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        【 ツァラトウストラとゾロアスターについてのメモ 】       
  

    【5】


                       ◇◇◇◇    ◇◇◇◇



  A1


  前ページで抽出した、キャラクターは、4部で統合されて、9人の高人になり、それが最後に、獅子に消し去られる格好で          
  、結局 ツァラトウストラに統合されるともいえるわけで、この最後の部分の”きっかけ”が、この書の冒頭の部分とほぼ
  同じような台詞で繰り返して現れているのは、重要である。

  「・・・それは彼方からたち昇る太陽のようだった。”お前、偉大な天体よ。・・・もし、お前が、お前の光を注ぎかける者た
    ちを持たなかったら、お前の幸福も、すべてなんであろう。・・・・”」(第4部・徴)

  この繰り返しはどうでもいいことでありえない。この結末からして、太陽から発出して、太陽(の怒り)に終わる、という
  言い方になっているのと同時に、太陽の幸福より、光を注がれるものの存在を優位にしていることにもなり、これは人間と
  いわば”外部的なもの”の関係、のニーチェの重要な思想を暗示していると考えた方がいい。

  こうして太陽が、円環的な繰り返し(いわゆる永劫回帰・・後述)を示して現れるのだが、孤独なツァラトウストラが、最初
  に森の老人と会ったとき、

  「・・・ツァラトウストラは、幼子になった・・・」

  と、森の老人に言われていることで、それが、1から4部のらくだ・獅子・幼児の3段階の発展につながっているのだから、
  太陽を目印に起こったツァラトウストラから、発出した色々なキャラクターも、この流れで円環的に統合され、繰り返すと
  いう仕組みになっている。


  A2 

  しかし、こういったキャラクター全体の発展的円環構造?の根拠を考えるとき、非常に重要な思想が述べられているのは、
  第1部の比較的目立たないところに置かれた、「肉体の侮蔑者」中の、本来のわれ」という考えであり、ここに注目
  しておくべき。    (ここまで2003/11/19) 

  @ 「・・・・感覚と精神は、道具であり、玩具なのだ。それらの背後になお「本来のわれ」がある。・・・
    君の肉体の中には、君の最善の知恵の中にあるよりも、多くの理性が、ある。」

  『ツァラトウストラ』のこの部分だけを読むと、観念論以上に観念的な考えみたいに受け取られやすいが、以前、このHPで
  書いた、「主語”われ”が述語”思う”の条件であるというのは、1つの偽造である」(J/1・17)といった『善悪の彼岸』
  の解説で、すでに長めに書いておいた部分にもある、ニーチェの最も基本的な考え方のひとつの別の言い方である。

  ただ、この『ツァラトウストラ』からのこの引用のある章では、”肉体”ということばが、強調されて使われているのが、
  問題になるのだが、まず、明らかなのは、ショーペンハウアーの全自然の生命”意志”が、”肉体”と呼ばれていることで
  あって、根本的には、その意味なのであって、かなり厄介な意味を持つ、普通と違う重みを与えられた言葉であることに、
  注意しなければならない。(だから、この”肉体”は、普通の物質的現象を指していないことは勿論だが、強調しておく。) 

  こういった話で、”肉体”などというと、身体の”器質的”問題、いわゆる目の前の物的現象であるから、毎年、いろんな
  ”発見”と世間で報じられているようなことを、相手にしているようなやり方を、何か人間全体から独立した立場にある確
  実な行為のように思って、自分自身の環境を無批判に土台としてしまっている人々の話みたいになってしまったり、(本当
  は、こういった言語に強く関した類の話題において、物事を正しく論ずるという立場であれば、人間全体の中での”偏り”
  に気づかねばならない。)また、よくある、単に”考えることが苦手”な人の、”肉体礼賛”(笑い?)に聞こえかねない。

  だから、そうならないことに注意して、さらに以下の幾つかの、この”肉体”というものに関する、代表的と思える、この
  章からの文章を読んでみよう。
  (もちろん、この章、全部を読んでもらって、無理な引用でないこと、また、この章からの適当な選択であることを確認してください。)

  A「肉体とは、ひとつの大きい理性である。ひとつの意味を持った多様体、戦争であり、
                         平和であり、畜群であり、牧人である。」

  B「・・君が、”精神”と名づけている君の小さな理性も、君の肉体の道具なのだ。」

  C「君は、自分を”われ”と呼んで、この言葉を誇りとする。しかし、より偉大なものは、君が信じようとしないもの、
    君の肉体と、その肉体の持つ大きな理性なのだ。それは、”われ”と唱えない、”われ”を行うのだ。」

  D「感覚と認識、それは、決してそれ自体が目的にならない。だが、感覚と精神は、自分たちが一切のことの目的だと
    説得しようとする。・・それほど、感覚と精神は虚栄心と思い上がりの自惚れに満ちている。」

  E「この”本来のわれ”は、感覚の目を持ってたずねる。精神の耳を持って聞く。”本来のわれ”は、常に聞き、たず
    ねている。それは、比較し、制圧し、占領し、破壊する。・・そして、”われ”の支配者である。」

 『ツァラトウストラ』の中でも、 この章のこういった部分やここに続く箇所の記述は、特に難解なもので、ありがちなの
 は、単なる”非合理主義”的な読み方、単なる”反主知主義”見たいな程度の解釈の、よりどころぐらいになって、しま
 う。



  B1


 これらの引用でいわれている厄介な”肉体”というものに、もっと直接的な説明をする前に、
 このわかりにくい内容を、よくある変に物質的なような解釈とならないためにも、
 むしろ、ここで一旦、「肉体」とは、ある”生きた音楽”、又はそれを生み出すわれわれの条件
 みたいなもの、というふうにを考えてみることは、実は何となく、この考えを理解させてくれる、
 手がかりになる。

  (ニーチェの哲学的原点が、当時のドイツ音楽にあったことを考えよう。また、『ツァラトウストラ』という著作が、ワ
   グナーに対抗してか、巧妙に構成された4楽章の交響曲みたいなものになっていることは、いままでの記述でも、想像
   しやすくなったのでないだろうか?)

 先の引用文の幾つかの中心的言葉が、何を指していて,お互い、どういう関係を持つか考える前に、大体どういったような
 発想の言葉か想像してみることが大事になるから、例えば、以下のように見てみる・・・

 ある”シンフォニー”という”多様体”は、その中に”戦争”や”平和”、愚かに揺れ動く”畜群”的心、何とか導こう
 とする”牧人”の心(A)があり、それらが、特徴的なひとつの印象を生み出し、ひとつの意味、を持つ。しかも、それらは
 、全体として”ある感情”というよりも、”ひとつの大きな理性”と呼びたくなるようなもの、でもある。

 また、こういう捉え方を進めていうなら、作曲における”感覚””認識”(D)”精神”。 作曲家は、和声の連結を考えたり、
 動機の関係や対照を工夫したり、そういったこと(道具)を普通は、考えて作業する。また、何らかの”精神的”なこと
 を標題的に考えたりもする。(B)本人も、そういったことが、この作曲作品の”目的”であると信じていたりする。しかし、
 作曲作品のそういった”精神”は、小さい理性であり、本当の大きな意味は、比較したり、制圧したり、破壊(E)したりする
 大きな理性(C)の中で与えられる。

 個々の”精神と認識”である”小さい理性”に対する大きな”本来のわれ”。そして、”本来のわれ”は、肉体であり、”戦争”
 や”平和”など、いろんな心を持つ”多様体”であり、”小さい理性”が、自分の”目的”だと思っているようなことも、本当
 は、大きな”本来のわれ”によって本当の意味が与えられる・・・まず、簡単に、先の引用をこのように敷衍する格好で、説明する
 なら、大体、こんなところが問題となっている、と一応説明できる。ここにある重要な問題点は、少し後でもう1度説明するにし
 ても、こういった捉え方を単に、曖昧といって軽んずるのは禁物である。実際大雑把には違いないが、この場合この大雑把さは、
 必要だし、一方で、このような問題を、論ずるには常にデリケートで、それなりに正確な言い方が、非常に大事となるから。

 ここで問題となっているのは、高度な”精神と認識”が作り出しているかのように見えて、その実、ある種”肉体的なもの”で
 あるような問題といっていいし、それは作曲作品みたいなものに最も典型的なものが、現われていると思うので、こういう話を
 此処に持ってきたものだ。そして、確かに、その作曲家の音色、和声などに対する選択、”好み”は、聞いたり見たりする感覚
 の段階からもう独特なもので、常につきまとうもので、ある”肉体的感覚”といっていいようなものだし、また、本人の意図と
 は無関係に、聴くものに、それだけでも、その人の持つ意味やイメージを伝える。それは、どうやろうとある”支配的なもの”
 になってしまう。

 

  B2


 しかし、こういう解釈だけだと、”本来のわれ”もしくは、この場合の”肉体”的な問題、普通の人の生活とかけ離れたことで
 あるようにも、受け取られるかもしれないので、敷衍的話のついでに、此処で、話をもっと付け加えておくなら・・・
 作曲家の音の選択の好みの問題に留まらず、より一般的に、それは、肉体的でもあるような感覚を持つ、”好み”の段階みたい
 なものとするなら、どんな人間にとって、全く身近でリアルなことなのである。
 そこで、その線に近い、もうちょっと別なもので考えてみよう。

  例えば、 われわれの日常的な判断の多くで、われわれが感じる”何か、しっくりくる。”というようなことが、如何に
  決定的な役割を果たしているかを考えよう。これは、”ある肉体的であるような感覚”であり、言葉で十分説明できるよ
  うなことでない。

  われわれが、ある洋服を選ぶ時、あるものは絶対着ようとしないものだし、あるものは、日常的に、何度も身に着けるも
  のになったりする。そして、なぜその洋服を選んだか?と聞かれたら、一応の説明をすることが出来る。しかし、そうい
  う判断を成り立たせる全ての条件などということでは、本当は、十分な理由を答えられそうも無い類のことなのである。

  音楽を人間は何故、作り出してきたのか?数的秩序の建築の関心?コミニュケーションのため?ひまつぶし?音を出し、
  声を出すと体調がよくなる?心理的、生理的にに良い効果がある?etc・・・・こういった答えは、本当はどれでもあるし、
  どれでもない。

  それは、概念以前の耳や目の段階で、そうなのである。もちろん、そういうことに関して、言葉を並べることが出来る。
  しかし、それは「目の前の机に、りんごを3個並べて下さい。」というのと同じようなこととして、他人に理解されるも
  のでない。

  こういう感覚は、表面的な思想や概念を超えている。


  こういう次元での「しっくりこない」ということに平気な人もいる。そういう場合、しばしば全く違う生活背景の産物が、
  単なる装飾的なところに留まらず、重要なところで、ばらばらに組み合わさっていたりする。もちろん、「しっくりくる」
  という感覚などは、人それぞれだ、と言うことも出来よう。しかし、明らかにあるのは、その感覚が、違うというより、
  何か無関心で、散漫な様子であったり、何か鈍感なものが、その場合にあったりする。

  むしろ一般にバラバラで不釣合いなそのことが、平和的に共存している、と思われたりしがちだが、それは”平和的”と
  いう美質が、一見成り立っていそうに見えて、むしろ、”比較し、制圧し、占領し、破壊する。それは支配する”といわ
  れているような”奥底にまで届く感じ”が欠けているだけな場合なのであり、そして、重要なことは、この種の問題は、
  (しかももっと発展すれば)それは、ある重大な局面において、その人を信用できるか? という問題に関連してくる。
  そういった人を相手にすると、そのことに本当はわれわれは、すぐ気づくのである。もちろん、こういった感覚が従来、
  その人が、本当にそう感じるということでなく、単なる同胞意識と乱暴さの感覚とごっちゃになって、醜悪な行動をしば
  しば引き起こしてきたのだが、にもかかわらず、こういった誰でも感ずる感覚を、無視すればむしろ、似たような愚かし
  いことが起こる理由にもなる。
  (非常にしばしば誤解されるが、同じような視点による、積み重ねの議論などから出るものでなく、本当の”平和的共存”
   とは、もっと深いところで結び合っている感覚で、そういうものは本当の意味で画期的なもので、むしろ、全く違った
   観点で訪れるものである。)

