三ヶ月が過ぎた。
 毎週末、林道コースと軽トラと格闘する努力を続けた山崎が報われる日がやってきた。
 今の山崎は、その身体感覚の全てが研ぎ澄まされていた。
 ステアリングを握る手の感覚は何処までも延び、フロントタイヤのグリップを、手で地面を掴むように感じている。シートに座る背と尻はリヤタイヤと繋がり、足はエンジンやシャシーと繋がって一体となっていた。一度、走ってみて自分のコントロールが完璧なことを確信した山崎は、工場長を呼んだ。
「解りました、山崎さん。チューニングは完了してますので、コースレコードを出したらR33をお引き渡しいたします」
 木村が、どこからか日章旗を持ってきた。
「やっぱり、スタートにはこれがなくっちゃな」
 工場長がストップウオッチを手に見守っている。
 山崎は、木村の振り下ろす日章旗を合図にスタートした。絶妙なクラッチワークで急発進を成功させ、軽四トラックをスムーズに加速させていく。最初の右コーナーが見えてきた。コーナー手前で素早くヒール・アンド・トゥとダブルクラッチとを駆使して目にも留まらない素早さでシフトダウンしながら、きっちり減速した。慣性で加重がフロントに乗ったところでステアリングを切る。ノーズがインを向いたところで、デリケートにアクセルをオンにする。リヤが流れ始めると、素早くカウンターステアをあててリヤのドリフト状態を安定させる。グリップしないプアなタイヤとサスでトラクションさせるためにタイヤのグリップを確かめるように、慎重にミリ単位でアクセルを開けていった。慣性で加重が移行したリヤタイヤにトラクションがかかり、軽四トラックは絵に描いたような四輪ドリフトでコーナーの幅一杯を使って立ち上がっていった。
 同様に次々とコーナーを駆け抜けていく。
 頂上でサイドブレーキを引き、リヤタイヤをロックさせる一八〇度ブレーキターンで向きを変えて下りに入る。
 下りは慣性でスピードが上がり気味になるので、フェードやロックしないようにポンピングブレーキを使って走った。
 快調にスピードは上がり、遂にコースレコードを破る瞬間がやってきた。
 スタート/ゴールラインで木村がチェッカーフラッグを振ってくれた。
 軽四トラックを停めた山崎に工場長が駆け寄ってきた。フィニッシュした瞬間に止められたストップウオッチを差し出した。
 七分五九秒。
 山崎は差し出された工場長の右手を握り返した。
「おめでとう。遂にやりましたね山崎さん」
 山崎は工場長の視線がチューナのものではなく父の親友を感じて暖かい気持ちが胸に込み上げてきた。髪をかき上げるふりをしながら潤んでくる瞳をそっと拭った。
「ありがとうございます」
 木村は少し離れたところで照れくさそうな笑顔を浮かべていた。
「おめでとう。良かったな山崎」
 山崎は何度も何度も頷いた。
「あなたのお父さんが作ったコースレコードを二一秒も短縮するニューレコードです。これなら私も文句ありません。R33をお渡しします」

