぞ。ガッハハ」
 豪快に笑って一本のビールを飲み終えて、ヤンペイ先生は出ていった。
 笑っていた目に、ありありと不愉快さが顕れていた。
 (本当だろうか……。でも、ヤンペイ先生は国語の教師だ。国語の教師にアル中のことなんて…)
 気分は重く沈んだ。ママにも何も言わないでドアを開けた。
 真新しい雪の上に、今し方出ていったヤンペイ先生の靴跡が、黒く続いて残っていた。