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「地表」


早すぎる朝の陽光が
躍り上がるように
君の旅立ちを
浮かび上がらせている
世界中の全ての出来事から
力強く立ち上がったこの瞬間を
恐ろしく真っ直ぐな線路が
凛とした輝きの中で
見せつけるように
指し示している

荷物は意外に少なくて
君はただ汗を拭くためのハンカチを
握りしめているだけ
ホームにはまばらな人が
僕たちを引き裂かぬように散らばっている
あの人は山へ行く
あの人は泳ぎに行くらしい
そういえばもう夏休みなんだねと
僕が関係ないことを言う
君はただ遠くを見つめている

相応しくない言葉と
相応しくない景色が
大切な時間を
空っぽにしてしまう
もっと思い出が
もっと笑顔が
もっと優しさが
あふれ出すはずなのに
ただ無表情な2人が
立ち尽くしている

君は新しい
僕の知らない服を着て
夏の日射しと始まりのときめきに
まぶしさを深めていく
蝉が鳴き始めて
足下を探してみると
懐かしい靴が素足に小さく音を立てて
小首を傾げる君のくるぶしに
2人の1年と3ヶ月が
微笑んでいる

何の感覚もなく
吹き抜ける風すらもないまま
熱だけが降り積もり
時間を埋めていく
思い出の言葉や切なさは
夕辺のうちに互いの体の奥に
刻み尽くしたけれど
まだ一番伝えたいことが
それぞれの中に
残っている気がする

君の視線が
懐かしいこの街の隅々に
別れを告げ終えた頃
遠くの方でけたたましく
何かが響きわたり
君は一度震えて
僕を見据える
全てを受け止めて
頷いたつもりだったけど
たぶん僕も一度震えただけだ

君に気付かれないように
時計を一度だけ見る
君は見透かして
僕を抱きしめるように
優しさを解き放って
洗濯と掃除を忘れないように
何度も何度も繰り返し言う
一番聞きたかった言葉
君にとってそれは
何なのだろうか

やがて電車が入ってくる
行ってきます
行ってらっしゃい
たったそれだけのこと
その時に僕がどうしたのか
思い出せないけど
気がつくと電車の後ろを
当て所もなく見送っている
ただ君が何かを叫んだような
あるいは僕が叫んだのだろうか

とにかく電車は君を乗せて消え去り
熱は降り積もり続けている
昨日までの僕も一緒に連れていった
夏の朝の最後の優しさが
しばらくの空白の中に
君の手の柔らかさを映し出す
軽く握手をしただけだった
何故キスをしなかったんだろう
幻のような心の隙間を置き去りにして
仕事の始まる時間が近付いている

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