閉   鎖   病   棟

(四)


 「俺はね、何か言うとすぐに跳ね返ってくる、あんたのそんなところが嫌で嫌でたまらんのやわ、
 言葉遣いにしても、旦那を旦那として持ち上げてくれるところもないし、茶碗なんか後片付けもしないで、水に漬けたままになってる。
 それを一寸言うと、直ぐに文句を付ける…。
 そういうとこを何遍直してくれって頼んでも、なーんも直さんやないか。
 これが私やしとか、私は私やしとか言って」
 「そうですよ。私は私ですよ……。あなたに言われても直らないものしょうがないでしょ。私には、私のやり方もあるんですから」
 週一回の断酒院内ミーティングが行われている。
 主治医と診療心理士、それに担当の看護婦、看護士をなかに、テーブルを挟んで、患者と家族が向き合って行われる。
 集団療法室と名付けられたこの部屋には、退院して間もない患者やこれから入院しようとする患者も含まれていて、断酒に関する啓発活動が行われる。
 「何言ってんのよ…。直す気が無いからやろうが…」
 「直せ、直せって人にばっかり言わないで、あなたこそ直したらどうなんですか」
 一寸待ってくださいと診療心理士が言った。
 「どうやらお二人のお話を聞いていますと、お酒の上でのことではなく、お互いのやり方を非難されているばかりで、肝心のところがはっきりしていません。
 奥さんは、ご主人がお酒を飲んでどのようなことをしていたか。どんな気持ちでいたのかを伝えるようにしてください。
 でないと議論になってしまって、時間ばかりが経って、他の患者さんの治療もできなくなります」
 玲子を他人と感じ、受け入れられずにいながら、一方で玲子と一緒にいたいと思う気持ちにかられ、和紀を複雑な思いにさせていた。
 話しはじめると、少なからずある玲子への憎しみが先に立った。
 玲子にしてみても、和紀と同じ思いであったのかも知れない。
 「それでは言います。毎日毎日浴びるようにお酒飲んで、会社は休むは、お金は持ち出すは、おまけに、夜遅く警察にまで迎えに行ったりして。
 千明の入学式の日にも家にいてやれないというのも、お酒のせいでしょうが……、
 酔っぱらって、包丁持ち出して胸ぐら掴まれたときは、殺されてもいいと思った。
 でも、私は…、私は……、殺されてもいいと思ったけれど…、
 千明のためにも死ねなかった……。
 何処まで飲んだら気が済むのだろうと思うと、悔しくて…、悲しくて……、
 飲み屋に行かないときは、一升瓶前にして、ボーっとテレビ見ている。
 そんなあんた見て、どれだけ泣いたか知れない。
 これが私の主人かと、これが千明の父親かと……。
 あんたは知らないでしょうが、千明を連れて一緒に死のうと何度も家をでたわ。
 でも、何時かはやめてくれると思ったし、千明の小さな手を取ると死ぬなんてこと、とてもできなかった……。死にたいのに死ねなかったのょー……」
 言い終わると、テーブルに突っ伏して、堰を切ったように嗚咽した。
 我慢に我慢を重ねてきた玲子の昂りが崩れていった。
 ミーティング会場はしんと静まり返って、患者の家族のすすり泣きも聞こえてきた。
 ここにいる家族の誰もが、似たような体験をし、悲しくて情けなく、辛い思いをしている。玲子の言葉が、自分の感情と重なっているのだろう。
 会場全体に、堪えがたい重い空気が流れていた。
 玲子の静まるのを待って、
 「どうですか。氏家さん。今の奥さんの話を聞いて、どのように思われましたか」
 心理士の言葉が、会場を元の次元に取り戻した。
 家族は気持ちを入れ換えるように涙を拭いて、再び玲子と和紀の二人に注目した。
 和紀は、どう答えていいのかわからなかった。
 彼に注がれる視線の全てに、許されることのない冷たさを感じていた。
 でも、何かを答えなければ納まりそうにもない。
 「飲んだことは、済まないと思っています」
 視線を避けるように、心理士の先生に向かって、重い口を開いていた。
 「よく聞き取れないんですが、それと私に言ってもらってもしょうがありませんから、 奥さんの方へ顔を向けて、奥さんに仰ってあげて下さい」
 (先生が聞いたから、先生に向かって答えただけなのに、何故なんだ)
 (あいつが聞けば、あいつに答えるさ)
 たたみかけるように聞こえる先生の言葉に、裁判所の被告席に立たされているような、不文律なものを感じて、怒りが込み上げてくる。
 (俺の言うことも聞かないで、よく死ぬだの死にたいだの言えたもんだ)
 (死にたいのは、こっちの方だよ。人の見ている前で、オイオイ泣いたりして、みっともない。馬鹿かあいつは……)
 「どうなんですか。氏家さん。奥さんの悲しい気持ちがわかられますか」
 (悲しいって?なんでや。なんで悲しいんや。悲しいて酒飲んでるのはこっちの方や)
 「黙っておられても、奥さんには気持ちが伝わりませんが、何か奥さんに伝えることはありませんか」
 (何かって言われても、何を言えば気が済むんや……)
 「済んませんでした」
 一刻でも早く、この場を切り抜けて終わらせてしまいたい和紀に、
 「それだけですか。それでいいんですか」
 「奥さんは、ご主人の言葉を聞いて、どう思われましたか」
 (どうでもいいやんか。あいつのことなんか。早く終わろうや)
 「はい。何とかしてお酒…。やめてくれればいいと思っています」
 とにかく酒さえやめてくれればいい。どの家族にとってもそう思うのが普通である。
 しかし、医療側としては酒に隠された家族関係にまで及んでいる。
 玲子の言葉に、心理士も主治医も暫く沈黙していたが、
 「今のお二人の、やりとりを聞いていますと、お二人の気持ちがちぐはぐで、なかなか自分の気持ちを、相手に伝えることが難しいようです。
 これは、氏家さんお二人のことではなく、ここにおられる皆さんもそうですが、
 このミーティングを通して、自分の気持ちを伝えることを練習していって下さい」
 「今は、奥さんが家におられて、ご主人が病院におられますから、お二人の関係が
 離れていることで、多少言いにくいことでも言えることができます。
 家に帰ってからでは遅すぎる問題もありますから、この場で伝えておく必要も
 感じていますし、ご主人はお酒に酔っていて自分では分からない部分も沢山持って
 おいでですから、その部分を教えてあげられたらいいと思います」