  こういったある種の”肉体的感覚”の重要さ。一般的にに”肉体”というと、物質的素材的な方面にばかり、関心がいき
  そうなのだが、『ツァラトウストラ』のこの章の内容の場合は、むしろ、われわれが、日常会話している場合におこって
  いること、と考えた方がよいのであって、例えば、議論している相手の表情、肉体的反応に、我々が、いかにまた反応し
  て喋っているかは、ちょっと改めて注目して、観察するなら、それは歴然としている。こういった類のことを、予備知識
  に囚われない様な感じで観察すること。そうすると、それはよくある心理学や生理学で言われていることと、何か根本的
  に相容れぬものがあるのだし、実際、そういった系統の?学問的?なやりかたで取り上げられている類の話は、われわれ
  が感ずるものと、まず、別のものに聞こえるのである。



  B3


  ここでの「本来のわれ」であり、「肉体」である、「大きな理性」とは、先にも書いたように、さらに、もっと詳しくい
  わねばならない問題が、先の引用部分だけでもあらわれている。

  その重要な一つは、「本来のわれ」とは、自覚的な”小さな理性”である”われ”の唱えることでないが、そうしている
  ”われ”の行ったもの、である(C)、という言い方で現されている。

  ここだけを見ると、「本来のわれ」=「肉体」=「われの行動」が、単純に成り立っているみたいだが、「本来のわれ」イ
  コール、実際の「われの行動」というのは、単純に成り立つものでなく、少し、ここに複雑な関係があって、ちょっと以下
  のように区別して考えなくては、この「肉体の侮蔑者」という章に書かれていることは、必要以上に、神秘的難解な話しに
  なってしまうと思われる。というのは、
  上の引用部分に付け加えて、以下の重要なことのほのめかされている文章にも、注意しなければならない。

  F「君たち、肉体の軽蔑者よ。君たちの愚行や軽蔑によってさえ、君たちは君たちの”本来のわれ”に仕えているのだ。」

  ここで「愚行」や「軽蔑」といったものも、愚かだったりする個々の人間の、正に「行動」でありながら、”本来のわれ”
  が、”大きな理性”と一致したものであるのだから、この場合、すなわち、”本来のわれ”という肉体に、自覚的な”小さ
  な理性”の行う”肉体”は、仕える(ことを示す)。
  その”本来のわれ”が、その特定の肉体の示す行動によって、”仕えられる”関係を持つものだから、「行動」で示される
  「個々の肉体」は、”本来のわれ”(大きな理性)そのものとは違う、とニーチェが考えているというふうにも理解できる。

  しかし、また、一方で、その個々の「肉体」も、条件としては、われわれの(君たちの)共有するものとして、ある大きな一
  つの”本来のわれ”、ある大きな1つの”肉体”と、言いうるのである。

  こういう言い方だと相当、ややこしい言い方になるので、この2重みたいな関係を、見えやすい風に、言い換えると。

    ”われ”が、唱えていること(→感覚と精神)が、
    ”思い上がりの自惚れ”でしかないもの、とさえいえるのに反して、「肉体」には、”本来のわれ””大きな理性”
    ”知られない賢者””一個の強力な支配者”がいるという・・・ことなのだが、一方、その

          「”本来のわれ(大きな理性)”が、”肉体”である」というにもかかわらず、

 まず、”軽蔑””敬意””愚行”といった「個々の肉体の行動」は、今迄、使ってきた直感しやすい言葉を、ここでも便宜的
 使うなら、その個々の人の”好み”や、”態度、キャラクター”と、ほぼいうことも出来る。そして、それはやはり、肉体で
 あり、行動でありながら”本来のわれ(大きな理性)”そのものではないはずである。

 一方、個々の人のものである”好み”や、”態度、キャラクター”も、それを作り出すわれわれ人間の肉体の諸条件といっ
 たものを考えれば、それは、われわれ人間の共有するひとつのものとも、いえる訳だし、この意味においては、”本来のわ
 れ(大きな理性)”そのもの、とほぼ云えることだろう。

 そして、この意味の「肉体」が、”知られない賢者””一個の強力な支配者”ということになるとも、いえよう。

 こういった考えが不可解であると、単純に片付ける人は、少なくとも重要なことを見ようとしていない。われわれ
 の生活の中の、ある大きな嗜好は、決して、どうでもよいものでない。そして、全くの偶然的なものでは、決して
 無い。それは何と考えてよいものか?

 それは、例えばこういうことでもある。100年前の優れたシンフォニーにおいて、今日の世界を先取りするような格
 好で、作曲家の中の”敬意” ”軽蔑””戦争”や”平和”が、ある支配力を持つものの関係においてあることを、
 誰が、権威をもって否定しうるのだろうか?というような問題を、もっと真面目に考えてみようということ。

 また、この”支配者”というものは、当然、ヘーゲルの「絶対者」を思わせるものでもあるが、概念の自動的展開
 みたいな考えほど、空虚な抽象的絶対性で、ただ縛り付けるものでなく、その”肉体”とか”自然”とかいうもの
 の何かしら、その必然性を想像させるものであるにせよ、この章のこういった書き方だけを見れば、まだ、われわ
 れの自由を奪うもののように受け取られても不思議は無い。この考えが難解であると、先に言ったのは、ひとつは、
 ここに抵抗があるからでもある。


                ◇◇                  ◇◇ 


 その個々の人間の”精神”や”認識”を超えたような、”肉体”的なもの、”肉体”的感覚の存在、その好悪、
 倫理的なものとの関係を、もっと考えるために、便利なのは、●「Sclecht」と[Böse」に関する話題、という
 ものを取り扱ってみることである。以下、つながった記述が、長引くのでアウトラインを、一応、前もって
 簡単に、紹介しておくと、
 

 この「Sclecht」と[Bose」に関する話題から、まず、ニーチェといえば『善悪の彼岸』といったタイトルみた
 いに、善悪など面倒なことを、問わず、権力のみを求めて行けばいい・・・・という思想みたいな一般的なイメー
 ジがあるが、これが、非常にマズイ理解であることを示す、端的な例に、この語の説明はなるものだし、まず
 そこで、善と悪みたいなことが、いかに個々の好悪に結びついているかの話にもなる。そして、それは根本的
 に学者的知識の表面的な言語、アプローチに反した、趣味や味覚(ある肉体感覚)といった全人的な(全人生
 的なものであり、それが反映した言葉で無い限り全く、倫理に無縁なのは明らか)ものに結びついているか、
 を簡単に総まとめ的に見られる話題でもある。

 また、重要なことは、この話題は、ショーペンハウアーに丁度、対称的な議論があり、ニーチェの善悪に関す
 る主張自体、表面的ある知識の主張といったものでなく、ある”肉体的”なものであって、 ”本来のわれ”
 ”大きな理性”につながった関係においてあることが、この2人の説の対比的関係を見ていくことが、そのこ
 と自体の典型的実例として、より実感することが出来る。他にもある、こういった対比的関係にあるものには、
 端的に、その個人の特徴、各々の傾向 好みが、ある偶然的なものでないことが判るし、そして”大きな理性”
 ”本来のわれ”なるものが、押し付けてくる支配者というより、根本的に内在する自然なものであることも、
 こういった話を続けて行くと、想像できるようになると思う。

 また、以下、このテーマを巡って、【ツァラトウストラとゾロアスターについてのメモ】というこの文章の
 『ツァラトウストラ』の内容説明を目的とした、前半部分の、一旦のまとめとして、いろいろこれまで出て
 きた話題にも、各々の言い足りなかった一応の説明として、もっと触れられると思う。


 
 
   
 「肉体」的と言えるような、「大きな理性」の存在、そこから、結局、個々の人独特の「よい」ものに関する
 問題ということなどを、いままで問題にしてきたわけだが、上のような理由で、ここから論ずるのは、
 


    【6】


  『道徳の系譜 ZUR GENEALOGIE DER MORAL 』(1887)の第1論文・12 辺りで論じられている
  Gutと対置される2つの”わるいと悪い”「SclechtとBÖSE」に関する区別の問題になる。

   別に、ドイツ語に詳しいわけでも全くないし、ただ、特にニーチェがわざわざ、こだわって書いていることでも
   あり、また、実際ニーチェの考え方が、端的に現われているので、ここで付け加えて述べておくだけなのだが、

  「”よい”という概念に対する様々な言語で鋳出された表示が、語源学的に元来いかなる意味を持っているか・・
    それらの表示は、いずれも同一の概念変化に還元される。・・どこにおいても、身分上の”貴族的な”とか、
    ”高貴な”とかが、基本概念。・・」(第1論文・4/冒頭より)

  だからドイツ語の”良い”も、元々貴族的なというイミでの「精神的に高い天性の」というGUTになり、そこに平行的
  に卑俗、賎民的という元々階級的なものを表す”悪い”が成立したという。すなわち、

  「Sclecht」とは、元々、”素朴な”という平民を表す言葉だったのに、「Gut」が、良いという意味になるにつれて、
  ”粗悪”、そして”悪い”の意味になったという。
                               (第1論文・4より)

  また、ドイツ語の「Gut」が、何より身分自体を表す言葉だった根拠として、さらに、”神聖種族の人”や、そもそも
  ”ゴートGothe人”を表していたのでないか、とニーチェは推測する。   (第1論文・5より)

  だから、「GutとSclecht」の区別においては、
  ”Gut”は、”自発的”であり、”自分自身から考案したもの”であり、そこから、「Sclecht」という観念が創られた
  のであり、「Sclecht」は、元々、”模造品、付録、補色”でしかないもの(以上第1論文・11より)と、なっている。


  一方、  こういった「よいとわるい」に対し、自発的でなく逆転したものがあるという、すなわち

  「彼は、まず”悪い敵”を、すなわち”悪人”を構想する。しかも、これを基礎概念として、それからやがて、その
   模造として、その対象物として、更にもう一つ”善人”を案出する。それが、自分自身なのだ。」(第1論文・11末)

  これが「Böse」という「悪い」の観念で、ニーチェのいうには、”不満な憎悪の醸造釜からでたもの”であり、「Sclech
  t 」と違って、むしろ、この「悪い」者の方が、”原物であり、始原であり、奴隷道徳考案の本来の行為である”という。
  だから、この場合の意味の”Gut”の方が、反感から成立した”Böse”の、さらに”対置された”概念に過ぎない事になる。
                                               (第1論文・11より)

  すなわち、「GutとSclecht」と「GutとBöse」という、日本語で「善と悪」と訳せる2つの対の言葉は、”自発性”の有る
  無し、といったことで根本的に違ったものだ、とニーチェは、考えているとして一応よいだろう。
  (「GutとSclecht」の方を、これから以下は、特に、意識して欲しいとき、日本語では、「よい、わるい」というふうに書く・・・)

  そして、この自発性のない「GutとBöse」から、つながる”反動と反感の本能”は、虚偽的なイミでの「文化の道具」であ
  るといわれ(第1論文11より)、また単なる”慰め”としての『神の国』の”未来の至福”(cf、『ツァラトウストラ』の
  ”望まぬ至福”の章)といった「信仰」につなげて説明される(第1論文14,15)。

  すなわち、この「GutとBöse」的なイミで利他的道徳と、僧侶的評価形式、といったもの、が現われること。
  だから、”返報をしない無力さは『善さ』になり、臆病な卑劣が『謙虚』で、 憎む相手に対する服従が『恭順』になる・・
  ・弱者の事なかれ主義としての『忍耐』・・(第1論文14)”こういった概念形成がされる、「GutとBose」的な「善悪」に、
  対して、ニーチェは、”もう沢山だ(同)”ということになる。

  ただ、ニーチェのこういった言い方には、常に注意が必要で、今までの多く論者は、殆んど必ず、かけ離れた別の概念装置?
  で論じたがったり、素直に見て、どういう論拠のつながりで論じられているかを無視して、或るイミ、どうとでも取れる刺激
  的な語句ばかりで、ニーチェを捉えようとする。
  むしろ、ニーチェは全く意図的に誤解されやすい波及するものを、狙っていて、多くは正に、そこに引っかかっているという
  ような状態。
  それで例えば「暴圧を加えないもの、何人も傷つけないもの・・・」というのでない人々が正しいといわんばかりの言い方や、
  ”忍耐するもの”や”蹂躙されたもの”の方が、よくない、というような言い方(同13)をするのだが、これも、普通、使う
  ようなイミと全く同じと考えるのは、まず、誤解といってよく、批判されているのは、むしろ、人がこういった状態のときの
  、消極的な「ある”肉体”的感覚のニュアンス」を表す言葉なのであって、『ツァラトウストラ』の先の「肉体の侮蔑者」の
  章の主張のように、”肉体という大きな理性”に従ったような書き方を、実際、ニーチェはしていることに注意が足り無すぎ
  る。

