閉   鎖   病   棟

(一)


 月日は流れて、和紀も四十五の歳を迎えた。
 病院を退院した正ちゃんも、その後は誰知るともなく行方知れずになってしまい、あれだけ通いつめたスナックも、和紀の気が咎める位に払いも滞り、敷居が高くなって、行くに行けない有り様となっていた。
 小金を頼りに、コンビニと自販機が常となっている。
 (酒かあ……。)
 (何で、酒なんかあるんやろなぁ)
 (何で、こんなに虚しいんやろなぁ)
 (何でやろうなぁ……。)
 味噌川の流れは、深い澱みとなって、青黒い渦を巻いて流れ下っている。
 遙か下流に架かる吊り橋は、沈み行く秋の陽に映えて白く輝いて見えるが、和紀の座っている岩場の澱みは、ブナの大木が光を遮って、青黒い渦に一層の不気味さを漂わせている。
 日没の秋の日陰は、ひんやりとした冷たさも感じるが、背中のうそ寒さとは別に、和紀の頬と手には、ぼってりとした熱さが残っている。
 ぐびりとやった焼酎の瓶の白さが、一層虚しさを掻き立てる。
 和紀は、行き着くところまで、行き着いたのかも知れなかった。
 仕事場でも絶えず酒臭い息を吐き、作業員に指図だけして事務所に引き籠もり、眠ってしまったり、眠らないときは隠し酒をしてみたりで、狭い事務所のなかは排他的なものだった。
 (ヤンペイ先生の言ったことは、本当なのかも知れない)
 (どっか奇怪しいもんなぁ)
 同僚の社員の冷たい素振りにも、どう対処していいのか分からなかった。
 世の中の全てが、恨めしく思えた。生きていることだって…。
 死ぬことも考えたが、あれこれと考えているうちに、怖くなってきて実際には何も出来なかった。それよりも、寝ているあいだに死んでしまうことを望んでいた。
 身軽に何処かへ消えてしまった正ちゃんの方がよっぽど良かったのかも。

 ブナの赤茶けて乾いた葉がふたつみつ、和紀の姿を象るように風に流れた。
 うなだれて岩場の窪みに視線を集めていた和紀は、頭を持ち上げると、憑かれたようにぐびぐびと焼酎を煽った。焼けつくような刺激が胃壁に伝わり、暫くは動くことも出来ずに、背を丸めたままじっと耐えていた。
 何を思ったのか、和紀は岩場を離れようと、力なくふらりと立ち上がった。
 重心が傾くと同時に、ブナの幹が逆さに見えて、渦巻く水面がちらと目に入ると、身体に強い衝撃を受けたのを感じた。激しい恐怖に襲われると同時に、これで終わったと思った。
 妙に観念すると、全身から力が抜けて、落下するのに身を任せた。
 さようなら
 短い時間のなかで、そんな思いが脳裏をよぎった。
 短絡的に、全てを投げ出していた。
 もう一度、強い衝撃のあと、和紀は岩と岩の隙間にできた僅かなヘドロの上に落ちていた。気がつくと、身体の重みで、ヘドロが打ち寄せる流れに次第に溶け込んでいく。
 ヘドロが溶け、爪先から少しづつ流れのなかに沈んでいくのが分かる。
 目の高さと、さほど変わらない水面は、ただ青黒く渦巻いて、和紀のいるところから一気に深みとなって迫っている。
 再び激しい恐怖に駆られて、酔いは忘れた。
 尻の下に、僅かに残ったヘドロを支えに、少しづつ身体を岸に寄せるようにした。
 しかし、身体に力が入らなかった。
 満身の力を込めて背後の岩を、振り向きざまにハッシと掴んだ。
 掴んだ所が幸いした。岩を這い下りた頑丈な木の根を掴んで、辛うじて流れに呑み込まれるのを防ぐことができた。
 軽い安堵で、ズボンのなかに生暖かいものが流れた。
 慎重に岩場を登る和紀の目に、あの白い吊り橋が映り、その中ほどから、黒い影がまっすぐに味噌川の流れに吸い込まれていくのが見えた。
 漸くの思いで、車までたどり着き、シートを倒して横になろうとした。
 頭の後ろを、素早い速さで獣のような何かがよぎったような気がした。
 続けて、さわさわ、さわさわと何かが蠢いている。誰かが話しかけてくるような気もする。
 形は見えない。見えないがひとりではない。
 二人、三人、いや、もっと。
 形のみえないもの同志でも、何かの言葉を交わしている。
 (えっ、何?何んやて)
 その声が、瞬時に和紀に話しかけ、またすぐに遠ざかる。
 その繰り返しが、母にも、父の声にも思えたり、また中の姉だったりもする。
 暫くの間、和紀は辻褄の合わない独り言を繰り返していたが、何時しか重なり合った声は、読経となって聞こえてきた。
 合掌し、(なむあみだぶつ)と念仏を繰り返す。
 幻聴に向かって、身体の痛みを訴えるが、どうにもならない。
 落ちたときに剥がれた右足の生爪は、血止めにした煙草の刻みと乾いた血で、ドス黒い口を開けていた。
 着ていた服も、ヘドロがこびりついたままで、異臭さえする。
 このまま家に帰れば、玲子に叱責されるのは、火を見るより明らかだった。
 服が乾き、身体の痛みが落ちつくまで眠ろうとしたが、神経がささくれ立って容易ではない。
 座席の下に隠してあった酒を含んだ。飲み込もうとしても飲み込めず、激しく吐き戻した。
 ひとしきり吐いたが、出るものは何もなかった。出るものがないほど辛いものはない。
 胃が小さく縮んで、食道へと絞り上がってきて、抉られるような辛さがある。
 咽頭が腫れ、顎関節がだるく、口を開けたまま次の嘔吐を待つ。
 その口から、粘りのある細い唾液が糸を引いている。情けなかった。
 死ねるものなら、死んでしまいたい。しかし、それも出来ないでいる。
 残されている道を、酒に求めるしかなかった。
 吐きながら飲み、飲みながら吐いて、酒まみれになって眠りに就いた。