 山崎は工場長に続いて整備工場に入った。工場の隅にR33がひっそりとうずくまっていた。一般客の眼につかないように掛けられていたシートをまくる。
 そこには工場長の手によって自動車から(グランドツーリングカー)、戦う機械(レーシングマシン)に生まれ変わったGTーRが山崎を待っていた。
 R33GT‐Rは、今では無くなってカテゴリーGr.Aレースに参戦できるレベルにまでチューンされていた。
 直列6気筒DOHC二四バルブ・ツインターボRB26DETTエンジンは、エアクリーナー、空冷式インタークーラー、ターボタービン、チタン製マニホールドとストレートマフラーなどの吸排気系の変更は言うに及ばず、厚みの薄いメタルガスケットとハイコンプ鍛造ピストンよる高圧縮化。ハイカムシャフト、鍛造コンロッド、フルカウンタークランクシャフトといった内部パーツにまで手を入れて、余裕で六〇〇馬力を叩き出していた。
 駆動系もエンジンマウントの強化し、フライホイールを軽量化してある。クラッチのトリプルプレート化し、ミッションも六速に換装してあった。更にドライブシャフトをドライカーボン製に交換して軽量化を果たしている。
 冷却系もラジエーターとオイルクーラーの大型化と併せて、材質変更によるフロントオーバーハング部の軽量化してある。フロア下にはトランスファーや前後デフのオイル冷却用マルチオイルクーラーも装着してあった。
 シャシーも一旦ホワイトボディにしてスポット溶接を増やした上、ロールゲージを入れ、更にはサイドシルとCピラーには発泡ウレタンを充填。フロントとリヤに装着したドライカーボン・アルミハニカム複合製のストラットタワーバーと併せて高剛性化してあった。
 足周りはブッシュを強化、フロントとリアのアッパーリンク・ロアーリンクを鍛造製アルミ合金に変更、サスペンションスプリングをアイバッハ製に、ショックアブソーバーをオーリンズ製に交換。べンチレーテッド四輪ディスクブレーキはAP製一八インチにサイズアップ。前後ピストンキャリパーも同じくAP製フロント6ポッド・リヤ4ポッドに換装。BBS製10J×18鍛造アルミホイールにブリジストン・ポテンザRE010Kai265/35R18ラジアルタイヤを装着。 前後トルク可変4WD、後輪操舵4WS、油圧多板クラッチLSD、ABSの統合制御コンピュータのセッティングをレーシング仕様に変更。
 外装はフロントバンパースポイラー、リヤウイング、ボンネット、フェンダー、更にボトムエフェクトを含むドライカーボン製に交換、軽量化。
 R33GT‐Rは、市販車改造レースN1耐久シリーズ、及びル・マンに参戦することを前提に、レーシングテクノロジーを注入して設計されている。いわば、隠されていた牙を剥き出した今の状態がGT‐Rの真の姿なのだ。
 しばらくR33の正装に見とれていた山崎だったが、気を取り直して乗り込んでみた。クロモリ製ロールゲージを入れられた内装はノーマルに準じていたが、バケットシートはレカロ製カーボンに、シートベルトはスパルコの六点式に変えられていた。だが意外なことにステアリングは、四本スポークを持つノーマルのままだった。
 不思議に思った山崎は工場長に尋ねた。
「ステアリングについては私も悩んだんですが……結局エアバッグを残しました。もちろん、このクルマは日本一安全なクルマですが、エアバッグは私のチューナーとしての良心みたいなものです。その……貴方のお父様の事もありましたからね……。貴方には申し訳ないことをしたと思っております。ドライバーの限界を超えたチューンをクルマに施すなんて」
 軽四トラックと格闘したことで、ドライビングの奥深さを知っている山崎は微笑んだ。
「つまり、今の私は大丈夫だということなんでしょう?」
「はい、私が保証します。さあ乗って下さい」
 山崎はドアを開けてシートに座った。ドアを閉めると音でボディ剛性が上がっていることが実感出来る。バケットシートに身体を預けると、一度シートとステアリング、ペダルの位置関係を調整した。シフトノブを軽く左右に動かし、ギアがニュートラルであることを確認した。
 キイを差し込んで捻る。ニュートラルランプが点灯した。
 高性能車らしい、普通の乗用車に比べて重いクラッチを踏み込んで更にキイを捻る。
 再び命を吹き込まれたエンジンは、軽いクランキングの後、エンジンのトルク反動で一瞬身震いを起こして復活した。
 図太い排気音が工場内に響きわたる。暴走族向けの直管マフラーなどは装着していない山崎のGT‐Rだったが、獰猛な重低音は隠しきれない。だがアイドリングでは、そう近所迷惑な排気音を出してはいなかった。
 回転計の針は八〇〇回転あたりで細かく震えている。一六ビットECUで電子制御されたRB26DETTエンジンといえども、ここまで高性能チューンされるとノーマルほど安定したアイドリングは無理だ。冷えた状態の今ではなおさらだった。
 工場長が運転席の窓を叩いた。パワーウインドウを降ろす。
「さすがに低速トルクはノーマルに比べると相対的に細くなっています。あと油温と油圧に気をつけて。特に油温計の針がレッドゾーンに入ったら絶対に無理をしないで下さい」
「解りました。気を付けます」
 山崎はいつも、マシンをいたわる為に水温と油温が上がるまで暖気運転をしていた。熱で膨張することを前提に設計されているエンジンの金属部品を、今のように冷えた状態で動かして余分な負担をエンジンに与えたくないからだ。
 やがて水温計が、さらに油温計の針が正常な位置を指した。
 山崎は六点式ハーネスに身を固めると、HIDに換装されたライトをオンにした。青白い光が工場内を照らす。サイドブレーキを解除してクラッチを踏み込むと、ミッションをローに入れて、ゆっくりと発進する。 山崎は右手で木村にVサインを出しながら工場を後にした。