  実際、この「GutとBöse」的な「善悪」の感覚でないもの、が求められるわけだが、つねに上の箇所のような攻撃的
  書き表し方が、されている訳でなく、
   

 「私たち、2人とも、まぎれも無く、善にも仲間はずれ、悪にも仲間はずれ。『善と悪の彼岸』に、私たちは、
   私たちの島を見つけた、また、私たちの緑の草地を・・・」(『ツァラトウストラ』第3部・舞踏の歌、後編2より)

  このセリフは、ツァラトウストラの中にいる知恵という女に嫉妬しながら、「生」という女が歌いかける言葉、であって、
  このように、ここでは「善と悪」から、外れた立場は、『善と悪の彼岸』なのであり、そこは、また”「生」の緑の地”
  である、と言い表されている。

  また、『善悪の彼岸』(1886)という標題の言葉は、この書のタイトルで急に現われたことばでないわけで、
  『ツァラトウストラ』(1885完成)で、このように意図的にすでに、使われている。

  そして、この『道徳の系譜』の方では、その第1論文の最後は、こういう少し謎めいたふうに閉じられる。

  「・・・・・私の言わんとするところ、私の著書の中身に合わせて記された合言葉、『善悪の彼岸 JENSENTS VON GUT UND BO
   SE』(1886)という危険な合言葉でもっていわんとすることが、つとに十分明らかになっているとしてだが、あれは少な
   くとも”よい・わるいの彼岸”ということでないのだ。」(道徳の系譜(1887):第1論文・17より)

  それで、上記のことから、考えると、確かに、ニーチェは「GutとBöse」である「善悪」のイミでは、善悪を認めないが、
  「GutとSclecht」のイミでは善悪(よい・わるい)を、否定しないのである。だから、一般の常識に反して、ニーチェ
  の思想は、倫理的な主張をしているのでないのか?ということも、ここで出てきてよい問題である。

  ニーチェの書き方の、刺激的な語句の細かい問題に変に踊らされないためには、まず、ニーチェの言っていることが、単純
  に”道徳”など、無くてもいいという説”と思い込んで解釈しないこと。
  ニーチェが”最もイギリスの心理学や気質の典型”と呼んでいた、ありがちな慣習、訓練、心理的起源論といったやり方の
  ”忘却”による?”道徳の科学”(『道徳の系譜』序言2)に対抗して、ある意味、ドイツ哲学のやり方の応用、価値の無
  意識を含む全体的な仕組みから考える、いわば道徳の基礎論みたいな立場からの見方、言い方であることに、いつも通過さ
  せて解釈することが、ニーチェの挑発的な意図の文章を理解するには、大事なこと。

  イギリス風の道徳系譜論者などが、「善い」の由来を表面的観察から、周囲の人間が「善い人」というのが習慣化し「善い」
  という概念が出来たとするのに対しての反論でもあるのが、この「GutとSclecht」と「GutとBose」といった話題の元来の、
  観点なのである。だから、あんまり道徳そのものを否定していると考えない方がいい。


	(”キャラクター”や”無意識”という本当は問題も多い、薄っぺらに誤解されやすい言葉を、何度もわざと、より注目
        させるために、ここでも、私は便宜的にもちいる。・・・”価値の無意識を含む全体的な仕組み”といった書き方。本稿
        の目的は、ニーチェなど、こういった当時の音楽情勢に深く関連した人々の考え方を、出来るだけ”見え易く”するた
        めまず輪郭を描いてみることにあるので、後でいろいろ問題点を整理できるとおもうので、こういった”キャラクター”
        や”無意識”という言葉を、ある”目安”として考えて、先に読み進めて欲しい。)

  ニーチェの道徳の基礎論みたいなもの?とは、今まで何度も引用した『道徳の系譜 』(1887)を構成する序文と3つの論文
  、第1論文「善悪、よいとわるい」、第2論文「良心のやましさ」第3論文「禁欲主義的理想の意味」に、最もまとまって表現
  されていて、実際、そこに扱われている議論は、極端な攻撃的な言い方や、晦渋な色々ひねった諸問題の提示、各々が、そ
  れなりに、この問題から、薄っぺらな理解に陥らせないため必要な議論なのだが、しかし、ここで、また、今まで何度か、私
  が便宜的に、説明してきたニーチェの道徳説の基本的な考え方の要約、を、少し膨らませて見る格好で、もう1度、捉え返し
  てみよう。



  関連するニーチェの基本的な主張を、このHPで既に説明した箇所を、参考にして以下の文章を読んで欲しいが  、
  今は、『ツァラトウストラ』の内容と『道徳の系譜』のこの問題も、根本的に関係しているのを、なるべく簡単に見え易く
  したいので、「GutとSclecht」と「GutとBöse」を中心にして第1論文の内容などを、やはりロマンティックで振幅の大き
  いようなニーチェ自身の言い方に、ハッキリさせるため、此処で少し言葉を補って説明しなおすと、

  貴族的評価形式は、価値評価の原型的なものを示し、それが「GutとSclecht」であるわけだが、それに対抗すべく存在する
  僧侶的評価形式は、その価値評価を、根本的に”素直に”示せないのであって、自ら評価しない民衆を自分の側に付けて、
  支配的な貴族階級に対し、バランスをとるものなので、共通性として、根本的に、その素直な価値評価を、打ち消すように
  働く傾向を示す根本的な特徴(「貧しきもの、力なきもの、卑しきもののみが善き者・・」同・第1論文・7)を、持たざる
  を得ない。これが、ニーチェの言うところの「GutとBöse」なのであって、それが、生命を圧する要素や禁欲を、貴族階級を
  抑えるための倫理の絶対的なものとして、ずっと置かれてしまっているのである。ニーチェの倫理の基礎問題を、検討する
  立場から言えば、この思い込みを、迷信的なものとして、まず、否定する主張をしなければならない、ということになる。

  価値を測るということは、人間にとって根本的なことだが、小手先のことでなく、その人の趣味や味覚などまで含めた、全人
  的なことなので、人間の支配欲、我欲、肉欲などが、複雑に入り混じって、価値を測る言説になるので、その人の好みや、キ
  ャラクターにおいて、「よい」とか「美しい」というしかないのが、基本。だから、それに関する細かい情報を沢山寄せ集め
  れば、すぐれた価値評価が、成立するものでは根本的に無い。

  だから、貴族的支配階級が、その社会において、元々「GutとSclecht」の狭い習慣的な価値評価を作り出したのだが、その社
  会が、大きくなったりするにつれて、言説としての価値評価が中心になっていく。その言説としての価値評価を、になうのは
  戦争や血族の維持が、生活の貴族でなく、当然、宗教的なものをになって、儀式や言説を取り仕切る僧侶階級が中心になる。
  だから、そうなると僧侶階級の好みやキャラクターが、決定的に価値評価になってしまい、それが「善と悪」「GutとBöse」と
  いうものに、すり代わってしまう事になる。この価値評価は、この階級の立場からの、共通の趣味であり、好みであるので、
  この僧侶的な価値評価の基本は、当然のこととして、根本的には問題にすらもならない。

  そこに、特に近代的な、科学というものの隆盛が重なると、これは基本的に”観照の立場”や”純粋に認識する人”とも、
  『ツァラトウストラ』で呼ばれている人々なので、既に出来ている僧侶的評価形式を、そういうものとして、受け取るだけ
  であり、そして、そういう人々ばかりが、どんどん歯止め無く増えて行くことになる。本質的には、そういうところは、自
  らの職業の成り立ちでもあるから、疑問すらもてない。だから、極めて重要なのは、この話で、語られているのは、価値評
  価というような問題に関して、それが、細々とした知識の積み重ねや「科学技術的な発達」によって達成されることは、事
  柄の根本においてあり得ないし、むしろ、直接的には全く逆のことが起こる・・ということになる。同じような雰囲気の人々
  が、如何に、長時間、大量に関連する知識を溜め込み、議論したとしても、その中から、このような価値評価の問題を”技
  術的に解決する”などということは、決定的にないことの、根拠なのである。

  もちろん、ニーチェの言っているのは、本当は歴史でもないし、語源とかそういう問題は、直接的には関係なく、「GutとSc
  lecht」と「GutとBöse」というのは、目の前に歴然と存在する、我々の生活の諸事情に関する、対比的な、あるモデルみたい
  なものについての話、とでもいったら分かりよいだろうか?

  そういう具合に、普通言う「善と悪」を、2種類に区別して、「GutとBose」の善悪を、ニーチェは否定している訳なのだが、
  それだけじゃなく、先に引用した部分『道徳の系譜(1887):第1論文・17』にもあるように、逆に、「GutとSclecht」の
  方だったら、決して否定していないことは、重要になる。また、ニーチェの『ツァラトウストラ』や『道徳の系譜』でのニー
  チェ独特の書き方の全体をみれば、普通に言って、むしろ、烈火の様に、彼独自の価値や、善悪を主張しているのは全く明ら
  かなことである。




    【7】  





  現在の社会の常識的な議論は、大体似たような概念群をよりどころにする。もっぱら「善いもの」の基準となっているような
  概念の中心は、いわば”広く大きな微温的傾向”とでもいうべきもの。ある程度、民主主義的な価値観と利他的風道徳、そし
  て、科学への素朴な崇拝といったような世界的傾向。
   もちろん、特別な民衆的ヒステリー症状?や局所的混乱の時期もあるが、それ以外は、こういった大きな傾向の根幹を犯さない程度に、端から権威にならないことが分かって
   いる、異端的でバカバカしい様な強烈な主張、独裁的なものを崇拝する態度などが、大きな河(無意識の民衆の”河”)の流れの漣として、脇にあしらわれていたりもする。  


  それは、19世紀の場合、もっと、それは”眠りの説教”(『ツァラトウストラ』第1部”徳の講壇”の章、もちろん、この章
  に描かれた風景は、最近の教育風景にも全くよく見かけるもの)的な、わかりやすい傾向としてあって、『道徳の系譜・序言
  3』などで、ニーチェが、挙げている傾向は、平等主義、禁欲、むしろ病気や不健康への「停滞」的欲求、回顧する疲労、
  「生に反抗する意志」・・・さらに、ニーチェが指摘する”ヨーロッパ文化の最も薄気味悪い兆候”、一つの新しい仏教、「無へ
  の志向」という、結局、西欧に従来余り無かったものとして、現われてきたという。

  そういう”近代的感情柔弱化”(同・序言6)を示す典型が、”近代哲学者連中が”、”同情を、優遇、過重視”するする傾向
  (同・序言5)だという。むしろ、”同情の無価値”というのは、重要な哲学者(プラトン、カント)の共通する意見だと述べ
  る。(同・序言5)

  そして、もちろん、この僧侶的評価形式に連なる”同情”の需要さを唱えた、代表的人物として、ショーペンハウエルがいる。

  「あらゆる愛アガペー・カリタスは、同情である」(ショーペンハウエル『意志と表象としての世界』第4部66節より)

  実際、この点において、 ”私は、恥ずべき近代的感情柔弱化の反対者だ”(同・序言5)とニーチェが、いっているように、正
  反対の方向の主張をしているといっていいのである。しかし、ショーペンハウエルとニーチェの、両者の代表的著作を、一緒に読
  んだ事のある人なら、誰でも気づくことであろうが、ニーチェの力点を置いた多くの主張、この ”同情への批判”と同様、”隣
  人愛”を避けること、肉体”の肯定、”良心の呵責”というものが無いこと、などは、皆、ショーペンハウアーの『意志と表象と
  しての世界』の主張の裏返しになっているのであり、その書の冒頭のモットー”幼さを脱せよ・・・”に対してニーチェの”小児”や
  、ショーペンハウエルの非歴史性に対するニーチェの過渡性も、同じような関係になる。

