閉   鎖   病   棟

(五)


 開放病棟では、患者の間で自治会が運営されている。
 開放病棟へ移されたその日の夕食の時に、自治会長の田島さんから
 「断酒会の氏家さんです。二ヵ月という短い間ですが、皆さん仲良くやって行きましょう」と紹介された。
 二ヵ月という期間は、和紀にとっては長い時間である。それを平気で短い間と言った田島さんの本意が計りかねた。
 すると田島さんが、今日は一緒に食べましょうと言って、トレーを持って和紀の横に座った。田島さんの本意が知りたくて些か語気強く聞いていた。
 「どうして、二ヵ月が短いんですか。田島さん」
 田島さんは、端午の節句のために出されたチマキを口にほおばりながら、
 「あのね、僕はここに十二年いるの。そりゃあたまには外泊するけど、帰っても家の者がいい顔しないし、いづらいから結局直ぐに病院に戻るしかないんよ」
 (十二年……)和紀は絶句した。
 「ホラ、あそこでお茶汲んでる人、あの人香川さんていうんだけど、あの人なんか十五年もいるよ」
 (十五年……)
 「副会長の福島さん」
 田島さんは、今度は女子のテーブルの方を見やって、
 「福島さんは大分病態がよくて、ここから昼は働きにでているけど、それでも出たり入ったりで、八年ぐらいはここにいるよ」
 和紀の困惑ぶりに涼しい顔で、トレーのものをつつきながら話してくれる。
 「氏家さん達はね、断酒会だから三ヵ月すると家に帰れるでしょう。僕たちは、家族も冷たいもんで、ほったらかしの人だって何人もいるんだよ。何があったか詳しいことは話さないけど、放火未遂で警察からきた横藤さんなんか惨めなもんで、福祉手当てだけで暮らしているから、病院の払いも難しいらしいよ、おやつなんかは、人がくれるまでじっと我慢している。寂しいよね」
 いったい自分は何者なんだ。
 思い上がっていた和紀の鼻っ柱を、嫌というほど叩かれた思いがした。
 「だから、開放病棟の二ヵ月なんて、短いもんでしょ」
 田島さんは、和紀の湯飲み茶碗にも、番茶を入れて戻ってくると、
 「断酒会の人達は、ただ、ここを通りすぎていく人達なの。私達のように何年も、何十年も、家族や世の中から疎まれ続けて暮らしているのとは、違う世界の人達かも知れないと思っているんさ」
 和紀は、田島さんがどんな病気でここにいるかは知らなかった。
 そして、それを知ることが、田島さんに失礼なことのようにも思えた。
 「そうかあ…」
 長い嘆息の次は言葉にならなかった。
 閉鎖病棟で、他の患者さん達を見くびっていた自分が恥ずかしくなり、十二年もここにいる田島さんに尊敬の気持ちも湧いてきた。
 「ごめんなさい」
 「なあに、いいよ。事実を話したまでだから」
 田島さんは、和紀の含みも知らずに、明るく言っていた。
 開放病棟には、鉄格子がなかった。そのお蔭で、部屋の中も浴場も明るく感じられた。
 その上、患者たちの容態が落ちついていて全体が静かなのにも満足できた。
 病院の周りの散歩や付近の店舗への買い物は自由にできることも嬉しかった。
 朝食前の散歩にでるときに、三階と四階の階段の中程で、福島さんの読経の声がする。
 何時ものことなので何気なくやり過ごそうとしたときに、けたたましい悲鳴と、人が転がり落ちる音がした。慌てて行ってみると、踊り場にうずくまっている人がいる。福島さんだ。
 「大丈夫?」
 聞くと福島さんは、痛みを堪えているのか俯いたまま、二三度首を縦に振った。
 階段の中央でパジャマ姿で髪を振り乱して、仁王立ちになっている佐川さんがいた。佐川さんは、和紀を見ると何事か言い捨てて部屋のほうに走って行った。