 見えなくなるまでR33を見送った木村は、ため息混じりに呟いた。
「行っちまったな、山崎のバカが」
「何だ、寂しそうだな」
 工場長は息子をからかった。
「バカ言えよ。でも結局組んじまったなオヤジ。怪物GT‐Rを」「ああ、儂も悩みもしたんだがな」
 工場長は遠い眼を空の彼方を見上げた。
「じゃあ何で……」
「お前の言葉を聞いたから……とでも言っておこうか」
「俺の?
 父親の意外な言葉に、木村は目を白黒させた。
 そんな息子の様子を見た工場長は嬉しそうに微笑んだ。
「以前、お前は儂に『死に近づくことが生きることなんだ』と言ったな」
「ああ、受け売りだけど、俺はそう信じてる」
「その言葉を聞いて考えたんだ。あの子ならスピードの向こう側で死を超えた何かを見つけるんじゃないかってな……それに」
「それに?」
「もともとチューンの約束はしてたんだ。山崎の野郎とな。あの事故さえなかったら、今頃あのR33を運転しているのは父親の方だっただろうさ」
「何だ、そうだったんだ。じゃあ、生前の約束が果たしただけじゃねえかよ」
「そう言うな。とにかくお前のおかげで決心ついたのは本当だよ。ありがとう」
 工場長は木村に向き直って頭を下げた。
「やめてくれよオヤジ。いや、その、まあ、何だ。俺がバイクに乗ることを理解してくれたわけだ。いや、良かったよ」
「いーや、これとそれは話が別だ。儂はあくまでも、お前がバイクに乗ることには反対だ」
 そう言いきった工場長の表情は、つい先程までの憂いを含んだものから、いつもの頑固オヤジのものに戻っている。
「こ、この、頑固オヤジの石頭め!」
「何を言うか、この不良息子が!」
 激しくも何処か楽しげに言い争う二人の声は、いつまでも工場に響いていた。
 

 
          

 午前三時。
 窓の外はまだ暗く、夜明けにはまだ早い。
 山崎は眼を覚ますと、ベッドから抜け出した。頭をすっきりさせるためにシャワーを浴びる。水を弾く筋肉はOAオペレーターが仕事の人間のものではない。リターンマッチを誓ってから週に二回、スポーツジムへ通って身体を鍛えていた。実際、怪物GT‐Rを制御するには筋肉が必要なのだ。
 熱めのお湯を浴びた後、仕上げに冷水のシャワーを浴びて皮膚を引き締めた。
 バスローブのまま台所でお湯を沸かし、熱いコーヒーをブラックで飲む。空腹のせいか、胃に入ったカフェインが指先まで染み込み、それを合図に肉体が徐々に目覚めていく感覚がある。実際には、そんなに早く吸収されることはあり得ないことは解っていだが、朝一のコーヒーの習慣は山崎のお気に入りだった。
  ドライヤーで髪を乾かすと、ソフトジーンズに薄手のスウェットシャツというラフな格好に着替えた。GT‐Rのネームが刺繍されたベースボールキャップを被り、アディダス・カントリ−をドライビングシューズ代わりに履いた。
 鍵束を持って玄関を出た。エレベーターで地下に向かう。
 このマンションは、外ではなく地下に駐車場が設置されていた。土地代の高い昨今では珍しくはない設備だが、このマンションが建設された時代では洒落た設備だった。
 エレベータのドアが開くと、そこは住人達のクルマが並んでいる駐車場だ。その一角に車体カバーを掛けられたクルマがあった。山崎のR33GT‐Rだ。雨の当たらない地下駐車場で、クルマにカバーを掛けている理由は、住人に興味を持たれることや、いたずらを防止する為だった。
 シートを捲ると、そこには機械の身体を持つホワイトメタリックの野獣が山崎を待っていた。
 山崎は、ポケットから出したエアゲージで四本のタイヤの空気圧を計測した。同時にサイドウォールの傷やトレッド面の摩耗といったタイヤの状態も確認する。GT‐Rに限らず、高性能車を乗りこなすための基本は日常のメンテナンスだ。特に日常の足として公道を走るクルマとしては極限に近いチューンを施したクルマは、ほんの少しの空気圧の違いがハンドリングに多大な影響を及ぼす。更に下回りを覗いて、地面にオイルや冷却液の漏れ跡が無いか確認する。
 すべてOKだった。
 山崎は、ロックを解除してドアを開け、身体をバケットシートに滑り込ませた。シリンダーにキイを差し込み、オンにする。幾つかのインジケーターがカラフルに点灯し、メーターの針が動き出す。燃料系の針はFを指していた。サイドブレーキとギヤのニュートラルを確認した。
 山崎は、幾度となく繰り返す内に一種の儀式と化した一連の始動手順に神聖ささえ感じながら、更にキイを捻ってエンジンを始動した。
 地下ガレージの空間にR33の排気音が響きわたる。 手の小ささに合わせて選んだ、ドライビンググローブ代わりのミズノ製バッティンググローブを手にはめる。

 

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