  その類の一つが、正に「GutとBose」を巡る話であって、『意志と表象としての世界』第4部65節にある内容は、主張としては、ニ
  ーチェの先ほど説明した内容と、その外見上は、反対のものともいえる。しかし、強調しておかねばならないのは、考え方としては
  両者は、殆んど同じなことである。すなわち、ショーペンハウエルは、「善い」という概念は、元来”相対的な概念”であるとして
  、その”反対の概念”として「Sclecht」は、もともと、”認識を持たない存在”に関して述べられた、良くない、品質の劣った、と
  いうような意味だとする。そして、ドイツ語や、百年程前からのフランスでは、認識を行う存在者に関しては、「Bose」で言い表さ
  れるようになったという。これは、もともと自分に都合のよい人間を、相対的内容を保留して”よい人”とされだしたことでもあっ
  て、 そこから、新しく、性格の上で、他人の意志努力を妨げず、友好的な人を総じて、”よい人”と呼ぶようになる。
  これは”よい人”というものが、”他人に関する関係”が、”その人自身の関係”と、新たにされるようになったという説明なのだ
  が、この”よい人”という意味では、2つの説明が断念されてしまうことも、ショーペンハウアーは言及しているのが重要である。
  1つはその人の「善」への純粋な(客観的な)尊敬の気持ちが起こることや、その行為のうちにおこる本人の”自分に対する独特な
  満足の気持ち”とかが、説明されない。もう1つは、同様に”悪い心”が、外面的利益をもたらすにしても、その内的苦痛も説明が
  断念される。こういう断念された「善」の説で、徳と倫理を結びつけた倫理的な諸体系が出来るが、”いつも詭弁的”なものになっ
  てしまう・・・。
  と、ショーペンハウアーは、書いているわけで、確かに「Bose」と対の”善い”こと、すなわち「他人の意志努力を妨げず、友好的
  な人を総じて、”よい人”と呼ぶ」に対して、ニーチェとは反対に、肯定的な話し方をするものの、一面、結局、もともと善悪は
 ”相対概念”(その当人しか根底的には判らない、いわば”好み”のようなもの、といってもよいだろう)であり、多くの倫理体系は
  詭弁だといっている。さらに言えば、ニーチェ説の「Sclecht」も、自分たち、主体的なものたち自身、を指した元々の「Gut」に対
  する非主体的なものたちを、昔は指したとする非主体的な「Sclecht」なので、ショーペンハウアーの”認識を行わない存在者”と違
  いが僅かなのは明らかで、ただ、ニーチェ説だと「Gut」だという”人々”の意味が、より強調されている程度になる。

  また、先の「同情」の主張にも同様なニーチェとの対比関係がある。一方のショーペンハウエルにとって、「同情」という概念が、
  その全体の理屈の上から、重要なのは当然のことになる。”根拠の原理”または、空間・時間・因果性の3重のベールのにとらわれ
  た現象を離れ、その奥の”物自体”の、数多性として個別化せず、個体の生成消滅はない”意志”において、顕れるはずの価値や善
  悪などは、逆に、そういった”マーヤのベール”を取り去った上においては、個人の”意志”の世界は、全く、世界全体の”意志”
  に通底するのであって、その意味で、個人は、個人的利害を離れ、世の中全般を考えることができるのだが、結局、ミクロコスモス
  ーマクロコスモスの一致ゆえなので、それは、”自己愛”に他ならないと、明言することになる。
  であるから、根本的に、人間は、価値や善悪において、自分の判断が出来るだけので、現実的にいって、他人に対しては”同情”が
  、なせるだけになる。これは、価値や道徳に関して、概念による不純な思考を、ショーペンハウエルが非常に嫌うことからの結論で
  、カントが、純粋理性批判などで、人間の知識の限界を論じて、スコラ的な神の存在証明などの不可能を導くが、一方でいわば、最
  小限の言葉であるところの定言命法の形で、その説の中に道徳律を組み込んだことをも、拒絶するということなのである。

   「カントによれば、あらゆる真実の善とあらゆる徳は、抽象的な反省の中から、しかも、義務と定言命法の概念を通じて出現して
    なのであり、そういうもののみを彼は,善として、徳として認めようというのであって、同情を示すというものは、人間の心の
    弱さを示すものであって、徳であるとは決して認められないといっている。私は、カントに真っ向から、反対してこういおう。
    あらゆる純粋な愛は、同情であり、同情にあらざるどんな愛も自己愛なのだ。自己愛は、エロスであり、同情はアガペーである。
    もっとも、両者の混合もあり、本当の友情でさえも、自己愛と同情の混合なのである。」
                                      (第4部67節)

  実際、カントの議論は、3批判書の細々と分類づけた用語の奥に置かれているから、もっともらしく見える。本当は、そこだけを見
  れば、プラトンの説明が行き詰ったときになるような格好を、単純パターン化しただけにみえる言い方で、無理やり置かれているカ
  ンジなのであり、その道徳律などは、空虚な詐欺みたいに、いきなり人間を律しようとするものともいえるくらいなのだが、そうい
  った不自然なものを取り外すとすれば、”同情”しかなくなるのである。

  芸術などの活動から、連続的に、人間の表象と無意識的な意志の間に関する、実際の人間的な観察が、倫理の考察に代えられるので、
  もっともらしい道徳の原則を、無理に持ってくる必要はなくなる。

  ショーペンハウアーは、その”同情”の倫理を、何か特別なもののように、とくに”逆説”(同上)と呼んでいるが、しかし、むし
  ろ”同情”が、ありふれた通俗的な感じを伴うのも確かで、何か、ショペンハウアーの呼び方は、そこをカバーしようとしている感
  じにもなっている。そして、ニーチェの議論も、そこに辺りに関連する。



  ショーペンハウアーは、価値や善悪は、道徳律のような概念で捉えられない”意志”によるものであり、それは、われわれ全てを、
  包括する、”自然の全生命”であるのだが、一方で、前述のように”善悪は相対的なもの”とも、認めているのであり、すなわち、
  現実の人間の価値や善悪が、相対的で各々違いが生じることも認めていることになる。違う他者については、なせることは、せいぜ
  い、自分の価値観を共有できる限りの、”同情”にしかならない。

  ニーチェも、同様に、価値や善悪は、道徳律のような概念で捉えられない、とし、”価値評価”とは、人間の本来ある「欲」や歴史
  や環境の社会条件などが、複雑に関係した”全人的なもの”(その人の全人生の諸要素と深く関連したものとも、いえるだろう)で
  であってこそ、”徳”や”価値”でありうるのであり、(「それは、あなたの全力量を、要求する。・・・ツァラトウストラ1部:喜
  悦と情熱より」)万人平等に扱える表面的な「概念」で、そこに達したり、基盤を作り出せるものでは全く無いので、各々違いが生
  ずるのは、ショーペンハウアーと同様である。しかし、ショーペンハウアーと反対に、違っている各々の人間が、あえて対立してく
  るような積極的な善悪の評価にこそ、ニーチェは、”価値評価”が本質的に概念化しない、という原則に、より徹底化させる立場を
  みるのであって、だから、何とか合っているような部分を見よう、というような”同情”を勧める説に対して、”同情しない”とい
  うことを、自らの説の中心におくのである。      