 閉鎖病棟から開放病棟へ移されて間もなくのことだが、未だ、和紀の怒りの感情は開放される兆しは見えなかった。
 アルコール性癲癇、アルコール性痴呆といった重症でない限りは、三ヵ月という治療期限がある。その中で、断酒ミーティングは、たったの十二回である。が、しかし、患者の誰もが嫌がっていたし、家族の者さえ来ない患者もいた。
 その家族の多くは、本人が酒をやめさえすればいいとする者であり、自分の家族としての関わり方に何ら疑問も持たなかった人達である。
 「お酒は、ご主人一人の問題ではありません。家族の人は、ご主人のお酒を一生懸命、陰で飲ませようとしています。
 自分が困っているのに、ご主人のお酒を手伝っていることに気がついて欲しいのです。
 ですから、家族の人も変わられないと、ご主人が折角やめられていても、長続きはしないものです。
 ご主人のお酒の問題をご主人一人に任せるのではなく、お酒を通して、ご自分のことを考えられるようになるといいのですが」
 主治医は、よくそう言った。
 和紀は、主治医の言葉に救われるものを感じて、憧憬と信頼が深まるのを慶んだ。
 それは、独りよがりかも知れない。しかし、この人の言うことだけには従いたい。
 日を追うに連れ、益々それは強くなり、和紀のなかで不動のものとなっていった。
 一通りのミーティングが済んで、入院希望の患者に軽いアドバイスがなされると、
 「私達には、あなた方患者さんを治すことはできません。治そうとすることをサポートしていくだけですから、そういうことから言えば、私達は無力です。
 でも、よりよいサポートをさせていただいて、お酒を通して家族を考えられる、
 そんな人達になってもらうために、私達は、これからも努力させていただきます」
 この言葉を期に、ミーティングは終了した。
 病気は病院が治してくれるもの、そう思っている人達への警鐘でもあり、患者への自立を促す言葉でもある。
 アルコール依存症は、表面に顕れる身体的障害や行動だけではない。
 根本に家族を含めた、殊に配偶者との関わりが深く、機能不全となって、その影響が子供にも及ぶ。
 何よりも、患者と家族の自覚を必要とする病気なのである。

 風は五月の香りを運んで、病棟の窓から眺められる山々には、穏やかさが戻っている。
 治療過程にも慣れ、環境にも慣れてきた和紀には、病院が居心地のよい場所と思える時があって、アルコールのことばかりを考えていることに嫌気がさし、疲れても来ていた。
 しかし、アルコールのことを考え、そのことで疲れることはよい兆候だとする医療側の言葉に辟易していたが、身体の不調がとれて、軽さを感じる時には、心も浮き立つことがある。
 この頃、和紀は初めて上司に(病気の心も開かれていく気がする)と近況をしたためている。
 玲子にも、千明にも、そして飼い犬のビバリーにも逢いたさが募った。