 散歩から戻ると、朝食前というのに、福島さんがボストンを持って、病棟の入り口に立っていた。
 「福島さんどうしたの。怪我はなかったの」
 和紀の問いにも、浮かぬ顔つきでただ立ったままでいる。
 たちまち福島さんのことが、朝食の話題となった。
 福島さんは、今日、一時退院する予定でいた。退院は皆の憧れではあるが、また、皆の秘密のことだった。
 アルコール患者を除いては、誰しもが長い病院生活に疲れ果てている。
 退院することは嬉しいことには違いないが、皆の思いに背くことになる。できれば秘密にしておければいいことなのだ。
 福島さんも、今日のことを自分では秘密にしていたつもりが、ナースミーティングに聞き耳を立てていた佐川さんが、それを知って妬むあまりに強行したらしい。
 二人は、女子の患者のなかで取り分け仲がよかった。それだけに、悔しい思いをしたのだろう。
 佐川さんは朝食のあとで、看護士に付き添われて四階の閉鎖病棟に戻って行った。
 掃除のあとで、田島さんがアルコール患者の部屋までやってきた。
 珍しいことに、アルコール患者の皆は、おやつを出して歓待した。
 「今日のことはね、まだよかった方なんよ。何時やったかは、看護士が止めに入ってもやめないで、看護士が反対に殴られて、足の骨折ったこともあるんやで」
 「へえー」
 皆は、田島さんが話しはじめると、嬉々として周りに詰め寄った。
 「佐川さんのように、もう一回閉鎖へ戻されると、点数(印象のことか)が悪くなって、なかなか開放にも下りてこれんようになる。閉鎖にいた年寄りの十勝という婆さん知ってる?」
 「うん。知ってる。知ってる。あの先生の悪口や看護婦の悪口しか言わん。あの婆さんやろ。よおあんだけ小言言えるなと思うくらいや」
 橘さんが、さも憎々しげに顔までしかめながら言った。
 「あの婆さん、開放におったときに、パチンコしに行って、病棟回診を何回もスッポかして、ついでに人の小遣いまでに手え出したんや。それで、閉鎖行き。今では大分治っていると思うけど、何べんも保護室入ったと聞いてる」
 「ふーん」皆の目は輝いていた。
 「精神科というのは、怖いところや、規律をしっかり守らんと、閉鎖や保護室送りになる。いくら先生や看護婦のいいつけを守ってやっていても、病気が病気だけにおいそれと退院にはならん。辛いとこやで」
 どう言っていいのか、皆に躊躇と同情の気配が伺える。
 「あんた達もね、先生や看護婦のいいつけを守ってやっていかんと、直ぐに病院へUターンや。閉鎖の隣の個室にいた植物人間みたいな人、知ってるやろ」
 「ああ、あの人もアルコールでなったらしいや」
 平然と田中さんが言ってのけた。
 「あの人は、何回も入退院繰り返して、あの結果や。僕等も病院から出れん死んだ人間かも知れんが、あの人よりは増しやで。僕等には命がある」
 「精神科というところ。増してや閉鎖には、もう戻ってこないことや。あんたらは三ヵ月という時間が解決してくれる。そやけど、それからが問題や。二度も三度も戻ってくる人を何人も知ってる。そんな人を断酒の人に聞くと、必ず死んだという話になる。哀れなもんやで、僕等は、ここで何十年も生き延びてるのに」
 皆は黙りこくってしまった。
 田島さんは、出されたおやつにも手をつけないで、自分の部屋に帰って行った。
 田島さんが帰って暫くすると、重苦しさから幾分開放された。
 「なんだよ。田島の会長は。俺らに説教たれに来たんかよ」
 田中さんは、田島さんが言いにきてくれたことを誤解していると思った。
 何の病気で、何十年ここにいるのかも知れない。しかし、あの人の言うことは的を射ていて、しかも思慮深い。
 和紀には、果して田島さんが、本当に精神病の患者なのかとさえ疑問を持った。