    ◆ もちろん今や、そのような”同情”のような、ある感情を表すような1単語に、余り重きを置いて議論すること自体は、一般的にいえばとても  
  古めかしいようなものなのだが、それでも、この場合大変重要な考えが含まれている所に注目してガマンしてもらって、以下も続けて考えてみよう。
          そして、このことは、ニーチェの考え方の強み、メリットが、発揮されているところでもある。というのは、世の中の、インチキ臭   い人々の行為で、如何に”同情”というような類のものが、多く見うけられるか。”同情”は、根本的に、他者を見下した、欺瞞的   な態度に結びつきやすい。(この理由は、今迄、幾つか書いてきたことを参照してもらいたい。)評価の”基準”としては、とても   欠陥があるものといえ、それに比べれば”同情しない”の方が、より、高級なアドバイスになる。   (蛇足になるが、いろいろな状況で見かけた、他人の行為に対し、自らの体験を省みて、”同情”を呼び起こされるようなことはあ    るだろうが、文字通り沈みかけた船の乗員を助けるような場合はともかく、その気の毒と見える人の何を私は知っているのだろう    か?と問うことぐらいは必要である。自分と安易な同一視をして”同情する”ような態度は、多く場合インチキである。)        とはいえ、ニーチェの思想が、全く”同情”に無縁だみたいに考えてしまうのは、むしろ、根本的にニーチェ思想に無理解であるに   過ぎない。ニーチェの体系だって、ショーペンハウアーと同じく、善悪や価値をミクロコスモスーマクロコスモス的一致からしか考   えられず、他の基準などないのは、ショウペンハウアーと同じで、結局、自分の中で共感しうるもの、しか判らないのである。 た   だ、ニーチェの場合は、その”同情”といったような心理に対して、もう1度距離を置いて考えようとするようなことで、これは、や   はり、重要で全般的な評価判断の力になる。実際、これまでも紹介してきたように、『ツァラトウストラ』での、”同情”する行動   や心についてなどの記述は、決して単純に否定してしまっているのでないことを、思い起こしてもらいたい。   また、同様に、こういった”同情しない”などという立場から、”人間の欲望をそのままに肯定する”というようなニーチェ思想が、   ショ−ペンハウアーの思想と違って、ずっと”矛盾の無い考え”みたいに解釈するのも、ありがちな薄っぺらなもの、といえる。   というのも、ニーチェは、個々人の価値や善悪が喰い違っている、という”現実”に確かに、まず注目して議論を進め、隣人愛を避   けるべきもの、と言ったりするにせよ、一方で、「新しい価値を作る遠くの友」が、大事といっている訳だったし、その場合、その   価値は、ある人間共通なものが、不可避に喰い違っていない、ことが前提になるだろう。これは、公平に言って、ショーペンハウア   ーの”体系の矛盾”といわれるものと、さして、変わらぬ”矛盾みたいなもの”なのである。   そもそも、ショーペンハウアーが、ニーチェみたいな言い方にならず、”同情”を重んじたというのも、大きな理由がある。ショー   ペンハウアーが、    「哲学は、存在するものを解釈し説明すること以上は、何も成し得ない。具体的に,ということは感情として、誰のうちにも     分かりやすく現われている世界の本質を、理性を用い明瞭に抽象的に認識させ、しかもこの作業をあらゆる考えられる限り     の関係で、各観点から行う以上には、何事も哲学は、成し得ない。」(『意志と表象としての世界』4巻53説)   これは、4巻で、ここから、人間の実際の行動としての善悪や倫理、といった問題に関して書いていく前の、いわば、ショーペンハ   ウアーの”前置き”なのである。ここから、善などについて書いていくが、ここに自分がのべること自体が、善そのものだと言って   いるのでない、ということ。結局、このことは、カントの”物自体”の考えを引き継ぐもので、カントは”物自体”と言いつつも、   道徳律や理念と言った形で、何とか最小限の原則みたいなものを大袈裟な概念構成の中で導入したのに対し、ショーペンハウアーは   、そんな空虚な概念を追わず、より率直な方法で”物自体”をいわば間接的に描こうとする。すなわち、聖人やかっての有徳な人た   ち、代表的な宗教家などの言行を、観察して、そこに”感情として、誰のうちにも分かりやすく現われている”ことを、 ”抽象的   に認識させ””解釈し説明すること”をやろうとする。そして”哲学は”、それ以上のことを”何も成し得ない”というのである。   だから、ショーペンハウアーにとって、哲学とは、”理性を用い明瞭に抽象的に認識させ”ることなのであるから、カント的な抽象   的概念体系による自らの認識と関係付けることは、哲学することと同じなので、別の認識体系と対等に扱う観点など、”考えられる   限り”のものではなくなるのである。そして、このことは、認識論や言語論、数学、力学的世界観などの用語とも一貫した、それな   りに、はっきりした関係、対応が出来るというのが、大きな強み、メリットになる。しかし、一方では、同じような価値論のしくみ   を持つ、ニーチェが対他的な関係を含めた観点で、”同情”といった情緒の根本的欠陥を考察できたのに対して、自らの認識体系を   中心にしなければならなかったので、”同情”という、対立的観点を欠く、セーブしすぎたものにとどまらざるを得なかったのだと   言えよう。   そのことは、結局、ニーチェから見れば、ショーペンハウアーは、自らと背中を接しつつも、学者などと同じく,観照的立場から、   僧侶的価値観を進行させる”近代的感情柔弱化”した一員というふうにみえるわけなのである。しかし、価値において、対他的な関   係を、同等的に扱うことから始める考え方では、当然、どういった認識体系、言語との関係、数学、力学的世界観との関係において   はっきりした明瞭な態度をとれない弱点になる。実際、ニーチェは、ショーペンハウアーのそれに代わる新しいそれを、提出できた   訳でなく、ほぼそれを放棄し不安定な態度に止まり、価値における、対他的な関係を、戯曲によるキャラクター論の展開という、も   のを打ち出すことで、振り替えた、というふうにも言えるだろう。   そして、それだから、ショーペンハウアーの倫理的主張が、少し平凡的な観察(ショーペンハウアー自身が、”逆説”と自らの説を   語っていたにもかかわらず)であって、”同情””愛”のように、その主張が、基本的にはその体系内で収まった説明がつきやすい   ということ。それに対して、ニーチェの倫理的主張こそ、正に、”逆説”の提示であり、”同情しないこと”とは、単にそれを否定   しているというより、もっと踏み込んだ観察であることに注意することが大事になる。その体系内で収まらないような説明を頭から   、もっと必要としているものである。(だから、実際、このHPでいくつか試みてみたわけ。)   ニーチェ思想の”権力への意志”などというと、その関連する幾つかの単語から、何となく多くの人々は、「科学技術が発達したの   だから、迷信的な宗教の神などというものは、単に古臭い”死んだ”ものであり、道徳的善悪、精神的なもの、なども迷信で、とに   かく、そんなことはどうでもよく、社会の権力や地位を得ること・・・」というぐらいの受け取り方をしているものだが、これまで書   いてきたことからも、どれだけ、実相に、この説明はかけ離れているかが、想像されるだろうし、むしろ、ニーチェ思想の特徴は、   非常に厳しい善悪、倫理的主張にある。(真実を語るという徳・・・)   だから、国家や大衆、学者や、僧侶、芸術家、新聞の倫理的欺瞞をこれほど、強く激しく批判した書は、ニーチェのもの以外まず、   なさそうなくらいで、またそれは、現代の我々にとって非常に重要な観点からなされたものでもある。   ただ、ニーチェのそういうことが、全く不十分に理解されてしまう原因が、ニーチェのもう1つの側面、結局自らは、決定的な主張   をし得るものでない、ということで、それは、善悪などという言葉を、わざと正反対の曖昧なような意味で使ったり(ひとつは弁証   法的言い方の影響でもあるだろう)また、もちろん”永劫回帰”といった大きな格好をとっているということにもなり、そのことは、   善悪や倫理を、いろいろなキャラクターの間を通り過ぎ、運動させることで、ずれたり、揺らしたりして到達しうるもの、というよ   うな側面を持つということ。   そして、こういう側面の方が、多くの人々を惹きつけやすい部分だったのであり、ニーチェ思想自身が、先程の様な常識的解釈を、   野放しとし易い側面をもっていたともいえる。   ただそのような解釈とは、自らが、決定的存在ではないと認める人の上に乗っかって、それゆえ何でも言ってもよいように都合よく   受け取り、程度の低い誤りみたいなものを繰り返し、勝手なことを言っているのに過ぎないようなこと。   ニーチェ自身が、そのような誤りをいちいち、ちゃんと正して行くことに拘ったりせず、むしろ、誤解を意図的に誘発させるような   、傾向が明らかにあることは重要な問題である。(これは、マルクスにもハッキリ見受けられる傾向になる)また、国家的な強制す   る権力と結びついたりなどして、自説を押し付けたりして、自らが進んで中央であろうとはしなかった人なのだが、その点では、シ   ョーペンハウアーも、ほぼ同じような人なのである。   ニーチェのこの種の、誤解も平気な曖昧な態度は、大目に見られ、一方のショーペンハウアーの全自然の生命の意志を1〜3巻で認   めているように見えながら、4巻で否定するような記述をする矛盾のようなものは、一般に大袈裟に語られる傾向があるが、(この    種の問題が、そんな表面的不整合を根拠にして片付く訳が無い・・・)両者のこういった問題は、切り離して考えると、見るべき視点を   失う。何度も強調するに値するが、両者は、ともに意識と無意識の境界を、最も早く問題にした人たちというべきであり、そして、   もう1つ非常に重要な態度として、有象無象の学者たちを軽蔑し、自説のより正しいことを確信していたが、同時に、自らが中央的   でなく、ある種アウトサイダー的であることに甘んずる必要があると感ずるタイプの人たちだったことである。   そして、この種のアウトサイダー的態度は、控えめさというだけの問題や、個人的特質といったことなどと別の、ある自らの”欠落”   を埋められないことを、漠然と自覚する典型的態度であることにヒントがある。そういったところから見れば、同じような議論を中   核として持ちながらも、一方が対立してくるようなリアルな善悪感情を問題とし、一方が、カント的な認識主観と関係させやすい抑   えた同情みたいなものに留まったことも、深い考え方の関連がありながらも、意識と無意識のある乖離した状態ゆえの、採り得る2   つの立場だと想像できるようになる。   ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』の4巻の内容は、論理的矛盾というよりも、ロマン派の交響曲が、前の3つの楽   章で、厳しかったり、幻想的だったりした後に、何か少しかけ離れて、終楽章で市民社会と強引に辻褄を合わせてもっともらしく壮   大な装いで終わるのを連想させるものだが、実際に、文章を書くという行為は、普通考えられているよりはるかに、作曲という作業   に近いし、また、小手先の技術のものでない、本当に優れた作曲家の行為は、普通考えられるより、ずっと文章を書くことに近い。   例えば、冒頭で、人の注目を惹く大きなテーマをいい、重みのある扱いが出来ることを示す。やわらかい日常的テーマも取り入れ、   また、切実な困難な問題も語り、最後は、全体としてまとまりのつく工夫をせねばならない。・・・etc     【8】   共通する土台を持ちながら、ニーチェの方は、大きな広がりを持つひらめきのある個々の記述によりウェイトがあり、ショーペンハ   ウアーの方は、一応、全体との構成的関係を保てるところにメリットがある・・・こういったような対比的関係は、音楽史の中にも手   近な類例が求められるだろう。   例えば、聴きようにによってはシューマンとブラームスは、区別しにくいような曲がある作曲家同士だが、シューマンのメロディー   や和声の転換の方がストレートで生き生きとした鮮烈さがあるのに対して、ブラームスはそういった部分ではもっと地味になってし   まうが、構成や全体の技術的処理ではもっと凝ったものが展開される。(ついでにいえば、ブラームスの地味さが好きというのは、   逆に、面白い”心理”である・・・以下同様)ラベルとドビュッシーでは、ラベル方が全体のハッキリした名人芸的な優れた構造があり   、一方のドビュッシーは、全体は比較すれば成り行き的で、結構 どうとでもなるみたいなところがあるが、各部分の豊かな自然な   広がりにおいて勝る。ウォルトンとブリテンでは、ウォルトンは、曲のドラマティックな構成の才に際立ち、旋律も、とても鋭利だ   が、鋭利すぎて芸術らしさを壊してしまいそうになる。ブリテンは、わかりにくい変てこな構成が多いが、部分的なソノリティ、奥   行きの味わいなどは、ずっと芸術的なものに収まりやすい・・・等々   こういった対比的関係は、そもそもこういった各々の特徴というものが、どういうものであるのかを、教えてくれている。各々固有   の美質とみえるものが、単独で成り立つものでなく、共有するある土台の上での傾きの違いといったこととして見る事の重要さ。   そこで行われている、あまり改めて口に出したりしないことを含めた人間関係などから、間接的、もしくは遠ければ遠いほど、そう   みえる美質自体が、バラバラの寄せ集められるもののように思ってしまう。そして、ただ単に、その人がより『目の細かい網の目』   と思えるものを、あてれば分析しうるもののように思ってしまう。   何であろうと、こういった科学のやり方を単純に模倣すればよいと思ってしまうようなやり方。それは典型的な科学崇拝的一症状で   あり、”同情が大事”という教説を素晴らしいと思っても、”同情”などというものに類する言葉は、現実には様々な意味や文脈で   用いられ、また,今後どのような意味を含まされて使われるようになるか、全く予想が付かない。それゆえ、そんな言葉のみを頼り   にして、いろいろな文献をただ沢山集めてみても、そのような考え方のつまらなさは、明らかである。(2003/12/18ここまで)   こういった類は、このような冗談にすまないのであって、「現代音楽」と外国で”名付けられたもの”を、前提に、人々がものを考   え出す状態になると、全体的にどういったことになるか?ということでもある。    ※ 全くこのままの発想で考えていたとは言わないにせよ、多かれ少なかれ、こういった受身の見方をしていたのは確か・・・   言葉は、表面的類似だけを考えると大きな錯覚に陥る場合が多い。また、コピーが重ねられていった果ての形態(または、弟子の又   弟子・・・・etc)のみを見る習慣だと、錯覚の危険性は、非常に高まる。言葉には、表面に顕われない用法の基準がある。また、物事に   は、中心部分というものがある。