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「ランナー」


死にたかった
ただ、一生懸命
死にたかった
それで
僕は走り出した

死にたかったけれど
観念に埋もれたくはなかった
僕の大嫌いな連中はいつも
わかったような振りをしていたから
僕は本当にわかって死にたかった
生きていることや
死と向き合うことを
実感しながら死にたかった
それで
走ることにした

とにかく何キロも、何時間も走った
日が暮れて、朝が来ても走った
息が苦しい
足がもつれる
体が重たい
目が回ってる
気分が悪い
心臓が捻れる
もう、死ぬかも知れない
そうか、死ぬってこんなに怖いんだ
死ぬってこんなに苦しいんだ
生きるってフラフラになるんだ
その上僕は、まだ死んでないんだ

「おはよう、少し休みなさい」
早朝マラソンのおじさんが話しかけてくる
体に悪いからって、引きずるように僕を歩かせる
ランナーズ・ハイの話や、走る喜びを聞かせるおじさん
殴るみたいにふりほどいて、僕は走り続けた

まだ走るんだ
死に辿り着くまで
あの電柱までには死のう
あのラーメン屋の看板までには
ああ、苦しい
もう止めてしまおうか
僕は何でこんなことをしてるの?
「止めるのか?もう少し行けば、死ねるのに」
頭の中からあいつが話しかけてくる

そう、あいつのために
僕は死のうと思ったんだ
あいつはどんなときも
僕を信頼してくれた
でも僕は嘘つきで情けなくて
あいつに応えることができなくて
だから、僕は死ぬしかないんだ

何度も吐き出して、それでもまた吐いた
何度も転がって、それでもまた走り出した
音の壁のように、時の壁のように
生と死の境目は弾力的だ
死が生の一部だなんて言う大人の馬鹿さ加減を知った
戦っていないのに、戦っている振りをしていたんだ
それでも彼らは、僕よりも苦しいのだろうか?

いつの間にか僕は
冬の田圃に転がり落ちた
水も張ってない、ゴツゴツした田圃
そしてスクリーンに春の水田を思い浮かべた
天上を奪い取る鏡を広げ
雲と空の速さを競う
どうせ走るのなら、死ぬまで走るのなら
ああいう綺麗な景色の中がいい
ああいう綺麗な景色を、僕の存在で汚したい
でも春の水田は、僕よりも遙かに汚らしい
汚らしいままで、限りなく綺麗だ
そこに紛れ込んだ僕に
何の意味があるのだろうか?

さっきから
僕は痙攣しているらしかった
ただ意識は、はっきりして
春の水田を空の上に見つめながら
もうすぐ死ねるかもしれない
嫌だ、まだ死にたくない
そんなことを何度も繰り返していた
声は
今はもう僕を打ち捨てて
助けて、誰か助けて、そんなことを
涙とヨダレと鼻水を引き連れて
冬の風にまき散らしていた

心臓がのたうち回りながら
背中の裏にあるカラカラの田圃に伝わって
グルグル回り続ける地面の延長みたいな
オンボロ船のディーゼルエンジン音を
僕は体中で、心中で聞いていた
死にたかった
ただ、一生懸命
死にたかった
それで
僕は走り出したんだけど
こんなところに転がってみると
無性に笑いがこみ上げてきて
声は助けてと響き、喉はクックッと絞り出し
グショグショの顔は極限にまで歪んで
僕は別の生き物に転生していた

ワラワラと人が集まってくるのが見える
僕が眼鏡をかけるようになって
一番面白くなかったことは
星がとぼけて
答えを教えてくれないことだった
だけど今は、世界の隅々まで
冴え冴えと、よく見える
新しい生き物として
僕は彼らの社会の中で
見せ物にされるのだろう
そのときあいつは、どうするのだろうか?

相応しくない信頼は、鋭利な刃物だ
だけどこの醜く生まれ変わった僕を見てさえも
あいつが僕に刃物を差し込み続けるのならば
虚妄ではない死を
実感しながら死んでいくために
あいつの前に曝され続けようと思う
ただ、実感が欲しいだけなんだ
生きることにも、信頼にも
そして、死ぬことにも

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