 コツコツと何処かで窓を叩く音がする。
 それは遠いところで聞こえていたが、だんだんと近づくように大きくなって目が覚めた。その音をもう一度聞くと、重い身体を漸く起こして外を見た。
 外を見て、ぎょっとした。
 助手席側にパトカーをぴったりつけ、運転席の窓を叩いていたのは、二人の制服の警官だった。
 「ちょっとお聞きしたいことがあるので、下りてもらえませんか」
 丸顔で血色のよい年配の警官が言った。
 和紀は不安で体がこわばるのを感じた。動悸が激しく、耳の内側で脈打つ音がする。
 「すいませんがね、お父さんに聞きたいことがあるんですよ」
 今度は顎のしゃくれた神経質そうな若い警官が言う。
 酒だけで過ごしているのと、恐怖感で足に力が入らず、膝頭が小刻みに震えた。
 ドアを開けて外に出ると、二人の警官は鼻先で手を振って、嫌な顔をした。
 酒と、胃液と、ヘドロの臭いで、たまらない異臭が和紀を包んでいた。和紀が怪我をしているのに気付くと、二人の警官に緊張が走った。
 「怪我してるね。どうした。どうして怪我した」
 「だいぶ頂いてるようだし、それに服も汚れてる。何時からここにいる。うん?」
 何時からと言われても、和紀には時間の感覚もなくなっている。
 「あんた、大丈夫かね」
 問いには答えず、ぼんやりと遠くを眺める。陽は西に傾き、陽を背にした山肌は黒い影になっている。その山に向かって、空は青から茜色へと少しずつ色を変えている。
 和紀は夕日を受けながら、時間が動いていない不思議な感覚に捕らわれていた。
 「いやあ凄いはこれは、これは凄いよ」
 車のなかを覗きに行った若い警官が、軽蔑とも取りかねない口振りで言いながら、ビニール袋に入れてあった空き瓶と、空き缶をぶら下げて戻ってきた。
 「あんた、本当に大丈夫なの?」
 「いったい何があったの」
 矢継ぎ早に聞く警官の問いには答えられずに、ただ俯くばかりだった。
 「此処ではいかん、署へ行こう。署へ」
 署と聞いて、再び足が震えた。震えは全身に伝わり、体がゆらゆらと左右に揺れた。
 警官は二人だけで何事か相談すると、丸顔の一人が和紀の側に来た。
 若い警官はパトカーに戻って、無線連絡を取っているようだ。
 「あんた、お酒のほうも相当入っているし、服も汚れてる。それに傷の手当だってあるから、署の方で少し話を聞かせてやって、なっ」
 「なっ、あっち行こう。あっち」
 パトカーの方に促す警官の優しそうな言葉とは裏腹に、和紀の体は強い力で拘束されていた。
 おずおずと歩きだして、
 「車……」と絞り出すように小声で言うのが精一杯である。
 「あっ車な、車はレッカー車で署まで持って行くわ、連絡取ったさかいに」
 「なあんも心配いらんで。警察は悪いようにはせんから」
 「それとな、袋は一応署で預からしてもらうわ。大事なもんやさかい。わかるわな」
 分かるかと言われても、和紀には何のことか解せなかった。
 次第に鷹揚になる警察官の対応に、腹立たしさを感じていたが、会社にも家にも何と言ったらいいのか、その不安の方が強かった。
 パトカーに乗せられ、遠ざかっていく車を見つめていると、不意に目頭が熱くなった。酒が切れてきたことで、涙もろくなっているのだろうか。
 警察で一通りの事情聴取をされたが、調べている事件とは関わりがないことが判明して、その夜の遅くに玲子が迎えにきて、放免された。

 帰りの車のなかで、玲子に叱責されながら、眠りはじめたのが昨日の宵の口だと知ることができた。仕事にも就かず、丸一昼夜を車のなかで過ごしたことになる。
 玲子のとりなしで、会社にはさほど責められなかったが、酒の上での失態を知る同僚の目には、冷徹なものがあり、堪えることができなかった。
 和紀は、孤立し、こころのやすらぎを見いだせる所はなかった。

 数日後に、味噌川で溺死者があったことを人伝に知り、あの時、真っ直ぐに落ちていったあの黒い影が、自殺の瞬間だったことを思うと、さっと血の気が引く思いがした。
 死にたいと思っていながら死に切れず、必死でもがいていた自分のことが、殊更惨めになってきた。
 (殺してくれー。誰かあー)
 (殺してくれー)
 叫びにならない叫びを繰り返して、嗚咽した。