その言葉について、錯覚した扱いにならないためには、その言葉の成立の際に、中心にいたような   人々の交流関係や、対比的関係のイメージが想像できるような感じになることだけでもとても大切である。実際、上の例のような正   反対になる特徴をもつ関係を、いろいろな場面で、捉えることができるが、その個性的特徴といったものの対比的関係に敏感になる   こと。それが、隠れた要素を教えてくれる。ヘーゲル的弁証法というものの正-反-合といった図式が、ある程度、人々に説得力を持   って使われていた根拠も、結局此処あたりにある。     【9】   言語は、人間にとって最も複雑な”迷路”である。 その肝心なところに至るには、どんな部分からも、真っ向から時間をか   けて大勢の人の労力を、ただ積み上げて行けば達する、とういう類のものでは、最も無い。 言語生活は、われわれ自身ですらあり   われわれが各々持っているものは限られているし(生活、活動できる時間など)また、その限られた中でこそ、成立するものになっ   ている。外部から自由に観察できたり、どんな場所、方法からからでもコントロール出来るものではないし、また、”われわれ自身”   であるゆえ、どうにも見て取り難い、生物としての仕組みを持っている。   こういった難点を表した、割と典型的なのが、ショーペンハウアーやウィトゲンシュタインの思想を、”存在論”や”認識論”とい   うような言葉†で、大きく区切って、納得しているような"説明"である。(2003/12/22ここあたりまで)   確かに、”存在論”や”認識論”といった区別は、古代ギリシャ哲学と近代哲学といった違いを概観するなどには、便利なときもあ   る言葉だが、どんな哲学にも頭から通用する用語だと誰が言ったのか?このような部外者が概観するような言葉への好みは、本当は   隙間だらけの言葉を、簡単に万能みたいに思わせる。『意志と表象としての世界』であれ、『ツァラトウストラ』であれ、『論理哲   学論考』であれ、その書の内容を、”自分の気持ちが込められる感じ”で、素直に追って読まないで、そんな言葉に頼ろうとする。   大体、先の2書は、正に、そういった”気持ちが込められる””自らの問題にする”というようなこと、魂的な問題を、重要な中心   として話が進められているのが、全文の話のつながりからみて明らかだし、その流れでまず、読まなくてはいけない。(またウィト   ゲンシュタインの『論考』にしても、箴言形式の短文の集まりのただのバラバラな意味不明の集まりにしないで、一貫した解釈で読   むためには、非常に重要な観点になる。)そして、そう読むことで、そこで用いられている言葉は、いわば、隠れた”肉体”とのつ   ながりを持っていることが判るし、また、その思想と関連する対比的な他の人々の思想と共通する土台を持っているわけで、結局、   その個々の思想以上の、”本来のわれ”の在りようが示されることにもなる。   ショーペンハウアーの『意志と表象としての世界』の第4部の”意志の滅却”に、論理的矛盾、存在論的矛盾などを特に見ようとす   る場合がある。しかし、第4部冒頭で哲学のやり方の限界について自ら述べているように、いずれにせよ主として言語だけで哲学し   ようとすると、どんな格好だろうと出てくる問題で、こういった書き方で”意志の滅却”をのべることは、むしろ率直な方であって   、この書全体として自然な成り行きである事が大切になる。それに対して、”存在論”や”認識論”という言葉でもって、全体を整   理し、先程のような矛盾を見ようとする人々とは、その文章全体の流れを見ず、区切ってしまって価値評価の精神の勢いを、その枠   で、消そうとしているだけなのである。結局、こういう扱いをすると、ショーペンハウアーやウィトゲンシュタインのような思想を   説くにしても、その内容は表面的味付けに過ぎなくて、その出来た隙間に、密かにむしろ、その人たちの主体は、肝心なところで、   自らの価値評価基準を、”無言のうち”に持ち込むことになる。(2003/12/25ここあたりまで)       †『論考』には、独我論と実在論との合致などの重要な言及があるが、こういった言葉だけから、理解しようと思わないこと。まず、どういうような        ことから、ラッセル、フレーゲの論理学やり方に疑問を持っていたのか、全体から想像してみること。一般に”哲学”とは、このような”用語”を        、用いて話をすること、ともいってよい。しかし、こういう”用語”は、何かそれだけで完結した言葉のように錯覚されがちになってしまうことが        あり、正当な文脈、類似したもの、対立的なものを、前提として はじめて生きる言葉なのに、多くの書き手は、こういった言葉の空虚な表面的整        合性(上っ面のもっともらしさ・・実際、自然に心に向かっていく書き方を、むしろ、隠している様子)ばかりを追いかけることの不合理に気付かな        くなってしまう。”哲学をするコツ”みたいなものは、まず自分の考えていることが正直に”描写され”ているかを考えること。そこに不可解な問        い、が絡んできそうだったら、むしろ、そこを通らせないで描写することを考えてみる。(そうして、周囲を考察してみると、当の問いが、そもそも        どんな様なものだったかが浮かび上がってくる・・)また、”用語”が表面的に矛盾するようでも、話の大きな流れが、実感を持って掴んでいること        を大事にする。そうすれば、矛盾みたいなものは反って、豊富な描出につながっていく。(2004/1/13付記)       ※ついでに付け足しておくと、最近ニーチェのことをタイトル付けて「ニヒリズムの克服」という風に書いてあるのを見かけるが、これは何か       とても、浅薄な感じのする表現に聞こえる。これは、ニーチェ理論のどうしたってある、ショーペンハウアーへの裏腹的関係がまるで考えら       れていないような言い方で、結局、ニーチェのことを「神は死んだ」という言葉で形容するのと余り変わらない安っぽさがある。(2003/12/30付記)          日本人の多くが、信じる教義らしきものを持っていないから、自分たちは無宗教の人間だと言いたがる傾向がある。そして、これは   、その発想・態度が殆んど同じという意味で、ある宗教を信じていると自ら宣伝する人も、その宗教を信ずるというより、先の人た   ちの変形したものに過ぎず、むしろ、その態度をもっと肯定するがための、ある種の”居直り”的な手段でしかないようなものにな   る。(日本文化には、先に述べたようなやり方で、外来のものを無化してしまう伝統がある。)何れにせよ、自分たちは、根本的に   は宗教的人間だと本当は思っていないのが殆んどの場合である。言い換えると、日本人は特に、自分たちは頭から”中立的”だと思   い易いということでもある。(これは、英語圏の人たちが、自分たちの考え方が簡単にグローバルなものと思いやすいの並行的現象   ともいえる。)そして、一方で、アラブやインドの社会、アフリカや南米の小集落の人々の生活は、宗教的なものだと思っている。   すなわち、何か次元の違ったものでもあるかのような見方をして、人間生活として同レベルの中心的問題があると思わない。しかし   これは根本的な迷妄である。(キリスト教を装って、日本のマスコミに出てくる人たちも、もちろん、宗教的な同等性があるとは、   考えず、普通の人より、なおいっそう、単純な先進と後進の違いであるかのような発言をする・・そしてこのことは、そういった人の   キリスト教が”グローバル”というものに近いということでもある)   限界や人間の持っている各々の好みというものが、重要な働きをしていることは、むしろ、われわれの生活から、全く自然に観察さ   れることなのであるが、そのことに着目することは、本来当たり前であるべきである。しかし、これは、同時に、偏見(とくに社会   的)に結びつきやすい、キケンなものでもあって、それに注意しないと何にもならない話になる。他人の欠点は、見えやすいものだ   し、そこに乗っかって偉そうな言葉を発するなどは、虚しいことだ。   根本的に、異質な社会どうしの関係を、公平に比較することを、どう説得的に行えるか?と結びついていなければ、それ自体が偏見   そのものになってしまうということ。   ※ こういう問題が、世の中で何となく重要だということが広く考えられるようになって、もしも、それによって従来と違ったふうに、自分たちをも捉え     返すきっかけを増やしたということがあるならば、それは、それなりに”社会に貢献する”ようなものなのかもしれないが・・・(2004/1/8付記)   現代において、付け足し的に、自らがある特定の宗教的形態に属すみたいなことを、根拠にして、それを行えるわけが無いことは、   当然として、問題なのは、「科学的」というようなものによって、公平性が約束されていると考えがちなことである。前にも書いた   ことだが、むしろ、それは、問題を細切れにしたりして、そう考える人の、その魂の本当の在り処を、隠してしまうことにしか役立   たない。そして、先程のような観察を得たとしても、まず大体が、その程度の議論になってしまうのである。     ※ ”細切れ”にして考えるというのが、最大の効果を挙げたのは17世紀ぐらいからの、”科学の方法”であった。しかし、そこだけではなく音楽       においても、ちゃんとしたテンポを維持できるとか、リズムを特別な必然性の無いところで崩したりしないとか、音程をきちっと取るとか、和       音を十分響きあうように鳴らすとか、基本的に書いてある音を抜かさない・・とかいうことが成り立っていない音楽は、非常に聴きづらいし、そ       れらは、技術的というより、むしろ、西洋音楽の基本的”味わい”に属すのである。そして、そういうことに到達する有効な方法として、分解       して考えたり、練習したりということも大事になったりする。”細切れ”にして考えるのは、その意味でとても重要といえる。しかし、この方       法が音楽の場合は、単に細切れに考えるだけでなく、それが全体の中で、生きたものになっていないとしょうがないのであり、それは”科学”       に比べてもっと自覚できるものなのである。   ”公平性”という現実的な問題を、もっと形而上学風でなく、触れておいた方が良いので『ツァラトウストラ』の内容についての   「本来のわれ」といった問題に関連したまとめとして、ニーチェが余り正面から扱っていない【言語の問題】を、これから、補う   ために述べておく。   われわれは、根本的には日常的言語を持てるだけであり、というのもそれがわれわれ自身だからである。そしてパラド   クサルに聞こえるが、日常的言語は、その隠れた非常な複雑さを持っているゆえに、最も基礎的な言語なのである。   そのイミで、科学技術の言語も、人間が行う営みとしての”科学技術”ということにおいては、その日常言語の上に成り立つのであ   り、逆ではないのである。われわれの生活において、科学技術が果たす役割は、間接的で、本当はさほど中心的なものにはなりえな   い。(これは、人間の生活を、十分感じるものは、数万年前にもあったことを想像しよう。)そして、その人間の生活には全体の傾   性といえるものがある。例えば ある場合、より、盛んで活発な活動を重んじるが、同時に危険の多い、波乱の多いやり方に向かう   傾向。逆に、ある場合、より安定的なものを大事にするが、活発性が失われ、閉塞的になりやすい傾向。こういったことになるのは   、例えば、われわれの生活形態の最もピッタリしたやり方を見出すのは、本来、大変難しいということでもあり、また、棲み分け的   に、もともとわれわれは各々違ったものを求めているということでもある。   そして、公平性を見出すとは、この種の違いに対するのものなのであって、生活形態全体が、元来問題となるのである。そして、そ   の公平性を見出すとは、その生活形態全体と結びついている日常的言語において、基本的な傾きの無い必要な言い方、しゃべり方を   、見いだせるかどうかである。   もちろん、傾きの無い日常言語などというものは、何のことだ?と問うことが出来るわけだが、この元来、非常に論じにくい問題を   考える場合、あくまで、便宜的にここで言ってみるということで、これまで使ってきた”態度””キャラクター”などという言葉も   重要な何重もの問題を含んだ言葉なのだが、それと同様な思考の助けとして一旦簡単にまとめてみる。(2003/12/28ここあたりまで)   われわれの生活において、例えば、いろんな作業をするため幾つかの言葉を用いて作業が上手くいくようにしなければならない・・・   などというようなことがある。そして、そういった共同作業では、いろんな役割分担が自然に起こってくるし、それに応じて、言語   も、人間関係も含んだものになったりする。 一方で、暇つぶしや、留意点の強調、言葉の練習などの理由もあって、語呂合わせな   どの遊び・・、連続的にそういったものになったりする。また、ギャーギャー言ったり、大人しくなったりもするし、何人もで騒いで   みたり、体を動かし、踊るようだったり、また 唄みたいなものを歌うかんじになる。さらに、自分の体験を話す。また物語みたい   な話をしたりする・・等々。言語活動には、むしろ、大体こういった要素が、まず、あるものであるし、重要なのは、こんな風に描写   を続けていくと、そもそも何故このような素直な言語活動が、全く円滑に続いていかないものなのか?ということが、そもそも、疑   問に思えてくることである。さらに       (話を簡単にするため、象形文字というのでないが、絵画的描出も、言語的描出と似たものとして一応捉える)    強調しておいていいのは、こういったことを含めて観察すれば言語的活動は、元来余り境界があるものでもなく、作業であろうと、   唄であろうと(唄のような言語も当然ある)、労働といえそうなことも、こどもの教育であろうと、娯楽であろうと、人間の活動と   して、どんなものでも少しは、お互い、相通じる諸要素を持っているということである。また、逆に、人間の言語活動みたいなもの   は、何か中心的な共通性を持っていることで、いろんな風に呼ばれていることは、ある要素が強まって(労働、遊び、教育etc )変   形したものともいえそうなことでもある。   そして、ここから、最も間口を拡げた場合の形態の社会を一応考えてみると、例えば、子供は養育されないと死んでしまったりする   ので、何らかの格好で、大人たちが、世話をしてやる必要がある。そこに家族みたいなものが、できる場合も多いし、また、男女の   関係は、人間にとって根本的なものであるわけだし、そして男女が各々早く死なないで長生きすれば、老人になる。こういった年齢   差のある人間の集合、これがむしろ普通のイミの社会の第一のイメージである。そして例えば、どんな人もせいぜい老人になれるだ   けだから、老人をそれなりに大事にしようという傾向もそこで、自然に起きるし、また社会的言説になる場合もあり、そういった類   の社会の秩序というものも、多数の人間の集まりでは必要になる。 また、そういった事情のある集団での、大規模な言語的活動と   いうものもありうるわけで、芝居がされたり、祭りみたいなことをみんなでやったりもする・・・etc       ※もちろん、この上のような社会や家族の話は、最も間口を広げた場合を言っているのであって、現代においての最も普通の家族形態はこの中に、含められるのである。また        ある性別、ある年齢だけの人々の社会といったものが、存在したというのは伝説も含め、いろんな場合が考えられるが、一般的に言って、その種の社会が未だかって中心と        なり長く持続して存在した例が、ないのは明らかなことで、むしろ大体そんなケースは、ある”教育的目的”でなされる場合であり部分的な場合になる。(2004/1/9付記)   こういったふうに、多かれ少なかれ成り立つような、共通しうる人間の生活形態の基本的モデルを考えることが出来る。(今挙げた   様なのが、最も良いというわけではない。ただ、ここで扱われている重要なことは汲み取る必要がある。)そして、言語活動に注目   して、こういう生活の基本的なことを素直に描写してみるだけでも、かって言われてきた多くの社会的な説や道徳説などの歪さは、   なんとなく見えてくるし、その意味で、このモデルは、英語とか日本語とか特定の言語に余り関係の無い、言語の有り様を問題にし   ているものでもある。   こういった言語活動のモデルを考えた場合、言わねばならない一番重要なことは、人間の言語を支えるものが、そもそも、こういっ   た人間の生活形態全体に他ならないということである。最も単純に見える言語のやり取りでさえ、個々の人間のそれを了解する根拠   が、十分与えられているとは決していえない。むしろ、それを根拠というなら、掘り下げていって万人に見える物質的根拠が見つけ   られ、その上に成り立っているようなものでなく、はじめから目の前にある、未来も含めた共有する全生活そのものなのであって、   これはむしろ、疑うということも出来ないものになる。だから、われわれの言語は、全生活形態と結びついているのであり、その用   法が、その中で所与的に決まっていて、それ以上根拠を挙げてもしようが無い一種の文法を持っているのであって、使い方には自ず   と、この生活形態と結びついた各々の限界があるのである。   この考えは非常に簡単な書き方にしてしまったが、ウィトゲンシュタインの『探求』の最も重要な議論の一つだといっていいものだ   し、また、結局、この文法は『論考』では、論理的形式というものに相応し、しかも、これは「相」(アスペクト)といわれている   ものにもなる。さきの言語活動のモデルを考えた場合、人間の言語活動みたいなものは、何か中心的な共通性を持っていることを、   強調しておいたが、それは人間の行為、行動であるという共通性でありそうであり、また、それは共通な肉体的感覚を、土台として   いそうなことゆえに、そうなのでないか?とはいえそうなのである。そして、このことは、ニーチェやショーペンハウアーの言って   いる認識や”小さな理性”を超えた意志、「肉体」という問題にそのまま、この言語活動の問題はつながりそうなのである。    (また、ついでに先のモデルの特徴について、言っておけば、このような言語活動からの共通性のモデルによるなら、国家や家族     といえるようなものが、そんなに積極的な役割を果たしていると、イメージしなくてもよさそうなことである。)   言語活動のモデルにおける、そういった形式を成り立たしめる複雑な土台の問題。上に挙げた幾つかの考えをまとめるには、どのよ   うなことが考えられるか?   その重要な側面を考えるとき面白いのは、いわゆる”痛い話”みたいなことである。身体を傷つけるような、リアルな話が、実際    痛みのようなものを伴うのは、どうしてだろうか?ということ。チョ−クが、黒板に強くこすられれる時の音について、話されたり   想像してみたり、するだけで、実際に聞いたときと変わらぬ不快感が走る。また、少し違うが、外国語を喋ろうとする時、気分自体   を切り替えなくては、難しくなる、といったことや、全く、いつもと違った環境で、呼吸が荒くなったり、体調が変わった状態で、   困難なピアノ曲を、弾こうとするととんでもないところで間違ってしまう、あがりみたいなこと。こういった類のことは、人間の   言語が、いかに強く身体的感覚と結びついているかの簡単な例になる。もちろん、痛みを感ずる話など、その話自体に慣れてしまえ   ば、その感覚は無くなるので、この話と痛みの関係は偶然的な”心理的関係”のようにもいえることになりそうなのだが、しかし、   われわれの使う言語には、どうも大体こんなものがあるらしく、従って、いろんなところに、輻輳してこの関係があるなら、むしろ   全体としては、動かしがたい、殆んど根本的なある関係が身体的感覚と言語の間に成立していそうなことは、想像されるだろう。   実際、われわれは、日常会話しているときに、いかに敏感に、相手の態度、苦痛を感じている、不信感を持ってる、軽蔑している、   好感を持っている、信頼を与えている・・・等々のことに、言語と対応して、根本的な反応をしているかは、少し身近な出来事を観察   するだけで歴然としたものがある。しかも、それは、こういった類のことを”心理学者たち”が説明するのを聞くと、われわれが、   その時感じていることと、何か根本的なものが違っている!と思う何かなのである。(もっとデリケートな何か・・)   そこで、こういった人間の身体的反応、特に 態度、表情みたいなものに関して、さらに、次のようなことを考えてみることは出来   るだろう。   色彩体系と人間の態度-表情なるものは、似ているということがある。赤や青が存在すること、またその補色との関係など、光と   いうものの存在、その構造そのものから、同様に与えられるのであり、赤だけが存在するとか、補色というものの無い色などという   ものは、考えられない訳で、はじめから体系を持って存在しているといえる。一方、人間の態度-表情などといったものも、怒りや   笑い、悲しみ※などといったもので、もし、笑いもしくは悲しみの感情※だけしか持たない人がいたとしたら、そもそもそれは、笑   いでも、悲しみでもなく、何か決定的な別の病気の現れでしかないのである。喜びがあっての悲しみであり、笑いがあっての涙であ   るというような体系的なこと。また、一定の系列的変化をとるということも重要で、そういったような特徴から、いろんな色が複雑   に織り合わさったような、色紙を見ても、全体としては、赤っぽい感じ、とか、青っぽい感じとか位は、すぐ判るのである。   そして、色がある程度の一定の幅で連続すれば線になるし、色面が集まって形態となるわけだから、そういったものはわれわれの眼   に映る全て、また、自然の事物の様々なものを表しえる。人間の態度-表情などといったものも、ある人が何か複雑なことを考えて   いて、完全には判らないけれど、どうも怒っているようだとか、悲しんでいるようだとか、何となく判るというのは、先の場合と似   ているし、その複雑な表情というのも、部分部分の色は単純だけれど、複雑に織り合わさった生地のような感じで成立しているよう   なものらしいということも類比的になる。   ある民族の雰囲気、確かに言葉にあてはめると同じにならないけれども、何となく全体的にある戦闘的な雰囲気を感じるとか、穏や   かなものを感じるとかは、偶然か、全く受け手側だけによって変わってしまうものではない。そして、それは複雑な織り合わさった   感覚で、多分、長い歴史の作用した形成物、沈殿物である。また、確かに、写真や絵画には程遠いが、ある表情の時間的な部分変化   、取り合わせによって、歴史や自然において成立した、具体的な出来事、ある固有のことを、それなりに対応させて気付かせること   が出来る。(逆に、写真や絵画のようにハッキリ物質的なものを表す必要が根本的に無いのは、むしろ重要なメリットになりうる。)     ※こういった感情みたいなものに与える”名称”がこういった議論の場合どの程度のものを指すのか?また、瞬間的な”表情”と、その人の個性みた      いな長くあるもの”態度”との関係。また、うわべだけの表情とそうでないもの。また、同じ人柄でも、そのひとの”味方”と”敵”では、当然、      全く、違う言語で表現されてしまうパースペクティブのような問題。また、そんな偶然的などうでもいいような雲の様な多数の言語表現と特徴を捉      えたものとの違い。・・こういったことが、関連する問題としてすぐ浮かんでくるが、こうしたことをどう説明するのか、どういった方法でそれが出      来るのか、また、そもそも、そういった説明は可能なのか?どの程度のことを本来、われわれは必要としているのか?といったことは、本稿の目的      から、ここでは扱う必要がないと思われる。また、表情の体系と色彩多系の類似は、重要なことだが、一方で”実在論”的問題から、重要な区別す      べき、混乱しがちな問題も出てくるが、それも今は扱う必要がないと思う。・・・(2004/1/13付記)   言語が、生活形態そして肉体的反応を土台にしているとは、当然、例えば、そういった民族の生活形態、固有の表情-態度を土台にし   て成立しているということである。そうすると、「黒板を引っかく音」「銀紙を歯で噛み締める」という言葉とつながった固有の感   覚と全く同じでないにせよ、言語には、その用法が使われる時の感覚と自然に結びついていることにより、有り得ない文脈とか、有   り得ない含意とか、また反対語とか反対語にならない言葉とか、似た意味の言葉が、深く議論しないでも定まってくるということが   あるのであり、そして、それはその国語の固有の感覚である場合も多い。それは、ある複雑な”自然の形成物”みたいなものですら   ある。ある歴史的な蓄積感のある攻撃的な気分?みたいな複雑な感覚がないと使い方が理解できないような言葉(フレーズ?)それ   は、その言葉の形式を生む中心になっているのだし、そうすると、その言語自体は、辞書的定義においては簡単なものでも、非常に   複雑な物質的前提を含んだ結果のものとつながっていることになる。   人間の様々な生理的要素、人々の様々な生活、社会の構成、形成手順、予定、織り込まれた偶然性・・・・等々、ある語には、人間のず   っと昔の歴史と未来の無数の要素また物的要素が関連していることも不思議なことでない。また、その語を、そういうムードで使う   ということは、そういった要素を一々知らなくても自ら受け入れて行動していることになる。そして、言葉とそういった感覚、表情   の関係は確定したものでも、また、必ずしも一方的な関係でなく、新しく出来た言語の方からなども、その表情などと相互作用して   、毎日、新しい用法が生まれてくるみたいにもなるようである。(相が、言語理解の基盤になるという関係があるだけでなく・・・)   もちろん、言語は大きくみれば変わらない面もあるし、ある中心を持って揺れる感じなのだが、しかし、その言語を実際に”生かし”   人々を新たな行動に動かすものは、デリケートなこの変化の方からであり、時には全く無かったような使い方も出てきたりするし、   それは、各々の人間がそういう複雑な言語を持っているというより、それの一要素として働く結果、社会的な偶然なども加味されて   いろんなことが起こったりする。(こういった辺りのことが、どうも、大体は神話化されて大袈裟に語られる”人間の創造性”らし   いが・・)すなわち、「・・・実際、合成された魂などというものは、もはや魂ではあるまい」(TLP5・5421)といことが、やはり   成り立っていそうなことでもある。(ここでの関係は単純な”対象と事実”という対応関係でなくなっている。あとでまた少し触れる。   ※これは、従来 殆んど正面から論じられたことが無いといった方がいい厄介な問題で、一応、重要な”ありそうなこと”を敢えて、ここに書き加え     ておいた。不十分な言い方になっているところがあるし、また、”人間の創造性”に関して少し、楽観的ともいえなくも捉え方だが、このことが、     現実的な今日の産業の問題にも直接関連することが想像できるだろうことだから、ちょっと触れてみた・・・   だから、先に言語活動の基本的モデルで言語活動とは遊びとか労働とか教育などと、単純に区別し難い、一個の人間が行うというこ   とにおいて、中心的なものがあることを強調すべきと書いたが、それは、一個の人間の言語活動においてもう、非常に複雑な人間活   動の中心的な前提が隠されているということというふうにも言える。   すなわち、ある言語を使い、ある固有な相を共有することにおいて、笑いが悲しみを含めた人間の全ての表情の体系を支える生活を   前提としているように、複雑な人間共通の諸前提からの関係を示すという”特徴”を根本的に持てるのである。だから、人間の言語   活動を、その言葉の表面からのみ勝手に、ただ大勢で分割して考えたり、加算して考えたりすることは、言語の本当の仕組みを掴む   ためには、非常に重大な錯覚をもう犯すことなのであり、また果てしないくらい無駄な物質的前提にバラバラに出会うだけになる。   言語が、ある相を持つと言うことは、一個の人間が各々、各々に可能なぐらいの言語活動全体からの、ある関係を持つということで   あって、それが各自において言語の仕組みを掴むためには、決定的に大事な視点になる。だから、この場合の要求される”精密さ”   も、その関係におけるものであり、局部的にただ大量に関連する情報を溜め込んで掘り下げれば、むしろ、それ自体、非常な不精密   ともいえるし、また、さらに悪いことには、そのいびつな格好は、それ自体、ある目的を隠した強力な独自の歪んだ主張にもなる。      先程の簡単な言語活動の基本的モデルの描写と、そして同じ問題の違う言い方でもある、言語の”限界に対する考察”が役立つのは   、こういった問題が、元来、非常に見えにくく、錯覚しやすいためむしろ人々が、意識的に、しかも自信なく考察すればするほど、   こういった類の行動をして、社会的に拡大すればするほど、このような歪んだ状態が固まって行きやすいことを、イメージさせてく   れるのである。(むしろ、素朴な感覚で人々が発言し、お互い”顔”の見えるような社会であった時代の方が、こういった言語の本   来不可能なことに関する感覚は何となく持っていたのである・・)   大きく組織化された社会は、多かれ少なかれ、こういった面で無防備になり易かったということも、想像できるでのあって、従って   そこでは、社会的”体制”として、ある特定の人たちの隠された”肉体的感覚”で、どんどん固まっていくことになる。これは、も   ちろん、”偏見”の典型的なものである。   さらに、特定の言語を取り扱う”言語学”といったもの(本質的に個別科学である)でなく、人間の言語に、共通する論理を支える   面に注目することは、重要なことで、さらに、その言語の”限界に対する考察”が重要なのは、錯覚した言語の用法が、そこにおい   て何とでも、言える様になり、本当は 大して何も有意味なことを言っていないのに、もっともらしく成り立っているように見せる   ことにおいて、すべての”偏見の温床”そのものになりうることを、言及してることにもなる。そこで、言語は、どんな人にとって   も、その人のその時の言語なのであり、それは根本的に重要なことであり、それは脱せられるものでなく、また、そもそも”脱する”   とかいうものですらない。この種の錯覚そのものは、単なる間違いや、将来、改善、進歩されるための段階なのでは全然無い。    ※ 元来、個別科学である”言語学”の”話し言葉””書き言葉”といったような区別から、何か人間の”話す”という行為に重要なものがありそ      うだと思う考えを理屈付けるような発想が出てくることが想像できるが、結局、個別科学から論理を支えるものとの関係が切り離されていない      で混乱しているため、われわれが人間の話す行為において実際あることが、十分取り出せないで結局、”物書き”中心の見方から大して脱出出      来ない、ムダ話めいたものを重ねたりする。”形而上学を拒否する”といくら宣言したとしても、そもそも形而上学なんていうものは、もっぱ      らその学説の欠陥点の埋め草なわけだから、何にもならない。同様に、科学批判をやったとしても、この個別科学との関係が不明朗だと、まる      で堂々巡りになる・・・etc もちろん、こういった方向の類の装飾的話に、元々余り興味が無いのでこの程度の言い方で止めるけれど。   逆に言うと、言語の”限界に対する考察”から言える事は、われわれの言語が、如何に 偏った形で捉えられやすいものなのかを、   また、万人に判る正しい言語体系をみんなの努力で足し合わせることによって、将来、作り出せるというものでは、全く無いという   こと。   とはいっても、偏りの無い、傾きの無い言語体系が、単に科学的なような分析を、放棄したような素朴な態度で達成しうるものでは   全然無いのであって、大事なのは、こういったことは、以前から、一連の”問題群”として、提示されているもので、そういうのは、   多くの重要な働きをした人物たちの、著作などから、大体似たようなことが取り上げられているわけで、その関係に、注目すること   が、特に重要になる。もちろん、そこでいわゆる”形而上学的問題”といわれているような”問い”になっていない、言語上の錯覚   でしかないものを発見するのは、重要だが、それでもそういう”言い方”でいわんとしていたものを、いろいろ組み合わせて汲み取   る必要がある。   むしろ、このことは当たり前のことで、偏りの無い、傾きの無い言語体系などといっても、特別なものでなくそもそもわれわれの生   活で用いる言語形態が、問題なのだから、2000年昔のものであっても、われわれの時代のソレと同じく、”変化した形態の一つ”と   して同様に考えればいいわけで、また、地域もそのようなものなのであって、アフリカであろうと、中国であろうと、アボリジニ、   西欧であろうと、言語活動の基本的モデルみたいなものから考えられる各々一つの変化形態といえるし、問題とされるのはその中で   、重要とされているような言説を比較して見ることである。末梢的なことにすべて流されないために、重要なのは、大体、そこに隣   接する対比的関係や、変化の傾向、ある対称性の特徴などを観察することになる。(正ー反の関係や、特徴的な対比的関係・・ショー   ペンハウアーとニーチェのような関係を、いろいろ見てとること)     【10】   これは、歴史主義ではない。人間生活の様々な実例として、”問題群”を比較してみるということに過ぎないのだが、しかし、それ   なりに、”中心軸”みたいなものがありそうなのも本当のことである。   一般に”日本人”の多くの代表的やり方は、そもそも外国の”問題群”にまともに直面しないのが、の伝統みたいになっていて、そ   れが、長年の間に、すっかり、私たちの生活を取り囲む”環境”みたいな、固まった体制になってしまっている。西欧文化流入以前   であっても、それらは、ちょっとした時代に応じての味付けに過ぎず、本当に切実な動かしがたい感情は、議論の中にもっぱら現れ   ず、”日本人的な生活そのもの”という、明らかに世界的に見てもとても偏ったやり方をするのであり、それは、西洋のいろいろな   思想体系を、説明したりする場合にも、”細切れにしてしまう”というはっきりした実例としてあらわれるのだが、今、大事なのは   、そういった”問題群”を、本来の生き生きした感じで扱うことになる。   もちろん、言語を支えるのは、”民族の生活形態、固有の表情-態度を土台にして成立している”ともいえるわけだが、すでに”世界   化”している、西欧思想(言語もしくは音楽)を相手にするときは、言語の持っている肉体的感覚において全体の話の大きな流れを   無視しないというのが、何より大切になる。西欧の生活形態、固有の表情-態度にまで立ち至れないというのは、たぶん本当のことだ   が、こういったことであれば、むしろ それは、新たな味わい豊かさの湧き出るもとになる。(また、”日本人”としての民族の生   活を送ってきた人間なら、それはそこに自ずと現れでもするだろう)   その”問題群”自体を調整してやること。このことは、別段大袈裟なことでもない。今までの、優れた人達がやったことを、謙虚に   見習えばよいだけだから。”本来のわれ”などといっても、それはわれわれが、地球上に住んでいて、そういう意味で支配されてい   るようなもので、そういった類のものは、”気にならない存在”であって、はじめて本物な訳なので、別に心配するには及ばないが、   これだけ日本の社会に歴然とある”西欧的なもの”を扱いながら、”西欧的なものを扱わない傾向”みたいなものは、全く、自家中   毒に近い。       ※ こんな類が、社会的に過大に扱われるのは、世の中に”汚物”を新しく作り出すだけみたいなもので(冗談でなく)、一方、役に立つ実感の       あるもの、使いやすいものを作ったり、上手に整理したり、ムダの無いものにしたり、また、ちゃんとした客応対をしたり、・・・出来るひとが       、本当に”尊敬されるべき”なのは全く当然である。          そもそもそれは、”問題”となっていることを外に出さないわけだから、全く独特の”閉じられた冷たさのある目つき””無意味な   笑い”を浮かべる人間の無言の支配というだけのことになるし、それでどんな”好み”の話が論じられようか?   また、この”問題群”の関係の中で、自分の仕事を見つけられないということは、いわば”本来の学者”としては、そもそもちゃん   とした仕事に全然なっていない、ということでもある。(ただ、外国の思想を”薄めた格好”にして、輸入するだけ)実際、こうい   った問題群と、十分な関係を持った意味の”言語”でもって、自分の言葉として書いていると、自ずとしっかりとした充実感が伴う   のに対し、はじめから本当はそこに自らの問題を見ることのできない態度だと、そういった言葉に自信が持てない。その回りに、い   かに細々とした言葉を、沢山並べたて、飾り立てても、その場限りの虚しい仕事だと、自分で一番気付くものではあるのだ。   さて、ここまでは、”ツァラトウストラ”で語られていた「本来のわれ」「大きな理性」など、ちょっと大袈裟で、不可解にも聞こ   えるような考えといったものが、ひとつは、私たちの「言語形態」という身近なものに照らしてみると、そんなに不合理な考え方で   ないことを、ちょっとニーチェ的でない方法で、説明してみようということであった。        【11】   「本来のわれ」とは、先にも書いたようにヘーゲルの”絶対者”に似ているし、ニーチェは、ショーペンハウアーに対してヘーゲル   的なものを擁護する主張をするぐらいで、ある”歴史観”のようなところがあるが、それでもいわば”歴史観にならない歴史観”と   いったところをもつ。   そして、先の「Sclecht」と[Böse」に関する話題のなかにも、実は、そんな歴史観みたいなものは、隠れていることも、もうひとつ   の問題として付け加えて考えておきたい。   前述のように、ニーチェは簡単に言って、受身の反感的な価値評価をする今日一般的な「Böse」と対になった「Gut善い」は、否定し   、「善悪の彼岸」に立った立場をとろうとするが、自発的な「Sclecht」と対になる「Gutよい」の方は、決してそうでなく、その意   味の「よい」に関してなら、むしろ、厳しく主張できるような考えをもっていたとも一応云える。   だが、しかし、そのような「Sclecht&Gut」的な「よい」であっても、自ら論証し、その話が正しいとするのであれば、根本的に個   人の中だけに完結できず、社会的なものにならざるをえないのだが、しかし、ニーチェ自身は社会全般にわたったことで、決定的な   立場をとらないわけだから、消極的であれ、多くの人がバラバラの勝手な考えを持ってかまわない、調整的に現れる隣人のただ集積   的なものの社会を、結局、認めていることになる。(しかし、ニーチェのこのような点だけを強調して、肝心の主張を無視するのは、   おかしな話でしかないが)   ニーチェ自身も、「よい」が結局、社会的でなければ不十分だということがわかっているし、また「Sclecht&Gut」ということ自体が、   古い貴族階級的な価値観だと考えていることもあり、ニーチェは、こういった記述をしているところで、かってのいろいろな地域の   貴族たちの非常に勇敢だが、野蛮なことも進んでやってしまう階級的社会的気風を、19世紀当時の柔弱化したような知識人の社会的   道徳観にぶつける感じで、魅力的であるかのように描いたりする。   これは、現実を過去から未来へつながる連続であると考える一般的歴史観と正反対の、打ち消し合わす様な歴史観の顕われといって   いいものだが、このような古代趣味的なものが、むしろ、最も弊害を引き起こしたニーチェの悪用の一つのパターンになってしまう。   (現代における”スパルタ”的国家観・・等々)   一方、ショーペンハウアーからニーチェに続くような問題群の重要性を考えつつも、ニーチェにおいても、結局、現実の隣人の集積的   なものの社会を、暗に認めているのなら、その当時の物質的な問題を含めた直面している現実社会の事実を、詩人的な言い方を超えて   もっと扱っていこう立場も、自然に出てくるものになる。   ショーの現実社会を戯曲的にリアルに描写していく方法や、シュペングラーの歴史的な出来事の系統を扱う方法が、やはり、そういっ   たものと考えられるのだが、もちろん、各々ニーチェのものを全くそのままに受け継いでいるのでなく、ロマン主義的時代から、20   世紀に移っていった状況の違いなどによって、いろいろ少しずれた格好で中心的な考えや概念が継承されているのが見てとれる。   ニーチェ思想からの観点で、彼らの考え方全般を比較した場合、とくに興味深いのが、対称的な歴史観を挙げることが出来る。結局認   めなくてはならない、多くの人がバラバラの勝手な考えを持ってかまわない、調整的に現れる隣人のただ集積的なものの社会を、シュ   ペングラーがそれ自体、欠陥そのもの(内在的とでもいうこと)として、人間の技術の発展が起ころうが、どうにもならないものとし   て、悲観的な歴史観といえるようなものになったのに対して、ショーの方は、そのような集積的社会の民主的な秩序を、それ自体が、   欠陥そのものとは一般に考えないから、その移り変わるべき未来的形(非内在的)が、予想される人間の発展した技術そのものと結び   つきやすいので、SF的未来観に近い歴史観になっている・・・というふうに、この両者を対比出来るのは、注意されるべきだろう。この   違いは、ごく最近までの、いろんな文化的現象、事例を比較し捉えるのに、とても参考になる。   人間は、”変わって行かなければ”ならないし、そうでないと、存在できないものでもあり、それは言語とその相の相互作用的な複雑   な関係に顕われている。(前記した一般に余りに大袈裟に言われる”創造性といった問題”)また、ある意味では、私たちに必要なの   は、もはや、そういったかっての”歴史観”などというものでなく(それは少なからず賭博者的でもある・・・偶然は自然に備わったもの   だが)、必要ないろいろなことを上手に比較して、ムダの無い”廻し方”を工夫することといえそうなのだが、それは結局のところ、   ニーチェに習って言うなら、”本来のわれ”に近づくいろんな工夫でもある。さらに、ここでの話の最後に付け加えておくなら、こう   いったことは、むしろ、大袈裟に考えないことが大事で、当たり前のことをするだけだ・・・ということなのである。                 ◇◇◇            ◇◇◇           ◇◇◇   このホームページの文章の目的は、「どうも、従来のものの見方は誤っていたらしい・・」と多くの人に気がついて欲しいために書いて   いるので、ある程度、”試論”というものになってしまうのであり、こんな直接的な言い方より、各部分にもっと上手な言い方、必要   な利用できる資料の関連などを、今後 工夫していかなければならない段階のものだということは、ここで改めて断って置いたほうが   いいかもしれない。しかし、重要なことは大体こんなところにあるというのは、間違えようがないと考えている。   ここまで、ニーチェの『ツァラトウストラ』の重要な内容と、この書の構成とあらすじみたいなものの紹介、そして、この書の中の最   も問題とされるべき”本来のわれ””肉体”といった概念のなかに含まれる重要な問題を、最後に「Sclecht」と[Bose」の問題そして   、言語活動の観点から敷衍して、『ツァラトウストラ』全体のまとめとして取り出してみたのだが、次に、【 ツァラトウストラとゾ   ロアスターについてのメモ 】とここで標題をつけているかぎり、当然 古代の宗教ゾロアスター教との関連を述べていく章にならな   ければならない。それはとくに、ニーチェの”無神論”とか”永劫回帰”といわれているものや、そういった昔の教説との関係の話に   なるわけだが、その前に、先の『ツァラトウストラ』全体のまとめに使った”本来のわれ”の問題における言語活動の話題で、出てき   たウィトゲンシュタインの『論考』『探求』などの議論の関係は、そのままにしておけないので、最小限 必要なことを、次の章で簡   単にまとめて書いておく。              (2004/1/7 ここまで書く)     ● (2004/1/13、14 加筆した注釈部分アリ・・・など、只今、現在も、このページの文書全体のいろいろ調整中・・・。)                 ◇◇◇            ◇◇◇           ◇◇◇          【12】     前の部分では、ウィトゲンシュタインの引用そのものでないけれど関係していると思われる幾つかのテーマを、わざと少し違ったふう   にして、ニーチェの本の説明のため援用してみたわけなのだが、          
 
                     
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